ネットでのやり取りで、旗色が悪くなると「梯子を一段ずつ上がる」人がいます。相手の批判にきちんとした反論ができないと「たしかにそれはそうだ、だけど」と新しい条件を持ち出して「負け」を認めない作戦です。それなら最初からその条件も公開しておけよ、と無責任なギャラリーは思うし、「一段上がった」瞬間にこちらでは「勝敗判定」はしてしまうのですが。
ところで最近はネット外でもそういった行為が目立ちますね。たとえば「そんなことは言っていない」→「録音? 録音はその時のものとは限らない」→「隠し録音とは卑怯だ」、「書類は存在しない」→「実はありました。でも組織的な隠蔽ではありません」、「改竄などしていない」→「あれは改竄ではない。書き換えだ」、「関与していない」→「金品の授受はない」。
【ただいま読書中】『サロメ』オスカー・ワイルド 著、 平野啓一郎 訳、 光文社(古典新訳文庫)、2012年、724円(税別)
「サロメ」で私が思い出すのは、半裸の妖艶な美女が空中に浮かんでいるヨハネ(ヨカナーン)の首を指さしているモローの絵画「出現」です。私は新約聖書の記述も読んでいたはずですが、この絵一枚で私には「淫乱美女が義理の父のヘロデ王をたぶらかして預言者を殺させた」というイメージが定着してしまいました。「百聞は一見にしかず」と言いますが「百読は一見にしかず」も成立するのかもしれません。ビジュアル効果は偉大です。
さて、オスカー・ワイルドの有名な「サロメ」です。
220ページの薄めの文庫本ですが、目次を見て私は驚きます。本文はわずかに80ページまで。あとは、注、訳者あとがきや解説がどさどさと本の半分以上を占めているではありませんか。
『翻訳家じゃなくてカレー屋になるはずだった』(金原瑞人)に「古典の翻訳自体が“古文の日本語"であることの問題点」が指摘されていましたが、本書の解説でもそれと同様のことが指摘され、だから「新訳」が必要である、とされています。たしかにそうだな、と私は納得です。
ただ,解説を読んでもその本を読んだことにはならないから、最初に戻りましょう。
「若いシリア人」(最近雇われたばかりの警護隊の隊長)はサロメ姫に見とれています。「なんて美しいんだ!」「あんなに蒼褪めているところを初めて見た。まるで、銀の鏡に映った、白い薔薇のようだ」「あの白い小さな手の、巣箱に向かって羽ばたく鳩のような動き。むしろ白い蝶かな。うん、そうだ、あの手は白い蝶だ」「姫はまるで、迷子の鳩みたいだ。……風に靡く水仙のようにも見える。……まるで銀の花だ」
あれれ? サロメは淫奔妖艶な美女ではなさそうです。むしろ、嫋やかで清純無垢な乙女?
ところが、兵士たちの会話で、サロメの母親へロディア王妃の最初の夫(ヘロデ王の兄)は12年牢獄に幽閉された末、ヘロデの命で絞め殺された、なんて物騒なこともわかり、サロメ自身が安穏と平和裡に育ったわけではないことも私たちは知らされます。
宴から逃げ出して庭にふらりとやって来たサロメは、牢獄でわめき続けるヨカナーンの声に惹かれます。しかしヨカナーンはサロメを「バビロンの娘」「ソドムの娘」と呼んで拒絶します。ヨカナーンにとって、サロメの母親こそが淫奔な“諸悪の根源"で、その娘は砂漠へでも行って「人の子(=イエス・キリスト)」を探すべきなのです。
サロメは自分を激しく拒絶するヨカナーンに惹かれ、惹かれてからその理由を探し始めます。肌が好き、いや違う、髪が好き、いや違う、唇が好き、うん、これで決まり。さあ、キスをしなくちゃ。
サロメに恋い焦がれていた「若いシリア人」は絶望してサロメの目の前で自殺。しかしサロメはそれを気にも留めません。文字通り彼の存在など眼中にないのです。
ヘロデ王は踊りの褒賞として「なんでも望むが良い」とサロメに言い、誓いを立てます。「銀の大皿に載せたヨカナーンの首」をサロメは求めます。目的は、その唇にキスすること。ヘロデはなんとかサロメを翻意させようと努力しますが……
もしかしたらサロメは、血まみれの出自を持つ自分を否定しながら生きていたのかもしれません。しかしそんな自分に対して周囲の男たちはあからさまに欲望の視線(つまり、絶対的な肯定)を向けてきます。本書でも最初から「見つめすぎる」「見つめるな」という台詞が何回も繰り返されています。しかし偶然出あったヨカナーンは欲望の視線ではなくて拒絶をサロメに与えました。つまり「サロメに対する否定」がサロメとヨカナーンで共有されてしまったわけ。これはつまり「否定」によってサロメは「肯定」されてしまったわけで、それがサロメをさらに次の衝動的で凶暴な行動に駆り立てた、が私の仮説です。すると本書は、残酷さに保証されていた純潔を穢された少女の復讐譚、ということに? いや、復讐に見えるけれど実は少女にとっては肯定的な行為だった、ということに?
