7→11時のコンビニに初めて出会ったのは昭和49年のことだったと記憶していますが、やがてコンビニもファミレスも24時間営業が当たり前になりました。最近はその24時間営業を縮小しようという動きも始まっていますが、私が逆に「7→23時」への“営業”拡大を望みたいのは、たとえば「図書館」です。今私が一番利用している図書館は幸い通勤路に位置しているので、仕事の行き帰りにちょいと寄る、が可能ですが、ちょっとでも残業したらもうアウトです。そもそもコンビニがこれだけ普及した原因の一つは「その時間にしか利用できない層」が多かったから、のはず。だったら図書館も“営業時間”をもう少し前後に伸ばす、はできないものでしょうか。
【ただいま読書中】『中学生たちの風船爆弾』中條克俊 著、 さきたま双書、1995年、1650円(税別)
朝霞の中学校で「文化祭で地域について調べて発表しよう」ということで「風船爆弾」というテーマが見つかりました。ところがきちんとした史料はほとんどなく、聞き取り調査を丹念にすることしかありませんでしたが、中学一年生たちは熱心に調査をしました。地元の女学校から工場に勤労動員をした人たちが、まだ地元に何人も生きていました。作業は「何枚かの和紙をコンニャクのりで丁寧に貼り合わせる」もの(これで気密が保たれる球皮になります)。この手作りの気球に爆弾をぶら下げてアメリカ本土を“爆撃”したのです。9300発が飛びアメリカには285発の到達が確認されています。オレゴン州では6名の死者が出ました。中学生たちはそういったインタビュー結果をまとめ、学校で「出版記念会」までやってしまいます(この時にはNHKが取材に来ました)。しかし話はそこで終わりません。中学生たち(と担任)は、風船爆弾に関連した24の地方自治体に問い合わせを行います。すると反応や資料が続々と。さらにアメリカのスミソニアン博物館(終戦直後に押収した資料や風船爆弾の現物があります)にも問い合わせをします(中学一年生には英語の手紙はずいぶん大変だったでしょうけれど)。
女学生だけではなくて(旧制)中学生も製造に動員されていました。だから本書のタイトルはダブルミーニングです。戦争と平和について学ぶのも中学生なら、戦争に加担したのも中学生だったのです。
放球基地は海岸近くに設けられました。水素発生には、海水・苛性ソーダ・硅素鉄が必要ですし、バラストとして海岸の砂を乾かして用いていたからです。風船爆弾は、千葉・茨城・福島から放球され、高度1万メートルくらいで低温のため気球がしぼむので気圧計を組み合わせた高度維持計によってバラスト(砂袋)を投下、バラストと焼夷弾を一つずつ落としながら偏西風に乗って2〜3日で太平洋を横断、そこで爆弾を投下、気球は自動爆破、という設計でした。
しかし、8月7日に「広島が『新型爆弾』で全滅」というニュースが茨城に届き、3日後には「新型爆弾はウラニウムを用いた原爆」という噂が流れてきた、というのはすごいですね。「新型爆弾」に関する大本営の公式発表はなかったはずですが。そういえば風船爆弾も、最初は原爆を搭載する予定だったそうです。やろうと思えば生物兵器を搭載することも可能で、実際に閣議で検討されたようです。だからでしょう、軍はけちけちしませんでした。使われた金は2億円とも2億5千万円とも言われているそうです(現代のレートだとどのくらいになるんでしょうねえ)。
「風船」は平和のイメージを持っています。だけどそれに「爆弾」がくっつき、それを作るのに子供たちも参加していた。戦争って、本当にヤなものだ、と私は感じます。
アニメ映画「君の名は。」では、彗星の尾がきちんと2本描かれていました。一本は「物質(微粒子)」でできていて、彗星の軌道が楕円のため地球から見たらしっかり曲がって見えます。もう一本は「イオン」で、太陽風に吹かれて太陽とは真っ直ぐ反対側に伸びます。
映画館でそこまで考えながら鑑賞している人は、あまりいないかもしれませんが。
【ただいま読書中】『ハレー彗星フィーバー ──凶星がもたらす世紀末の恐怖』ドナルド・グロップマン 著、 小中陽太郎 訳、 サンケイ出版、1986年、1400円
巨大な彗星が地球に接近するたび、世界のあちこちでパニックが起きました。1910年のハレー彗星接近では、史上最悪の彗星恐怖症が世界に流行しました。「科学が進歩したら迷信は退く」と“知識人”はなんとなく信じていました。しかし、分光写真によって「彗星の尾に青酸ガスが含まれている」という発見があり、精密な軌道計算によって「最接近時に地球がハレー彗星の尾を通過する」ことがわかり、その“合わせ技”で「地球生物はハレー彗星の青酸ガスで死滅する」と人びとはパニックになりました。「科学」によって恐怖症が煽られたのです。
さらにその恐怖を煽ったのはマスコミです。つまり、「科学」と「マスコミ」の合わせ技ですね。
当時のイギリスは、ビクトリア時代が終わって性的に自由なエドワード時代。アメリカではセオドア・ルーズベルトが国を変革していました。日本では日露戦争が終わって5年。ウィーンではジグムント・フロイトが地歩を固め、アドルフ・ヒトラーは絵を描くことに飽きて新聞の政治面を熟読していました。
そうそう、ハレー彗星が前回地球に接近した1835年に誕生したマーク・トウェインは1910年にハレー彗星が近日点に達した翌日(本人の希望通り)死去しました。イギリスではエドワード国王が逝去。これを「ハレー彗星の呪い」とみなす人もいました。
