【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

開けゴマ

2020-02-29 07:31:52 | Weblog

 「Open sesame!(開けゴマ!)」って、とんでもない要求だと思います。だってあんなに小さい粒を一つ一つ開くって、ものすごく大変じゃないです?

【ただいま読書中】『最良の嘘の最後のひと言』河野裕 著、 東京創元社(創元推理文庫Mこ61)、2017年、680円(税別)

 世界的な大企業「ハルウィン」は「超能力者を一人採用する」と告知、応募した2万の中から面接に進んだのは126人と3匹。そして最終試験に残ったのは7人。最終試験の内容は、3月31日18時〜24時の6時間の間に、受験番号1番の人が持っている一通しかない採用通知書を奪い取って担当者に渡すこと(1番の人はそれを奪われないように持ち続ける、奪われたら取り返すこと)。
 いやいや、ふざけた「採用試験」ですが、年収8000万円を65歳まで保証、と言われたら、それは参加したくなりません?
 しかし、参加しているのは全員「超能力者」です。
 ミステリーに超能力を入れたらアンフェアになる、というのがミステリーの常識ですが、本書では平気です。さらに全員が嘘つきで、さらに外部からこの試験に介入しようとする人たちまで登場します。話はややこしくなり、誰の言葉を信じたら良いのかわかりません。一人では不利だと協力を持ちかける相談があちこちで交わされますが、相手の言葉が信じるに足りる、という保証はありません。さらにこんなでたらめな試験を大まじめに実施するハルウィンの真の意図も不明です。
 試験が佳境に入った頃、「最良の嘘」とは何だ?という謎かけがあります。これだけ嘘が満ちている状況で、もっとも優れていてもっとも強い嘘のことです。
 しかし、他の人がどんな超能力を持っているかがわかっていて、その上で自分がどのような嘘をつけば一番有利になるか考える、という展開は、結局ミステリーの「フェアさ」を確保しているようにも見えます。段々話がややこしくなってきて、さらにあとからあとから「嘘」が登場して、さらには(犯罪は厳禁だったはずなのに)死人はでるわ三人称が突然一人称になるわ、もうなにがなんだか。それでも最後にちゃんと話は落ちつくべき所に落ちつくのですから、いやあ楽しい読書の時間を過ごせました。
 あ、「最良の嘘」の「最後のひと言」、私はこれに大賛成です。人生はかくありたい。

 


パニック

2020-02-28 07:13:15 | Weblog

 大災害の時「真実を報道したらパニックが起きるかもしれない」と手加減した報道をすることを主張する、という場面が映画などでよくありますが、実際に日本の大災害で大規模なパニックが起きたことってどのくらいありましたっけ? 私が思い出せるのは、関東大震災での朝鮮人虐殺くらいなんですが。それとも私が「パニック」を知らないだけ?

