国会質疑のテレビ中継を見ていて、「原稿を読むだけだったら、字が読める人なら誰でもできるのではないか?」という疑問を感じました。あんな棒読みをする人のために、本給だけではなくて「文書交通費」という名前の月100万円のお小遣いまで別口で支給していると思うと、月1万円のお小遣い(しかも本給の中からのもの)でやりくりしている人間としては、腹立たしい思いです。
しかも原稿を読み間違えたり、後になってから「国会答弁は変更するからそれでいいよね」と平気で言う人たちを見ていると、ますます腹立たしくなります。
【ただいま読書中】『ふたつのドイツ国鉄 ──東西分断と長い戦後の物語』鴋澤歩 著、 NTT出版、2021年、2600円(税別)
著者は「東」「西」「ベルリンの壁」といった言葉はすでに「中途半端な過去」に存在する、と言います。たしかにそれらは私の記憶には確かに刻まれてますが、日常生活で使うことはもうほとんどありません。著者は経済学者で、だから「テツの視点」ではなくて「経済学者の視点」から「二つのドイツ国鉄」を論じ、それを通して「戦後のドイツ」を論じています。
第二次世界大戦前、ドイツで最大の企業だったライヒスバーン(ドイツ国鉄)は、戦争で甚大な損害を受け、さらにでモンタージュ(戦争賠償目的での強制接収。平たく言ったら戦利品の略奪)によって資材や人員を強制的に奪われ、ぼろぼろになりました。そのぼろぼろの国鉄でまず大量に運ばれたのは「ドイツ人」でした。いわゆる「東欧」に入植していたドイツ人はそれらの国から追放され、なんと1200万人が強制的に「(のちの東西)ドイツ」に鉄道で運ばれたのです。それはユダヤ人を強制収容所に鉄道で運んだときの姿とそっくりだったそうです。行き先が絶滅収容所でなかったことだけは救いだったでしょうが。
ドイツの線路網は、ベルリンを中心に放射状に組まれていました。だからソ連占領地ではその管理はやりやすかったでしょうが、西側は大変です。しかもフランスは直接統治にこだわり、英米が「なるべく現場に任せよう」としていたのと反りが合いません。さらに米ソの対立がどんどん深刻化。ベルリン封鎖でその対立は決定的となり、ライヒスバーンは分裂の危機、というか、実際に分裂させられてしまい、東ドイツでは旧称のままの「ライヒスバーン」、西ドイツではフランスが特にその名称を嫌ったためか「ブンデスバーン(連邦鉄道)」となりました。
ベルリンの壁ができる前、ベルリンの市街電車Sバーンは「東」と「西」の両方を走っていました(駅の構内は東ドイツ領とされていましたが)。そのため、通勤や通学だけではなくて、東から西へ亡命する者もまた電車を使いました。しかし、市街電車で亡命、って、なんだか映画になりそうな話ですね。
西ドイツ経済は「奇跡の復興」を遂げますが、ベルリンの壁によって「東」からの労働力流入が経たれたことが経済成長のネックとなり、イタリアやギリシアなどの南欧に、さらにはもっと安価な労働力を求めてトルコに「ガストアルバイター(ゲスト・ワーカー)」を求めることになりました。東ドイツも労働力不足に悩んでいましたが、こちらでもっと問題なのは生産性が上がらないことでした。共産党が指導する計画経済では、その解決がなぜか難しかったのです。美辞麗句のスローガンはたっぷりありましたが、過酷なノルマとセットで、東ドイツの労働者の労働意欲をかきたてるには不足だったようです。また、東ドイツが国家として国際社会から孤立気味であったことも経済成長を妨げた要因として大きいでしょう。
そして、中央計画経済の中で活動する東ドイツ国鉄(DR)もまた、苦闘することになります。たとえば貨物輸送。輸送手段の選択は許されていません。ノルマは厳しく設定されています。運賃は「経済」ではなくて「政治」で決定されました。ノルマ達成に必要な資金や資材の供給はほとんどありません。さらに、戦前の石炭供給源ルール地方は西ドイツに属したため、石炭も不足しています。……私がDRの責任者だったら、泣いちゃうかもね。
西ドイツ国鉄(DB)は1960年代に、電化・コンテナ輸送・コンピューターの導入など、近代化を進めました。ただこれは、斜陽化する鉄道の“逆襲"でした。高度成長でどんどん増える輸送量はほとんどがトラックに奪われていたのです。DBの赤字はどんどん増え、政府からは「合理化」の要求が……なんだか日本の国鉄と似ていますね。高度成長が続けば問題の先送りができたでしょうが、1973年に石油ショックが全世界を襲います。東西どちらも打撃を受けますが、DBは歯を食いしばってリニアモーターカーなどの技術開発を継続、大してDRは原油高に負けて石炭回帰を模索、といった違いを見せました。
西ベルリンのSバーンは東ドイツのDRが運行していました。つまりそこの従業員は「西ベルリンに住む東ドイツ国民」だったのです。DRだから安月給です。でも西ベルリンは物価高。病気の時にかかる医師も東ドイツから派遣された人に限定です。不満が募ります。設備老朽化に有効な手が打てない東ドイツは路線の縮小を計画。これは「社会主義国家では職場は安定している」という信頼感を裏切る行為です。1980年、ストライキが始まります。当局の対応は早く、すぐに運行が再開されましたが、そもそも東ドイツ国民がストライキ、が、驚天動地のできごとです。不採算部門を持てあましていた東ドイツDRは、西ベルリン市庁に引き取らせようとして複雑な交渉が行われ、84年に西ベルリンSバーンは「西のもの」になりました。
著者はこの「鉄道史上の小さなエピソード」に、5年後の「ベルリンの壁崩壊」の兆しを読み取ります。きわめて強固に見えた「冷戦構造」が崩れる最初の一声だったのではないか、と。
そしてDBとDRは1994年に統合されて「DB AG」になりました。
外から見ている人にはたった一行ですが、“中の人たち"にとっては、長い歴史と困難が含まれている大きな物語だったことでしょう。さらに「東西ドイツ」ではこういった物語は鉄道以外にもたくさんあるはず。日本がこんな分割統治をされなくて良かった、と思います……あ、沖縄はまだ分割されているか。