【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

調べなくてもわかること(2)

2021-11-29 12:53:28 | Weblog

 先日の「調べなくてもわかること」でフクシマ直後に政府は内部被ばくについてきちんと調査をしなかった、と書きましたが、実は甲状腺被ばくについては調査がされていました。ただし福島県民200万人(うち18歳以下は40万人)のうち1080人だけ。これでは統計的に“弱い"数字です。どうしてきちんと調査をしなかったのでしょう?(ちなみにチェルノブイリでは3箇国で30万人以上が検査を受けています)
 ということで、本日の読書です。

【ただいま読書中】『福島が沈黙した日 ──原発事故と甲状腺被ばく』榊原崇仁 著、 集英社(新書1051B)、2021年、900円(税別)

 「1080人」の数字(の少なさ)にも驚きましたが、その対象が「原発から30km以上離れた住所地の住民」に限定されていることにも私は驚きました。これは「都合の悪い数字は記録に残したくない(=真実を隠蔽したい)」という態度にほかなりませんから。原発に近いところの住民は濃厚に汚染されている可能性がありますが、それを証拠として残したくない、と言うことです。これ、誰がそう決めたのでしょう? そして、その目的は?
 その「目的」を探る著者の行動は、なかなか知的にスリリングです。情報公開制度を使うのですが、行政が隠したい文書をいかに上手く公開させるか、そこにテクニックが必要です。さらに、あまりにきわどいところに迫ってしまうと、情報の隠蔽や破壊が行われますから、そこでの手加減も必要です。
 しかし驚くべき証言があります。「原発から20km圏内は避難をした。20〜30km圏内は屋内避難をした。だから放射能に汚染されていない。汚染されていない人を測定対象にする意味がない」。読んで頭がくらくらします。机上の空論通り現実が動くのだったら、どんなに楽なことか。自分の想定通りに現実が動いてくれないからこそ、現実を調査することに意味があるんですけどね。私から見たら、こういった主張をする人たちは、現実逃避をして「ぼくちゃんは、わるくないもん」とつぶやきながら知的な意味での引きこもりをしているだけです。
 そして「保身」と「詭弁」。真実がどうかを知るよりも人々の不安を取り除くことが最優先という“配慮"。すり替えられる「目的」、残されない「記録」。矮小化される被ばく。そのために捏造される計算式。そして、見苦しい言い訳。逃げ切る政府と泣き寝入りする人たち。
 これはもう、ほとんど犯罪、というか、情報と人道に対する犯罪そのものに私には見えます。

 


ウイルスとの共生

2021-11-27 12:42:25 | Weblog

 ウイルスは人を殺したり苦しめる“敵"と見るのがふつうですが、ヒトのDNAの相当な部分はウイルス由来と聞いたこともあります。つまり“仲間"というか“共生関係"。
 だったら新型コロナウイルスにも「人を殺すよりも、共生するのはいかがですか」とメッセージを送りたいですね。ただ、新型コロナウイルスを組み込まれたら「わたし」がどうなってしまうのか、ちょっと不安ではありますが。

【ただいま読書中】『共生生命体の30億年』リン・マーギュリス 著、 中村桂子 訳、 草思社、2000年、1800円(税別)

