【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

三ヶ月後

2009-11-30 18:53:22 | Weblog
 ちょっと日数を計算をする必要があったのですが、今日11月30日の「三ヶ月後」って、いつでしょう?  来年の2月末日?  だけど11月28日の三ヶ月後も2月28日です。もちろん11月29日のも。3つの異なる日付の「三ヶ月後」が全部同じ日になっちゃって、良いんですかねえ。さらに言うと来年2月28日は日曜です。営業的にいろいろ問題が出てきたら、どうしましょう。

【ただいま読書中】『百億の昼と千億の夜』光瀬龍 原作、 萩尾望都 作、  秋田文庫、1994年(2009年38刷)、705円(税別)

 昨日の読書日記『百億の昼と千億の夜』の漫画です。
 よくまあこんな難しい作品を漫画にしようと思ったものだ、と思っていたら、本書の解説を書いている山本真巳さんも独自に漫画化を試みた経験を持っている(で、8割がたできたところで萩尾さんの連載の話を聞いてショックを受けた)、とのこと。
 プラトンのところはほとんど原作の通りです。パラボラアンテナがもろに絵で見えてしまったり、長老のかわりに長老の娘が登場したり、といった違いがある程度。
 阿修羅も少女です。この「少女としての阿修羅」は、光瀬さんの“手柄”ではないかと私は感じます。連載時に読んだ私の記憶では、もっとはかない感じの少女でしたが、改めてみると儚さだけではなくてけっこう力強い存在に描かれています。
 ナザレのイエスのところはちょっと変更が加えられています。原作ではローマ総督の側に立っていたユダが、ずいぶん若くなってキリストの弟子になっているのです。ユダがどちらについていても良いのですが、個人的にはユダはイエスよりも年上だと思っているので、その描写にはちょいと違和感を感じました。ただ、原作にはなかった「ユダの再登場」があるので、そちらには満足です。というか、光瀬龍さんは、登場したキャラをあっさり退場させてしまいますが(原作でも、シッタータとおりおなえは最後の最後であっさり退場です)、これはあまりにもったいない、と感じられるので、こうしてユダが再登場してくれるとこちらは「収まりがついた」と感じることができるのです。光瀬さんの作品の魅力の「不安定性」は損なわれますけれどね。
 「我々の生命や文明や、いや、存在そのものに、滅びがあらかじめ運命づけられているのだとしたら、ではそこで我々はどうするのか」という重たい問いに、本書はそのラストを「出発」とすることで答えます。「善哉」と私は呟きます。「善哉」と。

 一気に読んでしまって、その勢いで同じ日に再読もしてしまいました。原作の方ももう一回読んでみようと思っています。いやあ、こんなすごい作品に出会えたのは、人生の幸福だとつくづく思います。



評価

2009-11-29 17:11:44 | Weblog
 ドバイ・ショックがどのくらいのダメージを世界経済に与えるのかはわかりませんが、円の独歩高を見ると、ダメになったと思える日本経済はまだ世界の中では「良い方」という評価を得ているのかな、とも思えます。実体の評価ではなくて投資上での評価ではあるでしょうが。ただ「良い面」があるのなら、まずそれを認識し、そしてそれを強みとしてこれから立ち回ることも考えた方が良いでしょう。「不景気だ」「もうダメだ」とだけ言っているのではなくて。
 ちょっと古い話ですが2000年のことを思い出しました。この年世界保険機構WHOが「世界各国の医療保健制度国際ランキング」を発表し、そこで日本は第一位でした。ところが日本のマスコミはそれを無視して盛んに「日本の医療は最低最悪だ」との報道を繰り返していました。WHOがそれ以降国際ランキングの発表をしていない様子なので(少なくとも私には見つけられません)「医療崩壊」で現在はどのくらいまで日本のランクが下がったかは知りませんが、医療にしても経済にしても(そしておそらく政治に関しても)、あまりマスコミの“誘導”を信じないで「良い面」をまず認識してそれを未来へどう生かすかを考えた方が良いのではないか、なんてことを私は思っています。

【ただいま読書中】
百億の昼と千億の夜』光瀬龍 著、 ハヤカワ文庫JA6、1973年(1008年37刷)、780円(税別)

