私が若い頃に夢中になって読んだシリーズの一つに「海の男ホーンブロワーシリーズ」があります。友人に勧められて軽い気持ちで読み始めたら、あっさりはまってしまいましたっけ。そろそろ読み返してみようか、と思うのですが、同じ著者の別の本をまず読んで見ることにしました。こちらは未読だったのでホーンブロワーの“ウォーミングアップ”として良いのではないか、なんて思いまして。
【ただいま読書中】『ネルソン提督伝 ──“われ、本分を尽くせり”』C.S.フォレスター 著、 高津幸枝 訳、 東洋書林、2002年、2800円(税別)
そういえばホーンブロワーにもネルソンの葬儀のシーンがあったことを思い出しました。「われ、本分を尽くせり」は、ネルソンがトラファルガーの海戦の指揮を執って勝利を得、自身は死んでいく直前に残した言葉だそうです。
ノーフォークの貧しい牧師館の息子は12才で将来を決めます。叔父が英国海軍の艦長であるコネを活かして海軍に入ったのです。西インド諸島やテムズ川で厳しく鍛えられた少年は頭角を現します。病弱というハンディはありましたが、士官候補生として専門的な訓練を受けることができるようになります。
当時のイギリス海軍が抱えていた一番大きな問題点は、敵であるフランス海軍が戦いをしぶることでした。それを英国海軍は理解せずに戦いを挑もうとして,結局チャンスを逃し続けていました。若きネルソンは独自の視点から戦争を学びます。行動から見る彼の性格は、活動的で挑戦的。何かを選択しなければならない局面では、必ず挑戦の方を選んでいます。さらに、当時の軍人としては珍しく飲酒はほどほどに控え、経済的な儲けよりは戦術的な勝利の方を選ぶため、熱烈なファンもつきますが、しぶとい敵も作ってしまいます。
フランス革命の火の手がフランス中に広がり、それを抑えるために各王国が協力できるかどうか、が大きな問題となりました。そこでサルディーニャに派遣されたのがネルソンでした。フッド提督には人を見る目があったのです。そこには英国公使サー・ウィリアム・ハミルトンが新妻のエマといました。ネルソンの目的は夫の方で、彼を通してナポリ国王にお近づきになりたかったのですが、エマの方も後にネルソンの人生に非常に大きな影響を与えることになります。
コルシカを焦点とした地中海での海戦で、ネルソンは小さめの戦列艦の艦長でしたが、「提督の不決断がいかに勝利を遠ざけてしまうか」を学んでしまいます。地中海から撤退した英国艦隊はスペイン艦隊と交戦、そこでネルソンは硬直化した艦隊運用指令を無視して縦列から独断で離れて行動し、英国に勝利をもたらします。これは一部の人(上からの命令が絶対の人びと)には、眉をひそめられる行動でした。しかし、勝利は勝利です。
ところが、好事魔多し、サンタクルスへの上陸奇襲攻撃でネルソンは右腕を切断する重傷を負います。ネルソンはこれでもう海軍からお払い箱だ、と悲観しますが、海軍当局は「左腕の提督」の有用性を認めていました。
ネルソン自身は「部下の有用性」を認めていました。信頼と賞賛を与え、「(当時の常識である)何が何でもの絶対服従」ではなくて「厳しい規律とある程度の自由裁量」を認めます。そのためネルソンの艦隊は持てる能力のほとんどを戦闘時に発揮できることになりました。それが如実にわかるのが「ナイルの海戦」です。イギリスの封鎖線をまんまとすり抜けてエジプトに到達した(そしてナポレオンを上陸させた)フランス艦隊を、その帰路にネルソン艦隊が一方的に撃破した戦いです。ほぼ同規模の艦隊同士の決戦で一方が他方を壊滅させたのは、歴史上ではあとは日本海海戦くらいしかないそうです。
この海戦のあと、エマ・ハミルトン(夫人)がまたネルソンの人生に登場します。こんどは愛人として。
ネルソンはフランス艦隊を港に封鎖し、そこから脱出したものは大西洋を横断してまで追い回します。そしてトラファルガルの海戦。フランス海軍が総力を結集した艦隊を打ち破れば、もうフランスは海への進出をあきらめるでしょう。それはすなわち、大英帝国(海の帝国)が誕生する日です。そこでネルソンは、それまでの常識を排して、敵艦隊の一部に攻撃を集中させるために自分の艦隊を敢えて分断する、という作戦を立てます。向こう見ずと紙一重の英断でした。しかし、その英断をきちんと実行できる人びとが、ネルソンの艦隊にはたくさん存在していたのです。
著者はネルソンを敬愛しているようです。単なる「ヒーロー」として崇拝するのではなくて、欠点も丸ごと含めてその存在を受け入れいているような書き方です。実際に欠点も多い人のようですが、それを補ってあまりある美点が満ちあふれていた魅力的な人のようです。だから著者は「なんでこんな失敗をするかなあ。でも、しかたないよね。ネルソンはそんな人だもの」といった感じで文章を綴っています。
さて、それでは、時が満ちたら「ホーンブロワー」の世界に私も突入することにしましょう。
現在の東京で「江戸前」を売り物にしている店があったと記憶していますが、「江戸前の魚介類」を売り物にしている店があるかどうかは存じません。かつては豊かだった江戸前の海がその豊かさを取り戻す日はあるのかな?
