【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

早起きは三文の徳

2022-08-31 07:13:13 | Weblog

 一体何が「三文」なのか、ちょっと考えてみました。
 このことわざは勤労を是としている雰囲気です。早起きしてとっとと働け、と。しかし日本では「夜なべ仕事」も是とされています。「母さんは夜なべをして手袋を編んでくれた」(「かあさんの歌」)とは言いますが、「母さんは早起きをして手袋を編んでくれた」とは言いません。ただ、ここで問題になりそうなのは、照明でしょう。貧乏な家にとって、夜間の照明はそれだけで“浪費"です。もしうっかり蝋燭なんか使ったらそのコストを回収するために莫大な仕事が必要になります。それだったら太陽と共に起き出してお日さまという「無料の照明」を使った方が「三文の得」、そしてそれを実践する行為自体が「徳」であるぞよ、ということだったのでは? 電気を使いたい放題でしかも遊びほうけている現代の人の姿を見たら、江戸時代の日本人はなんと思うでしょうねえ。
 ただし、太陽を経済効果で評価して、しかもその価値が「三文」、というのは、お日さまに対してずいぶん失礼な態度、とも思えますが。ついでに「(得ではなくて)徳」も経済効果で評価してしかもその価値が「三文」というのも、「徳」に対してずいぶん失礼です。

【ただいま読書中】『職工事情(上)』犬丸義一 校訂、岩波書店(岩波文庫 青N100-1)、1998年、700円(税別)

 明治34年(1901)農商務省将校局工務課工場調査掛が「日本の工場」の現実を調査し、その記録を明治36年(1903)に出版しました。劣悪な労働条件をあまりに赤裸々に記録していたため、戦前には復刻が許されませんでした(ただしこれは政治判断でしょう。現在の官僚がデータ捏造や恣意的な廃棄を平気でやっているのとは、ずいぶん背筋の伸び方が違うと私は感じます。平成・令和の官僚はモラルの点で明治に負けてるね)。
 最初に紹介されるのは、関西の紡績工場16の職工ですが、約2万5000人の男女比は2:8、20歳以上は53%で、つまりほぼ半数は未成年です。おそろしいのは「10歳未満」が男女とも数名ずつ存在していること。江戸時代の「奉公」ですか?
 明治32年の東京紡績会社と鐘淵紡績会社のデータでは、男は全員通勤ですが、女の過半数は寄宿舎、ということも示されます。なるほど、これが「女工哀史」の温床です。
 勤務は昼夜二交代。ただし、居残り(残業)は常態化しています。食事休憩は規則に明示されていますが、工場の機械は止まりません。交替で食べに行くか、食べながら労働を続けるか、です。
 本書では「労働者の権利」とか「労働者保護」とかは声高に叫んでいません。叫んでいませんが、徹底的に集められた「データ」がそれだけで巨大な叫びとなっています。

 


喉元過ぎれば

2022-08-30 06:40:48 | Weblog

 「2年も我慢したのだから」「行動制限が出ていないから」とこのお盆には人が散々動きました。
 「11年も経ったのだから」と政府は原発を再稼働どころか新造もする気です。

【ただいま読書中】『戦火のマエストロ 近衛秀麿』菅野冬樹 著、 NHK出版、2015年、2500円(税別)