 宇宙が創生されたシーンから本書は始まります。序章で「寄せてはかえし/寄せてはかえし/かえしては寄せる」と印象的な繰り返しが用いられ、そして焦点は地球へと。
 まず登場するのはプラトンです。アトランティスの伝説を追い求めて旅をするプラトンは、不思議な村に入ります。屋根にパラボラアンテナが立ち、窓に透明な「グラウス」がはめられ、天井には白熱電球が煌々と輝く建物が並んでいます。プラトンはそこで不思議な体験をします。自身がアトランティスの高官オリオナエとなってしまうのです。アトランティスは千年前に「惑星開発委員会」によって文明をもたらされ繁栄していました。しかしアトラス七世とその父ポセイドニス五世(どちらも身長は人類の10倍以上)は人々に「実験は終了。集団で強制移住」と言い渡します。人々は逆らいますが、その結果はアトランティスの滅亡でした。
 次は悉達多(シッダルタ)太子。彼は出家し、4人のバラモン僧に先導されて梵天に会いに行きます。その途中で見た宇宙は荒廃していました。宇宙は遠い将来の熱的な死に向かっていたのです。さらに梵天は4億年にわたって阿修羅と困難な闘いを続けていました。シッダルタ太子は阿修羅に会い、この宇宙の荒廃は阿修羅がもたらしたものではなくてむしろ宇宙の創造者が仕組んでいるものである、と言われ、さらに弥勒に会うように勧められます。56億7千万年後に現れて救いの国を開くという弥勒は、異世界の住人であることをシッダルタは理解します。
 ナザレのイエス。「いつか必ずやってくる最後の審判のために、身を正しくしろ」と説く預言者は、奇跡を起こしたことや言葉の端々を咎められ、ローマ総督ピラトゥスはユダヤ教の大司祭たちから死刑にするよう要求されます。ピラトゥスは迷い、予言者ユダに相談します。ユダは言います。「もし神がまことに最後の裁きを必要とするものなら、この世は滅びの道にこそ定めがあるものなのでしょうか」 イエスの死の瞬間、「奇跡」が起き、そしてユダの耳には不思議な会話が聞こえます。陛下、司政官、梵天王、惑星開発委員会、異世界の住人、太子……そしてそのままユダは姿を消します。
 3905年、海中でひそかに暮らしていたシッタータは使命感に駈られ上陸します。そこには廃墟と化したトーキョー・シティがありました。そこで暮らすおりおなえと出会ったシッタータは、ナザレのイエスに襲われ、危ういところをあしゅらおうに救われます。天地を揺るがす戦いで形勢は逆転、イエスは、惑星開発委員会に命令を下す《シ》のところに逃げ出します。3人はイエスを追います。《シ》を求めるために。3人は惑星開発委員会のビルがある惑星アスタータ50にやって来ますが、そこの文明も滅びかけていました。死にかけた人びとは「神」の到来を(そしてそれによる救いを)ひたすら待ち続けていました。しかしここでの「都市」の描写は、映画「マトリックス」の原型です。
 遂にMIROKUが登場し、あしゅらおうに心理攻撃をしかけます。MIROKUが知りたいのは、あしゅらおうの“黒幕”です。それを知りたいのはあしゅらおう(とシッタータとおりおなえ)も同様です。そして三人はアンドロメダ星雲を目指します。
 
 歴史上の有名人物たちが集結して巨大な敵と戦う、というのは非常に魅力的な構図です。山田正紀もそれを借りて『イリュミナシオン ──君よ、非情の河を下れ』を書きました。ただ、光瀬龍ではプラトン、山田正紀ではランボー(兵隊ではなくて詩人の方)が“戦士”というのがなかなか面白い趣向ですが。
 最後の圧倒的な宇宙のイメージ。絵になるなあ、と私はつぶやき、それを絵にした作品のことを思い出します。明日に続く。


2009-11-28 17:10:38 | Weblog
きちんと着ることができる人間がわざと着崩すのは、粋。きちんと着ることができない人間のは、ただの野暮な着崩れ。

【ただいま読書中】
世界の葬送』松濤弘道 監修、「世界の葬送」研究会 編、イカロス出版、2009年、1600円(税別)

