任命責任と身体検査:
一体、『身体検査』は、どのように行われているのであろうか?そして、『任命責任』などと言う言葉は、どれ程の正当性があるのであろうか?言葉自体は、誰しも、異論を唱えることはないであろうが、そんなことで、一々、責任を問われることになるとしたら、いくら、身体や命があっても、もたないであろし、堪ったモノではない。二十歳を過ぎたいい年をした子供のしでかした不祥事を詫びるのとも、違う。別に、『政治とカネ』の問題や、違法政治献金の問題を、今更ながら、議論しても仕方ないが、そんなことは、当たり前の話なのに、この世界では、どうやら、そうではないのが、そうは行かないのが、現実なようである。だからといって、現金を受け取ったり、政治献金記載を、蔑ろにすることが宜しいというのではない。むしろ、現実に、『正論を、正論として、主張すればするほど、現実と乖離してしまう』のが、残念乍ら、現実なのである。それにしても、『任命責任』とか、『監督責任』などと言い出したら、それ自身は、決して、間違いではないし、そう追求すべきであろうことは、当然であるとしても、一体全体、そういう『正論』を突き詰めて行けば行くほど、どこか、『責任』とは、何を意味するのか?では、一種の黙契のような、或いは、一種の規範のような法律にはならないが、しかしながら、一定の効力ある『取り締まり的な矜恃』のような、或いは、昔、あったような『精神的な誇り』とか、一体全体、資本主義のストイックな精神は、もはや、今日、電気も、加工食品も拒否するような原始的キリスト教徒や、純粋なイスラムの教えを守り抜いた少数の人々にしか、化石のように、世界精神遺産のようにしか、残っておらず、歴史上、消滅してしまい、何でもかんでも、責任逃れのために、『契約』とか、まるで、銀行の個人保証の裏書きや損害保険証券の裏面の条項みたいに、一々、規定しないと、責任を守れないのであろうか?何とも、世知辛い世の中に、ますます、そして、人々は、萎縮し、眼に見えない何とも言えない互いの猜疑心に包まれながら、互いに、『あいつは、何処かできっと、貰っているのであろうな!』などと、互いに想像しながら、世の中を生きていかなければならないのであろうか?政治とカネの問題として、マスメディアは、再び、論じあげるのかも知れないが、本当に、そんな対応で良いのであろうか?何か、眼に見えない『社会的な時代哲学』のようなものが、又ひとつ、崩れ去って行くように思えてならないのは、私一人の感慨であろうか?新しい高潔な哲学史観などは、もう、必要なくなってしまったのであろうか?土光のように、メザシを喰えとは、言わないが、やせ我慢でもよいから、そういう類の人物が、居なくなってしまったのか?それとも、きっと、裏では、うまいビフテキでも食っているのであろうと、所詮、揶揄されるだけなのであろうか?又、モラル・ハザードが、蔓延しかねない。どうしたら、食い止められられるのであろうか?18歳選挙権を有する若いこれからの諸君は、どう行動するのか?