追悼、野坂昭如と水木しげる:
世代にして、二人には、約一廻り程の年齢差が、あるにも拘わらず、何とも、戦争に対する二人のスタンスには、興味深いモノがあろう。野坂は、もはや、焼け跡闇市派の臭いが漂っているのに対して、水木は、父の世代で、戦争を理屈抜きに、一兵士として、選択の余地の無く、有無を言わせずに、強いられた最後の生き残り世代であろう。この両人の死は、もはや、戦争体験というもの自体が、ところてんが押し出されて行くが如く、もう、残された戦争体験を語る人間が数少ないと云う事を、意味しているのであろうか?70年代には、野坂には、アンチ三島というイデオローグとして、期待されていたのに、もっとも、誠に、大きすぎるような期待があったのも事実であったが、残念乍ら、後年、友達だった大島渚に、ぶん殴られるようでは、到底、勝ち目は、肉体的にも、或いは、ロジックでも、無かったのであろうか?昭和の中年御三家と称された、3人の内、小沢昭一も逝き、永六輔も、車椅子では、もはや、昭和と言う時代自体もが、風前の灯火なのであろうか?何とも、心淋しいものがある。もはや、無頼派・焼け跡闇市とか、云われても、一体、それは、何ですかなどと、真顔で、返されても、困ってしまうおじさん世代は、どう、生きて行けば良いのであろうか?格好悪く、生きて行くというか、自堕落なまでに、まるで、赤塚不二雄のように、もっとも、父の世代は、水木もそうかも知れぬが、そういう生き方が戦友の英霊に対して、申し訳ないなどと云う、ある瞬間にその心の底で、無意識に、直立不動をしてしまうような一種の『矜恃』が、その良っ肩にもあるのかも知れないが、そんな違いがあるような気がしてならない。同じ反戦意識でも、どうやら、その批判や、社会に対する姿勢は、微妙に、その生まれた時期の違いから来る体験の違いへと反映されていたのかも知れない。成る程、その作品でも、それが、『表現の自由論争』と言う形でも、微妙に現れていたのかも知れない。こういう違いがあるにせよ、いずれにせよ、何とも、この種の老人が消え去って行くのは、残念であるが、私達は、その思いを、どのようにして、次代へと継承していったら良いのであろうか?考え込んでしまう。