リアルの小児ポルノは、対象となった“その子”に損害が及んでいるだろうことは、簡単に想像できます。だから禁止することに私は賛成です。しかし、バーチャルの小児ポルノは、具体的に誰に損害を与えているんです?
【ただいま読書中】『悪魔を思い出す娘たち ──よみがえる性的虐待の「記憶」』ローレンス・ライト 著、 稲生平太郎・吉永進一 訳、 柏書房、1999年、2000円(税別)
1988年11月、サーストン郡保安官事務所の一般部主任ポール・イングラムは、自分の娘たちから性的虐待を受けたと告発されました。真面目な警察官で通してきたイングラムの心は「娘たちが嘘を言うはずがない」と「自分にはそんなことをした記憶がない」によって引き裂かれます。心ここにあらずの感じでイングラムは「覚えはないが、娘が5歳のときに犯したんだろう」といった感じの“自白”を始めます。
娘たちの話は、「父親に犯された」「兄にも犯された」「父親の同僚にも犯された」「5歳」「13歳」「先月」とくるくる変わります。しかし子供がこんなことで嘘を言うわけがない、と人びとは戸惑いながらその話を受け入れます。かくして「容疑者」は増えます。どの容疑者も「そんな記憶はない」と主張しますが、同時に自分が記憶を抑圧しているのかもしれない、とも考えます。かくして容疑者のひとりはこう言います。「事件を思い出せないのなら、わたしはとても凶悪な男だということになる。野放しにしてはいけない」。さらにイングラムは「自分たちが悪魔崇拝の儀式を行っていたこと」も“思い出し”ます。
ふつう、捜査が進むと、多くの証拠が「一本の線」にまとまる瞬間が訪れます。ところがこの事件の場合、証拠や証言が集まれば集まるほどそこには混沌が生じます。捜査員たちは混乱します。結局信頼できる証人はポール・イングラムだけ、という変な状況になりますが、そこでイングラムは司法取引を拒否します。検察は「記憶の抑圧」ではなくて「マインド・コントロール」を主張しようと考え始めます。マインドコントロールの専門家として招かれたカリフォルニア大学バークリー校の社会心理学者リチャード・オフシー博士は関係者へのインタビューの後「この事件は、一種の集団的愚行で、セイレムの魔女狩り事件の再来だ」と確信します。
娘たちが「幼児の時に性的虐待を受けた」のを“思い出した”のは、キリスト教会の集会で「霊に満ちている」女性の講演を聴いて、少女たちが次々「自分は虐待を受けた」と告白を始める雰囲気の中でした。そして、父親が「虐待をした」ことを“思い出した”のは、自分の同僚たちから取り調べを受けている最中でした。
「幼児の時に性的虐待を受けた」という記憶を捏造することと「自分が幼児虐待をした」という記憶を捏造することが、本書ではパラレルに進行しています。そしてここで大きな“テコ”として作用しているのが「虐待と記憶の抑圧」のメカニズムが一種の「真理」として関係者全員に共有されていること、でしょう。そして、暗示に弱かったり権威者の意向に従う傾向のある人間が集まると、「偽の記憶」が発生してひとり歩きを始める場合があるのです。結局ポール・イングラムは20年の刑を言い渡され、周囲の人びとの社会的生活も重大なダメージを受けました。もしイングラムの「幼児への性的虐待」が本当の話なら、彼は罰せられるべきです。しかしそれがでっち上げだったら? 「真実」をどうやって判断したら良いのでしょう?
政府と日銀は脱デフレに必死ですが、もしも犯罪が脱デフレに貢献するのなら、犯罪も奨励されるのでしょうか? もし戦争が効果的だったら、戦争は?
