【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

朝食と成績/『ゴールドフィンガー』

2008-11-30 17:34:59 | Weblog
 雑誌や新聞の記事、あるいは学校から配られる文書などに、「朝食を食べる子どもは成績がよい」とよく載っています。直感的にはその記述は“真”だろうと感じます。
 ならば「うちの子どもの成績が悪いのは、朝食抜きだったからだ。だったらたっぷり朝食を摂れば成績は急上昇するにちがいない」と単純に言えるでしょうか? 直感的に私はその思惑は外れるだろうと感じます。
 「朝食」と「成績」に相関関係は確かにあるでしょう。しかしそれは「相関関係」であって「因果関係」ではないはずです。もし因果関係が強固にあるのだったら、学生は勉強よりも朝食を食べることに夢中になれば誰でも試験は満点・志望校には絶対合格、となるはずですが、そんな都合の良いことが本当に起きると信じられます?
 「勉強は、深夜よりは午前中に行う方が人体生理学的に効率的で、だから朝食で血糖値を上げておけば、糖と酸素を大量に消費する脳が活動しやすく午前中の勉強がはかどる」とか「朝食をきちんと食べることができるのは、自分の生活をきちんと管理できている証拠で、生活が管理できるのは勉強計画も管理できる人間だから、結果として成績も良くなる」だったら、私は深く頷けるのですが。(あ、午前中の勉強の方が効率的、というのは、今適当に思いついただけで、人体生理学的に本当によいかどうかは保証しません。個人的には深夜の勉強は非効率的、と体験的に感じてはいますが)

 ちなみに私は「朝食は食べる派」です。高校時代、遅刻しそうになって朝食抜きで登校したことが1度ありますが、午前中全然使い物にならなくて帰宅後「明日から、もし遅刻をするとしても、朝食は食べて行く」と母親に宣言をしましたっけ。もっとも実際には、それからはちゃんと早起きをしたので、「遅刻するかそれとも朝食を食べるか」で悩む状況になったことはありませんが。で、成績? なはははは。

【ただいま読書(鑑賞)中】
『ジェームズ・ボンド公式DVDコレクション(1)ゴールドフィンガー』アジェット・コレクションズ・ジャパン、2008年、752円(税別)

 デジタル・リマスター・バージョンのDVDと解説本がセットになったシリーズです(全22巻。4週ごとに発売)。こういったシリーズの定番で、第一巻は特別価格で安くなっていますが、第二巻からは正規価格で1990円(税込み)となります。DVDだけ欲しければ1500円くらいで買えるからこのシリーズに手を出す必要は特にありません。
 私が初めて007を観たのは、中学の時、「サンダーボール作戦」と「ロシアより愛をこめて」の二本立てでした。ショーン・コネリー演じる007のかっこよさに、単純にしびれましたっけ。「ゴールドフィンガー」はそれからしばらく経って観たはず。金粉を全身に塗られて“窒息死”している美女の姿に幼いエロス感覚をびんびん刺激されました。(と同時に、皮膚呼吸を阻害されたら死ぬ、というヨタをしばらく信じ込んでしまいました。もしそれが本当なら「海女」という職業が成立しませんよね)
 アメリカの金が貯蔵されているフォートノックスを毒ガスや原爆で粗っぽく襲撃しようとするゴールドフィンガーの陰謀をどうやって阻止するのか、はらはらどきどきの連続で、実は今観てもけっこう楽しめます。007の原型が確立した作品だからなんでしょう。

 私にとっての007は、他の俳優も悪くはありませんが、やっぱり今でもショーン・コネリーです。とりあえずパソコンで観てしまいましたが、大画面TVと良いサウンドシステムが欲しくなってしまいました。物欲が刺激されるのは、困るなあ。


内定取り消しのお喜び/『マスカレード』

2008-11-29 15:53:43 | Weblog
 この前内定式をあちこちでやった、とニュースで報じたばかりなのに、今は内定取り消しの嵐が吹き荒れているそうです。厚労省は「取り消したらいけないんだよぉ」と言うばかりで実効のある行動をとる気はないようですが、ニュース画面でどこの会社が出したものかは伏せられて「内定取り消し通知」の一部が写されていましたが、見てあきれました。上の方に「……お喜び申し上げます。」とあったのです。もちろんそれはあいさつ文の決まり文句でしょうが「あなたの内定を取り消す」通知が「お喜び申し上げます」で始まるって、ブラックジョークですか? そんなところに礼儀正しくするよりも、もっと別の所にエネルギーを使った方が良いんじゃないかしら。

