【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

権威の根源

2012-11-30 07:11:40 | Weblog

 ある人が「権威者」になるのは、その人自身に「権威の価値」があるからだけではありません。その人に「権威」を付与したら得をする人が回りに非常に多くいるからです。

【ただいま読書中】『王の帰還(上)(指輪物語8)』J・R・R・トールキン 著、 瀬田貞二・田中明子 訳、 評論社文庫、1992年(2002年7刷)、700円(税別)

 東奔西走のガンダルフは、ゴンドール王国を凶報とともに訪問します。モルドールの大軍が襲ってくる、というのが凶報の中身ですが、ゴンドールは衰亡の道を辿っており、戦力は絶対的に不足しています。国の周辺から応援は来ますが、これも期待の10分の1程度。大勢力が期待できるのは北に接するローハンですが、ここもアイゼンガルドとの戦いをしたばかりで、戦力を再編成してゴンドールに送るためには時間がかかります。とても決戦には間に合いそうもありません。サルマンの“裏切り”は、戦力的に傷手でしたが、もっと痛かったのは「時間」を費やされたことです。その時間をサウロンは自軍の準備に使えたのですから。
 アラゴルンは「死者の道」を歩むことを決心します。生きた者が入ったら二度と出られぬ地下の世界ですが、そこを通ればゴンドールに早く抜けることができると同時に、死者たちを召集して戦力にできる、という目論見からです。アラゴルンが王の末裔であることは、それまでも言葉では語られていましたが、この旅の途中でこうして「王の力」を現実のものとして見せることができるようになったのです。アラゴルンのこうした成長もまた、本書の魅力の一部を構成しています。
 「旅の仲間」はバラバラになってしまいます。ホビットのメリーはローハン王に忠節を誓い、ピピンはゴンドールに。ガンダルフはあちこちにいて、アラゴルン・レゴラス・ギムリは死者の道へ。そして忘れてはいけません、サムとフロドはモルドールに潜り込んでいます。
 各地で人々がそれぞれの夜を過ごした翌日、日は昇りませんでした。モルドールの闇が世界を覆ったのです。戦いはまず空から始まったのでした。そして空には、指輪の幽鬼(ナズグル)が翼竜のような怪鳥に乗って飛び回り、恐怖を放射します。そしてその恐怖の下で会戦が始まります。ゴンドールは陥落の危機を迎え、やっと到着したローハンからの援軍も敵の数のあまりの多さに手こずります。しかし「生身の人間の男には傷つけることができない」ナズグルの首領が意外な、本当に意外な“敵”に倒されて潮目が変わり、さらにそこに新たな援軍が。「王」です。ゴンドールに、伝説の王が帰還したのです。
 会戦のあと、まるで幕間劇のように静かな時が流れますが、作戦会議は緊迫していました。会戦の勝利はまだサウロンに対する最終勝利とはなっていません。それどころか、サウロンはまだ主力部隊を温存しているのに対し、サウロンに反対する側は大損害を受けてボロボロです。それでも先手を取る続ける(サウロンの“想定外”をつつき続ける)ため、アラゴルンは総勢7000の軍を率いてモルドールを攻めることにします。わずか7000。全盛期のゴンドールなら、前衛部隊程度の戦力です。ただこれでモルドールを落とそうというのではありません。サウロンの“目”を引きつけ、指輪所持者の任務を少しでもやり易くしよう、という陽動作戦です。つまり、自分の命を賭けたオトリ。かくして、指輪戦争の最終局面が、モルドールの黒門の正面で始まります。サウロンは10万くらいの軍勢を繰り出し、居丈高に降伏と指輪の引き渡しを要求します。


第三極

2012-11-29 06:52:30 | Weblog

 マスコミなどで3年前に「二大政党制」「政権交代」と大喜びで言っていた人たちが、今は「第三極」とやはり大喜びで言っているような気がします。その根底に共通してあるのは「現状否定」?
 中学の社会科だったか高校の政治経済かで世界の政治について習ったときに、英米は二大政党制・ソ連をはじめとする共産主義国家は一党独裁・イタリアは政党が乱立してつねに連立政権、と私は覚えました。イタリアの場合、かつて統一国家ではなくて都市国家の集合体であったことが影響しているのかもしれませんが、ともかく何回選挙を繰り返しても安定政権ができずに政治が不安定だ、ということでした。対して日本は、一党独裁ではないが自民党の安定政権が続いていて、難点もあるが安定性と継続性という点では安心できる、ということだったはずです。
 で、現在の「第三極」での離合集散を見ると、日本は英米の二大政党を目指していたはずなのに、到達したのはイタリアだった、ということだったんですね。だったら、今日本人が学ぶべきは、経験豊富なイタリア人のライフスタイル?

