【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

意図

2013-04-30 06:19:14 | Weblog

 人を傷つけてもかまわない、と意図的に行動する人間は、その「人」の対象に自分自身も含めるべき、というか、まず自分を最優先候補にした方が良いのではないでしょうか。

【ただいま読書中】『SS戦車隊(上)』ヴィル・フェイ 著、 梅本弘 訳、 1994年(2003年4刷)、2900円(税別)

 1943年第3次ハリコフ戦から話は始まります。まず登場するのはティーガーに乗る5人の男、というか、少年たち。砲手は19歳、無線手は18歳、装填手は17歳……最年長で歴戦の勇士(歩兵でもらえる勲章はすべて授与されている)戦車長でさえ23歳です。そういった若者たちが乗った戦車軍団は、ソ連軍の戦車や対戦車砲の部隊や地上攻撃機と血みどろの戦いを延々と続けることになります。
 戦車隊は命令に従って、目的も戦況も知らず名前も知らない村に攻撃をかけます。敵を発見できなければ、近づいて撃たれることで発見します。当然犠牲も多く出ます。そして、幸い生き延びたら、燃料を補給、オイルを交換、キャタピラを調整、換気装置の手入れ……することはいくらでもあります。
 戦車兵が寝るのは戦車の下です。地面を少し掘って塹壕として、戦車そのものを弾よけとして使うわけ。非常時には最短時間で出動できるし、頑丈な鉄の塊だから安心感があります。もっともそこには1トンの弾薬が搭載されているのですが……
 戦場の地名は「ハリコフ」から「クルスク」に変わりますが、戦車兵がやることは同じです。偵察し、突っ込み、撃ち、撃たれる。ちょっと意外だったのが、覗視孔に防弾ガラスがはめ込まれていることです。えっと、第二次大戦中の日本の戦車、防弾ガラスが使われていましたっけ? というか「防弾」という概念が日本軍にありましたっけ? また、ひどく破壊された戦車でも牽引して脱出して修理してまた使います。修理工場というか部隊も同行していたわけです。
 歩兵から見たら戦車は「恐怖の具現」そのものです。いくら手持ちの武器で攻撃してもびくともせずに、逃げたとしても向こうの方が速度が速い。助けてくれ~と言いたくなるでしょう。ところが戦車兵の方にも恐怖がありました。限られた視野の中、「でかい的」として戦場の中をうろうろしなくてはならないのです。しかも“上”からは「あっさり敵を一掃しろ」という過剰な期待をされています。だからついつい無理をしがち(させられがち)ですが、致命的な一撃をくらったら、戦車はそのまま棺桶に早変わりです。
 何人の戦車兵が登場して自身の体験を語ってくれたでしょうか。私は途中で数えるのをやめました。どれも同じようで、どれも違う悲惨な体験の集積は、通読するだけで「生々しい戦場のイメージ」が読者の内部に形成されます。「戦争」を個人レベルで知りたい人、個人レベルを超えた“大きな”イメージを得たい人、どちらにもお薦めの本です。



政治と経済のミスマッチ

2013-04-28 22:44:02 | Weblog

 江戸時代中期以降、幕府や各大名は「借金」に苦しんでいました。貨幣経済がどんどん進んでいたのに、政治の方は「米」を「貨幣」とする経済体制で動いていたことがその主な原因と言って良いでしょう。「予算決算」の概念もなく、収入はお天気次第で、でも支出は際限なく増えるのですから「借金」は当然の結果とは言えます。要は「政治」が「経済の変化」に対応できていなかったわけです。
 20世紀末から、各国政府は「財政赤字」で苦しんでいます。これは「グローバル経済」と「国ごとの財政」とのミスマッチが一因、と言っても良いでしょう。これまた「政治」が「経済の変化」に対応できていない、と言って良いと私は考えています。「個別の国の実体経済」に「貿易黒字(赤字)」だけを加えて考える19世紀型の経済感覚では、複雑な多国間の貿易と秒単位で動く為替市場と世界規模の金融市場に対応するのは無理なのです(というか、19世紀末にすでに「大英帝国」では「19世紀型の経済」は破綻していました。だから「帝国」が没落して、東洋の小国と「同盟」を結ぶ必要が生じたわけです)。
 もし私のこの想像が当たっているのなら、「輪転機を回してじゃんじゃんお札を刷ればいい」なんて言うのをやめてよほど発想の転換をしない限り、日本の財政赤字が改善する見込みはほとんどない、ということになりそうです。

