【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

印籠

2020-12-31 14:01:20 | Weblog

 「この紋所が目に入らぬか」は「水戸黄門」の決めぜりふですが、あればかり観ていたら「印籠」を「紋を示すためのもの」と勘違いする人が出てくるのではないか、と私は余計な心配をしてしまいます。

【ただいま読書中】『印籠と薬 ──江戸時代の薬と包装』服部昭 著、 諷詠社、2010年、1429円(税別)

 江戸時代の文献を幅広く渉猟して「印籠」について著者は調べ上げています。たとえば川柳では「岩波文庫で刊行されている約4万4000首について調べた結果、この中に印籠を句のはじめに詠み込んだものは八句しかなく」とさらっと書いています。もちろん川柳は「文献」の一部でしかないのですが、大変な作業を著者はされています。そして「庶民に愛好された川柳にこれだけ登場しないと言うことは、印籠は庶民には縁遠いものだった」という結論を導き出しています。
 和服にポケットはないため、小物を持ち歩くために帯に袋をぶら下げる習慣がありました。印籠も小物入れとして帯にぶら下げられ、やがてその密閉性を生かして薬の携帯容器として使われるようになりました。そして生活が豊かになってくると、アクセサリーとしての機能も果たすようになります。
 「印籠」は、室町時代には床の間に置かれている印章(や朱肉)入れでした。室町時代末期から薬入れとしてぶら下げられるようになった「印籠」とは、別のものです。著者は、茶の湯で用いられた棗(茶の保存容器)が後の(薬の容器としての)「印籠」に変わっていったのではないか、と推定しています。茶はもとは「薬」でしたし、その変質や湿気ることを防ぐための棗の機能はそのまま薬の保存にも共通するものですから。
 携行される「薬」は、もちろん「薬物」ですが、「身につけているだけで厄払いになる」というお守りの機能も期待されていました。印籠を持たない庶民は、袋に他の日用品と一緒に入れて持ち歩きましたが、すると「包装」が必要になります。そこで重宝されるのが「紙」でした。江戸時代後期には売薬(市販薬や置き薬)が普及しますが、ここでも紙は「包装」「内容表示」「宣伝」「使用法の説明」などの役目を果たしていました。
 印籠で重要なのは嵌合性(かんごうせい:本体と蓋が密着してきっちり閉まること)です。私が驚いたのは、江戸時代後期に既にガラス瓶を印籠に入れている人がいたことです。もちろんそのガラス瓶の中には薬が入っていますが、ガラス瓶の栓は共栓(栓もガラス製で本体との接触部が摺り合わせとなっている構造)です。
 「薬」というとついつい「効果」「成分」などのことを思いますが、包装や携帯も重要なことを本書で改めて認識できました。
 ところで「この紋所が目に入らぬか」の印籠、中には何が入っていたんでしょうねえ。というか、ふだんからそんなものを腰にぶら下げていたら、道中目立って仕方なかったんじゃないかなあ。

 


体温測定

2020-12-31 14:01:20 | Weblog

 出勤前やどこかを訪問する前に体温測定、が新しい習慣になりつつありますが、正直言って一々体温計を取り出して測定してそれを何かに記録する、は面倒です。顔認証のスマホで認証するときについでに体温も非接触で測定してそれを健康アプリに自動記録、となったら楽なんですけどねえ。どこか早く開発してくれませんか?

【ただいま読書中】『縄文人はなぜ死者を穴に埋めたのか ──墓と子宮の考古学』大島直行 著、 国書刊行会、2017年、2200円(税別)

