「若いときの苦労は買ってでもしろ」……年寄り専用の言葉
「滅茶苦茶」……飲まない方が吉
「苦扁桃」……苦い扁桃腺
「苦い」……苦みは古くなった植物に含まれているらしい
「苦戦」……安易な戦いを予期していたの?
「苦は楽の種」……まいて試した人がいるらしい
「苦痛」……苦しい痛み
「苦楽」……苦しい楽しみ
「苦々しい」……苦さ倍量
「苦労」……苦しい労働
「苦労性」……苦しい労働を好む性質
「ご苦労様」……なぜか敬称を前後につけられた苦労
「四苦八苦」……三苦の進化形
「苦行」……苦しみに向かって行く
「苦心」……苦しみで満たされた心
【ただいま読書中】『日本の児童虐待重大事件 2000-2010』川崎二三彦・増沢高 編著、 福村出版、2014年、6000円(税別)
マスコミでは時々思い出したように「児童虐待事件」が報じられます。それによって社会の関心は高まり、通報数も増えます。しかしそれは一過性の動きでしかありません。結局マスコミにとっては「消費するべき記事のネタ」でしかなく、多くの人にとってはニュースを見て眉をひそめて気の利いたことを一言言えばそれで「済んでしまったこと」になります。
それで本当に良いのか?ということで、本書が編まれました。「記憶」はどんどん風化・劣化しますから、せめて「記録」は残しておこう、と。
本書には「児童虐待防止法」が制定された2000年から2010年までの重大事件25件がまとめられています。重大事件は社会を騒がせ、その結果虐待防止システムや行政の施策に影響を与えます。そのことについても具体的に本書では述べられます。
著者は「本書で2000年からを扱っているからと言って、『20世紀には虐待がなかった』などと考えてはいけない」と警告をしています。そそっかしい人はいますからねえ。システムが拡充されることによって「通報数」が増えていることと、虐待は世代を超えて受け継がれることも勘案しなければならない、と。
それぞれの事例は、実に淡々と記述されているのですが、読んでいて暗澹たる気分になってきます。子供をネグレクトや暴行で殺す、という事件性も重たいものですが、それを行った者にもそれぞれの“事情(やはりネグレクトや暴行を受けてきた過去、個人としての未熟性、精神障害、など)”があることもわかりますから。
ちょっと変わったところで「代理ミュンヒハウゼン症候群」の事件も登場します。これは2008年のことだったんですね。これもその母親の両親のところから“話”が始まっています。依存と愛着の対象であった母親(“被害者”の祖母)は早くなくなり、父親(“被害者”の祖父)は飲酒癖とDVだったのです。
もちろん、どんな事情があろうとやってはいけないことはやってはいけないことなのですが、では「悪い犯人(直接手を下した親)」を罰したら「一件落着!」なのか、と言えば、たぶん違うでしょう。ここで優先してするべきことは「監視」「摘発」「処罰」の整備だけではなくて、「予防」「支援」の方向も拡充した方が良いのではないか、と私は思います。再発を防止しない限り、虐待事件に限りはありませんから。私は「他罰」よりは「社会の改良」の方に興味が向きます。
日本で現在流通している紙幣は総量で約81兆円だそうです。すごい量だと思いますが、国民一人あたりで言えば80万円。意外と大した量ではありません。もっとも我が家にはそんな現金は置いてないのですが、一体どこにあるんでしょうねえ。
【ただいま読書中】『印刷レストラン ──最新の印刷事情がわかるフルコース』青山敦夫 著、 ダイヤモンド社、1996年、1700円(税別)
「空気と水以外には何でも印刷できる」は昭和の頃からよく聞く言葉ですが、その印刷業界に住む(大日本印刷の、特に広報で長く仕事をした)著者が「印刷」について熱く語った本です。「アペリチフ」「オードブル」「メインディッシュ」「ヌーベル・キュイジーヌ」「ア・ラ・カルト」「デザート&ティータイム」「厨房をのぞく」と「印刷」に関するエッセイが「コース」になって次々登場します。
この世に印刷物は満ちあふれています。出版物だけではなくて、商品の包装、建材の木目プリント、シャドウマスク(ブラウン管の部品)、液晶カラーフィルター、プリント基板、キャッシュカードなどの磁気カード……もしも印刷がこの世になかったら、現代文明は成立しません。
現代文明と言えば、本書の発行時にはDTPが普及し始めていて、著者もそのことに触れています。
ポスター、カレンダー、有価証券……それぞれにそれぞれの苦労があります。そうそう、ICカードの開発が日本で発表されたのは1984年のことですが、それを発表したのは印刷会社だったそうです。
この時代の「最先端の話題」は「マルチメディア」でした。CD−ROMや仮想体験という言葉が、一種独特の響きと共に世間に広まっていた時代です。さらに「ハイテク」の部品そのものにも印刷が使われています。ICやLSIは「印刷」によって作られているのです。インキの代わりに感光性樹脂を用いて写真的な手法で画像を作り出して微細な回路を焼き付けていくのです。
「業界の人」ですから、さすがに蘊蓄の質と量は半端ではありません。こういった話題が豊かな人とゆっくり話をしてみたいものだと思います。本書はその“代用”かな。
ネットでの発言を見ていると、発言者を二つに分けたくなります。一つは「自分に反論する人がいるとは思ってもいない人」。もう一つは「反論があることを予想(予定)している人」。前者は“論外”だとは思いますが、でもけっこう多いのは意外です。後者はさらにいくつかの類型に分けられます。「どんな反論があっても無視する」「無視はしないが持論に固執する」「柔軟に話し合おうとする」「適当にいなす」……様々なタイプがあります。
さらに「反論をする側」も「とにかくいちゃもんをつけたい」「自分は正しいのだからお前はすぐ謝るべきだ」「俺の方がエライ」「相手と楽しく議論をしたい」……実にBF様々なタイプがあります。
さて、こういった中で「炎上しない組み合わせ」はどのくらいありますか?
