【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

一家団欒

2010-05-31 19:00:51 | Weblog
日本で夕食時に一家が揃って和気藹々の一家団欒が“風習”になったのはいつのことでしょう。封建時代にはありえませんね。明治の家父長制時代にも困難そうです。だとすると戦後。民主主義となら相性が良さそうです。ただ、戦後すぐは生きるのに精一杯で、一家団欒の余裕はなさそう。「もはや戦後ではない」となると、所得倍増・高度成長・猛烈サラリーマン・の時代で、お茶の間に「一家」が揃うのは難しくなりました。休日の家族サービスがやっとこさ。その後は、バブルに子どもの塾通いに……あらら、もしかして「一家団欒」って、日本ではただの“幻想”でした?

【ただいま読書中】『暗殺者』エリア・カザン 著、 村上博基 訳、 早川書房、1974年

セサリオ曹長は、従軍した第二次世界大戦直後にドイツで結婚します。妻のエルザは失望します。ドイツでは「金回りが良くて英雄のアメリカ兵」だった夫が、アメリカでは「貧相なメキシコ人」になってしまったのですから。セサリオは長女のホアーナを溺愛しますが、彼女は家出をしてヒッピーのコミューン(ドラッグとセックスの巣窟)に参加してしまいます。セサリオは娘を連れ帰り、取り戻しに来たボーイフレンドのヴィニーを撃ち殺します。
軍は困ります。無罪にしたら「軍の特権」と騒がれるでしょう。しかし有罪にしたらヒッピー嫌いの人たちの感情を逆撫でします。軍の上層部は「軍を守るのが最優先」と言います。セサリオの上官は、軍の指示には従いつつもセサリオを少しでも有利に取りはからってやりたいと思います。ヴィニーの母親は、ヒッピー仲間が彼を死に追いやったと恨みます。検察官は悩みます。殺人罪での勝訴は間違い無しですが、“不人気”な勝訴になることも確実だからです(アメリカの郡地方検察官も住民の選挙で選ばれるんでしたっけ?)。裁判官も悩みます。有罪にするにしても軽い刑を言い渡したら若者世代を敵に回し、将来の夢(州知事になること)に悪い影響があるのではないか、と。
そして、裁判が始まります。
……あのう……タイトルの「暗殺者」って、一体いつどこに登場するのでしょう?
殺されたヴィニーの親友マイクルは、「暗殺者」によってヴィニーは殺された、と主張します。そして、この社会で「正義」は機能不全に陥っている、と。
裁判が始まってセサリオはずっと後景に退いています。裁判にかかわるさまざまな人(とその家庭)がまるでモザイクのように次々短い文章で描写され続け、少しずつ“世界”は変容していきます。実際に裁かれているのは誰なのか、“裁きの神”が存在するとしたら、その指先が向いているのは、被告なのか、それとも、ヒッピーたちなのか、それとも……
なんともスッキリしない幕切れです。第二次世界大戦とベトナム戦争の影響がアメリカ社会にどれくらい深く影響を与えたのかがわかりますが、アメリカって20世紀初めからずっと「戦争」を続けているんですよねえ。


非難

2010-05-30 17:23:44 | Weblog
非難は「的」に当たらないと意味がありません。的外れな非難は、(“非難された人”ではなくて)“非難する人”の価値を下げるだけです。しかし、自分の頭で考えない人には「非難がある」こと自体が問題であるようです。「火のない所に煙は立たない」と。現実よりことわざにしがみつくような人はきっと自分が人を非難するときには的外れな非難しかできないのでしょうが。

