【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

賛同者

2009-08-31 18:44:44 | Weblog
 「自分に賛成する人が多い」ことを誇る人が時々いますが、その賛同者の質(彼らが優れた人たちかどうか)がまずは問題にはなりません? だってアホを大量に口先だけでたぶらかしているのなら、それは詐欺師と同類だもの。

【ただいま読書中】
崖の国物語3 神聖都市の夜明け』ポール・スチュワート 著、 クリス・リデル 絵、唐沢則幸 訳、 ポプラ社、2002年、1600円(税別)

 遭難した父の消息を求めて、若き船長トウィッグはエッジダンサー号を飛ばします。第1巻第2巻の感想で書き忘れましたかもしれませんが、この世界の飛空船は帆船で、船体中央の浮遊石で浮力を得、帆と前後左右に垂らした重りのバランスで操舵します。浮遊石は崖の国の突先に位置する「岩の園」で育ち、神聖都市の学者によって“収穫”されます。まことに不思議な(でも整合性は取れている)物理法則に支配された世界です。
 トウィッグは大嵐の中心に突入しますが、そこは狂気の嵐(マインド・ストーム)でした。やっと見つけた父は重大な情報をトウィッグに伝えると姿を(文字通り)消し、嵐の中でトウィッグは記憶と船と乗組員を失ってしまいます。流れ星となって地上に落下したトウィッグは闇博士に救われ、自分の記憶と乗組員を取り戻して父に与えられた使命を果たすために、神聖都市から旅立ちます。
 やっと見つけ出した乗組員(の一部)と、トウィッグは深森の奥深くの奴隷市場に潜入しますが、そこで大混乱。殺し屋に追われて奴隷市場を脱出したトウィッグたちは、深森をさ迷いつづけ、ついに「道」に出ます。第1巻でトウィッグが外れてしまった、ウッドトロルの道です。いや、深森に舞台が移ってからトウィッグの育った場所だよなあ、と思っていましたが、まさかそう来ましたか。
 その道はトウィッグを導きます。深森の最奥部、暗黒の地の向こう側、すべての命が始まるところ、大河の源へ。大河が干上がり、大嵐が襲ってくるまで、もう時間がありません。神聖都市に急を知らせる必要があります。でも、どうやって?

 本書では、解説でも述べられているとおり、「魔法」は登場しません。この世界の設定そのものが魔術的であるため、十分私はファンタジーとして満足してしまいますが、もしかしたらこの世界の原子とか分子自体に「魔法」がかけられていて、その結果として物理法則が我々の世界とは異なるものになっているのかもしれません。分析していたら原子のかわりに魔子が見つかったりして。
 私がちょっと気になるのは、様々な異種族が登場するのに、結局皆価値観を同じくしていることです。スターウォーズでも様々な異星人が登場しましたが、結局彼らはすべて価値観の点では人類のバリエーションでしかありませんでした。それと同様にどんな異種族もトウィッグと「話が通じ」ます。(あるいは話が通じない場合でもそれはなぜかが読者には理解できます) せっかくの「異世界」なのだから、と思いますが、ソラリスの「海」のようなものがここに登場したらそれはかえってストーリーの邪魔になってしまいますね。ここで進行するのは「異なる価値観との交流」ではなくて「異なる世界での冒険」なのですから、「異種族はすべて(形態はともかく中身は)人類の亜種」としておくのは著者の思いきりというか割り切りというか権利でしょう。
 一応「トウィッグの物語」は本書で終了です。しかし「崖の国物語」は図書館には9巻まで並んでいます。これは行くところまで行かなきゃ、ダメかな。



ばか

2009-08-30 17:32:44 | Weblog
 自分より馬鹿な人間を露骨に嫌う人がいますが、たとえば「自分より馬鹿」を全員殺すことが許されたら、「自分」が生き残りの中で「一番馬鹿」になっちゃいます。

【ただいま読書中】
物しか書けなかった物書き』ロバート・トゥーイ 著、 法月綸太郎 訳、 和田誠 装丁、河出書房新社、2007年、2400円(税別)