【ただいま読書中】『伴大納言絵巻の謎』倉西裕子 著、 勉誠出版、2009年、2400円(税別)

 貞観八年(866)閏三月十日、京都の応天門が焼失しました。この「火災」は後に「事変」へと展開します。放火の犯人としてまず左大臣源信が告発されますが無罪となり、ついで大納言伴善男が逮捕されて犯人と確定されました。結果として古くからの名家大伴氏(伴氏)は没落し摂関政治が確立することになります。その300年後、後白河法皇のサロンで「伴大納言絵巻」が制作されました。ところがこの絵巻には謎の人物が3人描かれ、さらに伴大納言自身の姿は描かれないという「謎」がありました。
 内裏の朝堂院は国家機能の中枢ですが、その「正門」が応天門でした。それが焼失したのですから、都は大騒ぎです。右大臣藤原良相と大納言伴善男が「これは左大臣源信に罪がある」として兵を動かし源信の邸宅を囲みます。信は門を閉ざして引き籠もりますが、その騒ぎを知った太政大臣藤原良房は清和天皇にいそぎ奏上。天皇から「信を許す」という宣旨が下されます。
 良房にとって、源信の失脚は、藤原家の氏の長者の後継者問題に関わる重大事でした(詳しくは本書をお読み下さい)。だからこそ良房はあたふたと走り回ることになってしまったのです。
 伴善男は大変優秀だが性格は怜悧で同僚でも平気で攻撃する人間でした。仁明天皇にはその才を愛され、異例の出世を遂げていました。ただしその出世には、帝の寵愛だけではなくて、病の流行や、善男によって企まれた冤罪事件なども効果を示していました。そして、「異例の出世」は、周囲に波紋を広げます。貴族同士の足の引っ張り合い、摂関家の内紛、天皇家の後継問題などが複雑に絡み合って、緊張が高まっていきます(私は「保元・平治の乱」の時の都の複雑な状況を思い出しました)。さらに流行病、富士山や阿蘇山の噴火などで、世情・人心は穏やかならざるものとなっていきました。
 伴善男にとって嵯峨源氏は昔からの“政敵”でした。右大臣藤原良相にとっても「上」の左大臣が消えるのは願ってもないことです。さらに、嵯峨源氏を代表とする親百済派を朝廷から一掃したい親新羅派の野望もそこには見えます。頭の回転が速い伴善男にとって、応天門の焼失は“一大好機”でした。彼の謀略は即座にスタートします。しかし、謀略を企てるのは、一人ではありませんでした。緊張が高まった都では、いくつもの謀略がその爆発の時期をじっと窺っていたのです。源信を陥れようとした伴善男に対する“反撃”が始ります。なぜか藤原良相は“蚊帳の外”に置かれます。この“事変”には、外から見ていると明らかに不自然な動きがいくつもあるのです。
 そして300年後、平清盛に圧迫されている後白河法皇の“サロン”で、「伴大納言絵巻」が制作されます。なぜこの時期に? そこにもまた「歴史の謎」が秘められているのでした。ここで、私は自分が「保元・平治の乱」を想起していたことが、あながち的外れな連想ではなかったことに気づきます。本当に「歴史は繰り返」していたのかもしれません。



朝ドラ

2013-04-27 07:43:10 | Weblog

 一年前のNHKの朝ドラ「梅ちゃん先生」は、焦点のぼけた学芸会でした。その次の「純と愛」は21世紀版の「おしん + 細腕繁盛記」の雰囲気でしたが、ちょっとキャラを作りすぎ。で、今の「あまちゃん」は、安心して見ていられるコメディーです。特に宮本信子さん、たとえば演じる年齢で起居動作発声をきちんと演じ分けているのは、役者だから当然とは言えますができていない役者がやたら多い現状では、見ていて嬉しくなります。
 ただ、ドラマの時代設定が……アキの母親が家出したのが1984年で帰ってきたのが24年後ですから、ドラマの「今」は2008年なんですよね。ということはすぐに「2011年」がやってくることになります。あああ、なんだか、気楽に笑っていていいのか、と思ってしまいます。

