ボールペンや万年筆のインクや墨汁は、液体あるいは液状のコロイドです。それが紙に塗りつけられるとあっという間に固定されて、手や消しゴムで擦っても落ちなくなります(「消えるボールペン」は除きます)。この「紙面に固定される」過程で、分子レベルでは何がどう動いているんでしょう? 毎日目撃している現象ですが、さっきまで芯の中で液状だったものがあっという間に乾いてしまうことが、私は不思議でなりません。
【ただいま読書中】『古今伽姫草子集』士郎正宗 イラスト・文、 青心社、2009年、1980円(税別)
「風神雷神」「おむすびころり」「金太郎」「獅子舞」「浦島太郎」「かぐや姫」などの一シーンを、半裸の美少女を中心に描いてみました、という遊び心満載、というか、遊び心だけでできた本です。士郎正宗の漫画は、絵以外の蘊蓄の文字がやたらと多いことも特徴ですが、本書でもその“伝統”は保たれていて、絵の部分を浸食しそうなくらい文字が大量に紙面に置かれています。
しかし、半裸の美少女なんですが、エロいかと言えばちょっと微妙。私が気になったのは肌の質感で、妙にプラスチックのようなてかりがあって、美少女と言うよりは美少女型のロボットのようにも見えました。ま、見て読んで楽しければそれで良いんですけど。
「学歴無用論」という主張があります。しかし本当に社会に無用なのは、「学歴」ではなくて、「学歴盲信論者(学歴だけ見て人を見ようとしない人間たち)」の方ではないでしょうか。「学歴」は人の一つの属性に過ぎないのですから。その点で、学歴と言うだけで全否定するのもまた、やり過ぎと言えそうですが。
【ただいま読書中】『マスクごしに見たメジャー ──城島健司 大リーグ挑戦日記』会津康成 著、 繁昌良司 写真、 集英社、2006年、1200円(税別)
2006年城島選手は、大リーグ挑戦をしました。野茂選手が投手、イチロー選手が野手として“道”を切り開いたのと同様に、日本人捕手として初めての挑戦です。城島選手は「自分のため」だけではなくて「チームの勝利」と「自分の後に続く日本人選手」のことも考えながらマリナーズのキャンプに参加しました。
「野球」と「ベースボール」は全然違う、と言ったのは誰でしたっけ、城島選手もその違いに戸惑います。ただ、納得いくまで質問をする態度は、日本でルーキーだったときには「生意気だ」と評価されたのが、アメリカでは高評価される、という違いもありました。
マリナーズの投手陣は、最初は城島捕手のサインに首を振り続けます。日本では投球のサインには捕手に優先権がありますが、アメリカでは投手の方が“エライ”のです。それでも城島の、自己の感性を加えた日本式の配球が投手陣に少しずつ浸透していきます。さらにそれはマリナーズというチーム全体にも影響を与えていったようです。
アメリカ大リーグでは、捕手は負担が大きいので、1週間に1回は休日になるのが“常識”だそうです。ところが城島捕手は「休むことはストレス」なんだそうです。日本では全試合全イニング出場をやっていたので休むことになれていない。そこでストレス解消は、ウエイトトレーニングだそうです。
城島選手の打撃理論はシンプルです。「内角直球を窮屈に打ちに行く」心構えですべての球を待つ。これだと、外角球には手を伸ばすだけで対応できます。そして直球を窮屈に引きつけて待っていたら、変化球にも対応できる、のだそうです。なんだか、わかったようなわからないような。でも、結果がそれで出ているのだから良いのでしょう。
本書は城島選手の大リーグ挑戦の1年目をほぼリアルタイムで追い続けたものです。「ここまでいろんなことを考えながらプレイをしているのか」と捕手の仕事の大変さはいくらかわかりました。たぶん彼はその大変さのすべてを言葉にはしていないから、よくわかった、とは言えませんが。
日本では「運命の人」とは「手の小指」同士が目に見えない赤い糸で結ばれている、となっています。“本家”の中国では足首なんですが、ともかく、もし「赤い糸を見ることができる人」が人間社会を見たら、糸同士がこんぐらがってとんでもなく複雑な模様に見えるでしょうね。
ところで、もともとの話では「2人は糸で最初からつながれている」わけですが、これを「出会ってから結ぶ」とできたら、もうちょっと現実社会と様相が近くなりません? 離れる場合も、しっかり結んだつもりだったけれど解けてしまった、なんて説明ができますから。
【ただいま読書中】『ようこそ、認知症カフェへ ──未来を作る地域包括ケアのかたち』武地一 著、 ミネルヴァ書房、2017年、1800円(税別)
認知症の人は「自分が認知症になったのかもしれない」という怯えとともに「社会からの偏見に晒される」怯えも抱いています。家族への思いも複雑です。それと同様に、家族もまた、認知症になった人と社会の板挟みになります。そういった「本人」と「家族」に対する「社会の中での居場所」としての一つの形が「認知症カフェ」です。だからカフェの運営者には、本人と家族双方への目配りが必要です。
カフェにやって来た家族の中には、貯まりに貯まった鬱屈を一挙に晴らそうとするかのように矢継ぎ早に言葉にして吐き出す人がいます。それは「認知症を受け入れるための過程」の一つではあるのですが、それを聞いた本人は傷つきます(認知症を持った人も、普通の感情はあります)。では、本人には聞こえないところでスタッフが家族から話を聞こうとすると「こっそり悪口を言っているのではないか」と本人は不安を感じます。そこをどうやって上手くさばくか、がスタッフの腕の見せ所になります。