【ただいま読書中】『流産の医学 ──仕組み、治療法、最善のケア』ジョン・コーエン 著、 藤井知行 監修、谷垣曉美 訳、 みすず書房、2007年、3000円(税別)

 まずクイズです。「甲さんは今回が初めての妊娠、乙さんは今まで3回連続流産をして今回が4回目の妊娠です。ではこのお二人、どちらの方が今回の妊娠で流産をする確率が高いでしょうか?」
回答は「どちらもほぼ30%」。
 著者夫妻は、4回繰り返した流産に打ちのめされました。その仮定で二人は山ほど流産に関するデタラメを聞かされました。著者は、自分たちが苦しんでいたときにまさに欲しかった本を、自分で書くことにしたのです。
 着床前の胚を含む摘出子宮の研究から、受精卵の半数にはなんらかの異常があることがわかりました。また、大規模な女性の尿中hCG検査から受精卵が着床して「おめでたです」となっても31%は何らかの原因で流産することがわかりました。着床さえできない受精卵の異常を考えると、たとえ受精してもその半数は出産にはつながらない、と本書では計算されています。すると「3回連続流産の率」は12.5%!
 流産物の研究からは、流産例の半数に染色体異常があることもわかります。しかし残りの半数にはありません。染色体異常の大きな原因は、卵の減数分裂のトラブル。そしてそのトラブルは卵が“老化”するにつれて増加します。「老化」と書きましたがそれは単純な「肉体年齢」のことではありません。「閉経にどのくらい近づいているか」です。閉経は、女性の体に残っている卵がどんどん減少して1000個くらいになったときに起きます。卵の貯蔵がたっぷりある女性は染色体異常を起こしにくいのです。
 ここで一つの教訓が得られます。流産を繰り返す人に、様々な高価で不愉快な医学検査が行なわれます。しかしそれが必要なのは、染色体が正常な胎児を流産する人に対してだけ、なのです。「染色体異常」と「母胎の問題」は分けて考える必要があるのです。
 「流産の原因」は様々なことが喧伝されていますが、実はそのほとんどは根拠のないあやしいものであることが本書では容赦なく暴かれていきます。著者は、論文の原著者や主張を最初にした人の所に実際に行って「その主張の根拠は?」と聞いているだけなのですが。
 著者は「達人のケア」を見学します。いくつかの反復流産クリニックで働く達人の、流産に苦しむ人に対応するさまざまなケアとサポートに、著者は「話す犬を見たよう」と感想を漏らします。
 そして最後の「奇蹟の子」。ここはルポというより、良質の短編小説を読むような感想をもちました。医学と人の関りで、人が単に科学技術にコントロールされるだけの“弱者”ではないこと、人の価値は人の本質にこそあることがここには示されているように私には思えます。


本が好き?

2012-11-28 07:18:22 | Weblog

 白状しますが、私は本好きではありません。「面白い本」が好きなだけです。

【ただいま読書中】『魔使いの戦い(下)』ジョゼフ・ディレイニー 著、 金原瑞人・田中亜希子 訳、 東京創元社、2009年、1900円(税別)

 魔女たちは魔王(悪魔)を呼び出そうとしています。しかし悪魔は一度呼び出すともう消すことはできません。ペンドルの魔女が全員結託すれば悪魔をコントロールすることは可能かもしれません。しかし不可能かもしれません。
 ところがトムの方は、非常に危険な野生のラミア魔女(凶暴冷酷で人の血が大好き)を呼び覚ましてしまいました。それも二人も。
 一体どうやってこのとんでもない事態を収拾するのか、と思っていたら、魔使いのグレゴリーはさらに話を大きくします。村でまだ悪におちていない男たちを集めて「軍隊」を結成したのです。ただし彼らは陽動作戦。直接魔女たちと戦う必要はありません。魔女の気がそちらに逸れた隙に魔使いとトムとアリスが中心人物のワーマルドを叩く作戦です。
 襲撃は成功します。しかし、すべては手遅れでした。魔王はすでにこの世に解き放たれ、二日間だけはワーマルドの絶対命令「トムを殺せ」に従うのです。魔王に立ち向かえる存在などこの世にはありません。さあ、トムの運命や、いかに。いや、世界はこれから「闇」に覆われてしまうのです。世界の運命や、いかに。(先走りますが、おそらくこの魔王が成長後のトムにとって一生をかけて戦うべき宿敵になるのではないかな)
 やっと避難場所に逃げ込んだトムですが、自分自身に対する嫌悪感と絶望とでもうボロボロです。だけどそこにゴーストが。トムは、自分のことは置いて、そのゴーストを迷いの闇から光の側に送り出そうと努力します。そして迎えたのは、14歳の誕生日。トムは「大人」の世界に一歩を踏み出したようです。
 第一巻から面白いシリーズでしたが、著者は書くにつれて腕を上げているように感じます。書きたいことが次々浮かんでそれをタイプするのに指の動きが間に合わない、といった感じ。次の本も図書館に予約してありますので、近いうち(長くても3箇月以内)に読書します。重苦しくやたらと人が死ぬファンタジーですが、現実的で(褒め言葉として使っています)読み応えがありメインだけではなくてサブのキャラも多くが生き生きと活動していてとにかく面白い。ディズニーランドに代表されるような「管理されたはらはらどきどき」ではなくて、心の底から揺り動かされる感覚を楽しめます。