 マメ科の植物は根に根粒菌がついています。これは「共生」です。細胞の中にミトコンドリアや葉緑体があるのも、元を辿れば別の生物が入り込んでともに生きることになった、つまり「共生」です。著者は、「進化(新しい種の誕生)」や「最初の種の誕生」そのものにも「共生」が大きな役割を果たした、と考えています。
 俗なことで私が驚いたのは、著者が大学で出会って結婚したのが、あのカール・セーガンだったこと。のちに離婚したそうですが、意図しないところでこんなビッグネームに出会うと、驚いてしまいます。それにしても14歳で大学入学、3年半で卒業、19歳で結婚、22歳で大学院に入学その時にはすでに二人の息子を持っている……著者はちょっと生き急いでいるようにも見えます。それともアメリカの天才たちは、みなさんこんな感じの人生なのでしょうか。
 1960年代の生物学は「遺伝がすべて、そして遺伝子は核の中」と考えるのが主流でした。しかし著者は「細胞核の外は無関係?」と疑問を持ちます。もちろん、核外遺伝子の存在はすでにわかっていました。ただそれは「核の外」に存在することで軽視されていたのです。そこに注目した著者は「細胞の中に細菌が住み込んでいる」という着想を得ます。「細胞内共生」の概念です。ただし最初の論文は学術雑誌に15回も受理拒否をくらったそうです。最初の単行本も、5箇月も出版社は原稿を棚晒しにしておいてあっさり出版拒否。おやおやおやおや。
 ところが著者の「連続細胞内共生説(略称はSET)が一度受け入れられると、こんどは無批判に受け入れる人が続出。そのことに「批判的吟味」を信条とする著者はがっかりしています。
 植物の起源となった真核細胞は緑藻ですが、この細胞ができるためには、4種類の細菌が決まった順序で合体した(順序が決まっているから「連続」と名付けられています)と著者は考えています。その順序は、こうです。まず、古細菌(硫黄と熱を好む細菌)と遊走性の細菌が一体化して「遊走性プロチスト」を作りました。これは核をもつ嫌気性細菌で、そこにこんどは酸素呼吸細菌が組み込まれ「真核細胞」が地球に登場することになります。この「三者の複合体」から多くの動物が生まれることになります。さらにそこに緑色の光合成細菌が加わり、葉緑体となりました。この、遊走性の緑藻が植物の祖先です。昔の学者は葉緑体に遺伝子を発見して驚きましたが、著者に言わせたら葉緑体はシアノバクテリアのなれの果てなのだから遺伝子があるのが当たり前、だそうです。現在の学界では、ここまでは多くの意見は一致しているそうです。一致していないのは、「鞭毛」。著者はこれも共生によって発生した、と主張していますが、多くの学者はそれに否定的。さてさて、どちらが正しいのでしょう?
 さらに著者は「地球の生態系も“共生"」と唱えます。この発想自体には無理はないと私は感じます。さらにこの発想を社会的な方向に発展させたら、この社会もまた「共生社会」と言えるでしょう。宗教がかった方向に進めることも可能ですし、宇宙論に進めることも可能。いや、これはしばらく想像の世界で私は遊べそうです。

 


調べなくてもわかること

2021-11-26 11:08:01 | Weblog

 フクシマの原発事故の後、体内被曝を心配する声に対して政府は「大丈夫だから、調査をする必要はない」と繰り返していました。私にはそれは「逆」に見えました。「調査をしたら大丈夫とわかった」ではないか、と。あるいは「チェルノブイリ」を引き合いに出して「甲状腺癌などは心配ない」と言う人もいました。私にはそれは理解できませんでした。チェルノブイリはチェルノブイリ、フクシマはフクシマ、調査しなければ両者が違うか同じかの断言はできないだろう、それがどうして調べないで断言できるのだろう、と思ったのです。さらに有志が甲状腺を調査して異常を見つけると「そういった調査をしなければ見つからなかった(フクシマとは無関係に存在していた)ものだから、心配ない」と言う人もいました。これも不思議な言い分です。それを言うためには「フクシマ」でスクリーニングするのと同時に遠い他の地域でも同じスクリーニングをして、その比較をしなければそんなことは言えないはずですから。
 1年半前に「新型コロナのPCR検査なんかしなくてよい」と強く主張する人がたくさんいましたが、フクシマといい新型コロナといい「調べる必要はない(=調べなくてもわかっている)」と主張する理由は、何なのだろう、と私は今でも不思議に思っています。そちらも詳しく調べてみたいなあ。

【ただいま読書中】『宝くじの文化史 ──ギャンブルが変えた世界史』ゲイリー・ヒックス 著、 高橋知子 訳、 原書房、2011年、2400円(税別)

