コロナ禍で厚労省の動きが異常に非常識なレベルで悪いことが気になっています。クルーズ船では船内感染を猖獗させるし、PCR検査ではとにかく数を絞って検査をさせないことに熱中しているし、まるで「流行をさせない」のではなくて、その逆の方向に努力をしているみたいに不自然です。
20世紀末から厚生労働省(厚生省)は「高齢者が増えるのは困る」と言い続けていました。年金の原資は足りないし、病気がちの後期高齢者はやたらと医療費を使うし、と。だから「高齢者の医療制限(がんの治療や透析を無制限にするべきか?)」なんてことまで公然と言っていましたっけ。すると、今回のCovid-19では高齢者の死亡率が高いわけですから、パンデミックとなって高齢者がどっと死んでくれたら、厚労省としては大満足、ということになるわけです。
だけどねえ、パンデミックは、高齢者だけ殺すわけじゃないです。下手したら社会を殺します。いくら「医療行政は算術」だとしても、厚労省はもうちょっと真面目に「厚生」のお仕事をした方が良いのではないかなあ。
【ただいま読書中】『強制収容所のバイオリニスト ──ビルケナウ女性音楽隊員の回想』ヘレナ・ドゥニチ - ニヴィンスカ 著、 田村和子 訳、 新日本出版社、2016年、2300円(税別)
ヒトラー占領下での体験を、90歳を過ぎてやっと語ることができるようになった人の回想録です。重い年月です。日本でも同じようにそれくらいの年代になってやっと被爆体験を語り始めた被爆者もいますが、思い出したくもない辛い体験を言語化するためには、人によってはそれくらいの年月が必要なのかもしれません。
著者は第一次世界大戦真っ只中の1915年に、一家がポーランドのルヴフ(現在はウクライナ領)からロシアとの戦いを避けて引っ越していたウィーンで生まれました。厳しい父と父に従うだけの母、というその時代の典型的な家族で育った著者は、バイオリンに天分を示します。大学を卒業し、教職に就こうとした1939年8月、戦争がポーランドに襲いかかってきました。まず西からナチスドイツ軍、そして東からソ連軍。ルヴフは最初ドイツ軍に占領され、それから“協定”に従ってソ連に譲り渡されます。41年6月独ソ戦が勃発、占領者はこんどはドイツになります。両方の占領を知る著者は、無慈悲さでは両者は同じだが、ポーランド人絶滅を目的としていることを隠さないドイツと比較したら、自分たちはポーランドの親友で解放者で兄弟だ、と偽善の限りを尽くしたソ連には厭わしさと底意と陰険さを感じるそうです。
43年に母と著者は突然逮捕、刑務所に入れられます。「逮捕理由は?」との質問への返答は、顔面へのパンチ一発でした。
それまでの生活は、占領下の緊張と地下抵抗運動との関係もあって「平穏」とは言えないものではありましたが、それでも「市民生活」でした。それが一転、刑務所での生活は、家畜以下の扱い。ひどいものです。しかしそれは地獄への序章に過ぎませんでした。43年戦況は(ドイツにとっては)悪くなり、東からの人の流れが大きくなります。その流れに乗せられるように、著者たちは家畜用貨車にぎっしり詰め込まれ西に運ばれます。三昼夜、飲食無し、トイレなし、座る余地無し、の「旅」でした(これはドイツ人が特に残酷だったわけでなくて、絶滅対象(人間以下)のポーランド人に対する“標準手順”だっただけです)。到着したのはアウシュヴィッツ駅、降ろされた待避線は「アルテ・ユーデンランペ(旧ユダヤ人降車場)」と今は呼ばれています。ユダヤ人も大量に降ろされましたが、大勢のユダヤ人以外もここで降ろされたのでした。1000人が渋滞を組み1km歩いて連れて行かれたのは「ビルケナウ」収容所でした(歩けなかった人は、当然“処理”をされます)。そこでの生活は、動物だったら「動物虐待だ」とたとえ20世紀半ばでも言われるようなものでした。
著者は「女性音楽隊」に配属されます。生き残る確率が少しでも高くなるだろう、と著者はその“チャンス”にしがみつきます。たしかにビルケナウでは「屋根の下での労働隊」は生存確率が高く、音楽隊は特に恵まれていました。しかしそれがどれほど残酷な行為を著者に強いることになるか、その時彼女は知りませんでした。ドイツ人は「実利」を重視します。当然音楽隊にも「囚人管理」に関して実利一点張りの任務が与えられていたのです。
親衛隊によって重視されていたのは、収容所外での労働に出発する収容者の隊列が、出発するときと帰還するときの演奏でした。集団が足並みを揃えて歩いてくれると、時間が短縮すると同時に隊列が保たれて人数の確認が楽だったのです。楽団の仕事に満足した親衛隊は、さらに「囚人のための日曜コンサート」を開催させます。