【ただいま読書中】『七花、時跳び!』久住四季 著、 明星かがよ イラスト、アスキー・メディアワークス(電撃文庫)、2010年、590円(税別)

 タイトルを見て私が連想するのは「時をかける少女」と「七瀬シリーズ」です。おや、どちらも筒井康隆。でもまあ、21世紀のライトノベルですからねえ、どんなものが出てくるやら、と興味半分好奇心半分で読んでみることにしました。(ちなみに、ライトノベルはこれが“初体験”かもしれません)
 どこにでもあるような高校で、先のことを考えるのもかったるいと思っている(でもそれなりに切迫感も感じている)高校三年生の柊和泉は、クラブの後輩七花が「時を跳ぶ能力」を持っていることを知ります。そこで柊は「ちょっと試してみよう」というノリで、二人手をつないで過去に跳んでみることにします。で、本当に過去に戻ってびっくり。そこにもう一人「自分」がいるではありませんか。
 ……いや、いるのが当然なんですけど、柊君は、そこまで驚きますか?の反応をしてくれます。これまで死ぬほど退屈な人生をだらだらと生きてきたことの反動かな?
 柊君はSFも含めて「20世紀(以前)の古い本」なんか明らかに一冊も読んでいません(著者は明らかに読んでいます。念のため)。柊君は21世紀の本も読んでいるかどうか、あやしいものです。しかもノリで行動するものだから「無知と若さゆえの過ち」がぼんぼん登場します。いやあ、青春だなあ。
 それにしても「タイムパラドックス」をわざと起こしてみよう、という“勇気”にはこちらが引いてしまいます。結局やろうとして失敗するのですが、その後になってからタイムパラドックスのお勉強が始まります。これは20世紀の古いSFなんか読んでいない人のための「SF入門講座」ですか?
 「美少女との全力での体当たりでの出会い」という定番シチュエーションで話は始まり、知的で巨乳の同級生とか身長コンプレックスを持っている女教師とか“定番のキャラ”も配置され、エロの雰囲気をちょいと匂わせつつ、ラブコメ未満というか未然の学園青春タイムリープドラマはぴょこぴょこ跳びはねながら元気いっぱい進行します。でも「時間軸に関する論理の整合性」は堅苦しいくらいきっちりと守られているので、ご安心を。しかも最後に出てくる「タイムパラドックスの“回避法”」では、量子論での観測問題を初めて知ったときに感じた心の震えを私は時を経て再現できたような気がします。ひたすら軽くて明るいけれど、私のようなすれっからしのSFファンでもけっこう楽しめる本でした。


安売り禁止令

2013-04-26 06:35:57 | Weblog

 消費税増税にともなう「安売りセール」は一切禁止、だそうです。政府が言っていることを見ると、江戸時代の幕府の「禁令」かと思います。要するに「お上が決めた消費税増税について、たとえ安売りという形でもとやかく言及することは許さない。黙って増税を受けいれて静かに定着させろ」というお上からのお達しですな。もちろん「違法な不当廉売(仕入れ業者に対する安値の強制)」はいけないことですが、それならそれで現在の法律をきちんと運用すれば良いことではないです?(「違法」を罰するのは「現在の法律」によればいいのです) 自分が現在ある法律をきちんと運用しないからその責任を大型スーパーと消費者に取らせる、というのは消費税転嫁ならぬ責任転嫁でしかないでしょう。
 笑っちゃうのが「罰則」が公正取引委員会からの指導と会社名の公表であること。本当にそれをやったら、公取委が「このスーパーは安売りセールをやってます」と税金を使って天下に周知してくれることになりそうですが。

【ただいま読書中】『海の人々と列島の歴史』浜崎礼三 著、 北斗書房、2012年、2500円(税別)