【ただいま読書中】
マスカレード』ゲイル・リンズ 著、 松下祥子 訳、 早川書房、1997年、2600円(税別)

 記憶を失ったCIAの工作員リズ(エリザベス)・サンズボローは、自分が肉食獣(カーニヴォア)と呼ばれる国際的暗殺者の標的になっていることを知らされます。恋人のゴードンの付き添いのもと、CIAの新人教育キャンプに逃げ込んだリズは、そこで自分のファイルを閲覧し、ゴードンの言うことが真実ではないことを知ります。
 キャンプの人事部長アッシャーもリズについて不可解なことを知ります。彼が見たファイルではリズはカーニヴォアの恋人となっています。ではここにいるリズは誰? CIAは何を企んでいる? いろいろあって閑職で干されているアッシャーの好奇心が発動します。
 ワシントンでは別の陰謀が進行中です。イラン=コントラ事件などで不正を働き私利をむさぼっていたCIAの高官にとって、カーニヴォアが「引退してこれまでの様々な事件の秘密を提供するから、安全を保証しろ」と要求してきたことで、自分たちがしてきた不正(政府の資金の不正流用や横領、殺人などの非合法的活動)が暴かれることになってしまうのです。当然彼らはそれを“予防”しなければなりません。ところがそれが偶然ジャーナリストのレスリーに知られることになります。
 いやあ、はらはらどきどきの展開です。決して暴力のプロではない女性たちがあちこちで危地に陥ります。アメリカでもパリでも「うわあ」というところでさっさと章が切り替えられます。最初にこの作品の原稿を送られた出版社が「こんな(スケールの大きな)作品を女性が書くはずがない」と採用を見合わせたというエピソードがあるそうですが、いやいや、たしかにこれはスケールは大きいけれど明らかに男性の手になる作品ではありませんし(細部の目の付け所が“違う”感じです)、そもそも書いたのが女だろうと男だろうと子どもだろうとかまいません。面白いんだもの。

 さて、表で繰り広げられる“活劇”とは別の陰謀が(それもダブルで)ひっそりと進行中であることも読者には示されています。それがリズ(もとい、別人)とアッシャーの動きと絡み合った時、パリに集まった関係者は……007での「悪人による世界征服」とはちがった、ちょっとゾクリと恐怖を感じる(しかも“現実的な”)陰謀があり、それも本書にリアルさとドライブ感を与えています。「敵のプロが撃つ弾はなかなかヒーロー/ヒロインには当たらないけれど、“こちら”が撃つのはばしばし当たる」といった都合の良い展開は、まあ“お約束”ということでさらっと流しましょう。

 たまたま先日『ニューヨークの怪人』を読んで「マスカレード」という単語に敏感になっていたために本書を手に取りましたが、正解でした。面白い国際スパイ小説でっせ。


間違いが目立つ/『弟の戦争』

2008-11-28 17:42:02 | Weblog
 ネットの書き込みなど(特に掲示板)で連続して間違いを指摘されたらそのことを逆恨みして、相手の間違いを指摘することで意趣返しをしようとする人がいます。「ほら、間違っているじゃないか。そんな間違いを犯す奴が、えらそうに俺の書いたものを間違っている、だなんてちゃんちゃらおかしい」と。「一つの間違いの指摘」で「その人の全発言・全人格の否定」までもくろんでいます。さらに「そんなやつの指摘が正しいわけはないんだから、それに間違いだと言われた自分の発言は間違っていなかった」とも主張したいようです。相手の信用度を下げる=自分の信用度が上がる、です。
 だけど「間違いが目立つ」には、実は二つの状況があります。一つは普通の日本語「間違いだらけ」。だけどもう一つ「あまりに間違いが少なすぎて、たまに間違えたらそれが目立つ」という状況。で、上記の場合には「間違いが多すぎる奴(つまりは1勝99敗)」が「たまに間違える奴(99勝1敗)」の「1敗」を指摘して喜んでいるわけ。自分の「99敗」を、なぜ恥じないのかなあ。