【ただいま読書中】『マインドストーム ──子供、コンピューター、そして強力なアイデア』S・パパート 著、 奥村貴世子 訳、 未来社、1982年、2800円
アメリカ人にフランス語を教える場合、成人よりは子供の方が覚えが良い、と本書は始まります。さらにアメリカで教えるよりはフランスで教える方が、はるかにフランス語の能力は向上する、と。ならばコンピューターの言語を教えるのも同様ではないか?と著者は話を進めます。
本書が出版された1982年と言えば、ファミコンが発売される前、パソコンのCPUはまだ8ビットが主流で16ビットが普及を始めていて、オフィスコンピューターやスーパーコンピューターで16ビットとか32ビットと言っていた時代だったように私は記憶しています。著者は、「フランス語」が学習の目的ではなくて何かを人生で達成するための手段であるのと同様に、コンピューター言語を子供たちが学ぶことによって人生で様々な事柄を達成できるようになって欲しい、と願っています。著者が望むのは、「子供をプログラムするコンピューター」ではなくて「コンピューターをプログラムする子供」です。
著者が夢見るのは、たとえば子供がワードプロセッサーを使って作文をすることです。多くの子供にとって作文は“ハードル”が高く、一度書いたらできた文章を推敲する前に力尽きてしまいます。だから気楽に“ワープロ”でとりあえず初稿を書いてしまって、気楽にがんがん修正していけば良い、それによって子供は作文が好きになる、という論法です。ここで著者が重視するのは「作文」が「自分を表現すること」であり「楽しみ」であることです。さらに著者は「数学」と「言語」の分断を何とかしたいと考えます。生きた言語から毎日勝手に子供は学んで語彙を豊かにしますが、学校の数学(算数)は「死んだ言語」でしかない、と。それでは子供は「学ぶもの」と「自分」との関係を断ち切ってしまいます。
そこで登場するのが「タートル幾何学」(計算的な幾何の様式)です。床に置かれたタートル(機械仕掛けの亀)も画面上のタートルも、プログラムの命令に従って動きます。最初に使える命令は「前進」「後進」「右を向く」「左を向く」。あとは数字を適当に入れると、進む距離や回転の角度が指示できますが、子供たちは自分でそれを発見しなければなりません。四角や三角を描けるようになると子供は「円はどうやって描くの?」と疑問を持ちます。教師は教えません。子供は仮説をいくつも立て試行錯誤をしますが、その過程で「微分方程式」の概念に触れていくのだそうです。
そこで重要なのは「バグ出し」です。「バグがあること」は「罪」ではなくて「当然の現象」です。文章を書くときだって初稿から完全稿ということはありません。何度も推敲をして“バグ出し”をしていきます。それと同様、プログラムも何回も試してバグ出しをしていくだけのことです。バグは「あってはならないもの」ではなくて、「子供の成長の糧」なのです。試験で間違えることが“悪”である世界で育った私にとって、これは“異世界の概念”に思えます。ただ、こういう態度だったら、創造的な子供が育つような気はします。
かつて「玩具のロゴで組み立てた“ロボット”をプログラムして動かすことができる」と聞いたときには本当に驚きましたが、その頃には仕事が死ぬほど忙しかったので驚くだけですませてしまってそのまま忘れてしまいました。今にして思うと、もったいなかったなあ。本書は「コンピューター言語についても触れている思想書」と言っても良い内容です。特にピアジェの影響が濃いのが、読んでいて意外でした。非常に先見的な内容が含まれていて、30年前の本なのにまだ古びてはいません。というか、本書で提案された「子供の教育」はまだ達成されていないように私には思えます。
お釈迦様は「蜘蛛の糸」を垂らした、ということになっていますが、「糸」だけ垂らしたらぶらぶらして真っ直ぐ降りないし蜘蛛は巣を壊されて迷惑です。といって、蜘蛛を“重し”として垂らしたら(たとえ一時的な話とは言え)蜘蛛を地獄に落とすことになっちゃいますよねえ。
ところで、極楽にいる蜘蛛って、現世でどんな善行を積んだのでしょう?
