「血税」が「税金として血液を搾り取るもの」だとしたら、「血管」は「血で作られた管」ということに? ただ、ドラキュラが支配する国では「血税」は実在しそうですね。
【ただいま読書中】『徴兵令制定史 増補版』松下芳男 著、 五月書房、1981年、8300円
本書はもともとは昭和17年11月に「徴兵令70周年」に合わせて出版された本です。だから中身はばりばりの旧字旧かなです。
徴兵令は明治六年に発布されました。「明治は遠くなりにけり」ですが、本書刊行時にはまだその当時のことを記憶している人が生存していたはず。だからでしょうか、大村益次郎や山縣有朋のことも著者はまるで知人のような雰囲気で書いています。
もともと徴兵令の原形は坂本龍馬の建白書ですが、その目的は「天皇の親兵」でした。それが奇形的に発展したのが新撰組かな。
戊辰戦争後、新政府が困ったのが軍備が脆弱なことでした。欧米と比較して遅れている、という意味もありますが、そもそも「日本軍」がないのです(あるのは「薩摩軍」とか「長州軍」だけ)。大村益次郎は明治二年、わずか46歳の働き盛りで暗殺されてしまいましたが、彼がおこなった明治初年の兵制改革は、彼の死後になって少しずつ形を為していきました。まずは兵式の統一。長州はイギリス式、紀州はドイツ式、会津は長沼流、他は大体オランダ式だったのを、幕府のフランス式に統一してしまいます(後年それはドイツ式に変更されます)。また「親兵」を大村は「朝廷の警護兵ではなくて、朝廷直属の軍」と定義します(こちらは大村の構想がそのまま生き残りました)。
武士は徴兵制に反対をしそうですが、長州藩は実は徴兵制に賛成でした。下関戦争と対幕府の戦いで、武士だけでは戦力が明らかに不足する現実に直面していたからです。さらに「武士」制度ではその家族の生活まで終生保証する必要がありますが、徴兵なら短期間だけ訓練のコストをかけて在郷に戻せば予備兵となり、いざという時には本当に低コストで大軍を組織することができます。その「いざという時」は実はすぐ目の前に迫っていました(西南の役を大村は生前に予想していたようです)。また、大村の跡を継いだ山縣には、各地で起きる不平士族の反乱を鎮圧するためにも、庶民を中心とする軍隊を必要とする、という切実な理由がありました。
山縣が武士の特権を否定する徴兵令を構想できたのは、彼が足軽の出身で「武士の特権」とは無縁の存在だったからではないか、と著者は考えています。そういえば大村益次郎も村医者の息子でしたね。二人とも「武家を否定しても失うものはない」という意識だったのかもしれません。
明治三年、政府は徴兵令の予告と言える「徴兵規則」を各藩に伝達します(実際にその中で「徴兵令の予告」をしています)。ただこの「規則」が「徴兵令」と根本的に違うのは「各道府藩が徴兵をする」としている点です。地方自治の徴兵制度? この徴兵規則、各藩には無視され、中央政府も熱心に押そうとはせず、いつの間にか“なかったこと"になってしまいました。まだ政府にはそこまでの「力」はなかったようです。
明治四年廃藩置県。諸藩の常備兵が召集されて鎮台兵とされます。ここから明治政府は本気で徴兵令施行を目指します。ただ政府内部には異論もあったのですが、明治五年に山縣は意見「主一賦兵論」を提出。これは後の「徴兵令」とほとんど同じ内容のものでした。明治六年十一月二十八日、明治天皇は「全国徴兵の詔」を発します。太政官はそれを受けて徴兵の告論を発します。どちらも古の日本にまで遡り、次いで四民平等の精神を訴え、ずいぶん格調高く「徴兵の必要性」を訴えています。それに対して士族は「特権剥奪反対」の立場から、庶民は徴兵を一種の「税金」と捉え「血税反対」と言って、全国的に「徴兵令反対運動」が巻き起こります。
明治五年は十二月二日で終わり、翌日から太陽暦での明治六年が始まります。その一月十日に徴兵令は発布されました。徴兵免除の資格として、一家の主人・嗣子・独子・養子などがあるのは知っていましたが、身長が五尺一寸(曲尺)未満も免除されていた、ということは、当時の日本人の体格がずいぶん小さかったこともわかります。なお、砲兵になるためには五尺四寸以上、騎兵・工兵・輜重兵になるためには五尺三寸五分以上の身長が必要とされています。また「代人料」が二百七十圓と規定されていて、つまり金持ちは徴兵免除が可能でした。高等教育を受けている者も免除ですが、これまた身分か金がある層が対象のようです。このへんは不平を抱く有力者への懐柔策ということでしょうか。
徴兵制度を始めるだけでも大変そうですが、始めたら始めたで、こんどは「同じ部隊に属する士族出身者と平民とをどう調和させるか」が大問題になります。政府要路にある武士出身者たちもまた「平民が兵隊として使い物になるわけがない」と大反対の嵐です。長州の人たちにも大反対の人がいるのですが、奇兵隊は無力だった、という認識だったのかな?