【ただいま読書中】『ルネッサンス夜話 ──近代の黎明に生きた人びと』高階秀爾 著、 平凡社、2015年、1300円(税別)
ルネッサンス美術の“パトロン”として重要な役割を果たした「15世紀のメディチ家」は、莫大な財産をもっていましたが、それはどのくらいだったのでしょう? 15世紀のフィレンツェでは納税制度が確立していました。保存されている古文書を見ると、メディチ家の財力は圧倒的です。納税額ではぶっちぎりの一位。二位から六位までの富豪の納税額を合計してもメディチ家には及ばないのです。メディチ家の財力の基礎は「メディチ銀行」でした。ただし昔のキリスト教社会では「利息を取って金を貸す」行為は反キリスト的として御法度です(だけどこういった業務は社会に必要ですからユダヤ人がそこに充てられました)。そこで当時の「銀行」では「為替手形」で稼いでいました。国を超えた手形は「借金」ではなくて「両替」で「利息」ではなくて「手数料」を頂くのですから、反キリスト的ではないのです。しかし「自国通貨→外貨建ての為替」に両替して、それを何ヶ月か後に他国の支店で「為替→外貨」に両替した直後に「外貨→自国通貨」にさらに両替。そして「遠くに旅をした期間分の手数料」をいただく、というのはどうみても形を変えた「利息稼ぎ」でしかありません。もっともそういった「反キリスト的行為」を非難する教会も、司祭職の売買や免罪符の売買をしているのですから、大きなことは言えないはずです。経済が発達することで世俗社会の力は増し、宗教は経済によって堕落した、ということでしょうか。
1494年、フランスのシャルル8世がアルプスを越えてイタリアに侵攻します。「(フランスの側からは)イタリア戦役」の始まりです。当時のイタリアでは、「戦争」とは「それぞれの都市国家が雇った傭兵がおこなうもの」でした。ところがフランスは「国家の兵」によって軍隊が作られていたのです。当然戦いは一方的で、シャルル8世はあっさりナポリに到達、当初の目的であるナポリ国王の戴冠式を済ませるとさっさと帰国の途につきます。急いだのには、本国が心配・イタリアでの軍事的な抵抗が高まってきた、ということ以外に「奇病の発生」という事情がありました。フランス人は「ナポリ病」、イタリア人は「フランス病」と呼ぶ「梅毒」の“デビュー”です。コロンブスが新大陸から帰国したのは1493年。当時のナポリはスペインと密接な関係があり人や物資の交流が盛んでした。梅毒も当然のようにナポリにやって来ているでしょう。そこに「ヴィーナス女神の戯れ」が大好きなフランス人が大挙してやってきたら…… この戦役によってイタリアでは「戦争」の意味が激変し、それまでの予定調和的な傭兵同士の戦いが、血みどろの「国家の戦争」に変容してしまいます。
ルネッサンスでは「個人の力」が評価されるようになっていました。さらに、頑張って稼ぐことは「良いことだ」とされるようになります(社会に貢献するためには、まず富を蓄積しなければならない、という理屈です)。このあたりが資本主義の萌芽と言えるのかもしれません。また、ルネッサンス期の人びとは、占星術や人相学を信じていました。占星術の信じ方は、すごいですよ。生まれた月や日どころか、時刻(それも秒単位)でこだわったりします。星の配置は刻々と変わりますから、こだわるのなら「秒」までこだわらないと意味がない、ということでしょう。胆汁質とかメランコリーとかの「四性説」も信じられていました。体型からその人の性格がわかる、という優れものの学説(?)です。今の日本でも、占星術や血液型性格占いを信じている人がいますから、時代が変わっても人はそれほど変わっていない、ということなのでしょう。ただ、星占いで「秒」までこだわる人がいるかどうかは知りませんが。もしいないのだったら、時代は退歩しているのかもしれません。
「卵塔」……地震厳禁!卵を積んだ塔
「斜塔」……厳密に垂直な塔はこの世にそれほど存在しないはず
「百万塔」……百万基の塔
「多重塔」……存在が重なり合っている塔
「司令塔」……司令をする塔
「金字塔」……金箔で「塔」と書かれた習字
「電波塔」……電波でできた塔
「五輪の塔」……オリンピック憲章が収められた塔
「バベルの塔」……背が高いバベルさんの住居
「橋塔」……橋の形の塔
「卒塔婆」……卒塔に住む婆
「象牙の塔」……レッドデータブックに怒られる塔
【ただいま読書中】『牛を飼う球団』喜瀬雅則 著、 小学館、2016年、1400円(税別)
日本でアマチュア野球は衰退の過程にあります。1963年に237あった社会人野球チームが、93年には148、2003年には89。危機感を抱いた人たちは、プロ選手育成システムとして、四国に独立リーグを立ち上げました。中心となったのは、かつて西武ライオンズで活躍した石毛宏典。
