【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

本質

2010-07-31 18:08:38 | Weblog
「人間の本質を描くんだ」と、これでもかこれでもかと人間のダーク面を表現する文筆業や漫画家の人たちって、結局「自分の本質」を表現しているのでしょうか。

【ただいま読書中】『シーボルトの日本報告』栗原福也 編訳、 平凡社(東洋文庫784)、2009年、2800円(税別)

1823年、バタフィアのオランダ領東インド植民地総督ファン・デル・カペレンは第5歩兵連隊所属の外科医少佐フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに日本での勤務を命じます。この文書で総督は「医師勤務」を命じていますが、東インド評議会は俸給にプラスして月額100グルデンの報奨金を「博物学の研究」に対して支払うことを決議し、研究のための予算措置を講じます。「公費での研究」ですからシーボルトには報告(会計報告、学術報告)が国に対して義務づけられます。その結果生じた数々の報告書、オランダ東インド会社総督府とシーボルトの間の往復書簡は「公文書」として保存されていました。本書はそのまとめです。
公文書ですから、わくわくするような旅の見聞記や新発見の列挙ではなくて、お役所寄りの文書が並んでいます。ただ、これはこれで面白い。特に、シーボルトと長崎商館長デ・ステュルレル(陸軍大佐)との対立が書かれている部分では、ここまであけすけに書いて良いのかな、と思うくらい露骨に二人の関係の悪さが描かれています。シーボルトの主張によれば、商館長は個人的な動機で自分の日本での活動をことごとく妨害し続ける、となります。それに対する商館長の反論は、他の話題を持ち出したり自己弁護したり自分の体調の悪さを述べたり、と歯切れが悪いものに見えます(フレーミングで旗色が悪い方がいろいろ策を弄してごまかそうとするのと、似た感じです)。
……ただ、出島のオランダ商館が、民間組織ではなくて軍隊の一部であることは忘れてはならないでしょう。そこでシーボルトは、商館長に報告せずに直接政府に報告させろと主張したり、バタフィアと直接交渉をすることで人事や予算に口を挟みました(自分の個人的な助手を何人も求め、さらに個人的な指名も行なっています)。明らかに上官(商館長)を無視した越権行為です。これでは指揮官との間に確執が生じるのは必然。もしかしたら、国家的な大事業(日本の博物学的研究)をシーボルトが遂行するのに、商館長があまりに無能で邪魔だったから仕方なく強引な手を使ったのかもしれませんが、ともかく最初から軋轢を求めての行為とも見えます。
ともあれ二人の対立は延々と続き、結局1826年に商館長が交代させられます。それまでの往復書簡(フォン・シーボルトとデ・ステュルレルの間にも、真綿にくるんだ悪口の交換が文書で残されています)を読むと、なんで世界の果てで苦労しながら、仲間割れをしなきゃいけないんだろう、と双方に同情します。
最初の1年間で早くもシーボルトは“大成果”を挙げます(挙げた、と報告しています)。まずは「日本語論」の執筆と「日本語」の版木。日本の文字を西洋に紹介したのです(それまで誰もやってなかった?)。また、日本の仏教にサンスクリットが生き残っていることの指摘もしています。動物植物鉱物の収集も熱心にやっていますが、植物の生きた標本はほとんどがバタフィアに届くまでに駄目になっており、何度も「もうちょっときちんと梱包しろ」との指示がバタフィアからシーボルトに送られています。(最後の頃にはうまく届くようになったようです)
シーボルトが本国向けに発送した品目の多種多様さには驚きます。彼はそれが自分が構築した個人的ネットワークのおかげ、と鼻高々に述べていますが、まさにその通りでしょう。ヨソ者がいくら分厚い札束でひっぱたいても、ここまで豊富で質の高いコレクションは得られなかったでしょうから。シーボルトは、自身の医療技術と心細やかな贈り物などでネットワークを広く深く作り上げたのです。ただ、そのネットワークに胡乱なものを感じる人が多くなり、結局「シーボルト事件」が起きます(幕府天文方高橋景保がシーボルトに禁制の日本地図を贈ったことが内部告発されたのがきっかけ、とシーボルトは報告しています)。1828年末に幕府による尋問や家宅捜索が始まり、29年1月には出国禁止の通告と幽閉、2月には日本への帰化願いが却下、10月に「日本御構」(国外追放、再入国禁止)の判決が下ります。
本書はそこで終わりますが、私は細かいところがいろいろ気に入りました。たとえば間宮林蔵と江戸で一度会っていること。長崎に閉じ込められていてやっとの思いで江戸に出てきた人間にとって「江戸より向こう」を知っている(しかもカラフトが島であることを確認した)人は、どのように見えたのでしょうねえ(間宮林蔵からはその逆に見えたことでしょう)。そうそう、最初の頃には「論文はラテン語で書いたが、オランダ語がもうちょっと上手になったら、オランダ語で書く」なんて文章も登場します。「高地オランダ人」を思い出して笑ってしまいました。



人と動物の距離

2010-07-30 18:56:13 | Weblog
アメリカのワシントンDCだったかな、野生のリスが人を恐れずに平気でそのへんをちょろちょろしたり近づいてきた、と土産話を聞いたことがあります。その時は単純にうらやましいな、と思いましたが、最近ちょっとそのことが気になっています。この前行った上高地にも野生のサルの群れがいくつか棲息しているのだそうですが、彼らと人間の“距離”がここ数年明らかに近くなっているのだそうです。サルが人間を恐れなくなって人が至近距離まで近づいても平然としているのだそうで(実際に私も数匹に遭遇しましたが、全然こちらを恐れる風はありませんでした)。でもこれは野生動物にとっては“健全”なこととは言えないでしょう。当然あるべき警戒心などを働かさなくなっているわけですから。
野生動物と人間の間の“適正な距離”って、一体どのくらいなのでしょうねえ?