【ただいま読書中】『すし 天ぷら 蕎麦 うなぎ ──江戸四大名物食の誕生』飯野亮一 著、 ちくま学芸文庫、2016年、1300円(税別)
「そば切り」がはじめて歴史に登場したのは、織田信長が足利義昭を追放した頃のことです。「そば切り」とは、それまで蕎麦掻きやそば餅で食べていた「蕎麦」を麺としたものでした。江戸初期には茹でて食していましたが、やがて軽く茹でたあと蒸す(あるいは蒸らす)ようになります(その時使った笊や蒸籠が、現在の「ざる」や「もり」の容器に痕跡として残っています)。つなぎに小麦粉を使って茹でても切れにくくなると茹でたものをぬるま湯または冷水で洗ってから食べるようになります。一杯盛り切りの安い蕎麦を「けんどん」と称しましたが(その名残が出前で使う「けんどん箱」にあります)、つっけんどんと言った悪い言葉が流行るにつれて「けんどん」という呼称は消滅します。
享保年間には江戸では煮売り茶屋や辻商人も麺類を扱うようになっていましたが、蕎麦よりは饂飩の方が多く商われていました。麺を食べさせる店も、うどん屋の方がそば屋より圧倒的に多く、初期の江戸では「うどん>そば」だったようです。そういった中で「そば切りの名店」が登場。その頃「二八そば」が登場しますが、当時の絵図などには「二六そば」「一八うどん」もあることから著者は「二八」は(つなぎの小麦が二割、の意味ではなくて)値段のこととしています。ちなみに寛政の改革で松平定信はそばの値下げをさせ、その結果看板は「二七そば」に書き換えられました(ただし盛りもその分減量されていたのですが)。天保の改革でもそばは値下げを強制され「三五そば」が登場しています。
この「二八」に限っても、著者は実に多くの文献に当たっています。よくこれだけ様々な本や絵図を探し当てることができたものだ、と感心します。しかし、「夜そば売り」がいつ登場したか、は町奉行の「夜そば売り取り締まり」(火災防止のために、火を使う商売の制限令を町奉行は何度も出していました)から推定するとは、著者は“名探偵”です。この取り締まりで“そばの地位”は時代を下るにつれて重要性を増しています。つまりそば(の屋台)が大繁盛になっていたわけです。かくして天明の頃には、そば屋がうどん屋を圧倒することになりました。「江戸はうどんではなくてそば」というのは、意外に新しいものでした。
そば屋に次いで登場したのが、蒲焼き屋です。はじめは鰻を丸ごと串に刺してそのまま焼いていましたが、元禄時代には鰻を裂いて焼くようになります(本書では鰻を裂いて焼くことの発祥地は京都だとされています)。「江戸前」という言葉がありますが「江戸前鰻」という“ブランド”も登場しました。「丑鰻」も登場し、文化の時代には丑の日だけ鰻の串焼きはふだん八文が四十八文で売られたそうです。現在の蒲焼きでは蒸したり焼いたりしますが、この「蒸す」料理法が登場するのは明治になってからです。白焼きにした後蒸してタレをつけて焼く料理法が確立したのは大正年間、ということは、私たちは江戸の人とはまったく「違う蒲焼き」を食べている可能性があります。
蒲焼きと飯は最初は別々に供されていましたが、やがてそれを合体させた「鰻飯」が登場。鰻重や鰻丼となります。「美味いものを食べたい」という人間の欲望と工夫は、いろいろ嬉しいものを生んでくれます。
天麩羅は最初は屋台です。最初は「胡麻揚」という名前でした。天明年間に「天麩羅」という看板が上がります。「天麩羅は山東京伝が名付け親」という説がありますが、実際には京伝より前に京都の奥医師奥村久正の『料理食道記』に「てんふら」が記載されています。初期は、魚はから揚げ、野菜はコロモ揚げだったようです。江戸では屋台の天麩羅は一串四文。ずいぶんお手軽なファーストフードだったようです。屋台には天つゆと大根おろしも常備されていました。脂っこい味に慣れていない江戸の人間は、それでさっぱりとさせて食していたわけです。「天麩羅そば」は、天麩羅とそばの屋台が隣り合って商売をしていたとき、客がそれを合体させて食べたのがはじまりのようです。天麩羅を店で出すようになったのは、茶漬け店でした。天麩羅と茶漬けでさっぱりした口当たりで安く腹一杯になる、という仕掛けです。これが当たり、やがて天麩羅専門店が登場します。
