【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

社会の変化

2016-02-29 07:06:00 | Weblog

 最近朝刊の配達時間が少しずつ遅くなってきています。牛乳の宅配も配達日を減らす動きがあります。どちらも人手不足で困っているのかもしれません。かつては近所の商店が「御用聞き」に回るのはふつうでしたが、いつの間にか廃れてしまいました。こんどは以前からあった宅配サービスも滅びていくのかもしれません。20世紀に育った人間としては、かつてふつうにあったものがなくなっていくのは、寂しい思いがします。自分が消えていくような気がするものですから。その代わりに登場するであろう新しいサービスには期待も感じるのですが。

【ただいま読書中】『「自動運転」が拓く巨大市場 ──2020年に本格化するスマートモビリティビジネスの行方』井熊均 編著、 日刊工業新聞社、2013年、1800円(税別)

 1970年代にスーパーカーブームがありました。その頃人気のフェラーリ512BBは360馬力、ランボルギーニ・カウンタックは330馬力、ランチャ・ストラトスは240馬力。当時のカローラ・クーペは110馬力。たしかに“スーパー”カーだったのです。ところが最近のトヨタ・マークXは320馬力、レクサスLS460は380馬力です。現在の日本の高級車は、馬力の点では1970年代のスーパーカーに匹敵、あるいは越えてしまったのです。さらにガソリンエンジンの燃焼効率を高めることで燃費もぐんと向上しています。しかしそれもそろそろ理論的な限界に近づいています。そこで、バイオエタノール、水素、ハイブリッド、電気、燃料電池などの新技術の開発がどんどん行われているわけです。
 かつて日本の若い男性は「女」「酒」「煙草」「車」で生きていました。しかし、1990年代から、乗用車の販売台数が伸びなくなります。また内訳では、小型乗用車(特にセダン)の売り上げが減ってきました。私が初めて車を買ったのは1980年だったか81年ですが、当時の路上では「白のセダン」が主流だった記憶があります。私のようなハッチバック派は少数派でしたね。時代の違いを感じます。自動車市場の拡大が止まった原因としては「バブルの崩壊(家計の逼迫)」「郊外化の終焉(都心回帰)」「ユーザー意識の変化(快適性よりも実用性重視)」などが考えられます。そういった社会で車が生き延びる方法として、「公共交通機関」が一つ考えられています。バス停からバス停にバスを使うように、カーシェアリングで定点から定点に自動車を運転して移動する(到着したらそこに乗り捨て)というシステムです。公徳心が相当必要になりそうな気もしますが。
 自動車運転に関する新技術には「エコカー技術」「車輛制御技術」「自動運転技術」があります。特に「自動車の使い方そのものを変える技術」は「市場」を創造する力を持っています。だから自動車会社は熱心にその開発を行っているわけです。そして、それを受けいれる社会の側にも変革が必要です。
 「シャッター通り」がそうなった理由はいろいろあるでしょうが、その一つが「駐車場がない」ことでしょう。だったら自動運転の車を「準公共機関」として受けいれることができたら、シャッター通りが再生できるかもしれません。たとえば自宅で「○○商店まで」と連絡すると小さな無人車がやってきます。乗ると勝手に○○商店の前まで行って、降りると勝手にどこかに行ってしまいます。買い物が済んでこんどは「自宅まで」と連絡すると、さっきとそっくりの車が店の前までやって来て自宅まで連れて帰ってくれる、というシステムです。もちろん保育所への送り迎えとか、会社への通勤(会社が遠いのなら最寄りの駅まで)とか、さまざまな日常的な使い道があります。「24時間いつでも使える」となると、マイカーを持つ必要はなくなります。生活の快適度は高まりそうです。
 本書では、2020年の東京オリンピックを「自動運転のマイルストーンに」と提唱しています。本当にそうなったら「未来社会」が私の目の前に登場するのかもしれません。楽しみです。


異邦人

2016-02-28 08:29:52 | Weblog

 異邦人は、単に外国人だけをさすわけではなくて、その社会の多数派とは全く違った文化の下で育った人、と一般化することができるだろうと私は考えています。たとえば、津波の被害を実際に体験した人は、おそらくこの日本社会で「プチ異邦人」の気分を味わっているのではないでしょうか。

【ただいま読書中】『津波堆積物の科学』藤原治 著、 東京大学出版会、2015年、4300円(税別)

 津波は人から多くのものを奪い去りますが、同時に津波堆積物というものをもたらします。これは津波が、浸食と堆積を繰り返しながら進行するからです。津波以外でも、台風・洪水・土砂崩れなど「地学的事件」によって短期間に堆積したものを「イベント堆積物」と呼びます。津波ではそれが、非常に大規模・広範囲に形成されるわけです。その科学的調査が行われるようになったのは意外に新しく、1980年代になってからのことです。ボーリングによるコア試料や、ジオスライサーと呼ばれる薄い断面を得るやり方で調査がされています。
 北海道東部の沿岸湿地の調査では、過去6500年の津波の履歴が明らかにされました。なんと、15枚の巨大な津波堆積物が発見されたのです。つまり、平均500年に1回は巨大津波が襲ってきているのです。中には、20世紀のマグニチュード8の地震で発生した津波よりも内陸にさらに数km奥まで到達した津波の跡もありました。
 最近の地震での観察から、津波堆積物には、津波の大きさや速度、地形、海岸からの距離、海岸が砂浜かどうか、などでさまざまなバリエーションが生じることがわかりました。また、表面には特有の模様が生じることも観察されました。すると、もしも昔の津波堆積物に表面の模様が保存されていたら、そこから津波の方向などもわかることになりそうです。
 「昔の津波堆積物」と言えば、恐竜を絶滅させた原因として「巨大隕石衝突説」が唱えられていますが、同じ時期の津波堆積物も北アメリカで発見されているのだそうです。ユカタン半島北部に衝突した巨大隕石で巨大クレーターができ、そこに大量の海水が流入、その勢いで巨大な海水の盛り上がり(水柱)ができ、それが崩壊することで北アメリカ沿岸では最大300mの高さの津波が発生した、という推定がされています。さて、恐竜は巨大津波を目撃したのでしょうか? なおこの時の津波は、最低8回は発生した、と津波堆積物の分析から推定されているそうです。いろんなことがわかるようになったんですねえ。日本でももっときちんと“自前”の堆積物を調査して、防災に役立てた方が良さそうに思えます。


