【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

簡易水洗/『水洗トイレの産業史』

2008-09-30 18:44:26 | Weblog
 田舎に住んでいた時に、そこのトイレは当然くみ取りでした。ところがある日、大家さんが「簡易水洗にするから」で便器が西洋式に変わりました。昔の国鉄の列車のトイレのような、水が極端に少なくても流れるタイプのようです。それはそうです。下水道につながっていないのですから、大量に水を流したらすぐにタンクが一杯になってしまいます。
 これでトイレライフはずいぶん快適になったのですが、困ったことも。くみ取りの場合は「そろそろだな」が上から見てわかります。ところが水洗になると、中が見えないのです。メーターなんかもついていません。適当に見当をつけて業者にくみ取りを頼んでいましたが、ずぼらな人だったら大変なことが起きるんじゃないかしら。

【ただいま読書中】
水洗トイレの産業史 ──20世紀日本の見えざるイノベーション』前田裕子 著、 名古屋大学出版会、2008年、4600円(税別)

 近代的な水洗トイレは19世紀後半のイギリスで急速に発達しました。1851年ロンドン万国博には「時代の先端技術」として多数の水洗便所が出品されました。そのキモは「配管」です。欧米では「給排水システム」として水洗トイレは捉えられ、したがって便器は「配管」の末端器具でした(だから初期には便器が金属製、がふつうでした)。日本では便器は衛生陶器として把握されています。
 欧米での水洗トイレはまずイギリスで普及しました。本書では「ピューリタンのイデオロギーのせいかもしれない」と述べています。ただ、同じピューリタンの国だったはずのアメリカは「不潔な国」で、19世紀に「清潔」が発見されてから一挙に国全体が清潔志向となっています。
 日本では屎尿は「資源」でした。日本の衛生状態を改善するのだ、とはりきってやって来た外国人もそれを大きく変えることはしませんでした。変えたのは日本人自身です。化学肥料の普及と都市化によってトイレの改善が必要になったのです。ただし、水洗トイレは下水と一体化したものであり、その普及はなかなか進みませんでした。1930年に「汚物掃除法」によって屎尿処理は自治体の義務となりましたが、1939の東京死でさえ水洗トイレの普及率は20%です(それも下水がある地域で)。他の地方都市でも事情は似ていましたが、理由は金です。くみ取り料金は安いのに、水洗にしたら、改造費がべらぼうにかかる上に水道代と下水使用料とが発生するのです。例外は岐阜市で、1937年に水洗トイレ普及率が98%でした。

 「産業史」とありますから、企業の話もたっぷり出てきます。主な主人公は森村・大倉企業グループ。
 東陶が経営再建を行い、第2号窯の火入れ式の当日に関東大震災が襲ったエピソードは、なんとも、です。経営者は内需の冷え込みを懸念しますが実際には需要が拡大しました。ただし、最初のまとまった注文は骨壺です。それに続いて、食器・衛生陶器の復興特需がやってきます。東京市は罹災した多数の小学校の再建に際して水洗トイレを義務づけます。再建あるいは新築のビルの多くも水洗トイレを設置しました。
 東陶が面白いのは、衛生陶器メーカーだったはずが「付属金具(水回りの金属製品一般)」にも進出したことです。欧米ではそれは「常識」でしたが日本ではこれは「異業種への進出」でした。第二次世界大戦で一時その動きは停滞しますが、戦後には本格的に工場を新設していきます。そして1962年には、東陶の付属金具の売り上げは衛生陶器の売り上げを逆転し、さらに飛躍的に伸びていきます。そのせいか1963年には「付属金具」は「水栓金具」に名称を改められています。

 民間住宅での水洗トイレは、ハード面では「都市のインフラ(上下水道)」と密接に関連し、ソフト面では「住宅での排泄スタイル」と関連しています。企業が「これが良いよ」と言ったらすぐ社会に広がる、と言うものではありません。しかし高度成長期、水洗トイレへの流れは民間住宅へ及びます。動きの鈍かった行政も本腰を入れ始めます。くみ取り事業と下水道との“二重投資”が無駄であることが理解されたからです。……ほとんどの行政を動かすのは、結局「金」ということなのかな? 東陶はその流れの中で、住宅の中の水回り専門メーカーへとなります。伊奈製陶もそれに続き、第2のメーカーINAXとなります。