必ず行く

2012-11-27 07:41:29 | Weblog

 NHKの選挙前のアンケートで「こんどの選挙には必ず行く」と答えた人が61%、「行くつもり」が26%だそうです。足したら87%! 行くつもりの半分が本気だとしても74%。
 いつも思うんですけどね、どうしてこういったアンケートって「確認」をしないんでしょう? 「選挙前には『必ず行く』と答えた人」の何%が実際に行ったか、の選挙後アンケート。それをしないと、前の「マニフェスト」と同じで、ただの言いっぱなしを堂々と「ニュース」として流しただけになっちゃいません?

【ただいま読書中】『魔使いの戦い(上)』ジョゼフ・ディレイニー 著、 金原瑞人・田中亜希子 訳、 東京創元社、2009年、1900円(税別)

 トムが魔使いの弟子となって2年目を迎えました。2年目の勉強の主題は「魔女」です。おりしも魔使いのグレゴリーは、ペンドルの魔女集団と決着をつける気になっています。そこは(魔女候補の)アリスでさえ「邪悪な魔女」と呼ぶ魔女の一族が3つも暮らしている地域なのです。ふだん彼らはいがみ合っていますが、なぜか最近協調ムードが高まっていて、それはその地域にとっては危険なことなのです。さらに、トムの兄一家が魔女たちに襲われてペンドルに連れ去られます。トムの母親が残した大切なトランクとともに。トムにとって、ペンドルでの戦いは「グレゴリーのお手伝い」から「私的な戦い」になったのです。
 ペンドルには“味方”もいました。かつてグレゴリーの弟子として魔使いになり、それから神父に転身したストックスです。ストックスは、2週間後の〈収穫祭〉に魔女たちが一致団結して魔王を呼び出そうとしているのではないか、と推測していました。魔女の族を結びつける鍵は、邪な魔女ワーマルド、トムの母親の旧敵です。話が複雑になります。さらに、ペンドルで最有力な氏族モールドヒールの指導者マブ(まだ少女)がトムを好きになって、話はますますややこしい方向に。ここでうまくマブをだまして言うことを聞かせれば、事態は解決の方向に向かうはずですが、トムは卑怯なことは嫌いです。たとえ自分の命を狙う相手であっても、嘘をついたり約束を破ることはしません。だから選択肢はどんどん減ってしまいます。まあそれがトムの良いところではあるのですが。そして、そんなトムをはさんで、マブとアリスが張り合います。おやおや、命のやりとりが続く魔ファンタジーだったのに、青春小説のテイストが加味されました。
 おもしろいのは師匠が「絶対の存在」ではないことです。その欠点はトムからは見え見えですが、グレゴリー自身が「自分の無知」「経験不足」を平気で認めています。そしてトムは、そういった欠点などを含めて丸ごと師匠を絶対的に信頼しているのです。ちょっと変わった師弟物語でもあります。



進のイメージ

2012-11-26 06:45:19 | Weblog

 「進」という文字には、ポジティブな意味がべったりと貼りついています。「進歩」「進学」「進取」「新進気鋭」「躍進」「精進」「推進」「一路邁進」「改進」「先進的」「食が進む」「勧進帳」「一歩進んで二歩下がる」……最後の二つはちがうかな?
 ともかくこうして「進」が「明るい文字」として輝くと「進化」はそのことばだけではなくてその概念もまた「明るいイメージ」に輝くことになります。「単細胞→多細胞生物」「原生生物→高等生物」「原始人→現代人」だから「人類は進化の頂点」これこそが「進化」であるぞよ、と。だけどダーウィンはそんなこと言ってませんよね。どうしても「進」の字を使うなら、どの種も「自然の迷路(環境の変化)」のなかをよろよろと進んでいて、生存に適さない迷路の袋小路に進入してしまった種は滅びて、まだ袋小路に迷い込んでいない種は生きのびている、という程度の意味でしかありません。つまりここで重要なのは、「進」ではなくて「生きのびている」こと。ただそれだけのことなのです。「生きていること」に種によって価値の大小はありません。ただそれだけで、尊い。