カフェでは本人は家庭では見せないのびのびした姿を見せて家族が驚くことがあるそうです。どうして家庭ではあんな風に振る舞えないのか?という気づきで家族が変容すると、「家庭」が変わることもあります(そのためには家族の負担と負担感を軽減する必要があるのですが)。
上手く機能するカフェのスタッフには「数が多いが、専門職は少数で、ほとんどは学生・市民のボランティア」という特徴があります。すると「ボランティアの育成」もカフェとして重要な仕事ということになります。もっともこれは「認知症カフェ」に限った話ではないでしょうが。
認知症カフェで交わされる会話は「本人同士」「本人と家族」「家族同士」「ごちゃごちゃ」といろんなパターンがあり得ます。そのそれぞれについてスタッフは違った心構えと態度で参加・介入する(あるいは介入しない)ことが求められます。これは大変です。だから「スタッフ同士」の会話が重要となります。ところがこれが時にけんか腰になってしまうこともあるそうで、それをどう収めるかはリーダー格のお仕事になりそうです。
「地域の中にオアシスを作るのか、地域の緑化活動をするのか」という非常に印象的な言葉が本書にはあります。また「スタッフの心得」も「これも知ってもらいたい、これも大切」と実に盛りだくさんに書いてありますが、スタッフになりたい人はこれを全部暗記するのではなくて、通読はするにしても実際に認知症の人と接してみてその上で自分の対応のどこに問題があるかを知って修正していく方が良いのではないか、と私は思いました。
まだ「認知症カフェ」自体の数はあまりないようですが、その内に各地に開かれるかもしれません。その時私は、ボランティアとしてか、あるいは認知症の当事者としてか、どちらで参加することになるのかな?
今年の高校野球では、最初は清宮選手が“全国区”の人気でしたが、甲子園では広陵高校の中村選手がぐんぐん知名度を上げました。で、2人とも高校選抜の「侍U18」に選ばれていて、今年のドラフトの目玉なんだそうです。だけど、優秀なら優秀なだけ、すぐに大リーグに取られちゃうんじゃないです? もっと日本野球で息長く活躍するのは、大器晩成型の選手かもしれません。
【ただいま読書中】『真説ラスプーチン(上)』エドワード・ラジンスキー 著、 沼野充義・望月哲男 訳、 日本放送出版協会、2004年、2400円(税別)
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ラスプーチンに実際にあったことがある人の証言は、たとえば「外見」という単純なものに対してさえ、ひどく矛盾したものが集まります。著者は「謎」としてラスプーチンを扱います。
ラスプーチンが殺されたあと事件を調査した「第13部門」は膨大な証言記録を残しました。それは、ロシア革命のどさくさで失われていましたが、著者は粘り強く調査を続け、とうとうそれと遭遇します。事件後「ラスプーチンの敵」の証言は多く残されましたが、ラスプーチンを愛し崇拝した人たちは革命でほとんどが殺されていました。その「失われた証言」を著者は見つけたのです(取調官の別の筆跡記録から、ファイルが本物であることを著者は確認しています)。つまり、崇拝者たちが見ていた「ラスプーチンの“真実”の姿」がそこにあります。さらに暗殺直後に作成されたラスプーチンの財産目録も著者はシベリアの公文書館で見つけました。それらから描き出す「ラスプーチンの姿」が真実であるかどうかの保証はありません。しかし、これまでのものよりは公正なものになるだろう、と期待しつつ著者は執筆を始めました。
シベリアの貧しい農家に生まれ、無学文盲で村で悪さばかりして育ったグレゴリー・ラスプーチンに、28歳の頃「転機」が訪れたようです。放蕩をやめ、聖地巡礼を始めたのです。当時のロシアのキリスト教は、異端や異教が混入し、我が身を鞭打ったり去勢したり乱交したりが流行していました。そういった中でラスプーチンはカリスマ性を発揮し、熱狂的な“信者(主に女性)”を獲得し、33歳で首都ペテルブルクに進出。本人は「ぶらっと行ったら主教が会ってくれた」なんて言ってますが、実際には地方の有力者からの紹介状がものをいってまんまと上流階級に取り入ることに成功したようです。当時はロマノフ王朝がもう少しで300年になろうとする時期で、社会的には不安がはびこっていました。皇室も不安をかかげ「(理想的な)大衆から成る“聖なるロシア”」の幻想にしがみつこうとしていました。「革命」が囁かれ、1905年に皇帝は憲法に署名します。300年の専制の崩壊です。そこにペテルブルクで「聖者」として人気者となったラスプーチンが近づき、まず皇后を容易に籠絡、そして次には皇帝までも影響下に置いてしまいました。
ラスプーチンは、言うことは実は支離滅裂でした。しかし信奉者は「彼の言葉そのもの」ではなくて「彼が言いたかったであろう事」を信じ、書き留めました。
ロシア文学の長篇はとにかく大量に人名が(それも長々しいものばかりが)登場して覚えるのが大変でしたが、本書もとにかく“関係者”が多すぎて誰が誰やら状態に私はなってしまいました。さてさて、まだ下巻があるのですが、それはいつ読もうかな?