【ただいま読書中】『汚名 ──「九大生体解剖事件」の真相』東野利夫 著、 文藝春秋、1979年

「九大生体解剖事件」について初めて読んだのは『海と毒薬』(遠藤周作)でした。高校の時でしたが、ショッキングな内容でした。ところが『海と毒薬』は事実を元にしたフィクションであって、“真相”は違う、というのが本書の主張です。
昭和20年、日本は連日の空襲で大打撃を受けていました。人びとは「鬼畜米英」と唱えて竹槍訓練を行ない空を悠々と飛ぶB29を憎んでいました。「捕虜を殺してはならない」はタテマエで、軍は「空襲による無差別大量殺戮は国際法違反だから、B29の乗務員は死刑にしてもかまわない」と考え、住民は単純に報復を願っていました。たまに墜落するB29からパラシュートで脱出する乗務員は、警察や住民の山狩りに追われ、その過程で何人も殺され、助かった者だけが拘置所に入れられますが、東京からは「もう収容施設は一杯だから、機長だけを送り、残りは地方で適当に処置せよ」との命令が届きます。
九州西部軍でも捕虜の待遇に困っていました。そこに「猟銃に撃たれた捕虜の治療に、実験的な手術を行なう」という“大義名分”が浮上してきます。誰が“首謀者”かはわかりませんが、ともかく「軍の意向である」と大森軍医は出身校の九州大学に話を持ち込み、外科の石村教授は、秘密が守れて手術ができる場所として解剖学教室に目をつけます。解剖学の平光教授は怪しみますが、「軍の意向」「秘密」「治療のための手術」ということばに押し切られ、場所を貸すことにします。
数日ごとに捕虜が二人あるいは一人ずつ軍から連れてこられるようになりました。そこで行なわれた“手術”は、片肺摘出、代用血液(海水を薄めたもの)の点滴、胃の手術、心臓の手術、肝臓切除、脳の手術など、当時の日本ではまだ実験動物の段階のものばかりでした。さらに捕虜は(口封じのためでしょう)全員殺され、その後検査のために解剖が行なわれました。手術そのものにはエーテル麻酔が行なわれていたので、本人は苦しまなかった、と信じたいところです。
戦後、隠蔽工作も虚しく事件は明るみに出ますが、そこでこんどは“揺り戻し”があります。「解剖学教室」「手術」が混ぜられて「生体解剖(生きながらにして解剖される)」が実行された、という告発が行なわれたのです。大森軍医は空襲で死亡し、石村教授は拘置所で自殺。そこで検察と裁判官の目は残る一人の「教授」に向けられます。「お前が責任者だ」と。
かくして平光教授は重労働25年の刑を言い渡されました。「それは“汚名”だ」というのが著者の主張です。
著者は当時医学部に入ったばかりで、たまたま平光教授の下で研究補助員をやっていた関係で、現場の一番近くにいた局外者と言える立場でした。ですから本書での“証言”には重みがあります。ただ、戦争というものは、人を狂気に陥れるのか、それとも人が内在する狂気をむき出しにするのか、どちらだとしても私は自分が戦争になっても「きちんとした人間」でいられるかどうか、不安を感じてしまいました。



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優位

2010-05-29 21:45:11 | Weblog
ノーベル賞受賞者の悪口を言っても、それで自分がノーベル賞受賞者より“エラ”くなったわけではありません。それがわからないだけでも「エラくない証拠」と言えますが。

【ただいま読書中】『ベータ2のバラッド』サミュエル・R・ディレイニー 他 著、 若島正 編、国書刊行会、2006年、2400円(税別)

目次
「ベータ2のバラッド」サミュエル・R・ディレイニー
「四色問題」バリントン・J・ベイリー
「降誕祭前夜」キース・ロバーツ
「プリティ・マギー・マネーアイズ」ハーラン・エリスン
「ハートフォード手稿」リチャード・カウパー
「時の探検家たち」H・G・ウェルズ

ニュー・ウェーヴ系のアンソロジーです。(少なくとも編者はそう主張しています)
「ベータ2のバラッド」……地球を出発した星間船団は5世紀かけて航宙をしましたが、その間にハイパースペース・ドライブが開発され、地球は何十もの惑星系と貿易できるまでに発展していました。目的地のレファー星系に到着した「星の民」を出迎えたのはそんな進んだ文明でした。星の民は原始的な文明のままで、不思議な文化を育んでいました。その中の「ベータ2のバラッド」という歌を研究する学生ジョナニーは奇妙なことに気づきます。一見不合理でスジが通らないようなことばの並びが、もしかしたら「真実」を現しているのではないか、と思いついたのです。実際に研究しようと“現地”に向かったジョナニーを迎えたのは……
著者が有名になった「バベルー17」の前年の作品です。「バベルー17」ほど重層的でも複雑でもありませんが、こちらでも「言葉」の問題が強く扱われていて、面白く読めます。
「四色問題」……著者の名前を見た瞬間、私は身構えます。これは絶対奇想が襲来するぞ、と。しかし、身構えていてもそれを上回る迫力に私はあっさりと流されてしまいます。しかし、数学の「四色問題」をSFに、それもこんなはちゃめちゃなSFにするなんて……
「降誕祭前夜」……こちらも“キース・ロバーツの作品”です。ナチスドイツが世界の半分を支配し、第三帝国とイギリス(連合王国)が結びついて「連合帝国」となった世界。カラーテレビやヘリコプターがあり、総統はヒトラーから代替わりして、その人もずいぶん老けてしまったということから、第二次世界大戦勃発からずいぶん時間が経っていることはわかります。そこでのクリスマスイブとクリスマス、一晩と一日の物語です。
「プリティ・マギー・マネーアイズ」……これまた“ハーラン・エリスンの作品”です。もうなんというか、隅から隅までハーラン・エリスン。編者は“ツボ”を心得た、相当な“好き者”です。
「ハートフォード手稿」はちょっと変わった趣向です。H・G・ウェルズの『タイム・マシン』は実は実話に取材したものだった、という発端。H・G・ウェルズと知り合いだったというヴィクトリア叔母から遺産の一部として贈られた古い本。
この作品のどこがニュー・ウェーヴなんだ、と思いますが、編者によれば、イギリスのニュー・ウェーヴは元をたどればH・G・ウェルズに行き着き、さらにリチャード・カウパーは実際にH・G・ウェルズに会ったことがあるからこの作品を入れた、のだそうです。「編者の特権」ですな。そして最後は“ボーナス・トラック”。「タイム・マシン」は何回も書き直されているのだそうですが(7つの異なるバージョンがあるそうです)、その初稿の作品です。「タイム・マシン」とはまったく別物ですが、これはこれでしっかり楽しめます。タイムマシンが好きな人は、是非一度お試しを。