 日本のトイレのほとんどは和式トイレから洋式トイレに変わりました。しかし、メーカーはきわめて日本的な出自(欧米の「配管→トイレ」ではなくて「すべては一つの便器で始まった」)を持っており、もしも「トイレの哲学」というものがあるとしたら、欧米と日本とでは大きな違いがあるはずです。たかが水洗トイレですが、社会学的にあるいは心理学的に追究したら、まだまだ豊かなテーマがいくらでも出てきそうです。


オクターブ/『子どもの声が低くなる! ──現代ニッポン音楽事情』

2008-09-29 18:36:19 | Weblog
 子ども時代に母親が電話に出ると、それまでの声とは1オクターブ高い声を出すことが私は不思議でした。「よそいきの声」とご本人は称していましたが、友人の家に行った時そちらでもお母さんが同じように1オクターブ高くしているのを目撃(聞撃?)して、日本中のあちこちで同じ現象が起きているんだな、と私は確信しました。電話に向かってお辞儀をしているのも不思議でしたが、これは私もついやってしまいます。
 今はそんなに「よそいきの声」は日本に蔓延していないのかな?

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子どもの声が低くなる! ──現代ニッポン音楽事情』服部公一 著、 ちくま新書228、1999年、660円(税別)

 子どもの歌唱指導をしていて以前より声域が3度ほど低くなっていることに著者は本書執筆の20年くらい前に気づきました。ではその原因は? 住環境、遊びの変化、食事の変化、と著者は様々な考察をしますが、結論は……
 絶対音感神話に対しての“反論”もあります。その中で一番納得がいくのは「絶対音感がなくても別に不便じゃない」。著者自身が絶対音感を持っていないからそう言うのかもしれませんが、実際に一流の演奏家や作曲家で絶対音感がない人はいくらでもいるそうです。二番目に納得がいったのは「基準音がばらばら」。「A音は440ヘルツ」と一応キマリはありますが、それをきちんと守っているのはイギリスで、アメリカのオケは440~442、日本のオケは442、ウイーン・フィルやベルリン・フィルは445~446……ピッチが高い方が華やかな演奏にはなりますが、ドイツの古楽器演奏団コレギウム・アウレムは422です。さて、これを全部「絶対音感」で処理できるのかな?
 昭和30年、丸の内のオフィス街で、集まった学生たちが徹夜で合唱をするシーンも登場します。いやあ、想像すると美しい。各大学ごとにつぎつぎ“発表”して、夜明けになって全員が合唱する最後の曲がマルシュネルの「小夜曲」。(本書には「ステンチェン」とありますが私の中ではそれは「ステントゥヘン」に変換されます) たしかに、どの大学であろうと、グリークラブだったらこの曲はまず間違いなくやっているはずですから、そういう流れになるのは納得です。で、このエピソードはプロローグで、そのあとに来るのが……
 日本のママさんコーラスが世界最高水準のわけ、オペラでの日本語の歌詞について、カラオケの意外な活用法など、様々な話題に触れた後、著者は「音楽教育」を取り上げます。文明開化以後日本には西洋音楽が定着しました。それは政府がそう決めたからですが、「国民が親しむ音楽を政府が決める」は世界的にはきわめて珍しい行為です。
 文部省唱歌や尋常小学校唱歌が(玉石混淆ではありますが)明治時代に日本で“下地”を作り、それから大正時代に数々の童謡が生まれます。明治34年には東京音楽学校ができ、山形から上京してそこの師範科でヴィオラを弾いていた佐藤タキが、著者の祖母となります。政府主導で「芸術」を根付かせようとする運動は、たとえば絵画の世界では「日展入賞かどうか」での画家の格付けにつながります。しかし音楽ではそういった官製コンクールは根付きませんでした。ただ、たとえばお見合いの時の釣書に「芸大を受験した」が一つの“肩書き”として通用する程度には“格付け”が生きている例が本書には(微苦笑とともに)紹介されています。
 そしていつのまにか著者が“舞台”に登場しています。昭和20年代のNHKラジオのど自慢で伴奏をやっているではありませんか。地方大会の予選の予選の状況など、まあなんというかのどかでしかもどたばたという、今からは考えにくいことが書いてあります。
 著者が童謡に求めるのは、歌いあげる美しいメロディ・詩情・美しい変化をするハーモニー・子どもが歌える音域・日本語での歌いやすさ……「童謡は子供だましの音楽ではない」が著者の主張です。私はそれに同意します。
 そして「学校での音楽教育」。著者はどうも現在の日本での音楽教育には否定的な考え方のようです。少なくとも、中学高校で音楽をやる必要はなし、と断言しています。今のように音楽が満ちあふれている社会で、わざわざ授業として音楽を教え点をつける必要があるとは、たしかに思えません。そもそもテストで点をつけられる時点で音“楽”ではありません。選択科目あるいはクラブ活動にして、教師はレベルが高い人を厳選して配置すれば、そこで音楽の真の楽しさに目覚める人も(少なくとも今よりは)多くなるでしょう。そういえば私が音楽の楽しさを知ったのは、学校の外でしたっけ。