そして、パニックが地球を静かに覆います。祈るだけなら良いのですが、絶望して自殺する人が続出。酸素ボンベは売り切れ。コンスタンチノープルでは、人々が空を見上げている間に地上では野良犬狩りが行われました。世界各地でそれぞれ“イベント”が行われましたが、後日オクラホマで「ハレー彗星に処女が捧げられそうになった」という新聞記事が。著者はその真偽を調査しましたが、「おそらく偽。しかし、もしかしたら、という疑いはちょっとだけ残る」という結論です。
本書の最後は「未来」。1985〜86年にハレー彗星がまたやってくるので、どのような調査が行われるか、という話です。もちろん私たちにとってはすでに「過去」の話ですが、そういえばいろいろわくわくする話があった、と思い出しました。そういえば日本も探査機を上げましたよね。あれでどんなことがわかったんでしたっけ?
ニュートン力学では、惑星などの重力源が3つあると、それぞれがそれぞれに影響をしてその影響が自分に返ってくるので軌道計算はとてつもなく困難になります。では生態系で共存・競争・妨害をしつつ安定している極相でそれぞれの生命がどのような関係を持ち合っているのかの生物学的計算はどうなんでしょう。やはりとんでもなく難しいもののような気がするのですが。
【ただいま読書中】『植物たちの静かな戦い ──化学物質があやつる生存競争』藤井義晴 著、 化学同人、2016年、1600円(税別)
生存競争は動物だけではなくて,植物の間でも行われています。光を独占するために、少しでも高く幹を伸ばす、あるいは少しでも広い面積を占める、あるいは化学物質(アレロケミカル)を分泌することで他の植物を攻撃するアレロパシー。本書は「動けない植物」が用いる化学戦略についての本です。
アレロパシーのことばと概念は1937年にモーリッシュが提唱しましたが、その現象観察記録は古代ギリシアまで遡ることができます(日本では江戸時代の熊沢蕃山が記録を残しています)。
「連作障害」という現象があります。これは、病虫害や特定の植物が土壌中の特定の栄養分を使い切ってしまうことによる場合もあるでしょうが、アレロパシーによって特定の化学物質が土壌中に蓄積されて他の植物が生育しにくくなる場合もありそうです。
アレロパシーは「攻撃」だけに限定されているわけではありません。「他の生物(植物だけではなくて、動物や昆虫や微生物も含みます)に対して自らが分泌する化学物質で何らかの作用を示す」ことを意味しています。なお、アレロパシーはドイツ語で、だからその原典をきちんと読んでいる英米圏および日本人はあまりいないそうです。また、それと似た概念の「フィトンチッド」はロシア語で、こちらも文献を原語できちんと読んでいる研究者はあまりいないそうです。
ギンネム、アカマツ、サルビアなど、様々な植物でのアレロパシーが研究され、その中でアレロケミカルが特定されたものもあります。もっとも自然環境は複雑ですから、単一の物質だけですべてが説明できるかどうかはなかなか証明が難しいのですが。
外来植物であるセイタカアワダチソウは日本で繁栄していますが、アレロパシーが強いことで有名だそうです。まだどの化学物質が在来植物に対する「新兵器」なのかは仮説の段階ですが、少なくともアレロパシーが繁栄をもたらしていることは間違いなさそうです。ナガミヒナゲシやニセアカシアも同じようにアレロパシーによって日本で繁栄しています。
しかし、植物が分泌するのが「クマリン」とか「シアナミド」とか、どこかで聞いたことがある物質であることを知ると、生態系の不思議さが少しわかった気がします。
アレロパシーを活かした「生物農薬」は各国で発売されていますが、「病害虫や雑草に対して働く、生物(生きた状態あるいは死んだ状態)またはそれからの抽出物」だそうです。ただし「天敵」や「抗生物質」はここには含まれないそうです。
野菜で“最強”のアレロパシーを示すのはアスパラガス。根とその周辺の土壌には、非常に強い雑草抑制効果があるのだそうです。化学物質の同定はまだできていませんが、それができたら、他の畑などでの雑草抑制にも応用ができるかもしれません。種々の薬草も強いアレロパシーを示しますが、面白いのは、動物にも植物にも作用を示すことです。動物と植物は、進化論的にはまだ“近い存在”なのかもしれません。
ヒガンバナも有毒アルカロイドを含んでいて人間やモグラなどに有害ですが、同時に真菌の殺菌作用、ウジ虫の殺虫作用、雑草(特にセイタカアワダチソウなどのキク科植物)抑制作用も示すそうです。
こういった特定の化学物質を特定してその薬理作用を同定するのは、現在の科学の手法が得意とするところです。しかし、様々な植物や動物や微生物の相互作用の中で、「その化学物質」がどのように単独で作用し、他の化学物質と出会うことでどのように作用を変化させるのか、つまり「生態系そのもの」を調べるためには、「単独の物質の分析」だけではとても追いつけません。もっと新しい手法の開発と、さらには「生態系や環境」をわかりやすく記述する言語の開発が必要になるでしょう。本書でも「若い研究者に期待する」と何回も書かれていますが、私も期待しちゃいます。
日本の田舎を行くと、あちこちに耕作放棄地が見えます。あれ、もったいないですよねえ。世界のあちこちに「日本で農業をしたい」という人がいたら、安く貸してあげたらどうでしょう。どうせ遊んでいる土地なのですから、活用してもらえたら、いろいろと日本にとってありがたいことがあるのではないです?