【ただいま読書中】『砂漠の戦争 ──北アフリカ戦線 1940-1943』アラン・ムーアヘッド 著、 平井イサク 訳、 早川書房、1968年、500円

 1940年、カイロで「戦争」はラジオの雑音でした。しかし、フランスの降伏とイタリアの参戦で人びとは本気になります。地中海でのイギリスの拠点は、マルタ島とエジプト(とスエズ運河)。当時の中東イギリス軍最高司令官ウェーヴェル将軍は、圧倒的な戦力差(ドイツどころかイタリア軍単独を相手にしても支えきれないくらいの劣勢)を意識し、はったりと砂漠を利用することでなんとか援軍が来るまで持ちこたえようとしました。
 「砂漠での戦い」は海軍の戦いに似ている、と著者は述べます。海軍は「海で戦う」のであって「海と戦う」のではありません。そして、敵と遭遇して戦うとき塹壕や籠城はありません。一つの「平面(海面)」の上で、過酷な自然に翻弄されながら戦います。港から出撃し、戦いが済んだら帰港します。砂漠で戦う陸軍もまた同様なのだそうです。ただしこれはイギリス軍でのお話。著者から見たら、イタリア軍はまったく違う行動をしました。彼らは砂漠を征服しようとし、さらにそこで快適な生活をすることを求めたのです。
 ここで私は、ナポレオン戦争時代に、「英仏海峡」を、イギリスは「戦場」とみなし、ナポレオンは「越えるべき障害」とみなしていたことを思い出します。そういった「戦場をどう捉えるか」の態度の違いは、戦い方の違いを生み、戦争の勝敗に大きな影響を与えました。
 イギリス軍の陽動作戦に引っかかって自重していたムッソリーニはついにリビアからエジプトに向けての大攻勢を始めます。さらにイタリア軍はギリシアにも侵入。これで局面は複雑化してしまいます。カイロのウェーヴェル将軍はギリシアにも援軍を送りたいのですが、リビアからのイタリア軍にも備えなければなりません。
 北アフリカでイタリア軍はイギリス軍の2〜3倍の規模でしたが、無防備な側面を砂漠に晒していました。油断です。そこをイギリス軍は突き、大勝利を得ます。従軍記者の著者は前線部隊を追いますが、なかなか追いつけないくらいの猛スピードでイギリス軍は進軍します。途中で鹵獲したイタリア軍のトラックや武器を使ってイタリア軍を攻撃しながら。とうとうベンガジまで進出したイギリス軍は、イタリア軍相手に大勝利を得ます。
 しかしそれは“第一ラウンド"に過ぎませんでした。さらに西のトリポリには、ドイツ軍が控えていたのです。さらに、オーストラリア軍はシンガポールで必要とされ、インド軍はペルシア湾に向かわなければなりません。ギリシアは救援を要請します。英国はイタリア軍を過大評価していましたが、ドイツ軍は過小評価していました。ロンメルの部隊は東に急進をし、トブルクで戦線は膠着状態になります。
 このままヒトラーが「西」に集中していたら、戦局はどうなったかわかりません。しかし1941年6月22日にドイツ軍はソ連に侵攻を開始、これで北アフリカ〜中東の戦争は新しい局面に入りました。
 天才的なひらめきを見せるロンメルとどちらかといえば凡庸なオーキンレック将軍とは、どうも戦いが噛み合っていないような様子です。押したり引いたり隙を突いたり、大量の戦車がお互いに破壊し合い、砂漠は広大な墓場になり、両軍とも疲労困憊の極みで、「平穏な状態」が戦線にもたらされます。
 ここで著者は、情報当局の失態を告発します。戦いがまだ始まってもいない段階で彼らは「我が軍は敵を凌駕している」と楽観論を大衆に植え付けました。そのため、現場の兵士たちが命を賭けて勝ち取った勝利はその価値を減じて評価され、ちょっとした挫折も倍以上の打撃として受け取られるようになっていたのです。大衆は「事実を受け入れる力がない」と当局に過小評価され、現場の兵士たちにはひどい誤解が与えられました。だから、混乱の中からまた西に向かい始めた連合軍の前進は、本国では賞賛ではなくて冷笑と倦怠で迎えられました。
 撤退するドイツ軍を追う英軍に同行する著者は、退却の混乱の中で残された物資が、イタリア軍とドイツ軍で大きく違うことに驚きます。派手に飾り立てていたイタリア軍に比較して、ドイツ軍は地味だが実用的で優良なものに囲まれて生きていたのです。また、戦闘が終了してから掠奪に現れるベドウィン族のことを著者は否定的に描いていますが、ベドウィンから見たらどこか他の世界から突然やって来たよそ者同士が勝手に自分たちが平和に暮らしていた世界を武力で蹂躙しているわけで、それに対するお返しが掠奪くらいだったら我慢しろ、と言いたいのでないかな。
 そして、カイロとトリポリの中間点、キレナイカで英軍の補給線は限界に達し、また戦局は膠着状態に。するとまたロンメルが逆襲を企図します。アフリカ軍団の総攻撃です。
 ロンメルは「砂漠の狐」と呼ばれていましたが、イギリス軍の特殊部隊がジープ1台〜数台の規模で砂漠を自由に動き回って奇襲やゲリラ戦を繰り返すのもまた「砂漠の狐」の行動と呼んでも良いのではないか、と思えました。本物の砂漠の狐(砂漠の住民や生きものたち)には、大変な迷惑だったでしょうけれどね。
 そして「敗戦の責任」は現場の司令官に押しつけられ(実際の問題がどこにあったかは、著者が詳しく分析をしていますが、「司令官が劣悪だからイギリス軍はロンメルに翻弄された」という説は採っていません)、アメリカのモントゴメリーが最高司令官として赴任。大量の物資が投入され、最終決戦「エル・アラメーンの戦い」が始まります。おっと、「最終」ではありません。このあと連合軍は、チュニジアまでずっと戦い続けなければならないのですから。

 


味覚

2020-02-26 06:49:50 | Weblog

 私たちは、味覚細胞だけで味わっているわけではなくて、嗅覚や視覚、温度や触覚(舌触り)などもフル動員して食べものを味わっています。さらに「言葉」も動員されます。「松阪牛」とか「野菜は○○県産」とか「シェフはフランス帰り」とか聞くだけで「美味しさ」がアップしません? ということは、私たちがもしも「舌」だけで料理を食べたら、そこにはどんな「味」がするのでしょう?