 縄文土器は「道具」として縄文人に使われていたことが重要、と著者は述べます。しかし日本の考古学では縄文土器はまるで美術品のように「型式」や「編年」による分類が最重要視されています。縄文人の生活や心はそこには存在しません。たとえば「なぜ縄目模様がつけられたのか」の問いには何の回答もありません。
 本書の出発点は『縄文聖地巡礼』(坂本龍一と中沢新一の対談集、木楽社、2012年)です。本書のプロローグは『縄文聖地巡礼』からの刺激的な引用で始まりますが、そこから「墓と竪穴式住居の類似点」に話が及ぶと、私は胸の奥がざわつくのを覚えます。私は「墓」についてついつい仏教的あるいは神道的な見方をしてしまいますが、それとは違う死生観を縄文人は当然持っていただろう、ということに思い至るものですから。
 これは、縄文人について知る以前に、私は私自身について知る必要があるのかもしれません。
 人はなぜ死者を葬るのか、で著者はユングの集合的無意識を持ち出します。ここでの議論は、たしかに説得力はあるのですが、私が引っかかるのは「反証可能性」が存在しないことです。だって縄文人が私たちと同じ心性を持っているという保証はないのですが、それの確認はできないのですから。私たちに見えるのは、縄文人が死者を葬った、という行動(の痕跡)だけです。
 縄文人のお墓からはよく土器が出土します。それは「副葬品」とされますが、著者はそれも「現代人の解釈」とし、縄文人にとってお墓はよみがえりの場で「子宮」に見立てられている、というのが著者の解釈です。「縄文」は「蛇」をシンボリックに表現していて、「蛇」は「再生のシンボル」という流れでの解釈です。もっとも縄文人が解剖学的に「子宮」を理解していたかどうかはわかりませんが。少なくとも私たちの知識や解釈とは違っていたとは思います。
 そういえば土偶も「女性性」が非常に強調されているイメージですね。
 形が無いものを追究することに、私はロマンを感じます。ただ、やはり欲しいのは「証拠」です。縄文人の言葉がわかると、その世界観や死生観についてもよくわかるはずなのですが、これは無いものねだりなのでしょう。

 


カチンの森

2020-12-29 06:39:06 | Weblog

 ポーランド軍捕虜の大量虐殺事件「カチンの森」について私が初めて知ったのは、昭和の時代(1972年)の『ゴルゴ13 第56話「みな殺しの森」』でした。半世紀も前にこの事件について知っていたとは、作者のチームはどこからこの知識を仕入れたのか、私はひたすら感心しています。

【ただいま読書中】『消えた将校たち ──カチンの森虐殺事件』J・K・ザヴォドニー 著、 中野五郎・朝倉和子 訳、 みすず書房、2012年、3400円(税別)

 1939年ポーランドはドイツとソ連によって東西から同時に侵攻され分割占領されました。ソ連領となった東部では最低120万人がソ連領に強制移住させられ、25万人の軍人が捕虜となりました(将校は1万人)。やがてドイツはソ連に対して侵攻を始めますが、そのどさくさで、ソ連領の捕虜収容所から1万5000人の捕虜(うち将校は8300〜8400人)が姿を消してしまいました。やがて彼らの虐殺死体がカチンの森から発掘されました。一体誰が虐殺をおこなったのか、そしてその謎を戦後解明することを邪魔したのは誰なのでしょう。そして、その目的は?
 行方不明になったポーランド軍将兵は1940年4月まで、コゼルスク、オスタシュコフ、スタロベルスクの3つの収容所にいました。そこから彼らは鉄道で輸送されましたが、スモレンスク西方数キロメートルでその足取りはぷつりと消えています。ソ連は(形式上は)連合国軍となったため、残存ポーランド軍とも連携して戦うことになっており、行方不明の軍人捜索にも(形式的には)協力しました。
 第一報は実はドイツ軍発でした。1943年、占領地で「墓」を発見したドイツ軍はカチンの森を憲兵隊の管理下に置き「ソ連による虐殺」を世界に発信したのです。しかし連合国軍(とドイツ軍占領地に暮らす人びと)はドイツ軍の“宣伝”を信じませんでした。ドイツは、ドイツ以外の12箇国の委員からなる「国際調査団」およびポーランド赤十字の医学チーム(実はレジスタンスのメンバーも紛れ込んでいました)に自由な調査を許可しました。もちろんドイツの法医学特別調査団も活動をしています。
 死体の腕を縛った縄はソ連製、死体に残る銃剣の跡から銃剣はソ連製とわかりましたが、使われた銃弾はドイツ製でした。ただし銃弾は戦前にドイツからポーランドやソ連に輸出されていました。そして殺害時期は、カチンの森がまだソ連の占領下にあるときでした。
 これらの手がかりからは「犯人」はソ連の疑いが濃厚、となります。ところが連合軍の米英ソは協調して「犯人」はドイツ、としました。ちなみに原著が出版された1962年にもまだ「犯人はドイツ」が通説だったそうです。しかし著者はそれに納得しません。一次資料を求め、生き残っている関係者にインタビューを繰り返し、真相を追究します。
 ドイツが第一報を発表したとき、著者はワルシャワにいて、それはソ連と連合国軍との間に離反を持ち込むためのプロパガンダだと思ったそうです。ところがポーランドの調査団が「事実」を持ち帰ります。ところがここで話はややこしくなります。連合国は「ヒトラーが悪い」と言いたい。特にソ連は「ドイツの仕業」と強力に主張します。ドイツ占領地のポーランド人はドイツを刺激してこれ以上凶悪にしたくない。ポーランド亡命政府はソ連でソ連軍と一緒に戦っているポーランド軍人たちの処遇が心配。ソ連の後援でできたポーランド愛国者同盟(将来共産主義政権をポーランドに建てることが目的)はロンドンの亡命政府の評判を落としたい。ドイツは連合国の間に不協和音を持ち込みたい。ことは「政治」になってしまったのです。
 イギリスは「ポーランド(正義)」と「ソ連(ヒトラーに対する勝利)」を比較し、後者の方がより重要、と判断します。アメリカ国務省もそれに同意。そのため、隠蔽・論点ずらし・沈黙・的外れの非難 などが盛んにおこなわれ、さらには大量の機密文書が消滅。
 それでも、犠牲者の日記、少数の目撃者の証言、報告書などから、状況の再現を著者は試みます。そして「実行犯」はソ連であることを確信します。では、その理由は? ここからは推測が主な手段となりますが、どうやら「赤化」に失敗した集団を見せしめとしてまとめて虐殺した可能性が高いようです。ポーランド人(特に将校)は共産主義に従うことに強く抵抗していたのです。しかし虐殺によって良い効果がない(それどころか自分の評判に関わる)ことがわかって、それ以降ここまで露骨な「見せしめとしての集団虐殺」は行いにくくなったのではないか、と推測されています。ということは、日本軍人のシベリア抑留で大量虐殺がなかったのは、この「カチンの森」があったからかもしれません。
 「カチンの森」自体はある意味“単純な事件”です。それを敢えて複雑にしたのは「政治」。そのため、戦後になっても新しい“犠牲者(たとえば正直に発言したため左遷や処罰をされたアメリカ軍人)”が発生しています。こういう「処罰を決定した人」って、自分の良心にはどう語りかけているんでしょうねえ。