呼吸/『ローマ人の物語VI パクス・ロマーナ』

2008-09-28 17:42:18 | Weblog
 この世の真実の多く(たぶん80%)はひと呼吸で語ることができます。残りの20%のうちの15くらいはもうひと呼吸もあれば語るには十分でしょう。つまりこの世の真実のほとんど(おそらく95%)は二呼吸で語ることができるのです。
 残りの5%の真実をたくさん語りたい人は、本を書くか、要約の技術を磨くか、呼吸を鍛えましょう。私は腹式呼吸をお勧めします。

【ただいま読書中】
ローマ人の物語VI パクス・ロマーナ』塩野七生 著、 新潮社、1997年、2500円(税別)

 ユリウス・カエサルの後継者オクタヴィアヌスが本書の主人公です。カエサルほどの天才ではないが、カエサルが始めた共和制改革を引き継ぎカエサルの最初の構想以上にまで進めて固めた人として著者は高く評価しています。日本だったら信長と家康の関係を思えばいいのかな?
 アントニウスを破ってローマに平和をもたらしたオクタヴィアヌスは、「昔の共和制に戻す」と宣言して特権を返上し、元老院議員たちを喜ばせます。しかし“返上しなかった特権”やあれやこれや(「インペラトール(カエサルから世襲の勝利した将軍への敬称)」「第一人者(政治的な敬称)」「アウグストゥスという尊称」の使用、執政官であり続けること、など)で、オクタビアヌス(以後はアウグストゥスと表記)は着実に帝政への道を歩みます。国が拡張している時には、国民の目は外に向きがちですから「トラブル」は大体外からやって来ます。しかし、カエサル=アウグストゥスの「もう拡張はしない」主義だと、トラブルは内部で発生します。だから「外」との境界をしっかり守りつつ、内部の改革や再編を行い続ける必要があります。カエサルによる「破壊」を修復する過程で上手く自分のバイアスを加える形で、反対勢力につけいる隙を与えず、アウグストゥスはローマを自分が望む形に仕上げていきました。内閣(にあたる元老院の代表会議)・常設軍・属州の再編成・徴税システムの改革……少しずつ少しずつアウグストゥスは元老院の権力を弱めていきます。元老院に抵抗をさせず、というよりもむしろ元老院を喜ばせながら。
 そろそろユダヤ人の姿が大きくなってきます。カエサルはギリシア人の下位に位置していたユダヤ人を同等の扱いとして感謝されていましたが(だからカエサル暗殺でユダヤ人は大変がっかりしていました)、アウグストゥスもカエサル路線を継承し、盟友としてヘロデ王を得ます。ただ、現世利益は現世利益、「選民」が「劣等民族」であるローマ人に支配されていることへの反発とヘロデ王のオリエント的支配策への国内反発はまた別の問題です。ユダヤ王国はローマの抱える火種(の一つ)だったのです。
 ローマ帝国の基盤はほぼ盤石となりますが、後世の暦の数え方でBCからADに変わる前にヘロデ王は死にユダヤ王国は混迷します。アウグストゥスも自分の血を引いた後継者を育てるのに苦心惨憺しています。
 しかし、国を束ねるというのは本当におおごとですねえ。政治・軍事・外交・経済・徴税・娯楽・宣伝・後継者……アウグストゥスは体がいくつあっても足りないような活躍ぶりです。

 塩野さんの人物描写の手法は、行動を基にそこからその人の心理に迫るというもので、説得力があります。たとえば第IV巻で人間を「野心と虚栄心」で表現した所など、「良心などは?」とツッコミは入れたくなりますが、そのわかりやすさ(と意外性)は魅力です。ただ、ユリウス・カエサルまでは「多くの人」を描いていたのが、ユリウス・カエサルの巻から「一人の人」に筆が集中するようになります。それでもカエサルの場合にはその部下やライバルや敵についても多くが書かれますが、本書では「人」に関してはアウグストゥスに焦点が絞られ、そのかわりといった感じで、ローマの諸相が列挙されます。読者は自分があたかもローマの支配者になってこの国を支配するならどうするか、と考えることができます。
 著者は「カエサルもアウグストゥスも、一つのことを一つの問題解決のためにだけはしない」と述べます。一石二鳥というか、常にダブルの効果を持つ(あるいは遠い先に別の効果をもたらす)政策を選択する、ということですが(つまり、一石二鳥)、私には同時に「もしこの政策が上手くいかなくても、その場合でさえ何らかの“収穫”がある」政策を選択しているように見えます(転んでもただでは起きない)。著者も言っていますが、現実をきちんと見つめるのはそれだけで「才能」ですが、さらに先見性や実行力が伴わないと、国(または軍)のトップは務まりませんね。(当然ですが)私には無理だなあ。