 日本の火葬率は99%、都会ではほぼ100%です。記録に残る最初の火葬は700年、僧侶の道昭だったそうです。703年には持統天皇が火葬にふされたそうです。ただし日本の主流は土葬でした。土饅頭と言いますが、あれはもともとは埋めた死体が腐って地表が窪むのをあらかじめ想定して盛り上げておいた、と聞いたことがあります。その土を石に置き換えたのが後に墓石になった、とも。(となると、日本では寝棺ではなくて座棺が主流だったということでしょうか。そういえば落語の「らくだ」でも樽に死体を詰め込んで運びましたっけ) ついでに、土葬だと「個人の墓」になりますから、現在日本のあちこちで見る「○○家の墓」は成立しません。実際そういった「家墓」が登場するのは江戸時代末期のことだそうです。
 火葬炉は、ロストル式と台車式に大別されます。ロストルはつまりはロースターで、格子の上で焼くので空気や熱がよく回り短時間で焼き上げることができます。ただし骨は格子を通って下に落ちるのでバラバラになります。台車式だと骨は人体の形を保って残りますが、焼くのに時間がかかります。
 「復活」を信じる宗教では「体」が重要です。「その体」が無かったら復活が不可能になりますから(神の力でまず体を復元してもらい、そこに別所に保存しておいた魂を入れる、という発想はないようです)。ユダヤ教・キリスト教・イスラムなどはだから火葬より土葬を好みます。
 風葬はいろいろなやり方がありますが、洞窟に遺体を安置し数年後に遺骨をきれいに洗って墓地に改葬するのは昔から日本で行なわれており、沖縄や奄美では戦後までその習慣が残されていました。樹上葬も風葬の一種ですが、遺体を木のまたに置いたり棺を吊したり遺体をそのまま木に縛りつけたりする葬送です。日本では木は神が宿る場所でしたが(神木という言葉がありますね)、そういった信仰が無くても、「木」と「生命」(あるいは輪廻)とを結びつける発想がある地域では樹上葬が起きるのは普通のことのように思えます。死後の魂が少しでも天に近づくことで早く帰ってきて欲しい、と願うことにもなりますし。
 ミイラ葬や水葬はまだ日本に縁がありますが、鳥葬はさすがに日本ではないでしょう。チベットでは一般的ですが、遺体を天空に届けるための手段だそうです(鳥は手段ですから、本当は天葬と呼ぶべきかもしれません)。鳥が食べやすいように遺体を切り刻むので、日本でこれをやったら死体損壊罪です。なお、インドのパーシー教徒(ゾロアスター)の間でも鳥葬が行なわれているそうです。

 きわめて現実的な話もあります。土地が足りなかったら土葬が困難です。木が少ない国では棺は貴重品です(イランでは再利用されます)。燃料が足りなかったら火葬が困難です。本書には燃料高騰のため死体を半焼けにしかできなかった中国の例(それを溝を掘ってまとめて埋めようとしていて、近所から悪臭の通報が当局にあってばれた)なんて生々しいものが紹介されています。そうそう、北朝鮮では地方では土葬・都会では火葬が普及してきているそうですが、遺骨の二度焼きはしない様子です。
 本書の最後は日本です。しかしそのタイトルが「文化的重層性と遺骨フェティシズム」……フェチ?



行儀

2009-11-27 17:29:42 | Weblog
 ある道路では時間を区切ってバス専用レーン(バス、タクシー、二輪車以外通行禁止)が設定されています。ところがふだんはそんなのを無視して時速80kmくらいですっ飛ばす自家用車が多くいます。ところが先日その車線をスクーターで走っていたら、どうも雰囲気が変。見ると街路樹の影に警察官の人影が。朝っぱらからご苦労様です。
 しかし、ふだんは原付を蹴散らす勢いで「どけどけ、邪魔だ」と言わんばかりに走っているのが、警察官の姿を見たら突然車線を変更して速度を落として「私は優良ドライバーです」と行儀良い運転ができるようになる人って、家で子どもにどんなしつけをしているんでしょうねえ。

【ただいま読書中】
キャットと魔法の卵』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田中薫子 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2009年、1800円(税別)

 クレストマンシー・シリーズの最新作です。待ってました。
 クレストマンシー城のすぐそばの村には魔法使いの一族が住んでいました。彼らは、自由に魔法を使うために自分たちの存在をクレストマンシーには隠し、さらに仲間内では相争っていました。一族の長老「ばば様」の様子がおかしくなり(「バケツをかぶせるんなら、根を生やすよ!」などと口走るようになったのです)一族はおおわらわ。そういった中、ばば様の孫息子ジョーは城に“スパイ”として送り込まれ、その妹マリアンは、城に住むキャットと知り合います。(ちなみにトニーノがイタリアに帰ってしまった時点のお話です) キャットはマリアンが大魔法使い級の力を持っているのに、それを抑圧されていることに気づきます。マリアンから不思議な卵をもらったキャットは、それを孵すことにします。孵ったのは魔法の生物……ドラゴンじゃありませんよ。一応内緒にしておきましょう。
 森はがらんとしています。一応生物はそろっているのに、何かが足りないのです。風景に“奥行き”が欠けています。キャットは不思議に思いますがそれを追及する時間はありません。子どもも大魔法使いも忙しいのですが、キャットはその両方なのですから。
 村での争いは激化します。ねじれた魔法と呪術がからみあって、事態はどんどん悪くなります。マリアンは真相を見抜きますが、魔法と憎しみで頭がいっぱいになった人々はマリアンの言葉に耳を貸しません。
 キャットとマリアンは二人で森の奥に向かいます。そこで二人(プラスα)を待っていたのは、魔法的な……
 そして村では、1000人規模の魔女たちの魔法合戦(プラス肉弾戦)が始まってしまいます。