江戸四大名物食の最後に登場するのが握りずしです。ただし「すし」そのものの歴史は四者の中ではもっとも古いのですが。少なくとも奈良時代には「なれずし」は税(調の一部)として扱われていました。平安時代の「延喜式」には、なれずしとして、フナ・アワビ・イガイ・ホヤ・アメノウオ・サケといった魚介類だけではなくて、イノシシずしやシカずしなんてものまであります。1〜2年漬け込んで米飯は捨て魚だけを食べていましたが、やがてつけ込み時間を短くした「生なれ(生なり)」が登場し、飯も食べるようになります。さらに乳酸発酵を待たずに酢を加えることで酸味をつける「早ずし(一夜ずし)」が登場。十八世紀中ごろには江戸で早ずしが店や屋台で売られるようになりました(ちなみに江戸の屋台で「飯」を扱っていたのは、このすしの屋台だけです)。取り扱いが楽なように、一口大の笹巻きずしも登場。ただこれも出来上がるのに一晩かかります。江戸の人はさらなるスピードアップを求めました。一口大の押しずしの屋台も登場。さあ、握りずしの誕生まで、あと一歩です。文政10年(1827)の史料に握りずしが登場しますが、誰が発明したものかは不明です。はじめは屋台で売られていましたがやがて店も登場。最終的に江戸ではそば屋よりすし屋の方が数が多くなるくらい、握りずしはヒットしました。手軽に食べることができる食品ですが、その歴史はお手軽とは言えなかったようです。
イギリスはEUから離脱しようとし、スコットランドはイギリスから離脱しようとしています。
こういったまとまりの無さを見ていると、SFではおなじみの「地球連邦」ができるのはずいぶん先のことになりそうだ、と思ってしまいます。というか、人類はまとまるのが嫌いなのかな。だから「連帯」とか「協同」とかを強調しなくちゃいけなくなるのかな。
【ただいま読書中】『日本軍はなぜ満州大油田を発見できなかったのか』岩瀬昇 著、 文藝春秋(文春新書1060)、2016年、820円(税別)
「石油の一滴は血の一滴」ということばがかつてありました(戦争中の日本の標語ですが、元ネタは第一次世界大戦中にフランスのクレマンソー首相がアメリカ大統領ウィルソンに送った援助要請の電報の中で使った文章です)。海軍は特に燃料不足に敏感でした(燃料が切れたら軍艦が停まりますから)。それにつけ込んで「水ガソリン詐欺事件」が起きます。「ただの水をガソリンに変じてみせる」という売り込みを海軍上層部が信じて、海軍省の肝煎りで実験をしてしまったのです(もちろんかつての錬金術詐欺と同じで、「ガソリンができた」と差し出すビーカーはあらかじめ準備してあったものと途中ですり替えられたものです)。それにしても燃料局の人間が「水はHとOでCがないからどうやってもガソリンにはならない」と言うと、詐欺師を信じた人間が「Oの横っちょを切ればCになる」と言うのには、もう笑っちゃいました。「信者」→「儲」なんですねえ。しかも恐ろしいことに、海軍がこの詐欺に引っかかりそうになったのは、昭和8年と13年、つまり2回もなのです。
日露戦争当時、「燃料」とは「石炭」のことでした。しかし世界の軍隊は「石油」に燃料を転換します。問題は安定供給です。石炭は国内で掘れますが、石油は産地が限定されますから。イギリスで、反対を押し切って石油転換を目指すチャーチルは、アングロペルシア石油(後のBP)の株式51%を保有して国家の意思を企業に反映させることにします。チャーチルの提案が国会を通過した11日後、サラエボ事件が起きました。