しかし、四国アイランドリーグの経営状態は、火の車でした。特に苦戦していた高知ファイティングドッグスの経営者公募に手を挙げたのが、不動産会社を成功させた青年実業家、北古味鈴太郎。ここから出会いが出会いを呼び、球団と人々の運命が急変します。
球団は本拠地を、人口6000の越知町と佐川町に置きました。赤字の球団経営と過疎地対策をリンクさせるという“冒険”です。しかし北古味鈴太郎はしたたかでした。過疎地認定されている越知には補助金を引っ張ってきて試合もできる練習場を建設。小学校の体育で選手に特別授業をさせます。小学生の運動能力はぐんぐん伸びます。過疎地認定をされていない佐川には選手宿舎を借りてそこに住民票を移します。「若い者」が増えて町は喜びます。
球団として、農業にも取り組みます。ホームタウンには耕作放棄地が満ちあふれていました。落ち葉が積もり農薬を撒かれないまま放置された元農地は、「土」として非常に良いコンディションです。球団は「話題づくり(地元メディアにニュースとして取り上げてもらう)」「自給自足」「雇用創出(住民だけではなくて、選手引退後のセカンドキャリアとしても)」「地方創生(地産地消の農産物の提供)」を考えているのです。
野球を「ツーリズム」の対象として扱う手法も登場します。シンガポールの大富豪に「四国で面白いツアーを体験して、そのついでにナイター観戦も」という旅を売り込んでいるのです。これには四国四県の球団(とそのスポンサーたち)が協力しているそうです。「グローバリズム」もここにはあります。2014年の開幕直前、高知ファイティングドッグスの登録選手25人練習生8人のうち、外国人が10人もいるのです。日本のへき地に「ボーダーレス化した野球界」が存在しています。
本書の“物語”が「ハッピー・エンド」になるかどうかはわかりません。現在進行形の物語ですから。ただ、「地方創生」などと口走る官僚は、本書の爪の垢でも煎じて飲んだらどうかな、なんてことは思います。本書に満ちている「現実を出発点とする」「即断即決」「大きなビジョン」「実行力」「住民を巻き込んでいく」といった要素が現在の日本の行政には欠けているから、“爪の垢”くらいでは不足しているかもしれませんが。
伝わるもの
泣きながら何かを相手に訴える場合、相手に伝わるのは「何か」ではなくて「お前が私を泣かせた」という非難だけかもしれません。
【ただいま読書中】『八月の砲声』バーバラ・W・タックマン 著、 山室まりや 訳、 筑摩書房、1965年(86年新装版)、2800円
第一次世界大戦を扱った歴史書ですが、著者は「なぜ」ではなくて「いかに」を問う態度を貫いたそうです。だから著者の記述にはすべて資料の裏付けがあるのだそうです。また、バルカンについては別の本が一冊必要になるくらいややこしいので、本書ではそのことは扱われていないそうです。明快で潔い態度です。
1910年5月英国王エドワード7世の葬儀のシーンから本書は始まります。異例なことにヨーロッパから9人の帝王が葬儀に参列しました。のちの第一次世界大戦での役者(それも主役級の扱いを受ける人々)が揃ったのです。空にはハレー彗星がかかり、地上では「戦争計画」が着々と進行していた時代でした。
ドイツの計画は「右翼重視」でした。ベルギーの中立を踏みにじって通過してフランスの要塞線を避けて侵入しようと考えます。フランスはそれを察知していましたが、まさかベルギーの中立を犯すとは思わず(それは自動的にイギリスの参戦を呼び込むことになります)要塞線で抵抗している間に手薄なライン川を中央突破してドイツに攻め込む計画を立てます。ロシアは帝国末期で内部はぼろぼろでした。それでも他国を圧倒する膨大な動員力は脅威です。
バルカンで「途方もなくばかげたこと」(戦争勃発に関するビスマルクの予言)が実際に起きてしまい、各国はほとんど自動的に戦争マシンを動かし始めます。ほとんどの人は戦争なんか望んでいないのに。しかもどの国も内部はばらばらです。よくもまああれだけ国内に意見の不一致があって、戦争が開始できたものだと感心します。例外はベルギーだけのようですが、あまりにドイツが強大すぎて、もめている暇が無かっただけかもしれません。
ベルギー陸軍には7個師団しかありませんでした。それで侵攻してくるドイツの34個師団を迎撃しなければならないのです。実はドイツは、無抵抗での降伏を望んでいました。鉄道などのインフラを破壊されていない形で利用したいし、抵抗をされたらフランス向けの軍団を一部割いてベルギーに駐留させる必要が出てしまうからです。ちなみにドイツの「口実」は「フランスがベルギーの中立を犯そうとしているから、予防的に出兵した」でした。