【ただいま読書中】
弟の戦争』ロバート・ウェストール 著、 原田勝 訳、 徳間書店、1995年、1165円(税別)

 原題は“Gulf”です。
 突然何かに強烈に惹きつけられる性癖を持った弟アンドリュー(兄のトムがつけたあだ名はフィギス)。州選抜のラグビー選手で開発業者の父親と州会議員の母親とで幸せなイギリスの家族。フィギスは何でも知りたがり(と言っても、彼なりの基準があって選択しているのでしょうが、その基準が周りの人間にはわかりません)、写真を見ただけで会ったこともない人の名前を当てたりします。
 フィギスが12歳になった年、イラク軍がクェート侵攻を行います。フィギスはときどき“別人”になるようになります。はじめは寝ぼけている時に、やがて毎晩夢を見ている時に。フィギスがなっているのはラティーフという名前の少年。すんでいるのはティクリート。
 多国籍軍によるイラクへの空爆が始まった夜、フィギスは砲弾ショックのような症状を起こし、アラビア語でしゃべりながら奇妙な行動をするようになります。アラビア語が話せる精神科医(元イラクの軍医)がフィギス(ラティーフ)から聞き出した内容は、サウジ国境に近い最前線の塹壕で暮らしている少年兵の話でした。
 それまでトムにとっての湾岸戦争は「アホなサダムをこらしめろ」「イラクを徹底的にやっつけろ」でした。ところが前線の向こう側に弟がいるのです。ラティーフの心は強くフィギスを離してくれません。TVの中の「きれいな戦争」とは違って、トムはフィギス(ラティーフ)と同じ部屋の中で空襲を“体験”します。そして地上戦が始まり、ラティーフは殺されます。殺されたのはもちろんラティーフだけではありませんが、そのことが報道されることはありませんでした。
 戦争は終わり、人びとは過去を忘れることに一生懸命になります。だけどトムは、「ぼくらの回りの深く切れ込む湾」を見ます。人と人の間の深い溝を。フィギスはその溝に橋を架けようとした子どもでした。
 どんどん成長していくトムとともに、「アラブのホモ」とイギリス人に呼ばれる精神科医ラシードが魅力的です。人種差別をされること(祖先からずっと差別され続けていること)への怒りを持っていても、その怒りに負けることはない人格は、安易に差別をして喜んでいる人間よりもはるかに上であるように見えます。



ワイン/『プルターク英雄伝(一)』

2008-11-27 18:47:56 | Weblog
 フランスワイン・イタリアワイン・スペインワイン……なぜ全部英語で「ワイン」と言うのでしょう?

【ただいま読書中】
プルターク英雄伝(一)』プルータルコス 著、 河野與一 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1952年(62年10刷)、★★
 昭和20年代の初版で「ギリシャ人には苗字がなくて個人の名だけを呼んだ。混同を避けるには父の名を添へて誰の息子誰と云つた」といった文体で書かれています。時代を感じます。まあ、もともと古代のことを扱った本ですから、文体も古い方が雰囲気は出ますが、読むのはちょっとホネだな、と感じます。
 本書では、ギリシア人一人とローマ人一人の伝記を述べたあとその対比を論じる、という形式で22組の対比(プラスα)を行なった大著です。この文庫本は12分冊のシリーズで、本書では、テーセウス・ロールムス・リュクールゴス・ヌマが扱われています。最初の二人しかわからないなあ。
 読んでみると語り口がなんとも軽妙です。これは原文がそうなっているのか、それとも訳文の手柄か。すらすらと読めます。ヘーラクレースの向こうを張ってテーセウスが各地で力比べの後、アテーナイに乗り込み、ミーノータウロスと白い帆と黒い帆のお話となり……
 ロームルスの話は、「ローメー(ローマのギリシア名)」から始まります。それは女性名でその人はどこから来たかというと……ということで様々な伝説が紹介されます。ロールムスとレムス兄弟が狼の乳などで育てられ、長じては新しい町を作り…… 『ローマ人の物語』の前半で重要事項として扱われていた「パトロー」(庇護者)と「クリエーンス」(大衆、依附者)についてもここで結構ページを取って説明がしてあります。ローマ人にとってもこれは重要な概念だったことは間違いありません(プルタルコスはギリシア出身ですが「ローマ人」であることは間違いありませんから)。