「南海トラフ地震、事前避難案…「前震」発生で」(讀賣新聞)
「予知」はあきらめるけれど、「前震」が起きた場合には「事前避難」を促すんだそうです。
だけど「その地震」が「前震」かどうかはどうやって判定するんです? 本震が起きるからやっと「前」だってわかるんでしょ?(それともこれまでに大きな地震が起きたとき(「余震」ではなくて)「これは前震でこれから本震が起きるから注意」と言っていたことがありましたっけ? 結局「本震の予知」が「前震の確定」に「科学」の話はすり替わっただけなのですが、政治的には政府は「予知」で責任を負うのではなくて、住民の「自己責任」に話をすり替えようとしていません? これは前にも書いたことがあるかもしれませんが、「減災」や「地震後の救済」についてもっと予算をつけた方が良いのではないかなあ。「地震は起きる、だけど地震が起きること自体には人は無力だ。」を前提とし、「被害は生じる、だけどその被害を少しでも小さくしよう」と覚悟する態度です。
【ただいま読書中】『諏訪湖底の狩人たち 曽根遺跡』三上徹也 著、 新泉社、2016年、1600円(税別)
諏訪湖底の曽根遺跡(1万年以上前の縄文遺跡)からは、近くからは産出しない黒曜石などから作られた石鏃(せきぞく:石のやじり)がたくさん出土しました。本書は、その石鏃を駆使したであろう縄文時代の「狩人」と、その石鏃と湖底の遺跡の魅力に取り憑かれて学問の世界で活動した「狩人」についての物語です。
明治時代、小学校の代用教員だった橋本福松(写真で見るとけっこうな二枚目)は、独力で諏訪湖の湖底調査を行い、湖底でそこだけ泥がない「曽根」をシジミ採りの道具でさらい、黒曜石や燧石を発見しました。報告を聞いた東京帝国大学理科大学の坪井正五郎教授は興奮し、早速現地調査を始め、多数の石鏃や土器のかけらなどを発見しました。坪井は「杭上生活(杭を湖底に立て、その上に住居を作って生活をする)」仮説を立てます。湖底に住むことは確かにできませんからねえ。しかし東京帝国大学地質学教室の神保小虎教授は、「そんな長い杭を打ち込めるのか」「冬は氷結するぞ」と水上生活説に疑問を持ち、やはり現地調査をして地滑りの跡を見つけ、「陥没説(地表にあった遺跡が陥没で湖底に沈んだ)」を唱えました。
坪井説には無理があるように思えますが、当時は欧米列強と伍するために「日本人の祖先は単なる野蛮人ではない」と主張する“必要”が学問の世界にもあって、結構背伸びしたり肩肘を張ったりの態度で仮説を立てていたようです。
曽根遺跡に取り憑かれた人の中には、大量に収集した石鏃をきれいにボール紙の台紙に張り付け「諏訪みやげ」として売り出した人もいました。写真がありますが、たしかにきれいで、私も一つ欲しくなります。だけど「貴重な出土品」ですよねえ。
第二次世界大戦によって諏訪は一時忘れられていましたが、1947年、15歳の中学生4人が湖底調査を始めました。やがて彼らは高校生になり、潜水眼鏡で盛んに潜水調査をします。そして「根がついた木片」を発見。これはつまり、曽根遺跡がかつては「陸上」にあったことを意味します。この成果などにより、考古学的な本格的な調査が行われ、曽根遺跡は活断層で沈降したと結論が出されました(そういえば琵琶湖西岸の湖底遺跡もたしか活断層での水没でしたよね)。
遺跡での遺物の分布は不均等ですが、明治の先達の調査でも記録はけっこう綿密に残されていて、遺跡の全貌を精密に描写することが可能でした。それによって、曽根遺跡では、3万5000年くらい前から人が住んでいたことがわかりました。時代によって石器は少しずつスタイルを変えていきます。ノミ、ナイフ、槍の穂先、投げ槍の穂先、と人が使うものが変わっていったことも石器からわかります。石鏃では、非対称系のものもたくさん出土しています。片脚が壊れて落ちたものもありますが、最初から明らかに“その形”をねらって製造されたものもあります。今のところその意味はわかっていません。石器だけを持って原始生活をやってみて実際に使用してみたらその用途がわかるのかもしれません。矢を作るには矢柄が必要ですが、それは湖畔の葦が使えます。鳥の羽は……水鳥がそのへんに。おやおや、弓矢での狩猟に、曽根は最適のポジションだったようです。そして矢の製作に適した石器を縄文人は製作し、作れば作るほどその腕は上がっていった様子が見て取れます。