ちなみに、西郷隆盛が徴兵令に対して抱いていた意見は「頗る不明瞭」だそうです。誰が行って熱心に論じても「ふむふむ、ごもっとも」などとだけ言って本心の吐露がなかったため、行った人はみんな「西郷は自分に賛成してくれた」と思っていたみたい。
反対運動や抵抗(徴兵忌避の様々な手口が紹介されます)もありましたが、少しずつ徴兵令は日本に定着していきます。そこに“試練"を与えたのが明治十年に勃発した「西南戦争」でした。徴兵によって作られた軍が、ちゃんと機能するかどうかの“試金石"です。“賊軍"一万三千はまず熊本城を抜いて本拠としようと進軍。それに対して熊本鎮台の歩兵第十三連隊と砲兵第六大隊などの二千数百人に加えて小倉の歩兵第十四連隊331名と警視隊600名が熊本に入城します(歩兵の6割くらいが徴兵によるものと推定されています)。籠城策が採られましたが、それは「多勢に無勢」という事情以外に「徴兵に対する不信感(どうせ弱卒に違いない、という思い込み)」も作用していたようです。中央では旅団が泥縄式に次々編制されて九州に送られました。面白いのはその中に「新撰旅団」があることです。明治初めに「新撰組」は“悪役"ではなかったのかな? ともかく兵士が足りないため、山縣は徴兵の徹底を進めます。同時に「巡査(旧士族が多くいました)を臨時の兵隊として使う」という策も用いました。
この戦いで徴兵が腰抜け揃いだったら、「やはり兵隊は士族に限る」となったかもしれません。そうしたらその後の日本は今とは違った形になっていたことでしょう。兵隊不足で悩む帝国日本……どんな進路を進んでいたんでしょうねえ。
「少子高齢社会」とか「人口減少」とか「地方消滅」とか、恐ろしげな言葉があちこちで使われています。
20年くらい前だったかな、家を買おうと思ってあちこちを見ていたとき、近郊の住宅団地を見に行ったことがあります。ここはその時から2〜30年くらい前に開発されたところで、開発当時はすごい人気だったのでどうせ高いだろうと思って参考までにと行ったのですが、意外とリーズナブルな値段でした。ただ状況を調べると、できた当時に子連れでどっと入ってきた人たちが、そろって同じだけ年を取り、子供たちは成長してもう他所に行き、つまりは「少子高齢団地」になりつつあったのです。これはちょっと先が心配、ということでそこは候補から外しましたが、今あそこはどんな状態になっているのだろう、と思うことはあります。一挙に世代交代するのではなくて、少しずつ移行する方が、安定的な社会になるのでしょうね。
【ただいま読書中】『都市の老い ──人口の高齢化と住宅の老朽化の交錯』齋藤誠 編著、 勁草書房、2018年、3500円(税別)
人は高齢化し、住宅は老朽化します。本書ではそれだけではなくて、地域的な変遷(都市中心部で老朽化した住宅が、家賃の安さと便利さで若者に人気になる。都市周辺では高齢化と老朽化で空き家や空き地が増える)に注目し、「中心→周辺」と「周辺→中心」の二つの「高齢化/老朽化」の動きが起き、それが都市周囲のどこかで交錯することになる、と述べています。単に静的に「高齢化」「老朽化」を論じるのではなくて、人の動きも加味して動的に論じているのが特徴です。
ちなみに行政は「動的」なものを扱うのが大の苦手。だって官僚が大好きな「書類」に落とし込むのが困難な事象が多いですから(「書類」になった時点で“それ"はすでに固定されてしまっています)。
人口動態は、細かく見ると見えることが増えてきます。たとえば東京都では、これから人口の面で“衰退(高齢化、減少)"する区と“成長"する区は半々です。つまり「東京都」として見たら問題点が見えなくなります。
地価は基本的に人口密度によって価格が決定されます。しかし、同じように高齢化・人口減少をきたしている地方都市でも、地価が低迷するところもあればそうではないところもあります。ここで注目されるのは、公共交通機関、行政の人口移動に対する働きかけです。本書では「福岡市では人口密度の変動と地価の変動が連動しているが、コンパクトシティ政策を推進している富山市ではそういった“標準的な連動"が見られない」とあります。
1970年代から日本中でマンションが盛んに建てられるようになりました。そしてそれらは順次老朽化しつつあります。しかし、共有部分と専有部分の組み合わせで構成されるマンションは、立て替えなどが困難で、その困難さゆえに異常な価格低下を来たし、結果として都市のスラム化を推進する恐れが大です。さらにマンションは、空き地や空き家に比べて空き部屋が目立ちにくく、対策が遅れがちになるでしょう。