 そして「ロームルスとテーセウスとの比較」。ここでは、「国家の礎」を築いた2人が、まったく別の方法(「どちらも正道から外れた」とプルタルコスは評します)を選択したことが述べられ、そこから「支配者論」が展開されます。支配者はまず支配権を保たねばならないが、それは、不当なことを差し控えるか正当なことを守るかしかない。しかしどちらも控えすぎか行き過ぎとなり、結局民衆の心に憎悪か軽蔑を植えつけてしまう、のだそうです
 さらに「さて不運といふものは、全部をの仕業としてはいけないもので」と著者は説きます。この人、本当に古代人ですか? 当時のローマ(あるいはギリシア)がそんな風潮だったのか、それともプルタルコスが“突出”していたのか……
 「古代」ローマと言いますが、彼らにとっては「現代」で、そこから「昔」を振り返って「現在の自分」を考えようとしているわけで、私たちが織田信長・豊臣秀吉・徳川家康を比較したり幕末期の人物伝を喜んで読むのと、基本的態度としては共通したものが多いのかもしれません。

 後半のリュクールゴスとヌマについては、予備知識が皆無なので流し読みです。もったいないけれどしかたありません。このシリーズには「アレクサンドロス/カエサル」の巻があるそうなので、それは読んでみたいと思っています。


改名/『マンハッタンの怪人』

2008-11-26 19:25:46 | Weblog
 安馬関が大関になったのはめでたいことですが、同時に改名した必要性が私には納得できません。もし強くなるために改名したのだとしたら、体調や星の巡りや相手によって毎日でも改名しなきゃいけないと思うのです。だけど、強くなる(強さを維持する)ために必要なのは、改名よりも稽古では?

【ただいま読書中】
マンハッタンの怪人』フレデリック・フォーサイス 著、 篠原慎 訳、 角川書店、2000年、1500円(税別)

 『オペラ座の怪人』で重要な役割を果たしたマダム・ジリーの臨終の場からお話は始まります。オペラ座での怪事件の後姿を消した怪人は、マダム・ジリーの手助けによってニューヨークに逃げていました。その告白をしてマダム・ジリーは逝きます。そして舞台の幕が上がります(私の脳裡に響くのは、ミュージカル「オペラ座の怪人」のテーマですが)。
 ニューヨークで“怪人”は、社会の最底辺から大金持ちにのし上がっていました。拝金主義のダリウスを手下にして(ダリウスはダリウスで、怪人を操っているつもりです)、巨大な摩天楼(それも自社ビル)のてっぺんに鎮座まします存在になっていたのです。彼が次に行なったのは、新しいオペラハウスの建設。そこに招くのは、これまで大西洋を渡ったことがない史上最高のプリマドンナ、クリスティーヌ・ド・シャニー子爵夫人。こけら落としに演じられるのは、匿名の作曲家による新作。
 いや、もう、たまりません。『オペラ座の怪人』の本やミュージカルの各シーンがつぎつぎ蘇ってきます。アンドリュー・ロイド=ウェーバーの音楽が鳴り響き続けます。
 そして、マダム・ジリーがニューヨークに送った手紙に書かれた、驚愕の真実。いや、そんなのあり? 『オペラ座の怪人』をそう解釈する手があったか、と私は思わず本を閉じてしまいます。
 20世紀初めのニューヨークに集うクリスティーヌと怪人。ホテルに届けられたオルゴールを仕込んだサルの人形。それが奏でるあの曲「マスカレード」。そこから物語は一挙に悲劇の終幕へ行くのか……と思ったら、幕間のように神父と神の対話がはさまれます。この「神」は神父の脳内の存在なのかもしれませんが、なんとも皮肉な会話で、本書が原作や映画やミュージカルとはまた違った(一ひねりも二ひねりもした)“続編”であることを示しています。
 クリスティーヌへの愛を持ち続けていた怪人は、それを拒絶されると、こんどはクリスティーヌの一人息子ピエールを標的にします。さらに別の意味でピエールを標的にしている人物もいました。
 実在の人物がつぎつぎ登場し(読んでいてにやりとする部分がいくつもあります。著者は遊んでいます)、鏡の迷路のように見る人によって違う姿で表現されていた“真実のかけら”が最後に組み合わされ、そして……