ベルギーは抵抗します。苛立ったドイツ軍はベルギーを屈服させるために一般住民にも攻撃を加えます。最終的にベルギーは降伏しますが、ドイツの「中立を踏みにじった行為」と「ベルギー国内での暴虐行為」が連合国側に大きな「大義名分」を与えることになってしまいました。そのため後にドイツはベルギーに“復讐”されることになってしまいます。
当時は「軍人の魂」が非常に大切にされていました。たとえば「歩兵の銃剣突撃」「騎兵の突撃」「フランス陸軍の赤いズボン」。最初の二つは単純に「機関銃の餌食」ですからわかりやすいのですが、いくらばたばた兵隊が死んでも将軍たちは「突撃をすれば怯えた敵は逃げ出す」と信じていたそうです。最後のはよくわかりません。当時のフランス軍にとっては、各国が採用しつつあったカモフラージュ性に優れた軍服よりも「遠距離からの狙撃の的として目立つこと」であることの方が大切だったようです。「突撃」に関しては第二次世界大戦の時の日本陸軍でも似たことを言っていたような気がしますが……
普仏戦争どころか、ナポレオン戦争の記憶も人々の行動に影響を与えています。「歴史」が人々を駆動します。ただし「歴史の教訓」ではなくて「歴史のつまみ食い」である点に大きな問題を私は感じます。
地中海でのやきもき、ドイツ海軍の戦略の食い違い(あまりに自国艦隊の温存にこだわったため、英海軍の活動を放任してしまい、そのためUボートに頼ることになってしまいました)、東部戦線での思い込みと誤解のすれ違い、ロシアとドイツの戦闘のぐだぐだ(先日読書した『捕虜が働くとき ──第一次世界大戦・総力戦の狭間で』(大津留厚)にもこの部分が書かれていましたっけ)……“遠く”から見ていたらほとんど笑い話ですが、戦線の兵士と戦場となった地域の住民にとっては生死の問題です。本書で扱われるのは(原題の通り)「1914年8月」だけですが、ここに第一次世界大戦のエッセンスがぎっしりと詰まっています。だから500ページものボリュームになってしまったのですが、「クリスマスまでには勝利」の予定がどうしてぐだぐだと何年も戦争が続くことになってしまったのかもよくわかります。わからないのは、どうしてこの大戦の“教訓”があっさり忘れ去られて“次の大戦”が起きてしまったのか、です。
腹を抱えて思いっきり倒れたら、頭を強打しそうですね。
【ただいま読書中】『おしりに口づけを』エベリ・ハウオファ 著、 村上清敏・山本卓 訳、 岩波書店、2006年、2300円(税別)
ティポタという島国。元ヘビー級チャンピオンのオイレイは「ケツの痛み」で倒れます。
いやもう、冒頭から、口臭、いびき、おならががんがん登場し「ガルガンチュワか?」と私はつぶやいてしまいます。オイレイを救おうと現れた魔法医マラマは「二重のおなら(または「先生のおなら」)」が原因だと特定し、薬草を投与しますが、残念ながら半分しか効きません。マラマは信仰治療師のロサナを推薦します。
なんだか妙な国際会議が開催され、近代医学と伝統医療の“和解”がおこなわれます。その“しるし”が、伝統医療の治療者も「ドクター」と呼ばれるようになったこと(ただし発音はイタリア式に「ドットーレ」ですが)。オイレイは名医と名高いドットーレを次々訪れますが、ちっともお尻は良くなりません。それどころかトラブル続出。いや、読者としては笑うべきなのですが、オイレイやその家族、親友などにとっては笑い事ではないのです。
神の予言を受けたセルというドットーレが、オイレイの体内で一種の革命闘争が起きていて、それが症状として体外に出てきている、という説明をおこないます。ところがセルは薬を間違える名人で、なかなか治療がうまくいきません。いやもう、これって何かの比喩なのでしょうか?
ヨガの名人バブは、オイレイに「自分の肛門に接吻することの重要性」を説きます。そして話題はなぜか核兵器廃絶へ。
ここで私は、おや?と思います。近代医学と伝統医療、キリスト教と地元の宗教、先進国と発展途上国、白人とそれ以外の人種、などが、対立構造ではない形でずっと取り上げられてきていたことに、やっと気づいたのです。
本書の主題は「kiss my ass」です。その主題と変奏が最初から最後まで詰まっている小説ですが、トンガの味付けがされていて、いやもう抱腹絶倒。著者は21世紀のラブレーかな? いやいや、これを読まなかったら読書人生の何%かを損しますよ。
