小諸 布引便り

信州の大自然に囲まれて、風を感じ、枝を眺めて、徒然に、社会戯評する日帰り温泉の湯治客です。愛犬の介護が終了しました。

追悼、野坂昭如と水木しげる:

2015年12月14日 | 社会戯評

追悼、野坂昭如と水木しげる:

世代にして、二人には、約一廻り程の年齢差が、あるにも拘わらず、何とも、戦争に対する二人のスタンスには、興味深いモノがあろう。野坂は、もはや、焼け跡闇市派の臭いが漂っているのに対して、水木は、父の世代で、戦争を理屈抜きに、一兵士として、選択の余地の無く、有無を言わせずに、強いられた最後の生き残り世代であろう。この両人の死は、もはや、戦争体験というもの自体が、ところてんが押し出されて行くが如く、もう、残された戦争体験を語る人間が数少ないと云う事を、意味しているのであろうか?70年代には、野坂には、アンチ三島というイデオローグとして、期待されていたのに、もっとも、誠に、大きすぎるような期待があったのも事実であったが、残念乍ら、後年、友達だった大島渚に、ぶん殴られるようでは、到底、勝ち目は、肉体的にも、或いは、ロジックでも、無かったのであろうか?昭和の中年御三家と称された、3人の内、小沢昭一も逝き、永六輔も、車椅子では、もはや、昭和と言う時代自体もが、風前の灯火なのであろうか?何とも、心淋しいものがある。もはや、無頼派・焼け跡闇市とか、云われても、一体、それは、何ですかなどと、真顔で、返されても、困ってしまうおじさん世代は、どう、生きて行けば良いのであろうか?格好悪く、生きて行くというか、自堕落なまでに、まるで、赤塚不二雄のように、もっとも、父の世代は、水木もそうかも知れぬが、そういう生き方が戦友の英霊に対して、申し訳ないなどと云う、ある瞬間にその心の底で、無意識に、直立不動をしてしまうような一種の『矜恃』が、その良っ肩にもあるのかも知れないが、そんな違いがあるような気がしてならない。同じ反戦意識でも、どうやら、その批判や、社会に対する姿勢は、微妙に、その生まれた時期の違いから来る体験の違いへと反映されていたのかも知れない。成る程、その作品でも、それが、『表現の自由論争』と言う形でも、微妙に現れていたのかも知れない。こういう違いがあるにせよ、いずれにせよ、何とも、この種の老人が消え去って行くのは、残念であるが、私達は、その思いを、どのようにして、次代へと継承していったら良いのであろうか?考え込んでしまう。

 

 


BS『戦争とプロパガンダ:米国戦争戦略』を観る:

2015年12月13日 | 映画・テレビ批評

BS『戦争とプロパガンダ:米国戦争戦略』を観る:

父方の祖母は、生前、父の兄が、戦地から送附してきた手紙を、形見として、大事に、保管しているのを、葬式の後、遺品を整理していて、見つけだした。それを伯父の写真とともにスキャンして、CD-Rにデジタル化して、今でも、保存している。この父の兄は、何でも、佐世保第7特別陸戦隊として、海軍の軍艦で、ギルバート諸島、タラワ環礁の島の最前線警備に派遣され(4600名の兵隊の一員で、アメリカ流に謂えば、海兵隊員のようなものであったであろう事は、想像に難くない)1943年11月に、所謂、『玉砕死』されたと謂われている。但し、この時点では、未だ、玉砕死という言葉は、使用されていなかった訳で、そのように謂われているというのは、遺骨もないし、ましてや、いつ、どのように、戦死したかも、一切、不詳で、英語で言われる、Missing in Action作戦遂行中行方不明というものである。もっとも、それが、遺族には、 祖母に、いつ頃、伝えられ、父が、いつ頃、知ったのかも、今になっては、もっと、詳しく、尋ねておけば良かったとも、思われるが、今となっては、知る術もない。このタラワの闘いは、米国史上で、初めて、従軍カメラマンが、その水陸両用車による初めての海岸上陸から、艦砲射撃・空爆・上陸戦闘・制圧までを、すべて、実写フィルムで、海兵隊員と共に、撮影されたものであると、確かに、カラーで、生々しく、撮影されているが、どうやら、この撮影の目的は、撮影することが、目的では無くて、ノーマン・ハッチという当時のカメラマンによれば、双方、3日間に亘る戦闘の中で、7800人もの死亡が確認されていて、余りに、凄惨すぎて、密かに、ホワイト・ハウスでの試写では、アメリカ兵の死体もすべて、写っていて、余りに、血なまぐさく、刺激が強く、残酷すぎて、逆に、戦意高揚では無くて、むしろ、悪影響を及ぼし、『厭戦気分』を起こしかねないと政治的な判断が下された結果、日本側の激しい抵抗と共に、アメリカ兵の勇敢な戦いぶりと、犠牲を怖れぬ行動を強調するように、意図的に、編集されて、『米国債戦争ボンドの購入キャンペーン』のために、当時、財務省を中心として、情報操作されたそうである。何でも、国家予算の6倍にも匹敵する規模の790億ドルという膨大な戦費の調達が、必要不可欠であった当時には、こうした背景があったそうである。これに対して、この時点では、未だ、米国民のなかでは、60%以上が、太平洋での戦争には、それ程、深刻に考えていなかったのが、実情であったらしい。これまでは、ドラマ仕立ての映画が、作られていたものが、この『タラワの闘い』から、実写フィルムで、Marine at Tarawa という20分の実写フィルムの内、前半は、上陸に苦戦する様を描き、このフィルムは、何と、驚くべき事に、アカデミー賞も受賞して、全米の映画館、及び、学校などで、上映されて、Tarawa There と言う形で、ジェームス・キンブル博士の研究によれば、積極的に、『米国戦時国債の購入キャンペーン』に利用され、その結果、1日半で、予算は、達成されてしまう熱狂であったそうである。しかしながら、当時の政治情勢は、未だ、ナチスドイツの全体主義的なプロパガンダに対して、国として、世論を扇動して、戦争に駆り立てるような行為自体が、そもそも、圧倒的に、米国政府内部でも、指示されていたわけではないらしく、一種の謂わば、恐る恐るという具合であったのであろうか?それが、しかしながら、どのように、戦争の進行と状況の変化の下で、変容をしていったのかが、ここでの主題である。まだ、当時は、Home Front 銃後の闘い、Let’s All Back Attack 援護射撃しよう等という形での強いられたような形では無くて、工場労働者や、家庭での女子の労働力としての協力などの、謂わば、『自発的、自主的な』協力の喚起が、中心であったのも事実であろう。