日本でも原油を輸入して精製しようという動きがありましたが、国内原油を精製する業者の反対でそれは潰されました。私は小学校で「新潟で国産原油が産出する」と習いましたが、戦前には樺太にも油田がありました。大正12年(1923年)に北辰会というオールジャパンのプロジェクトチームが北樺太で石油を掘り当てていたのです。欧米列強はメソポタミア石油利権を巡って丁々発止の交渉をしていました。日本では国策としての燃料政策はなく、ただ海軍だけが石油を求めていろいろな努力をしていました。最終的に海軍のダミー会社としての北樺太石油が設立され、北樺太から原油を輸入することになります。しかし、国際的な孤立が樺太にも影響し、結局北樺太石油は立ち行かなくなります。
関東軍は満州国で盛んに資源探査を行いました。ところが戦後に中国は旧満州で次々油田を掘り当てます。どうして関東軍は石油を発見できなかったのでしょう。
著者の見立てでは、「技術が未熟」「思い込みが激しい」「“資源”とは鉄と石炭のことで、石油は眼中になかった」、が「関東軍が石油を発見できなかったことの原因」です。しかし惜しかったですねえ。もしも石油が発見できていたら、無理に南方進出をしなければならない理由が減ります。むしろ戦線を縮小して中国が内戦でもめるのをゆとりを持って高みの見物、なんてことができたかもしれません。まあ、そこまで先を見る目があるのなら、最初から中国に侵略はしていなかったでしょうけれど。
陸軍が「燃料」に興味を持ち始めたのは大正末期に空軍が充実しはじめてからでした。しかし対応は遅れに遅れます。日本の石油事情は、質・量ともに不足していたのに、真剣に対応しようとする態度は見られません。高オクタン価のガソリンを製造するのにも、外国の技術導入を嫌います(軍事機密が漏れる、日本人なら独自技術で何とかするべきだ、という主張だったそうです)。それでもアメリカから技術導入を、と交渉が始まりますが、日本内部での内輪もめがだらだら続いて意志決定ができない間に欧州での戦火は拡大、アメリカは敵性国への重要なものの輸出禁止処置を発動し、結局西洋式の製油所の建設計画は頓挫します。そこで日本が目をつけたのが「人造石油(石炭を液化したもの、あるいは、(満州に大量に埋蔵されている)オイルシェールを化学処理したもの)」。ところがこの人造石油、理屈は素晴らしいものだったのですが、実際に製造しようとしたらちっとも計画通りに話が進みません。「紙の上の計画」と「実験室での実験」と「大量生産」との間に、それぞれ絶望的に深い谷が存在したのでした。その結果「南進論」が浮上します。蘭印に進駐したら、石油だけではなくてポーキサイト、錫、ゴムなども楽々と手に入る、という計画です(致命的だったのは、それをどうやって日本に安全に輸送するか、の計画がなかったことなのですが。どうやら「アメリカは潜水艦攻撃をしてこない」が暗黙の前提だったようです)。
「燃料」という視点から先の大戦を見たらどのような世界が見えるか、の本です。日本軍が燃料に関してもいかにビジョンを欠いていたのか、はよくわかります。陸軍と海軍が共同で戦う姿勢をまったく欠いていたことも。これじゃ勝てないわ。
ひどく大きな夢を見る人の多くは、現実を知りません。だから現実にぶつかることによって夢は少しずつ小さくなってしまいます。ということは、最初から小さな夢しか見ない人は、現実を変えることは全然できなくて現実に変えられてしまうしかない、ということになってしまいます。
【ただいま読書中】『池田勇人 ──所得倍増でいくんだ』藤井伸幸 著、 ミネルヴァ書房、2012年、3000円(税別)
戦前の大蔵省は東大出身が“本流”でした。池田勇人は京大出身という“傍流”でしかも病気のために3年間のブランクがある、という“弱い”立場でしたが、その仕事ぶりが認められて異例の抜擢で主税局長となり、戦争のために税収確保に尽力していたところで敗戦を迎えました。「出世が遅れた」ことが“幸い”して、“上”が公職追放されたため池田は大蔵省次官へ大抜擢されます。次官を“花道”として引退、1949年に49歳で池田は民主自由党から衆議院に立候補します。池田は「統制経済から自由経済へ」を訴え(統制経済はGHQの命令だったし、池田の演説はむちゃくちゃ下手だったそうですが)、当選。社会党と民主党は惨敗で民主自由党の一人勝ちとなって成立した第三次吉田内閣は、大蔵大臣として初当選の池田を入閣させます。