一番大切なのは「消費税を8%から10%に上げるか上げないか、上げる場合に軽減税率を導入するかどうか」ではなくて「消費税を10%に上げても大丈夫なくらい、国民の生活と日本の経済活動が安定したかどうかの判断」の方では? 消費税の議論では、本当に大切なことから論点がずらされているように、私には見えます。
【ただいま読書中】『捕虜が働くとき ──第一次世界大戦・総力戦の狭間で』大津留厚 著、 人文書院、2013年、1600円(税別)
第一次世界大戦では「国民戦争」が戦われ、「国家総動員」がおこなわれました。つまり、それまでは「通常の労働者」として扱われていなかった婦女子や老人や未成年者も労働力として扱われるようになったのですが、「敵の捕虜」も同じく「労働者」に組み込まれることになりました。これは1907年の「ハーグ陸戦条約」ですでに許されている行為でした。ハーグ陸戦条約は1929年に改定されてジュネーブ条約になりますが、日本はそれを批准しませんでした。条約では「相互性」が謳われていました(敵の捕虜を「尋常な労働」につけることができる=自分の兵士が捕虜になったら働かされる)。しかし日本兵は捕虜にはならないのですから、この条約は意味がないのです。したがって日本軍の捕虜になった兵士には「尋常な労働」ではなくて「異常な労働」しか道は残されていませんでした。では「捕虜の尋常な労働」とはどんなものか。それを本書では扱います。
第一次世界大戦のヨーロッパでは800万~900万人の捕虜が生じたそうです。ドイツの西部戦線は塹壕戦で膠着していましたが、東部戦線は戦線の移動が活発だったため、こちらでは捕虜が大量に生じました。オーストリア=ハンガリー帝国は緒戦の敗退で大量の兵士を失いましたが、大量の捕虜を抱えることになったロシアにとってもこれは大きな負担でした。最終的には200万人を越えるのですから。つまり「200万の物語」がロシアの捕虜収容所にはあるのです。ロシアは広大で、ヨーロッパロシアからシベリアまで広く捕虜を分散させる余地はありました。この時の経験が第二次世界大戦での日本軍捕虜のシベリア強制労働に役立った、ということでしょうか。
オーストリア=ハンガリーの方も、ロシア兵の捕虜を20万以上抱え込むことになりました。これはオーストリア=ハンガリーにも大きな負担でした。蚤・蝨まみれで赤痢やチフスが蔓延する1万4千人の収容所に医師は二人だけ、なんて話が登場します。収容所を建築する労働力も不足しており、帝国は捕虜に自分たちの収容所を建築させることにします。労働には賃金が支払われ、さらには民間の農場などへの“貸し出し”もおこなわれました。ただ、陸軍省はそれにいい顔をしませんでした。捕虜“活用”には、メリット(労働力の獲得)よりもデメリット(警備上の問題)の方が大きいと考えたのです。
明けて15年、敗走を続けたオーストリア=ハンガリー軍はドイツの支援を受けて反撃に出ます。ロシア軍は自国の領土にまで敗走しますが、この戦闘でオーストリア=ハンガリー軍はロシアに囚われていた自分の捕虜を大量に解放できました。ところが面白いのは、「捕虜の時に労働をした対価をロシアから受け取っていない」としてそれを自国の政府に請求した(元)捕虜がいたことです。「捕虜の労働に対価」は当然の権利だった、ということでしょう。そして、あまりの労働力不足のため、オーストリア=ハンガリーでも捕虜を“活用”することにします。しかし、民家に分宿させる体制では、警備が不十分となり、逃亡が生じます。また、地域住民との「交際」(特に性病の蔓延)が問題となります。
日本にはドイツ軍捕虜が四千数百名いました。はじめは「短期間預かれば良い」と軽く考えていた日本軍部ですが、世界大戦が長期化するにつれて「捕虜の能力(持っている技能)を生かすこと」を考え始めます。日本には6箇所の収容所が設けられましたが、その中で最も「捕虜の雇用」が盛んだったのは名古屋でした。たとえば旭鍍金工場や敷島製粉工場で、彼らの特殊技能は生かされました。兵庫県青野原の収容所では、捕虜が豚を飼いソーセージなどを作っていました。中には、戦後になってもドイツに帰還せずにそのまま店を出した元捕虜もいました。この時には日本には“余裕”があったから、捕虜も日本に残る気になったのでしょう。このとき日本も「グローバル化」をして「国際的な相互性」を採用していればよかったのにね。
「それでは会議を始めさせて頂きます」という口調を私は好みません。だってその言葉を聞かされている私が「会議を始めなさい」と指示したわけではないのですから。ところでこういった「させて頂く」を好んで口にする人は、たとえば「○○を思いつかせて頂いた」なんてことも口走るのでしょうか? 行動の主体は「自分」で良いのでは?