【ただいま読書中】『世界一素朴な質問 宇宙一美しい答え ──世界の第一人者100人が100の質問に答える』ジェンマ・エルウィン・ハリス 編、西田見緒子 訳、 タイマタカシ 絵、河出書房新社、2013年(14年2刷)、2500円(税別)
子供は大人が答えにくい質問を容赦なくしてきます。著者はまず4歳〜12歳の数千人の子供から「質問」を熱め、それを世界中の「第一人者」に答えてもらいました。もちろん「正解」を得るためではありません。子供の質問で窮した人がこの本の「回答」を自分の子供の「なぜ?」に対して使ったとしても、おそらく次の「なぜ」を引き出すだけで、窮した状態は変わらないでしょう。ただ、本書にある「質問」とそれぞれの答のペアは、硬直化しつつある私の頭脳を知的にマッサージしてくれます。
ちなみに編者は、2歳の息子が「あれは何?」と満月を指さしたとき、その不思議な美しさに初めて気づいたような気がしたそうです。
「ミミズを食べても大丈夫?」に答えるのは、サバイバルの達人、ベア・グリルス。自分が食べたときの体験を語りますが、話はそこで終わらず、サバイバルの、さらには人生の秘訣に迫るヒントが子供に与えられます。
「世界を歩いて一周するには、どれくらい時間がかかる?」の答は「1789日」。実際に歩いて世界一周をした女性冒険家ロージー・スウェイル=ポープが答えています。
私が好きな作家の一人、フィリップ・プルマンも回答者として登場しています。ただ彼の回答は幼児には難しいかもしれません。
基本的に一つの質問に一人の回答者ですが、「難問」には3人がかりです。その難問とは、「神様ってだれ?」「なにが、わたしをわたしにしているの?」そして「どんなふうに恋に落ちるの?」。あなただったらどう答えます?
私が一番笑った質問は「ウシが一年間おならをがまんして、大きいのを一発したら、宇宙まで飛んでいける?」。回答者のメアリー・ローチ(サイエンスライター)は、真面目に質問に取り組みます。ウシが1年間に発生させるメタンガスは85kg。さらにレイ・アロンズ(ロケット科学者)が「85kgのメタンガスがあれば、33秒間900キログラム重の推進力が出せる」と計算します。その推進力で、ウシを流線型の超軽量ハイテク飛行服に入れて発射したら……いやもう、宇宙まで届く届かない、の前に、この回答を読んでいる途中から私は笑い声が押さえられません。
子供の時の疑問って、大人になると「そういうものだろ」と忘れてしまいがちです。だけどそれは消えたわけではありません。私がこの日記でバラエティーに富んだ本を読み続けているのは、私の内部に保存されたたくさんの「?」を少しずつ解消しようとしているからかもしれない、と気づきました。この世には「?」が満ちているのだから、大人だって「素朴な疑問」を持っていても良いですよね? でも、私にも「100人の一級の回答者」が欲しいなあ。
電車の中などでマスクをした人が目立つ季節になりました。ところで、紙マスクをした二人がそのまま唇、というか、マスクを合わせたら、それは間接キッスになるのでしょうか?