 「戦火」と「近衛」で私がまず想起するのは「近衛文麿」です。由緒正しい摂関家の出身で、天皇の信任が篤かったのか首相を3回も務め、しかし軍の暴走を抑えられずその責任を占領軍に問われてA級戦犯として巣鴨プリズンに出頭を命じられ、自宅で自殺をした人。
 近衛秀麿は文麿の弟で、政治ではなくて音楽の道を選択しました。しかし1920年代の日本に「生きた西洋音楽」はほとんどありません。しかたなく秀麿は、東京音楽大学に潜り込んだり、貴重な楽譜を持っている人の所に行って見せてもらったり(九州帝国大学医学部の博士がベートーヴェンのすべての交響曲の楽譜を海外から持ち帰ったことを聞きつけたら、自宅に押しかけてそのすべてを書写しています)。そして、1923年、秀麿は兄の許しを得てヨーロッパ遊学。まずパリで1箇月過ごしますが、音楽のレベルに感心できず、ドイツへ。ハンブルク楽友協会の演奏会で「死と変容」(リヒャルト・シュトラウス作曲、指揮はカール・ムック)などを聞いて「自分は指揮者になろう」と衝撃を受けながら決心をします。当時のドイツは、敗戦後の未曾有のインフレの真っ最中。生活は大変でしたが、外貨を持ち込んだ秀麿は、とてもお安く楽譜を入手できました。そこに関東大震災の知らせが。情報不足の中、多くの日本人はとりあえず帰国しようと焦ります。そんな中、なぜか秀麿に「ベルリン・フィルを指揮する機会」が。これはどうも「ホールとベルリン・フィルの賃貸し」事業によるものだったようです。この「体験」と、大量に購入した楽譜と楽器を“手土産"に帰国した秀麿は、日本初のプロ・オーケストラ「新交響楽団(のちのNHK交響楽団)」を結成します。なお、この時のベルリン・フィルの「指揮」は一種のオーディションだった、と著者は推測しています。そこでの指揮ぶりが“合格"だったため、1933年10月のベルリン・フィル定期演奏会で秀麿は客演指揮者としてプロ正式デビューをしています。
 ここまでで充分「本一冊分」のお話ですが、本書の主題はここから。
 秀麿は、自分が作ったプロオーケストラのレベルアップのために、欧州との交流を盛んにしようと考えていました。そのためには自分もきちんとした指揮者として遇される必要があります。ところが、33年のナチス政権樹立が、思わぬ影響を秀麿に与えたのです。
 秀麿は、ナチスのユダヤ人迫害が気に入りませんでした。そこで、ベルリン・フィルの客演指揮者という立場を利用して、ひそかにユダヤ人の援助を始めました。著明な音楽家は、東京音楽学校の教職への就職や新交響楽団との共演を名目に日本に招待し、そのまま亡命です。
 秀麿は、アメリカでも活動をします。フィラデルフィア管弦楽団やシアトル交響楽団での指揮ぶりをストコフスキーに気に入られ、その推挙でNBC交響楽団の副指揮者、さらにロサンゼルス・フィルハーモニーと客演契約も結びます。ところがそこに日中戦争が。アメリカでの契約はすべてキャンセル。秀麿は主にドイツで活動をすることにします。公にできる音楽活動と、それと密接に関係しているが誰にも公言できないユダヤ人救済活動です。
 ユダヤ人救済を調べていて難しいのは、「救済した側」も「救済された側」も口を閉じていることが暗黙の了解になっていることです。公的な記録など当然ありません。そこを丹念に解きほぐしていくためには、相当な根気と執念が必要です。
 ユダヤ人が「出国税」を払えばドイツ国外に出ることができた時期、近衛秀麿はドイツ国内の有志と日本大使館の書記官と組んで、ユダヤ人の財産を秘かに国外に移す作業をしていました。これは明確な「反ナチ」運動です。ついでですが「反日」運動でもあります。しかし、彼らはユダヤ人救済のために命を賭けて活動をしていました。
 さらに、ユダヤ人の出国禁止令が出ると、秀麿の活動は別のステージに移ります。日本の大使大島は「駐独ドイツ大使」とあだ名されるくらいナチスびいきで、秀麿とは正面切って対立していました。大島はナチスに働きかけて、ドイツ軍人が秀麿の演奏会に行くことを禁止させ、さらには43年7月に秀麿自身のドイツ国内での移動を禁止させました。ところが同年9月、秀麿はふらりとポーランドに出現します。ポーランド総督からの強い要請を、ゲッペルスも大島も拒絶できなかったようです。そして、ワルシャワで行われた3回目の「ワルシャワ市民オーケストラ」の演奏会は、驚愕のものでした。オケのメンバーは全員ポーランド系ユダヤ人だったのです(秀麿は記録魔で、自分が指揮したコンサートすべてでオーケストラ全員にサインを書いてもらっています。そのサインの分析でユダヤ人が参加したことがわかります)。さらに秀麿は44年4月にパリで「コンセール・コノエ」(近衛オーケストラ)を旗揚げ。フランスとベルギーの地方都市を巡回公演しますが、それはメンバーを地下組織に託して国外脱出させるためのものでした。秀麿は自らバスのハンドルを握って楽団員を指定の場所まで送り届けていました。そこに、兄の文麿からスイス経由で指令が届きます。「アメリカ合衆国とコンタクトせよ」と。ドイツ降伏直前、秀麿はベルリンにいました。もう脱出は困難な状況です。しかしアメリカ軍からは「自らアメリカ軍に投降せよ」との指令が。秀麿は必死の思いでリュックマールスドルフに脱出、そこで米軍に投降しました。ただしその前に、命より大切な楽譜を隠しています。投降の目的はもちろん兄の名代として日本の降伏について話し合うためでしょう。実際に、捕虜となってから秀麿は日本をスムーズに降伏させるための手立てをいろいろ考えて提案しています(アメリカ軍には採用されませんでしたが)。
 こういった活動を見ると、日本人にも大した人物がいたものだ、とひたすら感心するばかりです。私が同じ立場にいたら、何ができた(できる)だろう、とも思いますが。

 


無問題

2022-08-19 10:44:33 | Weblog

 「旧統一協会との関係はない」と言いつつ、選挙に協力してもらっていた人がいます。さらに「問題はないが、これからの関係は見直す」と同時に言う人もいます。関係があるの?ないの? 問題がないのなら、どうして関係を見直す必要があるの?