 


アベノファンの清き一票

2020-12-26 16:32:29 | Weblog

 来年の総選挙、桜を見る会で美味しい思いをした人たちはこぞってまた安倍さんに投票してその結果「みそぎは済んだ」になるのでしょうね。

【ただいま読書中】『ハワイに渡った海賊たち ──周防大島の移民史』掘雅昭 著、 弦書房、2007年、2200円(税別)

 日本人のハワイへの集団移民は、明治元年に始まっています。ハワイ王国がサトウキビ労働者を求め、アメリカ領事館書記ヴァン・リードが出稼ぎ事業の斡旋をおこないました(ちなみにヴァン・リードは、高橋是清をサンフランシスコに渡航させて奴隷として売り飛ばした人です)。明治18年には官約移民が始まり、山口県東部の周防大島を中心と好いた瀬戸内海沿岸地域の人が多く渡航しました。第一回官約移民船「東京市号」でハワイに渡航した944人のうち山口県民は420人、そのほとんどは周防大島を中心とした地域の人でした。これには、当時の外務卿が山口県出身の井上馨で彼が移民の募集を周防大島出身の日野恕助に任せたことが関係しているでしょう。明治26年の第二次ハワイ革命でハワイ王朝がアメリカ系白人に転覆されたことから、翌年官約移民は終了しましたが、それまでに2万9000人がハワイに渡りました(そのうち38.2%が広島県人、35.8%が山口県人でした)。瀬戸内海には海賊の末裔が多数住んでいて、日本中どこへでも出稼ぎに行っていましたが、その延長上にハワイもあったようです。
 ここで私が驚くのは、ハワイ移民は「棄民」ではなかった、という指摘です。長州戦争で周防大島の人たちは幕府軍を相手に功績を挙げましたが報われてはおらず不況に苦しんでいました。それを気にした井上馨が“褒賞”として高賃金のハワイ移民を特に周防大島に斡旋したらしいのです。たしかに会津の人たちは、北海道などに棄民されましたが、ハワイには行けていません。なるほど、棄民ではないわけです。井上馨は、ハワイへの出稼ぎによって外貨を獲得し、帰国者によってアメリカ式の農法を日本に移転することを考えていました。南北戦争のあおりで労働力不足に悩むハワイも喜ぶし、“一粒で何度も美味しい”政策です。
 ハワイ王国が“革命”によってハワイ共和国になったことにより、官約移民は終了、私的移民が始まります。しかし共和国政府は移民の数制限を始めていました。それに反発した日本移民の中には「アメリカに併合される前に日本が軍事占領を」と訴えるものもいました。
 ここで驚くのは、明治三年に副島種臣外務卿に対してアメリカ公使(ハワイ公使兼任)デロングが「日本がハワイを占領するなら協力する」と申し出ていたことです。アメリカが開国させた日本に助力をしたかったのかもしれません。しかし日本の意外な近代化のスピードに欧米は警戒感を抱くようになり、だからアメリカはハワイ併合を急いだのかもしれません。
 アメリカによるハワイ併合で、ハワイからアメリカへの移民も自由になりました。しかしその分、日本からの移民排斥は強くなります。しかし移民会社は強引に移民を送り込み続けました。
 明治41年に排日的な「日米紳士協約」が締結され、日本人の自発的渡航が禁止されました。ただ、再渡航や家族の呼び寄せは許されていたため「写真結婚」が広く行われるようになります(「写真結婚」は日本だと「見合い写真だけでの結婚」ですが、アメリカ人には「人身売買」と受け取られ、結果として大正時代の「排日土地法」「排日移民法」へとつながります)。
 ハワイが「州」になったのは、やっと昭和34年(1959)のことですが、ここまで立州が遅くなったのには「ハワイが元々非白人の地域で、しかも東洋人(特に日本人)が多すぎる」ことが理由だったようです。