 エラリイ・クイーンに言わせると、「トゥーイ氏の作品」は「常軌を逸した、オフビートな、しかし、十分楽しんでいただける」ものだそうです。本書は短編集ですがエラリイ・クイーンの評がそのままあてはまる作品群です。それぞれを無理に分類すれば、これはミステリ・これはホラー・これはSFかな、と落ち着き先を見つけることはできるでしょうが、どの作品をどの分野に分類してもどれも落ち着きが悪そうな雰囲気を湛えた物ばかりです。
 表題作「物しか書けなかった物書き」“The Man Who Could Only Write Things”は、妻を殺して地下室に埋める夫、というよくあるストーリーです。ところがこの男、物書きなのですが、文字通り「物」しか書けないのです。タイプライターでかちゃかちゃやっていると、執筆部屋にあーら不思議、子馬とか腕輪とかコートとか自動車とかが出現するのです。発想がぶっ飛んでいます。で、最後の一文で私は脱力します。大いに脱力します。快作でかつ怪作です。
 しかしその前に収められている「そこは空気も澄んで」の方が私は好きです。「ファミリー」のボスに目をかけられることになったベンは、出世の糸口として妙な命令を受けます。英語で「腹芸」を何と言うのか知りませんが、言外のニュアンスを駆使した上での殺人指令です。何も明確に語られません。しかしそれをきちんと受け止め実行することがこれからの出世に重要です。その場に立ち会っているベンの叔父はわけがわからず道化を演じます。ベンは混乱し悩みます。彼は命令を理解したのですが、それを実行したくないのです。最後の一文で、私はベンの苦悩を共有してしまいます。
 「支払期日が過ぎて」……家のローンを滞納しているため、弁護士が取り立てに押しかけた家。先週「必ず小切手を送る」と約束した妻は不在。夫は飲んだくれて金についても妻の行方についてもわけの分からないことだけを言います。しかし、弁護士があたりを見て掘り返したばかりの庭の一部に目を留めた瞬間、夫はポケットから大あわてで金を取り出します。家を辞去した弁護士はその足で警察に行きます。状況は明らかに経済的に行き詰まった夫が妻を殺して埋めたようです。しかし…………これまた最後の一文で私は心をぶん殴られます。「ひでえ」とつぶやきながら。
 ところがこの夫、次の作品「家の中の馬」で再登場します。こんどは自分に対して1日のうちに6枚も交通違反の切符を切ってくれた警察を相手に復讐のために真っ向勝負(ただし、いたずらで)。いや、大した根性だと思いますが、この人の奥さんがそれにびくともしないのはなんとも、こちらの方にびっくりです。
 「いやしい街を……」……主人公は小説の主人公です。当たり前? だけど、「小説世界」を生きていることを知っていて、自分が小説家の頭の中に住む想像の産物であることを知っている探偵ですよ。小説家と対話し、小説家が酒浸りであることや大した文才がないことも理解している「人」です。メタ小説です。ところが小説家には彼なりの思惑がありました。さて、そこで生じるとんでもない「ハードボイルド」というか「メタハードボイルド」の大騒ぎの終着点は……
 「生ける屍」の話も二つありますが、どちらも静かにぶっ飛んでいます。なんとエラリイ・クイーン御大が(電話でですが)登場する作品もあります。もう、遊びすぎです。

 いやもう、奇妙奇天烈奇想が満開の作品群です。もしも人生に退屈していたら本書はそのリフレッシュに大いに役に立つことでしょう。退屈していなくても人生のスパイスとして作用してくれます。どちらにしても、オススメ。



雌伏のススメ

2009-08-29 18:06:15 | Weblog
 最近家の近くを流す街宣車、じゃなくて、選挙カー、自民党候補のは悲哀感が漂った声調です。劣勢だと自覚しているのでしょう。
 だけど、こんなにころころ変わる「風」の場合、風を追いかけるよりもじっとスジを通していた方が、また風が変わったときには順風満帆になるんじゃないです? 4年前の事を私は思い出していますが、自民党の議員は、たとえ落選してもじっと我慢していたら4年後(あるいは3~2年後)にはまた今とは全く違う風が吹いているんじゃないか、と私は思っています。それが日本にとって好ましい事かどうかは別として。

【ただいま読書中】孟嘗君
孟嘗君と戦国時代』宮城谷昌光 著、 中公新書2001、2009年、720円(税別)

 著者は春秋時代が理解できないそうで、しかたないから『史記』と『春秋左氏伝』を書写したそうです。それでおぼろげながら春秋時代がわかるようになったのですが、それに続く戦国時代もまたわからない。春秋時代にはまだ「周王室を(形式的とは言え)尊重する」が貴族のルールでした。ところが戦国時代にはそういった「ルール」が消滅します。そこで著者は「その時代を代表する人物」として孟嘗君を取り上げます。本書は、孟嘗君の物語であると同時に戦国時代についての解説本であり、同時に著者の歴史に対する態度の表明でもあります。
 著者は、悠々と周から話を起こします。春秋時代に周の権威は落ちぶれますが、それでも「王号」は周のもので、他の国はすべて「公」でした。当時の「王」はすべて自称でしかなかったのです。しかし、紀元前334年に魏の恵王と斉の威王はお互いを「王」と認め合います(つまり「自称」ではなくなったのです)。ここから中国には「王」が乱立するようになり、さらに各国の境界に長城が造られるようになります。春秋時代にも国は乱れていましたが、それでもまだ人として守るべき「基本ルール」がありました。しかし戦国時代に情け無用の戦いがエスカレートしていくのです。
 著者はあまりに悠々と時代を語っているため、孟嘗君の子ども時代が登場するのは本書の半ばを過ぎてからです。ただ、時代と個人を重ねて書くことで「歴史」を立体的に膨らませる手法は、読む側にはとてもわかりやすくて、退屈しません(昨日書いた『ウィーン 最後のワルツ』の手法も私は思い出します)。で、やっと孟嘗君が出てきたと思ったら著者の筆は諸子百家の方に滑っていきます。これまた面白い話題ですが(私は特にこの系統の話が好きですから)、「孟嘗君についてはやく知りたい」人には退屈かもしれません。
 斉の相の賤妾の子であった孟嘗君は幼少時より英明で、ついに後嗣となります。広く数千人の食客を集めますがその特徴は「食客の質の悪さ」。亡命者や罪人まで受け入れていたのです。かつての強国楚は衰えを見せ、孟嘗君はその名を天下に知られるようになり、秦の昭王から自分の国でも相として腕をふるうように招かれます(戦国時代には、一国の相が他国の相を兼ねることもできたのです)。そして有名な故事「函谷関の鶏鳴狗盗」。命からがら秦を逃げ出した孟嘗君は連合軍で秦を攻めますが函谷関の近くで兵を止めます。このへんが(このへんも)昔の戦争のよくわからないところで、軍旅を起こし相手の軍を破ってどこそこまで来た、ということがシンボルとして当時は非常に重要だったのでしょうか。