読んで字の如し〈草冠ー21〉「芳」

2016-02-27 14:19:08 | Weblog

「芳純」……純粋な芳しさ
「芳味」……味覚には嗅覚も重要である
「芳墨」……電子メールだと「芳ビット」?
「芳香油」……香油には芳しくないものもあるらしい
「ご芳名」……名声は鼻にも芳しい
「芳紀」……鬼も十八番茶も出花
「芳恩」……報恩とペアになることもある
「多環芳香族」……芳香を放つ多くの環を祀る部族
「秋芳洞」……秋には芳しくなる洞窟
「耳なし芳一」……その後あの耳は結局どうなったんでしょう?

【ただいま読書中】『25時のバカンス 市川春子作品集II』市川春子 作、講談社、2011年、590円(税別)

目次:「25時のバカンス」「パンドラにて」「月の葬式」

 ちょっと不思議な味わいの漫画が並んでいます。描線はなだらかで繊細で、なんだか“ふつう”の恋愛もののストーリーが展開しても良さそうなオープニングなのに、出てくるのはたとえば、海底の異生物や土星の衛星での異星の生物、あるいは月からやって来た病人(月の生物)。この世界観は一体何なんだ、と私は戸惑いながら、美しい不遇の天才たちがちっとも活躍しない奇怪なストーリーに溺れることになります。そういえば、「天才」と「溺れる」も3つの作品に共通していますねえ。「人に見えるが人ではない存在」も。
 「SF」でくくっても良いのかも知れませんが、それほど単純な分類はあっさり無視されてしまいそうな不思議さを湛えた作品群です。お暇なときに、ちょっとつまんでみられたらどうでしょう。面白いですよ。


潜水艦の名前はノーチラス

2016-02-26 07:14:26 | Weblog

 アメリカ最初の原子力潜水艦は「ノーチラス号」と名付けられました。誰が名付け親かは知りませんが、その人に私は好感を持ってしまいます。しかもこの潜水艦が北極海を潜行して北極点を通過するというおまけ付きで横断してしまうのですから、すごい。本来は純粋に軍事行動のはずですが、こういった遊び心もちょいと入れることができる人には、やはり私は好感を持ってしまいます。