【ただいま読書中】『ペルシア王は「天ぷら」がお好き? ──味と語源でたどる食の人類史』ダン・ジェラフスキー 著、 小野木明恵 訳、 早川書房、2015年、2200円(税別)

 本書は著者の友人夫妻の娘さん(当時7歳)が発した「トマト・ケチャップって、どうしてわざわざ『トマト』が付いているの?」という疑問から始まったそうです。さらに著者の香港出身の友人から「keは広東語でトマト、tchupは広東語でソース」と聞いて著者の疑問はさらに深まります。実は中国で最初に作られた「ケチャップ」は、魚醤でした。それをイギリスやオランダの商人が持ち帰り、材料を魚から別のもの(マッシュルームや胡桃)に変えて味わっていましたが、一番人気がトマトを使ったものでした。それがアメリカに持ち込まれ砂糖が加えられ、現在の「ケチャップ」になったのです。
 「ケチャップ」一つでこれですから、食べものを言語学的に解析する、というのは非常に面白い試みであるという予感がします。実際にそれを実行するのは大変でしょうけれどね。著者に感謝しながら、私は読むことにします。
 まずは「メニュー」。メニューに「高級な言葉(長いスペルの単語)」や「形容詞」「産地」「エキゾチック」「お客さまの好み」といった言葉が使われると、それにほぼ比例して料理のコストは上昇するそうです。ただし上昇するのは「料理の価格」で「美味しさ」とは本書には書いてありません。なお、本当に高いレストランでは、客はメニューから選択する権利を行使できなくなる(シェフに任せることになる)そうです。
 6世紀中頃のササン朝ペルシア帝国の「王の王」ホスロー一世は「シクバージ」という肉の甘酢煮込みが好物でした。この具沢山の料理は人気が高く、それから300年様々な物語で言及され、やがて魚のシグバージも生まれました。13世紀エジプトのレシピでは、魚を揚げて香辛料入りの甘酢ソースをかけています。さらに地中海沿岸に広まるにつれ特にキリスト教徒の住む地域で「魚のシグバージ」は「魚を揚げたもの」を意味するようになりました。名称も料理もバリエーションが豊かになり、フランス語には「アスピック(冷めたシクバージのゼリー状になったスープ)」、スペイン語には「エスカベーチェ」や「衣つき魚(衣をつけて揚げた魚に酢と油をからめて冷たくして食べる)」が生まれます。イベリア半島から「シグバージ」は、新大陸に渡って「セビージャ」になりますが、日本に伝わると「天ぷら」になります。そう言えば「南蛮漬け」の「南蛮」は日本ではポルトガル人のことでしたね。なるほど、これが本書の日本語タイトルになったんだ。
 英語で「乾杯」は「toast」ですが、これは「サイダー(cider)」「シケル(イディッシュ語で「酔っ払い」shikker)」と語源でつながっています。そもそも「toast」の語源はラテン語の「tostare(焼く、火で炙る)」です。そして本来の「toast」は「火で炙ったパン」ですが、17世紀くらいまでワインやエールにトーストをひとかけら入れて飲む習慣がありました。また「誰かの健康を祈っての乾杯」が17世紀のイギリスでは盛んに行われ、その「誰か」に選ばれた貴婦人はワインの中のトーストにちなんで「社交界のトースト」と呼ばれるようになりました。ここから話は後期ラテン語の「sop」に飛び、世界のあちこちを移動してから「献酒」の習慣についても教えてくれます。時空間と言語の世界の特急旅行です。ちょっと目まぐるしいけれど、楽しい旅です。
 「デザート」の章も面白い。「コース」とか「デザート」の概念があるのは、古代ペルシア料理や中世以降の欧米の料理、そういった概念がないのは古代ギリシア料理や中国の料理。アメリカで中華料理も「デザート」を出すようになりましたが、そこに「日本」が一役買っている、なんて面白い指摘もあります。
 


東京も頑張れ

2020-02-25 06:58:29 | Weblog

 何から復興したいのかは知りませんが、東京の「復興」を応援しましょう。なにしろ「復興五輪」だそうですから。

【ただいま読書中】『パンは呼んでいる』山本あり 作、ガイドワークス、2017年、1300円(税別)