 いやあ、戦国時代は、というか、古代中国の価値観はやはりよくわかりません。不思議な人たちが不思議な行動をしてその結果が「歴史」になり、そしてそれがなぜか現代の我々につながってくる……現代の我々も未来の人間から見たらきっと似たことを言われるのでしょうねえ。



公務員バッシング

2009-08-28 17:58:12 | Weblog
 たしかに一部の公務員の「働きぶり」は目に余る物がありますが、おそらく大多数の公務員は真面目に「自分の職務」を果たそうとしているのでしょう。社会的にバッシングをうける企業でもほとんどの従業員がそうであるように。
 で、民主党だけではなくて自民党や公明党も「公務員削減(あるいは人件費削減)」を謳っていますが、職務が減るわけではありませんよね。それで人員を減らしてやっていけるのかしら。もしかして「派遣」でやりくりするつもり?

【ただいま読書中】
ウィーン 最後のワルツ』ジョージ・クレア 著、 兼武進 訳、 東山魁夷 装画、1992年、2136円(税別)

 「ウィーン」「ワルツ」と来たら……と思いながらページを開くと、登場するのはウィーン生まれのユダヤ青年ゲオルク・クラール。イギリス軍に志願するも国籍を変えていなかったため「敵性外国人」として、国王に忠誠の誓いを立てているのにもかかわらず戦闘部隊ではなくて工兵部隊に配属されていて、それが不満です。国会議員への工作が実り、彼は(彼だけではなくてすべての外国人兵士は)戦闘部隊への配置が許されます。しかし、外国人(ユダヤ人)であることを示す標識番号はそのままでした。クラールはまた運動をして新しい標識番号をもらいます。ただしそのためには改名をする必要がありました。彼は新しい名前、ジョージ・ピーター・クレアとなります。
 そこからクレアは、クラール家の歴史を物語り始めます。ジョージ・クレアの曾祖父、ヘルマン・クラールの誕生から。1816年、オーストリアがメッテルニヒ公によって支配されていた時代です。ヘルマンは有能な軍医でしたが、出世は遅々たるものでした。ユダヤ人だったからです。そして祖父と祖母。ジークムント・フロイト、皇帝フランツ・ヨーゼフ、ビスマルクなどの名前が紙面で踊ります。地名は同じでも、今とは違う(失われた)世界でのお話です。
 「何百万人もの人に対してわれわれは一体感を持てない」と著者は述べます。だから著者は「個人」を語ります。自分の祖先たちを。彼らの名前や人となりを知ったら、ホロコーストでの彼らの苦痛を理解できるのではないか、と。だから著者は一族の面々を一人一人綴ります。容貌・風体・行動・性格、欠点や美点も容赦なく。
 1882年、ドイツ系オーストリア人の学生友愛会がヴァイトホーファー決議案を承認しました。「ユダヤ人は道義心を欠いている。したがってユダヤ人は低劣である。したがってユダヤ人は立腹することは不可能であり、どのような侮辱を受けてもそのことで決闘を求めることはできない」というものです。そういえばフロイトの父親が街路上で帽子をたたき落とされる侮辱を受けてそれをじっと堪えたのもこの頃じゃなかったかな。1889年にはゲオルクの父エルンストが生まれます。奇しくもアドルフ・ヒトラーと同じ年の生まれでした。
 「帝国」は消滅しますが、ウィーンは小国には不釣り合いなほど巨大で優雅な「世界の首都」であり続けます。社会の底を流れていた反ユダヤ主義があちこちで盛んに吹き出始めます。そして「没落した帝国」「没落していくヨーロッパ文化」を実感しているせいか、「死」や「滅び」への志向がウィーンの社会(あるいはヨーロッパ全体)に生まれます。帝国の消滅(と小国の乱立)によって、「ユダヤ人」も細分化されます。キリスト教化したもの、西欧化したもの(立派な服を着、社会の中で肩書きや影響力や富を持っている)、旧来のもの(カフタンを着、長い髭とイディッシュ語)、宗教だけではなくて社会的文化や出身地によってもユダヤ人は区別されますが、(ユダヤから見た)異教徒からはまとめて「ユダヤ人」でした。
 学校で落第したり幼い恋を経験したり、著者はそれなりに順調に育ちます。『わが闘争』で「ユダヤ少年が“ユダヤ特有の性的魅力”を使って、無垢なアーリア人の処女を破廉恥にも誘惑する」という記述で著者は驚きます。だって著者は自分が「ユダヤ特有の性的魅力」なんか持っていないことはよくわかっていますし、自分にとって大切なのは国籍や人種ではなくて「その少女が魅力的かどうか」だけなこともよくわかっているのですから。
 オーストリアではデモやクーデターが起き、ドイツの圧力を避けるためにオーストリアの政治家はムッソリーニに頼ろうとします。著者の恋の進展と平行するように、ドイツとオーストリアの仲が進展するところでは、笑うべきかどうか、私は一瞬悩みます。著者は「時代や社会の大きな悲劇」を「個人や家族の小さな喜劇」を詳しく描くことで間接的に描写しているのです。「個人の人生(のつながり)」と「時代の流れ」を同時並行的に描くことで、著者は「細部が異様に詳しい巨大な物語」を手に入れました。
 オーストリアとドイツの「合邦」と同時にユダヤ人の迫害が公然と開始され、著者はアイルランドへ両親はフランスへ逃亡します。そして第二次世界大戦が勃発しフランスは占領され両親の消息は絶えます。
 「ポグロム(ユダヤ人虐殺)を、“ヒトラーのせい”とするのが一番簡単」と著者は述べます。もちろんそれが「正解」ではないことはわかっています。2000年間蓄積されたユダヤ人憎悪(ゼノフォビア)がヒトラーを通して爆発したのです。著者は声高な告発はしません。ガス室の描写もほんのわずかです。著者は「生」を描きます。そして、その生が他者から乱暴に中断されることを。
 「声の大きさ」が人の心に与える影響力の一番の要素ではない、ということがよくわかる好著です。