【ただいま読書中】『極点浮上 ──北氷洋の原子力潜水艦』ジェームズ・カルバート 著、 加納一郎 訳、 時事通信社、1961年、100円

 本書に登場する原子力潜水艦は「スケート号」で、著者はその艦長です。
 1955年春、著者はハワイに赴任する直前に、リコーバー大将(1955年1月に進水したノーチラス号建造の責任者、というか、建造の原動力そのものの人)に呼び出されます。けちょんけちょんにされた面接の後、著者は海軍原子力委員会に呼び出されます。ここで仕事をしろ、と。仕事は勉強でした。数学のあとは原子物理学。そして原子力の技術さまざま。そこで著者は、ノーチラス号艦長「デニス」ウィルキンソンがノーチラス号で北氷洋の氷の下を通過する望みを持っていることを知ります。
 1946年に早くも米海軍は北極海に探査の手を伸ばしていました。地球儀を真上から見たら、北米とソ連とは北極をはさんで向かい合っています。つまりここは軍事的に非常に重要な海なのです。潜水艦のソナーを上に向けて照射したら、氷の底面と表面から反射が返ってくる、つまり氷までの距離と厚みが計算できることもわかりました。ただし、普通のディーゼル推進の潜水艦は、せいぜい30時間しか潜水できません。北氷洋の横断どころか、ちょっと奥に入るだけでも、明らかに力不足です。しかし原子力潜水艦なら、乗員用の酸素と水と食糧さえ保てば、いくらでも潜水を継続することが可能です。著者の目もまた北極に向かいました。著者が艦長として任されたのは、米海軍3番目の原子力潜水艦スケート号。出港したスケート号は一路北を目指します。乗組員は、ノーチラス号が前年に機器の故障で失敗していたことから「我々が北氷洋横断一番乗り」と勇み立ちます。しかし、艦長に下された命令は「群氷の海面で浮上可能かどうかを調べること」でした。「横断」はノーチラス号のものとされていたのです。実際、スケート号がいよいよ氷の下に潜り込もうとする直前「ノーチラス号、北極海横断成功」のニュースが飛び込んできます。乗組員の志気は下がりますが、艦長が危惧したほどではありませんでした。彼らには彼らの使命があるのです。原子力潜水艦は“潜りっぱなし”で行動できますが、本当にずっと潜っていたら本国との連絡ができず、事態に対応することができません。だから定期的に浮上して位置確認や連絡をする必要があります。氷の海でそれが可能か? それを確認するのがスケート号の使命です。
 ノーチラス号のニュースを聞いた翌日、著者は浮上を試します。ふつう潜水艦は、前進しながら水平カジを操作することで浮上や潜航をします。しかし開水面は狭く、スケート号はヘリコプターのように釣り合いをとりながら垂直に上下運動をしなければなりませんでした。彼らはそれをやってのけます。できたのなら、次はもっとすごいことをしましょう。極点での浮上です。
 私が驚いたのは、潜水艦内で喫煙が許されていることです。おかげで一酸化炭素が艦内に貯まる、という“副作用”があるのですが、そのための空気浄化装置もあるのです。艦長が「禁煙」と言えば済むような気もするのですが、それでは志気が下がるのでしょうね。
 極点は氷に閉ざされていたので浮上できず、スケート号は次の目標を探します。当時北極海の浮氷の上には観測基地アルファが設営されていました。スケート号はそこと連絡を取り、基地のすぐ脇の開水面に浮上します。そこで喜ばしい交流の場が持たれますが、氷が急に育ちはじめ開水面が縮小を始めます。上陸していた乗組員を緊急で呼び集め大急ぎで潜水艦は潜航します。いやあ、スリルです。スケート号は再度極点を訪問します。ノーチラス号を含めるとこれで極点は2週間で原子力潜水艦に3回訪問されたことになります。ただ、氷は開かず、結局著者は帰投命令を出します。
 ここで「もう一つのノーチラス号」の物語が登場します。ヒューバート・ウイルキンスはシャクルトンの最後の探検(奇跡の生還後、1921年に再度探検に出発したが途中でシャクルトンが心臓病で亡くなったため中止になった探検)に参加していました。1928年には北極を飛行機で横断(サーの称号をこれで受けています)。ついで南極も飛行機で探検(ウイルキンス棚氷を発見しました)。そして次は「潜水艦による極地探検」に取り組みます。合衆国海軍から中古のおんぼろ潜水艦を購入、改装して「ノーチラス号」と命名します。ウイルキンスの素志は、北極点への潜水艦での冒険と海洋探査、さらに群氷上の観測基地に潜水艦で補給をする、というものでした。しかし、北極海以前に、大西洋横断の時点でノーチラス号は故障を繰り返し、乗組員はサボタージュを行い、ノーチラス号は氷の下にちょっと頭を突っ込んだだけで航海を中止しました。まだ早すぎたのです。著者はウイルキンス卿をスケート号に招待します。ウイルキンスは著者に「ここまで装備が進歩したのなら、冬に北極に向かうべきだ」と言います。より困難に挑戦しろ、と。冒険者の魂が言わせた遺言でしょう。
 海軍もその気になっていました。開水面を探してうろうろするのではなくて、氷を下から割って開水面を作ることができないだろうか、と。スケート号を改装強化し、3月に著者らは出港します。目指すは、冬の極点。薄い氷だったら、割って浮上することが可能でした。しかし極点近くは分厚い氷ばかり。ほんの小さな隙間を見つけ、スケート号は上昇します。ついに極点浮上。世界で初めて「船」が北極点に浮かんだのです。そこで著者らは、ヒューバート・ウイルキンス卿の遺灰を撒く儀式を行います。潜水艦で北極点に到達したいという彼の望みを叶えるために。
 スリルとサスペンス、そしてこういったウエットな挿話が塩梅良く配置されている冒険ものです。訳文には時代を感じますが、これまた良い塩加減に感じます。


選挙の季節

2016-02-25 07:25:06 | Weblog

 アメリカではトランプ氏の勢いが止まらないようです。4年前と8年前にオバマ氏を大統領に選んだアメリカの有権者が、今回はトランプ氏をもしも大統領に選ぶのだとしたら、私は頭がくらくらするような思いですが、それはそれで何か事情があるのでしょう。
 そういえば日本でも「党名を変更するかしないか」とか「野合だ」とかのコップの中のちまちました騒ぎがありますが、どうせなら自民党の中の不平勢力を求合できるくらいのスケールの大きな「野合」をすれば良いのになあ、と日本の有権者としては無い物ねだりをしたくなります。今の政治情勢では「自民党の外」でいくらわいわいやっても影響力などたかがしれているのですから。あ、となるとあれはコップの「外」の嵐?

【ただいま読書中】『米軍医が見た占領下京都の600日』二至村菁 著、 藤原書店、2015年、3600円(税別)