 「事実」を散りばめることによって「この話は実話かもしれない」と読者に思わせる手法は、原作でガストン・ルルーが行い(そして失敗し)ました。本書では、同じ手法を用いていますが、舞台をパリからニューヨークに移し、さらに語りのテクニックをもっと洗練されたものにすることで、成功しています。『オペラ座の怪人』が好きな人は、読むべし。


障害者の評価/『ローマ人の物語XII 混迷する帝国』

2008-11-25 18:39:06 | Weblog
ある障害者が平均的な健常者の88%の仕事をしました。さて、それをどう評価しましょうか。
 実はこれだけでは何も評価できません。その障害者がどの程度の能力を持っているかがわからないといけないのです。
 では、その人が普通に全力を出したら、健常者の平均の80%の仕事ができる能力を持っている、としましょう。するとその人が「健常者の88%の仕事」をしたということは、健常者が「110%の力を振り絞った」ことと同等になります。これは褒め称えるべきでしょう。少なくとも「110%の仕事をした健常者」を褒めるのと同じレベルで。

 絶対的な物差し(仕事量)だけではなくて、総体的な物差し(その人の能力の評価)も持っていないと、正しい評価はできません。
 もちろんそれは障害者だけではなくて、健常者を相手としたときも同じですが。

【ただいま読書中】
ローマ人の物語XII 混迷する帝国』塩野七生 著、 新潮社、2003年、2800円(税別)
 「三世紀の危機」が本書では語られます。世界史を学んでいるから、ローマ帝国が衰え分裂し滅びていくことは知っていますが、著者はその衰亡の仕方もまた「ローマ人的であった」と述べます。なるほどここでも「ローマ人の物語」なのですね。

 1世紀には皇帝は9人でした。2世紀は6人。ところが本書で扱われる3世紀の73年間で皇帝はなんと22人、うち謀殺が13人、戦死が二人です。一体どんな時代だったのでしょう。
 トップバッターのカラカラ帝は、属州民へも一律市民権を与えました。ところがこれは著者によると失政でした。ローマは階級社会でしたが、各階級間の流動性は確保されていました。平等ではないが“風通し”が良く、それがローマ帝国の活力につながっていました。ところが「全員市民」となって、しかもそれが「一等市民」と「二等市民(元属州民)」に固定化されてしまいました。結果として「均質社会」=きわめて風通しの悪い社会=動脈硬化した社会、となってしまったのです。
 新興のササン朝ペルシアがメソポタミアを脅かします。ゴート人が北方より侵入してきます。ベルベル人がアフリカを。そして現役の皇帝が戦場で虜囚になるという前代未聞の出来事があり、さらにローマ帝国は一時3つに分裂します。銀貨は銀メッキの銅貨になり、スタグフレーションが進行します。もうローマはボロボロです。皇帝アウレリアヌスによって帝国は再統合されますが、彼はあっさり謀殺されてしまいます。なんというか、まるで皇帝の使い捨てです。一年で総理の座から次々逃げる、が笑えません。
 284年にディオクレティアヌスが即位します。彼はそこから21年間の統治ですからやっと“皇帝使い捨て”が終わったと言えますが……そこでいよいよ“真打ち”登場。キリスト教です。同じ一神教のユダヤ教が「放っておいてくれ」と孤立を貫こうとするのに対し、キリスト教はローマ帝国を乗っ取る動きを見せ始めます。さてそこからどうなるか、は次巻のお楽しみ。


空襲体験/『禁じられた約束

2008-11-24 18:03:45 | Weblog
 イギリス人とアメリカ人の決定的な差は、「空襲体験の有無」かもしれません。イギリスは第二次世界大戦初期に「バトル・オブ・ブリテン」で繰り返しドイツ軍の空襲を受けました。しかしアメリカは、空襲体験を持っていません(真珠湾は一般人に対する空襲とは言えないでしょう)。一番それに近いのが「9.11」です。これが、戦争に対する基本的態度の差となっている可能性は高いかもしれません。

【ただいま読書中】
禁じられた約束』ロバート・ウェストール 著、 野沢佳織 訳、 徳間書店、2005年、1400円(税別)

 印象的な表紙です。海辺の暗い墓地。沈んでいく夕陽に照らされているのか中央がほんのりと明るくそこに白いワンピースを着た少女が立っています。空には爆撃機の群れ。そして裏表紙、表紙の続きの墓地のはずれに少年が立っています。本を開くと、二人の視線が絡み合っていることがわかります。戦争と恋と死が見えます。そう、本書は、痛切な初恋の物語なのです。