【ただいま読書中】『依存症の科学 ──いちばん身近な心の病』岡本卓・和田秀樹 著、 化学同人、2016年、1400円(税別)
日本にうつ病の患者は600万人いると推定されています(その内医者にかかっているのは100万人)。認知症は800万人。依存症は……2000万人。
アメリカの精神科では統一した診断基準(DSM)を使っています。1994年に改訂された「DSMーⅣ」では、「物質依存(アルコールや麻薬の依存)」と「行為依存(ギャンブルなど)」は別のカテゴリーに分類されていましたが、脳科学の進歩で、どちらの「依存」も「報酬系が異常に興奮する」という共通点がわかり、2013年に改訂された「DSMーⅤ」からはまとめて「物質関連障害および嗜癖性障害群」というカテゴリーで扱われることになりました。
依存は「意志を破壊する障害」です。人間の脳の「報酬系」は「快楽中枢」を含んでいますが、その部分が異常に興奮すると「普通の人間の意志」など簡単に圧殺されてしまうのです。だから「依存症の患者」に向かって「意志が弱い」と非難するのは無意味です。それは「病状」をそのまま指摘しているだけ。さらに「意志を強く持てば克服できる」というのは、たとえば「根性で癌を克服しろ」とか「根性で肺炎を自力で治せ」と要求するのに等しいでしょう。「病気の治療」に必要なのは「意志」や「根性」ではなくて「正しい治療行為」のはずなんですけどね。
「依存症患者」は「なにか」に依存しています。ところが日本の経済は「依存症」に「依存」しています。何かにはまった(つまりは依存した)人を相手の商売が、一番儲かりますから。さらにマスコミは「依存症産業」に「依存」しています。依存症産業(たとえば、タバコ、酒、公営ギャンブル、パチンコなど)の広告はマスコミに満ちあふれています(いました)。しかし依存症産業に対するネガティブな指摘(依存症の危険性とか、WHOがアルコールの広告規制を打ち出していること)にはなるべく触れないようにしています(実際にニュースで「WHOがアルコールの広告規制」とか「韓国・台湾でパチンコが禁止された」といったものがきちんと報道されていましたっけ?)。
依存症患者には「共依存(家族も巻き込まれている)」とか「否認(自分は依存症なんかじゃない、やめようと思えばすぐにやめられる、と強く主張する)」といった共通点があります。
ちょっと枝葉の話題ですが、医療用マリファナも本書では扱われています。アメリカでは小児てんかんに有効、とのことで医療用マリファナの使用が認められているのですが、もしTPPが成立したら、日本でも導入することになるのでしょうか? ところでマリファナには「吐き気、倦怠感、気分変調、自殺願望、頭痛」などの「副作用」があります。またfMRIでは脳の楔前部と前頭葉皮質との機能連関が減弱することがわかり、MRIでは脳の海馬と扁桃体の容積が減少することもわかりました。つまりマリファナは「脳の構造と機能を作り替える」わけです。「害がない」という主張をネットでよく見ますが、本当?
依存症の治療は、古典的な自助グループ(アルコールだったら「AA(アルコホーリクス・アノニマス)」、ギャンブルは「GA(ギャンブラーズ・アノニマス」、薬物依存には「NA(ナルコティクス・アノニマス)」)がありますし、最近は認知行動療法、マインドフルネス認知療法、メンタル・コントラスティング法なども行われています。だけど一番大事なのは「それ」から完全に遠ざかること。だけどテレビの画面には、魅力的な「それ」がコマーシャルでがんがん流され、ワイドショーで芸能人の覚醒剤中毒者が再犯で捕まったらコメンテーターは「意志が弱い」と非難することで言外に「意志が強いあなたは大丈夫」というメッセージを発しています。依存症治療のきちんとした医療機関は日本にはまだまだ揃っていません。こんな状態でカジノを解禁して、日本の将来は大丈夫?
関連する漫画:
『失踪日記 ──「全部実話です(笑)」吾妻』吾妻ひでお 作、イースト・プレス、2005年、1140円(税別)
『アル中病棟 ──失踪日記2』吾妻ひでお 作、イースト・プレス、2013年、1300円(税別)
私の肉体の何%かは、過去に食べた食肉(の栄養素)でできています。別の何%かは魚、あるいは穀物、野菜、果物…… 植物でも動物でも「生命」を頂いて私の生命は成立していますし、いつかは私の生命もその循環の中に還って行きます(というか、私の肉体(のなれの果て)はすでに「自然界の食物連鎖」の一部を構成しているんですけどね。私の肉体の死滅した部分やあるいは生きている部分でさえ微生物のエサになっていますから)。「原罪」とか「業」とか言いますが、私にとっての“それ”は「私が食物連鎖の中にあること(他の生命を頂いていること)」です。だから屠畜する人を差別したり屠畜方法を残酷だと非難することで“免罪”をしてもらおうとは思っていません。そんなことをしても最初から無駄ですから。そもそも、母親から胎内で栄養をもらい、母乳を飲んだ時点で、「生命を頂く」に関しては皆“有罪”なのでは?(人工ミルクの人についてはまた別に考察をします)