縄文時代には海面は現在より相当下がっていたので、「海岸の遺跡」は今は海底にあるはずです。それも調査できたら、「縄文時代の日本」について今よりもっといろんなことがわかるでしょう。それがいつのことか、楽しみです。
最近時々空に刷毛で掃いたような雲がかかっていることがあります。カンカンに温められた地上からの上昇気流とは別に、高空では横向きの気流がちゃんと吹いていて秋の雲の準備をしているんだな、と私は思っています。単に暑さから逃避して、早く秋が来て欲しいと思い詰めているだけなのかもしれませんが。
【ただいま読書中】『水先案内人 ──瀬戸内海の船を守るものたち』森隆行 著、 晃洋書房、2017年、2000円(税別)
水先案内人(水先人、パイロット、シーパイロット)の仕事は、あまり世間に知られていません。著者は海運会社に30年奉職していましたが、それでも水先案内人について詳しいことを知りませんでした。そこで、この職業について社会に認知してもらおうと本書を執筆したそうです。
本書で扱われるのは「内海水先区(=瀬戸内海)」。島が多く海峡は狭く潮流は複雑で時々刻々変化するという難しい海です。特に来島海峡は、それでなくても狭い難所なのですが、潮の流れによって「船は右側通行」という基本ルールが変化する、という世界でここだけの複雑な航路です。船長はパイロットに「命を預ける」覚悟で操船をゆだねますが、かつては村上水軍に案内を頼む船長たちがいたのではないか、と著者は過去のことを思っています。
案内をする船に乗り組む水先人と一緒に、読者は船に乗せられます。おっと、この「船に乗る」「船から降りる」のも実は大変なのです。港からだったら問題はありませんが、航行中の船に乗ったり降りたりする場合、大きな船と小さなパイロットボートの進路と速度を合わせ、舷側のパイロットラダー(縄ばしご)を使いますが、その時落ちて二つの船の間に挟まれての死亡事故があるそうです。職場に行くだけで死亡事故覚悟とは、大変な職業です。
まず紹介されるのは、まだ数少ない女性パイロット。海技大学校水先養成コース第一期生の若いパイロットです。次は、フェリーの船長を定年退職後にパイロットになった転身組の男性。乗船から下船まで立ちっぱなしで集中力を保ち続ける仕事ですが、10時間までは「1人乗務」なんだそうです。それで神経をすり減らして、やっと解放されたら、降りる(船から船に飛び移る)ときに事故が起きやすいのもわかる気がします。瀬戸内海を常にカバーできるように彼らは交代で門司で待機するため、自宅とは別に門司にアパートを借りている人がほとんどだそうです。「待機」を命じる側が宿舎を確保したりはしないんですね。不思議です。
外国航路の船乗りには「いつかは水先人」という言葉があったそうです。上り詰めて外国航路の船長に。そしてそれを3年以上経験したら水先人になれる、という憧れの言葉だそうです。現在は養成コースからもなれるようになりましたが、この業界は人手不足に悩んでいます。その原因の一つは「日本人船員の減少」。便宜置籍船が増えて外国人船員が増え、1974年に5万7000人いた外国航路の日本人船員は、2015年には2200人に減少しているのです。しかも水先人の仕事は、責任は重く体力的にきつく、でもびっくりするような高収入があるわけではない。それは、若者には人気は出ませんよねえ。だけど、統計的には、パイロットが乗った船の事故率は1/10くらいになるので、とっても重要なお仕事なんですけど。
日本には35の水先区があります。その中で内海水先区は瀬戸内海の航行があるため業務時間が他の区よりも長くなります。だから敬遠される傾向があるのですが、逆に「少しでも長く船に乗っていたい」と言う人には人気の区となっているそうです。そのためか内海水先区では若い人、それも女性が増えています。すると次の問題は、子育てがやりやすい職場環境が作れるかどうか。幹部はいろいろ知恵を絞っています。