 DWJもさすがに筆力が衰えたのか、それとも「シリーズの隙間にはめ込むための作品」という制約ゆえか、本書では著者のいつもの奔放な想像力と緻密な構成の両立がちと怪しくなって作品の勢いが失われてだれている部分があります。ただそれは、「著者の普段のレベル」と比べるからそう思うのであって「そのへんのちょっと良いファンタジー群」と比較したら断然図抜けています。安心して読める一品です。


追い銭

2009-11-26 18:35:40 | Weblog
 政府の活動成果は「白書」に報告としてまとめられます。これはつまり「政府が国民の税金をこんな風に使った」という国民への報告でもあります。で、白書には値段が付いていますが、政府の活動内容を知るために納税者がさらに金を払わなければならない理由は、なに?(ついでですが、この「値段」、出版経費だけではなくてまさか著作権料や原稿執筆料も含まれてます?)

【ただいま読書中】
新科学対話(上)』ガリレオ・ガリレイ 著、 今野武雄・日田節次 訳、 岩波書店(岩波文庫)、1937年(61年14刷)、★★

 一昨日のトムキンスから「科学」「対話」つながりでこの本にたどり着きました。
 古い本です。二重の意味で。まずはガリレオ・ガリレイが原書を出版したのが1638年。もう一つの「古さ」は、この文庫本が出版されたのが昭和12年。本書そのものは昭和36年出版ですが、版は同じなので旧仮名遣いのままです。横書きの部分は右から左に書いてあります。
 ところで序文は「年少の讀者に寄す」とあります。つまり本書は子ども向けと訳者は考えていたわけです。……絶句。
 登場するのは、サグレド(ヴェネチア市民)・サルヴィヤチ(科学者)・シムプリチオ(アリストテレス哲学に通じた学者)の三人です。この構成を見た瞬間、ガリレオが忠実なアリストテレスの信奉者であったことを私は思い出します。(ただし「実験」も重視するので、そこでアリストテレスの盲従者ではなくなりますが)
 まずは「同じ設計の機械を、サイズを拡大して製造したら、同じ強度が得られない」ことの証明から。断面積はサイズの自乗、重量は三乗だから、の話ですが、この時代にはこれが「最新トピック」だったんですね。ただしそんなにあっさり話を終わらせずに、説明にアリストテレスやら「自然は真空を嫌う」が登場して読者を楽しませてくれます。(吸い上げポンプで水を上げる高さに限界がある理由についてもさりげなく述べられています) 「無限」の定義では「すべての自然数」「平方数」「平方数の根」を比較することで(どれも無限に存在するから)「無限」を扱うときには「より大」「より小」「等しい」という言葉(概念)が使えないことが示されます。もっとも著者は、代数学よりは幾何学の方が得意らしく、「無限の概念」を「有限の線分」の中に「無限の点」が存在することから直感的に体得したらしいことが示唆されています。
 驚いたのは「光速度」の測定の話が登場すること。人力しか使えず精密な時計はない時代です。当然きちんとした数字は出せませんが「とても速い」ことはわかったそうです。そして次はお待ちかね「重いものは速く落下し軽いものは遅く落下する」の検討。別にピサの斜塔を持ち出す必要もなく、エレガントに「論理」だけで重力加速度は物質に関わりなく一定であることが証明されちゃいます。さらに「真空の中ではすべてのものは同じ速度で落ちるだろう」という予測も。「自然は真空を嫌う」というドグマにどっぷり使っていた世界(しかも「空気に重さがある」ことは未確定で「質量」という概念も無い時代)の中で「真空の中の物体」を想像できた著者の知性には、感服するしかありません。そしていよいよ話は「振り子」へ。
 しかし読んでいて感じるのは「アリストテレス」の登場頻度の高さです。しかもその使い方の巧妙なこと。アリストテレスの“権威”を使って自分の主張を補強し、ところがその結論はちゃんとアリストテレス哲学を越えたところまで持っていきます。これは学問の世界の“保守主義者”を苛立たせることでしょう。自分よりはるかに深くアリストテレスを理解している人間が存在するだけでも小人には耐えられないことなのに、さらにその人間がちゃっかりアリストテレス(小人の存在基盤)を否定してしまうのですから(コペルニクスとプトレマイオスの天動説との関係を私は思い出します)。しかも、取り上げる題材が、あっちに行きこっちに行き、そのどこでも人を「ほう、なるほど」と感心させるのですから、ますますたまりません。
 そうそう、宗教者から見ても本書はいらだたしいものでしょうね。なにしろ「神を讃える言葉」が圧倒的に不足しているのですから。隅から隅までみごとに「科学の書」なのです。