 「海に生きた人々」の歴史について、詳しい研究書は数多くあります。しかしそれらはことばが難しく、読解するためには歴史の深い知識を必要とするものでした。そこで著者は、平易なことばで歴史に沿った記述をすることで中世の漁村の成立について述べようとしています。
 氷河期、日本列島は大陸に陸橋でつながり日本海は内海となっていました。その南北の陸橋を通って人類が列島に移住してきます。しかしもう一つのルートがありました。当時は、スマトラ・ボルネオ・ジャワなどのスンダ列島は面積を増し大陸とつながってスンダランド亜大陸を形成していましたがそこに住んでいた初期アジア人の一部が黒潮に沿って琉球・薩南諸島を経て南九州に到達していたのです。
 縄文時代の貝塚などからは漁撈の証拠が大量に発掘されています。丸太船や精巧な釣り針やヤスのほかに、石槍も漁具でした(鮭を突くのに使われました)。しかし、6500年前の九州佐多岬沖50kmの鬼界カルデラからの噴火(海中からの火焔流が南九州を遅い、火山灰が列島全域から朝鮮半島まで分厚く覆った、縄文期から現代の間では最大級の噴火)によって縄文文化は大打撃を受けました。
 縄文後期に「農業」が行なわれるようになりましたが、それには地域差がありました。やがて九州北部に稲作が伝わります。しかしこの地は豊かな漁業で充足していてしかも水田適地が少なかったため稲作は盛んにはなりませんでした。しかしやがて「弥生人」が縄文文化に混じり合う形で日本に広がっていきます。
 本書は、ページをめくるたびに話が時空間を行ったり来たりするため、ちょっと読みにくくなっています。ただ、歴史が“一直線”に展開するものでないことはこの書き方によってよくわかります。
 大和政権時代、海人を支配する豪族(たとえば和爾氏)は力を伸ばしました。海人も、漁撈や製塩だけではなくて日本海や瀬戸内海で海運などにも進出します。しかしその後の律令国家では、おそらく「海」は冷遇されたはずです。律令を生んだ中国は「大陸国家」で「海運」はその視野に入っていません。したがって「律令国家」日本は「街道」を基本に交通が整備されることになります。それでも「海」は重要なものでした。文字通り津々浦々に人が住み、繁栄をすることになります。そしてそこで各集団は衝突や協力をすることになります。これは「教科書に載っていない日本歴史」です。
 「海」から見るとまた別の「日本」が見える、というのは面白いものです。ちょっと得をした気分。


量り売りの自動販売機

2013-04-25 06:42:31 | Weblog

 日本中ほとんどどこに行っても自動販売機があります。しかし「これを飲みたい」と思ったときには“それ”が見あたらなかったり、「少しだけ」飲みたいのにでかいペットボトルだけだったりすることがあります。さすがに会社や飲料の種類はどうしようもないでしょうが、量に関しては、マイボトルを持ち歩いて、自動販売機にそれを差し込んで量を指定したら、その分だけ量り売りをしてくれる自動販売機があったら便利だなあ、と思いました。製造する方は面倒くさいでしょうけれどね。