一方、この頃には、日本では、1943年、学徒出陣や、戦陣訓では無いが、兵力の不足を、学生・少年・女子などへも拡げることで、『軍民一体化』と言う形で、後の『サイパン島玉砕』の悲劇へと繋がっていってしまうし、『カミカゼ特攻』、『切り込み玉砕』、と言う形で、最後には、『沖縄戦・本土決戦』へと突き進んで行ってしまったのは、構成の歴史の語るところである。

当時、皮肉にも、米国では、Operation Phase 1. Saipan というような米兵教育映画が、既に作られていている一方で、タイム誌の記者による、『8000万人の自殺願望』というようなセンセーショナルな日本人の実像とは異なるような狂信的なイメージ宣伝や誹謗中傷記事が、流布されたのも事実であると、ジョン・ダワーは、分析もしている。Fury in the Pacific 太平洋の怒りなどで、確認出来る。この流れの中で、タラワから、サイパン、或いは、ペリリュー島、硫黄島へ、そして、沖縄、原爆投下へと、続いて行くのであると、

あの有名な『硫黄島の戦い』での合衆国の星条旗を掲げる有名な写真と、彫刻が、如何にして、生まれたのかも、実に興味深いものがある。

1944年6月になると、ノルマンディー上陸作戦が行われ、米国民は、これにより、戦争は、程なく、終結するであろうという、やや、楽観的なムードが、漂い始めると、米国の映像戦略も、これに応じる形で、It Can’t Last 長くは続かないという映像で、今度は、海軍相であるフォレスタル長官自らが、硫黄島の作戦に直接現地で参加する形で、100人もの従軍カメラマンで、モーゲンソウ長官の映像戦略の基づき、検閲の強化と米兵の英雄的な行為を示す『戦意高揚』を目的とした映像の作成に着手する。4万人の圧倒的な勢力で、対する日本守備隊2万人との攻防を実写撮影するものの、Mt. Suribachiすり鉢山の山頂に翻る小さな合衆国国旗では、目立つことなく、国民へのアピール力が少ないことから、再度、改めて、6人の海兵隊員が、巨大な国旗を翻そうとしている、『未だ、戦争は、終了すること無く、現在進行形で、進行中である』と言うことを認識させるように、敢えて、撮影し直したそうである。しかも、その5人の内、既に、3人は、後日、戦死し、一番左の先住民後を引く隊員は、その後、戦時国債購買キャンペーンのために、本土に呼び戻されるも、アルコール中毒の後、若くして、死亡してしまったと伝えられている。国旗が、今まさに、立てられんとしている様と、顔を見せずに、必死に、立ててようとしている勇敢な愛国的な海兵隊員に、自らの姿をダブらせながら、『未だ、終了しない戦争に協力、自らも積極的に参加する』と言う世論へ、導かれて勢いづいて行くことになる。この映画の結果、戦時国債の購買も、263億ドルという日本の戦費の半分を、わずか、1ヶ月半で、達成してしまう効果をもたらすことになる。しかしながら、それは、地下壕での徹底抗戦した日本軍により、最悪の2万人以上の死傷者という現実は、『不都合な真実』として、決して、表には、出なかったのであり、これは、戦後、撮影したカメラマンですら、知らなかった、『戦時検閲』の結果であった。皮肉にも、この星条旗が、すり鉢山山頂に掲げられた1ヶ月後で、6人の内、3人が戦死し、日米双方、5万人以上の死傷者という、悲劇の中、250人の隊員の内で、わずかに、27人のみしか、帰還できなかったという残酷な現実があった。その影で、彼らは、そして、今日でも、そうなのかも知れないが、『国にすべてを捧げる英雄』という理想的な形で、『戦時国債キャンペーン』に、利用されていたわけである。