 「くじ」は文明とともにありました。たとえば古代ギリシアのアテナイでは、最高会議の500人評議会のメンバーや官僚、裁判の陪審員、死刑執行人までもがくじによって選ばれていました。これは権力を腐敗させず民主制を維持するために優れた制度、とアテナイでは考えられていました。古代ギリシアでは神託にもくじが用いられていました(有名なデルフォイの神託では、ソラマメのくじが使われていました)。そういえば日本でも足利将軍を選ぶのにくじが用いられたことがありますね(六代将軍義教です。そのくじが「阿弥陀くじ」だという説もあります)。
 古代ローマでは「神託のくじ」が大衆化します。ローマの初代皇帝アウグストゥスは迷信深くくじを深く信じていました。そして、戦乱で疲弊したローマを再建するための資金集めにも、くじを活用しました。公営宝くじです。
 ローマ数字で発行できるくじ券には、実用的な限界があります。数百枚以上は発行しづらいのです。アラビア数字(特に「ゼロの概念」)の導入が、宝くじを大きく変えました。さらに、15世紀半ばにヨーロッパに登場した持ち運び可能な印刷機によって、宝くじの発行枚数は飛躍的に増えます。この頃のベルギー・オランダ・ルクセンブルグあたりでは、慈善事業や公共事業のために大々的な宝くじが発行されました。
 イギリス最初の公営宝くじは、1568年エリザベス一世が荒廃した港の改修費用捻出を目的として発行させました。ところが当選確率が1万6000分の1を嫌った人々はくじを買い控え、女王は当惑させられました。発売期間は勅令によって延期に次ぐ延期、抽選には4箇月もかかる、というドタバタです。結局イギリスでは宝くじは「為政者が避けるべきもの」になってしまいました。それを変えたのが、新大陸です。初期の入植地ジェームズタウンは疫病と飢饉と現地のアルゴンキン族との紛争で、全滅の危機にありました。それを救おうとイギリスで宝くじが構想されたのです。その利益で、植民地を運営するヴァージニア社は破産の危機から救われ、ジェームズタウン経営は軌道に乗りました。『ローマ亡き後の地中海世界』でも取り上げられていた「イスラム海賊に拉致されて奴隷となったヨーロッパ人」を奪還するための宝くじもありました。
 ジャコモ・カザノヴァは女性遍歴で知られていますが、フランス国営宝くじ創設を支援したことでも知られているそうです。宝くじはフランス国民に愛されるイベントになり、その管理者に就任していたカザノヴァは(一時的にですが)富豪になりました。すぐにすべてを失うことになるのですが。
 宝くじには、賛成論者もいれば反対論者もいました。違法な宝くじを運営する人たちは、現代だったら麻薬の売人のような行動をします。詐欺も横行。実は現代社会でも、宝くじを使った、あるいはそのシステムを応用した詐欺的商法が横行しているのだそうです。うまい話には、注意が必要です。

 


選挙

2021-11-19 08:33:02 | Weblog

 立憲民主党の代表選挙が始まりました。
 自民党のように、総選挙の“前"にやるべきでしたね。

【ただいま読書中】『カラスをだます』塚原直樹 著、 NHK出版新書646、2021年、850円(税別)

 カラスはマヨラー、嗅覚はほとんどない、バカ舌である、紫外線を見ることができる、なんてカラスに関する知識の乱れ打ちです。著者は、カラスの鳴き声を真似し、剥製を攻撃させようとし、カラスに似せたドローンを飛ばします。遊んでいるのではありません。真面目な研究です。
 「カラス」という題材と、著者のふざけた口調にだまされて、著者が遊んでいるだけ、と誤解する人もいるかもしれませんけれどね。だけど、誤解は、誤解する側の問題でしょう。
 「カラスによる被害」と言えば、糞害とか出したゴミ袋を破られてまき散らされるとかうっかりヒナに近づいた人が親鳥に襲われる、などを思いつきますが、本書にはもっと深刻な例も紹介されています。特に農家がカラスによって莫大な被害を受けているのを知ると、著者がカラスを追い払う方法を熱心に開発するわけもわかります。しかし、それで特許が取れるんですね。
 著者は「カラス料理研究家」という肩書きも持っています。日本では1年間に10万羽超のカラスが有害鳥獣として「処分」されているそうです。これをただ捨てるのはもったいない。ところが著者が初めてカラスの胸肉をソテーしてみると、堅さと臭さに参ったそうです。著者がただ者でないのは、この「研究」で科研費を申請したこと(あっさり落とされたそうですが)。ところが、国立民族学博物館教授と国立歴史民俗博物館教授との出会いで「異分野間の共同研究」となり、大学の競争的資金が獲得できたのです。となると“趣味"は封印して“研究"優先です。しかし、新しい蛋白源としてのカラス……安定的な供給は可能なのか、需要はどのくらいあるのか(つまり「商売になるのか」)、ということも気になります。生ごみや死肉をつつくカラスですから、その肉の安全性も気になる……と言うことで著者は「重金属」「残留農薬」「残留抗生物質」「細菌」「寄生虫」などを調べまくります。ちなみに、カラスに限らず、野生動物の肉を生で食べるのはやめた方がよいそうです。下手すると命にかかわりますので。栄養成分の分析では、低コレステロールで鉄分が非常にリッチ(牛のレバーの倍以上)だそうです。栄養ドリンクで有名なタウリンも、他の種の肉に比較して圧倒的に豊富に含まれていました。成分的には「よいお肉」です。味覚センサーでは他の肉に比べて酸味が多めで甘味が不足していることがわかったので、調理過程でそれを調整したらもっと美味しくなりそうです。
 カラスという野生動物と、どうやったら平和共存できるのか、それが上手くできたら、他の野生動物とも共存ができるようになるかもしれません。著者の研究には未来があります。