お/『ロスト・ワールド ジュラシック・パーク2(下)』

2008-09-27 18:09:28 | Weblog
 雲がすっかり秋の顔になりました。先日まで遠くに見える山地の上では「上昇気流!」と主張していたのに。やはり暑さ寒さも彼岸までなのかな、と思ってふっと「お彼岸とは書くけれどあまり御彼岸とは書かないな」と気がつきました。お寺だと違うのかもしれませんが。そういえば「お前」と「御前」だと、意味自体が違ってきますね。

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ロスト・ワールド ジュラシック・パーク2(下)』マイケル・クライトン 著、 酒井昭伸 訳、 早川書房、1995年、1553円(税別)

 子どもを登場させるのは、エンターテインメント系の映画では定番の手法ですが、本書でも前作を踏襲したのかちゃんと二人登場します。ただしこちらは、社会的に差別されている天才肌の男女。だから著者としては使い勝手が良いですね。子どもだからパニックの時には保護するべき対象だし、天才だからいろいろ役に立つことをしてくれるし、知識が足りないからそれに対して学者が説明するという形で読者に持論を開陳できる。上手く使っています。
 島には謎があります。そもそも狭い島で恐竜の生態系が確立していること自体が不思議ですが、成長しきった成体が見あたらないこと、肉食恐竜の数が多すぎること、島の周囲で不思議な死骸が見つかるようになったのは最近になってのこと……一体この島では過去に何が起き、そして現在何が進行中なのか。草むらに潜んで時々ひょこっと顔を出す小型恐竜のように、真相はちらりちらりと姿を見せますが、なかなか全容がつかめません。で、人間の側に犠牲者が出始めます。恐竜の側にも犠牲が出ます。営巣地で卵が盗まれ、赤ん坊が怪我をさせられさらには拉致されてしまったのです。親の恐竜は子どもを求めて探索を開始します。
 そういえば『ジュラシック・パーク』では「ティラノサウルスはカエルと同様、動くものは見えるが静止しているものは見えない」という説が紹介されていましたが本書ではその説はコケにされています。前作でもこんなにはっきりコケにしていましたっけ? 読んだのがずいぶん前なので覚えていません。

 本書執筆の少し前に「プリオン」が世界中に知られることになり、本書でも重要な小道具として登場します。それが人間に感染したら「軽い脳炎ですむ」というのは気に入りませんが。それと、人間の悪党があまり“活躍”しません。これもまた不満の一つになります。
 ただ、前作の大ヒットと映画化、そして本作もおそらくは執筆前から映画化されることが前提、という「制約」の中で、ここまで面白い活劇を描いた著者の力量には感心します。あまりケチはつけずに、装飾恐竜に踏みつぶされたり肉食恐竜に追われる悪夢を楽しむことにいたしましょう。


男女のバランス/『ロスト・ワールド ジュラシック・パーク2(上)』

2008-09-26 18:20:34 | Weblog
 たとえば気が弱い亭主に気が強い女房、というのはそれなりにバランスが取れています。ただ、それはどちらも健康で生活に大きな問題がない場合でしょう。どちらかが病気になったり金銭的なトラブルなどで生活が傾いた時には、その「バランス」はそのままの形で「アンバランス」へと転化します。そうなると不幸が生じやすくなるんですよね。

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ロスト・ワールド ジュラシック・パーク2(上)』マイケル・クライトン 著、 酒井昭伸 訳、 早川書房、1995年、1553円(税別)