 グラマースクールでの優等生ボブ・ビッカスタフは、クラスメイトのヴァレリー・モンクトンに恋をしますが、二人の間には大きな壁があります。ボブは労働者階級の息子。ヴァレリーは工場長(つまり中産階級)の娘です。ヴァレリーは病気で「先が長くない」と言われています。当時の世相では、女の子と付き合っていることがクラスのいじめっ子に知られたら、ボブは死にたくなるほどのイジメに遭うでしょう。さらに戦争が迫っています。そんな中、二人は約束をします。もし彼女が迷子になったら必ず見つける、と。ボブにとってそれは軽い気持ちで交わした約束でしたが、結果としてとんでもないことになってしまいます。
 ヴァレリーは15歳で死にます。そしてボブの人生の半分は戦争、残りの半分はヴァレリーの死で占められます。「だれかが死ぬと、人はそのだれかをさがし始める。それが自分にとって大切な人ならば。」ボブのことばです。
 そしてボブはヴァレリーを見つけ、ヴァレリーもボブを見つけます。しかし生と死を越えた恋は、ボブの命を削ります。死の冷たさがボブを侵し始めるのです。そしてボブは死者の姿を見ることができるようになってしまいます。ヴァレリーの父モンクトン氏は自分の一人娘のことよりもボブのことを心配します。そして空襲下での最後の邂逅と別れ。

 本書は、胸が締めつけられるような恋の物語です。半分は戦争の物語ですが、これが戦時下の恋でなければならなかった必然性がしっかり書き込まれた秀作です。
 そうそう、本書でちょっと目立つのは、宗教の無力さが繰り返し描かれることです。牧師がいくら祈っても、ヴァレリーは“昇天”できず、ボブもモンクトン氏も救われないのです。これは著者の個人的な体験によるものでしょうか。


治安/『論語』

2008-11-23 18:55:58 | Weblog
 逮捕されたのが実行犯なのか、それとも(暴力団抗争の時のような)ただの下っ端の「鉄砲玉」とか「身代わり」とかなのかはまだわかりません。
 ただ、今回の厚生省元次官宅襲撃事件の真相がなんであれ、国の対策が「厚労省の幹部を守る」ことばかりに血道を上げるのではなくて、もっと基本的な「国の治安をいかに維持するか」を考えないと、同種の事件は形を変えて起き続ける可能性があります。悪いことは連鎖反応を起こしがちですから。だからといって「北風」国家になれ、と主張する気もありません。「太陽」の方が私は好みです。

【ただいま読書中】
論語』(中国古典百言百話7) 久米旺生 著、 PHP研究所、1987年、1200円

 論語は日本人の生活に深く入り込んでいますが、2500年前にこんなことを考えそしてそれが記録されさらにそれが時代を超えて生き残ってきたことにあらためて感じ入ります。
 本書ではその『論語』を、師匠と弟子の人間関係の観点から読み解いています。

●子路曰く「君子は勇を尚ぶか」。子曰く「君子を義をもって上となす。君子、勇ありて義なきは、乱をなす。小人、勇ありて義なきは、盗をなす」
 これは子路のことばを孔子がさらに掘り下げているようですが、でも、子路は単に「君子は勇“だけ”をとうとぶ」と主張したのでしょうか? 君子は頭は持っているのだから、勇を持つ部下を重用するべきだ、と言いたかったのかもしれません(実際に子路は、自分の頭よりは実行力を前面に出すタイプでしたから)。ならばこの師匠と弟子の会話は、二重の意味を持ちます。一般論としての君子論と、孔子と子路の関係について。
 この「弟子との関係」は、たとえば「堂に入る」でも重要です。
●子曰く「由の瑟、なんすれぞ丘の門においてやせん」。門人、子路を敬せず。子曰く「由や堂に昇れり。いまだ室に入らざるなり」
 孔子が「子路の琴は、私の家ではどうもねえ」と言ったのを聞いて門人が子路を軽んじたため「いや、彼の腕は一流の水準(堂に入る)だが、まだ最高レベルではない、ということだ」と“説明”(弁護?)しているお話です。弟子も早合点ですよねえ。実際に子路の腕を判断するのではなくて、孔子が「どうもねえ」と言ったのを聞いて自分の行動を決めるのですから。孔子も弟子の育成では苦労したのではないでしょうか。実際に弟子の性格によって教え方やことばを選んでいます。“教師”は大変です。