【ただいま読書中】『北海道フードライフ』日本食料新聞臨時増刊、2014年、1000円(税別)
日本食料新聞の北海道支社開設65周年を記念しての特集号です。巻頭は、北海道知事高橋はるみさんへのインタビュー。「食産業立国ほっかいどう」が高らかに宣言されています。
北海道にはこれまで数回しか行ったことがありませんが、いつ行っても食べるもののおいしさに私は感激して帰っています。
メインになっている記事は、昭和24年から平成26年までの「北海道・食の歴史探訪」です。各年が「食品業界」「流通業界」「当時の社会・生活」「創業・設立」「データー」などの記事で簡潔にまとめられ、写真が一枚添えられる、という体裁となっています。
たとえば「昭和24年」には「酒類配給公団が解散し酒類・ビール・雑酒の自由販売が始まる」とか「物価はコーヒー20円、たばこ11円、賃金は公務員4863円」とあります。
この本は、過去にタイムスリップして懐かしむ効用もありますが、たとえば戦後を舞台とした作品を創造したい人には、作品にリアリティーを与えるための貴重なデータ集となるかもしれません。
私は「昭和48年」のオイル・ショックのところで、灯油・トイレットペーパー・米・麦・砂糖・塩のが、消費者の買いだめによって消費者価格が一挙に高騰し、それが「昭和49年」にも継続していて、アイスクリームの原材料が50%暴騰した、というところで「そうそう、そうだった」とつぶやいてしまいました。あの時は異常でしたよね。
「地域の活性化」と言うのは簡単ですが、本書では「生産」「製造」だけではなくて「マーケットの活性化」を重視しています。ところでアベノミクスって、本当にマーケットを活性化する意図を持っていてそれに成功していましたっけ?
地方を活性化するための手段として、たとえば原発とか核のゴミ捨て場とかも“活性化”のためのリストに載っているのではないでしょうか。
【ただいま読書中】『機巧のイヴ』乾緑郎 著、 新潮社、2014年、1500円(税別)
目次:「機巧のイヴ」「箱の中のヘラクレス」「神代のテセウス」「制外のジェペット」「終天のプシュケー」
連作短編集ですが、タイトルだけ見たら「?」となってしまいますね。
舞台は江戸時代の日本、ただし私たちの「この日本」とは違う日本です。たとえば相撲(捔力)では、野見宿禰ではなくて当麻蹴速が勝ったことになっているのです(「日本書紀」を読んでいない人には、このへんはあっさり読み飛ばされてしまうかもしれませんが)。そうそう、「天帝」は女系家族という芸の細かい仕掛けも施されています。
「機巧のイヴ」では、「機械仕掛けの人形は、いかに巧妙に人間そっくりの行動をしたとしても、魂があると言えるのか?」という問いが立てられている……ように見えますが、実はこの「問い」自体が巧妙な「仕掛け」となっています。精緻なカラクリで本物そっくりに動くコオロギ、鳥、そして人間。はたして彼らは魂を持っているのか、持っているとしたらそれをどのように人間が、そして彼ら自身が認識することができるのか。いやあ、衝撃です。
そして、第1話では語られなかった「イヴの過去」が少しずつ明らかになると同時に物語は大きく動き続け、最後には江戸城の天守閣が焼け落ちてしまいます。意思を持った機巧人形が動き回る世界とは、一見SF仕立てのようですが、非常によくできたエンターテインメント“時代”小説です。何も予備知識を持たずに図書館から借りてきましたが、正解でした。
「中華料理」……中くらいに華やいでいる料理
「中華丼」……丼には国でも乗せられる
「国華」……国の華
「繁華街」……自然が豊かな街
「豪華」……豪快な華
「豪華版」……版木が金無垢
「昇華」……昇天する華
「法華の太鼓」……最初はよく鳴らないものの代表
「蓮華」……拉麵付属のハスの花
「華族」……先祖は華やかな一族
【ただいま読書中】『京都に残った公家たち ──華族の近代』刑部芳則 著、 吉川弘文館、2014年、1800円(税別)
「華族」と言ったら私は「爵位」とか「貴族院の議員」と反射的に答えてしまいますが、実はその“内部”はふくざつだったそうです。“出身”も、公家や大名の「旧華族」と勲功による「新華族」に大別され、公家も江戸(東京)に出た者と京都に残った者とに分けられます。公家華族は「伝統」を背負って気位は高く結束して武家華族や新華族と一線を画していましたが、貧乏な者が多かったそうです。