知識

2010-05-28 18:21:58 | Weblog
エデンの園でキーになる木は「知識の果樹」です。神はわざわざそんなものをエデンの園に植え、その上で「食べたら死ぬ」と禁止しました。この「禁止の強制」がどのような心理を人間に生じさせるかは昨日書きました。
ところで、旧約聖書が成立した古代に「知識」はどんなものだったのでしょう。特にユダヤ人は、当時の人びとには珍しく「ロゴス」を重視した生活をしていたはずです。それなのに「知識」を「禁断の果実」と扱わせるのは、一体なぜ?
中世には信仰心がすべてに優先でしたが、ルネサンス期以降は「知識」は“素晴らしいもの”となりました。信仰心だけではなくて、知識や理性で世界を理解することもまた“神に通じる道”となったのです。だからこそインテリ階層は熱狂的に古代の知識を求め、さらに自分たちでも新しい知識を得ようとしました。
さて、現代では「知識」は、どんなものなんでしょう。「科学の行きすぎを憂える」なんてこともありますが、あれはやはり「知識は禁断の果実」の一種かな。

【ただいま読書中】『失楽園(下)』ミルトン 著、 平井正穂 訳、 岩波文庫32-206-2、1981年

大天使ラファエルの話を聞いて、アダムの好奇心が発動します。エデンの“外”に世界があることを知り、ではそこはどんなものなのか知りたくなったのです。ラファエルは求めに応じて語ります。天使ルーシファ(明星)が地獄に墜とされてその名を失いサタンと呼ばれるようになったこと。その後神は「もう一つの世界」を作ってそこで人間を増やし、やがて自力でまた彼らがこの「天」に昇ってこられるようにしようと決心して「天地創造」を行なったこと。
アダムは驚き、さらに好奇心が高まります。星の運行はどうなっているのか、自分は何ものなのか、イーヴとの関係は……ラファエルは明確には答えず、アダムを励まします。すべてをすぐに知ろうとせずに、少しずつ探求をするように、と。(星の運行については、まだニュートンの仕事が完成せず地動説が主流ではなかった時代ですから著者も言葉を濁すしかなかったでしょうが)
なんだか、神もラファエルもサタンも、寄ってたかってアダムとイーヴを知識の果樹に追いやっているような気がしますが……気のせいかな?
エデンから追い払われたサタンは、1週間地球の闇の部分を彷徨います。綿密な調査の結果、一番知能が高くて“使えそう”なのは蛇とわかります。そこで地下水路を通ってまたエデンの園に侵入し、眠っていた蛇の体内に入ります。そしてイーヴを“誘惑”、まんまと知識の果実を食べさせてしまいます。このときのサタンの甘言追従は、普通の人間だったら抵抗できないレベルの力をもっています。まあ、サタンですからね。
イーヴの告白を聞いてアダムは驚きますが、死ぬのなら一緒に死のうと知識の実を食べることにします。二人がまず感じたのは……情欲でした。めくるめくセックスの後、二人は「羞恥」を知ります。そして口論が始まります。お互いに「相手が悪い」とだけ言い「自分が悪い」とは絶対言わない虚しい口論が。ああ、なんて人間的な。
エデンの守護天使は神に言い訳をします。サタンの侵入を完全に防ぐことは無理だった、と。神はそれを認めます。地獄に幽閉されていた「罪」と「死」は解放されて地球に向かいます。サタンは意気揚々と地獄に帰還しますが、手下の天使たちが全員蛇に変身させられているのを発見します。そして自分も。エデンに派遣されたイエスは、イーヴには出産の苦しみと夫に隷属する義務を、アダムには労働の苦しみを、二人に死すべき運命を罰として与え、さらに二人の子孫が蛇に復讐するだろうと予言をします。話はてきぱきと進行します。まるであらかじめ筋書きができていたかのように。
二人は苦しみ、一時自殺まで考えますが思いとどまります。希望を捨てず、さらにイエスの予言(二人の子孫が蛇に復讐する)を信じよう、と。
二人を楽園から追放するためにミカエルが派遣されます。しかし追放直前、ミカエルはアダムを、地球の半分が見える山頂に連れて行き、人類の将来の姿(追放後から大洪水まで)を映像として見せます。そして最終第十二巻。ノアの箱舟以後の歴史も物語られますが、これはもうオマケです。二人は自分たちに“未来”があることを知り、それを頼りに、手に手を取ってエデンの園から漂泊の旅を始めます。