 孔子は、他の人より3歩踏み込んで考え、その1歩分だけをことばで周囲にフィードバックをした人のように見えます(3歩分をそのままことばにしたら、おそらく誰もついて行けませんから。ならば「2歩め」は何のためかと言えば、優秀な弟子が最初の1歩にくいついてきた場合の予備です)。だからこそ、直截な表現がまた力を持ちます。たとえば子貢が「政」について問うた時「政治の目標は、食料の充足、軍備の充実、人の間の信義。その二つしか選べないのなら軍備を捨てる。さらに一つしか残せないのなら、信義を残す」と答えたことばの迫力には、私にはたじたじです。食料がなくなって死ぬとしても、人と人との信義があれば、それは「人として死ぬ」です。しかし、信義を失えば、いくら腹が一杯でもそこにいるのは「人」ではないのです。政治にはそこまでの覚悟が必要って……今の政治家はそんなことを考えながらお仕事をしているのかな?

 孔子の方法論を形だけ真似ることは容易です。人より一歩だけ踏み込んで考えるだけでも形式的に同じことができます。問題は、一歩だけだと容易に周囲の(優秀な)人間に喝破される可能性があること(回りがあまり考えない人だと、その「一歩」のインパクトで思考停止になってくれるんですけどね、「ネットは広大だわ」なのでいろいろ(自分より)優秀な人がいるのです)。ネットで偉ぶったりもったいぶっている人のほとんどはこういった孔子の亜流(しょせん小人)であるように私には見えます。おっと、偉ぶっている時点でその人は君子ではありませんね。天に唾しないように私も気をつけなければ。


お家騒動/『終わりの始まり』

2008-11-22 18:08:54 | Weblog
 政治家の多くが二世三世になると、政治家同士の権力闘争は結局「この世をどうするか」ではなくて「○○家」vs「××家」の「ボスの座をめぐる家同士の争い」「先祖の恨みを晴らすための戦い」あるいは下手するとただの「お家騒動」でしかなくなってしまいます。お家騒動は権力闘争ではありますが「政治」ではありませんから「政治に無関心な層」が「お家騒動」にも無関心なのは「正しい態度」と言える……のかな?

【ただいま読書中】
ローマ人の物語XI 終わりの始まり』塩野七生 著、 新潮社、2002年、2800円(税別)

 五賢帝の最後、“哲人皇帝”マルクス・アウレリウスから本書は始まります。ただし、彼の即位ではなくて、その前の時代から。
 伝統的な史観では、ローマ帝国の衰亡は五賢帝の時代の終了とともに始まることになっています。だからマルクス・アウレリウスの“前”の皇帝アントニヌス・ピウスにはあまり歴史家の注目が集まっていません。あまりに平穏な時代で注目するべきことはない、と。ところが著者はそこに疑問を持ちます。ローマの衰亡は、実は五賢帝の時代にその種が蒔かれていたのではないか、と。著者らしい目のつけ方だと感じます。
 志願兵の数が減少してきます。国が豊かで安定したら、兵役の魅力は薄れるのです。ペストが流行します。国境には次々蛮族が侵入。そして、ローマの神々を否定し公共に貢献することも否定するキリスト教徒の数が国内に少しずつ増えてきます。
 やがて、北の防壁が破られます。マルクス・アウレリウスは出陣し、陣中で『自省録』をしたためます。さらにシリア属州総督の謀反。マルクス・アウレリウスは、ローマ帝国を次々襲う“ほころび”を修復することに追われ続けます。
 そして、キリスト教徒が円形競技場で公開処刑されることが始まります。それまでは鞭打ちの末斬首刑でしたが、剣闘士の不足に悩む地方の闘技場が、そのかわりの“演し物”として(ローマ市民以外の)キリスト教徒を公開処刑を扱い始めたのです。(「ローマの神々」を否定するキリスト教徒は、つまりは国家反逆犯でした)
 マルクス・アウレリウスの死後、息子のコモドゥスが跡を継ぎます。歴史家には評判の悪い皇帝ですが、著者はまた「本当にそうか?」と考察を続けます。最初はまあ“弁護”の余地がある為政ぶりですが、姉による暗殺未遂事件以後、人格が変容してしまいあとは失政続きで結局コモドゥスは暗殺されてしまいます。以後は、軍事力を背景にした実力者同士の争いとなります。