 日清戦争や日露戦争はハワイ(と日本人社会)に大きな影響を与えましたが、第一次世界大戦はアメリカのナショナリズム高揚をもたらし、その結果排日の気運はさらに高まり外国語学校取締法(日本語学校での日本語教育の禁止)が実施されました。しかし法廷闘争で連邦最高裁判所はこの法律を違憲と判断しています。
 そして、第二次世界大戦。
 昭和38年には、周防大島とカウアイ島の姉妹島縁組みが結ばれました。できることなら、こういった平和的な関係がずっと続いて欲しいものです。

 


コミュニケーションと理解

2020-12-24 06:53:18 | Weblog

 人間社会でお互いの「理解」は「コミュニケーション」によって生じます。黙りこくっている人を理解するのは、とても難しい。ただその逆、とても流ちょうに喋りまくる人でも、たとえば政治家の発言を聞いていて何かがきちんと理解できたという実感を得られたことはあまりありません。これは政治家がコミュニケーション以外を目的に言葉を使っているからなのでしょうか? すると、人間とコミュニケーションをしようとする動物(たとえばイヌ)よりも政治家の方がヒトとのコミュニケーションは下手、ということに?

【ただいま読書中】『言葉を使う動物たち』エヴァ・メイヤー 著、 安部恵子 訳、 柏書房、2020年、2200円(税別)

 ドリトル先生やソロモンの指輪はフィクションですが、1950年代から盛んになった動物行動学の研究から、動物がコミュニケーションを取っていることが明らかになりました。その中には「文法のある言語」を用いるものもいるのだそうです。
 オウムは身体の構造が人の音声を発することに適している珍しい動物です。「ドリトル先生」でもオウムのポリネシアが重要な役割を果たしていましたね。さらにオウムは、きちんと教えると、言葉を「オウム返し」にするだけではなく、物体を覚えたり概念を理解することができ、さらに「自分は何色?」という質問を飼い主にしてくるところまで行くそうです。
 チンパンジーの子供にヒトの言葉を教える実験は1930年に始まりました。チンパンジーにはヒトの言語の発声は難しい、とわかって手話を教えられたのが、ワショーです。彼女は最終的に250の手話を覚えましたが、「イヌ」の手話ですべての種類のイヌを表せることも理解していました。最初期のAIより利口かもしれません。
 ゴリラ手話を駆使したのは1971年生まれのココ。雄ゴリラのマイケルはココと暮らしているときにゴリラ手話を覚えました。ココの映像を見て手話を覚えたのはボノボのカンジ。彼らは、単に単語を並べるだけではなくて、自分の記憶や感情を伝え、時には嘘もついたそうです。
 鳥類の言語について研究したのはコンラート・ローレンツ。彼は「刷り込み」理論で有名ですが、親としてひなのカモを育てるためにはカモの言語を習得するしかなかったのです。
 動物は、自分と同じ種と様々なコミュニケーションを取っているだけではなくて、他の種の動物ともコミュニケーションを交わしています。警報、挨拶、アイデンティティー(イルカはお互いの名前を呼び合っていますし、オウム・リスザル・コウモリもそれぞれの“名前”を持っています)……実に多くの動物が様々な手段で「自分はここにいる」という情報を発しています。人間はその多くを見過ごしています。
 遊び、共感など、複雑なコミュニケーションを動物はおこなっています。それについてヒトはついつい「ヒト的なイメージ」を投影してしまいますが、それは「自分が理解するため」には役立つでしょうが、「真実」を言い当てているかどうかは不明です。ただ、動物の言語について研究することは、その動物について詳しく知ることができるだけではなくて、私たちヒトについても知ることになり、かつその動物とヒトとの関係についてもまた詳しく知ることになります。まだこの分野の研究は始まったばかりですが、将来とんでもない成果を私たちは知ることになるのかもしれません。