 「ジュラシック・パーク」から6年。コスタリカでの恐竜の噂はしつこく流れていますが、InGen社は倒産し、関係者は全員口をつぐんでいます。重傷を負ったカオスの専門家マルカムも学問の世界(カオスと進化論)に復帰していますが、やはり事件については一切否定し続けていました。
 大金持ちの古生物学者レヴィンはコスタリカで「巨大なトカゲ」の死体を発見します。しかし保健所の職員によってすぐさま焼却処分されてしまいます。まるで何かを大急ぎで隠したいかのように。その地では、5年くらい前から「異形の動物」が続けて見つかり、さらに原因不明の脳炎が流行し始めていました。
 レヴィンはついに、コスタリカの島に恐竜が存在することを知ります。その情報は、金のために恐竜を賦活させたいと望んでいるバイオシン社(Bio + Sin(罪)? 原著は見ないで勝手に想像しています)にも知られてしまいます。

 タイトルですでにネタバレをしていますが、「ジュラシック・パーク2」であることで恐竜が登場することはわかりますし(というか、『ジュラシック・パーク』のラストでしっかり「続編があるよ」と宣言がされていましたよね)、「ロスト・ワールド」でそれが一つの孤立した世界であることが示唆されます。
 アーサー・コナン・ドイルが描いた探検隊とは違って、こちらの世界では、ヘリコプターで現地に乗りつけ恐竜用に頑丈に作られた電動自動車で探険をするのですが。
 「ロスト・ワールド」で孤立していたレヴィンと救援隊は無事合流し(ついでに密航者も見つかり)、探検を始めます。そこは予想通り、恐竜の王国でした。恐竜絶滅の謎を探るためには「モノ」だけではなくて「恐竜の行動」を知らなければならない、と主張するレヴィンにとってそこは格好のフィールドです。しかしそこに、バイオシン社の連中が……


古代ローマと日本/『ローマ人の物語V ユリウス・カエサル ルビコン以後』

2008-09-25 18:53:46 | Weblog
 日本の政治制度は、実は古代ローマの雰囲気を良く伝えているものかもしれません。
 選挙の洗礼を受けないほぼ世襲制の元老院は、二世三世がやたらと多い日本の国会に似ていると言えますし、有力者が護民官・按察官・会計検査官・法務官などの公職を歴任するシステムのローマと日本の党の要職や閣僚を様々経験していると首相になりやすいのもそっくり(さらに「前○○」がそのまま公職とほぼ同等に扱われることも)。それになにより、1年任期の執政官は1年交代の首相と同じですな。

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ローマ人の物語V ユリウス・カエサル ルビコン以後』塩野七生 著、 新潮社、1995年、2816円(税別)

 「ルビコン川を渡」ったカエサルの勢いをおそれ、元老院の多くの議員と「三頭」の一人ポンペイウスはイタリアを逃げ出します。しかしカエサルが支配するのはイタリア半島とガリアのみ。ポンペイウスの勢力範囲はギリシア以東・北アフリカ・スペイン、とカエサルの勢力を遙かに凌いでいます。カエサルの持つ“利点”は、本国を押さえていることだけ。カエサルは、自身が赴いた西では勝利しますが、東と南では敗北します。しかし“利点”を活用し、カエサルは自らを“合法的”な存在にしてしまいます。「勝てば官軍」ではなくて「勝つ前に官軍」です。
 そしてついにギリシアで対決ですが……二つの軍勢はなんとも対照的です。カエサルの軍は少数ですが、兵士はベテラン揃いです。ただし指揮官クラスは若者ばかり。ポンペイウスはカエサル軍に倍する大軍で指揮官も歴々たるメンバーがそろっていますが、兵士は精鋭とは言えません。あまりに犠牲の少ない会戦のあと、ポンペイウス派の人びとは流浪の身となり、ポンペイウスはエジプトに逃げ込みます。ただしそこは内戦状態でした。クレオパトラの弟王はポンペイウスをあっさり殺します。「敗軍の将を罰しない」「敗者をできるだけ殺さず、ローマ化して自分たちの内側に取り込む」主義のローマ人(さらに「内戦の後遺症を少しでも小さくするために“ローマ人”は極力殺さない」方針のカエサル)に、こんなやり方はなじめません。そこでエジプトでの戦争ですが……著者はクレオパトラはさっさと通りすぎてしまいます。なんか素っ気ない。後日の「アントニウスとクレオパトラ」の方が熱心に描写されますが、このあたりに私は著者の“感覚”を感じます。
 やっと反対派を押さえたカエサルは念願の「改革」に乗り出します。様々な改革が紹介されていますが、私が特に感銘を受けたのは「城壁の破壊」と「教師と医師にローマ市民権を与える」ことです。「思想・言論の自由」「安全」「教育」「医療(または福祉)」が「健全な国家の4本柱」と私は考えていますが、カエサルに先を越されました。
 もちろん反対派は熱心に反対します。なにしろカエサルは簡単には反対派を粛清しないのですから、安全に反対することができます。しかし、自分が反対する人の「寛容」の上に立つことは、後ろめたさを生じさせそれは憎しみへと容易に転化されます(「自分がこんなことをするのは、お前のせいだ」)。共和主義者にとって「カエサルが王位を狙っているに違いない」は、それが明らかに間違いであっても、自身がすがりつく「正しさの根拠」(名分)でした(カエサルにその意図はないでしょう。実際にカエサルが狙うとしたら、(一民族の)「王」ではなくて(多民族の)「皇帝」ですから)。そして「3月15日」。
 ただ、カエサルもただ殺されたわけではありません。常に未来を考えている彼のこと、ちゃんと後継者人事には絶妙の手が打ってあったのでした。不測の事態も包含して「次の次の手」を考える人に対抗するのは大変です。この場合には、カエサル反対派の人にちょっとだけ同情します。
 しかし、ローマが将来東西に分かれる原因(の萌芽)が、カエサル(暗殺)にまで遡れるとは、私には驚きでした。