 ローマ帝国が、豊かになり安定したことが、結局ローマの衰亡の原因の一つとなってしまったわけで(自分の体を張って軍隊へ、の人が減り、中で豊かさを楽しもうとする人が増える、その豊かさを目指して周辺から人(蛮族)が押し寄せる)、なんとも皮肉な話です。といって、安定をわざわざ捨てるわけにはいきません。強いて言うなら「静的な安定」ではなくて「動的な安定」を求めるべきでしょうが、それには相手の“協力”も必要です。なかなか思うようにはなりません。
 さらに、実力主義で皇帝が決まるようになると、問題は後継者です。辺境の司令官が皇帝になれるのだったら、自分がやったように自分の死後(あるいは生きているうちにも)同じことが起きるのではないか、というおそれを皇帝は持ってしまいます。だからといって、司令官を弱っちい奴にしたら、辺境が簡単に蛮族におかされます。外憂内患と言いますが、ローマ皇帝は、蛮族と国内の安定の問題とそして家族の問題に悩まされ続けることになります。


テッド・チャン/『限りなき夏』

2008-11-21 16:59:30 | Weblog
 寡作で有名な作家で、現時点では短編集『あなたの人生の物語』とそのあとに書かれた短編二つしか日本では知られていません。で、その短編二つが2008年1月号のSFマガジンに載っている、ということをファンの皆さんご存じでしょうか? さあ、読みたい人は古本屋に走るのだ。あるいはもしかしたら早川書房に新品の在庫がまだあるかもしれません(出版されてまだ1年ですから)。

【ただいま読書中】
限りなき夏』クリストファー・プリースト 著、 古沢嘉通 編訳、 国書刊行会、2008年、2400円(税別)

 私が最近注目している作家は、ウェストールとクリストファー・プリーストです。本書はプリーストの短編集ですが、はじめの二つの短編には実に魅力的なガジェット(小道具)が登場します。たとえば「限りなき夏」では、凍結者(時間旅行観光者らしい人びと)が使う「装置」。これでお気に入りのシーンを「撮影」すると、観賞用に撮影された人(びと)は時間の中で凍結され、それが腐食して溶けるまで実時間の世界では行方不明になってしまうのです。あるいは「青ざめた逍遥」での「橋」。流路公園のフラックス流体の流れに架けられた3本の橋は、その角度によって明日あるいは昨日の対岸に渡ることができます。
 宇宙船とかタイムマシンといった“大物”ではないけれど魅力的なSFガジェットとして、私がすぐ思いつくのは「スローガラス」です。ただし、スローガラスが登場する作品が魅力的なのは、ガジェット自体の力というよりは、それをめぐる人間のドラマが生き生きと描かれていたからでした。本書でもそれは同じです。特に「青ざめた逍遥」で、主人公がパターナリズムの権化のような父親から解放されたら、それと同じ態度を自分の子ども、はては若い頃の自分に対しても取るところなど、なんとも複雑で苦い笑いをこちらは堪えることができません。
 「逃走」(著者のデビュー作です)「リアルタイム・ワールド」「赤道の時」では“奇妙な状況”が描かれます。もう一人私のお気に入りの作家テッド・チャンの作品では、「状況」は論理が許す限り(時には許さないところまで)の極限まで追い求められますが、プリーストはそこまでの“追求”はしません。ドラマの舞台を仕立て上げたらそこで始まる人間ドラマの方に注意を向けているようですが、その「舞台から人間に注意を向けるタイミング」が、テッド・チャンよりも早い感じです。
 そして「夢幻群島」の連作が3つ(数え方によっては4つ)。J・G・バラードのヴァーミリオン・サンズの連作をちょっと思い出しますが、あれよりもこちらの方がビターな味わいで、肉欲の臭いも濃く漂った雰囲気です。こちらにはSFガジェットはあまり登場しませんが、なんとも不思議な(そしてときには不愉快な)感触が残ります。SFというより文学を読む悦楽を味わえる感じです。