水先人の仕事は「水先法」という法律で規定され、資格は国家資格です。正式名称は「水先人(英語ではパイロット)」。ほとんどは港やその周辺の水域で、船舶の安全な出入りに寄与しています。外洋だったら船長がいろいろ判断しますが、細かいところでは“その土地(水域)のプロ”に任せた方が安心・安全ということです。水先人は法的には個人事業主で、立場は「船長への助言者」です。だから自分で操船はしません。方向や速度を細かく指示するとそれを船長が操舵手や機関手に命令する形で船は進んでいき(あるいは後進し)ます。水先人の免許は、現在1級〜3級に分かれていて、それぞれ乗ることができる船舶の大きさが規定されています。定年は72歳未満ですが、体力がなくなると業務が無理になるので、皆それぞれ体力トレーニングは欠かさないそうです。「七つ道具の内容」とか「なぜ帽子をかぶっているのか」とかのトリビアも興味深く、自分が知らない魅力的な世界についていろいろ知識を得ることができました。ただ、どんな職業も“外側”の人間からは「自分が知らない世界」であるわけで、こういった本はいろんな職業についてもっと出版されても良いのではないか、と思います。
昭和の頃の飲み会は「とりあえず、ビール」で始まるのがお約束でした。あまりにそのお約束が強かったため、商品名で「とりあえずビール」というのを売り出したらどうか、なんてふざけたことを思いついたのは、たぶん私だけではないはずです。
【ただいま読書中】『キリンビール高知支店の奇跡 ──勝利の法則は現場で拾え!』田村潤 著、 講談社(+α新書)、2016年、780円(税別)
かつて「ビールはキリン」でした。ビールのシェア60%がキリンだったのです。しかし1987年にアサヒがスーパードライを発売、それまでの殿様商売にあぐらをかいていたキリンは苦戦が始まり、2001年にはアサヒがシェアでトップを取ります。そういった“逆風”が始まった頃、全国でも最苦戦地区だった高知県に、著者は支店長として赴任しました(左遷されました)。
本社はあせっていろんな“ノルマ”を地方に課します。しかし、本社の方ばかり向いて仕事をしていると、地域の人に見放されます。だから著者は「責任は俺が取る」と本社の指示を無視するよう営業マンに指示します。さらに本社は、主力商品であるラガービールの味を変える、という失敗をしました(そういえばコカコーラも、ペプシとの「コーラ戦争」で劣勢になったとき伝統の味を変える、という大失敗をしました。考えることはどこも同じようです)。それでも著者は、営業マンが体を壊すまで徹底的に現場を回ることを指示します。さらに「高知県だけのコマーシャル」を始めます。それまでキリンでは前例がない試みだったため、相当抵抗があったようですが。さらに著者は全国支店長会議で「ラガーの味を元に戻せ」と要求。誰も味方が現れず(会議の後で「良く言った」と言う人はいたのですが)著者は肩身が狭い思いをし、それどころが支店長会議そのものがなくなってしまったそうです。それでも「現場の声」は社長に届き、とうとう社長が(重役会議への根回し抜きで)「味を元に戻す」とマスコミに発表。著者は大喜びで高知新聞の取材に「高知の皆様のおかげで、味が元に戻りました」と。
著者は「コミュニケーション」を重視しています。本社が間違った決定をするのは、現場の情報が不足しているから、だったら現場の情報を自分が本社に届ければいい、という考え方をしています。同じ情報を持てば同じ決定にたどり着くはずですから。
営業マンの動きも違ってきていました。著者赴任当時には月間30〜50軒の店に営業活動をしていたのが、400軒くらい回るようになっていたのです。営業マンもコミュニケーション重視で動くようになりましたが、そこで著者が面白く思ったのは「質問」をしていることでした。たとえば「どうしたらキリンをお客さんにもっと飲んでもらえるでしょうか」と料飲店の主人に尋ねているのです。頼られたら悪い気はしませんし、それで思いついたことを言ってそれがキリンに採用されたらもっと気持ちが良くなります。
四国三県ではキリンはアサヒに負け続けていましたが、それまで最下位だった高知では異常に勝つ、という不思議な現象が起きました。2001年に高知では、キリンがアサヒからシェアトップを奪い返しました。しかしその時、全国ではキリンがトップから陥落していたのでした。
ともかく、全社レベルで最下位の高知県が「V字回復」をしたわけで、本社としてもそこから「教訓」を得ようとします。しかし目に見える実際にやっていることは愚直な営業回りだけ。ただ「営業回り」は手段であって目的ではありません。大切なのは「高知のお客さまのために」という思いを全員が持っていることだそうです。