「老いる都市」に対する即効策は「都市のダウンサイジング」でしょう。しかしそれには根本的な発想の転換が必要です(これまでの「都市計画」は「成長」が大前提ですから)。さらに私が気になるのは、昭和・平成の大合併によって役所には「広域行政」も必要になっていることです。都市のダウンサイジングと広域行政との両立って、簡単ではないでしょう。両立ができなければどちらかを切り捨てる、とならなければ良いのですが。
テレビでの全国版の天気予報は大体「西から東」に各県の情報が伝えられます。これは「日本の天気が西から東に移っていく」ことの反映でもあるでしょう。だけど今回は常識外れに台風が東から西に走るので、それに合わせて天気予報も「東から西」に伝えたら、台風の移動についてもイメージがある程度掴みやすくなるのではないでしょうか。
【ただいま読書中】『日系人戦時収容所のベースボール ──ハーブ栗間の耀いた日々』永田陽一 著、 刀水書房、2018年、2000円(税別)
日本軍による真珠湾攻撃から約1箇月後、大リーグコミッショナーの「戦時に野球を続けて良いものか」の問い合わせにローズベルト大統領は「野球を続行することはアメリカにとって最良である」と“青信号"を返しました。野球は国民的娯楽で国民の士気の維持に役立つ、という判断です。そのため、多くの選手を戦地に送った大リーグやマイナーリーグは、戦時中も活動を続けました。その「国民的娯楽」は、「真珠湾」によって敵性国民とされた日系人でもやはり人気でした。
もともとアメリカでの日系人は差別の対象でした。19世紀の中国人差別に続いて20世紀には日本人差別が露骨におこなわれ続け、「一世」にはアメリカ国籍は与えられず、アメリカ生まれの「二世(定義上は立派な“アメリカ人")」に対してもその差別の手は緩みませんでした(だからこそ「真珠湾」であっさりと「日系人」に対する人権侵害が平気でおこなわれたわけです)。
1989年、著者は「ジミー堀尾(戦前にアメリカマイナーリーグと日本で活躍したハワイ出身の日系二世外野手)」の足跡をたどる旅に出ました。そこで最後にたどり着いたのがカリフォルニア州サクラメントの州立図書館ですが、そこで紹介されたのが「ハーブ栗間(ハーバート・ムーン・栗間盛雄)で、彼の話に著者は引き込まれてしまいます。
戦前にイチゴ農家を営んでいたハーブは、日系人社会ではその名を知られた名投手でした。しかし「真珠湾」で栗間一家は仮収容所としてフレズノ競馬場に急ごしらえされたバラックに押し込められます。将来を悲観したハーブですが、そこに「野球をしよう」と声がかかります。娯楽としての意味もありますが、収容所に強制的に監禁された人々に希望を与える意味もありました、というか、野球をしたい人間はどんな環境でも野球をしたいのです。そこでまず野球場を建設します。ひとりの人間がトウモロコシ畑をこつこつ切り開いて「フィールド」が作れるのですから(映画『フィールド・オブ・ドリームス』、小説『シューレス・ジョー』(ウィリアム・パトリック・キンセラ))、様々な才能が集められた収容所ではそれは割と容易なことでした。もともと日系人社会での野球は地域対抗だったので、それがそのまま収容所での野球にも持ち込まれました。栗間が属する「フローリン」チームは、栗間のピッチングの威力もあり、リーグ戦でダントツの成績を上げます(一軍クラスのAリーグは6チーム(1チーム15名)、二軍クラスのBリーグは8チーム(1チーム20名)で構成されていました)。あまりにフローリンが強いので、「フローリン」対「オールスターズ(フローリン以外のチームからの選抜メンバー)」のエキジビションゲームが3000人の観客を集めて開催されます。
42年10月リーグ戦は突然終了します。「戦時転住局」が突貫工事をしていた収容所が完成してそこに移住させられたのです。収容所は10箇所ですが、どこも辺鄙な荒れ地や湿地ばかり。そういえばアメリカン・ネイティブの「保護区」も砂漠ばかりだったりでしたね。当時のアメリカ人の性向が窺えます。列車に缶詰での4泊5日の旅は快適とはほど遠いものでしたが、ナチスがユダヤ人に強いたものよりははるかにマシだったのが慰めと言うことは可能……かな?(比較の対象が極端すぎましたかね) そして、送り込まれたジェロームの強制収容所で、栗間たちはは労働をするだけではなくて、やはり野球を始めます。野球に夢中になっていれば暴動にならずにすむ、という計算か、あるいは単に野球好きが戦時転住局にも揃っていたのか、野球場づくりに米当局も協力的でした。ただ、「収容所の中で衣食住を米政府に補償されてぶらぶら過ごしているだけの敵国人」に対するアメリカ人の反発はとても強いものでした。そんなにうらやましいのなら、自分も日本に渡って収容所に入れてもらったら良いのかな?