 


清教徒

2021-11-18 07:06:52 | Weblog

 私は世界史でメイフラワー号のことを習ったときに清教徒はイギリスでは住みにくいからアメリカに渡った、と思っていたのですが、清教徒革命は1640〜60年(メイフラワー号は1620年)。王政を廃止できるくらいに清教徒は力を持っていたわけです。清教徒って、当時のイギリスでは強かったのでしょうか、それとも弱かった?

【ただいま読書中】『火山大災害』金子史朗 著、 古今書院、2000年、2500円(税別)

 ポンペイ(とヘルクラネウム)をほぼ全滅させたのはベスビオ火山です。ところが人々の関心はもっぱらポンペイ(とヘルクラネウム)に向いてしまって、火山そのものがあまり注目されないことを、著者は残念がっています。
 「1991年の火山噴火」と言えば、日本では6月の雲仙普賢岳(の火砕流)を私は思いますが、世界的には4月に大噴火をしたフィリピンのピナトゥボ火山だそうです。科学的な調査では過去に噴火したことは明らかなのですが、その記録が歴史に残されていなかったため、火山の専門家でさえ「ピナトゥボってどこ?」だったそうです。そして、死者がフィリピン政府の公式発表で320人(ほとんどが圧死者。雨期だったため屋根に積もった火山灰が重くなり屋根が倒壊しての死亡)、住居・生計を奪われた人は120万人という史上最悪の被災の一つとなりました。それでも、フィリピン火山・地震研究所の科学者たちが「もし間違っていたら非難される」というプレッシャーにも負けずに警報や避難勧告を強く出したおかげで、被害を少なく抑えることができたのだそうです。あまり有名ではありませんが、フィリピンは「火山列島」です。日本のような「○○火山帯」といった呼び方はしていないそうですが、地図を見たらフィリピン海溝に並行に、列または帯状に火山が並んでいますね。プレートは地球のどこでも同じことをしています。
 カメルーンの火口湖ニオス湖で1986年にミステリーのような災害が発生しました。湖で爆発音が響き、ついで湖面から発生した雲が周辺に流れ出て、その夜に周囲の3つの村がほぼ全滅したのです。二酸化炭素を主成分とする火山ガスが湖水の深層に溶けこんで過飽和となり、何らかの衝撃(おそらく小さな地震)によって爆発的に脱ガス化して激しく泡立ちその有毒ガスが湖畔から溢れて山腹の斜面に沿って流れ出たものと推定されました。まるで突沸ですね(そういえば深海にあるメタンハイドレートも、何らかの衝撃で“突沸"をしたりしないのか、ちょっと心配になってきました)。
 本書に登場する様々な火山災害を読むと、私(たち)がいかに火山について知らないかがわかります。現に起きた災害の解明でさえきちんとできていないのに、その予測などはまだまだ無理なようです。でも被害は避けたいんですよね。では一体どうすれば?

 


一冠分エラい?

2021-11-16 15:48:55 | Weblog

 将棋の藤井聡太さんが竜王を獲って「三冠」から「四冠」になりました。なんだか「一冠」分エラくなったような印象ですが、でも藤井さんは藤井さんのままで、どこが変わったわけでもないはずです。まあ、一局真剣勝負をした分だけはまた強くなってはいるのでしょうが。

【ただいま読書中】『生命科学クライシス ──新薬開発の危ない現場』リチャード・ハリス 著、 寺町朋子 訳、 白楊社、2019年、2700円(税別)