「失楽園」はもちろん人類にとっての「エデンの園」のことです。しかし、私には「サタンたちが失った天国」のことでもあるように見えます。そして、中世が終わってしまった西洋の人たちにとっては、「キリスト教を信じていればそれでよかった世界」の崩壊がもしかしたら「失楽園」ではなかったのか、とも思えます。だからこそわざわざガリレオ・ガリレイへの言及がさりげなく混ぜられているのではないかなあ。


禁止の強制

2010-05-27 18:38:59 | Weblog
心理学の面白い実験で、「○○のことを考えてはいけない」というのがあります。たとえば「何を考えても良いんだけれど、これから10分間はショッキングピンク色の象のことだけは考えてはいけません」と被験者に言い渡します。すると「そんなの簡単だ。ショッキングピンクの象なんていないんだから」と被験者が実験に突入すると「えっと、考えちゃいけないんだよな。白い象は大丈夫。黒い象も大丈夫。えっとピンクの象はいいけどショッキングピンクのは考えちゃいけないんだ……あああああ、考えちゃった」となるわけ。
「そんな莫迦な」と思った人。ではこれから数分間「赤と白のしましまのミミズ」のことを考えないでいてくださいね。考えちゃダメですよ。ダメですってば。

【ただいま読書中】『失楽園(上)』ミルトン 著、 平井正穂 訳、 岩波文庫32-206-2、1981年

叛逆の天使たちを従え、天界で神に対する闘いを始めたサタンが闘いに敗れ、仲間とともに地獄の底に落とされたところで本書は始まります(私は一瞬孫悟空を連想してしまいます。孫悟空の場合には数百万の仲間はいなかったし、墜とされたのは地獄ではありませんでしたが)。サタンの隣に横たわっているのはベルゼバブ(ヘブライ語で「蝿の王」)。自分たちの本来の住処である天国を失ったことを惜しみ、神の意図を推し量りながら二人は会話を続けますが、意外なところにガリレオ・ガリレイが登場します(「さながら月そっくりであった──そうだ、例のトスカナの科学者が、斑点だらけの表面に何か新しい陸地か河か山を発見しようと、望遠鏡を通し……」という形で)。
そして、地獄の底での員数調べが行なわれます。無数の軍団の主だったメンバーが次々紹介されるのです。モーロック、ケモシ、アシトロテ、タンムズ、ダゴン、リンモン、オシリス、イシス、ホルス、ベリアル……それぞれの“勇名”とその主立った“業績”が語られますが、もちろんここに挙げたのですべてではありません。リストは延々と続きます。著者はなんだか楽しんでいるようです。
異教徒の神はすべて悪魔の仲間、ということなのかもしれませんが、それらがすべて「天使」のジャンルに含まれているのには、私は呆然とします。
さて、墜とされた天使たちは地獄で今後の方針を決定する会議を開きます。戦争かあるいは平和か、あるいは神の鼻を明かすために人類を堕落させて地上と地獄とをない交ぜにしてしまうか。最後の案(実はサタンの腹案)が採択され、そのために偵察員が派遣されます。困難なその役を買って出たのは、サタンその人。
さて、サタンの動きを神はすべてつかんでいました。しかし神は傍観します。「人は堕落しないように造ってある。万一人が堕落したとしてもそれはサタンのせいだからそれは免罪される」と。
なんだかひねくれた理論に思えます。そもそも「神に復讐するために、人を堕落させてやる」というサタンも相当屈折していますが、これではまるで人は「ゲームの駒」ではありませんか。(そういえば「ゲームの駒」の“資格”は「他人に自分の欲望を知られ、それを弱点として使用されること」という意味の言葉が先日読んだ『剣嵐の大地』に登場しました。しかしアダムとイーヴは無垢の存在で欲望は持っていません。ではサタンはどうしようというのでしょう。
エデンの園に忍び込んだサタンはガブリエルによってとっとと追い出されます。さらに神はガブリエルに、アダムに警告をするように命令します。そこでガブリエルは「天国での戦い」についてアダムに語り始めます。
ことはサタンの嫉妬から始まりました。神の御子(イエス)を自分のナンバーツーに据えようとした神に対して「自分の方が上なのに」とサタンが不満を抱き、仲間たちとかたらって戦いを起したのです。その数は、天国に住む全天使の1/3。数百万の大軍勢です。
第一日は神側が優勢でした。しかし天使は不滅の存在です。夜の間にサタン側は傷を癒し、さらに新兵器を開発します。大砲です。かくして第二日のはじめはサタン側が優勢となりますが、神側は山を引き抜いて投げつけ、サタン側も投げ返し、事態は泥沼化します(「力は山を抜き」(項羽)の西洋版ですな)。神はそれを憂え、第三日には神の御子を投入します。御子は神の雷霆(いかずち)を駆使し、サタン勢を地獄にたたき落としてしまいます。(しかし、超人的な戦い、地獄へたたき落とす、そして地獄でもおとなしくしていない……スーパーサイヤ人の戦いを連想する私は、もうちょっと高尚になった方が良いですか?)
ということで、本書の最初のシーンに戻るわけです。さて、この圧倒的に不利な状況から、サタンはどんな逆転策を見つけるのでしょうか。