【ただいま読書中】『赤十字標章の歴史 ──“人道のシンボル”をめぐる国家の攻防』フランソワ・ブニョン 著、 井上忠男 訳、 東信堂、2012年、1600円(税別)

 戦傷者が荷馬車で運ばれていた時代、その荷馬車に対する攻撃は別に戦争法違反ではありませんでした。1859年「ソルフェリーノの戦い」での悲惨な事態を目撃したアンリ・デュナンは、何かを為すべきだと考え3年後に出版した『ソルフェリーノの思い出』で自らの考えを主張します。それは大きな反響を起こし、ジュネーブに「傷者救護の国際委員会」が設立されました。後の赤十字国際委員会(ICRC)です。そこでは、戦場での傷者救護に当たる人間は「中立」として国際的に扱われるべき、とされ、そのためには国際的に統一された標章が用いられるべきとされました。そこでベースとなったのは「白旗(降伏、休戦、交渉のしるし)」で、スイスに敬意をはらってその国旗の色を逆転させたものが採用されました。
 トルコは1865年に64年のジュネーブ条約に留保を付さずに加入しました(つまり「赤十字」を受けいれていたわけです)。ところが1867年、ロシア・トルコ戦争勃発直前、「キリスト教のシンボルをイスラムの兵士が身につけることに嫌悪感を抱く」ことを理由に「赤新月」を採用すると通告します。ICRCは苦慮しますが、「標章は世界共通であるべき」「赤十字には宗教色はない」ことを宣言してトルコを説得しようとします。しかしトルコは応じず、それどころが1899年ハーグ平和会議では、トルコだけではなくて、ペルシャ(赤のライオンと太陽)とシャム(仏陀の炎)が独自の標章を主張します。1929年のジュネーブ条約では「トルコ・ペルシャ・エジプトにだけは“例外”として、赤新月・赤のライオンと太陽を認める」とされました。しかしそれによって「門戸が開かれた」と解釈する国がありました。1935年にはアフガニスタンが「赤の門」を、1949年にはイスラエルが「赤のダビデの楯」を主張します。
 実は「世界中の人が納得できる、非宗教的な標章を採用しよう」という提案もあったのですが、「もうずっと赤十字でやって来ているし、これは非宗教的な標章なのだ。それを理解するべきだ」という主張によってこの提案は潰されています。
 49年にニカラグアは「基本は赤十字とするが、各国は十字の中央を四角または丸にくりぬいてそこに好みの紋章を入れることができる」、75年にエチオピアが「赤いハート」という提案をしています。特に複数の宗教がある国家での赤十字活動は、マークからして大変なようです。
 2005年には、既存の3つの標章(ただし、1980年にイランはライオンと太陽を廃して赤新月を採用したので実際には2つ)を選択しない国のために「赤のクリスタル」が正式採用されました。ことによったらこれからはこれが「世界標準」になるのかもしれません。キリスト教とイスラムの“対立”は、アンリ・デュナンの理想から見たらただの不毛な争いですから。
 ところで私は一つの案を持っています。「日の丸」です。これだったら「白地に赤」「戦場で目立つ」「非宗教的」「シンプルな幾何学模様」のすべての条件を満足します。ただこれが国際的に採用されたら、日本は(日の丸が国旗であるかぎり)戦争をしてはいけないことになります。現在の赤十字旗は国旗とともに掲揚することになっていますから、日の丸を「赤十字活動」と「戦争」に併用してはいけませんので。もちろん「日の丸に対する攻撃」もまたジュネーブ条約で禁じられることになりますから、日本は直接的な軍事攻撃に対しては“安泰”ということにはなるのですが。しかし、「国際救助隊国家日本」って、少し格好良いと私には思えます。


善行

2012-11-25 06:50:59 | Weblog

 「あいつの行為は偽善だ」と大声で他人の行為を責める人がいますが、そういった行為が好きな人は「ふだんから善行を為している」「ふだんから偽善を為している」「実は善行も偽善も為していない」のどこに位置しているのでしょう?
 「あれは偽善だ」と“上”から責める以上、それ以上の「善」をその人は為しているんですよね? 「善」だったら善行でも偽善でも私はかまいませんが。
 そういえば「あいつは権威主義的だ」と他人を非難する人が、実は「自分自身が権威主義的(自分が権勢を振るえないから不満が貯まっている)」という事例をけっこう私は見てきています。もしも「偽善」においても同じことが言えるとしたら、「自分は偽善をしたいのに先を越された」という不満から「あいつの行為は偽善だ」と非難することになっている?
 だって「自分の中にないもの」を「相手の中に読み取ること」は不可能でしょ?