【ただいま読書中】『動物園というメディア』渡辺守雄 ほか 著、 青弓社、2000年、1600円(税別)

メキシコを侵略したコルテスの一行がスペイン本国に送った報告書には皇帝モンテズマが擁する「動物園」が登場します。鳥・猛獣・爬虫類などそれぞれに専用のスペースがあり専門の飼育係がいることが驚きを込めて書かれていますが、その一画には(白子を含む)奇形の人間が収容されていました。「“動物”園」の定義は文化によって違うようです(もっとも、驚いている西洋人の側も、メキシコのインディオは人間とは定義せずに平気で殺しまくり、自分たちの社会では奇形や精神障害の人間を見せ物にしていたのですが)。
本書では「ノアの方舟」を近代的動物園の祖として取り上げています。自然界の保護と再生産を目的とし、その根拠に「正義」(または「義人」)が登場することは同じなのです。さらに16世紀のフランシス・ベーコンやそれに先立つフランスの百科全書派、さらにルネ・デカルトの心身二元論(動物には霊魂がないのだから人の“操作”の対象になる)まで「動物園の思想的根拠」として登場します。
日本最初の動物園は明治15年(1882)に博物館附属動物園として発足しました。最初は内務省と農商務省の管轄で4年後には宮内省に移行、しかし文化ポリシーを欠いた中途半端な運営で、1924年に上野動物園は東京市に下賜されました。西洋とは違って、日本の動物園にはイデオロギー色が希薄なのです。もともと西洋の動物園は、特権階級のコレクションでスタートしました。それが革命などで一般に公開され、自然史博物館の重要な構成要素の一つとして現代まで伝えられています。ですから名称が「Zoological garden」(動物学の園)。そこに集まった人々は、単純に好奇心を満足させるだけではなくて、動物学研究の成果について学ぶこともできました。ところが日本では「学」が落ちてしまいました。ただの「動物園」です。そこで動物学の代替として登場したのが「動物愛護」や「情操教育」でした。さらに日本では、人と動物の間に明瞭な一線を引く西洋とは違って、動物は信仰の対象であり(お稲荷さんの狐や蛇神)、人を化かしたり人が動物に変化したりする、と、「境界線」があいまいで不明瞭でした。
人が動物に向ける視線には両義性があります。トーテムなどに見られる尊敬や崇拝、あるいは人による支配や管理の対象。さらに自然を擬人化することによって、自然から人への視線も人は感じています。けっこう人と自然(動物)の関係はややこしく、その焦点に存在するのが動物園なのです。日本でも最近は動物園のスタンスはどんどん変わってきているそうです。ただ、その変化に追随できないのがマスメディア。せっかく動物園がメディアとして様々な情報を発信しようとしているのに、マスメディアがその足を引っ張ってる事例も本書には紹介されています。マスメディアがきちんと機能している分野って、どこなんでしょう?



長文/つぶやき進化論

2010-07-29 18:10:45 | Weblog
高校の頃だったな、ある懸賞小説の募集要項を読んでいたら「百枚程度の短編」とあってびっくりしたことがあります。だって当時の私にとって400字詰め原稿用紙を100枚書くのは、“長編の執筆”だったのですから(実際にその頃書いた現代国語のレポートは、何ヶ月かかけて80枚書いたところで力尽きました)。プロの作家というのは、一体どんな創作力と筆力(生産力)があるんだ自分には無理だ、ということで、作家への道は断念しました。
十数年前NiftyServeで常連をやっていたフォーラムでは、私は原稿用紙10枚程度の発言やコメントをときどきアップしていました。資料を調べたり本を一冊読んでから書くとどうしてもその程度の長さになってしまうのですが、その程度でも「長文ですねえ」と言われることがありました。パソコンの一画面(MS-DOS当時は約1000字くらい?)からはみ出すと長文、と思われていたようです。(ついでですが、そのころの「さっと一冊読んで内容のまとめと自分の考えをアップする」ことが、現在の一日一冊の読書日記に通じています)
やがて「長文」の“規格”は携帯画面の大きさになり、今ではツィッターですか。私には140字では短すぎるのですが今の世相では「原稿用紙1枚とは、長文ですねえ」と言われるようになるのかな?