 先日『京都ご当地サンドイッチめぐり』で出会った作家(「漫画家・イラストレーター。調理師免許所持」とプロフィールにあります)です。あちらでは「京都」を駆け回っていましたが、本書で最初に登場するのはハバナ。映画「シェフ三つ星フードトラックはじめました」で話題になったキューバサンドイッチ(サンドイッチ・クバーノ)を実際にキューバで食べてみよう、というのです。いや、これが“絶品"。サンドイッチそのものもですが、それを取り巻く環境まで楽しんでしまう作者の姿勢が、こちらに「作者の幸福感のお裾分け」をしてくれるようです。
 メキシコではサボテンのタコスやトルタ。フランスではフォアグラとイチジクコンポートのバゲットサンド(なんだ、この高級感は?)。欧米アジアアフリカ……いろんな国のローカルなサンドイッチの写真も続々登場。いや、これは眼福ですが、腹が減る本です。
 国内に戻ってきても作者は忙しい。まずは鎌倉ですが、仲間と自転車でパン屋巡りです。計画では、1日で10軒のパン屋をめぐって買い食いをする、って、ずいぶん広範囲なんですが。あ、だから自転車。しかし、レンタサイクルを確実に借りるために、土曜の朝八時半に鎌倉に集合とは、ハードスケジュールです。外で食べているパンを狙って急降下してくるトンビとの“攻防戦"もスリリングです。
 「優雅なモーニング」で紹介される店では、食パンを焼くトースターを自分で選べる。たしかにトースターもいろんなタイプがあるし、焼き加減も好みがありますからねえ。いやあ、こういったのが“贅沢"というのかな。
 「鎌倉」で「自転車」に覚醒してしまった作者は、とうとう自前の自転車でパン屋巡りを始めてしまいます。紹介されるパンの美味しそうなことも半端ではありません。
 そうそう、合間合間にはさまれる「作者オリジナルのサンドイッチ」もまた美味しそうです。1冊丸ごと美味しいって、読み終えた私はこれからどうしたら? まずは自転車を購入?

 


検疫

2020-02-24 08:58:18 | Weblog

 大昔の検疫では、船が港に着いたらそこでまず隔離して人の交流をしないようにして、一定期間発病者がいなければ上陸を許す、となっていたことがヨーロッパではありました。最近の新型コロナウイルス肺炎での“検疫"で、クルーズ船が妙な形で注目されることになってしまいました。あれは隔離施設ではなくて客船ですから、もしもどうしても船で「隔離」をしたいのだったら、その大昔のやり方を真似するしかなかったのではないか、と私は思っています。実際には船内感染が猖獗して、まるで「培地」のようになってしまったわけですが。

【ただいま読書中】『客船の世界史 ──世界をつないだ外航客船クロニクル』野間恒 著、 潮書房光人新社、2018年、3000円(税別)

 「海の道」は大英帝国によって整備されましたが、その主力は帆船でした。1788年スコットランドでウィリアム・シミントンが蒸気機関の試験船を製作、その実験をアメリカから来たロバート・フルトンが見学・乗船、1803年パリでフルトンは蒸気船を製作、アメリカに帰国後スポンサーにリヴィングストンを得て「スティームボート」を製作、ベッド付き客船に改装して営業運航を始めました。ハドソン川上流は物流は盛んでしたが、内陸の河川は風が弱く帆船には向かない土地でした。そこで蒸気船は強みを発揮、船団を形成し、やがてミシシッピ河へも進出することになります。
1819年にはアメリカの「サヴァンナ」が大西洋を蒸気船として初めて横断(ただ、石炭の搭載量に限界があったため、29日の航海の内気走したのは12日間でしたが)。わずか319トンの小ささですから「大冒険」です。ただ、当時蒸気船には人気がありませんでした。これは「新しいものへの不信感」や「石炭のコストがとても高い」ことが影響していたと著者は考えています。それでも蒸気船は進歩し、大西洋を蒸気機関だけで横断できるようになり、「レース」が行われるようになります(のちのタイタニック号の時代に行われた「レース」と似ています)。そして、蒸気船による定期航路が始まりました。帆船の40日と比較して2週間の航路ですから時間のメリットはありますが、石炭に圧迫されて船室は狭く甲板に出ても外輪がうるさく、快適な環境ではなかったようです。
 1836年にスクリューの特許がイギリスとスウェーデンでほぼ同時に登録されています。スクリューの推進効率は外輪の2倍くらいだったため、同じ大きさの船だと機関部や石炭庫がざっくり半分となりその分利益は増すから、外輪蒸気船はどんどんスクリュー船に置き換えられていきました。
 北大西洋航路はどんどん発展しましたが、船会社の主な収入源は新大陸への移民でした。
 移民と言えば、日本の客船発展にも移民が大きく関与しています。南米への大量の移民輸送に大型客船を作ったのですが、私にとって意外だったのは昭和の時代に日本海軍がそこに関与していたこと。戦争になったときに徴用してすぐに軍用船に改造・転用できるように、設計についていろいろ口を挟んでいたのです。
 第二次世界大戦で各国の客船が蒙った被害が列挙されていますが、タイタニックも真っ青の数字がずらずらと。やはり戦争はいけません。

 そうそう、本書には「奴隷貿易」は扱われません。あれ?と思いましたが、奴隷は「荷物」だから貨物船で運搬されていたからですね。「奴隷制度」もいけませんねえ。


希なること

2020-02-23 08:24:36 | Weblog

希なること
 「まれ」は「稀」とも「希」とも書きますが、すると「希望」は「(叶うことが)希な望み」ということに?

