「人間の本質を描くんだ」と、これでもかこれでもかと人間のダーク面を表現する文筆業や漫画家の人たちって、結局「自分の本質」を表現しているのでしょうか。
【ただいま読書中】『シーボルトの日本報告』栗原福也 編訳、 平凡社(東洋文庫784)、2009年、2800円(税別)
1823年、バタフィアのオランダ領東インド植民地総督ファン・デル・カペレンは第5歩兵連隊所属の外科医少佐フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに日本での勤務を命じます。この文書で総督は「医師勤務」を命じていますが、東インド評議会は俸給にプラスして月額100グルデンの報奨金を「博物学の研究」に対して支払うことを決議し、研究のための予算措置を講じます。「公費での研究」ですからシーボルトには報告(会計報告、学術報告)が国に対して義務づけられます。その結果生じた数々の報告書、オランダ東インド会社総督府とシーボルトの間の往復書簡は「公文書」として保存されていました。本書はそのまとめです。
公文書ですから、わくわくするような旅の見聞記や新発見の列挙ではなくて、お役所寄りの文書が並んでいます。ただ、これはこれで面白い。特に、シーボルトと長崎商館長デ・ステュルレル(陸軍大佐)との対立が書かれている部分では、ここまであけすけに書いて良いのかな、と思うくらい露骨に二人の関係の悪さが描かれています。シーボルトの主張によれば、商館長は個人的な動機で自分の日本での活動をことごとく妨害し続ける、となります。それに対する商館長の反論は、他の話題を持ち出したり自己弁護したり自分の体調の悪さを述べたり、と歯切れが悪いものに見えます(フレーミングで旗色が悪い方がいろいろ策を弄してごまかそうとするのと、似た感じです)。
……ただ、出島のオランダ商館が、民間組織ではなくて軍隊の一部であることは忘れてはならないでしょう。そこでシーボルトは、商館長に報告せずに直接政府に報告させろと主張したり、バタフィアと直接交渉をすることで人事や予算に口を挟みました(自分の個人的な助手を何人も求め、さらに個人的な指名も行なっています)。明らかに上官(商館長)を無視した越権行為です。これでは指揮官との間に確執が生じるのは必然。もしかしたら、国家的な大事業(日本の博物学的研究)をシーボルトが遂行するのに、商館長があまりに無能で邪魔だったから仕方なく強引な手を使ったのかもしれませんが、ともかく最初から軋轢を求めての行為とも見えます。
ともあれ二人の対立は延々と続き、結局1826年に商館長が交代させられます。それまでの往復書簡(フォン・シーボルトとデ・ステュルレルの間にも、真綿にくるんだ悪口の交換が文書で残されています)を読むと、なんで世界の果てで苦労しながら、仲間割れをしなきゃいけないんだろう、と双方に同情します。
最初の1年間で早くもシーボルトは“大成果”を挙げます(挙げた、と報告しています)。まずは「日本語論」の執筆と「日本語」の版木。日本の文字を西洋に紹介したのです(それまで誰もやってなかった?)。また、日本の仏教にサンスクリットが生き残っていることの指摘もしています。動物植物鉱物の収集も熱心にやっていますが、植物の生きた標本はほとんどがバタフィアに届くまでに駄目になっており、何度も「もうちょっときちんと梱包しろ」との指示がバタフィアからシーボルトに送られています。(最後の頃にはうまく届くようになったようです)
シーボルトが本国向けに発送した品目の多種多様さには驚きます。彼はそれが自分が構築した個人的ネットワークのおかげ、と鼻高々に述べていますが、まさにその通りでしょう。ヨソ者がいくら分厚い札束でひっぱたいても、ここまで豊富で質の高いコレクションは得られなかったでしょうから。シーボルトは、自身の医療技術と心細やかな贈り物などでネットワークを広く深く作り上げたのです。ただ、そのネットワークに胡乱なものを感じる人が多くなり、結局「シーボルト事件」が起きます(幕府天文方高橋景保がシーボルトに禁制の日本地図を贈ったことが内部告発されたのがきっかけ、とシーボルトは報告しています)。1828年末に幕府による尋問や家宅捜索が始まり、29年1月には出国禁止の通告と幽閉、2月には日本への帰化願いが却下、10月に「日本御構」(国外追放、再入国禁止)の判決が下ります。
本書はそこで終わりますが、私は細かいところがいろいろ気に入りました。たとえば間宮林蔵と江戸で一度会っていること。長崎に閉じ込められていてやっとの思いで江戸に出てきた人間にとって「江戸より向こう」を知っている(しかもカラフトが島であることを確認した)人は、どのように見えたのでしょうねえ(間宮林蔵からはその逆に見えたことでしょう)。そうそう、最初の頃には「論文はラテン語で書いたが、オランダ語がもうちょっと上手になったら、オランダ語で書く」なんて文章も登場します。「高地オランダ人」を思い出して笑ってしまいました。