怒りと屈辱に満ちたありあまる時間を潰すためには、何でもできることを見つける必要がありました。その一つが野球です。
ハワイはあまりに日系人が多いため強制収容所を設置してそこにすべての日系人を入れることはできませんでしたが、それでも戦前から目をつけられていたリーダー格の人たち1000人以上が米本土の収容所に送られました。そこで「本土の地域(町)対抗」だけではなくて「ハワイ対米本土」の日系人野球対決も行われることになります。ただハワイ出身者の選手層は薄く、チームは大敗が続いてしまいました。そこに、第100歩兵連隊(ハワイ出身の日系兵で構成された部隊)の野球チーム(腕はセミプロ〜プロ級)が他流試合を申し込んできます。
野球の話から離れますが、南北戦争の時の黒人部隊(奴隷のくせに自由が欲しいなら戦って見せろ)とこの日系人部隊とは、白人の差別の論理が平気で倒錯して適用される(差別しているくせにその力に頼ろうとする)点がなんともみっともなく感じられます。
第100歩兵連隊の野球チームには、ハワイリーグの最高レベルの選手が目白押しで揃っていました。そしてその試合は、「アメリカ」から隔離された閉鎖空間で、これから死にに行く人たちと、少なくとも収容所内では命は保証されている人たちとの、不思議な雰囲気の交流となりました。
「鉄条網の中で野球を“楽しんでいた"」ことに否定的な意見もあるそうです。しかし、そういった環境でさえ楽しめること、それが人間の強さでしょう。そして「楽しんでいたこと」を問題にする人が「そういった環境」をもっと問題にするかどうか、それがポイントじゃないかな。
こんな天気の時も「ダイエットのためにサウナに行こう」と言う人がたくさんいるのでしょうか? 日本中が無料の低温サウナですよね。そもそもサウナはダイエット(食餌療法)ではないのですが。
【ただいま読書中】『レンブラントの帽子』バーナード・マラマッド 著、 小島信夫・浜本武雄・井上穰治 訳、 夏葉社、2010年
目次:「レンブラントの帽子」「引き出しの中の人間」「わが子に、殺される」
冒頭の「レンブラントの帽子」、先月読んだ『喋る馬』とは違って“ユダヤ臭"はしません。わずか23ページの短編ですが、二人の人間の心理描写の軽やかな筆致とその内容の哀切さが、こちらの心を鷲づかみにします。もうこの一編を読むだけで“元は取れた"と感じてそのままこの本はオシマイ、としたくなりました。
ただ、それではあまりにもったいないので「引き出しの中の人間」に移ると……これはこれで、「レンブラントの帽子」とは全く違った雰囲気ですが、やはりすごい作品です。表面上はソ連で生きるユダヤ人の物語で、「明確な弾圧」ではなくてKYの「空気」にあたるもので人がしばられ、監視されているかもしれないという雰囲気と恐れの中で萎縮している人の辛さと緊張感が、ぎりぎりと物語を軋ませています。そして私は気づきます。これは「ソ連」だけではなくて、世界のどこでもあり得る話だと。たぶん今の日本の“生きづらさ"の本質も、この作品から読み取れるはずです。
「わが子に、殺される」はちょっと感想を述べるのが難しい作品です。親子関係でひどく苦しんだことがある人とない人とで、おそらく評価は大きく違うでしょう(さらに言えば、そのとき「親」だったか「子」だったかでも違ってくるはず)。逆に言えば、どんな感想を持つかで「自分はどんな人間か」を白状することになりそうです。そういう意味ではちょっと恐い作品です。
図書館の本を読んでいると、前の人の痕跡が残っていることがあります。書き込みとか栞代わりにページを折ったあととか。この前読んだ本にはその両方がありましたが、書き込みの内容は完全に度を失ったものだったし、ページを折ったあとは2〜3ページごとにやたらめったらつけられていました。同一人物か複数犯かはわかりませんが、本の読み方があまりに下手くそな人がこの世には実在することはわかりました。
【ただいま読書中】『CIAの秘密戦争』マーク・マゼッティ 著、 小谷賢 監訳、 池田美紀 訳、 早川書房、2016年、2200円(税別)
「9・11」以前、CIAはスパイ活動だけで(こっそりやっていたかもしれませんが公式には)暗殺活動は認められず、軍はスパイ活動はしない、という分業をしていました。しかし「以後」、両者ともスパイ活動も殺人も公然とできるようになりました。アフガン戦争とイラク戦争の“裏側"で「新しいアメリカの戦争」が行われていたのです。そこで“活躍"するのは、暗殺兵器ドローンや特殊部隊、そして民間人でした。暗殺だけではなくて、拉致監禁もしますが、監禁場所として選ばれたのはキューバのグアンタナモ基地(キューバの主権もアメリカの主権も及ばないから何でもできる“理想的"なところ)でした。
冷戦時代は「核兵器(を使うぞという脅し)」と「スパイ」で構成されていましたが、冷戦以後は「テロ組織によるテロ」と「国家によるテロ」が“主役"を張っているようです。そういった風潮でCIAで出世するのは「ホワイトハウスのブリーフィングで大統領や国務長官の受けが良い人」になります。そして「受ける話題」は「長期的な計画」ではなくて「即効的なもの」。
CIAが優遇されるようになるにつれ、CIAから情報を得にくくなった軍は自前のスパイを養成し始めます。これで事態は複雑化します。内部の権力闘争が激化する(「自分たちの方が組織として優秀だ」と示すために相手の足を引っ張る)だけではなくて、外ではたとえば「情報源になりそうな敵のメンバーをやっと確保したら、実はその人は“味方"の二重スパイだった」なんてことが起きるようになるのです。
しかし「暗殺ドローン」をよくアメリカ人が容認したものだと私は感心します。西部劇だったら丸腰の相手を撃つ、あるいは相手を背後から撃つのは「卑怯者」として軽蔑されるものでしたが、暗殺ドローンは相手が丸腰だろうが子供だろうがお構いなしに死角である上空からミサイルを撃ち込むのですから。「アメリカ人の伝統的な正義の価値観」はずいぶん変わってしまったようです。
2004年のヘルガーソン報告書(CIAが世界各地に作った秘密収容所で非人道的な拷問を行っている)は各方面に衝撃を与えました。「政権に切り捨てられるのではないか」と怯えたCIAが飛びついたのが暗殺ドローンです。これなら「手」が汚れませんし、与党にも野党にも受けが良い。
CIAと軍は対立していただけではなくて、協力もしていました。たとえばビンラディン暗殺では、ネイビーシールズの部隊は「CIAの管理下にある部隊」と偽装されることで合衆国法典では合法的にパキスタンに侵入して殺害をすることができました。パキスタンとビンラディンがそれをどう思ったかは、別の問題です。