【ただいま読書中】『つぶやき進化論 ──「140字」がGoogleを越える』エリック・クォルマン 著、 武村詠美・原田卓 訳、 イーストプレス、2010年、1500円(税別)

ビジネス書のスタイルで社会の現在と未来を論じる、という本です。アメリカンタイプのビジネス書は、平易な言い回しと章ごとのまとめ(箇条書き)、わかりやすいたとえや印象的な表現は何回でも使い回す、が特徴ですが、本書もそれはしっかり踏襲しています。
現代は「みんなの○○」の時代です。経済なら「みんなの経済(ソーシャルノミクス)」、政治なら「みんなの政治」(有権者の目線で自らの“ブランド”を作り上げる)。
バラク・オバマはソーシャルメディアを活用することで選挙戦を有利に戦い抜きました。数々の企業も、ソーシャルメディアを活用しているところは伸びる(あるいは不利な状況に陥らない)が、旧来のやり方にこだわるところは時代に置いていかれようとしています。そういった実例が本書では次々挙がられます。もちろん個人レベルでの活用例も。
本書で強調されるのは、時代が変わっていることです(現在形または現在完了進行形)。旧来の経済手法(宣伝戦略、販売戦略)はすでに終り、ソーシャルメディアによってソーシャルノミクスの時代になっていると著者は主張します。ここで重要なのは次の一文でしょう。「地域社会とは、ソーシャルメディアのおかげで、アメリカ社会全体である」。小さな地域社会で重要なのは、「他人からの評価」と「口コミ」です。田舎の小さな町ではそういった「古いパラダイム」がずっと生きていましたが、巨大な近代社会では人はみな「他人」であり権力とマスメディアがそれを束ねていました。それが、ネット上で駆使されるソーシャルメディアによってアメリカ社会全体が「地域社会」になったことによって、古いパラダイム(他人からの評価、口コミ)が新しい形で復活したのです。
ツィッターはいわば「雑談」です。特定の誰かに対して言うわけではなく、文章に起承転結があるわけでもなく、メールのように特定の作法や礼儀があるわけでもない。ところがその雑談が「その人が持つネットワーク」に乗せられた瞬間、“何か”が起きます(起きる場合があります)。雑談が発展し、無関係に見える話題が交錯し、その話が他の人の独自の人的ネットワークに転載され……いつしか社会に影響を与える、下手すると社会を変える運動へと発展することがあるのです。
ネットではもともと集合知による情報整理や管理が行なわれてきました。フリーソフトや「コピーレフト」運動やwikipediaなどがその好例でしょう。現在ツィッターを使っていてしかもそれで満足感を得ている人は、きっと本書の主張に諸手を挙げて賛成をするでしょう。「マスメディアとかプロの評論家とか、“権威”なんてクソ喰らえ」と。しかし、自分が知りたいあらゆることに対する判断が自前のネットワークで間に合う人はあまりいません。おそらく口コミによる「この人の判断は面白い/有用だ」といった評判が集まることによる、ある種の“権威”が育つことになるだろうと、私は予想します。(オークションでの出品者あるいは入札者の相互評価をイメージしています。どんなに盛んに情報発信をしていても、根拠がないクズ情報ばかりの人は“信頼”されないだろう、と。で、その評価をするのは「みんな」です。ただそうなると、政治的・経済的・宗教的な理由などで、特定個人の“信用”を落とすための組織的な動き、というものが生じる恐れがあるでしょうね)
すこし視点を拡大してみます。マスコミは「第4の権力」とも呼ばれますが、マスコミを含めて「権力」の構造が、現在ドラスティックに変化しているのかもしれません。ベンサムが考案したパノプティコン(一望監視装置)は近代的な権力構造を特徴づけているとミシェル・フーコーは考察しましたが、パノプティコンの前提(二分法によって人を分け(見る者/見られる者、正常な人間/正常ではない人間)、その片方が「権力」を握る)がソーシャルメディアの世界では崩れ去り、「みんな」が見る者であり見られる者である時代がやって来たのかもしれません。

もちろん「みんな」と言っても、「全員」のことではありません。これだけ異なったバックグラウンドを持った個人が集合して社会を構成している以上、「全員一致」はあり得ないでしょう。では多数決? それほど単純な話ではありません。
「自分の主張はすべてかなえられなければならない」はだだっ子の主張です。社会の中で独立した個人として生きる人間は「自分にとって優先順位の高いものが(100%ではなくても)どのくらい適えられたか」の“歩留まり”を重要視するでしょうし、さらに自分の要望や意見が通らなかった場合でも、そのことにきちんと耳を傾けてもらって考慮されたことがわかればそれなりの満足感を得るでしょう。それが「社会に生きる適正な個人」の態度です。そして、だだっ子ではなくてきちんとした個人をどのくらい“味方”につけられるか、が社会を動かしていく鍵になるでしょう。バラク・オバマ、あるいは本書に登場する“成功した”企業はそこをうまくやれたのです。(「きちんとしていない個人」の行き場は、たとえば新興宗教かな、と私は予想します)
“昨日までのコマーシャル”は「良いイメージ」を「全員」に売り込もうとするものでした。しかし“今日からのコマーシャル”は違います。「みんなの評判」を広め、それによってある割合(社会的な“臨界量”)以上の人に具体的な行動(その商品の購入、評価を口コミで広げる)をさせることが目的となります。つまり、より具体的に、より個人的でかつより社会的なコマーシャルでないといけないのです。

本書で重要視されているのは「ソーシャルメディアはビジネスになる」です。単なるバナー広告やクリック数のカウントではなくて、たとえば、無償であることが前提の個人が書いた文章のハイパーリンクに“価値”が見出されてスポンサーがつく、などの形で。で、私がここまで書いたネット上の書評、これもまた本書で扱われているソーシャルメディアの周縁に位置するものとは言えるでしょう。私が書いた本書の“評判”が誰かに読まれ、それが誰かに影響を与える、かもしれないし、与えないかもしれません(このブログを読んだ人の何パーセントかがこの本に興味を持ちそのさらに何パーセントかが購入するあるいは自分のブログやツィッターで触れることで影響が広がっていくことがあり得ます)。私の読書日記が世界を変えるとまでは主張しませんが、宝くじの一等が当たる程度には可能性があるかもしれません。で、どちらが嬉しいかと言えば、もちろん「世界を変える」方です。そして、そういった気持ち(の集積)がソーシャルメディアの推進力なのでしょう。
ただ、今回私はPDFファイル(「R+」からの献本というか、提供されたゲラ)で読んだので本書の内容をこちらに引用するのがやりにくかったのが残念でした。密接にハイパーリンクしていないと、ネットで繋がっている意味が薄くなってしまいますもの。