著者は2001年に四国地区本部長となり、高知の手法を四国全県でも行おうとしましたが、各県の県民性は違うし、各県同士が仲が良いとも言えません。そこで著者は「理念」「ビジョン」「行動スタイル」は高知のものを使うが、戦略・戦術は現場で考え現場で実行することとしました。そこで著者も「現場」に足繁く通います。「指示」のためではなくて「支援」のために。その結果、4県からそれぞれ異なる戦略が提案されることになりました(それまでのキリンのトップダウン方式とはずいぶん違いますが、トップダウンでじり貧だったからこそ別の手が試せたわけです)。
次は東海地区本部。ここでは「不振をどうするか」の会議がやたらと開催されていました。著者には「時間の無駄」「形式主義」「現場から目をそらしているだけ」に見える態度です。そこで著者は「会議禁止令」を出します。さらに料飲店部門に「すべての店にキリンを入れろ。ただし金は使うな」という明快な命令も。「どうやって?」と聞くと「それは自分で考えろ」ですから現場はたまりませんが、窮すれば通ずでいろいろ皆で工夫をするようになったそうです。
2007年著者は本社の営業本部長になります。これまで「本社の言うことは聞くな」と言っていたのがこんどは「本社の言うことを聞け」と言う立場になったわけ。「えらくなる」というのは、人を時にとっても難しい立場に追い込んでしまいます。ただ「(キリンのため、あるいは自分の成績のために)キリンを置いて下さい。100ケース買ってくれたらおまけもついてきます」とか言うのではなくて「この店の売り上げを増やすために、キリンをこんな風に置いて下さい」と提案する方がよほど効く、というのは、たしかに効果的だろうな、とは思えます。
本書には著者の個性が充満しています。どうやらとっても“熱い”人のようですが、この人がいなくなった後、キリンがどうなるのか、そこにも私は興味を持ってしまいました。
しかし、私は不思議な思いがします。「美味いから売れる」はわかります。しかし「イメージ」や「コミュニケーション」で売れる、となると、「ビールの味」って何だろう?とも思うんですよね。
「何だったっけなあ。思い出せない」で悩めるうちは、まだ大丈夫です。もっと深刻なのは「忘れたことさえ忘れてしまった状態」でしょう。でも、「忘れてしまった」で悩まずにすむだけ、そちらの方が本人は幸福かもしれません。
【ただいま読書中】『東海道四谷怪談』金原瑞人 著、 佐竹美保 絵、岩崎書店、2016年、1500円(税別)
私にとって「金原瑞人」は「優れた児童文学を片っ端から翻訳してくれるありがたい人」なのですが、今回は「訳者」ではなくて「著者」です。
普段はコミカルなものばかりやっている高校の演劇部が、「とってもこわい怪談」をシリアスにやろうということになりました。ところが脚本の候補となった東海道四谷怪談が、DVDによって全然話が違うし、歌舞伎を観るのも困難だし、原作を読んでも原文どころか注釈さえ理解できません。そこで文芸部にヘルプを頼みます。文芸部の面々はざっと原作を読んで、「こんなに陰惨で救いがない話が、なんでこんなに人気を保っているんだろう」と不思議に思い、その脚色に乗り気になります。さて、文芸部がまとめた「東海道四谷怪談」のあらすじは……
まず取り上げられるのは「忠臣蔵」です。実名を使うと幕府に対して差し障りがあるから、赤穂の殿様は「塩治判官(えんやはんがん)」、殿中で切りつけられたのは「高師直」と仮名を使ってのお芝居です。で、赤穂の浪人として民谷伊右衛門が登場。つまり「東海道四谷怪談」は「忠臣蔵」の“サイドストーリー”としての位置づけのお芝居だったのです。
美男美女の浪人夫妻として長屋で目立っていた伊右衛門とお岩ですが、その周囲では殺伐たる動きが。お岩の父は伊右衛門に殺され、お岩の妹お袖の許嫁はお袖に横恋慕した悪党に殺され、伊右衛門に横恋慕して寝付いてしまったお梅は高師直の家臣の孫娘でお梅の父は「お岩を化け物にしたら伊右衛門は離縁して我が家に入り婿になってくれるに違いない」と思い詰めてお岩に一服盛ってしまいます。このお芝居には「善人」というものは存在しないんですか? 伊右衛門の家の押し入れに猿ぐつわをはめられ縛り上げられて閉じ込められている小僧の小平も、伊右衛門の貴重な薬を盗んで捕まっているし、その刀でお岩は“事故死”をしてしまうのです。さらにさらにお袖は、殺された許嫁の仇を討ってもらうために赤穂の浪人直助に身を任せますが,実は直助とお袖は……
いやもう、誰が誰とどんな関係になっていて、誰が誰を殺したのか殺されたのか殺されていないのか、わけがわからなくなってしまいます。昔の人は舞台でこれを観ていて、一発でストーリーを理解できたんでしょうか?