【ただいま読書中】『残響2秒』三上泰生 著、 大阪書籍、1983年、1100円

 大阪の「ザ・シンフォニーホール」が建築されたときの記録です。買って読んで家のどこかにあるはずなのですが、探すのが面倒なので図書館から借りてきました。
 「残響」とは「音の余韻が小さくなって聞えなくなるまで」ですが、学問的には「最初の音のエネルギーが100万分の1になるまで」が「残響時間」と定められているそうです。
 1980年、朝日放送創立30周年の記念事業として、「満席での残響2秒のクラシック専門ホールの建設」が決定されました。制作部にいた著者はその事務局へ出向となります。
 コンサートホールの設計は、音響設計・建築設計・発注者の意思疎通がうまくいかなければ、悲惨な失敗となります(本書にはその実例が紹介されます)。「ザ・シンフォニーホール」では失敗は許されません。さらに予算の縛りがあります。そして「残響2秒」。日本のホールは「音楽も講演も」と欲張るため、残響時間は短めとなっていました(残響時間が長いと、講演は聞きづらくなります)。
 残響は、直接音と反射音で構成されます。もしも反射音がなければ音はスカスカになりますし、反射音が大きすぎると山彦になります。ホールの形、緞帳の有無、座席の質、客の入り……残響時間がとても長い(6秒くらいの)石造りの教会には、テンポのゆっくりのグレゴリオ聖歌などが似合います。残響がないところにはロックなどが似合うでしょう。どのようなホールが理想的なのか、著者たちは世界13箇所の有名コンサートホール行脚を始めます。一瞬うらやましく思いますが、彼らにとっては「お仕事」ですから、大変な旅行です。
 音響の話や設計の苦労話はもちろん興味深いものですが、私が興味を引かれたのが、スポンサーとの関係です。ふだんの仕事での「スポンサー」企業に対して、こんどは朝日放送が「スポンサー」として仕事を発注する場合の気の使い方など、なかなか大変だなあ、と思わされます。
 模型は、100分の1だけではなくて、10分の1のものも作られそのなかで音響特性の実験が繰り返されました(模型の大きさに合わせて録音テープの周波数を10倍、つまり超音波にしたものを、(水蒸気を排除するために)窒素ガスを封入した模型の中で鳴らしてその反射を測定するのです)。
 パイプオルガンに関しても、いろいろなエピソードが登場します。入れるか入れないか、入れるとしたらどこに設置するか、電気式にするかしないか、それぞれで大議論が展開されます。そしてついに本格的なパイプオルガンが設置されることになると、こんどはその設置作業がホールの工程表に干渉してきます。ホールの天井裏の工事はとうとう工法そのものの変更をしてしまいます。そして最終的な調音作業をホールのオープンに間に合わせるために、スイス人のパイプオルガン技師たちは昼間は寝て夜間に作業をすることになります。「ふくろう部隊」と本書では呼ばれていますが、日本の中でスイス時間、というわけですね。
 そして、期待と興奮と不安の混じる、実地の音響テスト。狙い通り、すべての客席で素晴らしい音(残響特性が平坦で高音域でやや上がり気味のもの)が聞えるようになっているのか。まずはテスト用の音源で、そして楽器で(最初の楽器はバイオリンで、弾いたのは著者でした)。
 そして、テストコンサート。軽い気持ちでやってきたとおぼしき京大オーケストラの面々は、あまりに立派なホールに面くらい、さらにそれまでに経験したことのない「残響2秒」に戸惑います。しかし、何曲か演奏するうちにオケのメンバーはホールの特性を把握し、ホールを“楽器”として鳴らすことに成功します。見事な演奏でした。良いホールは良いオーケストラを育てるようです。そしてプロの楽団がそれに次々続きます。
 「残響2秒」とは、単なる数字ではありませんでした。ヨーロッパの音楽の歴史や伝統と日本(や世界)の多くの人の思いを込められたことばだったのです。


グローバリゼーション

2013-04-24 06:45:23 | Weblog

 「英語ができること」と単純化されてしまうきらいがありますが、それだと「英語はしゃべれるが、中身は空っぽ」でも「グローバルな人材」ということになってしまいますね。
 私はむしろ「日本語しかしゃべれなくても、日本にやってくる多国籍の人々とちゃんとつきあうことができる」ことが重要なのではないか、なんて思うことがあります。外国語ができない人間のひがみ発言かもしれませんが。