憐憫

2009-11-25 18:48:07 | Weblog
 自己憐憫が得意な人は、他人の心の傷に気づくことが苦手です。だけど、一度その存在に気づいたら、自分の経験を生かして上手にそれに対応することができる……場合もあります。そうではない場合もありますが。

【ただいま読書中】
誇りは永遠に』ギャビン・ライアル 著、 遠藤宏昭 訳、 早川書房、2003年、2000円(税別)

 フランスで警察に焼き討ちをかけてロンドンに逃亡したアナーキストの青年が、フランスに強制送還するのなら英国王室に関するスキャンダルを暴露する、と言います。ひょんなことからその事件にかかわったランクリンは詳しい事情を知ります。青年は自分が英国国王の落とし胤であると主張しているのです。
 天一坊か、と私は呟きます。
 さらにその青年の恋人がパリから押しかけてきて「無実」を証明しようとして、話がややこしくなります。王室スキャンダルに関してだけではなくて、それをおこそうとしている国際的陰謀がすこしずつ姿を見せてきたのです。さあ、情報局の出番です。
 ここで問題なのは、「その青年が実際に国王の庶子である」ことではありません。跡継ぎ問題は法律が解決してくれます。問題はそれが国際的なスキャンダルに発展して、第一次世界大戦直前の微妙な国際関係に影響を与えてしまうことなのです。ちょうど国王が訪仏の直前。スキャンダルに火がつくには微妙過ぎるタイミングです。こういった「重大事」の前に「個人の感情」などは風前の灯火です。
 実際にそういった索漠たる思いを噛みしめる人は、本書に続々登場します。落とし胤の関係者や情報局員だけではなくて、殺人事件を解決しようとしたら政治的圧力で潰されてしまう警察官も同じような目に遭います。
 残念ながらランクリン大尉のシリーズは本書でおしまいのようです。残念だなあ。これから第一次世界大戦がはじまって、世界の情報戦はますますややこしくなるのに。ただ、構成としては、第3巻と本書とを入れ替えた方が物語の流れが良かったように私は感じました。さもなければ第5巻を書いてもらうか。こういった不満はなかなか解消してもらえないのがもどかしいものです。スパイが「現実」をすかっと解決できないのと同様に。



少子化対策

2009-11-24 18:44:34 | Weblog
 対策は基本的に「現象」に対してではなくて「原因」に対して立てられないと効果を発揮できません。
 では「少子化」に対する「対策」は、何に対して立てられるべきなんでしょう。少なくとも「少子化」という「現象」に対してあれこれやっても、たぶんほとんど無意味でしょう。だって「少子化の原因」は手つかずなのですから。

【ただいま読書中】
トムキンスの冒険(G・ガモフ コレクション1)』G・ガモフ 著、 伏見康治・市井三郎・鎮目恭夫・林一 訳、 白楊社、1990年、3495円(税別)

 ガモフ全集(全16巻)から「不思議の国のトムキンス」「原子の国のトムキンス」「生命の国のトムキンス」「トムキンス最後の冒険」をまとめた本です。
 銀行のしがない事務員トムキンス氏は、夢の中で自然界の速度の限界が非常に遅い町に行きます。自転車を漕いでもすぐに運動体の収縮が起きてしまうのです。汽車で旅行をしたらもう大変。赤方偏移が起きてしまいます。
 もちろんこれは相対性理論のパロディです。光速度が時速10kmだか20kmだかの世界です。
 トムキンス氏の夢の後、「教授」が親切な講演をしてくれます。マイケルソンの実験から光速が一定であることがわかったことから話が始まります。宇宙は膨張を続けるのか、それともある時点から収縮に転じるのか、も(なるべく数式を用いずに)わかりやすく解説されます。しかし、「宇宙論のオペラ」に「ジョージ・ガモフ」が登場してアリアを歌うとは、なんたる発想。ここでは定常宇宙論とビッグバン理論とのホットな論争も登場します。
 別のぶっとんだ発想もあります。量子論を「もし量子が大きくて、それで玉突きをやったらどうなるか」で説明するシーンです。「玉」をキューで突くと玉は位置が不確定となって広がってしまいます。玉の位置をある範囲に固定するとこんどは速度が不確定となってしまうのです。これでは「玉突き」はできません。
 「生命の国」では、トムキンス氏は、微小化され自分自身の体の中に送り込まれます(まるで「あたま山」と「ミクロの決死圏」の合体ですな)。で、当時最先端のウイルスの結晶化などの講義が始まります。