アフガニスタン、イラク、ソマリア、イエメン……「戦場」は拡大し続けます。アメリカの兵力はそれに対応しきれません。さらに、一貫した外交政策の欠如が、「戦い」の足を引っ張ります。
本書を読んでいて、「9・11」によっていかに多くのものが変わってしまったか、と思います。ただ、「9・11」は何かの「原因」ではあるのですが、同時に何かの「結果」でもあります。ということは「CIAの変質」もまた、なにかの「結果」ではありますが、これから何かの「原因」になるのでしょう。それが「今より良い世界の原因」であったら良いのですが。
昔のブラウン管モニターの場合には必須のアイテムだったスクリーンセーバーも、現在のパソコンでは過去の遺物となってしまいました。なってしまった、と思っていたのですが、最近の「Aerial」というスクリーンセーバーを試してみたら、これが良いですねえ。高画質の空撮の映像がスローで流れていくだけなのですが、その美しさに見入ってしまいます。スクリーンセーバーを鑑賞する、というのは本末転倒のような気がしますが、この美しさを鑑賞するためにわざわざ起動させてみたりして「自分は一体何をやっているんだろう」と思ったりして。ここで「空撮」というところにも何か“値打ち"があるのかもしれません。「自分が知らない世界」を見る楽しみかな。
【ただいま読書中】『グッド・フライト、グッド・ナイト ──パイロットが誘う最高の空旅』マーク・ヴァンホーナッカー 著、 岡本由香子 訳、 早川書房、2016年、1800円(税別)
本書でまず特徴的なのは「国際線ジェット機パイロットのエッセイ」であることですが、内省的でややウエットな文体から私が連想したのは、アン・モロー・リンドバーグのエッセイでした。あ、彼女もまた「パイロット」でしたね。もしかして「空の人」には独特の世界の見方と文体があるのかもしれません。
あまりに短時間で長距離移動をした場合、「タイムラグ」があるように、「プレイスラグ」が生じる、と著者は述べます。自分があとにしたはずの場所をまだ引き摺っていて、新しい場所に容易になじめない感覚です。しかもパイロットは、そこに慣れるための時間さえ与えられません。すぐに(あるいはせいぜい一泊して)次の目的地に出発なのです。タイムラグとプレイスラグはパイロットに孤独感を与えます。しかし同時に、遠くの人々との繋がりや世界を広く見聞する経験も与えてくれるのです。
空には地上とは別の「地図」があることや、パイロットによって飛行機の好みが大きく分かれることなど、パイロットならではの話題が次々登場します。印象的なフレーズも次々登場しますが、私が興味深かったのは「飛行機が飛ぶのではなくて、翼が飛んでいて、機体は両方の翼につり下げられているだけ」という意味の文章でした。いや、科学的には正確な内容ですが、そのイメージがずいぶん詩的に感じられたものですから。
空には「水」がいっぱいある、という章では、航空業界には「海の言葉」がやたらと使われていることも紹介されます。ということは飛行機は空飛ぶ船だった?
所々に日本が登場して、それで親しみが増す気がしますが、それがないとしても素敵な本です。一読の価値あり。一緒に“飛"べた気分が味わえます。
「会社で、仕事を一番しない人間たちの首を切ったら、別の人間がサボるようになって、結局仕事をしない人間の比率は変わらない」と聞いたことがあります。ということは、「会社で、仕事を一番する人間たちの首を切ったら、別の人間が『仕方ないなあ』と仕事をするようになる」こともあり得ますよね。「優秀な人間」と「無能な人間」の間に位置する「中間層」は「どちらにもなることができる可能性を秘めた人たち」と言うことなのではないかな。すると「有能」と「無能」はあくまで「その時の環境や事情が決めた相対的なもの」ということに?
【ただいま読書中】『子どもだけの町』ヘンリー・ウィンターフェルト 著、 ロバート・ケネディ 絵、大塚勇三 訳、 学習研究社、1969年、320円
「海賊」と名乗る子供たちの集団の悪戯がついに親たちの我慢の限度を超えた日の夜、大人たちは子供たちに思い知らせるために、町から姿を消すことにします。お説教をしても反省文を書かせても殴っても食事を抜いても、子供たちの悪戯は止まらないから、今までにしたことがないことで子供たちを罰してこんどこそ反省させよう、という目論見です。
「大人がいない子供だけの世界」だと、衝撃的な「お召し」(小松左京)やこわいこわい「漂流教室」(楳図かずお)を思い出しますが、『子どもだけの町』ははるかに明るい作品です。
大人たちに置き去りにされた子供たちは大喜び。おもちゃ屋やお菓子屋を襲撃して広場や路上でらんちき騒ぎを繰り広げます。しかしその中に、冷静に事態を見極めようとしている良識派の面々がいました。電気も水道もない状態で、「冷静な人間」を敵視して襲おうとしている「海賊」たちの目をかいくぐっての“サバイバル"です。本書はその良識派の一員「教授」が書いた記録です。
子供たちは、リーダー格のトーマスを中心に集まります。海賊側についていた子供たちも次々参集。技術が大好きな「教授」は、本で読んだり大人たちから聞いた知識を頼りに、水力発電所を再起動させ、水道ポンプを動かします(とても大変そうに聞こえますが、大人たちはすぐに戻る気だったので、スイッチを二つ三つ切っただけだった、という事情がここでは働いています)。ところがすぐ利用できる食糧が尽きそうになったので、畑からジャガイモを輸送するために自動車(それもクランクを回してエンジンをかけるタイプ)を運転するとか、電車を運転する、というのは、これはすごいことです。大人顔負け、というか、大人でもすぐできる人はなかなかいないのではないかな。
大人たちは、一日だけ不在にして子供たちが懲りた頃に戻るつもりだったのですが、森の中で道に迷ってしまってうっかり国境を越えてしまい、不法入国の罪で国境警備隊に捕まってしまっていました。一日だけのつもりが、二日、三日と大人の不在は延びます。
その間に「町を運営する子供たち」と「海賊」との対立は厳しくなり、ついに「決戦」が起きます。
無責任な大人と悪ガキたちの物語かと思ったら、実は私たちの社会は「技術」に支えられているのだ、ということがよくわかるように書いてある作品でした。人類が技術を発展させたのは「子育てのため」と言っても良いのかもしれません。もちろん「悪ガキ」の活動ぶりも魅力的です。なにより「優等生」がいないのが、私の好みに合います。本書の“善玉"だって完全に「悪ガキ」なんです。
最近の回転鮨のメニューに「あぶり」がずいぶん増えた印象があります。サーモンもハマチも蛸も炙って炙って炙りまくっているような感じ。
ところでかつて私は火鉢で手を炙った覚えがあるのですが、あれも本当は手を炙って食べるためだったのかな?