島流し

2010-05-26 18:41:41 | Weblog
基地を動かそうとするから難しいのであって、いっそ逆転の発想はどうでしょう。基地は固定して、その回りの住民の方を動かしちゃうの。さすがに沖縄本島をすべて無人地帯化は難しいでしょうから手頃な大きさで位置も適当な島を「基地専用島」として、そこの住民は“疎開”。先祖伝来の土地から強制移動させられる人には気の毒ですが、少なくとも日本国民の「基地からこうむる不幸の総和」は最小にできるような気がします。
……やっぱり無茶な発想かな。

【ただいま読書中】『乱鴉の饗宴(上) 氷と炎の歌4』ジョージ・R・R・マーティン 著、 酒井昭伸 訳、 早川書房、2008年、2800円(税別)

七王国の戦乱は「五王の戦い」と人びとに呼ばれるようになりました。ただし「王は一人」主義者には、「五王」と言うだけで叛逆です。殺伐とした雰囲気が世界を支配します。
で、またまた禍々しい「神」が登場します。こんどは溺神。その儀式を見ていると、『剣嵐の大地』のラストで登場した「人」を思い出します。この世界での「生」と「死」は一体どうなっているのでしょうか。
視点人物も新登場が続々と。これまでと同じ「氷と炎の歌」なのですが、同じ世界を_新しい視点から眺めることを読者は強制されます。翻訳者も変わったため、文体や雰囲気や訳語の変化(「マイスター」→「メイスター」、「トンメン」→「トメン」、「ティレル」→「タイレル」、ナイト・ウオッチが「夜警団」→「冥府の守人」になっているとか)が気になりますし、秤量単位もメートル法に変わっています。これまでどっぷり使っていた世界が知らないうちに異化作用を受けたような感じです。これが意図してやったことなら「さて、その狙いは?」と楽しみにして読めるのですが、新しい訳者がこれまでのを読んでいないのだったら、ちょっとしょぼんです。
しかし……「キャトリン」とか「ジャクェン・フ=ガー」って誰?と思うようになると、ちょっと読むのが辛くなりました。どうしても波に乗りきれないのです。
残念ながら、本書は途中で離脱します。先はとても気になるのですが、また「読みたいエネルギー」が充塡できたら再挑戦することにします。



事業仕分け

2010-05-25 18:44:38 | Weblog
競輪などの公益団体も事業仕分けの対象になっていますが、これは公益法人だからその対象になっているわけです。なら、中曽根内閣時代の「民活」で公益法人も民間団体に移行させたらうるさいことを言われずにすみそうですが……

【ただいま読書中】『長崎海軍伝習所の日々』ファン・カッテンディーケ 著、 水田信利 訳、 平凡社(東洋文庫26)、1964年、

1844年(弘化元年)オランダ国王ヴィルレム二世は、アメリカ到来の警告を徳川幕府に送りました。しかし幕府はその親書を無視し、黒船が来てから大騒ぎとなりました。
著者は、キンデルダイク造船所で造られた蒸気船ヤパン(咸臨丸)をヘレフートスロイス軍港から日本に回航し(1857年(安政四年))、さらにそれを実習船として日本で第二次海軍教育班長を務めました。集められたのは、将来を幹部候補生と嘱望される武士階級(旗本および肥前・長門藩)の若者たち。ただし著者は、もっと若年の少年を鍛えるべきだ、と考えていました。何しろひねた連中で、教養や身分をひけらかして口答えばかりしてせっせと骨身を惜しまず学ぼうとしない奴がごろごろといるのです(もっとも著者はあまり露骨に悪口を言いませんが)。それでも生徒は育ってきます。特に名前を挙げられているのは勝麟太郎。指揮者としてぐんぐん成長します。もう一人著者が注目しているのが榎本武揚。こちらは骨身を惜しまずせっせと下働きをして動き回ることを褒められています。試験航海が繰り返され、著者は教え子たちの成長ぶりに眼を細めています。
著者は観察眼と思考力に優れています。九州に優秀な炭坑がもっとできることの予言や日本の社会では平民にはヨーロッパよりも「個人の自由」が保証されているという指摘は興味深いものです。さらに、日本には武士は多いが常備軍がない、という指摘には「さすが軍人」と私は呻ってしまいます。知らない国にぽっとやってきて数ヶ月見ただけでそんなことがさっさとわかりますか? そうそう、著者とは無関係な話ですが、咸臨丸が旗印として「日の丸」を揚げていることが私個人としては面白いものでした。「幕府の決定」だそうですが、誰がいつ決定したんでしょう?
そうそう、「銀の価値」が、日本では1ドルが4両7歩なのに国際的には1ドルが1両6歩で、アメリカ人は3倍ものぼろ儲けをしている、というのにはあきれてしまいました。ドルを大量に持ち込むだけで濡れ手に粟なのですから、これは何とかしなければ、と幕府があせるのもわかります。
「世界にあるのはオランダだけじゃないぞ」とイギリス人も軍艦を幕府に提供し、アメリカは和親条約を結びます。さて、オランダの立場はどうなるのでしょう。さらに世情は乱れ、攘夷の嵐が外国人たちに迫ります。そして幕府は突然海軍伝習所を閉鎖してしまいます。オランダ人たちはあくまで幕府に雇われたのではなくてオランダからの派遣の形(給料もオランダから支給)ですから、そのまま引き上げです。著者らはがっくりとしながら本国を目指します。
地球の反対側の“野蛮国”に2年間派遣され、そこで「ここは素晴らしい国だ。しかし将来はどうなるんだろう」と思いながら若者たちを育てた人の日記が元となった本書は、生きた「歴史」そのものです。軍人の本なのに過去の日本が生き生きと眼前に現われるような描写には、「教養」の大切さがわかるような気がします。