 1945年日本の全都道府県は占領されました。京都にも7000人の米兵がやって来ましたが、その中に25歳のグリスマン軍医中尉が含まれていました。インターンがすんだばかりの若い医者は、京都で公衆衛生の仕事をしろ、と派遣されたのです。軍医を迎えたのは、飢餓・結核・性病・売春…… 軍医はばりばりと働き始めます。
 GHQは日本の公娼制度を廃止させました。業者はすぐに「特殊飲食店」を作ります。京都府は性病検診を公費で行いました(根拠は「花柳病予防法」です。でも、公娼制度は廃止されているんですけどねえ)。グリスマンは業者の組合と府庁が裏で癒着しているのではないか、と疑います。私が驚いたのは、米兵が性病に感染したら、給与は停止・1階級降格・(治療を兼ねて)1箇月の営倉暮らしだったことです。さらに驚くのは、それでも米兵が「特殊飲食店」に通い続けていたことです。将校はさすがにコンドームで自衛していましたが、その消費量は半端ではなかったそうです。何しろ購入が「グロス単位」ですから。
 舞鶴には引き揚げ船が到着していました。そこで語られる物語には、胸が詰まります。「不法妊娠」ということばを私は初めて聞きました。ソ連兵に強姦されての妊娠です。それに対して、厚生省とGHQがどのように対処したのか、が静かな口調で語られます。(昨年夏に読んだ『戦時下のベルリン』(ロジャー・ムーアハウス)には、強姦された女性の10%が自殺し、46年にドイツで生まれた子供の5%が「ロシア人の子」だった、とありましたっけ)
 子供と言えば、戦後の京都は(京都以外も)ベビーブームに襲われました。もともと「子だくさん」が日本の伝統ですから不思議はありませんが、米軍は「この子供たちが育ってまた大量の兵士になる可能性がある」と真剣に考えます。取りあえず目の前の食糧危機も深刻です。しかし、産児制限は非現実的でした。避妊具を(手間とコストの問題から)日本人男性は望まないし、共産主義者は「日本民族抹殺だ」と非難するでしょうし、カトリックでは「産児制限は禁止」です。GHQは避妊の知識を広めようとしますが受けいれられず、厚生省は「優生保護法」で人工妊娠中絶を合法化しようとしました。できるのは仕方ないから、できてから対処を考えよう、というわけです。そういえば戦後の統計を見ていたら、第一次ベビーブームが終わった後も「ベビーブームでの年間出生数」と「その直後の年間出生数+人工妊娠中絶数」がほぼ同じ数だったのを見て驚いたことがあるのを思い出しました。つまり、妊娠数は変わっていなかったのです。
 国民健康保険や生活保護も、GHQが基本構想を日本に持ち込みましたが、当時としては世界最高レベルの制度を目指していました。日本の医療・福祉の基礎は占領軍によって作られたわけです。その割にはアメリカの医療・福祉の制度に問題が多いのは解せませんが。
 ジフテリア、結核、ハンセン病……グリスマン軍医が戦うべき相手は次々現れます。すでにプロミンという新薬でハンセン病が治ることは知られていたため、グリスマン軍医はまず現状を知ろうと長島愛生園を訪問します。そこで彼は「ハンセン病は外来で治療可能だ」と確信し、GHQにその進言をします。日本の「らい予防法」が1996年まで廃止されず患者は隔離され続けることを、当時の彼は知りませんでした。
 除隊の日が近づきます。グリスマンはハーバード大学公衆衛生大学院から入学許可を得ました。「善良で親切な課長」の帰国を、多くの日本人関係者が惜しみます。京都府民たちも餞別の品を山ほど贈り、見送りの人で京都駅のホームは混雑しました。
 本書には、グリスマン軍医が撮影した写真(それもカラー写真!)が多数収載されています。ああ、昔の日本だ、とつぶやきたくなる光景と人々がそこには息づいています。白黒写真とは違う“明るさ”がそこには満ちあふれています。もしも私がカメラを持って当時の日本に行ったとしたら、どんな写真を撮影するでしょう。そして、日本人のためにどんな仕事ができるでしょうか。グリスマンさんは、とても良い仕事をしています。


失敗さまざま

2016-02-24 07:10:11 | Weblog

 失敗にもいろいろあります。ケアレスミスとか同じ失敗を繰り返すのは、つまらない失敗。フクシマのように取り返しのつかない失敗もあります。個人的な失敗の経験から教訓を学ぶことは「失敗にもプラスの意味がある」と言えるでしょう。科学の場合にも「このやり方は無駄」と他人に同じ失敗を繰り返さないように知らせることで、失敗に公的なプラスの意味を持たせることが可能です。ところで、「失敗」そのものが、人類に勇気や誇りを持たせるという「偉大な失敗」になることもあります。たとえば、シャクルトンとかアポロ13号とか。

【ただいま読書中】『偉大なる失敗 ──天才科学者たちはどう間違えたか』マリオ・リヴィオ 著、 千葉敏生 訳、 早川書房、2015年、2400円(税別)