【ただいま読書中】『料理の四面体』玉村豊男 著、 文藝春秋(文春文庫)、1983年、300円
アルジェリアを徒歩でさ迷っているときに、路傍でご馳走になった「アルジェリア式羊肉シチュー」はとてつもなく美味しいものだったそうですが、それと基本の材料や技法が共通のものとして著者はフランス料理の「コトゥレット・ド・ムトン・ポンパドゥール」を連想します。“枝葉"は違うけれど“幹"は全く同じだ、と。そしてさらにその“幹"が同じものとして「ブフ・プルギニョン」、さらには「豚肉の生姜焼き」を連想していきます。見かけは全然違う料理でも「一般原理」というものをつかめたら、その共通点が見えてくるし、さらにその原理を別の材料に応用することでレパートリーはあっという間に1000や2000は増やすことができる、と(実際にその“増やし方"を「ソース」を例として示してくれます)。
「直火による調理」では、火からの距離によって「グリル」「ロースト」「燻製」と呼び分けられますが、それが行くところまで行くと「ただの風干し(干物や生ハム)」もこの“ライン"に加わることになります。で「干物は加熱されてないぞ」という反論には著者は「上を見ろ。1億5000万キロ向こうから“加熱"されている」と言っています。
次は「揚げ物」。素揚げ、から揚げ、てんぷら……そうそう、東欧は「揚げ物の宝庫」で、特にルーマニアのとんてん(豚のてんぷら)が絶品だったそうです。揚げ物と言えばカツとフライも忘れてはいけませんが、「日本語」では「肉」は「カツ」、「魚」は「フライ」と呼び分けていますが調理技法は同じです。ここで突然「目玉焼き」が登場するので私は面食らいますが、「目玉焼き」は英語では「フライドエッグ」。何を「フライ」にしてます? 英語では「油を使っての調理」は「炒める」も「揚げる」も「フライ」になるのですが、おれは油が貴重品でたっぷり使えなかった時代に「フライ」という言葉が成立したためだそうです。ちなみにフランス語では「炒める」は「ソテー」、「揚げる」は「フリール」と区別していますが、中華料理の油脂調理が基本技法だけで「炸(ザ)」「炒(チャオ)」「爆(バオ)」「煎(ヂエヌ)」「貼(ティエ)」「烙(ラク)」……中華鍋のどこまでどんな油を入れてどんな料理技法を用いるかがこれらの漢字一文字できちんと表現されているそうです。
そして「生」。西洋料理では「火を使わないもの=料理に非ず」とされているそうですが、日本では「割烹(割=切る、烹=加熱する)」という言葉が生きているし、料理人のことを「庖丁人」とも言うことからも、「切る技術」が「火の技術」と同等あるいはそれ以上に重要だと認識されているようです。刺身、サラダ(ドレッシング)、タコ酢、と考察が進んで著者は「刺身はサラダだ」と主張し始めます。いや、笑っちゃいますが、たしかに「マグロの刺身の盛り合わせ」にはサラダとしての構成要素(マグロ、大根、ミョウガ、シソ、ドレッシング(醤油)、スパイス(ワサビ))が基本的なものはちゃんと入ってますね。さらには「サラダは漬け物だ」とも。ただし漬かる前に食べちゃいますが。著者の発想や連想力はみごとです。
最後は「煮る(茹でる)」。スープ、お粥、ブイヤベース、シチュー、鍋もの……そして蒸し物も著者は「煮る(茹でる)」の中に入れてしまいます。「水」で加熱するのと「水蒸気」で加熱するのと、どこが本質的に違う?と。この割り切りの良さが快感です。
そして著者は「料理の基本4要素」として「火」「空気」「水」「油」を挙げます。この4つを頂点とする正四面体のどこかに「すべての料理」が位置する、のだそうです(底辺が「空気」「水」「油」の三角形でそこが「生の世界」、そしてそこから出発して上の「火」に近づくにつれて料理法が変化しその結果違う料理が生まれる)。その図は、とっても素敵です。プラトンの「『火』の元素は正四面体」に以前私はヤられましたが、玉村さんの「料理の四面体」にもヤられてしまいました。この「料理の四面体」にたとえば「豆腐」を放り込んだら、あっという間に20の豆腐料理が登場します。その数は工夫次第でさらにいくらでも増やすことができるでしょう。さらにそこでできたものをまた底辺の「生もの」に放り込んでやったらまた別の料理が生まれます。たとえば豆腐百珍はこの作業の結果なんだ。
いやあ、料理は「自由」なんですね。レシピにがんじがらめになるのではなくて、自分の創意工夫で新しい料理を生み出せたら楽しいでしょうねえ。食べられるものになるかどうかは、自己責任ですが。
昔々、焚き火が主要な熱源だった時代には、そこで体を温めると同時に料理もやっていたはずです。文明が発展して西洋では暖炉ができたらそこで調理もしていましたし、日本なら囲炉裏が暖房と調理の兼用でしたね。ところが現代では、暖房と調理は分離してしまっています。エアコンで料理はできません。だけどこれって、ちょっともったいないエネルギーの使い方ではないです? 将来エネルギー危機が来たら、また暖房と調理は“合体"する、なんてことはないのかな?
