この世は「わからないこと」に満ちています。それを「わかりたい」と努力するから、自分はまだ成長できるのでしょう。もしも「すべてがわかった」となったら、あとは死ぬしかない。さすがに「死」は実際に死なないと「わからない」でしょ?
【ただいま読書中】『アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か? ──これからの経済と女性の話』カトリーン・マルサル 著、 高橋瑠子 訳、 河出書房新社、2021年、2100円(税別)
ニュートンが万有引力で表現した中では「星」は「質点(重心にすべての質量が集中した点)」として表現できます。そこでは「星の個性」ははぎ取られてしまいます。また、古典的な物理学では「原子」の運動によってすべての法則が説明できるとされていました。原子レベルでも惑星レベルでも、初期条件さえわかれば「未来」は完全に予測可能でした。
アダム・スミスは「神の見えざる手」で有名ですが、著者はアダム・スミスの功績を「できたばかりの経済学に、ニュートンの物理学の世界観を持ち込んだこと」とします。物理学における「質点」や「原子」を、経済学では「個人」とし、個人のすべての個性をはぎ取ってすべての人に共通する行動原理を「利己心」としました。すると、初期条件さえ判明したら、市場経済は「計算可能」となります(計算できるからこそ、経済学が成立します)。ニュートンが「星の動きは計算できるが、人の狂気は計算不能だ」と言ったことは、無視されました。
さらに、アダム・スミスはもう一つ、無視しました。経済における「ジェンダー」です。だって女性は「利己心」を持つこと(あるいは持ててもそれを発露すること)に社会的制限がかけられていますから(「自立した女性」というだけで、非難された時代のことを私は覚えています。そしてその基調は、今は見えませんが、実は隠蔽されているだけ、が私の見立てです)。
「経済」は「経済人」の行動の集積です。そしてそこで重視されるのは「経済人」がそれぞれ「自由で妥当な判断をする」という前提。ところがそもそも「経済人」とは、誰? たとえば明治〜昭和20年までの日本で、女性は合法的に「経済活動」をすることができませんでした(すべて「戸主(=男)」の許可が必要)。つまり「経済人」には「自立した男」という前提がある。ということは、現在の「経済学」は、少なくとも人類の半分は最初から無視したところに構築されていることになります。
ということでタイトル。「アダム・スミスの夕食を作ったのは、誰?」。その活動は「経済」には無関係?(ちなみに、歴史的には独身のアダム・スミスの夕食を作り続けたのは、母親だそうです)