【ただいま読書中】『海の上の少女』シュペルヴィエル 著、 綱島寿秀 訳、 みすず書房、2004年、2400円(税別)
シュペルヴィエルという詩人作家の短編集です。書棚から何の気なしに手に取ってみましたが、最初の短編「海の上の少女」の静謐さと残酷さに、一瞬心が震えました。
海上の町にたったひとりで住んでいる永遠の12歳の少女。「ノアの方舟」でのドタバタ。内気なために料理が見かけと違ったできあがりになってしまう娘(と家族の関係)。すでに亡くなった母親のために、(瓶ではなくて)大きなお椀で牛乳を運ぶ青年。ギリシア神話も著者の手にかかるとひと味違う仕上がりになってしまいます。
訳者は「SFのSが薄い感じの小説」などと評していますが、私は違う捉え方をしています。
「奇妙な味」という小説のジャンルがあります。本書の作品群も奇妙なできあがりではあるのですが、「奇妙な味」のようなブラック名味付けはありません。強いて言うなら「不思議な味」の作品です。詩の言葉で書かれたエッセイや小説、といった趣。なまじっか散文だから私は散文として読もうとしますが、これは“正しい読み方”ではないのかもしれません。では“正しい読み方”は何だ、と問い詰められたら実は困るのですが。どんな感じか、暇と興味がある方は、本書を実際に手にとって下さい。
ある種の政治家は文系の学者を非常に嫌います。そこまで嫌う理由は何だろう、と考えていて、一つ思いつきました。政治家の欺瞞を一番見抜きやすいのは、文系の学者だ、とそのある種の政治家が感じているからではないでしょうか。実際には論理と記憶と倫理が駆使できる人間だったら、欺瞞を見抜くのに理系文系は関係ないと私には感じられるのですが。
【ただいま読書中】『原発と日本の未来 ──原子力は温暖化対策の切り札か』吉岡斉 著、 岩波書店、2011年、500円(税別)
本書の初版は2011年2月8日発行です。その頃原発についてどのように考えていたか、そしてそれが「3・11」によってどのように変わったか、そしてあれから5年経って現在どのように考えているか、きちんと認識できてます? 自分自身を見つめるために、「3・11」より前の本を読むことは、意味があることだと私は考え、本書を手に取りました。
著者は、「核兵器」は「絶対悪」だと考えていますが、「原発」は「絶対悪」とはしません。「絶対悪」と決めつけた瞬間、議論は成立しなくなるからです。
原子力発電に反対する人々はかつて「反原発」論者と呼ばれました。しかし、86年のチェルノブイリ事故以降ドイツで使われるようになった「Ausstieg(バスや電車から降りる、という意味)」が日本語に翻訳され「脱原発」論者が登場します。現実を出発点として批判的に原発を論じる人たちです。
では「現実」はどのようなものか。「原発ルネッサンス論」(化石燃料の枯渇などを理由とした、将来原発がどんどん増加する、という主張)が盛んに唱えられていましたが、実際には原発の数は1980年代からほとんど増えていませんでした。欧米では新たな建設は困難な状況となっています。むしろ減少する可能性の方が大です。ただ、中国やインド、あるいはその他の開発途上国で原発が続々と建設される可能性はあります。著者は「原発ルネッサンス論は希望的観測が先行した政治スローガン」としています。
原発の“弱点”として著者は「原発の夜間の発電を無駄にしないためには揚水発電所を“抱き合わせ”で建設する必要があるが、そのためインフラストラクチャー・コストが高騰する」「原発の建設コストが最近高騰している」「使用済み核燃料の処理コストが不明」「火力発電より高い経営リスク」をあげています。こういった“弱点”を見ると、ふつうの民間企業は原発には手を出しにくくなります。そこで必要なのが、政府の手厚い保護・支援です。ところが最近の電力自由化の流れは、原発に対して逆風となります。
日本の原子力政策には、市場原理や競争原理は働きません。「国家安全保障の基盤意地のために先進的な核技術・各産業を国内に保持するという方針」が“公理”であり、その下で「所轄官庁」「電力業界」「政治家」「地方自治体有力者」(+「メーカー」「原子力関係研究者)がインサイダーとして利害調整をしながら政策を定めています。キーワードは「国策民営」で、民間企業に大量の税金が投入されて「国策」が推進されていくわけです。もっともそこで最も重視されているのは「国の利益」ではなくて「インサイダーの利益」であるようですが。したがって、「有事」の場合には、民間企業は「国策に従っただけ」と責任から逃げ、結局損害賠償には巨額の税金が投入されることになります。
「原発は地球温暖化対策として有効である」という言説に対しても、著者は懐疑的です。その根拠は「原発に熱心な国ほど、温室効果ガス削減の達成度が悪い」という“これまでの実績”です。そう言えば日本も「必死に温室効果ガスを削減しよう」という態度は見せていませんねえ。口でだけ「原発は地球温暖化に……」と言っているだけです。
「3・11」を抜きにして本書を冷静に読むと、「これまでの政府の言説」がどのくらい非論理的で不合理なものだったか、わかるような気がします。おっと「これまでの」と限定をしてはいけませんね。「今も」「これからも」かもしれませんから。
過疎地の議員定数削減に反対する人が「地方の声が国会に届かなくなる」という理由を挙げています。
……現在は「地方の声」が国会に届いている、と?