【ただいま読書中】『シンガポール短篇集(2)』ロバート・イョオ編、幸節みゆき 訳、 幻想社、1983年、1000円

 「タクシー運転手の話」(キャサリン・リム):タクシー運転手の一人語りですが、その口調が独特です。なんでも原文はESM(シンガポール・マレーシア英語)で書かれているのだそうです。タクシー運転手の話題は、末娘のこと。彼は娘を溺愛し、大学進学のために必死に金を稼ごうとしています。ところが娘は、ふらふらと深夜の町を遊び歩くだけ。なんだか“普通”の話です。しかし、この運転手が一番稼いでいる相手というのが…… なんともほろ苦いお話です。
 「インタビュー」(ゴーパル・バラタム):「残虐」「拷問」などといった強いことばを使わずに戦争の実体験を表現しようとする元兵士と、そういった「強いことば」を使うことで戦争を理解しようとする若者との、奇妙なすれ違い。一見さらりと流されていく会話が、実はごつごつとした手触りを持っているように感じられます。
 7人の作家の15の短編が収載されています。内容も形式も文体もばらばらですから無理にまとめることはできませんが、日本の短編と大きく違うのは、実に無理なく「多民族」が登場することでしょう。それと、時代の反映でしょう、戦争の記憶がまだ色濃く残っています。もちろんそれは日本でも同じことで、昭和の時代の小説にはまだ「戦争の記憶」は“現役”として漂っていました。たとえ「戦争」がテーマではなくても、登場人物自身の記憶やその知合いが戦争でひどい目にあったことが作品の基底に“ムード”として流れていることが感じられる作品が多かったのです。最近はそう言えばそういった“ムード”を感じさせる作品が減っているような気がします。ではそのかわりに「多民族」が平気で登場しているかと言えば、必ずしもそうではありませんが。



1と2

2013-04-23 06:30:12 | Weblog

 「口は一つ、耳は二つ。だからしゃべる時間の倍聞きなさい」ということばがあります。たしかにそれで「数」は合ってますし「自分がしゃべるばかりで他人の話を聞こうとしない人間」は嫌われますから「正しい人生訓」ということはできるでしょう。ただ私が気になるのは「目も二つある」ことと「頭は一つ」ということです。

【ただいま読書中】『夜中に犬に起こった奇妙な事件』マーク・ハッドン 著、 小野芙佐 訳、 早川書房、2007年、1300円(税別)

 主人公のぼく(クリストファー)は、他人の感情がわからず他人と会話をすることが苦手です。嘘をつくことができません。新しい状況に適応できません。すごい記憶力を持っています。嫌いなのは黄色と茶色と知らない人と知らない場所。好きなのは赤と素数。得意なのは数学。特殊学級に通っています。
 明記されてはいませんが、クリストファーは自閉症でしょう。ただし、明らかに知能は高水準なので、おそらくアスペルガー症候群。彼は「殺人ミステリー」を書くことにします。それが本書です。ただし、クリストファーは嘘(フィクション)を書くことができません。そこで本当の話を書くことにします。近所の家で、園芸用のフォークで犬が刺し殺されました。その犯人を捜して、それを記録しようというのです。
 自閉症の一人称の記述は、自閉症ではない読者にとってはある意味“異質な世界”の体験です。読者は世界を違った目で見ることを強いられるのです。たとえばこんな会話が登場します。

そしたらその男のひとがいった、「片道、往復?」
それでぼくはいった、「片道、往復というのはどういう意味ですか?」
そしたら彼はいった、「行きだけなのか、それとも行って帰ってくるの?」
それでぼくはいった、「ぼくはあっちに行ったら、そのままそこにいたいです」
そしたら彼はいった、「どのくらいのあいだ?」
それでぼくはいった、「ぼくが大学に行くまで」
そしたら彼はいった、「それじゃ片道だね」

 ところが読んでいくと、明らかに「正常な世界」の方も異常であることに気づかされます。たとえば夜中に近所の家の犬がフォークで刺し殺されていたことを非常に問題視する人がほとんどいません。むしろそのことを追及しようとするクリストファーの行動の方が周囲には問題視されています。それは、一体、なぜ?
 さらに、クリストファーは、死んだはずの母親から手紙が届いていることを発見します。クリストファーは混乱します。死んだ人間は手紙を書けないのですから。さらに犬を殺した犯人もわかりますがそれはクリストファーには嘔吐と思考停止を強いる人物でした。こうしてクリストファーは「受け入れ難い“真実”」に直面させられる事態となり、クリストファーはあらゆる可能性を考慮の上「一人でロンドンに行く」ことを決心します。上記の会話はロンドンに行く切符を買うために駅の窓口で駅員とかわしたものです。
 視界を低下させる眼鏡と耳栓をし手足に錘を縛りつけて歩くという「老人の体験」をするプログラムがありますが、本書は「自閉症の体験」をことばによってさせてくれるという画期的な“プログラム”です。しかも「正常人」の“異常さ”まで体験できるという“おまけ”つき。全世界で一千万部も売れた、というのは頷けます。お勧めします。強く強くオススメします。


