「2年も我慢したのだから」「行動制限が出ていないから」とこのお盆には人が散々動きました。
「11年も経ったのだから」と政府は原発を再稼働どころか新造もする気です。
【ただいま読書中】『戦火のマエストロ 近衛秀麿』菅野冬樹 著、 NHK出版、2015年、2500円(税別)
「戦火」と「近衛」で私がまず想起するのは「近衛文麿」です。由緒正しい摂関家の出身で、天皇の信任が篤かったのか首相を3回も務め、しかし軍の暴走を抑えられずその責任を占領軍に問われてA級戦犯として巣鴨プリズンに出頭を命じられ、自宅で自殺をした人。
近衛秀麿は文麿の弟で、政治ではなくて音楽の道を選択しました。しかし1920年代の日本に「生きた西洋音楽」はほとんどありません。しかたなく秀麿は、東京音楽大学に潜り込んだり、貴重な楽譜を持っている人の所に行って見せてもらったり(九州帝国大学医学部の博士がベートーヴェンのすべての交響曲の楽譜を海外から持ち帰ったことを聞きつけたら、自宅に押しかけてそのすべてを書写しています)。そして、1923年、秀麿は兄の許しを得てヨーロッパ遊学。まずパリで1箇月過ごしますが、音楽のレベルに感心できず、ドイツへ。ハンブルク楽友協会の演奏会で「死と変容」(リヒャルト・シュトラウス作曲、指揮はカール・ムック)などを聞いて「自分は指揮者になろう」と衝撃を受けながら決心をします。当時のドイツは、敗戦後の未曾有のインフレの真っ最中。生活は大変でしたが、外貨を持ち込んだ秀麿は、とてもお安く楽譜を入手できました。そこに関東大震災の知らせが。情報不足の中、多くの日本人はとりあえず帰国しようと焦ります。そんな中、なぜか秀麿に「ベルリン・フィルを指揮する機会」が。これはどうも「ホールとベルリン・フィルの賃貸し」事業によるものだったようです。この「体験」と、大量に購入した楽譜と楽器を“手土産"に帰国した秀麿は、日本初のプロ・オーケストラ「新交響楽団(のちのNHK交響楽団)」を結成します。なお、この時のベルリン・フィルの「指揮」は一種のオーディションだった、と著者は推測しています。そこでの指揮ぶりが“合格"だったため、1933年10月のベルリン・フィル定期演奏会で秀麿は客演指揮者としてプロ正式デビューをしています。
ここまでで充分「本一冊分」のお話ですが、本書の主題はここから。
秀麿は、自分が作ったプロオーケストラのレベルアップのために、欧州との交流を盛んにしようと考えていました。そのためには自分もきちんとした指揮者として遇される必要があります。ところが、33年のナチス政権樹立が、思わぬ影響を秀麿に与えたのです。
秀麿は、ナチスのユダヤ人迫害が気に入りませんでした。そこで、ベルリン・フィルの客演指揮者という立場を利用して、ひそかにユダヤ人の援助を始めました。著明な音楽家は、東京音楽学校の教職への就職や新交響楽団との共演を名目に日本に招待し、そのまま亡命です。
秀麿は、アメリカでも活動をします。フィラデルフィア管弦楽団やシアトル交響楽団での指揮ぶりをストコフスキーに気に入られ、その推挙でNBC交響楽団の副指揮者、さらにロサンゼルス・フィルハーモニーと客演契約も結びます。ところがそこに日中戦争が。アメリカでの契約はすべてキャンセル。秀麿は主にドイツで活動をすることにします。公にできる音楽活動と、それと密接に関係しているが誰にも公言できないユダヤ人救済活動です。
ユダヤ人救済を調べていて難しいのは、「救済した側」も「救済された側」も口を閉じていることが暗黙の了解になっていることです。公的な記録など当然ありません。そこを丹念に解きほぐしていくためには、相当な根気と執念が必要です。
ユダヤ人が「出国税」を払えばドイツ国外に出ることができた時期、近衛秀麿はドイツ国内の有志と日本大使館の書記官と組んで、ユダヤ人の財産を秘かに国外に移す作業をしていました。これは明確な「反ナチ」運動です。ついでですが「反日」運動でもあります。しかし、彼らはユダヤ人救済のために命を賭けて活動をしていました。
さらに、ユダヤ人の出国禁止令が出ると、秀麿の活動は別のステージに移ります。日本の大使大島は「駐独ドイツ大使」とあだ名されるくらいナチスびいきで、秀麿とは正面切って対立していました。大島はナチスに働きかけて、ドイツ軍人が秀麿の演奏会に行くことを禁止させ、さらには43年7月に秀麿自身のドイツ国内での移動を禁止させました。ところが同年9月、秀麿はふらりとポーランドに出現します。ポーランド総督からの強い要請を、ゲッペルスも大島も拒絶できなかったようです。そして、ワルシャワで行われた3回目の「ワルシャワ市民オーケストラ」の演奏会は、驚愕のものでした。オケのメンバーは全員ポーランド系ユダヤ人だったのです(秀麿は記録魔で、自分が指揮したコンサートすべてでオーケストラ全員にサインを書いてもらっています。そのサインの分析でユダヤ人が参加したことがわかります)。さらに秀麿は44年4月にパリで「コンセール・コノエ」(近衛オーケストラ)を旗揚げ。フランスとベルギーの地方都市を巡回公演しますが、それはメンバーを地下組織に託して国外脱出させるためのものでした。秀麿は自らバスのハンドルを握って楽団員を指定の場所まで送り届けていました。そこに、兄の文麿からスイス経由で指令が届きます。「アメリカ合衆国とコンタクトせよ」と。ドイツ降伏直前、秀麿はベルリンにいました。もう脱出は困難な状況です。しかしアメリカ軍からは「自らアメリカ軍に投降せよ」との指令が。秀麿は必死の思いでリュックマールスドルフに脱出、そこで米軍に投降しました。ただしその前に、命より大切な楽譜を隠しています。投降の目的はもちろん兄の名代として日本の降伏について話し合うためでしょう。実際に、捕虜となってから秀麿は日本をスムーズに降伏させるための手立てをいろいろ考えて提案しています(アメリカ軍には採用されませんでしたが)。
こういった活動を見ると、日本人にも大した人物がいたものだ、とひたすら感心するばかりです。私が同じ立場にいたら、何ができた(できる)だろう、とも思いますが。