スマートフォン/リア王

2010-07-28 20:45:24 | Weblog
世の中ではスマートフォンが流行しているそうですね。私が使っている携帯は、6年(もしかしたら7年)前のもので「ネットにはつなぐことも可能だけど……」のタイプです。で、スマートフォンに興味はあるのですがお金はないしどうしてもそれが必要という事情もないので、今まで近づかずにいました。そうしたらたまたまモニター募集に引っかかって、この夏の間限定ですが、ドコモのXPERIA(Sony Ericsson製)が使えることに。ただし宣伝用なので通話機能は殺されてます。データ通信オンリーで、ドコモがつないで欲しいサイトがメニューのトップに。で、一応真面目にレポートできる程度には試してみましたが、画面のキーボードが使いにくい。私の指が太すぎるのかな。だけど、しゃっしゃかしゃっ、と画面を移動させるのは快感ですね。使っているうちになんだか欲しくなってきました。iPhoneがソフトバンク以外から出ないかなあ。

【ただいま読書中】『リア王』シェイクスピア 著、 安西徹雄 訳、 光文社古典新訳文庫、2006年、533円(税別)

いつも思うのですが、無茶苦茶なオープニングです。時代は4世紀頃。アーサー王よりも前の時代です(「マーリンはもっと後の時代だ」なんてセリフが登場します)。ブリテンのリア王は突然「引退する。国は三分割して三人の娘にそれぞれ与える。ついては、自分に対する愛情告白をしろ」と宣言します。上の二人はおべんちゃらの限りを尽くします。ところが末娘コーディリアは口を閉ざします。リア王の宣言も唐突ですが、コーディリアの態度も不思議でリア王に負けないくらい頑なです。怒ったリア王はコーディリアを追い出します。それを有難く受け取ったのは、求婚者のフランス王。財産(ブリテンの国土)ではなくて素晴らしい女性が欲しかったのだ、とほくほくしながらコーディリアをつれて退場します。
国は二分されます。リア王はそこで娘の家を行ったり来たりして悠々自適の老後生活が待っている、はずだったのですが……そこで長女ゴネリルと次女リーガンの本性が曝露されます、というか、最初から見え見えだったのですが。もう“用済み”のリア王は冷遇されます。
リア王の臣下グロスターは、お家騒動を抱えていました。次男で庶子のエドマンドが、嫡男のエドガーと当主のグロスターを追い出して家を乗っ取ろうと画策していたのです。そこにリア王を巡る騒動が勃発。しかもゴネリルの夫オルバニー公とリーガンの夫コーンウォール公の対立が加わり、そこにさらにフランス王の出兵が重なります。好機いたれり。エドマンドは陰謀を力ずくで進めることにします。
有名な嵐の荒野のシーン。信じていた者に裏切られ、信じるべき人を冷たく追い出したことへの自責の念が積もり、気が狂ってしまって彷徨うリア王の姿が哀れを誘いますが、他にも哀れに彷徨う人がいます。エドモンドの陰謀で追放され命を狙われているエドガーは乞食に身をやつして嵐の中にいます。さらにリア王を助けようとしてコーンウォール公によって両目をえぐり出されたグロスターも。そうそう、最初のシーンでリア王に諫言をして勘気をこうむったケント伯も変装をしてリア王の身近にいます。
荒野で苦しむのは、忠義の臣です。城でぬくぬくとしているのは不義の人たち。そしてそれをもたらしたのは、すべてリア王の浅慮でした(それと、コーディリアの頑固さもそれを助長した、とは言えるでしょう)。
そしてラスト。なんでコーディリアが殺されちゃいますか? 世の中には神も仏もなくて、不条理しかないのか、と言いたくなります。もしかしたら、最初にリア王の怒りの発作に火をつけたことが「有罪その1」、ブリテンにフランス兵(昔のイギリスにとっては仇敵)を上陸させたことが「有罪その2」、それによって結論が「死刑」ということになったのかもしれません。
ただ、本作の“原作”の「年代記劇」では、ハッピーエンドだったのだそうです。それをこんな悲しいエンディングにしたのはシェークスピア。で、面白いことに、この『リア王』は17世紀末にネイハム・テイトによって改作されましたが、それはハッピーエンドとなり、19世紀中頃まで『リア王』と言えばこのテイト版のハッピーエンドが普通だったのだそうです。やっぱりその方が落ち着きますよねえ。ただ、悲劇としての大きさは、やはりシェークスピアのものがピカイチだとは思えます。心に深く残りますもの。



オフ

2010-07-25 07:11:40 | Weblog
実際にこの世にたくさん存在するのかどうかは知りませんが、フィクションでは「旅に出ます、探さないで下さい」という置き手紙のことはよく聞きます。
私もこれから数日世間からは捕まりにくい状況になります。たぶん携帯は通じるとは思いますが、もしつながるにしてもオンにする時間は最小限にするつもりです。日記が途切れますがどうかご心配なく。英気を養ってから戻りますので。