透明なプラスチック袋のことを私たちはけっこう平気で「ビニール袋」と呼びますが、環境ホルモンがあれだけ問題にされた後、いまどき本物のポリ塩化ビニル製の袋って、どのくらい売られているのでしょう?
【ただいま読書中】『未開封の包装史 ──青果包装100年の歩み』林健男 著、 ダイヤモンド社、2017年、1500円(税別)
本書のカバーは洒落ています。透明プラスチックで、まるで本当に本書を「包装」しているかのような雰囲気を出しています。著者が代表取締役会長をつとめる株式会社精工は、100年以上の歴史を持つ農産物包装会社だそうです。世の中にはいろんな会社があるものだ、と私は自分の無知をつくづく感じます。
明治44年に創業された林健印刷所は、自前の工場を持たない印刷関係の取り次ぎ問屋のような商店でした。第二次世界大戦後社長を継いだ著者の父親は農産物の包装に進出します。当時の農産物は木箱で出荷されるのが普通でした。そういえば我が家にも空のミカン箱やリンゴ箱があって、けっこう重宝に使われていましたっけ。しかし木材価格の高騰で、木箱は、発泡スチロールや段ボール、プラスチックなどに置き換えられていきます。
農産物包装の目的は、商品保護・鮮度保持・PR・環境保護などです。カット野菜が売り場で多く扱われるようになったので、ジッパー付きのプラスチック袋で包装したら残った分をリパックできて消費者にはとても便利ですが、主にコストのためにまだ広く普及はしていません。しかしこれからはどんどん普及するかもしれません(するとジップロックが売れなくなる?)。
著者が社長になってから、精工は工場を増やしグラビア印刷を内製化するなど、どんどん事業を拡張しました。ただ「選択と集中」は忘れていません。個々の作物別に最適の包装方法や容器があるので、それを次々開発しているだけのようです。しかし、オクラの袋には微細な孔があいているとか、マイタクの包装は二重になっているとか、言われないと(言われても)わかりません。
包装のこれからの課題は、再生可能な(あるいは環境に還る)包装、扱いやすいトップシール包装などだそうです。そして、最後の最後に、サンリオとの長い提携の話が登場します。でもハローキティは「農産物」じゃないですよねえ。
いつ死語になるかな、と楽しみにしている単語です。ついでですが、私は就職してから「土日が休み」という労働契約が結べたことがありません。つまり、これまでずっと「土曜は出勤日」。たぶんこれからもずっと「土曜は出勤日」。だから「プレミアムフライデー」と言われても「何それ?」です。有給がフルに消化できる方が、よほど嬉しいなあ(これまでの人生で有給もフルに消化できたことがありませんので)。
【ただいま読書中】『アジサイはなぜ葉にアルミ毒をためるのか ──樹木19種の個性と生き残り戦略』渡辺一夫 著、 築地書館、2017年、1800円(税別)
ガクアジサイは、細胞の液胞に色素のアントシアニンが含まれていますが、赤色のアントシアニンがあるところにアルミニウムが吸収されると色素は青色に変わります。このメカニズムを使って、アジサイの花色の青色を強くするためにアルミニウムを強化した土壌改良材をホームセンターで売っているそうです。金属を体内にため込む植物を「金属集積植物」と言いますが、チャノキ(茶の木)もアルミニウムを集積するそうです。アルミニウムは植物にも動物にも毒ですが、茶程度では健康障害は起きないそうです(ただしアジサイの葉は食べない方が良いそうです)。ヤブムラサキやユーカリは金を、コシアブラはマンガンを集積するので、その葉を分析したら地下の鉱脈がわかるかもしれません。イネはカドミウムを集積するのでイタイイタイ病が起きてしまいました。
先駆種という言葉が紹介されるのは、ドロノキのところ。火山噴火や泥流などで森林が破壊された後、真っ先に生えてくるタイプの植物で、北海道ではドロノキ・シラカバ・ダケカンバ・アカエゾマツなどです。森林破壊(擾乱)は、普段は陰に隠れている先駆種に繁栄のチャンスを与える点で種の多様性に貢献しています。
モチノキ(鳥もちの材料になる木)では、実に産卵するコバチの活動を妨害するために、未受精の種子を大量に生産して“本命"の実を守ろうとします。昆虫相手ではなくて、気候変動と戦う樹木もいます。樹木は移動はできませんが、定住生活をしながらでも様々な手段で種を保存しようとしています。本書の最後には、樹木と昆虫の両方に寄生する能力を持つことによって生き延びようとする微生物(ファイトプラズマ)が紹介されます。自然界は、したたかで繊細なバランスの上に成り立っているもののようです。
「医療費を抑制するべきだ」と強く主張する人は、病気になっても病院に行かない覚悟をしているのかな? それとも行くべきではないのは、他人だけで、自分は例外?