大国中国の苛立ち

2013-04-22 06:40:27 | Weblog

 “大国”としての「自負」と「現実」(政治(共産主義の導入)ではソ連の後追いだったし、経済では米日の後追いだったこと)のギャップも大きいでしょうが、もう一つ、「歴史」の問題もありそうです。中国は歴史の中で「国」として「対外戦争」ですっきりと勝利を得たことがありません(対日戦では勝ったと主張できますが、これも攻め込んできた日本軍を自力で撃退したわけではありません)。そのことが「国」として行動する場合に潜在的な“コンプレックス”として作用しているのではないか、というのが、現時点での私の“分析”です。

【ただいま読書中】『二十世紀(上)』橋本治 著、 筑摩書房(ちくま文庫)、2004年、720円(税別)

 タイトルを見て、次に著者の名前を見て、その組み合わせで反射的に手にとりました。その期待は裏切られません。最初から橋本節が前回です。「20世紀末の日本の金融危機は、18世紀の産業革命に由来する必然の結果だ」なんですから。
 19世紀には「戦争」は正当な最終解決手段でした。ところが20世紀になって風潮が変わります。「国対国」の戦争がそう簡単にはできなくなってきたのです。19世紀には大国が小国を“保護”するのも当然の行為で、それに失敗したときだけ「侵略」と呼ばれることになります。これは20世紀にも引き継がれます。
 1901年1月、イギリスのヴィクトリア女王が亡くなります。治世は64年。同年(後の)昭和天皇が生まれます。昭和天皇の治世も64年で亡くなったのも1月でしたが、これはただの偶然でしょうね。そしてその翌年、1902年に日英同盟が結ばれます。大英帝国が「同盟」を必要としたのです。
 「明治の文学」も、文体に注目すると「19世紀」と「20世紀」で(現代語訳が必要な古風な文体と、現在の高校生でもそのまま読める文体に)“線”を引ける、という指摘もあります。言われてみれば「なるほど」です。
 1910年は、大逆事件があった年でもありますが、著者は父の日が初めて祝われた年であることに注目します。そして、なんと、「大逆事件」と「父の日」に関係があることを示してしまうのです。
 こうやって20世紀を1年刻みで描写されると、これまで歴史で習って頭の中に構築していた「20世紀のイメージ」がだんだん怪しくなっていってしまいます。著者自ら「私の目はとりあえずへんな方向に向かう」と公言していろいろ書いてくれて「そういうものなのである」なんて結論づけてくれるから仕方ないことではあるのですが。
 第一次世界大戦は「ばかばかしい戦争」でしたが、ここで最も重要なのは「市場(マーケット)」です。産業革命で大量生産した品物を売りつけるために暴力が用いられたのは、バブルの時のヤクザの地上げ屋と同じ、と著者は述べます。それを勘違いして、「市場」ではなくて「領土」を求めたのが、日本のごたごたの原因、だそうです。
 ヨーロッパもごたごたしています。第一次世界大戦で王政は次々倒れ共和国が誕生しました。フランス革命から1世紀遅れて「革命」が欧州を席巻したのです。フランス革命後にはナポレオンという独裁者が生まれました。そして20世紀の“革命後”のヨーロッパには……ヒトラー、ムッソリーニ、スターリンという「一世紀遅れのナポレオン」が次々登場しました。(ということは、日本にはまだ「革命後の独裁者」が登場していませんから、日本はまだ「近代的な革命前の状態」である、ということなのでしょうか)
 なおこの上巻は1945年までです。読んでいて「歴史」がひっくり返されたおもちゃ箱のように見えてきますよ。著者が著者ですから癖はありますが、面白いことは保証します。


便利で実は曖昧なことば

2013-04-20 06:44:06 | Weblog

 本能 本性 偽善 信念 真面目 栄養 風評 政局 あいまい 人間的 など

【ただいま読書中】『人間的なアルファベット』丸谷才一 著、 講談社、2010年、1600円(税別)