【ただいま読書中】『帰ってきた空飛び猫』アーシュラ・K・ル=グィン 著、 村上春樹 訳、 S・D・シンドラー 絵、1993年、1500円(税別)

4匹の翼のある猫のうち、ハリエットとジェームズはホームシックになります。ホームというか、お母さん猫が恋しくなったのです。二匹は街を目指して飛び立ちます。はじめは帰巣本能を使いましたがそれがどうもアテにならないので、もっとたしかなもの、生まれた横町のゴミ箱のにおいを頼りに飛び続けます。しかし、故郷のスラム街は取り壊し作業のまっただ中でした。二匹はそこで、たった一匹でいる怯えた黒猫の子猫を見つけます。その子の背中には、翼が。
明らかにジェーン・タビー母さんの子どもです。でも、母さんはどこ? この子はどうしてひとりぼっち? 二匹は母さんを捜し始めます。やっと見つけた母さんが語ったのはとても悲しい物語でした。
街に、空飛び猫が安全に過ごせる場所はありませんでした。二匹(+一匹)は田舎を目指します。
寓話のようなファンタジーのような、不思議な物語です。私は好きですけどね。


嫌い

2010-07-24 07:50:48 | Weblog
ときどき「ぼく、人参、きらい!」とかきっぱりはっきり宣言する子どもがいます。嗜好があるのは人として当然のことですから、人参が好きな子もいれば嫌いな子もいるでしょう。それは嗜好の範疇のお話です。ただ、その「嫌い!」を大声で宣伝するかどうか、は、嗜好ではなくてその子の性格の何かを物語っているように私には思えます。「嫌い」ということをそこまで高らかに宣言しない人もいるのですから。
大人でも似たことを感じることがあります。さすがに人前で「ぼく、人参、きらい!」と宣言する大人はあまりいませんが(あまりいませんよね?)、「人に対する嗜好」の“高らかな宣言”をする大人はけっこういるように思えます。子どもの口調を借りたら「ぼく、あの人、きらい!」、と。それはまるで「自分は○○さんが嫌いだ。そのことを世間は受け入れるべきだ」と言わんばかりの口調になっていますが、そう高らかに宣言することで、その人はご自身の何を世間に対して開示しているのでしょう?

【ただいま読書中】『空飛び猫』アーシュラ・K・ル=グィン 著、 村上春樹 訳、 S・D・シンドラー 絵、1993年、1500円(税別)

空を飛んでこの街から出て行く夢を見た後に、ジェーン・タビー母さんは4匹の翼の生えた子猫を生みました。街の環境は悪く、餌は乏しく、子育てに躍起のジェーン・タビー母さんは子どもたちの翼の意味を考える暇がありません。でも、ある日わかります。あの夢のように、子どもたちは翼を広げてこの街から出て行くのだと。
4匹は森で暮らすことにしました。森の小鳥たちはパニックです。飛べる猫から、どうやってヒナを守ればいいのでしょう。
4匹もちょっと辛い思いをしています。危険が満ちていたけれど自分たちの生まれ故郷である都会のことを懐かしく思い出します。さらに、フクロウに襲われてジェームズが怪我をしてしまいます。猫が、野良ではなくて、野生で生きるのは大変なのです。
やがて4匹は二人と出会います。4匹が二人を見つけたのか、それとも二人が4匹を見つけたのか、それはわかりません。彼らがこれからどうなるのかもわかりません。ただ、なんとなくほのぼのとした気分です。



不健康な食事

2010-07-23 18:42:57 | Weblog
野生動物はふつう「メタボ」にはなりません。熊は冬眠前にはたっぷり脂肪を蓄えますが、あれを肥満とかメタボとかは言いません。しかし、動物のすべてがそうではありません。たとえばフォアグラ、あれはガチョウが「不健康」を強いられた結果です。そしてそれを「美食」として食べる人間もまた、不健康になるのですよね。
だからといって「健康的」な野生動物の肉(ジビエ)さえ食っていれば人間も健康的か、と言えば、もちろんそうではないのですが。

【ただいま読書中】『空飛ぶガチョウはなぜ太らないか ──ヒトと動物の進化戦略』E・P・ウィドマイアー 著、 今福道夫 訳、 化学同人、2000年、1600円(税別)