【ただいま読書中】『二つの塔(下)(指輪物語7)』J・R・R・トールキン 著、 瀬田貞二・田中明子 訳、 評論社文庫、1992年(2002年7刷)、700円(税別)

 そして話はフロドとサムに戻ります。ああ、ここから物語は、少しずつ冷たく暗く、切なくなっていくんだ。読む前から私の胸は締めつけられます。
 モルドールに潜入しようとして道に迷っていた二人のホビットは、指輪に執着する以前の持ち主ゴクリを捕まえ、自分たちに害を為さないこと・モルドールへの道案内をすること、を誓約させます。そのとき、一種の奇蹟が起きます。怪物ゴクリは、醜く変貌する前のかつての自分スメアゴルをほんの少しですが取り戻したのです。
 指輪所持者の動きをサウロンは完全に見失っていました。サウロンにとって指輪の「価値」は「その力を利用すること」にあります。誰かが指輪を隠したらその目的は「良からぬ目的(サウロンに逆らうこと、サウロンではなくて自分が世界を支配すること)のために指輪を使おうとすること」でしかありません。したがって、よりによってこの世で一番弱い「小さい人」がよりによって自分の足下に指輪を運んでこようとしているとは、想定外だったのです。指輪を滅しようとする人々の唯一の希望は、そのサウロンの「想定外」にありました。ゴクリの案内で死者の沼地を越えフロド(とサム)はモルドールの“入り口”黒門に到達しますが、そこの警備は当然厳重です。“裏口”は呪われています。ただゴクリは秘密の小路を知っていました。危険を承知でフロドはそこに向かいます。その途中、ゴンドールの奇襲隊に遭遇しますが、その指揮官はボロミアの弟ファラミアでした。これが天の配剤と言うべきでしょうね、勇猛果敢で謹厳実直だが猪突猛進の傾向があった兄に対して、ファラミアはボロミアより押しは弱いが賢明で思慮深かったのです。彼はフロドの言葉を聞き、フロドが語ろうとしないことを汲み取っていき、二人のホビットの試みを危ぶみながらもその強い意思を尊重します。
 恐怖と不安を押さえ、フロドは一歩ずつ進みますが、その一歩ごとに指輪はその“重さ”を増していきます。単なる疲労だけではなくて疲労以上のものがフロドの心身を蝕むのです。さらに、モルドールの大軍勢が出撃を始めます。もう間に合わないのではないか。フロドは絶望します。しかしそこでサムが突拍子もないことを言い出します。
 このシーンも私の大のお気に入り。もしも自分たちが物語の登場人物だったら、と仮定をして、この物語にはどんな結末が来るのだろう、と想像することで現在の自分たちの苦況を少しでも忘れようとする、まるで薄く脆いガラスの薄片で組み立てられたかのような美しい場面は、何回読んでも涙が出ます。
 ゴクリが案内した抜け穴には、巨大な蜘蛛の化け物シェロブが巣食っていました。ゴクリはシェロブにフロドを襲わせ、その死体(体液を抜き取られた抜け殻)から指輪を奪う計画だったのです。シェロブに襲われ毒を注入されてしまったフロド。しかし、そこでサムが意外な行動に出ます。そんな性格ではなかったはずですが、フロドの危機に文字通り我を忘れたのでしょう。おそろしいことにサムは指輪を使ってしまいます。しかし、それですぐには重大なことは起きませんでした。影の力がすべてを支配するモルドールの“内部”であったのに。それはサムが、フロドと同様に善良で素朴なホビットであることだけではなくて、庭師であったことも重要な要素だと私は考えています。自然に逆らわずまずはその言い分を聞いた上で自分の意思も“相手”に押しつける職業だからこそ、指輪の魔力に簡単には魅了されずに済んだのではないでしょうか。これが私だったら、指輪のそばにいるだけでもあっさり堕ちてしまったでしょうね。というか、サムはずっと指輪のそばにいたのに平気だったのですから、最初からなんらかの耐性があったのかもしれません。地味なキャラですけど、指輪物語でサムはその特質がもっと注目されてしかるべきではないかなあ。



質問に見合った回答

2012-11-24 06:57:32 | Weblog

 「もしなにかあったらどうしたらいいでしょう?」といった漠然とした質問が好きな人の多くは、場合別で具体的な回答を示されても満足せず「それでももしも万が一なにかあったら……」と同じ質問を繰り返す傾向があります。もしかしたら「大丈夫、なんとかなりますよ」といった感じの「漠然とした回答」を求めてそれが得られないでいるからでしょう。でもそれを得たとしても何が解決したわけでもないのですが。それだったら「どうしたらいいでしょう?」という質問をするのではなくて「私を安心させてください」と依頼した方がいいのでは?