【ただいま読書中】『警視庁生きものがかり』福原秀一郎 著、 講談社、2017年、1300円(税別)
2002年10月、警視庁生活安全部に生活環境課が創設され、著者は第三係主任として着任、環境事犯(産廃の不法投棄、絶滅のおそれのある動植物の密輸や売買)を専門に手がけるようになりました。
「へえ、そんな“仕事"があるんだ」と一瞬思いますが、たしかにそういった「犯罪」を目撃したらどこに連絡したらよいかと言えば「その部署」になるのでしょうね。
しかし、動物園からレッサーパンダを盗む、なんて、よく思いついたものだとある意味感心します。盗んだあとはちゃんとインターネットなどで密売ルートがあって……って、買う方も買う方だな。
しかし、盗んだは良いが(いや、良くないのですが)飼育が難しい動物は平気で死なせてその辺に死骸を投棄したり、珍しい亀の雄だけ盗んで動物園の繁殖計画を滅茶苦茶にしたり、動物泥棒はやることが阿漕です。
捜査の結果“救出"された動物は「証拠品」で、生かしておく必要があります。押収した動物が「盗まれたものと同一である」ことの証明も必要ですし(専門の学者に鑑定をお願いします)、密輸品の場合その受け入れ先を探す必要もあります。「警察の仕事」としてはなんだか異色な雰囲気です。カメや爬虫類の場合、野毛山動物園が「受け入れ先」と名乗りを上げてくれてから、捜査は格段にやりやすくなりました。いくら「生きものがかり」とは言え、カメの世話をしながら捜査をするのは大変ですから。なお、野毛山動物園から他の動物園に個体を譲るのは、環境省の許可があれば可能だそうです。
「生きものがかり」は国内法だけではなくてワシントン条約などにも通じている必要があります。また、動物だけではなくて植物の密輸にも対応する必要があります。これは大変です。植物はごそごそせずに隠しやすいですから。さらに「違法行為」だとわかっても、きちんと立件するためには手続きをきちんと踏まなければなりません。これは面倒です。でも著者は地道に捜査を続け地道に知識を増やし人的ネットワークを広げていきます。
なお、日本に密輸された動物を原産国に返せないか、と思うのは普通ですが、実はそれは生態系にとってとても危険な行為になるのだそうです。その詳しい理由は本書をどうぞ。
そうそう、生きた上海ガニを輸入して料理して食べるのはOKですが、それを生きたまま店で販売したり繁殖させたら法律違反になるそうです。それなら最初から生きたままの輸入を認めない方が話は早い気がするんですけどね。抜け道を最初から用意しておいて許可するって、何なんだろう?