電線

2010-05-24 18:42:09 | Weblog
日本で街を眺めていてつくづく思うのは「電線が邪魔」です。ちょっと上を見たら視野に常に存在していて、空を見るにしても建物を見るにしても、うるさくてかないません。
ただ、地下共同溝などで電線が全部地中化されたとしたら、それからしばらくして“懐かしく”思い出すのはきっと「電線がある風景」なんでしょうね。

【ただいま読書中】『ガーンディー自叙伝(2) ──真理へと近づくさまざまな実験』M・K・ガーンディー 著、 田中敏雄 訳注、 平凡社(東洋文庫672)、2000年、2800円(税別)

奉仕するべきは利益ではなくて真理、と、依頼人にさえウソを許さない著者の態度は、かえって弁護士としての名前を高めます。ただしその名声は彼にとっては苦しみの元ともなっていきます。ただ、その名声ゆえか“実績”も上がるようになります。有色人種の管理に関して汚職をしていた二人の官吏の裁判で、「白人陪審員は有色人種がらみの裁判では白人を無条件に無罪にする」当時の風潮に従って判決は無罪だったにもかかわらず、二人は免職となったのです。ただし著者は「人」と「人の行為」とは別物、という態度です。後日二人の再就職が問題となったとき著者は二人の再就職を支持し、そのために無事に再就職ができています。
私生活では禁欲を是とし、食べるものは新鮮な果実とナッツとドライフルーツだけ、という極端な食生活も行ないます。
南アフリカのフェニックスでは入植地を作り、小さいものですが、インド人も白人も分け隔てのない世界を実現させます。
第一次世界大戦が起きます。著者はインド人による、衛生・看護部隊を組織します。著者が信奉する「非暴力」によれば、戦争にかかわることは禁止されるはず。しかし著者は「もちろん戦争阻止に動くべき。しかし、それができない場合、どうしても戦争に関与しなければならない場合には、戦争から自分自身・国・全世界を救おうと努力するべきだろう」と迷いながら決断します。理想と現実の間での妥協が必要、と。
この「妥協」は常に行なわれます。のちにインドに帰ってストライキを始動する場合でも、工場主などと単に敵対するのではなくて常に妥協策を探り続けるのです。これは「強硬派」には腹立たしい“裏切り行為”にしか見えないでしょうね。しかし著者にとっては「理想の言いっぱなし」や「流血沙汰」は望ましいことではないのです。
サッティーヤグラハ(英語だとパッシヴ・レジスタンスですが、その本質は不服従)も少しずつ形を為してきます。ティーンカティヤー(イギリス人農園主によるインド人小作人搾取)を調査するときも、インド政府による脅しにも著者は「反対」ではなくて不服従で応えます。なお、このとき重要なのは「(相手に対する)礼儀」であり、法律への不服従は「法律を謙虚に自発的に尊重する人」が行なうから意味があるのだそうです。
インドでも小さな農園で共同体を作りますが、そこに不可触民を受け入れたことから騒動になります。さらにヒンドゥー教徒とイスラム教徒の融和を訴え、そこでもまた多くの敵を作ります。著者はそのへんをひょうひょうと書いていますが、読んでいてため息が出ます。なんでこんなに困難な道をあえて進まなくちゃいけないんだ、と。
さらにインドの自立のために、まずイギリスの布を拒否することを著者は考えます。では必要なのは? 紡ぎ車や手織り機です。弁護士や新聞発行の経験はあってもその方面には無経験な著者は、ほとんどインドでは絶えていた技術を伝える人を捜し普及させようとします。著者の「理想の実現」は、常に足が地面についていて手が届く範囲で具体的に始められます。ただ、この「国産品愛用運動」によって著者は工場主たちを敵に回します。
「自分の人生は実験」と言い切り、考えや意見の違う人たちと共存しようとする心の強さには、ただひたすら敬服するのみです。世の中に「ガーンディー」が1%でもいたら、もっと世界は住みやすいものになっているかもしれません。