【ただいま読書中】『人類との遭遇 ──はじめて知るヒト誕生のドラマ』イ・サンヒ&ユン・シンヨン 著、 松井信彦 訳、 早川書房、2018年、2300円(税別)

 まず「食人」というインパクトのある話題から本書は始まります。発掘されたネアンデルタール人の骨に肉を削いだと思われる傷がついていました。ではネアンデルタール人は「人喰い人種」だったのか? ここでの研究は「科学がどのような筋道で進むか」を明確に示してくれます。食人による傷と二次葬による傷の違い、食人行為と食人種の区別、食人による病気……話はどんどん楽しく膨らみます。
 「父親」についての話も実に示唆的です。生殖戦略で雄と雌の利害は対立します(雄はできるだけ広く精子をばらまきたいが、雌は優れた雄とだけ子作りをしたい)。そこで様々な「進化の結果」が生じるのですが、ほとんどの動物では雄は「子作り」はしますが「子育て」は雌に任せます(“次"に精子をばらまきに行きたいですから)。ところがヒトの社会では子育てに関与すべき「父親」という存在が重視されています。それはなぜでしょう?
 「赤ん坊の大きな脳」「農業の意味」「腰」など、古人類学ではおなじみのテーマが次々登場します。正直言って「以前に読んだことある」と知ったかぶりをしたくなるテーマもありますが、著者はひと味違った“調理"をしてくれます。これは、著者が女性で、韓国で育って大学以降はアメリカ、という経歴を持っているからかもしれませんが、細かいところが実に楽しいエッセイです(思えば、これまで私が読んだ古人類学の本は、基本的に白人男性のものばかりでした)。「白雪姫の遺伝子」「ばあばはアーティスト」「キングコング」とか、章のタイトルを見るだけで微笑んでしまうものも含まれています。「真実は一つ」なのかもしれませんが、おそらく学問の世界に多様性は必要なのでしょうね。

 


肉欲と純愛

2020-02-22 06:44:50 | Weblog

 セックスレス夫婦というとなんだか肉欲の観点だけで夫婦を見ているようですが、同じカップルを「純愛夫婦」と言ったらなんだかきれいなイメージになりません?

【ただいま読書中】『ダンケルクの海』N・モンサラット 著、 伊藤礼 訳、 フジ出版社、1968年、550円

 『非情の海』で著者は知られているそうですが、私はそちらは未読。とりあえずこの短編集が気に入ったらそちらの方にも手を伸ばすことにします。

目次:「マールボロー号の帰港」「恥辱で死んだ船」「殺しのライセンス」「ダンケルクの海」

 「マールボロー号の帰港」……実に独特のリズム感を持った文章です。「雷撃をうけた船は暴行をうけた老貴婦人を思わせた」とか「ここまでは事件はすべて鋼鉄と鋼鉄のあいだで行われたものであった。しかしここから問題はたちまち人間の手にわたってきた」とか、魚雷を一発くらった護衛艦マールボローの描写が、鋭い変化球のような勢いでこちらの心の受容体にすぱんすぱんと届きます。
 艦長の所には「悪い知らせ」が次々届きます。死傷者は士官4名兵28名、行方不明が副長と兵74名、生存者は艦長と士官2名兵28名だけ。無線と機関は破壊され、吃水下では海水が大量に浸入して最後の隔壁一枚でやっと抑えられている状態です。
 これだけの損害を受けたとき、生き残った人びとはそれまでとはちょっと違った姿を見せます。損傷を受けた艦が意外な姿を見せるのと同様に。それを著者は丁寧に描写します。まるで自分がそこにいてすべてを見ているかのように。
 はじめは救命ボートと筏を使って総員退艦を命じようと思っていた艦長ですが、沈むことを拒否しているかのようなマールボロー号の姿を見ている内に、望みがある間はなんとか自力で港に戻ろう、と思うようになります。これは感傷による決断かもしれませんが、もしうまく行けば生存者の数は最大限が望めるはずです。
 本作は艦長の視点で描かれているため、そういった艦長の姿が他の乗組員にどう映っているかは描写されません。しかしもしも私が“そこ"にいたなら、「この艦長にならついていく」と自然に思えるでしょう。迷いと決断、思いやりと冷徹な判断、それらの間で揺れ動きながらも、生き残った人びとは死が待ち受ける海面のすぐ上で動き続けます。しかし、航海しているのか漂流しているのかわからないような日々が過ぎるにつれて、艦長は疲労の海に沈んでいき、それにつれて「視点」は艦長からまるで幽体離脱のように浮き上がっていきます。
 なんとも不思議な短編です。
 残りの3つの短編は、さらに不思議な雰囲気を湛えています。戦争によって変わって(変えられて)しまった人びとの悲しさややるせなさが、ひたひたと伝わってきます。
 ちょっと変わった海軍ものとも言えますが、陳腐な言い方ですが、ヒューマンドラマだな。『非情の海』も読まなきゃいけない、と思えました。

 