 著者はカエサル暗殺者たちの「先見性のなさ」を嘆きますが、私は彼らの思慮の浅さを嘆きましょう。カエサルを殺しても、「カエサルを産んだもの(社会のシステムの欠陥)」を修正しない限りまた別の「カエサル」が登場するのです。結論は著者と同じで「カエサルを暗殺しても、それは“解決策”ではない」なのですが。


虎の威を借る狐/『馘首はならぬ仕事をつくれ』

2008-09-24 18:40:47 | Weblog
虎の威を借る狐/『馘首はならぬ仕事をつくれ』
 某府知事は、「知事の権力」を他人に向かって振り回すのがお好きなようですが、つまりは「自分の実力」「自分の魅力」ではなくて「知事の権力」の威を借りている行動と言えます。そういえば最近盛んに教育委員会を攻める(責める)のに使っている全国学力テストも国の行事として行われたのだから「国の威」も借りているようですね。

【ただいま読書中】
馘首はならぬ仕事をつくれ』辻本嘉明 著、 叢文社、2002年、1600円(税別)

 出光石油創業者出光佐三の伝記です。終戦後すぐ、外地からの引き揚げ者や復員で出光に人があふれる状況ででも仕事がない、幹部は人減らしを進言しますが、そこで出光佐三が言ったことばがタイトルになっています。
 一読、感銘を受けるのは「反統制」の姿勢を貫いているところです。戦前は国際資本・日本の元売り・軍部・政府などがそれぞれ自分の利益を最大にしようとするところで「反統制」で動くものですから、まあ、叩かれる叩かれる。それでも出光佐三は自分の道を歩み続けようとします。戦後も同じ。「統制」を使用とする相手が、GHQ・国際資本・日本の元売り・政府、に変わっただけでやってることは基本的に同じです。「利益追求」のためにカルテルでも何でも結ぶ大企業の姿勢は変わりませんし、その「利益」と結びつくあるいは「権限」を振り回したい官僚の態度も戦前戦後で変わりません。軍の戦略の問題もありますが、官僚があの戦争の“敗因”かも、とも思ってしまいます。

 で、普通は“創業者礼賛”で終わるよな、と思いながら読んでいたら、最終章でどんでんが。著者は取材を通して感じた疑問を列挙しているのです。かつての出光での労働争議での要求の一番目の項目が「就業規則の公表」であることを見ると、企業を手放しで礼賛するのはやめた方がよさそう、と思ってしまいます。「皇室を崇拝すること」とは就業規則には書きにくいだろうとは思いますけどね。


かく/『さよなら僕の夏』

2008-09-23 18:15:49 | Weblog
 文字を書くことで何かがちゃんと伝えられると思う人は、人生を楽観視しすぎています。書いた文字を読んだ人の中に世界を描くことができた時、はじめてその文字は何かをちゃんと伝えることができます。つまり、「書く」だけではなくて「描く」ことが「書く(描く)人」には求められるのです。

【ただいま読書中】
さよなら僕の夏』レイ・ブラッドベリ 著、 北山克彦 訳、 晶文社、2007年、1600円(税別)