剣道

2009-08-27 18:47:37 | Weblog
 私の高校では、冬の男子の体育は、柔道か剣道からの選択でした。私は剣道を選択しましたが、それで張りきったのが父親。自称二段が竹刀の手入れから素振りのしかたから、いろいろ教えてくれました。そのせいか、授業での試合ではけっこう上位にいけました。驚いたのは剣道部の人間との対戦で一本を取ってしまったこと。試合開始直後に小手を抜いて面を打ったらみごとに当たってしまって、その瞬間打った方も打たれた方も「まさか」と固まってしまいました。剣道部員が素人に負けるわけにはいかない、と彼も必死になってしまい、こちらはぼこぼこに打たれて結局負けましたが、それでも一本取ったことは間違いないわけです。もしかしたらその方面の才能があったのかなあ。

【ただいま読書中】
剣道を知る事典』日本武道学会剣道専門分科会 編、東京堂出版、2009年、2500円(税別)

 本書は事典です。「稽古」「技術」「試合」「審査」「生涯剣道」「施設・用具」「普及発展」「現代剣道への架け橋」の各章ごとに様々な項目が見開き二ページにコンパクトにまとめられて解説されています。
 たとえば「稽古」の「1)剣道の稽古とは」には、「稽古」とは「古(いにしえ)を稽(かんがえ)る」ことで、宮本武蔵は「千日の稽古を鍛とし、万日の稽古を錬とす」と述べている、とあります。私が以前から不思議に思っていた「発声」についても「技術」の「8)掛け声(発声)」の項目があります。これまた『五輪書』の「火の巻」の「三つの声といふ事」という記述にまで遡れるそうで、その内の一つは「打つと見せて、かしらよりえいと声をかけ、声の跡より太刀を打ち出すもの也」……これって、フェイント? 現代では、試合規則には掛け声(発声)は明記されていませんが、「剣道試合・審判・運営要領の手引き」には有効打突の理合の要件として「気勢(発声)」が記されているそうです。だから高校の時の剣道部員たちは、打突の形だけではなくて発声にもそれぞれ拘っていたんだな。
 剣道と宗教や文化との関りも興味深いものです。「剣禅一如」と言いますが、平和な時代の武道の根本思想としての禅がいかに重要なものか、それは当時の人の気持ちにならないとなかなかわからないものなのかもしれません。
 江戸時代には庶民もけっこう気楽に剣道を学んでおり、「剣道」と「武士道」とを結びつけたのは明治政府、というのは意外でした。本書ではそういった安易な結びつけに対しては否定的で、「武士道をこえた武道・剣道の思想的基盤を確立しそれが広く世界に認められるように努力する必要があろう」と述べられています。内向きの階級意識よりももっとグローバルな心を持とう、ということでしょうか。
 江戸時代には様々な流派が生まれ、他流試合も盛んに行なわれました。その流れの中で竹刀が少しずつ長くなり、とうとう四尺八寸の「長竹刀」が登場したのには笑ってしまいます。いや、長い方が有利なのはわかりますが、竹刀ではなくて真剣だったらそんな長いのは振れないでしょう?(ちなみに幕府は1856年(安政三年)に武術教育機関として講武所を設け、型稽古や流派の違いを廃して「竹刀打ち込み試合稽古」のみとし、竹刀の長さも三尺八寸と定めています)

 剣道に興味がまったくないひとには用がない本で、剣道に詳しい人にはちょっともの足らない内容、ということで誰がメインターゲットなのかよくわかりませんが(ならばなんで私がこんな本を読んでいるんだろう、ということになってしまいますが)、とりあえず剣道のことをちょこっと調べたいときには便利な本です。巻末には、年表・試合規則・全日本選手権大会の入賞者一覧などがあって、データブックとしても使えます。


株価

2009-08-26 18:42:03 | Weblog
 総選挙後、もしも自民党が圧勝したら株価はどう動くんでしょう。私の予測では「民主党の勝利」を市場はすでに織り込んであるはずですから、もしもその予想に反したことが起きたなら株価は急騰するか暴落するかのどちらかになりそうなのですが……
 急騰ならそれはそれで良いのですが、もしも暴落するのなら、日本経済のためには自民党は勝ってはならない、ということになったりして。(もちろん「民主党が勝ったら株価が暴落する」という予想が成り立つ場合にも同じ論法が使えます)
 で、株価はどう動くと思われます?