【ただいま読書中】『樺太(サハリン)が宝の島と呼ばれていたころ ──海を渡った出稼ぎ日本人』野添憲治 著、 社会評論社、2015年、2100円(税別)
戦前の樺太の主要産業は、林業・水産業、のちに石炭・石油・天然ガスなどが加わりました。そこには出稼ぎの人が多く働いていました。本書はそういった人たちからの聞き書き集です。
冬の寒さは厳しくて、魚は外に置いておけば自然に冷凍魚になるので、鋸で解体します。魚はわかりますが、お酒も凍るので、酒屋では「重さ」で売っていたそうです。で、それを砕いて丼に入れて暖かい室内に置けば溶けるからそこで飲む、というやり方です。出稼ぎ労働者は、内地よりは高給でしたが、酒・博打・女で使い果たす人が多かったそうです。
意外だったのは、日本の敗戦で進駐してきたソ連兵が、それほど乱暴ではなかったことです。防備なんかなかったし、どうせ自分のものになるのだから壊してはまずい、という冷静な判断が働いたのかもしれません。
漁業と言えばニシン漁、と私は思いますが、樺太でニシン漁は西海岸で、東海岸ではマス漁だったそうです。ニシンはあまりに大量に獲れるので、肥料にしていたそうです。
本書では林業と漁業がメインで、炭鉱については登場しません。どこの炭鉱も当時の日本では似たようなものだったとも言えますが、戦争中には炭坑夫が徴兵されたために朝鮮人が強制的に送り込まれたために聞き書きができなかったのかもしれません。しかし、日本人が「お前たちは帝国臣民だ」と樺太に送り込んだのに、戦後は「お前たちは朝鮮人であって日本人ではない」とソ連にも日本にも「引き揚げ」を拒否されて残留しなければならなかった人がいる、とはなんとも悲しい話です。
テレビの通販のコマーシャルで「今このコマーシャルをご覧の方だけ、先着100名様限定で特別価格」なんてことを言っていることがあります。それも毎日毎日。
本当に「先着100名様限定」の「特別価格」かどうか、どうやったら消費者の側は確認できます?
【ただいま読書中】『奇跡の薬 ──ペニシリンとフレミング神話』グウィン・マクファーレン 著、 北村二朗 訳、 平凡社、1990年、3689円(税別)
フレミングの伝記はすでにいくつも書かれています。しかしそれらは医学や科学のトレーニングを受けていない筆者によって書かれているため、いくつかの謎が残されてしまっている、と本書の著者は述べます。「ペニシリンは実際にはどのように発見されたのか」「発見から実用化(治療効果の確定)までの12年間のギャップはなぜ?」「治療効果がわかった瞬間フレミングが世界的な“英雄”になったのはなぜ?」。発見には驚くべき偶然の連続があり、フレミングは人体への実用化には興味がなく、見事な宣伝工作で“英雄”に祭り上げられた、というのが著者が最初に立てた仮説です。さて、本書でその仮説は証明されるのでしょうか?
スコットランドで育ったアレクサンダー・フレミングは、1901年に(第一次世界大戦中の数年をのぞく)51年間の研究生活を送ることになるセント・メアリー病院医学校に入学しました。非常に優秀な医学生だったフレミングは、偶然が重なってライトの予防接種部に職を得ます。人類が感染症と闘うための新しい武器である「ワクチン」を手に入れ(反対派の抵抗はありましたが)着々と感染症による死者を減らし始めた時代でした。1910年にはエールリッヒが梅毒スピロヘータを殺すヒ素化合物「606(のちのサルバルサン)」を化学合成します。この薬は、注射で全身に投与することが可能でした。人類は病原体に対して「攻勢」が取れるようになったのです。
第一次世界大戦後、ブドウ球菌の権威となったフレミングは「リゾチーム(唾液、涙、卵白などに含まれる細菌を溶かす物質)」を発見します。実は大発見だったのですがフレミングは世間へのプレゼンテーションに失敗します。そして、1928年9月、フレミングは一部の細菌が溶けた培地を研究員たちに見せて回ります。これまでもリゾチームで同様に溶けた細菌を見せられてきた研究員たちは「カビが生産した新しいリゾチームで溶けたんだろう」と思い、さっさと忘れてしまいました。フレミングは「リゾチームとは違う新しい物質だ」と思っていましたが、またもや世間へのプレゼンテーションに失敗したのです。著者はフレミングの実験ノートを読み、ことの真相を知ろうとします。