 名作『たんぽぽのお酒』の翌年のお話です。ダグラスは13歳(もうすぐ14歳)になっていますが、著者は前作を書いてからこの作品を仕上げるのに55年かかったとあとがきで書いています。ただ、たった「1年」の差ですが(あるいは「55年」もの差ですから)、その内容はちょっと色合いが違っています。
 たとえば冒頭……
「静かな朝だ。町はまだ闇におおわれて、やすらかにベッドに眠っている。夏の気配が天気にみなぎり、風の感触もふさわしく、世界は、深く、ゆっくりと、暖かな呼吸をしていた。起き上がって、窓からからだをのりだしてごらんよ。いま、ほんとうに自由で、生きている時間がはじまるのだから。夏の最初の朝だ。」(たんぽぽのお酒)
「息を吸ってとめる、全世界が動きをやめて待ちうけている。そんな日々があるものだ。終わることをこばむ夏。
 そのときあの花々は道にそってどこまでもひろがり、さわられると、秋の錆びをまきちらす。どの通りも。まるでぼろぼろのサーカスが通りすぎて、車輪が回るたびに昔の小道がくずれたかのよう。」(さよなら僕の夏)

 『たんぽぽのお酒』では、生命の躍動と歓喜がまず歌いあげられますが、そこにいつの間にか「死」が忍び寄りました。季節は初夏から晩夏まで。
 「さよなら僕の夏」は、ちょっと暗いスタートです。季節も晩夏から始まります。

 ダグラスは相変わらず弟のトムや友人たちと町や峡谷を走り回って遊んでいますが、それを苦々しく見ている人もいます。そしてその“対立”はいつしか“戦争”へと変貌します。『たんぽぽのお酒』には目次はありませんでしたが、本書には南北戦争の戦場の名前が目次に並んでいます。本文にも南北戦争に関連する記述が見えます。1929年というとアメリカではまだ南北戦争は生々しい記憶だったのでしょうか。
 ダグラスたちが戦う“敵”は、自分たちを大人に変えてしまう「成長」、それから老人たち、最後には自分たちを成長させる“時”の象徴としての大時計。まるで『トム・ソーヤーの冒険』でトムが企む悪戯のようなノリで、少年たちは“戦い”を始めます。

 私は現在、ダグラスよりは彼らの“敵”となった老人の方に近く位置しています。かつては“ダグラス”だったこともあるんですけどね。で、この位置からだと両方が見えるだけにいろいろ思うのです。特に著者はなぜこの本を書いたのだろう。著者の目には一体どんな世界が見えているのだろう、と。すぐれた作家はおそらく、自分の“目”を自分自身から離して使うことができているはずです。他人の目を通して、あるいは架空の存在を通していろいろなものを見ているはず。著者は年を取ってから自分の人生を振り返った時、自分の“目”を“ダグラス”に置いて“振り返っている自分の姿”を見ているのかもしれません。

 ダグラスがケーキを差し出した時の不思議な体験、そして恋……成長することも悪いことばかりではないよね、ダグラス君。


匿名/『ローマ人の物語IV ユリウス・カエサル ルビコン以前』

2008-09-22 18:56:52 | Weblog
 マスコミは巨大掲示板がお嫌いのようで、その理由の一つが「匿名性」。
 匿名・実名・固定ハンドルに関する論争は(私個人は)十数年前のNiftyServe時代からずっと見聞してきているのですが、その是非以前にマスコミに一言。もし本当に匿名が問題なのなら、マスコミで流されるニュースがほとんど匿名なのは自ら問題にしないのかな? ご自分は匿名で記事を書き続けておいて、他人の匿名性だけを問題にするのは、卑怯な態度だと思いますが。

【ただいま読書中】
ローマ人の物語III ユリウス・カエサル ルビコン以前』塩野七生 著、 新潮社、1995年、2816円(税別)