【ただいま読書中】『世界屠畜紀行』内澤旬子 著、 角川書店(角川文庫)、2011年、857円(税別)
肉は美味しく食べるのに、「生きものが肉になる過程」からは目をそらすことの不思議さに、著者は“それ”が日本だけのことなのか、それともよその国でもそうなのか、もしそうならそれはなぜか、そうでないならそれはなぜか、を個人的に追究しようとします。動機を語る口調は非常に軽いのですが、その行動の“意味”はとても重いもののように私には感じられ、そのギャップがまた面白く感じられます。
まずは韓国。ここでは屠畜に携わる人は「白丁(ペクチョン)」と呼ばれて、日本と同じくひどい差別を受けていたのだそうです。ところが著者が韓国の友人知人に聞いて回っても「そんなことがあったらしいね。今はないけど」という反応ばかり。ところが実際に屠畜をしている現場の人に聞くと「結婚は難しいかも」と。なんだか「肉になる過程から目をそらす」のと同様に「差別からも目をそらす」のか?と私は感じます。ただ、韓国では朝鮮戦争で全土が焼かれ差別地域も過去の戸籍ももうぐちゃぐちゃになってしまったので、実際に「過去」を手がかりに差別をしようとしても難しい、というのも現実のようです。屠畜現場の人間に対するぼんやりとした忌避感は漂っているようですが。
バリとトルコでは「殺す」ではなくて「切る」という単語を用います。そう言えば日本では「殺す」ではなくて「つぶす」ですね。やはり直接「殺す」とは言いづらいのでしょう。
家庭で日常的に屠畜をする所でも、エジプトでは小さい子供にその過程を見せますが、チェコでは見せません。それぞれに「教育的見地」からの意見があるのですが、著者はその“優劣”を簡単にはつけません。そうそう、チェコでは「肉屋に対する職業差別」はありません。社会主義のときには、インテリは差別されていましたが、肉屋は「肉の中で最上のものを届けてくれる」ということで尊敬されていたそうです。
モンゴルでは「オルルフ」という「羊の胸部を少し小刀で切ってそこから手を突っ込んで心臓のそばの大動脈を指で捻り切って体内に放血させる」方法があります(草原を汚さずに済むし、血の一滴も無駄にせずに済みます)、モンゴルからやや西のトルコ系遊牧民は頸動脈を切って放血します。そしてお互いの方法を「残酷だ」と非難しています。イスラムではイスラム法で屠畜方法が定められていますが、オルルフもモンゴル帝国時代に法令で定められたもので、だから「自分たちの方法が絶対」なのでしょうね。で、現代の動物愛護団体もまた「自分たちの信条が絶対」で「屠畜方法が残酷だ」と非難をするのです。
「非難される」と言えば「韓国の犬鍋」。ということで著者はまた韓国に出かけます。何度も味わってはいましたが、屠畜の現場は知らなかったから。ついでですが、動物愛護団体は韓国には熱烈に抗議をするのに北朝鮮や中国(どちらも犬肉を食べています)には抗議をしないのは、韓国が牛肉輸入国で犬肉食を禁止したら牛肉輸入量がもっと増えることが期待できるからではないか、という分析も本書には紹介されています。
もちろん日本の屠畜場も紹介されます。この部分で印象的なのは、流れ作業の合理性と職人の凄腕による「効率」のすごさと徹底的な「検査」です。ここまでに紹介された「家庭で行われる屠畜」とは発想が違います。検査も、最初に外見をチェックし、血液検査、解体後の内臓と頭部の検査、と何重にも行われていて、病気の肉が市場に出回らないようにされています。ありがたいことです。あまりに大規模なため、著者は芝浦屠場に半年以上通い詰めて、ラインの構成を頭に入れ作業員と仲良くなり、精密なスケッチを何枚も描きました(書き忘れていましたが,本書の魅力の一つは、著者の精密だけどやわらかい雰囲気の画の数々です)。
「豚の皮」は、東京だとなめして「皮(ピッグスキン)」として売られますが、沖縄では「食べもの」です。だから処理の工程が違います。これまた文化の違いですね。
そうそう、「残酷」「気持ち悪い」というのは便利な言葉だなぁ〜、なんてことも思いますね。これを言えば目をそらすことが“合法化”されますから。もちろん残酷だし気持ち悪いと感じる作業ですが、目をそらしたら「その肉を食べる私」は「屠畜とは無関係です」と言えるのでしょうか? さらにその上に、屠畜をする人を差別するのはこれはもうそんなことをする人の心のありようが「残酷」で「気持ち悪い」んじゃなかろうか。それをさらりと「差別する人たちも、肉を食べてるんですよねー」と言う女性(屠場の職員)も本書に登場します。だけど屠場に「屠畜をするとは、穢らわしい」などと手紙を(それも定期的に)送りつける輩も実在するのだそうです。個人的な厄落としでもやっているつもりなのかな?