この地下壕での闘いへの米軍の対応には、計算し尽くされた武器、火炎放射器という新兵器も、活用されていたことは、決して、一連の戦争映像戦略とも、無縁では決してない。むしろ、巧妙に、世論の動向と戦争遂行へ向けての計算が、為されていた。とりわけ、『害虫駆除』と称せられた火炎放射器の使用は、沖縄戦でも、如何なく、軍・民を問わずに、容赦なく、過酷にも使用されることになる。

更に、いよいよ、硫黄島の攻略以降に、実施されるようになる『本土爆撃』に対するイデオロギー的な裏付けが、徐々に、やがて、必要になってくる。My Japan とか、 B29 Onto Tokyo等の映像には、『国民へ、戦争への罪悪感を抱かせない心理的な操作』、或いは、『更なる攻撃の必要性への理解』が、仕組まれていた。例えば、中小企業での兵器部品の生産なども、日本では、民間人家庭内でも、兵器が生産されていて、日本軍の軍需工業を支えている故に、これを爆撃、破壊しなければ、我がアメリカ兵が、危険に曝されるという類の、『民間人への無差別攻撃の正当性』、或いは、自国の軍需産業へのリップ・サービスへと、繋がる、成る程、これは、まるで、日本軍による、『ゲリラが、一般市民に紛れている』という考え方にも、その対局で、皮肉にも、繋がっているのかも知れない。

既に、この時点では、1945年3月には、沖縄への攻撃が開始され、軍需工場のみならず、各大都市への本格的な本土空襲も頻繁に行われ、日本国内には、『特攻思想』と、『本土決戦』という究極の思想的な結末が、待ち受けていることになる。これに対して、米国の戦争映像戦略も、いよいよ、『Killed the Japs』という『憎悪』を丸出しにしたものや、や『Know your Enemy, Japan 敵を知れ』という形で、米国、連合国側の『Justice』を、全面に、打ち出し始める。最終的には、この流れの中で、東京大空襲等の民間人への無差別爆撃と広島・長崎への原爆の投下へと結実して行くことになる。更に、この流れの基に、レーダー、原子爆弾、秘密兵器の開発の為の費用の捻出としての開発費の捻出のために、つまりは、巨額な米国の戦費2690億ドルの60%程度が、所謂、戦時国債を国民一人一人が、購入するという愛国的なキャンペーンの結果、賄われたことも、事実である。

如何にして、米国は、国民を戦争へと、自発的に駆り立て、自主的に、物心両面とも、協力してくれるようになったのか、そして、『不都合な真実の隠蔽と検閲』が、どのようにして、巧妙に、実施されていったのか?それは、奇しくも、伯父が玉砕したギルバート諸島のタラワ環礁の闘いで、現場で、初めて、実写撮影したノーマン・ハッチが、それから、2年後の長崎の原爆投下後に、初めて、現場を撮影したときに、抱いた『不都合な事実』への感慨である。決して、このフィルムは、戦後、公開されることが決して無かったわけであるし、その後の東西冷戦下、米ソによる核開発の中で、色褪せていってしまった訳であるのは、御存知の如きである。

我々は、一体、今日、このドキュメンタリーから、何を学ぶ出来なのであろうか?今日、イスラム教への不当な言われなき偏見と差別がある以上、かつて、米国が、日本人に対して行ったような映像的な戦略は、同じように、無人機が映し出すISに対する空爆の有様や、爆撃機の航空母艦からの発進やミサイルの発射を観るときに、どのように、過去を考えたら良いのであろうか?如何に、狂信的なファシズムが、民衆からの支持と支えがない限り、勃興し得ないのと同じくらいに、自由と民主主義を高らかに歌いあげた米国側にも、同じような戦意高揚と排外主義のうねりがあったことを考えると、改めて、戦争というものは、一度、歩み始めると、終わりが見えないこと、それは、既に、戦後のベトナム戦争時でのソンミ村虐殺事件でも、ナパーム弾や枯れ葉剤散布でも、或いは、イラク戦争でも、又、現在進行中の『対テロ戦争』という大義名分の『聖戦』、(もっとも、ISも、ジハードと称しているが、)自体も、同じで有り、危うく見えてくる。それにしても、今は亡き祖母や父が、もし、このカラー・フィルムMarine at Tarawaを観ていたら、どう思ったであろうか?それとも、観たくないとでも、応えたであろうか?日・米双方の現役生存兵は、同じように、『生き地獄』であったと、応えている。死んでいった者も、地獄、生き残った者も、これ又、地獄で、戦争というものは、余りに、無慈悲であること、この上ないものである。

 


『幸せを感じない』という時代:

2015年12月11日 | 社会戯評

『幸せを感じない』という時代:

『欲しいものが無くなった』とか、或いは、『モノから、豊かな心へ』とか、云われて、既に、久しいが、確かに、子供の頃には、新しいものが、次から、次へと、出てきたものである。テレビ・洗濯機・冷蔵庫、そして、車、ステレオ、着るものでも、木綿のジャンパーから、レーヨンになり、ナイロンの防水ジャンパーが、手に入るように、時代は、移り、お風呂も、薪からガスに、トイレも、和式の汲み取り式から、洋式の水洗トイレに、広告の紙から、トイレット・ペーパーへと、考えてみれば、次から、次へと、技術革新により、新たな進化形が、出てきたものである。まぁ、右肩上がりと云えば、そういう時代だったのであろうか?それにしても、バブルがはじけた辺りから、様相が一変してしまい、今では、若い人は、何でも、『所有から、共有へ』と、『ストックから、フローへ』等と、分析され始めて久しい。横目で、闇市の臭いのした商店街も、今や、シャッター街へと変貌する一方で、巨大な空母よりも大きな浮沈艦のような海外の高級観光客船が、中国人の爆買いと共に、やってくるのを眺めながら、『幸せを感じない』のが、今の日本人なのであろうか?その一方で、国威発揚ではないが、国産ロケットや宇宙衛星が打ち上げ成功の度に、或いは、ノーベル賞受賞の報に接すると、『まだ、日本人も捨てたモノではない』などと、心の底では、溜飲を下げるとは、、、、何とも、複雑な思いである。選挙権も、幸福になる生活の権利も、人権ですら、既に、生まれたときから、与えられたモノには、感謝しなくなるのであろうか?周恩来ではないが、『井戸水を飲むときには、井戸を掘った先人を想い起こせ!』ではないが、『幸せを感じない人』が、多くなるのは、逆に、危機の魁の現れでもあるのかも知れない。

 


歯の本数と貧困:

2015年12月10日 | 社会戯評

歯の本数と貧困:

予防歯科に通うようになってから、70歳とか、80歳とかで、残しておくべき現役の歯の本数の目標が、どうやら、あるようであるが、何とか、クリアが出来そうであろうか?昔、子供の頃は、横に歯を磨けとか、或る日、突然、今度は、縦磨きで、歯に沿って、縦に磨きなさいとか、更には、今度は、歯茎をしっかりと、擦りなさいとか、全く、その時代時代に応じて、まるで、道徳や教科書の方針がころころ、変わるかの如く、変更されてしまって、どれを信じたら宜しいのか、迷ってしまうものである。今日でこそ、糸ようじとか、フロストか、或いは、歯磨き後に、液体ガムやリステリンなどで、嗽ぐことが勧められているが、私の子供の頃などは、研磨剤がしっかり練り込まれた練り歯磨きだけだったし、歯ブラシも、プラスティック製になる前のような記憶がかすかに残っている。だいたい、歯周病等という言葉も当時は、聴いたことが無かったような気がしてならない。虫歯の治療中心であったであろうか?今日でも、歯の問題は、悩ましい問題だが、それこそ、人類が登場してから、皆、同じように、悩んでいたのであろうことは、想像に難くない。それにしても、貧困と富の格差によって、要するに、金持ちの方が、圧倒的に、そのカネと時間を、歯の治療に、掛けられるという事なのであろうか?だからこそ、遺された歯の本数に、現れてきているのであろうか?そうすると、物事、何でも、エステでも、ジムでも、外食でも、或いは、ゲームや競馬でも、、、、、同じ事が云えるのであろうか?いやいや、どっこいそうではなさそうである。年寄りと金持ちは、結局、カネと時間を一杯掛けられて、一方、若者、或いは、貧困に喘ぐ人達は、それが出来ないとでも、言うことなのであろうか?何とも、不可思議なことである。ゲームに、スマホに、アイドルに、一体、何に、費やされているのであろうか?巧みな罠が、そこには、隠されているような気がしてならない。成る程、電車で、スマホのゲームに興じている人の健康な歯の本数は、何本くらいなのであろうか?つまらぬ事を考えてしまう。

 

 


後輩の健康を気遣う:

2015年12月09日 | 健康

後輩の健康を気遣う:

昔の会社の上司達も、今や、80を超え始めるとなると、年賀葉書にも、これにて、筆を置きますというような案内が、舞い込んでくるようになる。兎にも角にも、健康で、一緒に食事や酒が美味しく飲めれば、それが、年に一度でも、構わないと、最近では、思うようになってくる。それでも、友人達とは、毎日が、皆、サンデー毎日だから(?)いつでも良さそうであるが、とにかく、せっかちな性格揃いばかりだから、思い立ったら吉日とばかり、一番早い日を設定するのが、だいたい、暗黙の了解である。そんなことで、例によって、中間地点で、落ち会って、会食すると、だいたい、健康談議から、始まり、誰が、癌に罹ったとか、そんな話しか、出てこない。未だ、年齢が近い同年齢であれば、納得が行くものの、後輩だったりすると、複雑な思いがするものである。話題に登った後輩の内で、ひとり、統合失調症に、もう、卒業時代頃から、罹っているものがいるが、いつも、決まって、メールのやり取りも、葉書も、マメに、返してきていたのに、とんと、ここのところ、返事が来ない。思い切って、久しぶりに、電話をしてみたら、お兄さんと称する家族が電話口に出てきて、「もう、一年も前から、入院していて、文字も読み書きもできないし、人物も識別出来ず、看護師をぶん殴ってしまうほどですよ、もはや、出られる状態ではありません。処方された薬を全く服用していなかった為だそうです。」と、とりつく島もない説明であった。辛うじて、病院名を聞き出して、検索し、電話すると、確かに、間違いない。住所・年齢・名前が一致する。それにしても、病状も安定して、回復基調にあったのに、どうしてしまったのであろうか?一人暮らしでは、やはり、薬の管理が出来ないとか、新聞などでも言われているのは、知っているものの、やはり、そうなのであろうか?誠に、難しいことである。一人暮らしの患者というものは、とりわけ、長い間、精神を患う疾病では、社会復帰も覚束ないのであったのであろうか?それなりに、地元では、頭も良かったのであろうし、大学院までも、卒業していたのに、或いは、周りからも、将来を嘱望されていたであろうに、何とも、残念な、残酷な結果である。世の中、なかなか、うまく行かないものである。ギターもうまく、中国語にも、精通していたし、パソコンも独学で、HPを立ち上げたり、川柳に投稿して、入賞したり、同じ病いの患者達への励ましの活動を、ネット上で、激励投稿を継続して、頑張りながら、支援し続けていたのに、その支援する側から、自らが、病に敗れ去ってしまったとは、何とも、虚しさだけが、残るものである。人生、実に、色々である。そして、時間の経過も、これ又、一瞬の瞬きの如しではないだろうか!お見舞いの品を贈ることくらいしか、今の私には、出来ないのも、又、紛れもない真実であろう。何とも、心痛む出来事である。

 


COP21に思う:

2015年12月08日 | 社会戯評

COP21に思う:

COP21が、厳戒体制のパリで、開かれた当日の北京の空は、TVで見る限り、凄まじいPM2.5 の高い濃度と、スモッグで、車もライトをつけない限り、草稿不可能とおぼしき環境のひどさであった。にもかかわらず、高々と、60%もの削減を政治的に宣言するなど、何とも、減速化の経済運営とはいうものの、何とも、皮肉な出来事である。それにしても、京都議定書の採択が、いつ頃だったのかも、想い出せない。依然として、先進国と途上国との間で、責任のなすり合いと技術協力への資金援助を巡って、鋭いつばぜり合いを行っていて、合意とは、程遠い有様であろう。この間にも、ツバルなどの諸島は、温暖化の影響なのか、海面上昇により、日常的に、水面下に、沈没していっているのが、現状であろう。それにしても、日本では、かつて、子供の頃、柳橋の交差点の鉛の値が、高くて、或いは、川崎の空は、まるで、真昼の太陽ですら、すすけた光だったり、川という川が、ヘドロで、死滅寸前であったものが、下水道の整備やら、石油の無鉛化や、燃焼効率の向上で、見事に再生して、今では、季節季節、川蝉までもが、日常的に、見られるようになってきたもの出ることは、世界的な好例であろう。クリーンエネルギーや、自然再生エネルギーへの転換にも、やはり、高度な技術開発力と総合力と資金が不可欠で、携帯太陽光パネルを設備すれば、すべて、それで良しと言うことではなさそうである。先進国と途上国との間に横たわるテーブルの下での攻防は、一体、どういう形で、その方向性が、定まるのであろうか?やはり、目標達成への検証や、法的な規制とか、shall とか、shouldとかいう表現上の問題ばかりではなくて、その国の成長とエネルギー政策とも、密接に、関わってくる問題なのであろう。そうこうしている内に、国が、土地が、沈没してしまわないかと、心配になる。果たして、そこに住む人は、どうなのであろうか?

 


Lone Wolf 型なのか?:

2015年12月06日 | 社会戯評

Lone Wolf 型なのか?:

パリのテロの時に、Home Grown型と従来の枠組みの中で、今回のテロが、分析されてきたが、確かに、海外の組織により、国内で、その思想に影響されたり、或いは、海外での軍事教練などで、一度、帰国してきてから、テロに関わるというタイプが、以前から、警戒されていたが、これに加えて、今度は、米国で、所謂、組織に、命令されずに、或いは、その組織的な指揮命令系統に左右されずに、自立的に、テロ行動を起こす個人的なグループが、新しく、出現してきたことは、どんなに、おとり捜査や、諜報機関を動員した情報収集でも、なかなか、その兆候を事前に、把握することは困難なことである。そう言えば、昔、「アルジェの闘い」の中で、抗仏テロ作戦に、アルジェリア民族解放戦線によるテロを題材にした映画を想い出すが、確か、このテロ組織は、指揮命令系統が、ピラミッドではなくて、縦型、孤立型自立的で、横の連絡や同じ仲間の顔すらも、互いに、知らないように、自在に、独自の動きを変幻自在に、出来るような組織に、わざわざ、意図的に、創出されたものであると謂われていたが、こうした形のテロは、なかなか、大海に、一本の針を捜すかの如きで、全く、ややこしいこと、極まりないものがある。憎悪と報復の限りない連鎖、精神的な、或いは、物質的な豊かさと、疎外感、偏見と差別、寛容と抑圧、そして、心的排外主義の芽生えと非寛容の動きは、20世紀、二度に亘る大戦の経験から、とりわけ、ネオ・ナチズムの復興を防ぐ観点から、欧州は、とりわけ、フランスは、その成熟した文化的な高さと芸術・異文化との共生を、移民政策とグローバリズムのなかで、何とか、その方向性を、拡大EU統合による、「溶ける国境」の問題でも、辛うじて、解決してきたものの、今や、IS壊滅のために、ロシアと組んで、事実上の無差別空爆を重ねる羽目に、陥っているが、考えてみれば、「パリの移民街を、何故、爆撃しないのか?」等という皮肉な結果を生み出している。教育と貧困と失業、或いは、帰属意識とある種の自尊心・忠誠心など、心の豊かさや物質的な豊かさとは、別に、如何にして、この困難な課題を乗り切っていったら良いのであろうか?決して、日本人も、関係無いことではないことは、容易に理解出来るし、満州からの引き上げ難民や、日本文化を根底から支えてきた大陸や半島からの帰化人らの歴史、或いは、戦後間もない、南米への移民政策等を鑑みるときに、今後、どのような政策が、求められるのであろうか?そして、国民一人一人が、どのような態度と行動をとったら、良いのであろうか?Home Grown 型と、Lone Wolf型は、決して、他人事ではない。

 


健康に考える:

2015年12月05日 | 健康

健康に考える:

現役の若い頃は、風邪ですら、患ったことは、あまりなかったし、ましてや、寝込むなどということは、滅多になかった程、健康には大層、自信があったものである。考えてみれば、昔は、確かに、夜遅くまで、飲んでいても、翌朝には、朝一番に、二日酔いでも、出社しろなどと、良く言われて、そんな社内教育を、上司から、受けたものである。そんな我々の世代も、既に45年ほども、経過してくると、既に、病を得て、その結果、家族を遺して、帰らぬ人になってしまった友人やら、取引先の人達が何人もいるのが事実である。そして、毎年、年末間近になると、忘年会や懇親会の席には、知り合いの訃報が、知らされて、冒頭の黙祷で、会が、始まったりするものである。今年も又、ご多分に漏れず、同じような有様で、自分の健康もさることながら、友人達も、同じように、身体のパーツが、長い間の金属疲労の結果、耐用年数が過ぎることで、メインテナンスの必要や、取り替え時期に差し掛かかりつつある。それにしても、健康管理だけは、どれ程、声高に、経営者や組織のトップが叫んでみても、最終的には、冷たく、「自己責任」という一言で、ぷっつりと、終了してしまうものである。「便りのないのは、良い知らせである」などと、タカをくくっていると、既に、重篤な病に罹っていて、死の床に、ついているとか、風の噂に聞きつけたり、手紙を書いても、以前は、筆まめに、返信してきてくれたのに、一向に、時候の挨拶も、来なくなると、急に胸騒ぎがしてくるものである。最近では、思いついたときに、すぐに、落ち合って会食したり、できる限り、即実行することを心掛けている。そうでもしておかないと、いつ何時、お互い、どうなるのか、分からないし、後悔することになってしまうかも知れないから、、、、、。喪中葉書が、一段落すると、今度は、年賀葉書に、どんな近況報告が、綴られているのであろうか、お互いに、気になるところである。

 


愛犬の若い頃の顔:

2015年12月04日 | 動物・ペット

愛犬の若い頃の顔:

我が家には、写真の額縁に、様々な愛犬の写真が納まっている。1995年に、我が家に貰われてきてから、亡くなるまで、18年余も、一緒に、我が家の一員として、過ごしたわけで、子犬の時代には、まだ、デジカメが、普及していない頃だったから、フィルムを写真に焼いて、保存しているものが、大半で、後年になって初めて、デジカメやPCに画像の保存が可能になったものである。従って、後年は、随分と画像も短いビデオも、数多く、保存されているものの、子犬時代や若い頃の愛犬の写真は、残念乍ら、それ程、多く残っていないのが、実情である。それ故、額縁に入って、色々な場所に、おかれている写真は、今や、大変、貴重なものである。たまたま、ヒョイと、目を向けると、偉そうに、お座りして、凜として、こちらに向かって、まるで、挑戦的なようなポーズをとっている若い頃の写真がある。我が家の愛犬は、メスなのに、若い頃は、犬相が、オスのようないかめしい顔つきで、お座りしているときにも、まるで、偉そうな直立不動のような恰好だったから、よく、飼い主に似て、偉そうだなどと、家族からは、揶揄されたものである。従って、私には、他人事とも思えず、飼い犬までも、飼い主の顔や態度に、酷似するものなのかとも、何とも、複雑な気持ちになったものである。犬の相というものは、面白いモノで、時間の経過を辿ってみると、成る程、その年齢に応じて、違ってくるもので、確かに、子犬時代、若い頃と、壮年の頃と、老犬になってからでは、顔つきも、違っているものであることが、今にして、初めて、理解出来る。息子のグローブを噛んだり舐めたりして、結局、最後は、中身のあんこまでもが、出てしまったり、松の枝の棒きれを加えて、スックと、遠くをジッと、見つめている姿や、桜の花の下や花壇の花々と一緒に、或いは、落ち葉の中で、モミジの紅葉の下で、雪の散歩道で、一緒に、その影とともに、撮った写真など、尽きぬ事のない愉しい想い出が一杯である。愛犬の一生と言っても、18年余であっても、それは人間の年齢で言えば、92歳にも相当するもので、自分も、齢を重ねるに連れて、愛犬の一生と重ねて、想うようになってくるものである。額縁の中の若い頃の写真は、まるで、偉そうに、「あんたも、しっかりしなさい!」と言っているように、感じられるし、又、別の晩年の写真には、「ボスも、歳をとったものだね!」とも、言われているようにも、思われるものである。君は、今でも、想い出の中で、偉そうに写っている。