【ただいま読書中】
本漫画』和田誠 作、毎日新聞社、2009年、2000円(税別)

 ちょっと読書感想が書きにくい本です。なにしろ「ひとコマ漫画を集めた本」ですから。さらにその「ひとコマ漫画」のテーマが「本」です。ページをめくってもめくってもめくってもめくっても、出てくるのは、本ほん本ホンhon。
 毎日新聞の書評欄に1993年から2007年まで毎週連載されたものだそうで、古今東西時空を越えてさまざまな情景が登場します。よくもまあこれだけアイデアがひねり出せたもんだと感心します。さすがプロ。



爆撃の効果/『重慶爆撃とは、何だったのか』

2009-08-25 18:38:53 | Weblog
 「高空からの爆撃だけでは最終的な勝利は得られない。そのためには泥臭い歩兵が必要なんだ」という意味の発言があったのは、『宇宙の戦士』だったかな。実際に、バトル・オブ・ブリテンでも北爆でも湾岸戦争でのテヘラン爆撃でも、それによっての最終的な戦争の勝利は得られていませんねえ。日本は貴重な例外?

【ただいま読書中】
重慶爆撃とは、何だったのか ──もう一つの日中戦争』戦争と空爆問題研究会 編、高文研、2009年、1800円(税別)

 「空襲」は第一次世界大戦にはすでに行なわれていました。ただし複葉機で砲弾を改造した爆弾を落とすもので、直接的な軍事的成果よりも心理的な効果の方が大きいものでした。
 1923年にはハーグ会議で「空戦規則」が定められ、「対象は軍事目標のみに限定」「非戦闘員は攻撃の対象から外す」ことが定められ、日本(と各国)はその遵守を誓います。しかし軍人の本音は違っていました。1922年にイタリアの将軍ジュリオ・ドゥーエは「空の支配」で「人口密集地に対する大量の爆弾・焼夷弾・ガス弾による攻撃は、住民の戦意を挫き政府に対する暴動を起こさせ、政府に講和を強制させるだろう。だから空爆は安価で戦争の費用を減らす」と述べており、それが各国語に翻訳されて軍人たちに影響を与えました。
 都市爆撃で有名なのは、1937年のゲルニカですが、首都に対する爆撃は同年の南京空襲が嚆矢です。8~12月に36回、のべ600機、300トンの爆弾が投下されました。南京陥落で四川省重慶に臨時首都が構えられましたが、日本は「爾後、国民政府を対手(あいて)にせず」の宣言に自ら縛られ和平交渉ができなくなってしまいます。100万の兵力が投入されましたが湖北省武漢(重慶まで直線で780km)まで行くのがやっとでそこで持久戦となってしまいます。そこで「航空戦力だけを用いて決定的成果を達成」「都市を破壊することで敵を敗北させる」ための「戦略爆撃」が企図されます。武漢に飛行場が作られ、陸軍だけでは飛行機が足りないため海軍も協力することになりました。陸軍の主力は九七式重爆撃機とイタリアから輸入した伊式重。海軍は中攻(九六式陸上攻撃機)。40年にはゼロ戦が配備され、ゼロ戦が先行して重慶の上空を制圧した後中攻が爆撃、のパターンが定着します。主に投下されたのは、テルミット焼夷弾・油脂焼夷弾・陸軍の「カ四弾」(黄リン溶液と焼夷弾の合体型)・60~800kgの通常爆弾でした。3年にわたる連日連夜の爆撃を中国側は「疲労爆撃」と呼んで恐れました。アメリカなどの特派員は、重慶のニュースを世界に配信し、それが世界の世論に影響を与えます。それが結局は日米開戦に影響を与えたのではないか、と著者は考えているようです。そして日米開戦によって重慶爆撃は終了します(実際には1941年8月には南方進出に備えて航空部隊は武漢から引き上げました)。
 爆撃の実相はなかなか複雑ですが、本書では日中双方の資料が採用されて、けっこう詳しく述べられています。中国軍の戦闘機や高射砲がけっこう効果があったこと(特に初期には日本軍は護衛機無しで爆撃機が飛んでいましたから、戦闘機には結構やられていました)、中国に空軍があったこと(最初はソ連から、ついでアメリカからの援助で形成され、日米開戦以後は中米混成軍が作られています。最終的にパイロットは米人1に対して中国人2の割合になり、中国の日本軍に空から攻撃を続けました)、は私にとっては新知識でした。重慶の人口は当所30万人でしたが、臨時首都になってその倍以上になりました。1939年の5月3日4日の大空襲では約4000人の死者が出ています。横穴形式の防空洞や疎開政策が採られましたが、犠牲者は次々出ました。悲惨なのは1941年6月5日の「大隧道窒息惨事」です。空襲から避難していた市民が1000人窒息死した事件ですが、危険な防空洞も多かったようすです。ちなみに消防車は全市で6~7輌だったため、主に人力で消火活動が行なわれました。
 被害統計はさまざまです。期間(全期間(1938~43)か集中的な爆撃の期間(1939~41)か)と地域の範囲(重慶市内だけか周辺地域を含めるか)が統一されていないことがその主因ですが、死者の数だけ取っても、9218~15294人と大きな開きがあります。