 「不都合な真実」の話です。
 第一章は、画期的な新薬に結びつきそうな生物緯学研究の論文の多くが「再現性がない」問題。私はまず「STAP細胞」のことを思い出します。「画期的な論文」は評判となり、多くの人が群がります。しかしそのほとんどはクズなのです。
 「科学」で大切なのは、「仮説」と「その検証」です。科学者は「自分が間違っているかどうか」を自分だけではなくて他人によっても厳しく検証されます。ところが「自分に対して厳しく」は難しい。さらに物理学だと検証はわりと簡単ですが、生命科学だと対象が「生きた細胞」「見えない化学変化」であるため「100%の再現性」が保証されていません。さらに研究者は「自分を欺く」ことがあります。意図的なものは犯罪と呼んでも良いでしょうが、無意識的なもの(=バイアス)は2010年の調査では235種類もあるそうです。バイアスですから、研究者自身がそれを意識して避けるのは、なかなか困難です。バイアスは無意識の領域に存在していますから。
 自然は気まぐれです。同じ実験を同じ人が別の場所で施行したら違う結果が出ることがあります。個人差もあります。同じ「攪拌」でも、激しくかき混ぜる人もいれば穏やかにする人もいます。それで実験結果が違うことがあります(それを突き止めた報告が本書にありますが、突き止める努力の大きさには敬服します。そしてその結果が世界から無視される(評価も報酬も得られない)ことに、私もがっかりします)。
 ALS(筋萎縮性側索硬化症)の新薬開発が“一例"として取り上げられます。巨額の資金が投入されて有望そうな新薬の治験が行われていますが、結果は「ネガティブ」ばかり。それはなぜか。実は人での臨床試験の前、動物実験の予算が足りずきちんとした試験がされていなかったのです。特に特殊なマウスがあまりに高価なことがネックとなっていました。しかし動物実験で予算をケチったら、結局その後の臨床試験がすべて無駄な努力になってしまうのです。
 「細胞の混入」もよくあることだそうです。特に多いのが癌細胞の混入。癌細胞は正常な細胞と違って繁殖力が旺盛でほとんど“不死"ですから、ちょっとでも他の細胞培地に混じり込んだら、あっさりそこを乗っ取ってしまうのです。そういえば「STAP細胞事件」のときにも「ES細胞の混入」が問題となっていましたね。混入が“事故"だったのか故意だったのか不明のままとされましたが、たしかに“事故"による細胞の混入は“よくあること"のようです。
 ビッグデータだったら安心か、と言えば、そうではありません。本書には「2003年〜2004年の白人のデータ」と「2005年〜2006年のアジア人のデータ」を比較してその「差異」を主張した論文が、実は「人種の差異」ではなくて「年度による機械の差異」を反映した結果だった、という零が紹介されます。油断ができません。きちんと比較するのなら比べたい「人種」以外のすべての条件を同じにしないといけないのです。
 統計も扱いに注意が必要です。目的にふさわしくない統計手法を選択すると、当然結果はまったく違ったものになってしまうのです。だけど「生命科学の研究者」は「統計の専門家」でない場合が多いんですよね。
 そして、論文の不正。有名な雑誌に論文を載せてもらうために“努力"するのは当然ですが、そのために不正をする輩がとても多く、そしてそのチェックは間に合っていません。基本的に科学の世界は“性善説"で動いていますから。だけど……
 本書に救いがあるとしたら、それでも多くの科学者が「正しさ」を重要視していることです。そもそも「正しくないこと」をごり押しする人は、科学者以外の商売を選んだ方がもっと成功すると思いますけどね。

 


えっせんしゃるわーかー

2021-11-15 06:53:16 | Weblog

 コロナ禍になって「良かったこと」もいくつかありますが、その一つが「エッセンシャル・ワーカー」という言葉の登場でしょう。これまで世間が無視していた人たちがいないとこの社会が回らないことに気がついた、ということですから。ただ、気がついただけで、高く評価する動きにつながらないのは、もどかしいものです。彼らの働きに自分たちの生活が依存している癖に、彼らを軽蔑するって、変じゃないです? 映画「おくりびと」で納棺師の仕事について多くの人が知ることになったように、たとえばごみ収集の現場についての映画が作れませんかねえ。「この社会」の裏側がよく見えるのではないか、と思うのですが。

【ただいま読書中】『ごみ収集とまちづくり ──清掃の現場から考える地方自治』藤井誠一郎 著、 朝日新聞出版、2021年、1500円(税別)