古典

2010-05-23 17:31:06 | Weblog
今に残る古典に価値があるのは、それが古いからではありません。それがすぐれた作品だからです。

【ただいま読書中】『ガーンディー自叙伝(1) ──真理へと近づくさまざまな実験』M・K・ガーンディー 著、 田中敏雄 訳注、 平凡社(東洋文庫671)、2000年、2800円(税別)

「マハートマー(「偉大な魂」偉人や聖者につけられる称号)」と呼ばれることが苦痛だ、という著者にとって本書は、自叙伝を口実として、自分が行なってきた実験の物語を書こうとしたものだそうです。さて、それはどんな実験だったのでしょう。
敬虔なヒンドゥー教徒の家庭に育った著者は、13歳で同い年の少女カストゥールバーイーと結婚します。文字を知らない妻のために著者は自室で教育を与えようとしますが「性欲がそうはさせなかった」そうです。高等学校では悪い友人との交際で著者は“堕落”をします。敬虔なヴァイシュナヴ教徒のタブーである肉食を行ない、娼婦街に連れ出されます。“直接の行為”は避けられましたが、欲情しただけで自分は堕落した、と著者は判断しています。さらに「罪の告白」は続きます。こんどは喫煙の罪と窃盗の罪です。ただ、著者はその罪に耐えきれず、父親に告白します。父親はその手紙を黙って読み、真珠の涙を流し、それによって著者は“浄化”されます。これが「非暴力」の体験学習の第一課だったそうです。
16歳で父を亡くし、著者は英国留学をすることになります。そこでも著者はさまざまな“実験”をします。紳士になる実験(お洒落をし、ダンスを習う)、菜食主義を貫く実験、大学入学検定試験に挑戦する実験(ラテン語、フランス語、科学などを勉強する)……内気で羞恥心が強いのに女性とのおつきあいにけっこう大胆なところがあるのが笑えますし、詳しい記述はされていませんがどうもストリップ・ポーカーの体験もしている様子です。(一般人からみたら「その程度が“罪”か?」と言いたくなるものが並んでいますが、だからこその「聖者」なのでしょうね)
1890年パリ万博の見物もしています。ただし、遊んでばかりいたわけではありません。ちゃんと当初の目的、法廷弁護士になることも達成しています。実は当時のイギリスで法廷弁護士になるのは容易な道でした。試験はローマ法とコモン・ロー(普通法)の二つだけ。どちらも教科書ではなくて要約ノートを読めばほぼ合格可能です。しかし著者は教科書をきちんと読もうとし、とくにローマ法はラテン語で勉強します(この努力はのちに南アフリカで役立ちます。そこでのコモン・ローはローマ法系オランダ法だったので『ユスティニアヌス法典』の研究が有益だったのです)。
法廷弁護士資格を得て著者はインドに帰ります。しかし、藩王国と英国の複雑な関係の中に著者の活躍の場はありませんでした。そこに南アフリカの商会から仕事の口がかかります。到着するなり「闘い」が始まります。法廷では、イスラム教徒はターバンをしたままでいることが許されましたが、それ以外のターバン(当時著者がしていたようなベンガル・スタイルのものなど)は外さなければなりませんでした。著者はそれを拒否し、退廷します。新聞に著者は投書し、不意に「南アフリカでの有名人」となってしまいます。
列車や駅馬車やホテルで著者は露骨な差別を受けます。たとえ一等の切符を持っていても車掌は「お前はインド人だな」と三等に行くことを命令しそれに逆らうと殴打を加えます。同時代のアメリカでの黒人差別とよく似ていますが、ただ、その差別に反対する白人がけっこうたくさんいる(そしてその意見を隠さない)ところが救いです。「救い」と言っても著者は不幸と怒りに震えるのですが。プレトリアで著者は人生最初の演説を行ないます。インド人たちに、宗教や出身地の違いを超えて「インド人」として行動するように訴えました。そうすることで「インド人」の地位向上を目指すことができる、と。南アでのインド人の悲惨な状況を改善する運動、宗教の研究、そして本来の目的である訴訟対策。それらに著者は没頭します。1年の契約が切れ帰国しようとした著者は、ナタール立法議会の選挙権をインド人から剥奪する法案が審議されていることを知ります。著者は帰国を延期して闘いを始め、ついにナタール定住を決意します。さらに弁護士として登録しますが(当然人種差別的妨害は入りましたが)、それはターバンを外すという“妥協”が必要でした。
著者は「ナタール・インド人協会」を組織し、積極的な活動を始めます。それまで差別の波になすがままだったインド人は少しずつ結集し始めます。それは白人の側の反発を招き「台風」が起きます。著者は暴徒に襲われ木に吊すと脅迫されます。警官隊が出動して著者を救出し、植民地相チェンバレンは著者に危害を加えたものを起訴するよう警察に指示しますが、著者はそれを拒否します。煽動されやすい“手先”を罰しても何も解決しない、と。インド人の威信は高まり、白人の敵意(と恐怖心)も高まります。インド人の権利を制限する法律が次々通過します。しかし著者はめげません。
ボーア戦争が始まり、著者はインド人による衛生看護部隊を発足させます。1100人の隊員は、政府との契約では安全地帯での仕事のはずだったのに、状況によっては最前線で仕事をしました。それによってインド人の地位は向上しますが、著者はむしろインド人に「自分たちは有用な存在だ」との誇りを持たせたかったのではないか、と私には感じられます。