著者がなぜこんな本を書いたかと言えば「誰もこの分野に注目していなかったら」だそうです。
慶応三年(1867)御所内で「王政復古の政変」が起きました。薩長を支持し令外官を廃止するなど、それまでの「秩序」を変革するものでした。戊辰戦争では若手の公家たちが次々出撃しました。東北での戦争が終わると、その多くは京には戻らず東京で勤めることになります。では出撃しなかった公家は何をしていたかと言えば……古式ゆかしい御所の行事を粛々とおこなっていたのです。そういった“旧弊”から天皇を引き離すため、大久保は大阪遷都を画策しますが失敗。次に東京奠都(完全に移動する遷都ではなくて、とりあえずもう一つの都をつくること)を強行します。明治二年に天皇の東幸、多くの公家もそれに従います。そして、皇后までもが東京へ、となり、京都は騒然となります。
武家華族にとって、廃藩置県は天地がひっくり返るような衝撃でしたが、公家華族にとっては従来からの家職(神楽、蹴鞠、陰陽道、など)の廃止が同様の衝撃でした。「秩序」がひっくり返るだけでは無くて、生計の道が断たれるのですから。ともかく、明治9年のリストでは、京都に残った公家は56家。天皇の還幸まで留守を預かる、という意識だったはずです。
華族は「四民の上に立つ」ことが求められました。ところが常職に就けず食い詰めるものも続出。政府からは陸軍士官になることを勧められますが、多くの公家はそれを拒絶します。明治17年に華族令が公布され、京都の華族の大半は子爵が授与されます。これには「下から二番目かよ!」と不満を漏らす公家が多かったそうです。
さらに困ったことがあります。皇族・華族・政府官員は国家の祝祭日には大礼服を着て儀礼に参加しますが、その調整費用は100円以上、しかも明治初期には東京か横浜でないと調整できませんでした。そのため京都の華族は、小礼服(燕尾服)で代用していましたが、華族令によって大礼服の着用が義務化されてしまったのです。また、京都での儀礼に天皇は不在ですから、その代用として御真影が用いられました。
困窮した公家救済策として「援助交際」もありました。富裕な武家華族と縁談を結び、輿入れ費用として多額の援助を頂くのです。武家は公家との関係で「名誉」を入手できるのですから、双方に悪い話ではありません。久世通章が結婚したときには親族の鍋島家から3000円も援助してもらっています。しかし岩倉具視は、借金に借金を重ねいざとなったら親戚に頼ったり援助金をあてにする華族の態度に危機感を持ちます。実際に「家族の体面を傷つける事件」がいくつも本書には紹介されています。浪費と女色と……読んでいてとほほの内容ですが。
東京の華族とは違って、公職に就くこともできず経済的にも恵まれない京都の公家華族は、歴史的な「天皇との由緒」だけを頼りに生きていて、宮内省もその「由緒」を無視はできませんでした。大礼の時に重要である「有職故実」が、京都で“保存”されていたからです。昭和18年の調査では、京都には公家華族が26家残っていました。そして終戦後には華族は廃止されます。一つの歴史の局面が、ここで終わったのでした。
「一茶」……唯一のお茶
「無茶苦茶」……茶が無い苦い茶しかない
「薄茶」……実はけっこう濃い
「濃茶」……もっと濃い
「茶花」……お茶の花
「茶色」……お茶の色
「茶髪」……お茶の色の髪の毛
「緑茶」……茶色が緑のお茶
「臍が茶を沸かす」……臍が熱いし仰向けになって動けない
「茶坊主」……茶葉を頭からかぶった坊主
「茶碗」……昔はこれでお茶を飲んでいたらしい
「茶飲み茶碗」」……お茶専用の茶碗
【ただいま読書中】『下町ボブスレー ──僕らのソリが五輪に挑む』奥山睦 著、 日刊工業新聞社、2013年、1400円(税別)
東京都大田区は町工場が集まっていることで知られています。2011年、そこに区の職員が「2人乗りボブスレーのソリ製作」の話を持ち込みます。日本チームはヨーロッパの中古のソリを改造して使っていましたが、ソチオリンピックで国産の新品を使わせたい、と。熱意を持った個人の動きが、アスリート支援会社や大田区の町工場の人たち、また、かつて長野五輪でボブスレー国産を夢見て果たせなかった童夢などとつながることで、「夢想」から「現実」へと変化していきます。
ちなみに、ボブスレーの新車を買うと約600万円、遠征での輸送費は80万円。ところが当時のボブスレーの強化費は、年間120万円。これでどうやって世界と戦え、と?