 最初の「トムキンス」は1937年に書かれたそうです。当時はまだ「一般向けの科学啓蒙書」という概念も確立していなかったため出版には苦労があったようですが、その苦労のおかげで私は楽しく科学(と歴史)を知ることができます。先人には感謝。
 本書は基本的にトムキンスが出会う不思議な現象と、「対話」で構成されています。啓蒙書と対話形式は相性がよいのかな、と感じました。(私が思い出したのは、ガリレオ・ガリレイの『新科学対話』や『天文対話』です。あれも「対話」ですから)



世界一

2009-11-23 18:21:39 | Weblog
 「どうして世界一じゃないといけないんです? 世界二位ではダメなんですか?」に対する感想です。
 まずは政策的な感想。まさにそれを決めるのが政策なんじゃないです? 「日本の技術は世界のビリでよい」とか「世界のトップレベルを目指すべきだ」とかを「政治主導」でね。で、今回政治主導で「日本は世界一位を目指さない技術立国をする(あるいは、技術立国はしない)」と決定された、と解釈して良いですね?
 次は技術的な感想。「世界2位を目指す」とか「3位を目指す」よりも「1位を目指す」方が目標設定は容易です。だって「世界一」になるには「現在の世界1位を抜くように全力を尽くせばよい」のですから。だけど「世界2位」「3位」を目指したら「1位は抜かないように、でも2位以下は抜くように」技術設計をしなければなりません。もちろんそんな微妙な設計は可能でしょうが、それに成功したとしても、その時に2位以下が頑張って能力アップをしたりしたら「2位を目指したが4位になった」なんて「失敗例」になる可能性があります。わざわざ手を抜いて失敗するくらいなら、最初から全力を尽くして失敗する方が、まだ後悔が少なく、得るものは多いのでは?
 私だったら「世界一を目指すにしても、もっと節約できない理由は?」と問うでしょうね。実は高給取りで口だけ煩くはさむ天下りがけっこうなコスト食いだったりして。

【ただいま読書中】
誇り高き男たち』ギャビン・ライアル 著、 遠藤宏昭 訳、 早川書房、2002年、2100円(税別)

 1914年春、第一次世界大戦勃発直前。没落しつつあるオスマントルコはドイツと手を結びバグダッド鉄道建設を行なっていました。しかし英国はそれに脅威を感じます。ちょうどクェートで石油を発見しその利権を巡って争いが起きそうな状況で、バグダッド鉄道がペルシャ湾まで延長されたら英国の利権が脅かされる可能性があります。さらに石油は“次の戦争”で重要なものになることは確実。
 鉄道建設を行なっていたドイツ人技師が現地の山賊に誘拐され、土地の族長と結婚した英国人婦人が人質解放の仲介人となります。しかし英国としては誘拐事件がこじれ鉄道建設がストップしてくれた方が国益に適います。そこでランクリン大尉は密命を与えられオリエント急行に乗り込みます。
 ランクリンは同時に私的な問題も抱えていました。愛人関係を続けていたフィン夫人に結婚話が持ち上がったのです。将来がないことが前提の関係ですが、やはりそれは彼にとって(そしてフィン夫人にとっても)衝撃です。
 列車はドイツから国際紛争の火種がくすぶる地を東に向かいます(ウイーンを出たところを「今や一行は、ヨーロッパの応接間を後にしたばかりではなく、その裏口をくぐり抜けて、バルカンという傾きかけた屋外便所へと入ったのだ」とえげつなく表現されます)。列車の中も呉越同舟、様々な国の人間が乗り込んでここでもなにやらくすぶっています。ランクリンの鼻はきな臭い陰謀のにおいをかぎつけます。自分の属する国の利益とは違うものを求めているらしい謎の登場人物たち、秘密の貨物、乗務員に化けた兵士たち……さらに、第一巻『スパイの誇り』の冒頭でのエピソード(ランクリンがギリシア軍と共にトルコ軍と戦ったこと)が本書で大きな意味を持って蘇ってきます。
 ランクリンはオギルロイと組んだら「最強のスパイ」ですが、それでは話が面白くならないからでしょう、本書でも二人は引き裂かれ、それぞれ別の人間と組んで活動をすることを余儀なくされます。この「二組」がまた面白い“配合”で、それぞれに違った味を醸し出します。
 やがてすべての人々は(敵も味方もそれ以外も、スパイも軍人も山賊も、男も女も)「修道院」(あるいはそこを攻撃できる地点)に集結します。「山賊」によって鉄道技師が監禁されているという場所へ。しかし技師はすでに解放されていました。ならば皆はなんのために集まった(集められた)のでしょうか。そして最後は、大砲同士の「決闘」です。見えないところに位置する敵の大砲を破壊するために、計算と勘を働かせて、こちらの大砲を発射。なんと弾込めはフィン夫人がやってます。
 本シリーズは「英国情報部創設」が横糸ですが、縦糸は「誇り」です。スパイが誇りを持てるのか、というちょっと不思議なテーマですが、本書では、ランクリンが、国際的な陰謀の中で衝突しながらばらばらに動いているように見える人間すべてが「誇り」をもっていることに気づいてこんなことを言います。「神よ、我等、誇り高き男たちより、世界を救いたまえ」 いやあ、なかなか強烈です。