【ただいま読書中】『ストーカーの心理 ──治療と問題の解決に向けて』P・E・ミューレン、M・パテ、R・パーセル 著、 安岡真 訳、 サイエンス社、2003年、2600円(税別)
1980年代に「ストーカー」「ストーキング」はまだ一般的な言葉ではありませんでした。「心理的レイプ」「度を超えたつきまとい」などと呼ばれ被害者は苦悩していましたが「身から出た錆」と突き放されることも稀ではありませんでした。1989年女優レベッカ・シェーファーが“ファン"に殺害された事件が契機となり「スター・ストーカー」という言葉が有名になります。92年ころから「ストーキング」は社会問題だと認識されるようになってことばの再定義が行われ「元恋人の男性による暴力行為」で、誰が被害者となってもおかしくないとされました。これは「最近のコミュニティーはもはや安全ではない」という人々の実感に合致した動きだったのでしょう(家庭内暴力や小児虐待が問題視されるようになったのも同時期です)。しかし問題が一般化されるにつれ、「ストーキングの定義」が揺らぎます。
ストーキング被害に遭いやすい人は「かつてのパートナー」「隣人、友人(被害者が男性の場合、このパターンが多いそうです)」「医師、弁護士、教師、心理療法士、カウンセラー」「職場の同僚、上司、部下」「有名人」そして「赤の他人」。いくつかの実例が本書にありますが、読んでいると「ストーカーの被害者は身から出た錆」と主張できる人はたぶん人生も社会もきちんとは知らないんだろうな、と思えます。ちょっと珍しい例としてストーカー自身がストーキングの標的になってしまったことが紹介されます。そして、被害者のほとんどは、一つ以上PTSDの症状を経験します。
ストーカーの類型については先行研究がありますが、本書にはミューレンによる「3つの軸(「動機と状況」「被害者との関係」「精神病歴」)」による分類が紹介されています。「第一軸」では「拒絶型」「求愛型」「憎悪型」「略奪型」「無資格型」が提唱されます。それぞれに動機が違うから、それぞれの類型で行動には差があります。また、精神病グループは望まない贈り物をよこす傾向が強く非精神病グループは尾行や監視や暴力に走る例が多くなっています(暴力は精神病グループの倍の率です)。
同性に対するストーキングは、同性愛に対する社会的嫌悪が障害となって被害者は二重に傷つくことが多いのが問題です(実際には同性愛の色情狂ではない場合も多いのですが)。また、同性だろうと異性だろうと、偽のストーキング被害者という、扱いに注意が必要な事例もあります。
本書にはストーカー(とその被害者)の具体例が数多く紹介されています。それがまた、人によって様々で、あまりに多様なため「分類」にどのくらい意味があるのだろうか、と私は思ってしまいました。もちろん分類しなければそれぞれへの対策が立てにくいのですが、病気の診断とは違ってストーカーの場合には「検査データ」「レントゲン写真」などのエビデンスが得にくいから、「これが正しい分類(診断)である」という保証が得にくいと感じられたのです。
そして「対策」ですが……これも難しそうです。殺人などに至る前の早期発見が必要ですが、あまりに拙速だと、本当はストーカーではないものまで処罰してしまうことになりそうです。また、精神病者のストーカーには治療があることもありますが、非精神病者の場合には治療が提供しにくい。これもどうしたものでしょう……というか、日本ではまだストーカーは「犯罪を犯してからその犯罪を罰する」だけの扱いですね。これにはもうちょっと医学や心理学を絡ませた方が良いのではないか、と思えます。
「潰してこい」と命令(あるいは心理操作)されて選手が試合に出される。
「会見をしてこい」と命令されて学長がいやいや記者会見を開く。
命令したのは、誰?