ソリの構造は比較的単純です。サイズや重さなどの規格は厳しく決まっていてソリの性能差が極端に出にくいようになっています。逆に見れば、細かい部分の差の集積によってタイム差が出るということですから、欧米の蓄積されたノウハウが効いてくるはず。その差をどうやって埋めるか、が新参者の日本の課題となります。まずはヨーロッパのソリを真似ることから始めましょう。
2012年1月「下町ボブスレーネットワークプロジェクト推進委員会」が発足します。ボブスレーは複合材料によって強度と軽量化を両立させますが、この推進委員会は様々な分野の才能が複合的に結集しています。たとえばランナー(ソリの氷に接する滑走部)の摩擦をいかに減らすかには、東京大学の表面科学の教授の助けを借ります。ちなみに、バンクーバーオリンピックでは、イタリアチームはフェラーリと、ドイツチームはBMWと協力しています。ボブスレーが「氷上のF1」と呼ばれるのは伊達ではありません。
ソリの空力については、風洞実験とコンピューターシミュレーションを組み合わせます。その結果、4つの形状が候補として残りました。その過程で「共通言語」の必要性も浮上します。異分野の人びとの集合体ですから、同じものや行為を違う名前で呼んでしまうのです。皆、走りながら考え、走りながらコミュニケートしています。東大阪の「まいど1号(人工衛星)」、墨田区の「江戸っ子1号(海底探査機)」に負けないものを作ろう、と町工場の人が説明会に集まりますが、そこで責任者の細貝は90種類の設計図を机に積み「自分の所で加工できそうな図面を持っていってください。納期は10日。製作費はタダ(材料費程度は請求してくれ)」と宣言します。「タダ」には訳があります。予算が無いことが一つ。もう一つは「値段をつけると、それに見合った品質のものしかできない」。可能な限りでの最高品質を求めるための「プライスレス」でした。結局30社が図面を持ち帰ります。そして、自分たちの本来の仕事の合間に時間を捻出して、自社だけで、あるいは「仲間回し」(多社が協力し合っての作業)で、10日で150点の部品がすべて集まります。
組み立てられた「国産ボブスレー」は、長野のコースを試走しました。試走二日目で、なんと前年の日本選手権のタイムを上回る好記録。しかし課題も数多く指摘され、チームの面々は時間に追われながら改造に取りかかります。
2012年12月、国産ボブスレーは実戦にデビューします。全日本選手権です。女子2人乗りに参加して、なんと、優勝。ここで話は終わりません。こんどは男子でのテストが始まります。目標はオリンピック参加なのです。ボブスレーの日本連盟も「下町ボブスレー」を採用することにします。13年2月の「男子2号機説明会」には、100社が集まりました。ほぼ同時に1号機はアメリカカップ(ワールドカップの下部大会)に参加します。「良いソリ」を作るだけではオリンピックには出られません。選手を育成し、さらに国際連盟のレースに参加してポイントを一定以上稼がなければならないのです。
いろいろあって結局日本連盟は下町ボブスレーを採用しませんでした。しかし、すべてが水泡に帰したわけではありません。難しい仕事へのチャレンジ、自分の作ったものがどこでどう使われるのかがわかること、メディアにも取り上げられる製品に関与できる喜びなどで職人たちも嬉しそうに仕事をしていたそうです。「無償の仕事」を皆でやることで、工場・会社・地域のイノベーションが第一歩を踏み出したようです。そして、いつか、オリンピックの会場を国産の下町ボブスレーが滑走する日がやってくることでしょう。
ただし、まずは社会に文字を普及させる必要があります。
【ただいま読書中】『マッド・サイエンティスト』スチュアート・デイヴィッド・シフ 編、荒俣宏・他 訳、 創元SF文庫、1982年(2000年4刷)、660円(税別)
17作の「マッド・サイエンティスト」ものの短編集です。
「サルドニクス」(レイ・ラッセル)……「邪悪な竜によって城の塔に幽閉されたお姫様を救出する白馬の騎士」は西洋では人気のあるテーマですが、本作もそのバリエーションです。東欧の陰鬱な城に閉じ込められたかつての思い人を救出せんとするロンドンの“清廉潔白な医師”が「白馬の騎士」で、「竜」は「永遠の笑顔」に苦しむ邪悪な男です。雰囲気はまるっきりゴシック・ホラー。医師は意外な手段で「永遠の笑顔」の治療に成功します。しかしそれは「医療の倫理」から眺めると「清廉潔白」と本当に言って良いものかどうか、疑問です。私には「復讐」という動機から「ミイラ取りがミイラ」になったように見えるのです。なるほど、「マッド・サイエンティスト」集の冒頭に置かれるべき作品です。
