スーパーのお菓子売り場をうろうろすると、昔(昭和)とはずいぶんな様変わり。昔普通だったおやつがごっそり姿を消しています。たとえば私が好きだった甘納豆はほとんど目撃できなくなりました。そういえば芋けんぴは増えましたが、ポテトチップスの売り場と比べたらずいぶん肩身が狭い状態です(というか、ポテチ、あんなにたくさんの種類が必要です?)。
安倍首相は「美しい日本を取り戻す」となぜか最近言わなくなりましたが、私は「美味しい日本を取り戻せ」と言いたいな。これからもずっと。
【ただいま読書中】『善光寺の歴史と信仰』牛山佳幸 著、 法蔵館、2016年、2500円(税別)
善光寺の本尊は絶対的秘仏ですが、その模刻像(コピー)は、善光寺だけではなくて日本各地に(さらには流出して海外にも)存在しています。この善光寺式如来像(阿弥陀三尊像)は、中尊の阿弥陀如来立像と脇侍の観音・勢至両菩薩立像が、一つの舟形光背を共有していることが一つの特徴で、これは飛鳥〜白鳳期の如来三尊像によく見られる形式だそうです。ただ、善光寺式如来像では、同時代に日本にあったほとんどの仏像と違って、左手が「刀印」(左腕を下げて人さし指と中指を伸ばし他の3本は折り曲げる)を結んでいるところが特徴的です。他の如来三尊像では、親指は伸ばしたものばかりだそうで、善光寺式如来像の源流は中国南北朝のようですが、なぜ日本で善光寺にだけそれが伝えられることになったのかは、謎です。
とまあ、実に細かいことから本書はスタートします。素人から見たら、親指が真っ直ぐだろうが曲げていようが、それが何?なんですが、専門家には重大事なのでしょうね。実際、「真実は細部に宿る」わけですから、私は素直に「ふーん、すげえ」と思っています。
さらに、発掘された古瓦の特徴から、著者は善光寺の創建は7世紀後半、と推定しています。
仁和三年(887)南海トラフ地震が発生、八ヶ岳が大崩落して千曲川をせき止めます。それが翌年の梅雨の大雨で決壊して「仁和の洪水」をおこし、東北信地方に大被害を与えました。これによって寺も大きな被害を受けたはずです。
善光寺は11世紀には圓城寺の末寺となっていたようですが、浄土教の教えも受け入れました。天台浄土教は「修業」も取り入れていたため、善光寺への参詣自体が「修業」とされ、それが善光寺の人気を高めたようです。実際昔の旅はそれだけで修業だったでしょう。
鎌倉時代には聖徳太子信仰も融合し、何宗であっても善光寺に参ればとりあえず間違いはない状態になっています。というか、古代〜中世の日本の地方の寺の多くは、特定の宗派に属さないのが普通でした。そして江戸時代(後半)、庶民の旅ブームが到来し、お伊勢さんや西国三十三箇所とともに善光寺もまた人気の旅行スポットとなりました。「牛に引かれて善光寺参り」や「一生に一度は善光寺参り」といった言葉も江戸時代のもののはずです。その江戸時代に、善光寺は三回火災に見舞われています。平家物語には「善光寺が焼失するとは、この世の終わり」なんてありましたが、すると江戸時代の間にこの世は3回終わったのかな?