池田蔵相が直面したのは、「新人大抜擢に対する党内の反発」「GHQの統制」「党の公約」「通貨量の増大」「財政赤字の増大」「生産力不足」でした。そこで池田は「最優先課題は、インフレの収束とそのための財政健全化、と宣言します。しかし最初の予算案をドッジは一蹴。財政健全化のために公共事業費を2/3に圧縮することと減税の撤回を要求します。ただし「補助金の廃止」については二人は意気投合。49年度の一般歳出(トータル7000億円)で、たとえば民間への価格差補給金は2000億円もあったのです。これは廃止したくなります。ところが日本政府内外はこの廃止には猛反対(利益を得ている人びととそれに結託する人びとがいたからでしょうね)。結局池田は折れ、「黒字予算」を編成します。ドッジは池田を買い、その人物評価を白州次郎を通じて吉田首相に知らせると同時に「シャアプ氏が来れば減税となるだろう」と日本に希望を持たせます。反発する党内は吉田が抑え、大蔵省官僚は本能的に赤字やインフレを嫌いますからドッジの方針を受け入れます。
その年シャアプ使節団が来日、精力的に調査をおこない第一次シャアプ勧告(英文6万語、日本文17万字)を作成します。その中に「減税が必要」とあったのを根拠に、池田は49年度補正予算で早速大々的な減税をしようと試みます。ドッジはそれを抑え,減税は50年度予算からになります。途中から通産大臣も兼務した池田は、二つの失言事件を起こします。中小企業の破産や自殺に対して「この不況下にある程度の犠牲はやむを得ない」、もう一つは有名な「貧乏人は麦飯を食え」。どちらも、内容の論理は通っているが、あまりにあけすけに語ってしまったことが感情的に受け取られて「失言」になってしまった、と本書にはあります。
朝鮮戦争で景気は好転。そこで公共事業と減税を同時におこなうとインフレが過熱する恐れがあります。輸出増強で日本経済を再建するためには、インフレは避けたいのです。そこにサンフランシスコ講和条約が影響を与えます。「日本の自立」が見えてくると、「吉田=マッカーサー」「池田=ドッジ」の結び付きが国内で公然と批判されるようになったのです。「反吉田」「反池田」で自由党内に鳩山派がまとまり、吉田は「抜き打ち解散」で対抗しますが効果はなく、池田は蔵相を辞任します。造船疑獄・吉田退陣・保守合同によって「55年体制」が成立。日本の政治経済は新しいステージに移りました。
非主流派となり雌伏の時を迎えた池田は、後援組織を整備し勉強に打ち込み、メディア対策も始めます。日本の経済学では、古典派からケインズ派に流れが変わってきていました。59年1月3日付讀賣新聞に一橋大学教授中山伊知郎が「賃金二倍論」という論説を載せます。これは「日本経済をさらに成長させるには賃金を二倍にするほどの生産性の上昇を目指すべき」という、内容はさほど目新しいものではありませんでしたが、池田は「タイトル」に注目します。自身が目指す積極政策の“キャッチコピー”として使える、と。経常収支は黒字に転じ、岩戸景気が始まっていました。その「黒字」をどのように上手く使うか、を世論に訴えるために池田は「月給二倍論」を唱えます。党内では反池田派の力は相変わらず強く、さらに農業団体からは「月給はもらってないぞ」と言われ、池田は「所得倍増計画」に名前を改めます。
安保条約改定でもみくちゃになった岸内閣を継いだ池田は、歴代内閣が重大な政治課題の解決の取り組んだのとは対照的に、「経済」を前面に押し出します。「経済政策」は成功、しかしライバルたちは……
無骨で直線的で「(国内と国外の)政治」を重視する政治家として、日本の高度成長の基礎を築き上げた首相ですが、このタイプの首相は策を弄さないだけ脇が甘くて足を引っ張られやすいことも本書ではよくわかりました。
「移民が来たら職を奪われる」という意見があります。ところでその「移民」の本国で移民(候補)の職を奪っているのは、誰なんでしょう? もしかして、国際的にぐるっと回って「職を奪われる」と主張している人もそのことに関与している、という可能性は?