それ以外も、読み応えがある作品が続きます。“ビッグ・ネーム”だと「ノーク博士の謎の島」(ロバート・ブロック)「冷気」(H・P・ラグクラフト)「ビッグ・ゲーム・ハント」(アーサー・C・クラーク)「サルサパリラのにおい」(レイ・ブラッドベリ)などがありますが、それ以外の私があまり名前を知らない人の作品も傑作揃いです。
それにしても「マッド」って、何でしょうねえ。たぶん「ある一線を越えたサイエンティスト」と定義できるのでしょうが、その「一線」がなかなか難物です。「個人としての倫理観」「社会の常識」「時代の常識」などが絡み合って、単純でははありません。しかも、私たちの常識の限界を超えているから非常識に見えるだけの「ものすごくスジが通った“非常識”」まで登場する作品があるので、ますます話がややこしくなります。でも、そのややこしさが楽しいんです。
今回の国会解散で、解散の詔書が読まれている途中で「バンザイ」のフライングがありました。詔書が最後まで読まれるのを待ちきれませんか? そんなに選挙運動に早く駆けつけたいんですかねえ。「バンザイ」で邪魔された詔書を気を取り直して最後まで読み終えた議長が「バンザイはここでしてください」と自民党席の方向を見ながら憮然とした様子で“指導”をしているのが、印象的でした。しかし、なんて品の無い光景だことかしら。
【ただいま読書中】『ヒトラー暗殺計画とスパイ戦争』ジョン・H・ウォラー 著、 今泉菊雄 訳、 鳥影社、2005年、2800円(税別)
第一次世界大戦中、ドイツ艦ドレスデンの艦長をしていたカナリス中尉は、英国に拿捕されることを避けるために自沈、チリの捕虜収容所から脱走し、スペインに潜入してスパイとして活動しました。目的は北アフリカの部族に潜入し宗主国フランスに対する反乱を起こさせること。しかしフランス(やイギリス)から追われたカナリスは、からくもUボートで脱出します。戦後カナリスは一時政治に関わりますが結局海軍復興に奔走します。ベルサイユ条約に違反して秘密裏に造船所を確保しようとしたのです。それが暴露されスキャンダルの主人公となったカナリスは、スペインに送られてそこでほとぼりを冷ますことになります。ここで作った人脈が、のちに第二次世界大戦で大きな役割を果たすことになります(たとえばこのときカナリスの親友となったフランコはのちのスペイン内乱で指導者となり、カナリスの協力でドイツの軍事力を借り、しかもカナリスのアドバイスによってヒトラーに逆らう動きをします。そしてそのおかげでジブラルタルは英国領のまま“保存”されました)。
1935年カナリス中将はドイツ国防軍諜報部(アプヴェール)の最高責任者に任命されます。御しやすい人間とみられての人事でしたが、実はこれはナチスの大失態でした。カナリスはそれから約10年間、ヒトラーに対する隠れた反逆者でありかつドイツ国内のレジスタンスの庇護者として活動したのです。
ベルサイユ条約から“排除”されたドイツとソ連は、ひそかに協力関係を築きました。たとえばソ連領内にドイツは空軍の操縦士訓練施設や戦車学校を作りました。ソ連もそれで近代戦の戦い方を学ぶことができます。ヒトラーとスターリンには個人的なつながりもあり、ヒトラーはスパイが入手したソ連内の陰謀をスターリンに通報します。これによって赤軍内で粛清が行われますが、ヒトラーとしてはスターリンが暗殺されるよりも生きていてくれ(て、さらにドイツに感謝をもっていてくれ)たら、東部戦線は安泰でヨーロッパを蹂躙する時間が稼げる、という計算からの行動でした。赤軍の指揮系統は崩壊し(高級将校3万5千人が処刑されました)、ドイツに対する「ソ連からの抑止力」が期待できなくなった英仏は気が弱くなります。
本書は700頁近い大著ですが、実は上記のここまでのまとめはまだその1割くらいまでしか読んでいない時点でのものです。ここから第二次世界大戦“前夜”となり、カナリスの長い長い戦いが始まることになるのです。どうして彼がそのような行動をしたのか、どうしてそれが何年もばれずにすんだのか、連合軍側の諜報部はカナリスの行動を知っていたのか、知っていたらそれをどのように利用したのか……私は首を振りながら、残りの頁の厚みを眺めます。
勅裁的で攻撃的なスターリンと違ってヒトラーは陰険で攻撃的な手段で軍の掌握を図りました。反抗的な将軍にスキャンダルをでっち上げて引退させ、後釜に自分の言うことを聞く人間を据え付ける、という手法です。さらに自分の子飼いの新しい軍隊SSを創設してそちらを優遇します。これが(古い)軍幹部たちの憤激を呼びます。そして、軍の内部にレジスタンス組織ができてしまったのでした。これは戦争状態の国としては異様な事態です。カナリスはアプヴェール自体を反ヒトラーの組織として掌握しました。ただしカナリスはヒトラー暗殺は考えていませんでした。合法的に裁判にかけるための証拠を集めていました。しかし、暗殺を考える一派もいて渡英してイギリス政府の協力を求めて拒否されたりしています。そして、チェコ問題での英仏の弱腰が、ドイツ国防軍のクーデターの腰も折ってしまいました。