 本書で扱われるのは「重大な科学的過ち」です。取り上げられる科学者は、チャールズ・ダーウィン、ケルヴィン卿、ライナス・ポーリング、フレッド・ホイル、アルベルト・アインシュタイン。ただし、「偉大な科学者でも間違えるんだ」と凡人が揶揄して安心するための本ではありません。科学に「失敗」はつきものであり、その失敗から重要な発見が生まれることがある(だから「偉大なる失敗」と呼ばれる)ことを述べることが著者の視点です。
 ダーウィンの『種の起源』は世界に衝撃を与えました。初版では「進化(evolution)」という言葉を使わず、まして「人の進化」については触れず、進化のメカニズムについても説明抜きでしたが(当時「遺伝」については科学的知識が知られていませんでした)、「自然選択」「共通祖先」というアイデアそのものが「衝撃」だったのです。ダーウィンの時代に「遺伝の法則」は知られていませんでした。当時支配的だったのは「両親の形質が子供の中で混ざり合う」という「融合遺伝」の考え方でしたが、ダーウィンはこの考え方では「ダーウィンの進化論」が成立しないことを見落としていました。私たちは「遺伝子」という概念を知っていますから、ダーウィンの進化論をその知識で自動的に修正して理解しますが(理解できない人もいますが)、当時の「メンデルの法則以前」の人たちには「融合遺伝」を否定せずに唱えられたダーウィンの進化論はなかなか受けいれにくいものだったことでしょう。ただ、メンデルはダーウィンの影響を強く受けました。『種の起源』第二版のドイツ語版をメンデルは所有していましたが、きっちり読み込んだ跡が残っています。
 古代ヒンドゥー教の賢者は、地球の年齢は19億歳と見積もりました。キリスト教のテオフィリスは西暦169年に聖書を元に「地球は5698歳」と計算しました。17世紀のライトフット(ケンブリッジ大学副総長)は「天地創造は紀元前3928年」、アッシャー(アーマーの大主教)は「紀元前4004年10月23日」としました。ライエル(ダーウィンの親友)は『地質学原理』で「斉一説(地質的な変化には膨大な時間が必要である)」を唱えます。それを(執拗に)攻撃したのがケルビン卿でした。その執拗さには「自分は絶対に正しいという確信」が悪く作用していました。
 ポーリングは「蛋白質の立体構造」を初めて決定した人です。αヘリックスというらせん状の構造ですが、その「成功」が「DNAの立体構造解明」ではポーリングの足を引っ張ります。そういえば「DNA」については、ワトソンとクリックの側からしか見たことがなかったので、ポーリングがどうして二人に先んずることができなかったのかは深く考えたことがありませんでした。しかし、「DNAの構造決定競争」は「失敗の集積」でしかありませんでした。ワトソンとクリックも大失敗をしています。他の科学者も次々失敗を重ねますが、科学の外側のマッカーシズムがポーリングの足を引っ張るというオマケまでついてきます。そしてポーリングは「三重らせん」というとんでもない代物を提唱してしまいます(遺伝子の機能も核酸の化学的性質も無視した構造決定だったのです)。その論文を読んだワトソンとクリックは、研究を加速させる決心をすると同時にパブに祝杯を挙げに行きます。若者らしい反応ですね。
 フレッド・ホイルはもちろん「ビッグ・バン」に対する拒否、です。私にとっての彼は、最初はSF作家だったので、彼が真っ当な学者だとずっとあとになって知ってびっくりしましたっけ。現在「重い元素は超新星の爆発によって形成された」は天文物理学での“常識”になっていますが、それを提唱したのがホイルなのです。実に大きな功績です。しかし……
 アインシュタインはもちろん「宇宙定数」です。ただ、これの扱いはちょっと難しい。いろいろ複雑なストーリーがくっついていますから。ただ、著者は「アインシュタインが犯したさまざまな間違いは、それがあっても、あるいはそれがあるからこそ、彼の宇宙論を豊かなものにしている」と述べています。私もその意見に賛成です。できることなら、そういった種類の失敗ができる人間になりたいものです。


執行猶予

2016-02-23 06:53:06 | Weblog

 少年法では「更生(の可能性)」を重視しています。だったら少年犯罪に対する刑罰はすべて「再犯防止のための教育+執行猶予」にしたらどうでしょう。ただし執行猶予の期間はたとえば「20年」とか「30年」くらいにしましょう。さっさと更生するかもしれませんが、本当に更生したのなら執行猶予が長くても関係ないでしょ? もう“更生”している(犯罪は犯さない)のですから。で、執行猶予期間中に何か犯罪を犯したら、少年時代の犯罪も改めて罰することにするのです。こうしたら、更生している(すぐ更生する)人は少年院にいる期間が短縮されるだけお得ですし、そこで新しい犯罪の手口を学んだりするチャンスも減るのではないでしょうか。

【ただいま読書中】『神秘と詩の思想家メヴラーナ ──トルコ・イスラームの心と愛』エミネ・イェニテルズィ 著、 西田今日子 訳、 宗教法人東京・トルコ・ディヤーナト・ジャーミイ 監訳、丸善、2006年、3000円(税別)