【ただいま読書中】『タンゴ・イン・ザ・ダーク』サクラ・ヒロ 著、 筑摩書房、2017年、1500円(税別)
「顔の火傷を顔を見られたくない」という理由で、鍵をかけた地下室(キッチン、トイレ付き)に閉じこもってしまった妻K。「絶対に顔を見ないでくれ」ということばに、「鶴の恩返し」か?と私は呟きます。地方の役所のこども課職員の夫ハジメは激務に追われていることもあり、「そのうち出てくるだろう」と思っていましたが、早くも1箇月。さすがに家庭内別居が長すぎる、と思ったところで妻の顔が思い出せないことに愕然とします。
しかし、「火傷が治らない」わりには、ハジメが出勤中にKが用意する夕食は常に天ぷら。熱い油が飛び散る危険性は問題ないのかな。
夫婦の共通の趣味は、ビアソラ(タンゴとクラシックを融合させた人)の曲の演奏。しかし、かつて二人で演奏していたときの、情熱と官能性はどこに行ったのか、といぶかるうちに、ハジメは「世界の現実感」をどんどん失っていきます。
「ラスト・タンゴ・イン・パリ」だったらここで強姦シーンかな、なんてことも思いますが、話はもっと幻想的になっていきます。ハジメの記憶は肉体化し、あるいは自身の肉体を苛み、幻想なのか妄想なのか、あるいは超常的な世界に本当に住んでいるのか、地下室に閉じ籠ったのはKなのか、それともまさかハジメ自身なのか……ここまで“壊れて"しまったら、もう何でもありの世界です。そして物語と音楽は、唐突に終わります。たぶん、これで終わったはずです。
本書は、音楽(それもタンゴ)の一曲を文字で表現しようとして、それに半ばまでは成功した作品だと私には感じられました。「半ばまで」は褒め言葉です。だって、こういった試みはみじめな失敗に終わる場合の方が圧倒的でしょうから。
「働き方改革法案」というものが国会に出されていますが、これって素直に読んだら「こき使われ方(こき使い方)法案」になりません? 使う側から見たら「高プロ」には「月の残業時間の過労死ライン」が消えるのでとっても便利にこき使うことができそうです。最近の過労死裁判ではものすごく機械的に「残業時間」が問題にされるから、使う側は「やりにくくなったなあ」と思っていたでしょうから。
【ただいま読書中】『不道徳な見えざる手』ジョージ・A・アカロフ、ロバート・J・シラー 著、 山形浩生 訳、 東洋経済新報社、2017年、2000円(税別)
この世は「カモ(Phool)」と「釣り(phish)」に満ちていて、人々は上手く釣られて自分に不利な未来を選んでしまう、と著者らは主張します。彼らは「自由市場システムの崇拝者」ですが、だからこそこのシステム自体が内包する「ごまかし」や「詐欺」について、きちんと知らせたいのだそうです。
「カモ釣り」による「まずい意思決定」の最古の例は、アダムとイブですが、経済学の根本にあるのは「市場均衡」の概念です。ここで登場するのは「シナモンロール」「トレーニングジム」「肩の上のサル」。
アダム・スミスは『国富論』で「各人が自分の利益を追求すること」が「見えざる手」として自由市場を良いものにする、と述べました。現代の経済学では競争的な自由市場均衡は「パレート均衡」で説明されます。しかし本書では「各人が自分の利益を追求する」に大きな疑問符が投げかけられます。「釣り」によって「カモ」は自分の利益ではなくて他人の利益のためにせっせとお金を貢ぐことになりのですから。
カモ釣りがよく観察されるのは「広告」「自動車、住宅、クレジットカード」「政治」「食品、医薬品」の分野です。たとえば「物語としての広告」の洗練された手法で「私たちのニーズ」ではなくて「彼らのニーズ」が満たされたとき、私たちは「カモ」として釣られたことになります。それぞれの分野で代表的な「カモ釣り」の事例が紹介されますが、読んでいてひやりとします。どれも“身に覚え"がありますので。
「S&L危機」「ジャンクボンド」「サブプライムローン」などになると、話がややこしくて私はついていくのが大変です。まあそれはそうでしょう。当時は経済のプロでさえ騙された(釣られた)のですから。ただ基本は常に同じです。「不道徳な手段を駆使して、とんでもない大金を稼ぐ少数の人がいる(=財産を失う多数の人がいる)」。