 著者は「重慶爆撃をしたことが、日本が米軍にあれだけの爆撃をされる遠因になった」と述べたいようですが、私にはその主張は無理筋に見えます。その理由は3つ。まず、重慶爆撃の有無にかかわらず米軍は欧州戦線で都市爆撃の経験をたっぷり積んでいたこと。欧州で使い残した焼夷弾をたっぷり在庫していたこと(実際に「在庫」をほとんど使い切るまで日本の各都市への爆撃は行なわれました)。最後に、日本に対する爆撃で、戦術爆撃は効果が薄かったために戦略爆撃をせざるを得なくなっていたこと。中国空軍が「復讐じゃぁ」と日本に爆撃したのだったら頷けますが、米軍が中国の復讐の肩代わりするためにあれだけ日本に空襲をしたとは私には思えません。
 ちなみに、B29による日本初の空襲は1944年6月北九州八幡製鉄所ですが、その爆撃隊は四川省成都から飛び立ち、アメリカ陸軍航空軍司令部は重慶に置かれていました。そちらには歴史の皮肉を感じます。さらに、アメリカが日本の戦犯を追及するのに、南京虐殺は扱っても重慶爆撃は無視するのは、それを扱うと自分たちの行為にも言及しなければならないから、という点にも歴史の皮肉を私は感じています。


ニュートンとリンゴ/『ゼノンのパラドックス』

2009-08-24 18:42:25 | Weblog
 下手するとニュートン自身より彼が眺めたとされるリンゴの方が有名ですが、彼が「落ちるリンゴ」とともに(頭の中で)「落ちない月」を眺めていた事(さらに、リンゴもまた地球を引っ張っていることに気づいていたこと)は広くは知られていません。

【ただいま読書中】
ゼノンのパラドックス ──時間と空間をめぐる2500年の謎』ジョセフ・メイザー 著、 松浦俊輔 訳、 白楊社、2009年、2400円(税別)

 アリストテレスの『自然学』に挙げられているゼノンの4つの逆説は以下のようなものです。
○「運動する物体はいかなる地点にも達し得ない」……どんなにその点が近くてもその前に中間点を通らなければならず、残りの中間地点を、さらに残りの中間地点を……この繰り返しにはきりがないから、目標には絶対到達できない。
○「アキレス」……後ろからスタートしたランナーはいかに早くても前のランナーに追いつけない。後ろのランナーが前のランナーの出発点に到着してもその時には前のランナーはわずかに前に進んでいる。追いかける方がその地点に到着したときにはすでに前のランナーはまたわずかに前に……を繰り返し続ける。
○「飛ぶ矢」……個々の瞬間にはものは動いていない。
○「競技場」……二台の馬車が正反対の方向に同じ速度ですれ違う。観客からはどちらの馬車も同じ速度に見えるが、それぞれの御者からは相手が倍の速度に見える。つまり、運動しているか静止しているかで速度(つまり時間の流れ)が異なる。

 ゼノンを「否定」するのは簡単です。矢が的に中りアキレスが亀を追い越すことを観察したらよい。ところが20世紀に相対性理論と量子力学が登場して、話は俄然複雑に面白くなります。著者は、我々の運動についての問いかけは文明(歴史と哲学・物理学・数学の関係)についての壮大な物語の一つ、と述べます。
 アリストテレスは、運動と変化と連続性についての新しい考え方を提出しましたが、それは「有理数の世界」でした。ゼノンへの反論として「分割点はその前後両方に属する」とアリストテレスは述べたそうですが、現代の位相幾何学(分割点は前後のどちらかに属する、と考える)ではそれだと困ったことになるそうです。(実はゼノンの逆説には「時空間は無限に分割可能」と「無限に分割は不可能」の二つの前提が巧妙に混ぜてあって、混乱を誘うようになっているのです)
 12世紀末~13世紀はじめにブリュッセルのゲラルドスが「速度」を定義します。それまでは「速さとは、空間(距離)の間と時間の間の比例関係」という前提だったのを「点の運動の比率(速さ)は同じ時間で記述される線同士の比率である(空間と時間を比べたもの)」と述べることで「速度」を「大きさ」として扱うことを可能にしたのです。13世紀にトマス・アクィナスがアリストテレスの『自然誌』に註釈をつけ、近代天文学・物理学の出発点となります。キリスト教会はアリストテレスを禁止しますが、手遅れでした。14世紀に瞬間速度や加速の概念が登場します。これによりアキレスは亀に追いつくことが数学的に証明されました。ただし「どのように追いつくか」はまだ解明されていません。そしてガリレオ・ガリレイ。脈拍や振り子しか計時装置がない時代のおそるべき観察と実験。
 デカルトの座標幾何科学からニュートンの微分の間には多くの人の業績が挟まっています。しかし、デカルトがベッドから蝿が飛ぶ軌跡を見てそれを数学的に表現できないかと考えた、とは、ニュートンのリンゴに比較してちょっと爽やかさに欠ける感じがします。ともかく、ニュートン力学以後は、ゼノンは息の根を止められたはずでした。ところが20世紀、相対性理論と量子力学によって風向きが変わります。たとえば電子の位置と運動量を同時に正確に測定することはできません。言えるのは確率だけです。さらに我々がものを見るときに使う光も、「光子」という概念の登場で連続的なものではなくて不連続なものである、とされてしまいます。すると運動そのものも運動の観察も「連続」ではなくて「不連続」ということになります(アインシュタインがノーベル賞受賞の対象となった論文は、まさにその光の不連続性を扱った「光電効果」の説明でした)。
 本書の最後は、大迫力です。「世界」を記述する数学に対して、数学者である著者は手放しでの信頼感を持っていないかのように、「我々の外に存在する世界」や「連続性」はもしかしたら我々の脳が見せている「錯覚」なのかもしれない、と著者は主張して見せます。ここのところは是非本文に当たってください。
 おお、唯識か?と私は呟きながら本を閉じます。ゼノンの逆説は2500年、唯識は1500年くらいですか、人類は螺旋のように動いているようです。