 


講談、「難波戦記」を観る:

2015年12月03日 | 映画・テレビ批評

講談、「難波戦記」を観る:

旭堂南湖による、講談、「難波戦記」であるが、生の講談ではなくて、映画スクリーンでの観賞である。伝説の戦国武将、真田幸村、紅蓮の猛将の大坂の陣を舞台とする江戸時代より語り継がれてきた禁断の物語の口伝である。つまりは、江戸時代に、禁止されてしまった豊臣の歴史、或いは、家康にまつわる「不都合な歴史」の塗り替えに抗して、脈々と講談や口伝という形で、或いは、童歌として、歌い継がれた演題である。それにしても、古典落語にしても、講談にしても、よくもまぁ、こんなに、長いストーリーを、見事に、長い時間を掛けて、語れるものであることに、驚いてしまう。講談独特の「修羅場読み」という手法で、語られる言葉を聴いていると、もっとも、今回は、聴くと云うよりも、同時に、その仕草を観ることにもなるのであるが、観ながら、聴きながら、頭の中で、その情景を想像することは、おおいに、脳内、とりわけ、右脳を刺激することは間違いないところである。耳から入る言葉というものは、お経もそうかも知れないが、漢字を一度、頭の中で、作成しないと、なかなか、意味が、補足できないのが、現実である。頭の中に、拡がる、その色彩と、音と、臭いまでもが、「現実的な空間」として、頭の中の「仮想空間」に、拡がって行くものである。それにしても、釈台と呼ばれる高座におかれた机の前に座り、「張り扇」で、パンパン、パパンと、調子をとりながら、釈台を叩いて、語って行く仕草は、噺を聞かせると言うよりは、これでもか、これでもかと、聴き手に対して、語られる歴史上の人物が、まさに、眼の前に、迫ってくるような勢いがある。時代劇のヒーローというものは、そんな講談の世界から、まだ、メディア、エンタテイメントが、発達していなかった時代に、眼と耳から入ってくる講談は、落語と並んで、それなりの地歩を築いていたのであろうか?今日、映像は、視覚的な想像力を掻き立てるというよりは、むしろ、人間が有する想像力を削ぐくらいに、思われているが、当時は、逆に、耳から入ってくる講談の語り口は、確かに、想像を掻き立てたのかも知れない。ザンザザ、ザンザザ、チャッポン、チャッポン、コツン、コツンと、跫音だったり、竹筒に入った水の揺れる音だったり、或いは、槍を突きながら歩く様を、想像することは、決して、無駄なことではなさそうである。しかも、それが、色彩やら、動作を想像させるまでの表現力に満ちたものとなろうとは、驚きである。歴史に、もしもは、許されないものの、講談などは、むしろ、庶民の願望や虚しい期待が、裏返った形で、反映されたものなのかも知れない。だからこそ、逆説的に、庶民の心の底に、潜む判官贔屓や、弱いものへの荷担という形で、或いは、反権力という消極的な形での別の歴史を作り出してしまうものかも知れない。そう考えると、この講談の結末も、実に、面白い展開で有り、史実とは、異なるものに、興味を引かれる。今度は、これをきっかけにして、生の講談も聴いてみたいものである。

 


第32回三遊亭鳳楽、武蔵野独演会を聴く:

2015年12月02日 | イベント 祭 催し

第32回三遊亭鳳楽、武蔵野独演会を聴く:

大学の地域(杉並区)の同窓会会員の集まりの分科会で、「落語を楽しむ会」というのがあり、これに、初めて参加することにした。何せ、45年余りに亘って、右脳は、化石寸前にまで、麻痺しているから、右脳を再生しなければならない。只今、鋭意、右脳再生中です!そんな訳で、懇親会の2日後に、開催される三遊亭鳳楽師匠の独演会を聴くことにして、更には、打ち上げ後の懇親会の宴席にも参加することにした。いやはや、生の落語を間近に、こんな近い距離で、聴くなんぞは、新入社員の時代に、新宿末廣亭かどこかに、歓迎会で、寄席を聴きに行って以来だろうか?ほとんど、ド素人だから、失礼に当たらぬようにと、事前に、しっかり、最低限の知識くらいは、持ち合わせていないと、落語家に対して、礼を欠き、申し訳ないと云う事で、ネットで略歴や演題を、検索したり、U-tubeにアップされている録画を聴いて、最低限度の知識を持って、望んでみた。それにしても、落語家のエネルギーたるや、凄まじいものがあることに、改めて、感じ入る。私より、一つ年上だから、サラリーマンで言えば、もう、優に、45年以上は、現役で、芸道に励んで、圓生の最後の孫弟子として、又、先代の円楽の弟子としても、勤め上げた古典落語の実力落語家で、玄人の評価も高いし、圓生の名跡を継ぐかも知れないとも、噂されている由である。「紙入れ間男」という艶笑噺と、「文七元結(もっとい)」という人情噺という異なるジャンルの落語を、1時間余も、高座を張るという知的並びに、体力的なエネルギーとは、一体、何処から、培われてくるのであろうか?サラリーマンであれば、とうの昔に、引退して、役職をおりているところであるが、芸術家というものは、画家でも、音楽家でも、落語家でも、何とも、驚くべき内なる情念というか、溢れんばかりのエネルギーは、その仕草、口調にも、口の開き方や目配せの仕方にも、一瞬たりとも、見逃せないものがある。しかも、それをこんなに、長い時間に亘って、集中力を、独特の軽妙な話術と笑いの中で、見事に、調和させて、維持すること、聴き手を飽きさせないことは、並大抵の事では出来ないであろう。おチャラか系のテレビ映りの良い芸人とは、全く、古典落語家というものは、一線を画すものがあり、芸の極みという言葉が、素直に、感じられよう。打ち上げ後の酒席では、何でも、落語家として、着る衣装にも、拘りと誇りを持っていて、登場人物が、殿様であれば、殿様なりのなりをして、自らが、演じることに、拘っているそうである。従って、それなりの衣装や色街の伝統文化への勉強に費やす出費も、並大抵なモノではないそうである。そう考えると、演目を細かに覚えるだけではなくて、その背後に潜む見えない努力も含めて、相当な努力が、芸に対する厳しさとして、日常生活の中から、結実してゆかないと、名人の域には、到底、到達しえないことが、自ずと、理解出来ようか?開口一番を努めたその弟子の鳳月も、「寿限無」を、軽妙に、演じていたが、こちらも、吉本から、落語会へ移ってきて、未だ、時間が間もないものの、将来性があるように、会員の間では、語られていた。天性の素質だけでも、落語家は、成り難く、又、練習だけでも、同じく、成り難く、やはり、天性の素質と、その後の不断の努力と勉強とのバランスなのであろうか?それにしても、新潟の蔵元での講演から、静岡での講演を経て、その日の開演前、午後六時に、到着してから、2題を噺して、更に、打ち上げの酒席にも、参加するとなると、おおいに、健康管理にも、心配が生ずるが、はてさて、どんな精神的・肉体的なケアーをしているのであろうか?気になるところでもある。又、引き続き、次回も、古典落語を聞きたくなってしまった。それにしても、人情話というものは、笑いだけではなくて、よく、内容が、練られたものである。最後になって、なある程、あの伏線は、こう云う事だったのかと、納得されるものである。それをそれとなく、軽妙に、分からないように、演じるところが、絶妙な芸なのであろうか?今後の活躍を祈って止まない。

 


16歳のホワイト・ナイトとは!!:

2015年12月01日 | 社会戯評

16歳のホワイト・ナイトとは!!:

いかがわしい狡猾なサイバー攻撃や詐欺紛いのアクセスを、元から、遮断する動きがあると言われているが、こちらの高校生は、何と、頼もしいことだろうか!敢えて、ここでは、ホワイト・ハッカーとは呼ばずに、ホワイト・ナイトと呼ぶことにしよう。それにしても、パソコン遠隔操作事件で、真犯人から送りつけられた数々の暗号のヒントを、いち早く特定して、公表して、捜査関係者にも、一目置かれたと、国際会議でも、英語を駆使して、外国人参加者とも、堂々と渡り合ったと言うではないか?「デフコン」や、各国の国際大会にも、優勝したりと、なかなか、このゲーム少年は、既に、その才能を、注目しされているらしい。サイバー空間では、全く、世の中、暗い話ばかりで、一筋の光明を見いだすような出来事ではないだろうか?ハッカーと言えば、いつも、毒のようなもので、毒を以て、毒を制すると言う考えがないではないが、むしろ、こちらは、抗生物質のようなホワイト・ナイトとして、将来、日本のサイバー空間を、しっかり、防衛してくれるように、なって貰いたいものである。好きなことを極めると、その道の一流のプロになるのは、何も、テニスやサッカーだけのスポーツに限らないことが理解される。しかも、自学・自習で、学んできたとは、末、恐るべしであろう。