【ただいま読書中】『二つの塔(上2)(指輪物語6)』J・R・R・トールキン 著、 瀬田貞二・田中明子 訳、 評論社文庫、1992年(2002年7刷)、700円(税別)

 ガンダルフたちは、優秀な馬の生産で知られるローハンを訪れます。サルマンの間者である相談役によって腑抜けとなっていたセオデン王に活を入れ、総勢力が出陣します。目指すは東(モルドール)ではなくて西(アイゼンガルド)。まず白の魔法使いサルマンの勢力を倒さなければなりません。遺産で出撃する男たちを城から見送るのは、留守の責任者に任命された、王の妹の娘、エオウィン。彼女が見送る一行の中には、大切な家族だけではなくて、彼女が最近恋に落ちたばかりの男も混じっていました。
 実はこのシーンも好きなところです。ただひたすら勇ましく行け行けどんどん、ではなくて、様々な人の思いが絡み合い渦を巻いている「動」の中に「静」が点描され、非常に複雑な味付けの物語となっています。
 ローハンの軍勢は、サルマン旗下のオークの大軍に脅かされている国境の拠点、ヘルムの峡谷の角笛城救援に向かいます。これだけの大軍勢同士が殺し合うのではなくて協力して“敵”に向かえば良いのに、と思いますが、「権力を志向する者」にとっては「自分が一番」であることが「世界を救うこと」よりも優先するのでしょうね。これって、今の世界に関してもそのまま言えそうな気がします。
 角笛城は孤立していました。ガンダルフは援軍を求めて活動します。各個だと撃破されてしまいますが、“味方”同士が協力をしたらこんどは敵を各個撃破(あるいは挟撃)する望みが生じるのです。さらに、ガンダルフでさえ予想していなかった“援軍”が、ホビットとともに現われます。
 アイゼンガルドは落ち、サルマンの軍勢の中にモルドールの軍勢が大量にまぎれ込んでいただけではなくて、サルマンが実はサウロンの操り人形に堕ちてしまっていたことが明らかになります。自分の力に絶対の自信を持っていた傲慢さこそ、サウロンがつけいる弱点だったのです。
 ともあれ、ローハンはアイゼンガルドとの戦いに勝ちました。大きな犠牲ははらいましたが。しかしこれはささやかな勝利です。これから人々は、東を向いてさらに大きな戦いの準備を始めなければならないのです。
 破れた直後のサルマンのあがきっぷりは惨めです。自分が制御できない巨大な力を弄ぶ危険性がありありとわかります。本書出版当時「指輪」は「核兵器」のメタファーではないか、という議論があったそうですが、たしかにそういった一面はありそうです。ただもしそうだとしても、著者が伝えたいのは「指輪」の恐怖ではなくて、賢明な人間の判断(「それ」を使わないと決心すること)の大切さの方にあるのではないか、と私には思えます。
 そういえば、ローハンの近衛隊長ハマは本巻でこう言っています。「迷う時こそ、ひとかどの人間はおのれ本来の分別に頼るもの」。



改名

2012-11-23 07:42:17 | Weblog

 地震予知連が「地震予知は現実には難しい」から、せめて名称を変更しよう、としているそうです。なんだか表面を糊塗するだけの対応にも思えますが、もし改名するとしたらふさわしいのは、後ろ向きになるなら「地震予知失敗連絡会」、前向きになるなら「地震予知努力会」でしょう。ところで、「予知ができない」のだったら、存在をやめる、という選択はないのかな?

【ただいま読書中】『二つの塔(上1)(指輪物語5)』J・R・R・トールキン 著、 瀬田貞二・田中明子 訳、 評論社文庫、1992年(2002年7刷)、700円(税別)