怨霊が手下として使うのは、ネズミと蛇です。ネズミなんか、猫を食い殺してしまいます。ところがこの劇のラストシーンでは、ネズミの群れが重要な“出演者”になるのですが、高校演劇でそれをどう表現するか、脚本担当者は頭を抱えます。
「東海道四谷怪談がどのような物語なのか」を説明するために、一冊本を書いてしまう、というのは、大変な作業だったでしょう。「実物を観てくれ」でおしまいにする方が楽なはず。だけど、本書を読んだら、ある程度は「東海道四谷怪談」の魅力の一部がわかるだろうし、それで興味を持ったら原作やあるいはそこから派生した様々なドラマに当たってみると楽しいでしょう。
ところで「四谷」は「東海道」にはありませんよね。ではなぜ「東海道四谷」なんでしょう?
原油流出事故や原発事故では、「金の亡者(金のためなら安全は二の次、と考える人々)」が引き起こし、他人のために身銭を切るボランティアが後始末に走り回る、という「金への指向の非対称」が顕著です。
【ただいま読書中】『海が死んだ日』オットー・シュタイガー 著、 高柳英子 訳、 堀越千秋 絵、リブリオ出版、1992年、1854円(税別)
1970年代のブルターニュは、ゆるやかに衰退の道をたどっていました。若者は次々出ていき、地域の活力は停滞しています。まず、そういった地域での人々の生活が、丹念に描かれます。
村にアメリカの巨大石油会社が、巨大な石油基地建設計画を持ち込みます。広大な土地を持ち建設業者でもある村長は飛びつきます。他の地主も飛びつきます。例外は、一人だけ。妻の死後も朽ちかけたホテルにしがみつき、3人の子供のうち2人はパリに出て行って、残った1人ももうじき出ていくのは確実なジュール。彼は200万フランの提示をあっさり断ります。村長と村人はジュールを敵視します。わけのわからない個人的な利益にしがみついて、村全体が潤う話を妨害している人間だと。そしてジュールは“村八分”となってしまいます。
村の中には、人間の感情が“嵐”となって吹き荒れますが、海には本当の嵐が。そして、村の2キロ沖合では巨大タンカーが座礁。20万トンの原油が海を覆います。人々は絶望にうちひしがれ、無言で海岸の砂丘に並んで、死んでいく海を見つめます。誰かが言います。「なにかやるべきだ」。別の者が応じます。「そうだ、だがなにを?」。
干潮の間に人々は浜辺から手作業で油にまみれた重い砂を手作業で運び出します。「自分たちの海岸」を守るために。満潮と分厚い原油の層が押し寄せて、人々の努力を台無しにします。油まみれとなった海鳥は次々死んでいきます。原油に縛られたようにじっとしていて、次の瞬間すっと海の中に沈んでいくのです。人々は海鳥を獣医のところに運び洗浄をします。鳥は助かります。飛沫と共に飛び散った原油の小さな粒は内陸部まで汚染し、汚染された牧草を食べた牛たちは下痢に苦しみます。
政府はいろいろ喋りまくり約束を乱発します。しかしタンカーからは原油が流出し続け、海岸では「手作業」が延々と続いています。泥をバケツでくみ上げ、ポンプで集め、タンクローリーで運び出します。口をきく元気が残っている人は、事態を呪い、「戦争中もひどかった。しかし、これほどじゃあなかった」と言います。
しかし、パンドラの箱のように、絶望の中にも最後に「希望(の芽)」があったのです。
「原油に襲われた村」は、実は一つの「例」です。原油ではない別のものに襲われた別の村や町や市や国や文明があちこちにあるはず。そういった場所(「自分たちの海岸」ではないところ)でどんなドラマが展開しているのか、もっと想像力を持って世界を見なければならない、という気分にさせられる本です。
野球でたとえばノーアウト満塁になったら解説者が「さあ、ここで踏ん張って一点もやらないようにしなければなりません」などと言うことがあります。だけど、「極端なピンチで踏ん張る」ことが本当にできるのなら、ピンチになるその前に踏ん張って「ピンチにならないようにする」方が良いのではないです?