当時フレミングは、ブドウ球菌を常温で培養すると変異するかどうかの研究を行っていました。夏休みの間実験台に積み上げていたたくさんの平板培地を捨てるために殺菌処理をしている途中、フレミングは一部が妙な溶けかたをした培地を発見します。人々の興味を惹くことには失敗しましたが、フレミングはその培地を固定・保存します(現物は現在大英博物館に保存されています)。フレミングは「特殊なカビ」が細菌を殺していることを知ります。カビが生産する物質を「ペニシリン」と名付け、フレミングはじっくりと研究を進めます、というか、二人の研究員にほとんど丸投げしてしまいます。論文でも、先行研究(カビや細菌が他の細菌の発育阻止をすることを扱ったパパコスタとゲイトの著書や19世紀のリスターの論文(ペニシリウム属のカビが殺菌剤として使える可能性を論じたもの)など)については一切無視していました。フレミングの「ペニシリン」の重要性は、彼が扱ったのがそれまで報告されていない「非常に珍しく特殊なカビ」である点にありました。フレミングは12年間ほとんどペニシリンの研究を放棄してしまいましたが、研究室で「カビの保存」だけはきちんと行っていました。
フレミングはペニシリンの用途として「局所の消毒剤」を想定していました。人体内ではすぐに活性が失われてしまうので、全身投与は無意味、と判断していたのです。また、ワクチン製造の過程で、目的の細菌を分離するときの「試薬」としてもペニシリンは有用でした。
リゾチームの研究をしていたフロリーは、リゾチーム精製が一段落したので新しい抗菌剤に研究のターゲットを移します。そのリストにペニシリンが含まれていました。しかし、優れた生化学者が同時に優れた細菌学者であるとは言えず、フロリーは非常な苦労をしてペニシリンの生産と分析を行います。フロリーの目標は「ペニシリンが全身投与できる可能性」の追究でした。どの細菌を溶かすか、毒性があるか、などフレミングがすでにおこなった実験を追試したあと、フロリーはフレミングがおこなわなかった実験を1940年に行います。細菌で病気にした実験動物へのペニシリンの投与実験です。ペニシリンを投与されなかったマウスの群れは全滅、投与された群れは死亡ゼロ。「奇跡の薬」が誕生した瞬間でした。
次は「人への投与」です。しかし「人はマウスより3000倍大きい」つまりペニシリンが大量に必要です。しかしダンケルクの撤退やバトル・オブ・ブリテンの時代、イギリスの製薬会社に未知の物質を大量生産する余裕はありません。フロリーは自分でリスクを負い、学校の病理学部を「工場」に改装して臨床試験用のペニシリン生産を始めます。それでも量が足りず、最初の臨床実験を受けた患者では、尿に排泄されたペニシリンが回収され再投与されています。試行錯誤の中で、ペニシリンが感染症に対する(耐性菌の問題はすでに指摘されていますが)「奇跡の薬」であることが証明され、41年にオックスフォード大学は喜んで論文を発表します。そこでフレミングは「先取特権」を主張し始めました。自分はずっと前からペニシリンは全身投与できる薬だと主張してきた、と(多くの伝記作者はフレミングの主張寄りの立場ですが、本書の著者は文献で確認する限りフレミングは「実験室の試薬か局所殺菌剤としか思っていなかった」と考えています)。
アメリカ政府はペニシリンの可能性に期待し、アメリカでペニシリンの大量生産が始まります。ただしそれはアメリカのためのものでした。フロリーは相変わらず手作業でペニシリン生産を続け、その効果を示し続けました。そして「栄誉」は、フレミングに与えられました。押しかけた新聞記者たちをフロリーは追い返したのに対し、財政に常に不安を抱えていたセント・メアリー病院は宣伝に積極的だったのです。かくして「フレミング」は新聞によって「神話」となります。フレミングが特許を取らなかったことさえ(当時のイギリス特許法ではそもそもそれは不可能だったのに)「神話」の一部とされました(アメリカでは特許が取れたので、イギリスはペニシリンの大量生産をするためにはアメリカに特許使用料を支払うことになりました)。そうそう、「チャーチル首相の肺炎がペニシリンで治った」も新聞が作った「神話(嘘っぱち)」であることは、皆さんご存じですか? なお第21章「神話と謎」では、丸々一章を費やして技術的な謎や信じ難い偶然の連鎖が解明されます。さらに「12年間の沈黙」の謎解明でも、著者の医学に関する専門知識が“武器”として活躍しています。フレミングの伝記を書こうとするなら、少なくともフレミングが書いたもの(論文や実験ノート)に目を通すくらいはしておかないと(そしてその内容を理解しないと)、不正確な伝記にしかならないということなのでしょうね。