 


GoToの行方

2020-12-22 07:01:51 | Weblog

 政治家の方に何か明確なビジョンとかプランがあるようには見えません。人びとの評判によって決めるつもり、つまり目的地は「風」まかせ、かな?

【ただいま読書中】『ブラックホールを見つけた男』アーサー・I・ミラー 著、 阪本芳久 訳、 草思社、2009年、2500円(税別)

 20世紀初め、恒星の寿命が尽きたら白色矮星になる、が当時の天文学の“常識”でした。しかし、インドからやって来た天才少年スブラマニアン・チャンドラセカール(愛称チャンドラ)は特殊相対性理論を計算に取り込むと、別のものが登場することに気づきます。「ブラックホール」です。彼がその着想を得て計算を完了するまで、わずか10分だったそうです。
 天体物理学界の重鎮エディントン(チャンドラより30歳年長)は、チャンドラの発表を根拠を示さず全否定します。もともと舌鋒鋭い批判で知られた人だったのですが、チャンドラを否定する態度は常軌を逸したものでした。エディントンの発言を読んで、私はSNSでの「炎上」で「死ね」とか人格否定を全開する人の発言を想起します。あれとほぼ同じレベル。これは「若造に負けるのが悔しい」のかあるいは「大英帝国ではイギリス人が常にインド人の上にいなければならない」と思っていたのか、それはわかりませんが、とにかく重鎮の根拠を欠いた感情的な全否定を学界は重く受け止め、結果として「ブラックホール」が世界に受け入れられるのは40年後になりました。
 現代の日本では「発言の中身」ではなくて「誰がそれを言ったか」の方が重視される傾向が一部にありますが、1世紀前の大英帝国でもそういったパターナリズムが横行していたようです。
 この頃インドではガンディーが非暴力不服従のインド独立運動を開始していました。イギリスはインドに「従順な単純労働者を大量に生産するため」に教育制度を持ち込みましたが、一部の人は「インテリ」となり、世界について深く考えるようになっていたのです。
 皮肉なのは、エディントンの著作が、チャンドラを天体物理学の面白さに目覚めさせるきっかけとなったことです。量子論を天体物理学に応用するエディントンの議論はとても優雅なものだったそうです。さらにたまたまインドを訪問したゾンマーフェルトの「ぎゅうぎゅう詰めの電子は、その量子としての性質が外部への圧力を生み出して重力の大きな力に対抗できる」ことを示し、さらに彼が読むように勧めたパウリとハイゼンベルクの論文、さらにその先にあったディラックとフェルミの論文によって、17歳のチャンドラは光と電子と原子が星の内部でどのような相互作用をしているのかの考察を始めます。
 さらに皮肉なのは、世界で一番簡単にチャンドラの主張を理解することができるはずだったのが、エディントンだった、ということでしょう。というか、理解できたからこそ、それを拒絶したのではないか、と私は疑いを持っています。あの理不尽な意固地ぶりは、異様です。知性というより痴性の発露です。
 チャンドラの立場は複雑です。イギリスの天体物理学者は、エディントンに逆らいません。陰でこっそりとチャンドラを支持する、と言ってくれる人はいるのですが。チャンドラの味方は、ドイツとコペンハーゲンの学者達でした。これでますますイギリスの学者は結束を固めてしまいます。
 エディントンの「拒絶」と「攻撃」に対抗するために、チャンドラとその味方は、消耗します。いやもう、もったいない。
 チャンドラは最終的には「栄冠」を手にしますが、しかし本人には常に「エディントンに理不尽に拒絶された(しかもそれを多くの学者が支持した)」という「陰影」がつきまとっていたようです。それがなければ、彼はもっと多くの業績をのびのびと上げることができたかもしれません。もったいないことです。