ただ、私たちも肉を食べ過ぎているのではないか、とは思います。私の実家は貧乏だったので、私の子供時代に肉はあまり食卓に上りませんでした。米と野菜と魚が主。クリスマスには「鶏の腿(骨付き)」が一人に一本、これが年に1回の「(細切れではない)かじりつける肉」という大ご馳走でしたっけ。だけど今は、肉は大量に生産され、大量に消費されています。でも「大量」を確保するために(あるいは「大量」の結果として)私たちは「(肉に対して)無神経」になっているのかもしれません。動物の飼育環境を劣悪にしてコストダウンをし、そして大量流通のために「食べられない部分(本当は工夫したら食物になる部分)」を平気で捨て、食物となった肉でさえも食べ残して捨てる。こういった無神経な大量生産大量流通大量消費は「業」ではなくて「犯罪行為」と呼んで良いのかもしれません。
「史上最年少プロ棋士 デビュー戦で現役最年長と対局」(NHK)
中学二年生でプロ棋士(将棋プロ四段)となった藤井さんのデビュー戦の相手が、現役最年長(現在76歳)の加藤九段なんだそうです。加藤さんは藤井さんに破られるまでは「プロ入り最年少記録」を持っていて(藤井さんは14歳2箇月、加藤さんは14歳7箇月)、かつての神童と今の神童が対決しているわけ。さて、藤井さんは76歳まで現役を続けられるかな? 続けて欲しいな。
【ただいま読書中】『時間生物学とは何か』アラン・レンベール 著、 松岡芳隆・松岡慶子 訳、 白水社(文庫クセジュ)、2001年、951円(税別)
生物は固有のリズムを持っていますが、その周期は「概日(サーカディアン)リズム(おおむね24時間)」「ウルトラディアンリズム(概日より短い)」「インフラディアンリズム(概日より長い)」に3分されます。この3つは複雑に絡み合っているため、研究者は自分が何を研究しているのか常に意識する必要があります。さらに、フーリエ解析のような手法も必要になります。
解剖学は「where」に対して回答を出そうとする学問ですが、時間解剖学は「when」に対して答えようとします。つまり、時間生物学では「生物」は「空間の中で生きているもの」ではなくて「時空間の中で生きているもの」なのです。
恒温の洞窟などへの隔離実験があちこちで行われていますが、著者たちが行った実験では面白い結果が得られました。外部から時刻情報が与えられないと「1日」は「24時間」から少しずつ延長し、それには個人差があります。ところが集団で隔離すると、「24.8時間」または「25.2時間」でそのグループは「社会的な1日」を生きるようになったのです。
驚いたのは、厳密なホメオスタシスの信奉者たちが「生物には恒常性があるのだから、時間による変動など研究することは無駄である」と言い切っていたため時間生物学の発展が阻害された、と本書にあることです。それって本当なのでしょうか。私の理解では「ホメオスタシス」は「動的な平衡」であって「静的な安定(固定)」ではありません。つまりホメオスタシスは変動するからこそホメオスタシスなのです。そしてその「変動」に「時間的変動」は当然含まれる、が私の理解です。
ホルモンの分泌には日内変動があります。病気の発生にも、発生しやすい時刻や季節があります。さらに薬の効き具合にも時刻による変動があります。すると、ある疾患を治療するためには、疾患と薬のそれぞれの「時間生物学(時間病理学や時間薬理学)」を考慮する必要がありそうです。
本書の最後に「夜勤と昼勤の交替勤務者のほとんどは、きちんと適応できていない」という恐ろしい研究結果が紹介されています。掲載されているグラフを読む限り、明らかに能率が落ちているようです。ということは、国際旅客便の乗務員たちもジェットラグで疲れた状態で常に勤務をしている、ということに? これはちょっと恐い指摘ですね。「徹夜した場合、二日酔いとほぼ同じレベルの能率」という文献の紹介をどこかで読んだ覚えがありますが、「二日酔いと同等のパイロット」が操縦するジェット旅客機に乗りたいと、思います?