応援

2020-02-21 07:36:51 | Weblog

 カメラやスマホを構えている人は、拍手をする気がありません。その気があっても、拍手できません。

【ただいま読書中】『花火(ものと人間の文化史183)』福澤徹三 著、 法政大学出版局、2019年、2600円(税別)

 辞書には「狼煙」を「昼の花火」と説明しているものがあります。空中で火薬を爆発させたら、火花と煙が出ますから、そのどちらに注目するか、ということなのでしょう。本書では「花火」を(軍事用途ではない)「鑑賞して楽しむもの」に限定して話を進めています。
 文献に残る日本の最初の花火は、天正十七年(1589)「伊達政宗のもとに唐人(明国人)が三人参って花火や歌を披露した」と『天正日記(伊達家の歴史書)』に記録されています。ちなみに、秀吉の小田原征伐はその翌年のことです。24年後の慶長十八年、徳川家康がやはり唐人が持参した花火を鑑賞しています。
 江戸時代に花火は国産化されますが、その技術は口伝とされ詳しいことはわかりません。ただ、江戸時代に3冊だけ花火の技術書が出版されています(西暦1700年ころの『花火こしらへ』、18世紀の『水中花術秘伝書』、19世紀の『花火秘伝書』)。その中で紹介されている「柳」という花火は、太い蘆の髄に綿と火薬を詰め込んで吹き出し口に火をつける、というものです。今そのへんの公園や庭で楽しんでいる手持ちの玩具花火のような雰囲気でしょうね。
 慶安元年(1648)の町触(まちぶれ)には「一 町中にて鼠火、りうせい其外花火之類仕間敷事 但、川口ニ而ハ格別之事」とあります。隅田川の河口付近以外の江戸市中では「鼠火」「流星」その他の花火は禁止。幕府は市中での凧揚げ(というかその前身のイカ揚げ)も禁止しているし、庶民が楽しむのが気に入らないのかな。もっとも花火禁止は「火の用心」の観点からかもしれませんが。
 江戸時代の花火に使われた火薬は黒色火薬(硝石、硫黄、木炭末の混合物)で、せいぜいそこに火花を出すために鉄粉を加える程度で、基本色はオレンジ色でした。今のように様々な色を楽しめるようになったのは明治以降です。
 元禄頃には、各地の村でも奉納花火が行われるようになりました。本書には信州の清内路村の史料などが紹介されています。『徳川実記』には将軍が花火を上覧したという記録も多数残されています。身分の上から下まで、日本人は広く花火を楽しんでいたようです。享保二十年七月と八月に、オランダ東インド会社のケイゼルは吉宗将軍の御座船に招待され、1日川遊びをしての締めくくりが両国橋のたもとで花火船がこぎ寄せてきていろいろな花火を目の前で打ちあげてくれる、というショーでした。ケイゼルは商館長ではなかったのですが、その代理ということでのおもてなしだったのでしょう。花火を担当したのは、鉄砲方与力の旗本佐佐木勘三郎孟成でした(公式記録には「大筒役」となっていますが)。自衛隊がさっぽろ雪祭りで雪像造りに取り組むように、鉄砲方が花火に取り組むのも“業務の一環"だったのでしょうね。
 18世紀後半に「打ち上げ花火」が開発されました。著者は、砲術方の武士が、大筒の弾薬に発射後遅れて火が付くように口火と点火薬をつけ加えることで開発したのではないか、と推測しています。口火は、火縄銃の口火を応用すれば良いでしょう。砲術方の武士は、鉄砲・大筒・狼煙を担当しますから、そのすべてを総合的に応用したら、打ち上げ花火が生まれても不思議はありません。幕府は打ち上げ花火も禁止としましたが、事実上黙認をしていました。文化の頃には、隅田川の川開き初日の花火は、大掛かりな催しとなっていて、町奉行は禁止ではなくて警備などでの協力をおこなっています。
 はじめは「武器」の一種だった花火は、泰平の世の中で「娯楽」へと変化しました。「武器の平和利用」とでも言えば良いでしょうか。やっぱり平和は良いな。頭上に砲弾が炸裂する代わりに花火が花開く方が、私は好みです。

 


小説のコンテスト

2020-02-20 07:27:15 | Weblog

 ちょっと調べたら日本中で様々な文学賞が競われていますが、あれって「作品」の出来不出来を競っているんです? それとも「作家」?
 もしも「作品」の出来を評価しているのだったら、「著者名」は伏せて純粋に「作品」だけで勝負をすれば良いのに、なんてことを私は思います。俳句の句会では俳号は伏せられて審査がおこなわれるはずですが、それと同じことが小説でできないのは、なぜでしょう?