2009-11-22 18:38:49 | Weblog
 今日は12月なみの寒さだそうで、うっかり秋用の手袋でバイクに乗ったら、指先が凍えてしまいました。夏が長くなって、でも冬が早く来るのだったら、秋の立場がありませんね。かわいそうに。私の指先もかわいそうに。

【ただいま読書中】
「法令遵守」が日本を滅ぼす』郷原信郎 著、 新潮新書197、2007年、680円(税別)

 亀井大臣が「談合には良い談合もある」と言って物議を醸していますが、本書ではまず「談合」から話が始まります。談合には良い面もある、と。たとえば「業者同士が談合する」ことによって「前払い金を握って逃走する業者」を自治体が掴まずにすみます。談合だとアバウトな契約になりますが、途中での変更や年度中に完成とか予算をきっちり使い切りたいとかのお役所の都合も通るし、業者同士のネットワークで仕事が進められるので相互チェックが働いて工事中の検査も省略可能です。さらに「政治資金」を個人献金で、のシステムが未成熟なため、“そのかわり”に業者の利益から一定割合が政治家に流れて政治を維持していました。そもそも高度成長期には談合は「地域への利益配分システム」だったのです。
 なんとも、まるで「談合の正当化」みたいですが、その法的ルーツは昭和16年、談合罪の処罰規定が刑法に導入されたときに「公正なる価格を害する目的」「不正の利益を得る目的」のいずれかが処罰の対象とされた(つまり談合には「犯罪になるもの」と「犯罪にならない談合」があると法的に認められた)ことにまで遡れます。
 では「良い談合」があるとして「談合は良い」かと言えば、もちろんそうではありません。高度成長が終わると、談合システムは社会に大きな弊害となりました。税金を業者に流してそれで政治家と官僚が潤う(政治資金と官僚の退職後の職確保(生活保障)をする)システムに対する社会の目が厳しくなります。そこで本来行なわれるべきは、談合システムの「機能(社会に良いもの)」を維持するために独禁法を改正するか談合をどうやって解消して入札中心のシステムに変革するかの検討、だったはずです。しかしどちらも行なわれませんでした。行なわれたのは厳罰化です。刑事告発や制裁金の強化でした。
 本来独占禁止法は企業間の自由競争のための法律です。ところが日本では諸般の事情で(本書でその歴史的事情を読むと呆然としてしまいますよ)「消費者保護」として用いられることが多くなりました。そこでマスコミは「悪徳企業vs痛めつけられている消費者」の図式でそれを報じ続けます。したがって厳罰化は世論に歓迎されました。「談合を行なう悪徳企業を罰しろ」と。しかし厳罰化がもたらしたのは、談合システムの隠蔽です。かつては公然と行なわれていた談合は非公然の世界に移行し、結果としてコントロールが困難になりました。そこで登場するのが「天の声」です。
 ライブドアや村上ファンド「事件」も、本書を読むと、マスコミの報道とはずいぶん印象が違います。著者はホリエモンや村上さんの“弁護”は全然していないんですけどね。法律があまりに形式主義であることを指摘し、そのことが社会の公正な成長をかえって阻害していることを指摘しているだけです。さらに証券取引法が証券市場の「ルール」として機能してこなかった歴史の指摘も。その原因は「法を執行する人員不足と不十分な体制」。談合と構造は同じです。
 耐震偽装も同じ「構造」を持っています。これも「法の失敗」事案です。建築基準法は実は「最低基準」でしかもその対象は木造一戸建て程度の単純なもの。大規模建築には力不足の法律だったのです。さらに安全を確保するための制度も形式的なものでした(そもそも日本の役所には、完工検査を行なう知識も技術も人員の余裕もありません)。
 著者は「コンプライアンス」を「法令遵守」ではなくて「組織が社会的要請に適応すること」と定義づけているそうです。したがって「法令遵守(または法令順守)」絶対主義のマスコミとは相性が悪い様子です。それと、そういったマスコミと組んで「劇場型捜査」を行なう検察とも(だから著者は検事を辞めたのかな)。
 機械的に「誰が悪人か」を決めたい人には、本書は評判が悪いでしょう。だけど「どうして“誰が悪人か”を決めたいのか」に興味がある人には面白く読める本です。私は最後の「カンブリア紀の種の爆発的進化」についての記載が気に入りました。