 『ごみ収集という仕事 ──清掃車に乗って考えた地方自治』(藤井誠一郎、2018年)の“続編"です。
 ごみ収集員がどんなに配慮してごみ収集をしているのか、そのプロ意識に頭が下がります。それに対して、ゴミを出す側の無神経さに腹が立ちます。わがままばかり言っている人とか傲慢な人って、一度収集体験をしてみたら良いと思うんですよね。小学校や中学校の職場体験なんかで、実際に集めないにしても、ゴミがどんな出し方をされているかを実際に見て回る、という体験をするのも良いのではないかなあ。
 本書では「行政改革」の問題点が鋭く指摘されています。「行革」を「人減らし」と勘違いしている為政者は、容赦なくごみ収集のリソースも削ります。でも現場は「頑張ってしまう」。ゴミの取り残しなどは恥だと思っているから、とにかく身を削って頑張ってしまう。すると為政者は「減らしてもできるじゃないか。だったらもっと減らそう」となります。だけどその「無理な頑張り」はいつか破綻をもたらすことになるのです。現場を知らない人間が机上の空論や思いつきで「改革」をするのではなくて、ちゃんと現場を知った上での提案をするようになったら良いんですけどね。
 面白いのは、戸別収集は収集する側には大変なのですが(数軒分がまとまっている方が収集効率は良くなります)、住民のゴミの分別などの意識は高まるそうです(可燃物の日に不燃物を出したりすると収集されずにそこに残されるので、「あの家はきちんと分別をしない」と近所から見られてしまうのです)。ゴミがきちんと出せるかどうかには、その地域の民度が反映されているのでしょうね。
 そしてコロナ。東京都北区の清掃現場でコロナ感染者が出たときには、皆が休み返上で出勤してなんとか業務を回したそうです。しかも「巣ごもり生活」をした人の多くが「家の中の片付け」をしたようで、その分ゴミの排出量は増えていました。皆さん、自分の家から出たゴミの行方については、興味も関心もないようです。さらに「使用後のマスク」が大量にむき出してゴミ集積場に捨ててあったり。これ、「感染者が使用したもの」だったら清掃従事者に感染リスクを押しつけることになります。「感染者ではない人が使用したもの」であっても、それがどうだかわからない清掃従事者は感染の恐怖と戦いながらゴミを収集することになります。
 クラスターが発生した老人ホームでのごみ収集も、恐怖体験です。それでなくても大量の紙オムツ(本当は汚物は洗い流してからゴミに出すことになっているのですが、それを守る人はほとんどいません)を集めるときに汚物をかぶってしまったりするリスクがある作業なのですが、こんどはそこに「コロナ感染のリスク」が加わったのです。
 「医療崩壊」については、第4波や第5波で注目されるようになりました。しかし「清掃崩壊」についても気にしておいた方が良さそうです。とりあえず私にできることは「ゴミの減量」かな。

 


国会議員の地元はどこ?

2021-11-13 07:45:35 | Weblog

 国会議員は県会議員や市町村会議員とは違って「国」のために仕事をするはずです。だったらなぜ彼らには「地元」があるんです? 「地元」とやらのために仕事をするのは、県会議員や市町村会議員に任せたら? 国会議員の「地元」は本来「国」のはずですから。

【ただいま読書中】『元人気マンガ家のマンション管理人の日常』元人気マンガ家T 著、 興陽館、2021年、1200円(税別)

 人気のマンガ家だったはずが40歳過ぎてから連載を打ち切られ単発の仕事もなくなり「こんなはずではなかった」とあせりつつバイト生活に入ったTさんは、いくつかの職を経験して偶然マンション管理人になります。さて、そこで彼が出会った“日常"と“非日常"は……
 「物担」という不動産の業界用語が突然出てきて私は面食らいますが、読んでいるうちに「管理会社の物件担当」であることが自然にわかりました。管理人は毎日現場で清掃などをしていますが、物担が現場に来るのは月に1回くらいだけ。ただ、問題のある住民を発見した場合、管理人はそれに対しては何もせず情報をすぐに物担に流すのだそうです。たしかに、管理人と住人との関係が感情的にこじれたら、解決する話も解決しなくなりますからねえ。
 著者の人生(なぜマンガ家になったか、マンガ家で食っていけなくなったときどうしたか、など)についての物語も興味深いものです、というか、これをネタにまた4コマ漫画を描いたらいいのに、と私は思いました。そうしたら「元人気マンガ家」の「元」が取れるかもしれません。

 