 ボロミアの角笛が鳴り響きます。しかしそれは、彼自身の葬送の調べでした。オーク(ゴブリン)兵の手にかかったのです。ホビットのピピンとメリーは捕えられ連れ去られます。捕えたのは、白の魔法使いサロモンの手下や各地からの寄せ集め、さらにはモルドールの冥王サウロンの手下まで混じっていました。目的は「ホビットを生きたまま捕獲すること」。その手を逃れ、フロドとサムはひそかに川を渡りモルドールを目指します。アラゴルン・レゴラス・ギムリは、人間・エルフ・ドワーフが出せるだけの持久力と忍耐力と速力で、オークたちの後を追います。フロドとサムはすでに運命の中にあり自分たちは手が出せない、しかし、ピピンとメリーの救出はまだ人の手で可能だ、と。ここでのアラゴルンの逡巡と決断は本当に悩ましいものです。私も頭を抱えながら考えてしまいます。
 そして、昼夜兼行での追跡行。超人的なスピードでの追跡が何日も続きます。この追跡行は指輪物語の中で私がすきなシーンの一つです。これまで逃げてばかりだったのが、逆に「追う」という能動的な行動に出られたわけですから、軽いカタルシスを感じることができますので。しかし、3人がオークたちに追いつく前に、オークの集団はローハンの騎兵隊と交戦し全滅します。そのどさくさでホビット二人は逃走に成功しますが、古い森の中に迷い込んでしまいます。そこで出会ったのは……いやあ、これまた私が好きなキャラ、エント(木の髭)です。エントは古くからの森の守護者(精霊? トロール?)ですが、白の魔法使いサルマンが森を破壊しようとしていることやサルマンが作り出した新しいタイプの邪悪なオークに我慢がなりません。そして、ピピンとメリーの話から、サルマンを放置していてはならない、何かを手を打たなければならない、と決心します。しかし、なにせ「木」ですから、気が長い。エントたちの大集会は何日ものんびりと続きます。ホビットたちは気がせいて仕方ありませんが、エントはとにかくすべての情報をきちんと交換しなければならないのです。しかし、一度合意に達した瞬間、エントたちは一斉に出発します。目的地はアイゼンガルド、白のサルマンが寄る魔法の塔です。
 ホビットを追跡していた3人は、森の中で二人の痕跡をやっと発見します。そのとき3人の前に現われたのは全身白ずくめの魔法使いの老人でした。サルマンにそっくりの。
 旅の仲間が3つに分裂し、それぞれ波瀾万丈の物語を繰り広げる最初の巻です。初めて読んだときにはついていくのが大変でしたが、今はそれぞれを関連づけて楽しむことができます。何回読んでも楽しめる、お得な本だなあ。



季節感

2012-11-22 09:36:49 | Weblog

 かつては「四季」がはっきりしていたように私は記憶していますが、最近は「夏」がどんどん肥大化して「春」と「秋」がどんどん削られているように思えます。今年の秋も、いつの間にか終わっちゃいました。かつて四季の間にはそれぞれ「土用」が置かれて緩衝作用を果たしていましたが(今は夏の土用が言葉だけ残っていますね)、そのうちに「春」と「秋」も今の土用と同じように形骸化して、日本は「二季の国」になってしまうのでしょうか。

【ただいま読書中】『極限の民族』本田勝一 著、 朝日新聞社、1967年、520円

 「カナダ・エスキモー」「ニューギニア高地人」「アラビア遊牧民」が収載されています。
 本書を初めて読んだとき、私は高校生でしたが、「現地の生活」のあまりの生々しさに強く感銘を受けました。
 「エスキモー」とは「生肉を食う人」と言う意味のワバナキ・インディアンの単語です。これは蔑称だとされています。でも、氷と雪の世界ですから火を使うための燃料がなく野菜も取れませんから生肉を食べるしかないのですが、ビタミンが加熱で壊されずに体に入るので、北極圏で民族が絶滅しないためのきわめて合理的な生活様式だったのです。ですから「ただの事実」。それを「蔑称」だと思う人の心の中には「蔑」があるのかもしれませんが。
 「エスキモー」に関してほとんど情報がなかったため、著者らはとにかく現地に飛びそこで情報を集めてなるべく「原始的な生活(昔と変わらない生活)」をしているを探し、そこに飛込みで訪れて居候を頼むことにします。首尾よく居候を許可されたのは、イグルーリック・エスキモーのウスアクジュ(小さなペニス)のカヤグナの家。雪洞式のテント小屋で10帖くらいの広さに10人くらい(変動あり)が暮らしています。そこにもう二人が加わったのですから、まあ混雑はすごいことに。さらにトイレも部屋の中で空き缶に済ませちゃいますから、匂いもすごい。しかし、家が狭いことには理由があります。人いきれで温度を上げる効果があるのです。ですからエスキモーの人々は、外が零下何十度でも、寝るときには裸で毛皮(あるいは布団)に潜り込みます。著者は、「北海道を除いて、日本の屋内は北極圏の屋内よりも寒い」なんて言ってます。
 サウジアラビアのベドウィンで印象的なのは、謝らないこと。ただし、何かあったときに平気で謝るのは、実は世界では少数派で「日本が異端で、ベドウィンが普遍なのではないか」と著者は述べています。
 本書が発行された頃って、「海外旅行」が特別なもので(まだ1ドルが360円でしたっけ? 日曜日の「兼高かおる世界の旅」が楽しみでした)、日本国内にはまだほとんど「海外の生の情報」が存在しない時代でした。ですからこうして実際に住み込んだ人のレポートは大変貴重なものだったのです。今、同じ所で同じことをやったら、どんなレポートになるんでしょうねえ。少なくとも「エスキモー」ではなくて「イヌイット」と書かないと、発禁処分かな。