コウモリやトガリネズミといった小さな哺乳類は、一日に体重の1.5倍も食べます。これを人間に当てはめると、一日にチーズバーガーを1000個! 体が小さいと相対的に体表面積が増して熱が失われやすく、餌を採ったり逃げ回るのにもエネルギーがたくさん必要なのです。したがって、食べたものを彼らは無駄にしません。消化系は素早く分解吸収を行ない、すぐに次の食べ物のためのスペースを作ります。さらに、細胞の中で栄養分を酸化するために酸素をたくさん取り込む必要があります。そこで小さな哺乳類は呼吸が速くなりさらに心臓も速く打つことになります。トガリネズミの心拍数は1分間に600回です。ちなみにその対極のシロナガスクジラは、心臓の重さは600kg(牛一頭分くらい)で毎分10回以下の拍動です(そのかわり、1回の拍動で100リットルの血液を送り出します)。
水中で生きる魚は、エラで水から酸素を取り込んでいます。しかし水中の酸素分圧は空中より低く、魚は相当の努力をしてエラに水を高速で通さなければなりません。ところが海水と魚の体内の浸透圧の差で、エラで体内の水分が失われていきます。その補給は? 海水を飲むことですが、それで余分な塩分も入ってきます。そこでそれを排泄するためにエラに巧妙な仕掛けがしてあるのです。なんだか話が堂々めぐりをしているような気がしますが、ともかくそれがうまく行っているから、海水魚は生きているのです。淡水魚はその逆で、非常に効率の良い腎臓で尿を垂れ流しにすることで水が体内に侵入してくることに対処しています。
呼吸で優れた能力を持った動物もいます。75分間潜水ができるウェッデルアザラシ、エベレストを軽々と飛び越えるインドガン。それぞれの「呼吸機能」には秘密があります。
お話変わってコウモリの翼とゾウの耳。どちらも薄くてひらひらしていますが、それ以外に重要な共通点があります。放熱器です。
様々な事例が挙げられ、話は結局ヒトに戻ってきます。ヒトは現在「ヘルシー」なのか。そうでないのなら、その原因と対策は? 読みやすい本ですが、一皮剝くとけっこう骨を感じます。



結合

2010-07-22 18:42:49 | Weblog
楽器の演奏とは、楽譜という「構造」と楽器という「構造」との結合作業でしょう。(即興演奏の場合には「楽譜」は演奏者の頭の中にしかありませんが)

【ただいま読書中】『大音楽家の病歴(1) ──秘められた伝記』ディーター・ケルナー 著、 石山夫 訳、 音楽之友社、1974年、1000円
歴史的に有名な音楽家の人生を「病気」の観点から眺めよう、という趣向の本です。本書で取り上げられるのは、モーツァルト、ベートーヴェン、シューベルト、シューマン、ショパン、レーガー、ドビュッシー、マーラー、ベルク、シェーンベルクの10人。
当時の旅は過酷でした。しかしモーツァルトは「神童ツアー」でヨーロッパ中を連れ回されます。芸術的には収穫の多い旅でしたが、父親が望んだ経済的成功および安定した職探しの点からは失望の多い旅でした。さらに健康面でもマイナスが。「神童」は次々と病魔に襲われたのです。風邪・猩紅熱発疹・腸チフス・関節リウマチ・天然痘…… ハイドンはモーツァルトを高く評価していましたが、モーツァルト自身も自分が天才であることは知っていました(それを隠さなかったから、敵が増えます)。しかしその才能にふさわしい社会からの扱いはとうとう受けられませんでした。結婚生活も幸福とは言えず、死の数年前は破産状態。体力は衰え、毒殺をされるという妄想がつきまといます。
モーツァルトの死因についてはいろいろな説がありますが、その中で水銀による中毒死(毒殺)が有力、と著者は見ています。少量ずつのませて中毒にした、というのですが、では、犯人は誰? 映画の「アマデウス」を待つまでもなく、昔からサリエリを筆頭にいろんな人が「犯人」としてあげられていましたが……
ベートーヴェンも少年時代に天然痘に罹患しています(彼のライフマスク(1812年作製)の顎の部分に天然痘の瘢痕があることでわかります)。ベートーヴェンの音楽家デビューは1795年25歳のときでした。芸術的にも経済的にも成功でしたが、1年後に「風邪」をひき、以後聴力障害が出現します。1802年から常に発熱と腹痛と下痢があり、聴力障害はどんどん増悪していきました。この病気についても諸説がありますが、著者は先天性梅毒を採ります。
31歳で死亡したシューベルトの病気については、従来は腸チフス説が唱えられていました。しかし著者は、発熱も下痢もないし、過去に梅毒の治療を受けていること、などから梅毒の末期症状としての脳動脈閉塞を疑っています。
ショパンは肺結核でしたし、シューマンはその生涯を精神病院で終えました。マーラーは敗血症、シェーンベルグは心不全。
本書に登場する10人の大音楽家の寿命の平均は48歳です。ため息が出ます。歴史に「もしも」はありませんが、それでも問いたい。もしも彼らが健康で長生きをしたら、もっと我々は豊かな音楽を持てたのでしょうか。それとも、そういった病気があったからこそ彼らは大音楽家になれたのでしょうか。永遠に答えが出ない疑問ですけどね。



評判

2010-07-21 18:34:08 | Weblog
「皆に評判が良い人間は、実は大した人間ではない」なんて言い回しがあります。八方美人とか個性がないとか敵を作らないことに腐心しているだけとか、そんな意味合いで「敵を作ってでも自分なりの仕事をしろ」と言いたいのかもしれません。だけど「皆に評判が悪い人間」よりはずっと“良い人間”なのではないかなあ、なんてことも思えます。なかなか「社会で生きる」のは、大変です。

【ただいま読書中】『マンハント ──リンカーン暗殺犯を追った12日間』ジェイムズ・L・スワンソン 著、 富永和子 訳、 早川書房、2006年、2500円(税別)