本書には、9月30日に読書した『英国二重スパイ・システム ──ノルマンディー上陸を支えた欺瞞作戦』(ベン・マッキンタイアー)の内容も登場します。ウィンザー公やヘスの謎の行動や、ヒトラーが示したもっと謎な行動(ダンケルク手前で部隊をストップさせたこと、など)についても頁が大きく割かれます。書きたいことがありすぎて、著者は困っている様子です。ただ著者がずっと注目しているのは、「正しい情報が得られるかどうか」よりも「情報をどう分析してそれをもとにどう行動するかの決定ができたかどうか」の方が重大な結果をもたらす、という現象です。たとえばバルバロサ作戦(ナチスドイツのソ連侵攻作戦)の情報はソ連にもたらされていました。問題はスターリンがそれに何の反応もしなかったことです。イギリスからもたらされた「ドイツ侵攻が間近」という情報をスターリンは、英米は独ソを戦わせてそれから大陸に上陸する気だ、と考えました。チャーチルの陰謀だ、と。スターリンはヒトラーを二正面作戦をするほど愚かではない、と“信用”していたのです。
そもそも「これは勝てるぞ、戦争を始めよう」と開戦したら、最初の予定通りに戦局が展開しない場合には、「データが間違っていた」場合よりは、「データの分析」と「決断」が間違っていた場合の方が多い、というのが著者の判断です。その点でデータも判断も徹頭徹尾丸っきり間違っていたのがチェンバレン、データは正しかったが判断が丸っきり間違っていたのがスターリン、精神病的にでたらめにやってたまに人の意表を突くことで上手く当てたのがヒトラー、データは不十分だったけれど直感を活かすことでまあまあ上手くやったのがチャーチル、といった感じです。それにしても著者は、思い込みに走ったり明らかに愚かな判断や行動をする人間に対しては容赦なく“断罪”をしています。とっても辛辣な口調です。
ヒトラーはソ連侵攻の前にまずバルカン半島を固めようとします。それに逆らったのがユーゴスラビア(特にセルビア)。カナリスはひそかに「無防備都市」宣言をするようにユーゴの新政権に勧告しますが、結局ドイツ軍の攻撃で1万7千の住民が殺されます。ただその死は“無駄”ではありませんでした。この攻撃によってソ連侵攻は1箇月遅れたのですが、そのためドイツ軍はロシアの冬将軍に追いつかれてしまったのです。カナリス提督はスペインには中立化を勧めます。スイスに置いた工作員を通じて西側に機密を漏らします。しかし“役に立たない”諜報部の地位はドイツ国内で低下します。危うし、カナリス。
ただ、カナリスの地位の低下が自分の利益になるはずのヒムラーは、奇妙に弱腰です。ヒムラーにはヒムラーの内的動機がいろいろあったのかもしれません。スイスやスペインなどを動き回るカナリスを、イギリス諜報部は暗殺するチャンスが何度もありました。しかしイギリスは動きません。むしろ暗殺の動きを抑制します。おそらく上の方ではカナリスの動きが連合国の利益に適うと判断していたのでしょう。ドイツ軍の窮状をあけすけに語ったカナリスにヒトラーは激怒し、ついにカナリスは失職します。しかし不思議なことに「罰」はありませんでした。ドイツ国防軍諜報部はヒムラーの組織(SD)と合体させられますが、レジスタンス派は温存されました。ノルマンディー上陸作戦が成功するかどうかの情報欺瞞操作にカナリスは動きます。英国の「ダブル・クロス作戦」との“共同作戦”です。ただ、連合国からみたらドイツ国内のレジスタンス派は「信用できない相手」でした。謀略か変節漢か二股かけた卑怯者と見えたのです。ドイツレジスタンス派についてほぼ正確に理解していたのは、アメリカではOSSのダレスだけでした。ダレスは政府とドイツの板挟みになりながら、救えるものは救おうとします。
ヒトラー暗殺計画は、驚くほど多くのものが立案・計画・実行されましたが、さらに驚くことに、ことごとく失敗しました。そして、失敗の代償は、少しでも怪しいと思われた者に対する容赦ない死刑宣告でした。容疑者の家族でさえ殺されました。そして、44年7月20日の暗殺未遂事件によって、(本当は直接の関係はないのに)カナリスも逮捕されます。以前から“反逆者”として目をつけられていたからでしょうが、だったらなぜもっと以前に逮捕されなかったのか、が不思議です。
本書を読んでいて、私は「愛国者」とは何だろう、と思います。カナリスは「ドイツ」を愛してはいましたが「ヒトラー」は愛していませんでした。むしろヒトラーのことをドイツを害するものと見ていました。実際にヒトラーはドイツ(と世界)にとんでもない損害をもたらしました。この場合、カナリスは「愛国者」なのでしょうか?それとも非国民?