温暖化

2009-08-23 18:51:07 | Weblog
 最近は猫も杓子も、二酸化炭素だカーボンオフセットだ、ですが、フロンとかメタンの方はもう解決したんですか?

【ただいま読書中】
崖の国物語2 嵐を追う者たち』ポール・スチュワート 著、 クリス・リデル 絵、唐沢則幸 訳、 ポプラ社、2001年、1600円(税別)

 第1巻から2年、16歳のトウィッグは空賊の一味となり、生き生きと動いています。しかしその前に本書ではトウィッグの父親ヴェルジニクスのことが物語られます。ヴェルジニクスはもともと神聖都市の飛空騎士でしたが、ヴィルニクスの陰謀でその座を奪われ空賊に身を落としました。神聖都市の権力を握ったヴィルニクスは、神聖都市をつなぎ止めるための鎖を地上町で増産させます。しかしそれは河の水質汚染を招きます。それを浄化するのは神聖砂。しかし神聖砂の材料の(雷の結晶と言われる)嵐晶石は神聖都市に重みを与えているのです。それを減らせば鎖がさらに必要となります。悪循環です。地上町の商人連合は神聖砂を独占し、町の人々に恨まれています。神聖都市でもヴィルニクスに対する陰謀が進行しています。
 飛空船でトウィッグはただの新入りの下っ端として扱われています。船内でも船長に対する裏切りが進行中で、船長の息子であることを知られると命の危険があるため、二人の関係は内緒です。そこにでかい仕事がはいってきます。神聖都市に重みを与える嵐晶石を求める決死の旅です。嵐晶石は不思議な物質です。光が凝固した塊で、闇の中では想像もできない重さとなりますが、眩しい明かりを浴びせると浮き上がりそうなくらい軽くなります。それができる瞬間を目撃した人は(少なくとも目撃して生きて帰ってそれを報告できた人は)これまでいません。しかし船は難破。トウィッグは薄明の森をさ迷います。この森は、人を幻覚で支配し悪夢を見せ続ける森なのです。さらにこの森では死ぬことが許されません。骸骨になった騎士は鎧の中の白骨として動き続け、首が折れた博士は世界が傾いて見えるまま歩き続けるのです。
 薄明の森をやっと抜けたトウィッグたちの前には、こんどは死の泥地が待ちかまえていました。そこで死の使いの手をやっと逃れたトウィッグは、嵐晶石を得、神聖砂の安全な製造法を知ります。大成果です。ただし、とても苦い成果でした。トウィッグは生き残った仲間と二人、必死に働いて腐りかけた難破船を補修してついに泥地を脱出します。彼らを待ちかまえるのは、自分たちが死にかけていることも忘れて複雑な陰謀を張り巡らし続けている神聖都市とその下で現世利益を求めて策謀をめぐらし続ける地上町。

 トウィッグは、落ち着いた状態ではゆっくりものが考えられますが、基本的な知識が足りず世慣れしておらず予想外の突発事に弱いという弱点を持っています。しかし仲間と自分の努力で、困難を克服し彼は急速に成長しています。深森の地表と地下を舞台とした第一巻に対し、第二巻は神聖都市とその周囲の泥地や薄明の森およびその上空を舞台としました。そして第三巻では虚空の果てをトウィッグたちは目指します。ばたばた登場人物が死んでいくのが気にはなりますが、不思議な世界観の中で少年を主人公とした冒険小説が好きな人間にはお勧めできます。


硬直化/『多様化するバス車両』

2009-08-22 17:44:53 | Weblog
 「この会社では、何かというと会議だけれど、会議をしている間は仕事をしていないわけだから、結局会社の生産性は落ちているのではないかなあ」
「それはもっともだ。なら、会議を減らすための会議を提案しよう」
 このギャグはありがちなものでしょうが、怖いのは、かつて私が勤務したところでそれが現実化しそうな雰囲気があったことです。