自由市場はたしかに「均衡」が重要です。しかし現在の資本主義では「釣りの均衡」があまりに大きくなってしまっているのが大問題だ、と著者らは主張します。
そこに登場するのが「英雄たち」です。私たちが釣られる大きな要因は「情報(の格差)」と「心理的要因」です。「英雄たち」は「情報」について働きかけ、人々の損害を少しでも小さくしようと活動しています。たとえば「品質基準(をきちんと管理する人々)」。労働環境などにまで目を配る消費者団体の市民活動家。ビジネス界や政府にも「英雄」はいます。もちろんそういった「規制」に対するアンチの運動も盛んなのですが。
そして、ほとんど解決の手がないように見える「心理釣り」。これは私たちの内部に「釣られたい」という本能(本書では「肩に乗ったサル」)があるため、容易に釣られてしまう、という困った現象です。さてどうしたら?
実は本書には明快な「回答」はありません。ただ「ヒーローたち」が増えれば、「自由」と「平等」と「友愛」がすべて成立するかもしれない、とは思えました。理想はとっても遠いけれども。
はじめ:言ってない。指示を取り違えた選手がやった
なかぱっぱ:コーチが言った。取り違えた選手がやった。
ぐつぐつ:自分は可哀想な病人だ。
【ただいま読書中】『日本まんじゅう紀行』弟子吉治郎 著、 青弓社、2017年、1800円(税別)
甘党、特にお饅頭好きの人は、読まない方が良い本です。私は読んで後悔しています。日本中あちこちに、私がまだ食べたことがない美味しいお饅頭がこんなにあるぞ、と知ってしまったではないですか。こうなったら、出張などでたまたまそこに行ったときには買って食べてみようかな、いや、いっそお饅頭を食べ歩くツアーでもしてみるか、なんてことを思ってしまったのです。
これは危険な本です。本当に危険です。さっさと図書館に返して「読まなかったこと」にしようと思います。おっとその前に、せめて「絶品まんじゅう」とか「地域限定まんじゅう」くらいはメモを残しておこうかな。
私はフェイスブックでは活動していないので、「いいね!」がたくさん集まる嬉しさが実感できませんが、「いいね!」をクリックするとき皆さん大喜びしながらクリックしています? クリックする喜びとクリックされる喜びとは、ちゃんと釣り合っています?
【ただいま読書中】『論理哲学論考』ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタイン 著、 丘沢静也 訳、 光文社(古典新訳文庫)、2014年、880円(税別)
ルートヴィヒ・ヴィトゲンシュタインは一代で鉄鋼王と呼ばれるようになった父の、9番目の末子として誕生。長兄・次兄・三兄はそれぞれ自殺。4番目の兄パウルはピアニストとして有名になりましたが第一次世界大戦で右腕を失います(ラヴェルの「左手のためのピアノ協奏曲」はパウルの依頼で作曲されました)。ルートヴィヒは機械工学に天分を示しましたが、数学にも興味を持ち、ケンブリッジ大学のラッセルの下で数学と論理学にその才能を花開かせます。第一次世界大戦に志願兵として従軍、背嚢に忍ばせたノートにせっせと書いた「草稿」がのちに「論理哲学論考」へと発展しました。
巻頭、「世界は、そうであることのすべてである」と著者は一行目からかましてくれます。ついで「世界は、事実の総体である。事物の総体ではない」「世界は、事実によって規定されている」「論理空間のなかにある事実が、世界である」「世界を分解すると、複数の事実になる」と怒濤の波状攻撃。私は笑ってしまいます。スタイルの独創性に惹かれますし、内容については、これが言語学だったら「文の意味は、文字や単語ではなくて、文脈によって決定される」と言っているのにほぼ等しい主張かな、と思ったものですから。
凡庸な哲学者だったら、この最初の「事実の定義」「事物の定義」だけで本を一冊書いてしまうでしょうね。しかしヴィトゲンシュタインは数学的・論理的に定義や規定を駆使することで、さっさと話を進めていきます。本書の構成も面白い。短い断章がつぎつぎ積み重ねられ、それがまるでハイパーテキストのようにそれぞれの関連を明示しながら著者の思想を立体的に表現しています。たぶん著者の頭の中は本当にハイパーテキスト空間になっているのではないかな。しかし、「関数」や「演算」で「真理」を哲学的に論じるとは、なかなか斬新な手法です。20世紀初めには衝撃的だったことでしょう。私のような理系と文系のハイブリッド人間から見たら、とっても心地よい世界なんですが。