【ただいま読書中】『世界一わかりやすい俳句の授業』夏井いつき 著、 PHP研究所、2018年、1400円(税別)

 「俳句のタネを播く」ことを自らの使命としている著者の俳句入門書です。いやあ、非常に取っつきやすい。
 まずは「三種の神器」を揃えましょう、から始まります。「歳時記かな?」と半可通の私は思いますが、「紙」「筆記具」「俳号」とお金がかからないものばかり。なるほど、私もすぐに自分の俳号を思いつきました。
 次は「俳句とはどのようなものか」の説明。「(17文字ではなくて)17音でできている」「季語が必要」というこれまた当たり前に思えることの再確認。
 そして、素人にはとてもわかりやすい「12音の文章」+「5音の季語」の「王道パターンの“型"」が紹介されます。この時重要なのは「季語はあとから選択する」ですが、それは一物仕立て(季語の説明に終始する句)になることを防ぐためだそうです。そのへんの詳しいことは本書を読んだら実にわかりやすく書いてあります。
 俳句って、頭の中からひねり出す文系のもの、というイメージがありましたが、著者は「観察の重要性」を強調します。「季語」を「観察」することで自分の中に「季語」を取り込み、それからそれをアウトプットする、するとそれは「自分の言葉」になります。ついでにアウトドアでの観察を繰り返すことで、体力が養われたり認知症予防ができるかもしれません(できないかもしれませんが)。あるいは理系のやり方で、方程式を解くように句を組み立てる方法もあるそうです。
 私自身は「観察」は好きなので、これまでの生活を特に大きく変えることなく俳句に取り組むことが可能そうです。ふうむ、一句ひねってみようかな。とても良いのができたら、伊藤園のコンテストにでも出してみようかしら。〆切りは今月末なので、まだ間に合います。

 


ゲーム仲間

2020-02-19 06:54:27 | Weblog

 ネットゲームというものを経験しようと始めてみました。ゲーム自体も面白いのですが、もっと興味深いのは「人と人との関係」です。ゲーム参加者がチャットルームでお喋りをして、気が合うと仲が良くなっていって、でも全員ハンドルネームだから男か女か何歳かも不明(自分で言う人はいますが、それが本当かどうか確かめようがありません)。ところが時にオフ会もあるようで、そこで会った人たちの繋がりは、ちょっと特別なものになっているようです。
 四半世紀前に「コンピューター通信」の世界で私がやっていたことと、本質的に差はないようです。ただ、NIFTY-Serveでは「会話」がメインだったのが、ネットゲームだと「ゲーム」がメインになっていることが大きく違います。
 そうそう、何歳かが不明、と言いましたが、この前東京オリンピックのことが話題になり、「生まれたのが東京オリンピックの年(1964年)」と言った人が「年長者」扱いされていました。私は生まれたどころか、聖火ランナーが走るのは肉眼で見ているし競技は白黒テレビで見ています。もしもそれを白状したら、「化石」扱いされちゃうかな?

【ただいま読書中】『先駆者ゴッホ ──印象派を越えて現代へ』小林英樹 著、 みすず書房、2017年、4800円(税別)