ふかわりょう

2021-11-12 07:27:39 | Weblog

 この人の存在をきちんと意識したのは、NHKFM「きらクラ!」でした。「そういえば同じ名前のお笑いの人を以前テレビで見たことがあるなあ」と思って耳を傾けると、なかなかの話術とクラシック音楽に対するけっこうな思いと知識を持っている人で、だから私にとってふかわりょうさんは「テレビに出てくるお笑いの人」ではなくて「ラジオで出会った音楽系の人」です。

【ただいま読書中】『世の中と足並みがそろわない』ふかわりょう 著、 新潮社、2020年、1350円(税別)

 本書を読んで「いやあ、真面目な人だなあ」が第一印象です。真面目というか、ストイックというか、考えすぎというか。でもこういった態度、私は好きです。クラブには行ったことがないので著者がやっているクラブのDJという職業が具体的に何をやっているのかイメージは抱けませんが、著者の仕事ぶりを見るためだったら1回くらいならクラブに行っても良いかな。コロナ禍が完全に終息してから、ですが。
 本書を読んでいて「風を読んで、多数派に同調する態度」になじめない私自身と、少しですが共鳴するものを感じました。すべてを無難な方向に他人に決めてもらって自分はそれを正当化する理由を唱えているだけではなくて、時には立ち止まってしっかり自分の頭で考えることも必要ですよね。

 


人間対妖怪

2021-11-11 06:18:39 | Weblog

 妖怪が怖いのはなぜでしょう? 姿形が人間とはずいぶん違うし、何を考えているのかもわからないから? すると妖怪も人間を怖がっているのかな? 姿形が妖怪とはずいぶん違うし、何を考えているのかもわからないでしょうから。

【ただいま読書中】『古生物学者、妖怪を掘る』荻野慎諧 著、 NHK出版新書、2018年、780円(税別)

 「妖怪」と聞くと「荒唐無稽」と言いたくなりますが、著者は「はじめに確かな目撃例があったのに、観察が不十分だったり記録が不完全だったり、後世誇張や歪曲があったりして『妖怪』になった事例があるのではないか」と考えて古文書を改めて読んでいます。
 妖怪で「角があるもの(鬼や悪魔)」は人を襲う「怖い存在」です。しかし自然界では、哺乳類の鹿・牛・羊・犀・キリン、昆虫ならカブトムシやクワガタ、すべて「草食」です。早くも記紀に「鬼」が登場しますが、そこでは「もの」と読まれていて「おそれの概念」や「権力への反逆者」を意味していて、外見の記述はありません。飛鳥時代の仏教彫刻には「持国天に踏まれている牛頭邪鬼」「増長天に踏まれている一角邪鬼」がありますが、これは中国の「鬼=死霊」のイメージとインドの多神教が仏教に取り込まれたもののようです。しっかり角が生えている「鬼」は室町時代の「般若の面」からです。本来「般若」は「智慧」の意味なのに(だから「般若心経」)多くの人は「般若」と言えば「鬼の面」とイメージするんだよな、と著者は残念がっています。同じく室町時代の「百鬼夜行図」も「角の生えた鬼」で有名です。
 井上円了は「妖怪」を「実怪(実際に起こったものの描写)」と「虚怪(誤解や想像)」に分類し、さらに前者を「真怪(もしかしたら本物)」と「仮怪(科学的に説明可能)」に分類、後者を「誤怪(勘違い)」と「偽怪(創造)」に分類しました。本書で著者が扱いたいのは「仮怪」です。
 寺田寅彦も妖怪に夢中でしたが、スサノオノミコトやヤマタノオロチに関する描写は火山活動がベースにあるのではないか、と考えていたそうです。ヤマタノオロチは「水害」、が通説ですが、たしかにダイナミックな火山活動は暴れ回るヤマタノオロチにふさわしい感じですね。
 『平家物語』や『源平盛衰記』で有名になった「鵺(ぬえ)」には「現実のモデル」が存在するのではないか、と著者は考えています。それはなんと「絶滅した大型の○○○○○○○」。「そんなの、日本にいたのか?」と思うと、ちゃんと化石が新潟で出土しているんですね。だけどその知識、平安時代の日本人が持ってるか? 著者は自分自身の仮説を、極めて真面目に面白がっています。
 特に「一つ目の妖怪」の起源は「象の頭骨の化石」というのはなかなか説得力があります。たしかに骨だけ見たら「一つ目」に見えますもの。