 


美しさの数字

2020-12-21 06:46:57 | Weblog

 私が黄金比を初めて知ったのは小学生の時、ギリシアのパルテノン神殿にこの比率が使われている、という解説を読んだときでした。正直言って、パルテノン神殿が美しいとは思いませんでしたが(どちらかと言えば廃墟に見えました)、「美しさ」を「数字」で表現できる、という概念には驚きましたっけ。

【ただいま読書中】『黄金比 ──秘められた数の不思議』ゲイリー・B・マイスナー 著、 赤尾秀子 訳、 創元社、2019年、3200円(税別)

 1835年にドイツの数学者マルティン・オームは『初等純粋数学(第2版)』で「黄金分割」という言葉を用いました。これによって「黄金比」が「黄金」という表現を初めて得た、と考えられています。黄金数は無理数ですが、近似値は「1.618」、ギリシア文字の「Φ(ファイ)」が当てられます(20世紀以前には「τ(タウ)」も使われました)。なお、「Φ(大文字)」は「1.618」、「φ(小文字)」はその逆数「0.618」を示す、というお約束があります。
 身近でこの黄金比を見られるのは、一筆書きでの五芒星です。たしかに黄金比から外れた形で五芒星を描くとたしかにバランスが悪く感じます。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの絵画やピラミッドに黄金比が使われていることは有名ですが、フォボナッチ数、ル・コルビュジェが設計した高層ビル、アストンマーティンの車体、〈スタートレック〉のUSSエンタープライズなどに黄金比が潜んでいます。そして「顔」。民族によって美しい人の傾向は違いますが、その写真を詳細に分析するとどの民族でも黄金比にしたがった顔が「美しい顔」だったのです。ある意味、個性を欠いた顔、とも言えますが。歯並びにも黄金比の影響があるそうです。
 ブラックホールとΦに関係がある、とか言われると、「なんでそこに?」と尋ねたくなりますが、「数学界で最も美しい等式」と言われる「オイラーの等式」でも「なんでそこにeやiやπがあるんだ?」と尋ねたくなったのを思い出すと、数学の世界ではいろいろ複雑な「関係」があるようです。

 


忘年会

2020-12-19 17:51:31 | Weblog

 「首相が8人で会食」が問題になった瞬間、自民党で「忘年会を中止」がばたばたばたと発生したのには、笑ってしまいました。笑った理由は3つ。
1)自分たちは国民に「大勢での会食は自粛」することに「協力」するように求めておいて自分たちは平気でやっていたこと。つまり自分たちのことは「日本国民ではない」と認識しているわけ。
2)「国民に問題にされるから中止」しただけで「自分達の行動に問題があるから中止した」わけではないこと。問題だと思ったら最初から予定を組まないでしょう。ということは「忘年会」ではなくて「研修会」とか「勉強会」とか「名前」だけ変えてこっそり集まっている可能性が大です。要は「忘年会」でなければ良い、という意識でしょうから。
3)「忘年会」をしたいと言うことは、「今年のこと」を一刻でも早く「忘れたい」わけ。そんなにあっさり「今年のこと」を忘れて、良いんです? ということは、来年になったら記憶がリセットされているから、コロナの流行に対して「こんなのは生まれた初めてだ」と言うんでしょうね。

【ただいま読書中】『コロンブスの不平等交換 ──作物・奴隷・疫病の世界史』山本紀夫 著、 KADOKAWA、2017年、1700円(税別)