【ただいま読書中】
多様化するバス車両』鈴木文彦 著、 グランプリ出版、2004年、2200円(税別)

 乗用車では「クラウン」「セドリック」という相性がそのままそのまま車の呼び名になります。飛行機では「B777」「A300」という機種名で区別できます。鉄道だったら「D51」はちょっと古いかな、新幹線の「500系」「700系」でイメージが湧きます。では、バスは? バスの種類は「ユーザー」にどのくらい知られているでしょうか。
 団体でのバス旅行は楽しいものですが、では快適な乗り心地だったかと言えば、否定的な記憶しか蘇ってきません。
 なぜか日本ではバスは日陰の存在のようです。

 日本のバスはあまりに多くを求めすぎて(たとえば「ふだんは路線バスで使って、ときどき観光バスに」という両方の設備を盛り込んだバスもあります)、結局それが中途半端にコスト高を招いているのではないか、と著者は疑問を示します。あるいは逆にあまりにコストカットをしすぎて、粗末で乗り心地の悪いバスをユーザーに強制してそれで人気を落としている場合も多いのではないか、と。どちらも日本ではよくあることです。必要十分なところですぱっと割り切れずに「せっかくだから○○も」「ついでに××も」と機能がどんどん付加されて重たく使いにくくなってしまうとか、逆に「こんなもの△△で十分だろ」と本当は必要なものもコストを理由にカットされてしまうとか。
 著者は最近のヨーロッパのバスに一つの理想型を見ています。たとえば座席。日本の座席は「豪華さ」を求めて分厚く作られています。ところが人間工学が生かされていなくて座り心地が悪い。しかも分厚い分座席数が多く取れません。ところがヨーロッパ式になると、日本の2/3の厚さではるかに座り心地がよく、しかも薄い分日本のバスより座席数を増やすことができるのだそうです(長さ12mの車体で、ヨーロッパだと13列(シートピッチ77cm)が標準ですが、実際に座ると日本の11列(シートピッチ85cm)と同じ座り心地だそうです)。さらに日本では「一人でも多く詰め込め」で補助席が活用されますが著者は「通路が狭くなるし、乗客の快適性や安全性の点から、どうなのか」と疑念を呈します。
 バスの床の高さもいろいろです。標準は「2ステップ」と呼ばれる高さですが、床が車輪の上端より上にある「ハイデッカー」あるいはそれよりさらに高い「スーパーハイデッカー」、逆にバリアフリーのために低床にした「ワンステップ」あるいは「ノンステップ」バス。
 エンジンパワー(「ただハイパワーならそれだけで良いのか?」)、車内のシート配列や付帯設備(トイレなど)、交代乗務員の仮眠室(車体下のトランク部分でバスの外から出入りする(走行中は寝たまま身動きが取れない荷物状態)というものも写真が載っています。ひどい扱いに見えます)、トランク、扉の配置と形式……著者には語りたいことが山ほどあります。
 印象的だったのは、バックミラーです。まるで兎の耳が垂れているようなデザインのものが紹介されているのですが、これは、バックミラー・コーナーミラー・アンダーミラーがまとめて格納されています。これ、デザイン的にスッキリしていて機能的に非常に優れています(ぱっと見、好き嫌いはあるかもしれませんが)。日本では「構造上の問題が、うんぬんかんぬん」とかで認可されないのだそうですが、なんで? 乗用車のドアミラーが「フェンダーミラーに比較して視線の移動量が増えるから危険」とかいうわけの分からない理由でなかなか認可されなかった(と記憶しています)“史実”を思い出します。
 本書にはヨーロッパだけではなくてアジアのバスも多く紹介されています。特に印象的なのは中国の寝台バスです。古いタイプは、荷物を屋根に積んで中は二人用2段ベッドが通路の両側に並んでいます。座席2席分の幅のダブルベッド……あまり寝心地がよいとは思えません。それが最近は(日本の長距離高速バスのように)シングルベッド3列のものが登場しています。他人とダブルベッドは嬉しくありませんが、2段とはいえシングルだったら、リクライニングシートよりは快適かもしれません。
  最新のバスもあれば、古いボンネットバス(の復刻)の話題もあります。二階建てや連接バス、オリジナルデザインの楽しいバスもたくさん紹介されています。超大型バスもすごい。日本の法規ではバスの長さは12メートルまでと決まっていますが、常磐高速の東京駅~つくばセンター間があまりに混むため、ヨーロッパの15メートル2階建てバスなら1台で倍の人数が運べる、という発想から導入されたものです。もちろんこの認可にも紆余曲折(ドイツ視察から運行開始まで6年間)があったわけですが、具体的に「これが危険」の指摘ではなくて「リアオーバーハングが既存車種より10cm長い」ことが問題にされることなどを読んでいると、私はため息をつきます(「12m」が「15m」になれば、オーバーハングも当然変化しません?)。ちなみにJR関東が無事運行を始めてから関東鉄道も同じバスを導入しましたが、そちらの認可には(同じ路線を同じ条件で運行するのに)1年以上かかっています。日本のお役所の運行効率はおんぼろバスよりも劣る様子です。