【ただいま読書中】『暁の宇品 ──陸軍船舶司令官たちのヒロシマ』堀川惠子 著、 講談社、2021年、1900円(税別)

 広島が原爆投下の標的とされたのは、地形的に“好条件が揃っていたこと"があったこともありますが、軍都であることも大きな理由でした。ただ、戦前の日本の都市はどこも“軍都"だったはず。軍都広島の特異な点は「陸軍船舶司令部」があったことです。これは、陸軍の兵員輸送・補給・兵站を一手に担う組織で、人員は30万人と方面軍一つに相当するぐらいの巨大さでしたが、日本の史料にはその記述はほとんど残されていません。
 広島が軍港として注目されたのは、日清戦争のとき。東京からの鉄路が広島までで、しかも港が早くから整備されていたため、陸軍糧秣支廠・被服支廠・兵器支廠・缶詰工場・倉庫・検疫所などが次々整備されました。世界的に海上輸送関連は海軍の仕事です。しかし日本帝国海軍はそれを拒否しました。船を一艘も持っていない陸軍は自前で海上輸送をすることになります。しかし、陸軍が船舶や船員を必要とするのは戦時だけ、平時には不要です。そこで採用されたのが「民間船のチャーター」。これは西南戦争で大隈重信が三菱に兵員輸送を依頼したのが始まりと言えます。一般日本語では「賃船」ですが、軍事利用の場合は「傭船」と言うそうです。
 大正8年、広島の宇品港にある陸軍運輸部に、陸大を卒業したばかりの田尻昌次が配属されます。後に「船舶の神」と呼ばれ中将まで出世した人でした。
 大正期、敵前上陸の重要性が世界的に言われるようになり、日本陸軍も当然それは認識していました。ところが使えるのは木造手漕ぎの小型船、しかも漕ぐのは民間人。田尻はその改革に乗り出します。ところが陸軍の予算には「研究開発費」がありません。田尻は金を何とか工面し、天才的な技師たちがついに世界で最新鋭の鉄製上陸用舟艇「大発」開発に成功します(のちにアメリカ軍は大発を参考に自分たちの上陸用舟艇を開発し、南太平洋で活用することになります)。田尻はさらに船舶を扱う専門職として「船舶工兵」という新しい科も陸軍の組織内に作ってしまいます。また、田尻は海軍との協力関係も重視しました。「海」に関して、海軍は明らかに陸軍の“先輩"ですから、その教えを請わなくてどうする、という態度です。そのためか、満州事変まで、陸軍と海軍の(少なくとも輸送に関する)関係は良好でした。
 輸送は「合理性」を要求します。輸送するもの・その量・積み込む場所・おろす場所・期間、それらが決まれば、必要な船舶・輸送に必要な人員・設備(クレーンなど)の数・積み込みの人足数・おろす人足数、などが「数字」として表現されなければなりません。田尻にはこれらの数字が一瞬で浮かんでくる天賦の才があったようです。しかし、イデオロギーがちがちで根性主義でしかも兵站軽視の将官には、田尻の“価値"は全然見えなかったようです。
 第一次上海事変が勃発。田尻たちに「一個師団の輸送」が命じられます。ところが必要な資材や人員を田尻が計算して提出すると、参謀本部はあっさり却下。予算も人員も無しで、まるで魔法のように一個師団を輸送しろ、が参謀本部の要求です。威張ることしか能がないただの××だね。ところがこの××が権力を握っているからタチが悪い。参謀本部に要求を次々突きつけ、結果として上海事変での上陸作戦を成功させてしまった田尻は、以後冷や飯を食わされ続けることになります。皆が間違っているときに正しいことを言う少数派は、“皆"に憎まれるのです。田尻が要求した輸送船の武装化、敵から発見されにくいように煤煙を減らす装置の導入、などなどもすべて参謀本部によって却下却下却下。それによって日本軍の損害はどんどん増えますが、偉い軍人さんにはそんなことはどーでもよいことだったようです。“たかが輸送"ですから。
 対中国戦が泥沼化するにつれ、「日本の数字」は悪化の一途。こんなことでは、対米開戦も南進論も絵に描いた餅であることは、「数字が読める」田尻には明らかでした。
 昭和14年7月、田尻は「民間ノ船腹不足緩和ニ関スル意見具申」を提出します。これは、陸軍中枢だけではなくて、船舶輸送に関係する厚生省、大蔵省、逓信省、鉄道省、商工省すべてに“業務改善(改革)"を迫る“建白書"でした。その全文が本書に掲載されていますが、あくまで「数字」と「論理」を前面に出しているもののその背後に鬼気迫る迫力を私は感じました。これは「正論」ですから、ある種の人間の逆鱗に触れます。また「越権行為」ですから、これまたある種の人間の逆鱗に触れます。この「ある種の人間」に共通するのは、「国の利益」「戦争の勝利」よりも「組織内での権力闘争に自分が勝つこと」や「序列」と「既得権」の方を重視する態度です。かくして田尻中将は「諭旨免職」となりました。
 結局、日本が戦争に負けたのは、「勝利より大切なものがある」と考える人間が役に立つ人間を放逐したから、とも言えそうです。ちなみに、太平洋戦争中に死んだ船員は6万643人。戦死者の比率は、陸軍20%、海軍16%、(民間人の)船員は43%です。
 なお、広島の船舶部隊は地元では「暁部隊」とも呼ばれていたそうですが、その「暁」の由来については、こちらも明治時代に遡る別のお話があります。詳しく書いたらたぶん本一冊分にはなるでしょう。