 1540年代にアンデスを歩いたスペイン人シエサ・デ・レオンは各地で大麦・小麦・イチジク・ブドウなどヨーロッパ由来の作物が栽培されているのを目撃しました。スペイン人は現地の食べものではなくて「これまで自分たちが食べていたもの」に執着していて、そのためヨーロッパ(やアフリカ)から多くの作物が“新大陸”に持ち込まれました。逆に新大陸から持ち出されたものもたくさんあって、その代表が、トウモロコシ・ジャガイモ・パイナップル・落花生・カボチャ・トマト・唐辛子・タバコ・カカオ・ゴム……「世界を変えた」作物が並んでます。
 「コロンブスの交換」は1972年にアメリカの歴史学者クロスビーが言い出しました。しかし「交換」というとなんとなく「対等な関係」を示唆しますが、実際には、人に関しては「侵略」と「虐殺」でした。そして「もの」に関してはどうか、が本書で扱われるテーマです。
 トウモロコシもジャガイモも、もともとの野生種にアンデスの先住民達がずっと手をかけて改良して、今のような姿にしたものです。
 ヨーロッパでトウモロコシははじめは「真っ当な穀物ではない」という扱いでした。しかし収量が多く小麦や米が育たないところでも育つ特性で、ヨーロッパ・アフリカ・アジアに広まります。なお2010年の穀物生産量は、トウモロコシが8.1億トンで、2位の小麦(6.8億トン)3位の米(4.4億トン)を大きく引き離しての1位です。ただトウモロコシは基本的に飼料と見なされていて、日本でも輸入トウモロコシ1600万トンの2/3は飼料目的です。
 インカ帝国では、標高3000m以下ではトウモロコシ、それ以上の高地ではジャガイモを栽培していました。重く腐りやすい芋類の欠点を克服する凍結乾燥の手法は、同時にジャガイモの毒抜きも兼ねていました。アンデスの環境に見事に適応しています。寒冷地で良く育つジャガイモは、ヨーロッパでも北部に広まりました。収量が多く少々畑を荒らされても大丈夫だったため、戦争と飢饉が繰り返される度に栽培面積は増えます。イギリスでは、高い肉やパンの代わりにジャガイモが労働者階級の食べものになりました(その代表が、フィッシュ・アンド・チップス)。アイルランドでも広く普及し、それがジャガイモ飢饉につながります。その結果が死者多数、アメリカへの大量移民、つまりジャガイモが世界の歴史を大きく変えたわけです。
 サトウキビは、ニューギニアが原産地ですが、ヨーロッパ人はその栽培適地を熱心に探していました。ポルトガル人は西アフリカのマデイラ諸島などで栽培、安価な砂糖は地中海産の砂糖を駆逐してしまいます。スペイン人はカナリア諸島で栽培。さらにそこからサント・ドミンゴ(現ドミニカ)に運び入れます。ヨーロッパでは砂糖の需要はうなぎ登り、それにつれてカリブ海の島々は一大砂糖生産地となります。そこで問題になったのが、労働力。はい、プランテーションと奴隷制の登場です。
 そして「家畜」と「疫病」。
 この前読んだ『イシュマエル』に「取る者」と「残す者」のことが書かれていましたが、ヨーロッパからやって来た「取る者」は「取る」だけではなくて「残す者」を平気で虐殺してしていったわけです。なるほど、たしかにこれは「交換」ではありませんでした。

 


米のスープ

2020-12-18 08:42:13 | Weblog

 米を「スープの具材」として考えたら、雑炊やおじややお粥も「お米のスープ」と言えますね。

【ただいま読書中】『世界のスープ図鑑 ──独自の組み合わせが楽しいご当地レシピ317』佐藤政人 著、 誠文堂新光社、2019年、2200円(税別)

 世界140箇国から集めた「スープ(とシチュー)」の紹介です。日本からのエントリーは「豚汁」「味噌汁」「粕汁」「雑煮」「けんちん汁」「お汁粉」。「味噌汁」と「雑煮」だけでも本一冊分くらい「違うもの」が集められそうですが、えいやっと一つだけの紹介にされています。ということは、各国の「ご当地スープ」もまた、本書に紹介されている以外にバリエーションはとてつもなく多いのでしょうね。
 写真を見ただけである程度味の見当がつくものもありますし、レシピを念入りに読んでも味がさっぱり想像できないものもあります。ただ、材料の組み合わせに驚かされるものが多いのは、私の頭がいつのまにか固くなってしまったせいでしょうね。いや、味噌汁の具に、トマト、ベーコン、ヨーグルト、アボカドなどと言われただけで驚いているのですから。
 「一汁一菜」と言ったら粗食の代表のようですが、具沢山の汁だったら栄養バランスはとても良くなるはず。もうちょっと「一汁」に注目してよいのかもしれません。

 


全世代型社会保障?

