例えばウサイン・ボルトのような、絶対的な世界最速の男が、突然失明して、「ではパラリンピックに出る」と希望したとします。もちろん視覚障害者ですから、パラリンピックへの出場資格はあるでしょう。問題は「世界最速」であることです。ガイドランナーを、どうします?
【ただいま読書中】『会計学の誕生』渡邉泉 著、岩波書店(岩波新書1687)、2017年、780円(税別)
十字軍や東方との貿易によって、13世紀頃から北イタリアの諸都市では商業が盛んになりました。現金取引だけではなくて信用取引が盛んになると「取引の証拠」が必要となります。公正証書や借用証書が用いられますが、いちいち発行するのは手間です。そこで「帳簿」が重視されるようになりました。その時「売主と買主」「貸し手と借り手」の双方の帳簿が一致していなければなりません。つまり簿記は誕生した時から「二重記録(つまり複式簿記)」だったのです。さらにそれが損益計算と結びつくと、「フロー(継続記録)」と「ストック(有高計算)」の二面からの計算が必要になります。この「二面」が「複式」の由来です(複式簿記の簡便法の「単式簿記」が登場するのは、複式簿記が誕生してから500年以上経過した18世紀になってからです)。
13世紀にアラビア数字がヨーロッパに広がり始めますが、中世のイタリアの帳簿には主にローマ数字が用いられました。アラビア数字が主力になるのは15世紀後半からです。グーテンベルクの活版印刷が広がったことも、アラビア数字の普及を後押ししたかもしれません。
著者は「複式簿記の本質は損益計算」と言います。損益勘定で企業損益が正しく算出されて初めて複式簿記が完成する、と。
世界最初の「簿記書」は1494年の『スンマ(算術、幾何、比及び比例総覧)』(ルカ・パチョーリ)です。第一部は「算術と代数」第二部は「幾何」の数学の本ですが、この第一部の中に「複式簿記の章」が含まれているそうです。実は1458年に「商業と完全な商人』(ベネット・コトルリ)という簿記に関する著作が脱稿されていたそうですが、実際に出版されたのは1573年になってからで、だから「世界初」は『スンマ』に奪われてしまったそうです。ちなみにレオナルド・ダ・ヴィンチは『スンマ』を119ソルディで購入して数学を勉強したそうです。また、パチョーリの第二の著書『デヴィナ』の挿絵はダ・ヴィンチが描いています。
簿記の歴史では、15世紀イタリアに続いて重要なのは17世紀オランダです。貿易立国オランダは当時の世界中の貿易に君臨していました。そこで重要なのは「株式会社」の登場です。ここで「会計年度」の概念が登場し、一定期間ごとに企業の損益を定期的に計算することになりました。オランダの数学者シーマン・ステフィンは『数学的回想録』で複式簿記についても論述しましたが、『スンマ』26ページだったのがこちらでは150ページも充てられています。複式簿記の重要性が高まった、ということなのでしょう。
そして18世紀のイギリス。産業革命で社会の変革がもたらされ、専門学校やグラマースクールの教科書として簿記書が次々出版されました。そして、複式簿記が複雑すぎる、という声に対しては「単式簿記」、海外との取引などでもっと複雑で正確なものを求める声に対しては「実用簿記」、と、単純化と複雑化の両方向に簿記は変化していきます。しかし最終的に19世紀に「複式簿記」に簿記は再統合されますが、単純な先祖回帰ではなくて、「会計」へと進化して行ったのでした。
会社が発表する決算書が正しいものかどうか、の保証をするために、19世紀に公認会計士が誕生しました。そして、イギリスから移住した会計士が中心となって、アメリカでも会計士協会が設立されました。そして、英米から影響を受けて日本でも会計学が進みました。明治新政府は日本固有の簿記法(帳合法)を廃止して洋式簿記(複式簿記)を採用、明治5年には小中学校の教科に簿記を組み込みました。
日本の中小企業のほとんどは赤字なのに倒産しない、とか、逆に黒字なのに倒産する企業があることとか、経済には不思議なことがいろいろありますが、会計学を勉強したらその辺のことがよく分かりそうです。