 「わーい、シーザーだ」と私は喜びます。贅沢なことに、著者は2巻をシーザー、もとい、ユリウス・カエサルにあててくれています。さあ、たっぷり読めるぞ~。

 名門だが貧乏で有力者もほとんど出せない家にユリウス・カエサルは生まれました。しかし、同盟者戦役によってローマは大混乱となり、そこで執政官となったキンナによって、ユリウス・カエサルは政略結婚をさせられます。これが彼の「歴史」へのデビューの第一歩でした。2年間の内戦に勝ってローマに入城したスッラは、反対派の粛清を始めます。カエサルははじめ処刑者名簿に名前を載せられていますが、周囲の助命運動によって命を救われます。かわりにスッラはカエサルに対してキンナの娘との離婚を要求。しかしカエサルはそれを拒絶し、小アジアに逃げ出しそこで軍団に志願します。やっとローマに帰ってもなかなか芽が出ません。著者はカエサルが若い頃から一本スジを通して生きていたから、と好意的に彼の人生を見ています。そのスジとは、元老院に代表される硬直化した制度が栄えることは、既得権益階層は利するが民衆は弱り、結果として国力は衰退する、したがって……というものです。もっとも常に一石二鳥を狙って様々な手を打つカエサルのこと、普通の人間にはなかなか彼の“真意”は見えません。
 また、カエサルの(多すぎる)女と(やはり多すぎる)借金についても、著者独自の見解が披露されます。なるほど、それほど好男子ではないのに愛人が多くしかも誰からも恨まれない男は女性の視点からはこう見えるのか、と読んでいて嬉しくなります。
 ともかく、元老院、属州総督などの公職を歴任し、カエサルはついに「40にして起つ」ことになります。しかし、カエサルの反対勢力であった元老院派は、東方諸国を制覇して帰国したポンペイウスを冷遇することに夢中です。元老院の権威を脅かす可能性がある人物には冷や飯を食わしておくに限るのです。そこでカエサルは、ポンペイウスの票(軍団の兵士たち)と自身の最大の債権者クラッススと組んで執政官選挙に立候補します。ポンペイウスとクラッススの仲が悪く、カエサルがポンペイウスの妻を愛人にした、というのがネックではありますが、その他はすべて利害が見事に一致した「三頭政治」の誕生です。これは、政治・軍事・経済の有力者の合体で、元老院の権威を骨抜きにする“革命”でした。執政官として1年ばりばりと働いた後カエサルは自分をガリアに派遣します。
 さて「ガリア戦記」です。当時の「ガリア」はライン川より西(つまり今の西ヨーロッパのほとんど)でしたが、内部は諸部族が相争い、ラインより東からはゲルマン人が侵入を繰り返す、大変な地域でした。そこに兵を進めたカエサルは、軍事と政治とを同時に行わなければなりません。
 ラインを渡河したりドーヴァーを渡海してブリタニアに渡ったり、カエサルは大忙しです。野蛮の地であるガリアを文明化することは、ローマだけではなくて彼個人にも利益があることだったのです(ここで著者はブレヒトの「カエサル氏のビジネス」を引きます)。
 そして話は「ガリア戦記」から「内乱記」へ。ついに「ルビコン川」です。いやあ、わくわくどきどき。著者の語り口もあるのでしょうが、その“素材”となったカエサルの魅力も実物は相当なものなのだろう、と思ってしまいます。


米/『日本全国産業博物館めぐり』

2008-09-20 18:51:19 | Weblog
米/『日本全国産業博物館めぐり』
 毒米事件で米の流通経路が複雑怪奇であることが少し見えましたが、食べてはいけない工業用の米でさえ平気で食用に混ぜる程度のモラルの人間が横行しそれらの行為がばれないシステムになっているわけです。ということはスーパーなどで山積みになっている袋の「コシヒカリ」とか「ササニシキ」とかのブランドもどの程度まで信用できるのかとってもアヤシイのではないか、と思ってしまうのは、ちょっと勘ぐりすぎでしょうか? それともブレンドがいい加減には行われていない、という規定や保証がなにかあるのかな。

【ただいま読書中】
日本全国産業博物館めぐり』武田竜弥 著、 PHP新書523、2008年、860円(税別)

 日本全国には、企業や公立の産業博物館がたくさんあるそうです。その中から94館を選んで紹介してあります。いやあ、いろいろあるものです。最初が北海道で、サッポロビール博物館・雪印乳業史料館……あれれ、雪印? 一瞬歴史を感じてしまいます。そうそう、こういった地域の産業博物館は、その地域とのつながりや地域の中での歴史も重要な“展示物”なのでしょう。
 ぱらぱらめくっていると、全ての所に行ってみたくなります。 ほとんどは知らないところですが、たまに個人であるいはオフで行ったことがある館が登場するとちょっと嬉しくなります。名山100選を片手に全山制覇をする人のように、この本を片手に全国をふらふら、も面白い旅になりそうですね。とりあえず今行きたいのは「鉄の歴史館(釜石)」「物流博物館(東京)」「印刷博物館(東京)」「地下鉄博物館(東京)」「金箔工芸館(金沢)」「島津創業記念資料館(京都)」「村岡総本舗羊羹史料館(佐賀県小城市)」……あらら、きりがありません。

 そうそう、NHKに関しては、デジタル放送関連は逓信総合博物館のNHK放送館でその他の資料はNHK放送博物館にある、ということが書いてありました。細かいことですが、実用的な知識です。