真面目

2009-11-21 18:10:07 | Weblog
 「あの人は真面目な人だ」は、単にその人の状態を表現しているだけで、その人自身の価値判断や仕事の評価をしているわけではありません。

【ただいま読書中】
マン・オン・ワイヤー』フィリップ・プティ 著、 畔柳和代 訳、 白楊社、2009年、2200円(税別)

 「十八歳になりたてで、自由で、反抗的で、人間不信」な著者は、歯医者の待合室の雑誌で、大西洋の向こうで建設予定の摩天楼の記事を読み、心を奪われます。ノートルダムの尖塔の間やシドニー・ハーバー・ブリッジで違法な綱渡りをやった著者は、大道芸をしながらニューヨークに上陸します。目指すはワールド・トレード・センターの建設現場。
 著者は慎重に計画を練ります。人の出入りのパターン、警備員の巡回パターン、警察の動きを偵察し、何回も屋上まで侵入し、さらには観光ヘリで空中からの偵察まで。渡り綱の長さは42m、それをどうやってツインタワーの間にかけるかに良いアイデアはありません。さらに、控え綱(渡り綱の途中から斜めに張って渡り綱の振動を抑える役目)をどこにどう張るか、突風対策は、タワーの振動にどう対処するか……計画はありません。
 それでも著者は、仲間を募り金を集め、突っ走ります。軽やかに。あまりの障害の多さに一度は断念しますが、あきらめきれず、再突撃。しかし「口論」の多い仲間たちです。時間があれば口論をしています。眠るべき時に徹夜で、手を動かすべき時には手を止めて口論をしています。まるで自分の人生の目的は口論であるかのように。それでもなんとか準備が整ったのは、奇跡に思えます。
 まるでテロリストの潜入のような準備工作を著者らは行ないます。ぎょっとするのは、素人集団なのにまんまと成功してしまうこと。グループの侵入、大量の資材(ワイヤーとかそれをぴんと張るための機械など)の持ち込み、いずれもやすやすと。これがテロリストだったら大量破壊ができちゃうわけです(後日彼らは警備の人たちに警備の穴についてレクチャーを行ないます)。でも彼らがやるのは、綱渡り。1974年8月。ワールドトレードセンターのツインタワーの間に徹夜で綱を張り、控え綱を張り間違え、それでも、昇る朝日にせかされるように著者は第一歩を高度411mの虚空に張られたワイヤーに印します。
 独特の魅力がある文体です。ランボーの詩をそのまま散文にしたような感じで、きっとフランス語で読み上げたらぴったりなんでしょうね。さらに短い章が次々重ねられ、章自体は時系列で並べられているのに、まるで映画のカットバックのような効果を読者の心にもたらします。
「空間はもはや空間であるにとどまらない。空が私を呑み込む。何と見事な死に方だろう! なんたる歓喜。そんなやり方で無重量の神秘をかすめるなんて!
 空は私を知らないふりをする。
 長い竿を持つ私の両腕……朝もやを押す私の足の裏……露を吸収しているケーブル……私は中間点を過ぎる。」
 結局著者は逮捕され、子どもたちにパフォーマンスを見せることとひきかえに告訴を取り下げられて釈放されます。有名になり、あちこちで綱渡りをし、そしてツインタワーの展望台の「永遠に有効」と書いてあるVIP通行証を進呈されます。
 本書に込められた著者の「思い」は、殺されたツインタワーへの鎮魂歌なのでしょう。風に乗って世界中を軽やかに舞うような歌です。