1865年3月4日、リンカーンは大統領就任演説を行ないました。そのすぐそばのバルコニーに、「世界一美しい黒い瞳」と謳われた有名な役者ジョン・ウィルクス・ブースが立っていました。4月3日南部連合の首都リッチモンドが陥落、同9日リー将軍の降伏、北部は喜びに沸きます。しかし南部の人間はリンカーンを“正義”を暴力で押しつける独裁者と見ていました。ブースもその一人で、就任演説の会場で暗殺の“絶好の機会”を逃したことを悔やんでいました。
4月14日聖金曜日、ブースは自分が熟知するフォード劇場に大統領が観劇に来ることを知ります。“絶好の機会”です。準備に使えるのは8時間。ただ、ブースは以前から仲間を集めてリンカーンを襲撃する計画を立てていました。はじめは誘拐計画。大統領を人質にして交渉することで南部に逆転勝利をもたらそうとしていたのです。しかしもう戦争は終わりました。だったら……ブースは仲間たちと大統領だけではなくて副大統領と国務長官も襲撃することにします。
舞台上に役者が一番少ない瞬間を狙っての暗殺は成功。ブースは大統領のボックス席から舞台に飛び降り、観客に叫びます。「南部は復讐を果たした」。劇場の裏口から馬で逃走したブースは、足を骨折していましたがそのままメリーランド州に入ります。ブースの逃走、そして彼を捉えようとするマンハントの開始でした。
頭を撃たれたリンカーンは直後から意識不明でしたが、強靱な体力のせいか心臓は動き続け、翌朝7時22分に死亡しました。
ブースは共犯の一人と、メリーランド州の南部連合工作員の農場に逃げ込みます。しかし、ブースの名前はすぐに割れ、交通の要所には見張りが置かれ騎兵隊が追跡を始めます。さらに南部連合の軍人たちが「暗殺」という手段を非難したため、ブース捜索の総指揮を執るスタントンは南部連合を捜索に参加させることを考えます。本当に降伏し、本当に暗殺という手段を忌避するのなら、本気で犯人逮捕に協力するだろう、と。本心を探ることもできて一石二鳥です。
しかしブースたちは、逃げ回らずに数日間じっと潜伏することで捜索網の裏をかきました。満を持してポトマック川を渡ってヴァージニア州に逃げ込もうとした二人は、しかし真っ暗闇の川で方向を失い、見当違いの岸に上陸したり、迷走を続けます。さらに、自分の正体を隠そうとの努力をあまり熱心には行ないません。こっそりと深南部に潜入することは“名誉”にかかわる、とでも思ったのでしょうか。
逃亡12日目にブースは潜り込んでいた農場の納屋で包囲されます。ここで描かれるのは、つかまえる側にとっても捕まる側にとっても決して“格好の良い幕切れ”ではありません。北軍の騎兵隊の行動は「それで本当に良いのか?」と言いたくなるものです。なにしろ、ブースがこもる納屋に火をつけていぶりだすのですから。一応、個人の所有物ですよ。
ちなみに、「マンハント」終了後の懸賞金争奪戦の醜さも相当なものです。大統領の年俸が2万5000ドルの時代に総額10万ドルの懸賞金ですから、“功”のあった人もなかった人もわらわらと集まって少しでも多く受け取ろうと醜い争いを繰り広げました。まるで、死体に群がるハゲタカのように。
ブースのポートレイト、リンカーンが亡くなったベッド、賞金額と顔写真が印刷されたビラ(但し、「wanted」とは書かれていません)などが配置され、臨場感を高めています。細かいことですが、当時は「ドル」は紙幣と金貨の二本立てで、金貨の方が高い(10ドル紙幣が金貨7ドル半に相当する)ことが私には興味深く思えました。
そうそう、私が意外に思ったのは、ワシントンDCからすぐそばのメリーランド州にもたくさん南部びいきがいるし、川一つ向こうのヴァージニア州は「南部」だったことです。「北」と「南」はすごく近かったんですね(それどころか、入り交じっている、と言った方が良さそうです)。こんな状況だったら、南部は(会戦ではなくて)“不名誉”なゲリラ戦をやっていれば、少なくとも負けることはなかったかもしれません。というか、南部の主張「この国は白人のために作られたのだ、黒人のためではない」は今も“負け”ずに生き続けているかもしれない、と述べて、本書は終わります。



田舎のバス

2010-07-20 18:46:23 | Weblog
今だったら高速バスで2時間足らずで行けるところへ、昭和30年代に自家用車で行こうとしたら半日ちかくかかっていました。車の性能の差もありますが、大きかったのは道路です。旧市内から出たとたん道は砂利道になり今はトンネルで抜けられるところも山道でくねくねとよじ登り、前にバスやトラックがいたらもうその後ろは車の大名行列。あえぎあえぎ登るディーゼルエンジンの黒煙をあびながらしずしずと行列は進むのでした。
まあそんな道を思いきってとばされたら、てきめん車酔いでしたから(車のサスペンションもまだまだ未発達だったので、砂利道ではとんでもなく揺れるのです)、しずしずの方が実は助かっていたのかもしれませんが。

【ただいま読書中】『苦難の歴史 国産車づくりへの挑戦』桂木洋二 著、 グランプリ出版、2008年、2000円(税別)