 先月読んだ『トルコの旋舞教団』(那谷敏郎)の開祖者メヴラーナ・ジャラールッディーン・ルーミー(1207-73)についての本です。
 まずは略歴ですが、これは『トルコの旋舞教団』にも書いてあったので読み飛ばします。『トルコの旋舞教団』の方では「旋舞」が注目されて「詩」については軽く触れられるだけでしたが、本書では「詩」が中心に据えられています。そのテーマは「人の尊厳」「愛」。
 メヴラーナにとって「知性」は、重要だが最重要ではないものでした。メヴラーナは「天使の知性」と「人間の知性」を分けて考えます。人間の知性は「肉」をまとっているがゆえに限界があり「天使の知性」とは逆方向に向きがちだ、と。「宗派」をメヴラーナが無視しようとするのも、「宗派の違い」が「人間の知性」の産物だからでしょう。だからメヴラーナは「論理」ではなくて「詩」で語りかけます。あるいは寓話。病人を見舞った耳が遠い男の話など、人の虚栄と自己満足の愚かな姿を残酷なくらい私たちの前に現出せしめていて、私は笑うべきか泣くべきか、迷うほどです。
 羊飼いの祈りを浅はかだと叱責したモーセが、「人にはそれぞれにふさわしい祈り方があり、大切なのは形式ではなくて心だ」と逆に神から叱責される寓話も印象的です。メヴラーナにとって何が大切だったのか、よくわかります。
 第七章にメヴラーナのことばが集められています。古風な言い回しでイスラームの匂いがぷんぷんしますが、自己抑制・謙虚さ・善行・寛容の大切さ、など、今でもふつうに通用することが説かれています。そうそう、「神と人の違い」を認めるということは「人が不完全であることを受けいれる」ことになります。「人」は「自分」と「他人」。だからこそ、その不完全さをカバーし他人とともに生きるために自己抑制などが必要になってくるのでしょう。
 13世紀トルコでは、書き言葉はペルシア語が正則とされていて、メヴラーナも文筆活動はペルシア語でおこなっていました。そのためメヴラーナはトルコ文学そのものにも大きな影響を残したそうです。
 私から見たらメヴラーナは「非常に優れた知性+α」の人です。ところがメヴラーナ自身は「自分の知性」よりも「+α」の方を重視していたらしいことが面白い。二流のインテリが「自分の知性・知識」を誇らしげに誇示するのと対照的だな、と思えましてね。
 本書を読んでいて、私は自分がいかにイスラムに無知かがよくわかりました。同時に、イスラム原理主義者たちもまた、メヴラーナの作品どころかコーランそのものについても無知なのではないか、とも思えました。無知な人間が力を他人に行使することは不幸であることは、メヴラーナもしきりに指摘しているのですが、「詩」では無知な人の心には届かないのかもしれません。だからと言って過激派に対して「力」を使うのはテロリストと同じ土俵に乗ってしまうことになりますし……


ふぇみにすと

2016-02-22 07:07:15 | Weblog

 私はフェミニストではないしフェミニズムに特段の興味は持っていません。ただ、「人間」の視点から見たら「男女差」をことさらに言い立てることに抵抗は感じます(だからかつてのウーマン・リブの時代には、男女差を不必要に強調しているように思えて、リブの活動家の主張(と行動)には共感できませんでした)。そうだなあ、たとえば病気には男女差がありますが(男は子宮癌にはなれませんし女は陰茎癌にはなれません)、「女だから病気は我慢しろ」は駄目駄目な主張ですが、病気の苦しみに関して男女差を強調しても仕方ないでしょ?

【ただいま読書中】『メデューサの笑い』エレーヌ・シクスー 著、 松本伊瑳子・国領苑子・藤倉恵子 編訳、 紀伊國屋書店、1993年、3200円(税別)

目次:「メデューサの笑い」「去勢か斬首か」「新しく生まれた女」「エクリチュールへの到達」
 この4本の論文と「エレーヌ・シクスーに対するいくつかの質問」が含まれています。
 初っ端から「女性は自分のマスターベーションについてもっと語るべきだ」と言われて、どきりとします。つかみはOKですね。基本的に「女性が女性に呼びかけている文章」の体裁なので、私のような男が“割って入って”いいのかな、なんてことも思います。ただ、著者は明らかに潜在的な読者として男性も想定していますね。少なくとも露骨な「敵視」はしていません。
 孫子に「王が妻妾たち180人を兵士として訓練せよ、と孫子に命令した。孫子は訓練を始めたが、妻妾たちはふざけて孫子の命令に従わなかった。そこで孫子は軍法に照らして、指揮官役の女性二人を斬首した。以後皆は孫子の命令通りきびきびと動くようになった」というエピソードがありますが、これを著者は「去勢で男を脅かす社会は、斬首で女を脅かす」と読み解きます。「赤ずきん」は明らかに性的な隠喩を含んだ物語ですが、これも著者によると「赤ずきんちゃんは小さなクリトリスである」となります。さらに赤ずきんちゃんがお使いに向かうお祖母ちゃんもまた性的な隠喩の一つなのです。いやいや、小さなクリトリスが森の中で寄り道をする……わお。
 非常に平易な言葉で書かれた本ですが、内容は難解です。難解さの原因の一部は、私が「男根中心主義」で育っているからでしょう。ただ、少しずつ世界は変わっていくのではないか、とも思えます。そういった期待を未来に持てなければ、未来は過去と同じで良いことになり、そういった(すでに存在している過去と全く変わらない)未来の存在価値はありませんしね。


相撲の歴史

2016-02-21 07:41:48 | Weblog

 「相撲の歴史」と言われて私がすぐ思い出すのは、『日本書紀』での“対戦”、それと江戸時代に力士は各藩のお抱えで巡業をしていたことや「大関」が最高位で「横綱」は大関が腰に回すモノだったこと、くらいです。「神話」と江戸時代の間がこっぽり抜けているのですから歴史でも何でもないですね。

【ただいま読書中】『相撲の歴史』新田一郎 著、 講談社学術文庫、2010年、1200円(税別)