そして最後の最後に、有名な「語ることができないことについては、沈黙するしかない」。「命題や関数、事実や考え(これらも結局は「語ることができる(=真偽を判定できる)命題)」以外のもの、たとえば「価値」については、明確に真偽を論じることはできないのだから、「沈黙」するしかない、というのです。
ここで私が連想するのは、クルト・ゲーデルの不完全性定理です。数学には数学だけでは解決不能な領域の問題がある、と私はこれを理解していますが、ヴィトゲンシュタインはそれと同様のことを哲学の領域でも指摘したのではないか、と私は解釈しました。
もう一つ連想したのは「宇宙の果て」です。ビッグバン仮説に従えば、この宇宙には「果て」があります。その「外側」については、私たちが知る物理法則は通用しません。つまり私たちは宇宙の「外」については沈黙するしかない。
ここで「沈黙後の可能性」は二つありそうです。一つは「語れるように新しい技法を開発する努力をする」、もう一つは「今の技法で語れるものについてもっと精緻に研究をしてその限界そのものを明瞭にする」。たとえ沈黙しかないとしても、人がするべきことはまだまだありそうです。
日大アメフト部の“例の選手"が記者会見をしました。警察に被害届を出され、このままだと監督に「選手個人の問題」と刑事事件の全責任を押しつけられることにやっと気づいた、ということなのでしょう。だけどこの後、監督、というか元監督で大学のナンバーツーの常務理事(次期理事長?)から、とんでもないいじめを受けることになるでしょうね。この選手、加害者だけど、同時に被害者? 本当に罰せられるべき首謀者は、誰?
【ただいま読書中】『進撃の巨人(15)(16)(17)』諫山創 作、講談社、2014年・2015年、440円(税別)
13巻から、「人間同士の戦い」がずっと続いています。ただし憲兵隊はほとんど全滅したらしく、こんどは中央憲兵隊が表に出てきています。その主要武器は散弾銃。どう見ても「対巨人」ではなくて「対人」部隊です。巨人から人類を守るために志願したはずなのに、巨人ではなくて人間を殺すために訓練をしている、って、憲兵たちはどうやって自分を納得させているんでしょうねえ。
「巨人の秘密」を抱えた一家は、それによって巨人も人間もコントロールできるはずなのに、敢えて何もせずに「巨人が人を食う世界」をそのまま放置し続けています。一体その「秘密」の正体は?
巨人になる力を持っているエレンは、ずっと人の姿で鎖につながれたままです。だけど16巻の最後、ついに巨人が登場。ある人が泣きながら薬物を摂取することで、これまでにない大きさの巨人となるのです。それに対して仲間たちに救われたエレンもまた、泣きながら巨人になります。巨人と巨人が(巨人にとっては)狭い地下空間で対決です。私はガメラとイリスの京都駅ビル内での対決を思い出したりしますが、「巨人」がさらにどんどん巨大化したりさらに強力になるのを見ると、「対決もの」にありがちな「インフレの法則」が出てきたのかな、とちょっと不安も感じます。
そして17巻では久しぶりに対「巨人」戦。そしてしばらくのどかな間奏曲。人類は新しい政治体制の下で、力を蓄えます。そしてエレンを待ち受ける次の敵は……
連載が続くうちに主人公の顔が最初のものとは違ってくる、はよくある話ですが、本書でもエレンとミカサの顔が少しずつ美形に変わってきています。もしかしたら成長しているのかもしれませんが、作者の画力が向上しているのかもしれません。骨格や筋肉についての描写が厚みを増していますし、特に17巻では「死相」がちゃんとわかるように描かれていたのには感心しました。
本当に自由な情報空間が理想なのだったら、コンピューターウイルスに対するワクチンソフトも禁止になるのでしょうか。だって「ウイルス配布の自由」を侵害するソフトでしょ?