日本で初めて自動車が走ったのは1898年(か1899年)、外国人貿易商がガソリン自動車を取り寄せました。アメリカ在住の日本人が皇太子(のちの大正天皇)に電気自動車を献上したのは1900年のことです。当時の自動車は家一軒分以上の値段で、燃料の調達も必要、盛んに故障するので経費は馬鹿にならないシロモノでした。日本最初のカーマニアは、有栖川宮と大倉喜七郎でした。二人ともヨーロッパ留学で自動車の虜になります。同時期に留学していた夏目漱石とはずいぶん違う世界を見ていたようです。
「国産自動車」には、その国のトータルとしての技術水準と経済状態が反映されます。明治の末に先駆者がその活動を始めましたが、それは苦難の道でした。たとえばエンジンのシリンダーブロック。これは鋳物ですが、これまでにない複雑な形状のために鬆(す)が入り、200台エンジンを作ったら使い物になるのはその内7台、という惨状でした(大日本自動車工業)。その頃のスペックは、たとえば快進社のダット41号は、水冷4気筒2.8リットルエンジンで15馬力です。面白いのは、輸入された自動車を正確に半分にスケールダウンしてコピーして製作してみたら、馬力は半分以下になってしまって走らなかった、というエピソードです。半分になったウランちゃん、のようにはいかなかったのですね。
アメリカのロックフェラーは石油・カーネギーは鉄鋼・ヴァンダービルトは鉄道、と一つの分野で独占的に大きな組織になりましたが、日本の財閥は多くの分野に展開するのが特徴です。第一次世界大戦によって日本は好景気に沸き、財閥が自動車製造に興味を示します。1914年三井物産からスピンアウトする形で柳瀬商会が設立され(代表の柳瀬長太郎は三井物産自動車部の社員でした)、自動車と部品輸入を始めました。(ちなみに1915年の自動車販売数は、アメリカはT型フォードだけで30万台、日本は全体で1000台) 1921年に柳瀬は、国産自動車を試作します。製造コストは一台6500円。アメリカ製のビュイックが6000~7000円ですからそれより高くできないだろうと3000円で売り出し5台売れましたが、当然大赤字。柳瀬は国産車製造からは撤退します。
三菱造船も第一次世界大戦後の世界不況を考え、いろいろ探った将来計画の中の一つに自動車製造がありました。ただ、民間用の自動車は大きなマーケットではなく、結局飛行機用エンジンの方に三菱は向いていきます。東京石川島造船所(いすゞ自動車の祖先)はもっと本気で取り組みました。本気である以上投資も莫大、ところが結果が出ません。それまでの投資を無駄にしないため、石川島造船は軍用車に方向転換します。
陸軍が軍用車の研究を始めたのは日露戦争直後でした。1907年(明治40年)に自動車研究開発機関を設置、フランスからノーム社製トラックを輸入し、東京~青森の運行試験を行ないました。自動車が通れる道なんか整備されていない時代です。工兵隊が同行し、道の拡張や架橋を行ないながらの“テスト”でした。これは、自動車のテストであると同時に日本という国の(自動車が走れる国かどうかの)テストですね。1908年にはフランスのシュナイダー社から輸入したトラックを分解してすべての部品のコピーを取り、それで新たにトラックを試作します(できたのは、大阪砲兵工廠が1911年5月、東京砲兵工廠が6月)。第一次世界大戦でその試作トラックが青島に運ばれ、その有用性が確認されました。そこでいくつかの大きな企業に補助金を出してトラックを開発させることにしました。自力で開発するのは大変ですし年式がどんどん古くなる“在庫”を大量に抱えることになります。民間に開発させ戦時にはトラック所有者から徴用する方が得策、という判断です。それに乗ったのが、東京瓦斯電気工業(後日の日野自動車)です。
オーナードライバーのための乗用車開発に挑んだ人は次々敗退しました。その中で特異な存在は白楊社です。豊富な資金と高い技術力、確かなポリシーによって白楊社はオートモ号という素晴らしい自動車を生みだしました。社長の豊川はレースに挑戦する目的に関して過激なことを言っています。「Raceに出す目的の一つは車内の空気を一変するにあった。その上この国のいくじなしを一掃するにあった。又自信なく只漫然と金儲けのためにやる劣等国の根性をふっとばす目的でもあった」。これは、1925年(大正14年)東京州崎の埋め立て地で行なわれた自動車レースに参加を決めたときのことばですが、決めたのは1週間前。市販車を改造してレースカーに仕立てるという無謀な決定です。参加した外国車は200馬力とか160馬力。対してオートモ号は20馬力。ところがレースではエンジンと車体のバランスの良さ(と、レース場がドロンコだったという地の利)を生かして2位に入ります(一位はアート商会のカーチス号(160馬力)。その時助手として参加していたのがアート商会で見習い中の本田宗一郎)。
けっこう日本人はラディカルにいろんなことをやっていたんだな、が私の感想です。低い技術力・未成熟のマーケット・未整備のインフラという悪条件の中で、自分がやりたいことをやる、という姿勢は、もしかしたら当時の大正デモクラシーの影響(と明治人の気骨)があるのかもしれません。リアカーとオートバイの合体に見える「三輪トラック」なんて、ユニークなものもございます。
大正末期には、フォードとゼネラルモーターズが日本に進出して工場生産を始めます。「国産車」が「その国の文化をうつした自動車」だとしたら、当時の日本は国策として「国産車」を否定していました。昭和になってやっと自動車産業の重要性に国は気づきますが、そこで行なわれたのは「国産品愛好運動」と「フォードとGMをどうやって日本から追い出すか」の手続き論の議論です。
本書では、その後のトヨタや日産の登場もあつかわれていますが、私の思いは現代にとびます。今の日本で部品とか工作機械の話ではなくて、ポリシーとしての「国産車」はどのくらいあるのだろうか、と。