私は職場で移動するのが好きではありません。だって移動中は仕事をしていませんから。だから移動の時間は最小限にするように努めています。だから、移動中に大した用ではないのに引き留められたり、移動を始めたら「あ、これもついでに」と呼び返されたりするのは、時間の無駄で仕事の効率が下がるので嫌いです(追加の仕事は、せめて移動を始める前に行って欲しいのです。歩き始めて引き返す時間が無駄ですから)。ところがそういった「人に無駄を強いるのが大好きな人」って、けっこう多いんですよね。私が効率よく仕事をしたいと願うのが、そんなにお嫌いなのかしら。
【ただいま読書中】『通勤の社会史 ──毎日5億人が通勤する理由』イアン・ゲートリー 著、 黒川由美 訳、 太田出版、2016年、2600円(税別)
「報酬の良い仕事」と「居心地の良い家」を得るために「通勤」は合理的な選択です。ただし、人はそのために代償を支払わなければなりません。本書は通勤が「旅」だった時代から始めて、「現状」「未来」について考察しています。
ディケンズの時代、ロンドン(に限らずイギリスの都市)の衛生状態・住環境は最低でした。そこに蒸気機関車が登場。はじめは貨物運送が主目的でしたが、やがて旅客輸送が潜在的に巨大なマーケットであることに気づく人が現れます。列車を利用する目的は、競馬場へ行くことや郊外へのピクニックなどでしたが、通勤も早期から混じっていました。しかしそれは「危険な旅」でした。時刻表は不確実で、乗客の安全はないがしろでした。今空港で生命保険が売られているように、駅の切符売り場では生命保険も売られていました。時刻表の正確さが、乗客の利便だけではなくて事故予防にも重要であることが周知され「鉄道時間」がイギリス全土に普及します。それにより、国民は時計を持つようになり「遅刻」という概念も普及します。
面白いのは、「通勤」によって「愛による結婚」が普及した、という指摘です。移動と居住の自由の幅が広がることによって、親・親戚・近隣社会の軛から離れたところで「結婚」が成立するようになり、そこで重視されるようになったのが「二人の愛情」だというのです。
都市周辺の村も変化します。戸建て住宅が並ぶと、そこに移住してくるのは都市の上級職の人たちです。鉄道の駅があるかどうかで、村の発展が左右されるようになったのです。しかし、安普請の住宅は荒廃も早く、郊外の不動産価格は乱高下を繰り返しました。
1883年「割引列車法」が成立します。通勤する余裕がない(だから都市の貧民街に住み続ける)労働者が安い運賃で「通勤」できるようにする法律です。同時に郊外に安価なテラスハウスがずらりと建築されました。
アメリカでもイギリスと同様、まず中産階級が列車通勤を始め、それに下層の労働者が続きました。
自動車は、最初は「道路を清潔にする」ことも期待されていました。馬車の騒音はひどいものでしたし、馬糞や馬の死体の始末はけっこう大変な作業だったのです。そして「自動車通勤」は、まずアメリカで普及します。アメリカ人にとって自動車がもたらす「自由」は欧州人よりも大きな価値があったようで、自動車に対する思い入れも強かったのです。そのためアメリカでは「自動車通勤者用の郊外住宅」が第二次世界大戦前後に発達しますが、面白いことにそういった場所では市民活動も盛んに行われました。「自分のための場所を自分で確保する」ということだったのでしょうか。彼らは同時に「消費者」としての活動も盛んでした。クレジット利用は盛んに行われ、車でしか行けないモールなどがどんどん作られます。
通勤に関して「日本」から“エントリー”しているのは「ホンダスーパーカブ」「ラッシュ時の電車の異常な混雑」そして「痴漢」です。……むう。
電車はラッシュですが、道路は渋滞しています。これは世界的な現象です。そして「ロード・レージ(運転中の攻撃性)」という現象が。これはたとえば「前に割り込まれた」といった理由で激昂して相手を攻撃する(時には殺してしまう)ことですが、「自分の怒りは正当だ。悪い奴がひどい目にあうのは当然だ」と反省を見せないところが特徴です。ロード・レージはアメリカ精神医学会では正式な「病気」と認定されて「間欠性爆発性障害」と名付けられていて、全米で1600万人がこの障害を抱えている、と見られています。アメリカだけではなくて、インドやロシアなどでのひどい例が紹介されています。そういえば日本では列車の遅延などで怒って駅員を殴る客がいますが、この「怒り」も「ロード・レージ」とどこかつながっているのかもしれません。そうそう、ここでも「日本」が登場します。運転免許を取る前に適性検査を受ける必要があり、無謀な運転傾向ありとされた人は「自省」を促されますが、それで「ロード・レージ」の発生が他国より抑制されている可能性があるのだそうです。
「通勤のストレス」を解消する一つの方法が在宅勤務です。実際にそれを取り入れている企業も多くありますが、意外にその評価は高くありません。やはり「顔を突きあわせての仕事」の方が良い、というのです。セキュリティー上の問題もあります。悪意を持った社員が在宅勤務をしたら、容易に会社の中枢にハッカーを導き入れることができるのです。さて、では別の解決策は? 固定電話があっという間に携帯電話に置き換わってしまったように、何か新しい技術が開発されたら、そこから「通勤問題の解消」がもたらされるかもしれません。私自身は「どうしても職場で仕事をしなければならない」立場なので「どこでもドア」を希望しますが。