 「相撲」は本来は格闘技のことで、だから世界各地にさまざまなタイプの「相撲」が存在してます。「日本の現在の大相撲」が唯一正統な「相撲」ではない、これが本書の出発点です。
 記紀には二種類の「相撲」が登場します。一つは「国譲り神話」での二神の力比べ。もう一つは宿禰(すくね)と蹶速(けはや)の蹴り合いです。前者は腕四つでの力比べで、後者はキックボクシングのようです。ただ、どちらも「出雲」が関係していることが興味深い。そうそう、雄略天皇の段では、女相撲もありました。雄略天皇が采女の服を脱がせてふんどしを締めさせて相撲を取らせた、というものです。当時の埴輪で「裸でふんどし」というものが日本各地から出土して「力士埴輪」と呼ばれています。また、4~6世紀の高句麗の古墳壁画にも同じく「裸でふんどし」姿で格闘技を行っている姿があり、「裸でふんどし」は東アジアではある種の“格闘技”での“正装”だったようです。
 平安時代に宮中の年中行事に「相撲節」があります。はじめは王族や貴族が「相撲」を天皇に奉納する(忠誠の)儀式でしたが、やがて変質し、全国から集めた「相撲人(すまいびと)」の対決を王侯貴族が楽しむ芸能になります。わざわざ「忠誠」を確認しなくても良いくらい「国」が安定した、ということなのでしょう。節ではさまざまな舞楽も奏されましたが、節の最後を飾る「千秋楽」「万歳楽」が中世以降の雑芸能の「千秋万歳(せんずまんざい)」や近世の「千秋楽(相撲、歌舞伎、芝居の最終日)」の語源となったそうです。節での“正装”は「裸でふんどし」です。絵で見る限りまだまわしはなく、今のレスリングに近い取り組みだったのかもしれません。まさか宮中で殴り合いや蹴り合いはしないでしょう。出血したら御前に血の穢れが生じますから。逆に「安心して観覧できる技芸」としての「相撲」が成立した、とも言えます。
 12世紀、世の乱れのせいでしょうか、相撲節は行われなくなります。ただ、鎌倉時代にも、(諸国から膂力に優れた相撲人を貢進させる)大々的な公的行事ではなくて小規模な楽しみとしての「相撲」は朝廷で行われ続けています(貴族たちの日記にその記録が残されています)。この時代の相撲が「熊と相撲を取った金太郎」に残されているのかもしれません。
 平安末期に各地から集められた相撲人は、そのまま京に残り、周辺の寺社で相撲奉納を行うようになりました。鎌倉時代に「京相撲」と呼ばれる一団が地方の寺社で祭礼として相撲を勤仕した例がありますが、「プロとしての相撲人」が誕生しつつあったのかもしれません。
 中世には、地方の村落共同体は少しずつ力をつけていました。そこで中心となるのは村社ですが、それは昔からのものもあれば新たに勧請されたものもあり、後者の場合は祭事も創設されました。そこで「祭事」は「神事」というよりは「人のための娯楽」の性格を強めます。村の相撲もその一部を構成することになり、村人が集まって興じる相撲が成立します。そこには各地を巡業して回る(専門家としての)相撲人の姿もありました。
 「吾妻鏡」によると、源頼朝は相撲好きだったようです。ただ、武芸としての相撲(ルール無用)とスポーツ競技としての相撲の対立が見られます。私見ですが、平安時代の相撲節でルール整備と様式化が進められたことによって、相撲は「武道」から離れてしまったのではないでしょうか。で、武士が戦場で愛好する格闘技(武芸)は「相撲」とは違うものだ、という認識ができてしまったのかな。足利将軍たち、織田信長、豊臣秀吉なども相撲を愛好しましたが、これも「武芸」ではなかったようです。各大名も「見て楽しむ相撲」を愛好し、優れた相撲人を召し抱えました。
 「京相撲」「村を巡業して回る相撲人」「大名お抱えの相撲人」を“ルーツ”として「職業人としての相撲人」が誕生します。相撲取りたちは諸大名のお抱えとなりますが、これはつまり「武家による相撲の囲い込み」です。幕府は「辻相撲禁令」をたびたび発します。武家以外が勝手に相撲を取ってはならない、ということです。「土俵」という重要なアイテムも発明されましたが、丸だけではなくて四角い土俵もありました。ロープを張ったらリングですね。大名は他の大名と張り合うために優秀な力士を抱え、その対抗戦として相撲興行が始まります。江戸時代初期には江戸での興業は禁止されていましたが、解禁されてからは、江戸・京・大坂が相撲興行の中心地となり(本場所)、それに地方巡業がプラスされる形となりました。相撲取りたちは忙しく全国を渡り歩くことになります。「一年を二十日で暮らす良い男」は相撲の実態を理解していません(少なくとも江戸の本場所しか見ていない、ということです)。
 「興行」で暮らす力士たちは卑賤視されていました。そこで「相撲は武道である」「相撲節という由緒正しい故事を伝える」といった言説で自分たちの地位向上を目指します。また、上覧相撲によって将軍の権威も利用しようとしました。本書では「見世物を卑下するのは、相撲の価値を貶める行為だ。相撲は伝統と格式を備えた立派な見世物なのだから」と主張されています。
 「横綱」が力士の最高位であることが規定されたのは明治42年(1909)のことでした。記録に残る「横綱」は、寛政元年(1789)谷風と小野川に横綱伝達式と両横綱の土俵入りが行われたのが最古のものです。横綱を免許したのは吉田司家十九世追風。この免許を武器に吉田司家は相撲界を牛耳ることになります(「キングメイカーはキングより偉い」わけです)。
 廃藩置県で大名は相撲から手を引きます。相撲界はスポンサーを民間の旦那衆などに求めました。その混乱で吉田司家の支配が緩み、相撲界は再編の動きを見せます。国技館、天覧相撲などにより相撲の人気は上昇。さらに相撲は「国策」として扱われるようになります。西洋スポーツにはない“国粋性”が称揚されたのです。野球が弾圧されたのとは好対照です。この時強調された「武道の精神性」は、現在の大相撲にも生き残っていますね。ところが戦後GHQが「武道禁止」を言ったとき、相撲は娯楽であるとGHQは認識し、相撲協会も「武道ではなくてスポーツである」と主張しました。土俵は丸く、主張は融通無碍でした。