法医学分野で警察の死体検案をする人の本では「死体」から事件について様々なことがわかる、とありましたが、本書では「生きもの」からも事件についてあるいは人間社会について様々なことがわかるようです。ちょっと視点を変えるだけで、世界は様々な姿を見せるんですね。
私がまだ若くて酒を飲んでいた頃、一時ジントニックにはまっていたことがあります。理由は簡単で、安くて美味いから。さらに、ジンとトニックはそれぞれ単独ではそれほど美味いと感じないのに、混ぜると美味くなる、という不思議さもありましたっけ。今は若くなくて酒も飲まないから、記憶の中で美化された美味さなのかもしれませんが。
【ただいま読書中】『ジンの歴史』レスリー・ジェイコブ・ソルモンソン 著、 井上廣美 訳、 原書房、2018年、2200円(税別)
18世紀のロンドンは「ジン・クレイズ(狂気のジン時代)」と呼ばれるほどジンが人気でした。
ジュニパー(ヒノキ科の西洋ネズ)は古来薬効あらたかと信じられていました。アリストテレスも大プリニウスも健康に役立つと断言し、古代エジプトでは頭痛の治療に使っていました。蒸留されたアルコール自体が「アクア・ヴィタエ(生命の水)」と呼ばれましたが、そこに薬効があるジュニパーを加味した「強壮剤」が作られるようになりました。さらに、黒死病が襲来するとジュニパーは黒死病の特効薬としての地位を獲得します。ペストは有毒な空気を吸うことで感染する、と当時は信じられていて、それをジュニパーの芳香が妨害する、とされたのです。黒死病対策として、鳥のくちばしのような尖ったマスクをつけた人の絵がありますが、そのマスクの中にジュニパーが詰め込まれています。
ネーデルラントでもジュニパーは人気の薬物でした。酒で人気があったのが「焼いたワイン」(ワインを蒸留したもの、つまりブランデー)。それにジュニパーを組み合わせた「ジュニパー・ベリー水」の記録は1552年に登場します。1582年には「コーン・ブランデーワイン」の記録が登場。ネーデルラントで入手困難なブドウよりも簡単に手に入る穀類の蒸留酒が人気となっていきます。「オランダ」が成立し、東インド会社によって貿易ルートを確立。その時壊血病予防のために「ジュネヴァ(コーンブランデーをジュニパーなどと再蒸留して風味をつけたもの)」が人気となりました。「ジュネヴァ」はイギリスでは「ダッチ・ジン」と呼ばれますが、ジンよりきつくウィスキーのような風味の酒だったそうです。オランダ東インド会社の活動を通してジュネヴァは世界に広まっていきます。
17世紀の30年戦争、オランダやベルギーでジュネヴァの味を覚えて帰国したイングランド軍兵士は、帰国後もその味を求めますが、その(粗悪な)代替品として「ジン」が生まれました。ジンは瞬く間に、貧困層を中心に広まります。1684年から1710年の間に、絶対的な人気だったビールの生産量が12%、ストロングビールが22.5%減少し、ジン生産量は400%増加したのです。「ジン・クレイズ」の到来です。貧困層は安くて手に入れやすくてきつい酒に慰めを見いだします。国王は税収の方をみていました。両者の“利害"は一致していました。問題はアルコール中毒の蔓延だけ。ロンドンの住民の4人に1人は、急性か慢性かのアル中状態となってしまいます。
この時代の「ジン」は、低品質の穀類を使って蒸留を繰り返して高濃度(アルコール度数95%以上)の「ニュートラル・スピリッツ」をまず作り、そこに、テレピン油・硫酸・ミョウバン・砂糖・石灰・ローズウォーターなどを混ぜ込んだ91度のとんでもなく強い酒でした。それをジン愛好家はビールジョッキで飲んでいたのです。事態を重く見たイギリス政府は、18世紀前半に「ジン取締法」を次々成立させます。「ジンに限定した禁酒法」です。もちろんその結果は「密造ジンの横行」でした。密告者への報酬を増額する法律を出すと、密告者への襲撃が増え、それに対して「密告者への襲撃は違法である」という法律が1738年に施行されます。笑っちゃうしかないですね。そして1751年のジン取締法でジンのブームは息の根を止められますが、人々の嗜好は、ラム酒とポーター(黒ビール)に移っていました。
マレーシアで作られた「ジン・アンド・ビターズ」はビターズによってピンク〜茶色になっていて「ピンク・ジン」と呼ばれました。これがイングランドに輸入されると、サマセット・モームやグレアム・グリーンのお気に入りとなりました。海軍では壊血病予防に柑橘類が配給されましたが、果汁だけでは喉を通りにくいため、酒と果汁をブレンドすることが流行しました。ここから「ギムレット(ジュニパー風味の正統ジンと加糖したライムジュースだけで作るカクテル)」が生まれます。(ただし、最近ではジンではなくてウォッカベースのギムレットの方が人気があるそうです。(そういえば、映画でのジェームズ・ボンド(007)は「ウォッカベースのドライマティーニ」がお好みでしたね。ジンとウォッカって“ライバル"なのかな)
「ジン・クレイズ」が終わり、産業革命がやってきます。消費者の嗜好は変化し、新しい蒸留法(連続式蒸留器)が始まり、「ジン」は変化しました。「(生活苦からの逃避のために)手早く酔っ払うため」ではなくて「楽しむための酒」を目指して。そのため、雑味を誤魔化すために加えられていた砂糖は、こんどは消費者が好むから加えられるようになりました。甘みを加えないジンは「ドライ・ジン」と呼ばれます。
アメリカの植民地は、イングランドよりもオランダ・ジンの方を好んで輸入していました。その嗜好が後にアメリカ独自の風味のウィスキーを生んだのかもしれません。また、アメリカではカクテルが人気で、そこでもジンが大活躍することになります。東欧からの移民はウォッカも持ち込み、1930年代にはアメリカでもウォッカが製造されるようになります。すると「マティーニはジンで作るもの」だったのが「ウォッカベースのマティーニ」も流行するようになりました(これが映画のジェームズ・ボンドに採用されたわけです)。
1990年代のアメリカに「洗練されたジン」が登場します。新しい試みをするバーテンダーも次々登場。ジンに使われるボタニカル(風味づけの材料)はジュニパー以外に200種類以上あるそうですが、その扱い方(浸す、蒸す、蒸留する、などの方法)も進歩します。かくしてジンは、あまり大きく取り上げられてはいないけれど、酒の世界では“無冠の帝王"のようなものになっているようです。
「ジンの歴史」を見るだけで、為政者と庶民の関係や「人の酒の飲み方」の変遷などが見えてきました。歴史はやっぱり面白い。