楽団員の住居は他の収容者より恵まれていましたが、それは「楽器の保護」のためでした。高度成長期に大学や会社のコンピューター室にだけ冷房が入っていたことを思い出します。著者は高等音楽院の卒業生ですから演奏に問題はありませんが、楽団員の多くはアマチュアで、そのレベルを揃えるために指揮者は苦労していました。また、肉体的には楽な“作業”ですが、悪が蔓延する場所で行進曲を演奏することは、道徳的な苦しみを著者らに強います。生きた人の行列が終わると、こんどは死体を焼却炉に運ぶ行列が。それが終わってから、演奏も終わります。到着した列車からガス室にまっすぐ導かれる人々は、どこかで演奏される音楽を耳にして「出迎えの音楽があるとは、予想したよりはよい運命が待っているかもしれない」と期待しました。だから彼らは落ちついてガス室に向かいました。その演奏も音楽団の仕事でした。
絶望と罪の意識が音楽団員を襲います。しかし、演奏を拒否したら、自分が殺されるだけ。音楽隊をやめて一般の収容所に戻りたいと希望したら、懲罰隊(重労働の中でもスペシャルな重労働を課せられる部隊)に配属でした。
「優雅に演奏をしている人たち」に対する反感を持つ収容者も多くいました。優遇されている、ということでの反感ですが、これは「分断統治」がうまくいっていることも意味します。
母が死に、著者はチフスになります。「病棟」に収容されますが、そこで行われた「医療行為」は検温だけ。高熱が続けば第25ブロック(ガス室送りになる前段階のバラック)に送られるか、直接ガス室送りです。そういえば今回の「コロナ禍」でも「体温」にだけ異様に注目する人が政府のどこかにいましたね。
「組織化」という隠語があちこちに登場します。公的には認められなくても、地下ルートで収容所に物資は入ってきていました。もちろん見つかれば厳罰ですが、著者は「組織化」された注射を受け、リンゴを食べることができ、最終的にチフスに打ち勝つことができました。地下ルートがあるということは、強制収容所の中についてドイツ国内でも知っている(そしてそれに反対している)人がいた、ということです。
音楽隊の内部にも「分断統治」は効いていました。非ユダヤ人にはたまに手紙や小包が届きましたが、ユダヤ人にはそういったものはありません。当然そこから反目が生まれます。言葉の壁もあります。各国(フランス、ドイツ、ベルギー、チェコ、ハンガリー、ギリシア、オランダ、ポーランド)のユダヤ人、著者のようなポーランド人、ソ連出身者、などが雑多に集められています。まさに「バベルの塔」です。小包が届かないユダヤ人は、収容所内の物資(収容者から取り上げたものや遺品)集積所で働くユダヤ人とのコネを活かして、比較的まともな衣類などを入手してそれを非ユダヤ人に見せびらかしたりしました。
ぎすぎすしたものばかりではありません。温かい交流もあります。そこを読むと、ほっとします。そして、その温かい交流がどんな状況下で行われているかを思い、私は暗然とします。
44年春〜秋、ユダヤ人殺害数はどんどん増え、死体焼却炉だけでは足りず、地面に掘った穴の中でも死体を焼くようになりました。ドイツ軍劣勢のニュースが収容所内にも伝わり、著者らは「もしかしたら」の期待を微かに持ちます。44年10月7日「反乱」が起きます。死体焼却炉で強制的に働かされているユダヤ人部隊「ゾンデルコマンド」が焼却炉を破壊、逃亡を試みたのです。反乱参加者は全員殺されましたが、そのニュースは収容所全体を揺るがせました。そして10月31日、「音楽隊は整列せよ」「ユダヤ人は列から出ろ」の命令が。ただし彼女らは、ガス室ではなくて一般収容者としてベルゲン=ベルゼン収容所に移送され、45年4月に英国軍に解放されています。ロシア人も姿を消し、音楽隊は解散。著者は資材運びで「労働は自由をもたらす」の有名な門を何度もくぐることになります。
45年1月18日、「労働は自由をもたらす」の門を最後にくぐり、「死の行進」が始まります。3日間で約63km。そこから石炭用無蓋貨車に詰め込まれての移送です。途中著者は西の夜空が赤く焼けていることに気づきます。おそらくベルリンが燃えているのです。そのことに著者は満足感を覚えます。ラーヴェンスプリュック収容所は満杯で、最終的に落ちついたのは、ノイシュタット=グレーヴェ収容所。そして、解放、というか、監視兵の突然の不在。収容所内は大混乱となり、著者たちのグループはポーランドを目指します。
「記憶」は曖昧になりがちだし、そもそも極限状態では「現状の認識」にも歪みが生じがちです。音楽隊の指揮者について「反ユダヤ主義者だった」と断言する楽団員もいますが、著者のように「ユダヤ人だけではなくて非ユダヤ人にも厳しかったが、それには納得のできる理由がある」と考える人もいます。このように「違い」があるからこそ、記憶が薄れる前にできるだけ多数の人の記憶を記録しておくことが、重要になるのでしょう。
「アウシュヴィッツ」に収容者で結成された音楽隊があった、とは知りませんでした。そしてその働きぶりも。著者も何度も書いていますが、高い文化を誇るドイツ人が、あのような蛮行を平然と組織的に施行できたのは、本当に不思議です。たぶん彼らには彼らの“言い分”があるのでしょうが。