2020-12-17 07:13:00 | Weblog

 そもそも、特定の世代を意図的に除外した社会保障、ってありましたっけ? 
 「社会」って、様々な世代で構成された集合体です。だから大切なのは「世代」ではなくて「社会保障が必要かどうかの判定」と「社会保障をどうやって公的に保証するか」では? 今の政府が言う「全世代」は「とにかく全員が金を出せ」の意味にしか聞こえません。金を出すのは良いのですが、それがどう使われるのか(無駄遣いや中抜きをされないのか)のチェックもしたくなります。

【ただいま読書中】『エネルギーの愉快な発明史』セドリック・カルル、トマ・オルティーズ、エリック・デュセール 監修、岩澤雅利 訳、 河出書房新社、2019年、2400円(税別)

 1945年フランス西部に水素ガスで動くトラックがありました。燃料が手に入らなくて困った人が、水車を発電機に接続してできた電気で水を電気分解、それで発生した水素ガスを燃料としていたのです。こういった、世界的には無名だが重要な発明を集めたら、これから地球温暖化や原油の枯渇などに対応するための貴重なヒントが見つかるのではないか、が本書の目的です。
 水素と言えば燃料電池。これの原型はなんと1800年まで遡ります。イギリスの科学者ウィリアム・ニコルスンとアンソニー・カーライルは、水の電気分解を逆転させたら水素と酸素から電気と水が取り出せることに気づきました。彼らが作った「ガス・バッテリー」こそ最初の燃料電池です。そういえば19世紀半ばに自動車(「馬なし馬車」)が発明されるとすぐに電気自動車が登場していますし、「21世紀の自動車(電気自動車や燃料電池車)」のルーツはけっこう古いんですね。
 1869年にアメリカで登場した「回転自転車」という遊具も面白い。メリーゴーラウンドの馬の代わりに自転車がいくつも設置されていて、乗った人がそれを漕ぐと、その人力でぐるぐる回る仕掛けです。挿絵には8台の自転車が接続されていますが、満席になると最大で時速60km出せたそうです。高速の馬車でもせいぜい時速20kmの時代に生きる人に、これは「超高速のスリル」だったでしょうね。というか、今でも楽しめるかもしれません。
 電話の発明者として知られるグラハム・ベルは1880年に「フォトフォン」という光電話を発明しました。これは、発声によって振動する鏡によって送られる光(最初のモデルでは直射日光)を、受け手側の凹面鏡でキャッチしてそれを音に復元する、という仕組みです。直射日光と鏡、という“原始的なアイテム”ではありますが、この発想はすごいなあ。
 太陽と言えば、1860年にフランスの数学者・物理学者のオーギュスタン・ムーショは「太陽炉」を開発しました。これは「将来のエネルギー危機(石油ではなくて石炭の枯渇)」を見通してのもので、1878年のパリ万博には集光装置を動力源とする蒸気ボイラーを出品して金メダルを授与されています。4年後にはムーショの太陽炉を使って技師のアベル・ビフルが印刷機を動かして「太陽新聞」を1時間に500部印刷してみせました。
 1881年のパリ万博には「電気飛行船」の模型が出展されました。製作したのはティセンディエ兄弟(兄は建築家、弟は電気技師)でした。最初の試験飛行は1883年です。21世紀には電気飛行機が開発され、2016年には太陽エネルギーだけで世界一周に成功、2018年には高度2万5000kmを24時間以上飛ぶ、という高性能に到達しています。
 私たちは「電球には寿命がある」と思っています。ところがカリフォルニア州リバモアの消防署にある電球は、1901年からずっと消えることなく点灯し続けています。フランスの実業家シャイエがオハイオ州に設立したシェルビー電力の、耐久性に優れた炭素フィラメントの電球で、はじめは60ワットだったのがさすがに100年経つと4ワットの明るさになってはいるそうですが、それでもまだ保っている。現在のすぐ切れる電球は、100年前より技術が劣っているのでしょうか? それとも売れないと困るからわざと手を抜いている?
 技術は「進歩」するものだと思い込んでいたので、「過去」の技術から「未来」が見えるのは、なんだか不思議な気分です。しかし、本書にぎっしり詰まっているのは「過去の技術」と「人類の未来」でした。