 お色気がらみの短いエッセーを、タイトルを「A」から「Z」まで、辞書仕立てで並べた本です。はじまりは「actress」、おしまいは「zipper」。それぞれの項目に紹介される本の数々が、すべて魅力的に見えるのは著者の筆力のなせるわざでしょう。私もこれくらい魅力的な紹介文を書いてみたいものだと、憧れを感じます。ただ、旧仮名遣いはできませんが。
 一例を挙げましょう。「H」の項目の「ホメロス」。これは同性愛から始まりアフロディーテーに話が滑り、次いでボルヘスの『不死の人』、シュナックの『ホメロスの蝶』、ファンク/ワグナリスの『フォークロア、神話、伝説の標準的事典』、『法然上人絵詞』……いやあ、このラインナップを(読まずに)見るだけで、お腹いっぱいになってしまいそうです。
 「引用」では、永井荷風の『墨東奇譚』(この本は他の項目でもよく登場します。著者のお気に入りなのかな?)、『論語』、『マタイによる福音書』、『旧約聖書』、『平家物語』、『源氏物語』、石川啄木の『おどけ歌』、『吉田健一著作集』、エドガー・ライス・バロウズの『類人猿ターザン』……いやあ、でるわでるわ。で、そこで論じられるのが「不正確引用問題」です。もう感心しながら笑っちゃいます。
 「婉曲語法」「誇張法」などでは、皮肉もしっかり効いています。
 ただし、単なる衒学趣味には終わないのは、著者の“センス”のおかげでしょう。世の中に密着しているのに、面白がって見ているという“距離感”も私は感じます。
 ところでタイトルの「人間的」って、どういう意味?



体罰の定義

2013-04-19 07:15:13 | Weblog

 「お前が悪い」というお題目を唱えながら殴ったり蹴ったりする行為。ただし、相手が立場上反撃できないことが確実で、自分の身には絶対に相手からの危害が及ばないと保証されていることがとても重要である。

【ただいま読書中】『風土記』吉野裕 訳、 平凡社(東洋文庫145)、1969年、550円

 「出雲風土記」が読みたくなったので借りてきました。
 まずは「出雲」の名前の由来から。もちろん「八雲立つ」の歌が“出典”です。
 「出雲」は9つの郡(意宇、島根、秋鹿、楯縫、出雲、神戸、飯意志、仁多、大原)から成ります。各郡では、まず名前の由来が述べられ、次いで各郷(里)が紹介されます。面白いのは地名の由来で「本来は○○なのに、今の人は間違えて××と言っている」という表現がやたらと登場すること。「今の人」がことばを勝手に変えてしまうのは、今も昔も同じだったんですね。郷の次は神社、そして山や川や島が紹介されます。
 「意宇の郷」では国引き神話が登場します。プレートテクトニクスも何のその、「国の余りがある」と宣言して「国よ来い国よ来い」とどんどんわが方に引っ張り込んじゃうのですから、今だったら大騒ぎですね。それにしても「島根の名は、国引きをした神がそう命名したのだ」というのは、ずいぶんいい加減な“由来”に私には見えます。
 「仁多の郡三津の郷」には、垂仁天皇の「あごひげが立派に伸びるくらいに大きくなっても泣きわめくだけでことばをしゃべらない御子」とそっくりの話が登場します。ただし、垂仁天皇の方では白鳥が重要な鍵を握りますがこちらには白鳥は出てこず、夢のお告げで御子はしゃべるようになるのですが、その最初の一言が「御津(みつ)」。父親が「どこをそう言うのか?」と訪ねると御子はとことこ歩いていってある地点を指さして「ここをそう申します」と言いそこから水が湧き出たので、“そこ”は「三津」と呼ばれるようになり、出雲の国造が朝廷に参内するときにはここでみそぎをしてから行くようになった、のだそうです。
 こう言ったらなんですが、『風土記』の記述はあんまりドラマチックではありませんね。ちょっと淡々としすぎているように感じられます。まるで「頭の良い官僚の作文」みたい。

 なお本書には「出雲」以外に「常陸国風土記」「播磨国風土記」「豊後国風土記」「肥前国風土記」が収載されています。