「経費の負担をさせてあげるから、名誉に思いなさい」森
「本当に名誉なら、ご自分が負担したら?」小池
【ただいま読書中】『鹿の王(下)還って行く者』上橋菜穂子 著、 角川書店、2014年、1600円(税別)
運命は不公平です。同じ病にかかっても、あっけなく死ぬ人もいれば、助かる人もいます。そこに「免疫力の差」を見る医術師もいますが、「神の御業」を見る人たちもいます。しかし「病」は「病」。人の思いには無関係に、病は病が行きたい道を歩みます。
「復讐」の念は、人を鬼にします。しかし、人として守るべき“一線”があることを、ヴァンは感じていました。それを越えてしまったら、虚無の穴の中に堕ちるだけだ、と。
侵略者に対する復讐の企てが着々と進行しますが、それは、多くの血を流した結果やっと得ることができた安寧の時を破壊するものでした。それを喜ぶものもいますが、困惑し逆らう者もいます。皆それぞれの事情を持っているのです。
幼い“娘”のユナと引き裂かれていたヴァンは、やっとのことで再会を果たします。ここで、ユナがヴァンのことを「お父ちゃん」ではなくて舌足らずに「おちゃん」と呼んでいたことが、実は伏線だったことがわかります。いやもう、こんなことまで伏線だったんですね。
すべてが解決したように見えたとき、傷を負ったヴァンは内省の淵に沈み考え続けます。その思考はやがて一つの文章に結晶します。「圧倒的な闇に挑み、跳ね踊る小さな鹿よ、輝け」。ここで私の感情はピークに達します。
しかし、「圧倒的な闇」は、復讐や妄執や欲望など、人の心の闇そのもので構成されていました。疫病など些細な問題に思えるほど、その闇の深さは圧倒的です。その中を、獣たちを従えて、「小さな鹿」が駆け抜けます。耀きながら。血を流しながら。でも、彼はひとりではありません。血はつながっていないけれど家族のような人びとが、彼の後をまっすぐ追います。私はその後ろ姿を見守ることしかできません。しかし、彼らが必ず出会えるであろう確信が心の内に湧いてきます。
私は小さいときから、ファンタジー系統の作品が(作品も)好きでしたが、小さいときには本当に面白いのは洋物ばかりでした。日本人作家の手によるこういった重厚でひたすら面白いファンタジーが読めるようになったことを、とっても嬉しく思っています。
最高裁判所は日本政府のポチで、日本政府は米軍のポチ、という理解でよろしいです?
【ただいま読書中】『鹿の王(上)生き残った者』上橋菜穂子 著、 角川書店、2014年、1600円(税別)
ヴァンは敗戦捕虜として岩塩坑で過酷な労働に耐えていました。その鉱山が山犬に襲われ、噛まれた者は皆病気になり、鉱山は全滅してしまいます。ヴァンともう一人、病気で死んだ奴隷の子であろう幼い女の子だけを残して。
『アンドロメダ病原体』で、不思議な疫病で全滅した町で、酔っ払いの老人と赤ん坊の二人だけが生き残ったことを私はふと思い出します(実はこれには、あとからちゃんと科学的な説明がつけられるのですが)。
病から回復したヴァンは、自分の身体が変調を来していることに気づきます。感覚が鋭敏すぎるのです。
ヴァンはもともと「独角(どっかく)」と呼ばれる狂戦士団のリーダーでした。山地の民に支配の手を伸ばしてきた帝国に対する最後のレジスタンスで、派手に死ぬことによって有利な降伏条件を引き出すことが任務でした。しかし、支配する側の帝国の内情も複雑でした。単純に「支配ー被支配」では割り切れない複雑な「蜘蛛の巣の上にさらに別の蜘蛛の巣がはっているような」ややこしい関係で人びとは生きています。しかし「疫病」は、そういった人間同士の思惑を貫いて流行します。
“逃亡奴隷”となったヴァンの後を追うのは、「跡追い」のサエ。男尊女卑の世界でその凄腕で知られる女性ですが、同行するマコウカンからは、「跡追い」には向かない弱く哀しい性格の人に見えます。しかしその追跡は、山犬の襲撃によって失敗させられます。
本書で重要なパートは疫病と闘う「医術師」の活動場面です。本書の舞台には、現代の言葉を使うなら「科学的・論理的な医術」と「宗教的で生薬を活用する医術」とが登場します。ただしこの二つの医術は“勝ち負け”を競いません。そもそも住む世界が違って「接点」がないのです。それでも両者は協力して、狂犬病よりも恐ろしい「黒狼熱(黒死病に狂犬病が加わったような病気)」と闘います。患者を救うために、あるいは、患者に安らかな死を迎えさせ家族がそれを受け入れる手伝いをするために。
「黒狼」「火馬」「飛鹿」など、不思議な語感の動物が次々登場しますが、どうやらそれらはすべて“伏線”のようです。人びとの社会を震撼させる致命的な“疫病”の流行は山犬の集団によってもたらされますが、そこには明らかに“人為”が感じられます。そしてそれを追跡しようとする人びとが“ドラマ”を進行させていきますが、追跡する人びともまたドラマによって何らかの役割を強いられているのかもしれません。さらに病気に対する免疫の強弱が「侵略者と被支配者」の対立を強めます。
すべての謎は謎のまま、話は下巻へとなだれ込みます。これはもう続けて読むしかありません。