スジを通す人

2016-02-20 06:31:56 | Weblog

 何かトラブルが起きかけていたときにそれを無視していた人は、トラブルが本格化して誰も無視できなくなるとこんどは過剰反応をし始めます。“正解”は、無視と過剰反応の間のどこかにあるはずですが、「きちんと適切に反応しない」点ではその人はスジを通しているのかもしれません。

【ただいま読書中】『我々の歩いて来た道 ──ある免疫学者の回想』石坂公成 著、 黙出版、2000年、3800円(税別)

 昨日のエルサンは「孤独」が特徴でしたが、今日の本では「我々」となっているのが特徴です。
 職業軍人の家に生まれた著者は、昭和19年に東京大学医学部に入学します。激しい空襲の下、日本の敗北と自分の死を覚悟していたら、突然の終戦。著者の周囲の東大生たちは「こうなったら、自分のやりたいことをやろう」と決心します。だからでしょう、著者の同級生では、臨床医にならずに基礎医学に進んだ人間がそれまでの学年より多かったそうです。卒業してしばらくして結婚話が浮上しますが、これがまた抱腹絶倒のエピソード。それを著者は実にさりげなく披露してくれます。いやいや、ごちそうさま。
 こうして「私」は「我々」になったわけです。
 著者は免疫化学に取り組みます。当時日本にその専門家は存在せず、きちんと学ぶためにアメリカ留学をすることに。すると奥さんが「私も行く」と。2歳半の子連れの一家で昭和32年にロサンゼルスへ。当時「ドルの持ち出し制限」は一人45ドルまでだったので、大変だったそうです。
 交換研究員として月給をもらえる身分で著者は研究を開始。2箇月後には奥さんもポストドクトラル・フェローとしてパート勤務を始めます。ここから「アメリカでの我々(の研究)」が始まります。カリフォルニア工科大学で書いた論文が注目され、著者はジョンス・ホプキンス大学に誘われます。そこで著者は抗体、奥さんは補体の研究をするのですが、留学期間が切れます。しかし日本では金がないため研究が継続できそうもない。すごいのは「アメリカ」です。NIHに申請すると「きちんとした研究できちんとした計画だったら、国外にも研究費は出す」と。実際に3年間の研究費が交付されましたが、初年度は3万ドルでした。1ドル360円で昭和35年のことです。著者はばりばり仕事を続けますが、不可解なことが。日本の学界で著者は干されてしまったのです。それどころか見当違いのケチをつけられるばかり。ところが同じ論文が国際的な雑誌に載ると欧米では大好評。著者は仕事の場を日本から移すことを考え始めます。
 しかし、35歳で東大教授候補になるとは、著者も大変です。ここでもまた、抱腹絶倒の大騒ぎがありますが、ご本人にとっても世界にとっても“幸運”なことに、著者は教授にはなれませんでした。
 二度目の渡米。デンバーの小児喘息研究所に入りますが、著者を誘った所長が理事会と喧嘩して辞めてしまっています。著者は望まずして免疫部門の管理責任者に。自分の研究だけをしたかったのに、研究所のスタッフの給与も稼がなくてはいけなくなります。コロラド大学の助教授も兼任しているので、大変な生活です。
 1960年代はじめに「免疫グロブリン」という概念が確立しました。抗原と結合する能力を持った蛋白質のグループです。免疫グロブリンは「G」「M」「A」が知られていて、アレルギーに関連するのは「A」だと言われていました。しかし著者の実験では「免疫グロブリンAではない蛋白質」の存在が示唆されます。ただしその量はとても少なく、当時の実験設備ではなかなか精製できるものではありませんでした。それを著者はやってしまいます。これでアレルギー研究は大きな一歩を踏み出しました。「免疫グロブリンE」が世間に知られることになったのです。さらにこの蛋白質が体内でどのように働くか、それを研究したのが著者の奥さんです。
 当然のようにスカウトの口が次々かかり、とうとう断り切れずに著者はジョンス・ホプキンス大学の教授、奥さんは助教授になります。そして、授賞ラッシュが。パサノ賞(アメリカ市民の医学研究に毎年一見だけ与えられる権威ある賞)など、夫妻に授与するために規定を「アメリカ国内で行われた医学研究」に変更しています。巻末に年表がありますが、受賞歴は本当にすごい。著者夫妻の研究がいかに世界に衝撃を与えたかがわかります。
 それにしても、最初の内は「若造が何か偉そうなことを言っている」とネガティブに著者を評していた日本の人たちが、外国で評価されさまざま賞を得たことを知ると「さすが大したものだ」と掌を返したようになるのは、「あんたら、自分の頭で他人の業績の価値を評価できないのか?」と毒づきたくなりますな。
 さらに、新しい研究に対する助成システムの日米差の指摘は、両方を知っている人だけに説得力があります。「日本でユニークな研究が実を結ばない」のは、「日本人がユニークな発想ができない」からではなくて「システム」のせいであることがありありとわかるのです(大学院でも、日本では「業績(論文)」を求めるがアメリカでは「優秀な研究者に育つこと」を求める、というのもわかりやすい指摘でした)。で、そういった違いをつきつめると「民主主義の差」ということになるのだそうです。それが実際にどのような違いかは、本書をどうぞ。