 ゴッホが描いた絵を紹介するとともに、彼の人生、彼を取り巻く世界について文章で“描いて"行こうとする本です。
 最初は素描「ハーグの運河沿いの道」(1873年)。二十歳のゴッホがハーグで画商勤めをしていた時代のものです。一見なんてことはない素描ですが、見る人が見たらいろんなことが読み取れるようです。霧の表現技法、木の枝による空間構成、描き込む部分と紙の白に任せる部分……言われたらなんとなくわかるような気がしますが、「絵を見る」ことに感性と知性が必要なんだな、と私は著者の文章の方に感心しています。
 76年に画商を解雇されます。この時代の素描も、なんてことはない風景を切り取ったものに見えますが、おそらくそこにはゴッホの心を強く惹くものが含まれているのでしょう。写真家がカメラを使うことで自分が得た「印象」を写真として固定しようとするのと同じように、ゴッホは紙と筆で自分の「印象」を固定しようとしているのでしょう。というか、ゴッホに限らず、絵を描く人の多くはそうなのでしょうね。
 父と同じ聖職者になろうとしましたが、79年に見習い宣教師の資格更新が認められず、ゴッホは画家になる決意を固めます。オランダで過ごした画家としての初期の作品は、しごく真っ当な風景画です。建物の線はくっきり真っ直ぐで、私が知っている「ゴッホの絵」のグニャグニャした感じの線とは全然違います。ただ、世間一般の風景画とひと味違うのは、庶民の暮らしの匂いがぷんぷんすること。これでは「人気」は出ないだろうな、と私は思います。「光」よりも「陰」で空間を表現しようとしているようにも見えます。
 ついで2年間の「パリ時代」。弟テオとの書簡がないためこの時代について詳しいことはわかりません。ほとんどの伝記でもここはさらっと流されているそうです。著者は、文字情報に頼らず、残された絵だけを手がかりとしてゴッホの内面に迫ろうとします。パリでゴッホはまずコルモンのアトリエ(石膏デッサンと人体デッサンを学ぶアカデミックな研究所)に通います。それまで独学の画家だったゴッホは人体を合理的に把握するために基礎を学んだのでしょう。パリでは印象派が大流行でしたが、ゴッホはすぐにはそれを受け入れませんでした(絵を見たらわかるそうです)。ただ、印象派を受け入れる直前の絵では、フランスの三色旗の色を並べるだけで旗を連想させるようなテクニックを使っていて、色とフォルムの関係ではゴッホはすでに印象派の“先"を行っていた部分もあるようです。
 1887年春、ゴッホは印象派的な色調とタッチで絵を次々制作しました。しかし突然その方向に行くことをやめ、夏には浮世絵の模写を手がけます。浮世絵の淡い色調はゴッホのものとは相容れませんが、浮世絵独特の空間把握をゴッホは取り入れようと努力しています。パリ時代のゴッホは、様々なスタイルの絵を残していますが、これらは新しい自分の技法を確立するための試行錯誤のようでもあります。
 本書では、ゴッホが自らの内側に浮世絵の平面技法を取り込んだからこそ「ジャポニスム」が西洋絵画に定着した、と述べられています。他の画家の「ジャポニスム」は皮相的なものに過ぎない、と。そして、ゴッホは、「浮世絵の平面技法」の上に「印象派の明るい色使い」を乗せます。しかし陰の部分はこれまでのゴッホの「陰」のままです。これにより、たとえば有名な「跳ね橋」(1888年)の画面に「乾燥した空気」「輝く陽光」「空気中いたるところに散乱する光の粒子」がいきいきと表現されることになりました。
 「印象派」と言うと私は条件反射的に「点描」と答えたくなりますが、そもそも「印象」とは人が抱くもので、ある場面で画家が何に強く印象を受けたのか、を画面に強く表現することが「印象派」の主張の根幹にあるのでしょう。テクニックはその主張に付随するだけのもののはず。
 アルルに来てからゴッホの製作意欲は増しています。しかしその生活を支える弟のテオには「ゴッホの意欲の上昇」はすなわち「コストの上昇」でもありました。ゴッホも少し節約をしようと思ったのか、ペンによる素描を多く描くようになりました。オランダ時代にゴッホは素描を多く描いていて、それがパリ時代には減っていましたが、アルル時代にはまた増えることになりました。傑作が多くて選択に困る、と著者はぶつぶつ言いながら、何枚か紹介してくれていますが、実にしっかりしたデッサンであることに私は驚きます。ゴッホのデッサン力は、並みではありません。同時に、浮世絵の技法を自分の内部で完全に消化したことを示すために描いたかのように見えるのが、「向日葵」シリーズです。
 ゴッホはゴーギャンと2箇月の共同生活をしましたが、それによって彼の作風が大きく変化することはありませんでした。お互いに大きく影響し合っていたら外野の人間には面白かったんですけどね。
 そして、自分の右耳の下半分を切り取る“発作"。そのことについてゴッホは、テオへの書簡で何も述べていません。ただ、その直後の2枚の自画像は、ゴッホの内部に「二人のゴッホ」がいるかのようにまるで違った印象を与えてくれます。さらにゴッホの診察をしてくれた医師にお礼としてその肖像画をプレゼントしていますが、こちらはとても温かく優しい雰囲気が満ちています。
 ゴッホは「画家であること」を貫こうとします。しかしテオは結婚し、これまでのように援助をすることは困難になっています。それがわかっていても、ゴッホはテオに絵の具を大量に注文します。病院を出ても元の家に戻れず、しかたなく施設(サン・レミの修道院)に頼ります。そこでも風景画などを描き続けますが、やがて「発作(どうやらてんかんの発作だったらしい、というのが現在の通説だそうです)」を繰り返すようになります。発作の前後でも同じ絵の制作が継続できたということは、ゴッホの精神の強靱性を意味する、と著者は述べます。
 ミレーの絵の模写を繰り返し、テオ夫婦に息子(ゴッホの甥)が生まれ、パリで象徴派の詩人アルベール・オーリエによるゴッホを絶賛する論文が発表され……ゴッホは画家として人生の最終ステージに入ります。パリに戻りますが、絶賛の論文一つで絵が売れるようになるわけもなく、ゴッホは苦しい生活を続け、オランダに戻ることを夢見ます。そして、自分の胸に銃弾を放ちます。これも「狂気の沙汰」ではなく、瀕死の床でテオと語り合い続け、深夜に息を引き取っています。10年間で約1000枚の絵を残して。
 ゴッホを高く評価する人って多いとおもうのですが、そういった人はどの時代のゴッホのどんな精神的な局面にあったときの絵を高く評価しているんでしょうねえ。