不良

2012-11-21 06:29:18 | Weblog

 「積み木くずし」のシリーズは繰り返し映像化されているのだそうで、フジテレビで「積み木くずし 最終章」がドラマ化されて今週末に放送されるのだそうです。一番最初に読んだときには、あそこまで家族のプライバシーを公表しちゃって良いのかな、と思うと同時に、あまりに両親中心の視点しか存在しないことにもどかしさも感じ、さらに、「自分の非行」を世間に広く公表された娘さんの立場はどうなるのか、なんてことも思いましたっけ。もしかしてあれは、「不良娘にひどい目に遭わされた親からの復讐」だったのかな。
 そういえばいちばん最初の本では「オキシフルで脱色した髪」が非行の象徴でした。今テレビドラマにしたら、みーんな茶髪の不良ですね。

【ただいま読書中】『魔使いの秘密』ジョゼフ・ディレイニー 著、 金原瑞人・田中亜希子 訳、 東京創元社、2008年、2500円(税別)

 「魔使い」シリーズ第3巻です。今頃になって気がついたのですが、本書は魔使いの弟子トムの手記です。ではこの手記はどこにあるのかといえば、もちろん魔使いの家の図書室でしょう。つまり私たち読者は、トムの弟子あるいはさらにそのずっとあとの弟子で、魔使いになるための修行の一環として図書室でいろいろ読んでいる内に弟子時代のトムの手記を見つけた、という設定なのです。いやあ、凝っているなあ。他にもいろいろ仕掛けがしてあるのですがそれは読んだ人が楽しみながら発見したら良いでしょう。
 師匠の魔使い(全盛期を過ぎていて欠点だらけ)グレゴリーと(魔女だけどまだ完全に“悪”になっているわけではない)アリスと一緒にある程度落ち着いた生活をしていたトムですが、師匠はトムと二人だけで冬の家があるアングルザークに移動する、と決定します。かつて師匠の弟子を3年間務め結局魔使いにはなれなかったモーガンは師匠を恨んで挑発している様子です。
 しかしこのモーガン、とっても嫌な奴です。魔使いの修行を全うできなかったのは師匠のせいだと逆恨みをしているようですし、さらには転落して死者を自分の欲望のために使う魔術師の道を歩んでいます。生家にはよく立ち寄っていますが、それは自分の親を殴ったり怒鳴ったりするためと、湖で溺れ死んだ妹の死霊を呼び出すため。
 アングルザーク高原は剣呑な場所でした。魔使いの冬の家は、冬になったら力を増す「魔」が人間界に侵入するラインの真上に位置し、人間界を魔から守護する防衛拠点だったのです。さらにこの高原には、かつて世界を恐怖で震え上がらせた冬の魔王ゴルゴスが眠っているのですが、モーガンはあろうことかゴルゴスを覚醒させようとしているのです。さらに冬の家の地下に、本来は封じ込めるあるいは殺すべきラミア魔女のメグを、グレゴリーは匿っていました。事態はどんどん複雑になります。
 石を大量に降らせて人を殺す兇悪なボガートを退治しようとしてグレゴリーは重傷を負い、トムの父親は病死し母親は行方不明に。こんな状況でトムは世界を救えるのでしょうか。ちょっとハンディキャップが大きすぎません?
 本書には「絶対の善」とか「絶対の悪」は基本的に登場しません。登場人物は皆それぞれの事情を抱えて「自分にとって最善の道」を選ぼうとしています。傍目には理解不能な言動でも、あとになったらそれにはちゃんとした理由があった、ということは実によくあることなのです。ということは「悪党」モーガンにも何かそれなりの事情が?(もちろん、だからといって親を殴ってよい、とか、死んだばかりのトムの父の魂を“人質”にしてトムにグレゴリーの本を盗むことを強要してよい、というわけではありませんが) 同じく本書に登場しないのは、「白馬の騎士」とか「機械仕掛けの神」。窮地に陥った主人公たちを、最後の最後に都合よく救援に来てくれる存在などありません。主人公たちはぎりぎりのベストを尽くさなければならないのです。読んでいて、本当にはらはらします。私が子供だったら、感情に負けてそのへんを走り出してしまうかもしれません。でもその「感情に負ける」ことは本書ではグレゴリーによって固く禁じられています。いやあ、“教育的”な本だなあ。そうそう、本書には、退屈な基礎学習がいかに大切かも述べられています。やっぱり“教育的”なファンタジーです。