【ただいま読書中】『シーボルトの日本報告』栗原福也 編訳、 平凡社(東洋文庫784)、2009年、2800円(税別)
1823年、バタフィアのオランダ領東インド植民地総督ファン・デル・カペレンは第5歩兵連隊所属の外科医少佐フィリップ・フランツ・フォン・シーボルトに日本での勤務を命じます。この文書で総督は「医師勤務」を命じていますが、東インド評議会は俸給にプラスして月額100グルデンの報奨金を「博物学の研究」に対して支払うことを決議し、研究のための予算措置を講じます。「公費での研究」ですからシーボルトには報告(会計報告、学術報告)が国に対して義務づけられます。その結果生じた数々の報告書、オランダ東インド会社総督府とシーボルトの間の往復書簡は「公文書」として保存されていました。本書はそのまとめです。
公文書ですから、わくわくするような旅の見聞記や新発見の列挙ではなくて、お役所寄りの文書が並んでいます。ただ、これはこれで面白い。特に、シーボルトと長崎商館長デ・ステュルレル(陸軍大佐)との対立が書かれている部分では、ここまであけすけに書いて良いのかな、と思うくらい露骨に二人の関係の悪さが描かれています。シーボルトの主張によれば、商館長は個人的な動機で自分の日本での活動をことごとく妨害し続ける、となります。それに対する商館長の反論は、他の話題を持ち出したり自己弁護したり自分の体調の悪さを述べたり、と歯切れが悪いものに見えます(フレーミングで旗色が悪い方がいろいろ策を弄してごまかそうとするのと、似た感じです)。
……ただ、出島のオランダ商館が、民間組織ではなくて軍隊の一部であることは忘れてはならないでしょう。そこでシーボルトは、商館長に報告せずに直接政府に報告させろと主張したり、バタフィアと直接交渉をすることで人事や予算に口を挟みました(自分の個人的な助手を何人も求め、さらに個人的な指名も行なっています)。明らかに上官(商館長)を無視した越権行為です。これでは指揮官との間に確執が生じるのは必然。もしかしたら、国家的な大事業(日本の博物学的研究)をシーボルトが遂行するのに、商館長があまりに無能で邪魔だったから仕方なく強引な手を使ったのかもしれませんが、ともかく最初から軋轢を求めての行為とも見えます。
ともあれ二人の対立は延々と続き、結局1826年に商館長が交代させられます。それまでの往復書簡(フォン・シーボルトとデ・ステュルレルの間にも、真綿にくるんだ悪口の交換が文書で残されています)を読むと、なんで世界の果てで苦労しながら、仲間割れをしなきゃいけないんだろう、と双方に同情します。
最初の1年間で早くもシーボルトは“大成果”を挙げます(挙げた、と報告しています)。まずは「日本語論」の執筆と「日本語」の版木。日本の文字を西洋に紹介したのです(それまで誰もやってなかった?)。また、日本の仏教にサンスクリットが生き残っていることの指摘もしています。動物植物鉱物の収集も熱心にやっていますが、植物の生きた標本はほとんどがバタフィアに届くまでに駄目になっており、何度も「もうちょっときちんと梱包しろ」との指示がバタフィアからシーボルトに送られています。(最後の頃にはうまく届くようになったようです)
シーボルトが本国向けに発送した品目の多種多様さには驚きます。彼はそれが自分が構築した個人的ネットワークのおかげ、と鼻高々に述べていますが、まさにその通りでしょう。ヨソ者がいくら分厚い札束でひっぱたいても、ここまで豊富で質の高いコレクションは得られなかったでしょうから。シーボルトは、自身の医療技術と心細やかな贈り物などでネットワークを広く深く作り上げたのです。ただ、そのネットワークに胡乱なものを感じる人が多くなり、結局「シーボルト事件」が起きます(幕府天文方高橋景保がシーボルトに禁制の日本地図を贈ったことが内部告発されたのがきっかけ、とシーボルトは報告しています)。1828年末に幕府による尋問や家宅捜索が始まり、29年1月には出国禁止の通告と幽閉、2月には日本への帰化願いが却下、10月に「日本御構」(国外追放、再入国禁止)の判決が下ります。
本書はそこで終わりますが、私は細かいところがいろいろ気に入りました。たとえば間宮林蔵と江戸で一度会っていること。長崎に閉じ込められていてやっとの思いで江戸に出てきた人間にとって「江戸より向こう」を知っている(しかもカラフトが島であることを確認した)人は、どのように見えたのでしょうねえ(間宮林蔵からはその逆に見えたことでしょう)。そうそう、最初の頃には「論文はラテン語で書いたが、オランダ語がもうちょっと上手になったら、オランダ語で書く」なんて文章も登場します。「高地オランダ人」を思い出して笑ってしまいました。