【ただいま読書中】『空軍武官ウェンネルストローム/暗号名“鷲”』トマス・ホワイトサイド 著、 高橋泰邦 訳、 早川書房、1967年、320円
1963年スウェーデンで重大なスパイ事件が発覚しました。沿岸防衛砲兵隊の大尉の息子で自身は大佐となったウェンネルストロームがソ連に情報を流していたのです。
第二次世界大戦勃発時、大尉だったウェンネルストロームは空軍武官としてモスクワに派遣されました。ドイツ語とロシア語ができることを“武器"に、モスクワで、そして独ソ開戦後はストックホルムで、ウェンネルストロームは両国の武官たちとの関係を深めます。そして、ソ連に貴重な情報を売る代わりにソ連の情報を得て、それをこんどはアメリカに売る、というきわどい「スパイ」になります。中立国の武官として、ソ連の中を動きやすい立場を生かし、「スウェーデンの公務」としてソ連内部を動き覗き、アメリカが欲しがっている情報(たとえば戦略空軍基地の位置)を得ていきます。その見返りは、アメリカの対ソ連の軍事情報。それをウェンネルストロームはソ連に売ります。アメリカもソ連も、もちろんスウェーデンも、ウェンネルストロームの“優秀さ"に大満足です。ウェンネルストロームがアメリカ大使館内に強固な人的ネットワークを作ると、それはそのままNATO諸国の大使館にもつながっていきました。ソ連情報部はウェンネルストロームの優秀さを讃えるために、第一級諜報員の印であるコードネーム「鷲」を与え、さらに少将待遇とします。私から見たら、自尊心をくすぐるだけの“お安い"厚遇にしか見えないのですが、「一級の諜報員」になりたかったウェンネルストロームにとってはとても嬉しい待遇だったようです。
ただし、本書に紹介される「情報」は「検閲済み」のものばかりです。後日ウェンネルストロームが逮捕され供述した記録から公開されたものだけに著者は限定していますから。おそらく「国益」が大きく絡んでいるのでしょう。
ウェンネルストロームは、列強を手玉に取ることに熱中し始めます。もう「祖国」は心の中では軽くなっています。さらに彼の「忠誠心」はソ連の方に段々傾いていきました。朝鮮戦争が終盤に近づいてきた頃、ウェンネルストロームはワシントン駐在武官を命じられます。重要な諜報員が「潜入」ではなくて「正規の入国」をできるのですから、ソ連も喜びます。ウェンネルストロームはアメリカ各地の軍用機生産工場を訪問し詳しい情報を求めます。これはスウェーデンが軍用機を購入するためですから企業は大喜びでいろいろ教えますが、その情報こそソ連が欲しくてたまらないものでした。そのため、ウェンネルストロームは、スウェーデンが購入する予定はなくてもソ連が情報を欲しがっている装置があれば、それにも興味を惹かれるようなふりをして情報を得ることもしていました。
「重要な軍事情報」は「武器」だけではなくて「人事」「組織」「基地の位置」なども含みます。ウェンネルストロームはそれらをせっせとソ連に伝え続けました。
冷戦の頃、世界は破滅の瀬戸際にある、というひやりとする認識がありました。私自身、そういった世界観には馴染みがあります。で、そういった破滅を避けるためにはどうしたらよいか、で様々な人が様々な活動をしていました。「スパイ」もまたその中の一員だったことでしょう。
大成功をし続ける大物スパイですが、スウェーデン保安警察はひそかにウェンネルストロームを監視していました。彼の人権と秘密を守りながらの粘り強い監視は、賞賛に値するものです。
本書で私が感心したのは、「悪人」が登場しないことです。たとえスパイであってもとっても“真面目"に仕事をしています。「地獄への道は善意で舗装されている」なんて言葉がありますが、この世の悲劇もまた「善意」で構成されているのかもしれない、なんて思いながら読んでいると、ソ連の組織の狡猾さと冷淡さについての著者の推測が登場して「おや、こんな所にワルモノが」と私は呟いてしまいました。
そうそう「スパイの価値(どのくらい大物か)」は「その活動で祖国にどのくらいの損害が生じたか」で計測可能だそうです。もう少し「良い価値」を生み出せたら良いんですけどね。