一番奥

2010-05-22 18:34:03 | Weblog
スーパーの入り口に、買い物籠が積み重ねられ、カートがずらりと並べられています。客は積み重ねられた籠はその一番上から取りカートは一番手前から引き出します。使われた籠はまたその上に重ねられ、カートは手前から次々その列に戻されます。すると、一番下の籠・一番奥のカートは一体いつになったら“出番”が来るのでしょう?

【ただいま読書中】『ここまで巧妙ならみんなだまされる! 悪質商法のすごい手口』独立行政法人国民生活センター監修、 徳間書店、2009年、1800円(税別)

全国の消費生活センターや国民生活センターの相談窓口には、さまざまな消費生活相談が年に100万件以上寄せられます。その中で70歳以上の人が当事者になった相談は、2001年度には約5万7000件でしたが、2004年度に10万件を超え、以後ずっと10万越えを維持し続けています。
すごい件数ですが、おそらくそれは氷山の一角。泣き寝入りしたりあるいは自分が被害にあったことに気づいていない人はもっと多くいるはずです。
人を欺す気満々の人は、要するに「プロ」です。見た目は善人で、人の心理を操る手段に長けています。さらに「金がないこと」は何の“防衛線”にもなりません。金がないところからでも彼らはきっちり搾り取っていきます。さらに、泣き寝入りをする人のリストは悪質業者には「カモリスト」です。業者間でやり取りされ次々悪質業者がやって来ることになります。
「消防署の“ほう”から来ました」は昔からある手口ですが、最近は消火器ではなくて火災報知器(消防法改正で義務づけられたもの)を売りつけるそうです(当然ですが、自治体や消防署は訪問販売はしません)。テレビ放送が地デジに移行することを利用した商売もあります。
ところで、訪問販売の相談件数ワーストワンは何でしょう? それは「新聞の勧誘」です。セールスチームに属する勧誘員(業界用語では「拡張員」)は歩合制で、だからなりふり構わぬ強引な勧誘を繰り広げています。新聞って「社会の木鐸」のはずなんですけどねえ。
「おれおれ詐欺」も“進化”し、今では「おれおれ」なんて言いません。最初からピンポイントで孫の名前などを名乗ったり、事前に「携帯の番号が変わったので」と登録を変えさせてから後日改めて電話をするなど手口は複雑巧妙になっています。お金の振り込みも、ATMが使いにくくなったので、郵便のエクスパックや宅配便・バイク便を使ったり代理人と名乗る人物を派遣したりの新しい手口が登場しています。
正当な司法制度を悪用する手口もあります。裁判所の「支払い督促」や「少額訴訟」を悪用して、送りつけられた人が「架空請求だから無視」してしまうと、強制執行の対象や原告の言い分通りの少額訴訟判決が出ることがあるのです。裁判所からの「特別送達」の郵便物は無視してはいけません。ただし、それになりすました書類もありますから、自分で裁判所や地域の消費生活センターの電話番号を調べてそこに確認する必要はあります(その書類に載っているのは、悪質業者の電話番号かもしれませんから)。
マルチ商法や免許を持たない業者が複雑な金融商品を勧める例もありますが、社会的にまっとうな保険会社の支払い拒否や銀行がリスクのある金融商品を強引に勧める例も紹介されています。
インチキ商品も続々登場します。よくもまあこれだけいろいろ考えつくものだと感心します。売りつけ方もさまざまです。催眠商法は昔からありますが、今でも続いているんですね。霊感商法、ネガティブオプション(送りつけ商法)、原野商法の二次被害、次々商法……それに対して消費者が対抗するため使えるのは、正しい知識、クーリングオフ、周りの人間への相談、消費生活センターへの相談。私もときどき親の家に行って妙なものが増えていないかとかチェックする必要がありそうです。というか、自分が悪質商法の被害者にならないように心がけておかなければなりません。