【ただいま読書中】『生きる職場 ──小さなエビ工場の人を縛らない働き方』武藤北斗 著、 イーストプレス、2017年、1500円(税別)
著者の小さな工場には変わった「ルール」があります。一つは「フリースケジュール」。好きな日の好きな時刻に出勤して好きな時刻に退勤。休むときの連絡は不要(というか、禁止)。もう一つは「嫌いな作業はやらなくてよい(のちに「やってはいけない」)」。えびの殻剥きは好きだが計量が嫌いな人に、計量作業が強制されることはない。
なんとも“非常識”な経営方針ですが、その結果は……「人がやめなくなった」。その結果、求人広告などのコストが不要になり、採用面接の時間が不要となり、新人を育てる手間も不要に。さらにパートの人たちはどんどん熟練作業員となって、同じ作業量に対して作業時間が短縮されることになり、パートの人数は減っても売上は同じ(そのため人件費は削減できている)。
……なんともびっくりの「好循環」です。
面白いのは、「満足して働く」ようになると、派閥がなくなったことで、これも「人がやめなくなった」ことに貢献しているそうです。逆に言えば「人が長く居着かない職場」には「人をやめさせている人」が“君臨”しているのかもしれません。
「フリースケジュール」は、はじめは「出勤する日が自由」で「勤務時間はフリーではない」制度で始まりました。しかし著者はある日「なぜ時間もフリーにできないのだろう?」と気づきます。そのとき著者が一番心配したのは「自分の感情」でした。工場長である自分が、“重役出勤”してくるパートさんに対して「なんだよ、こんな時間に出勤してきて」という負の感情を持ってしまうのではないか、と。ところが実際にやってみたら、全然そんなことはなかったそうです。
パートの人にとってもありがたい制度です。ほとんどの人は子育て中で、子供の行事や急病などで休みたいときに休めたり遅刻や早退が自由にできるのは本当にありがたい。
もちろん工場は契約に縛られていて一定量の“生産”をしなければなりません。そこで著者ともう一人の社員はそれぞれの“定時”に出勤します。工場の始業体制が整うのは8時半。そして、あとは“パート待ち”。ばらばらと出勤してきたパートさんの顔ぶれと人数に従って、社員がその日の作業の内容や量を調節していきます。お昼休みは45分ありますが、取る権利と取らない自由があります。たとえば11時に出勤した人がそのまま仕事をして14時に帰る、なんてことも。終業は17時。工場は消灯し、社員が残務を行って帰宅するのは18時頃。
これで「仕事」になるのか、と言えば、なるのだから不思議です。著者ははじめは「今日は何人パートさんが出てくるかな」と予想しながら仕事の段取りをしていましたが、今は「予想」そのものをやめたそうです。たとえ誰も出てこなくても、社員と二人で9時から仕事を始めればいいや、と思っているそうです。しかし、実際には台風のさなかでもゴールデンウイークの中間のたった一日の平日でも、パートさんは数人でも出てきてくれるそうです。これまでの4年間で「パート出勤ゼロ」はたった1日だけ。その日には「滅多にない休日」として製造はせず、著者は発送や事務仕事に専念したそうです(本当は「全員欠勤」よりも「全員出勤」の方が著者は困るそうです。エビの解凍が間に合わなくなりますから)。
著者はかつては「現場を知らずに口だけ細かく挟むがちがちの管理型」だったのだそうです。ところが“転機”が「東日本大震災」という形で訪れました。津波に襲われ、著者一家は石巻から大阪に避難します。そしてそこで会社再建を始めますが、「被災指定地」以外での会社再建に国からの補助はゼロで(被災指定地で水産加工業なら7/8は補助がもらえるそうです)、著者は二重債務を背負うことになります。石巻での再建をあきらめた理由は、原発事故。そのことに対して、「石巻から逃げた」などと悪意むき出しで非難する人が多かったそうです。
ともかく再建を始め、しかしそれが頓挫しそうになり、慌ててパート全員とじっくり面談をして著者は衝撃を受けます。「自分がパートさんから信頼されていない」「パートさんが誰も会社を愛していない」事実を突きつけられたからです。清水の舞台から飛び降りる覚悟だったのでしょうか、著者は「フリースケジュール」を開始してしまいます。
「だけど」と著者は尋ねます。日本の中小企業で、経営者の親族は「フリースケジュール」で動いていませんか?と。親族がそれで動けるのなら、従業員だってできるでしょう?と。
「フリースケジュール」「嫌いな作業はやらなくてよい」というルールは「手段」に過ぎません。「目的」は「働きやすい職場」。だから。別の手段で「目的」を達成できる会社は別の手段を採用すれば良い(「フリースケジュール」などを形式的に採用してそれで満足してはいけない)、と著者は言っています。ま、それは当然ですね。一般論で言うなら、どんな「ルール」も「手段」に過ぎないのですから。
そうそう、「嫌いな作業はしてはいけない」ルールに関して「嫌いなことから逃げていたら成長しない」と批判する人がいるそうです。著者はきょとんとします。「えびのから剥き」や「掃除」が嫌いなパートさんにそれを強制して、「人として成長させる」べきなの?と。ついでですが「やってはいけない」と言われると、なぜかやりたくなる人がけっこういるそうです。
根拠なく「世の中はこうやって動いているもの」と信じている様々な社会的な「ルール」に対して、ささやかな「異議申し立て」が並んだ本です。非常に示唆に富んだ指摘が充満しています。日本中の会社が「フリースケジュール」になる必要はありませんが、「働きやすい職場」が満ちた国にはなって欲しいものだと思います。