本書にはときどき「バチカン」も登場します。おそらく機密文書が公開されることはないでしょうが、バチカンが第二次世界大戦で諜報面や金融面でどのような機能を果たしたのかにも、私は興味を持っています
20世紀に「健康日本21」が厚生省で議論されていた頃、「未成年者の喫煙問題」が大議論になった、と当時聞きました。「未成年者の喫煙者をどうやって健康にするか(どうやって禁煙させるか)」で議論になったのではなくて、「法律では未成年の喫煙は禁じられているのだから、未成年者の喫煙問題は公的には存在しない」と主張する人と「実際に喫煙者がいるのだからちゃんと論じるべきだ」と主張する人との対立だったそうです。確かに法律に「してはならない」と禁じておいて、お役所が“その問題の対策”を論じるのは「法の権威」がないがしろになる、と感じる人が出てくるのは当然でしょうが、だからといって「禁じたから存在しない」と教条主義的な主張をしていれば世の中が回るのだったら、たとえば「原発は安全でなければならない」と法律で規定したら事故はなくなる、ということになりますね。これだったら話は楽でしょうねえ。
【ただいま読書中】『タバコ規制をめぐる法と政策』田中謙 著、 日本評論社、2014年、5600円(税別)
まずは「タバコに関する世界の常識」が紹介されます。登場するのは「有害物質の缶詰」「能動喫煙の有害性」「受動喫煙の有害性」「タバコの依存性」「喫煙による社会的損失」です。なぜか日本では「世界の常識」がことごとく軽視されているのだそうです。
ついで論じられるのが「喫煙の自由」の法的根拠です。それは「自己決定権」です。その根拠は、日本国憲法13条の「幸福追求権」。ちなみに最高裁は「喫煙の自由は、憲法13条の保証する基本的人権の一に含まれるとしても」(判例時報605号55頁)と仮定法で述べているだけで、憲法でその自由が保障されているかどうかに関しては断言を避けています。本書では憲法の条文解釈で「一般的自由説」と「人格的利益説」の対立が紹介され、現在では「人格的利益説(個人の人格的生存に不可欠な利益を内容とする権利)」が通説的で、喫煙は「個人の生存に不可欠なものとは言えない」から憲法で保障された権利(自由)ではない、としています。
そういえば「自己決定」するためには「情報の開示」と「自由意思」が不可欠ですが、タバコ会社がタバコのメリット・デメリットについて十分開示しているかどうかが疑問ですし、喫煙者が依存によって“選択”している可能性も無視できません。
本書では面白い論の立て方をしています。「つべこべ言うな」と言うためには最低「人には迷惑をかけていないのだから」がくっつくべきだが、喫煙者は「迷惑をかけているけれど、自分の行為に対してつべこべ言うな」と「権利」を主張している。しかし「迷惑をかけているけれど、自分の行為に対してつべこべ言うな」は正しくない主張で、「権利」とは「right」であり、「right」には「正しい」という意味もあり、だから「正しくない主張」は最初から「権利」ではない、だそうです。
「非喫煙者の権利」についてもややこしい議論が展開されます。ここで登場するのは憲法25条「生存権」ですが、ここでは「プログラム規定説」「客観的法規範説」「抽象的権利説」「具体的権利説」です。頭のいい人たちがああでもないこうでもないと文字列をいじくり回しています。しかし憲法解釈にこんなにいろんな立場があるとは知りませんでした。
JTはタバコを「嗜好の問題」と捉えています。つまり、好き嫌い・マナー・モラルの領域のお話。しかし著者は「生命・健康問題」ひいては「生存権」に関わる問題であると捉えています。話がかみ合わないわけです。
ただ、タバコ規制は憲法違反ではないのか、という疑義もあります。著者は「喫煙の自由」自体が憲法上の権利と言えるのか疑問であることと、公共の場に限定した規制は個人の権利を侵害するものではない、という立場を取っています。
「未成年者喫煙禁止法」は「喫煙をした未成年者を罰する規定である」という誤解が蔓延していますが、この法律は「義務規定」ではなくて「訓示規定(第一条 満二十年ニ至ラサル者ハ煙草ヲ喫スルコトヲ得ス)」で喫煙未成年者に対する罰則はありません。処罰の対象になるのは、親権者と監督者と未成年者にタバコを販売した者です。コンビニで年齢を確認するのは、あれはコンビニを守るためだったんですね。
たばこ事業法やタバコ訴訟についてのまとめもあり、タバコを巡る法的な問題点が網羅的に触れられています。喫煙者は読んでいて、一頁ごとにむかむかするかもしれませんが。