【ただいま読書中】『橋はなぜ落ちたのか ──設計の失敗学』ヘンリー・ペトロスキー 著、 中島秀人・綾野博之 訳、 朝日新聞社(朝日選書686)、2001年、1300円(税別)
古代から「模型では上手く動く機械が実物大にしたらなぜ動かないのか」は工学上の大きな問題でした。科学はまだ発達が十分ではなかったため、人びとは経験によって様々なものを設計・施工してきました。しかし、作ったものが壊れなくても、それが「成功」とは限りません。たまたま「簡単に壊れるような状況」に幸運にも出くわさなかっただけかもしれないのですから。
本書では、歴史的に「失敗だった」と明らかな事例をいくつか取り上げ、そこから「教訓」を得ようとしています。人の発想にはそれほどのバリエーションはありません。しかし過去の失敗から学ぶことができたら、「同じ失敗」はせずに済むかもしれません。
「片持ち梁」のところでは、ガリレオ・ガリレイの計算が登場します。そこで著者が身近なたとえとして読者に示すのが「鉛筆」。鉛筆を乱暴に使うと芯が折れますね。あの現象は「片持ち梁が折れる」のと同じなのだそうです。鉛筆は斜めになっていますが、原理は同じ。
いくつもの盛大な「失敗」を見ていて「軽視」が目立つように私には感じられました。「コメット機」では「金属疲労」が軽視されていました。「ディー橋」では「鋳鉄が引っ張り過重に弱いこと」が軽視されています。「カンザス市のハイアット・リージェンシー・ホテルの上吊り高架通路」では「設計変更時の再検討」が。その結果は、墜落・崩落・崩壊事故です。
印象的な動画で知られている「タコマ海峡橋」(暴風と橋の固有振動数が一致してしまって、振動が止まらなくなって崩落に至った事故)ももちろん登場していますが、ここで問題なのは「風で落ちた吊り橋」はタコマ海峡橋が初めてではなかったことです。
本書では「事例」から「一般的な教訓」を導き出そうとしていますが、個別の事例があまりに違いすぎるのでその教訓は必ずしも一般的とは言えないように私には見えます。だけど「気をつけよう」の精神論では人類の進歩はありません。
出発点は「形あるものは必ず壊れる」と「人間は全知全能ではない」です。そこで人が最善を尽くしてもできた構造物はいつか壊れます。ただ、それまでの時間をできる限り稼ぐように努力する必要はあるでしょう。あと、“賞味期限”を超えたものは「それまで使えた」としても、潔く壊した方が安全だと私には思えます。だとすると、原発を何十年経っても使い続ける態度は、いつか「事故」でその判断にしっぺ返しを食らわされるのではないか、とちょっと不安を感じます。
蕎麦屋さんで美味しくいただいていたら、後方の席に賑やかに女性のグループがやって来ました。別に聞き耳を立てたわけではありませんが、何を喋っているのか丸聞こえです。で、その中で面白かったのが注文の時の「山かけそばの『冷』とととろざる蕎麦とは、どう違うの?」という質問。私の理解では「山かけそば」は汁そばでとろろがかけてあり、とろろざる蕎麦はざる蕎麦の隣にとろろの小鉢が置いてあるもの、だったのですが、店員はなぜかしどろもどろに。面白そうだから、こんどは私が注文してみようかな。
【ただいま読書中】『ステージ・ショウの時代』中野正昭 編、森話社、2015年、4800円(税別)
「貧しいが自由を愛し芸術への情熱に溢れている」という「ボヘミアン」のイメージは、19世紀のモンマルトルで形成されました。同じく19世紀、イギリスでは1843年の「劇場統制法」で劇場内の飲食が禁止されると、パブが舞台を設置して娯楽を提供しそれがミュージックホールへと発展します。劇場も娯楽施設化を推進してヴァラエティ・シアターとなりました。窮屈な法律によって文化が発展してしまいました。アメリカでは大規模なレヴューが発展し、ドイツ・オーストリアではキャバレーが発展します。ソ連では政治レヴュー(政治的な正しさを優先したレヴュー)が登場。日本では1870年(明治3年)横浜本町通りに外国人専用の「ゲーテ座」が開場しました。日本人向けは、1908年(明治41年)に有楽座、1911年(明治44年)に帝国劇場が開場します。
小林一三が宝塚少女歌劇団を創設するときにモデルとしたのは、歌舞伎でした。歌舞伎の長所と短所から学んで、日本を代表する歌劇を作り上げようとしたのです。歌舞伎の女形は「男から見た理想の女を男が演じる」存在です。宝塚の男役は「女から見た理想の男を女が演じ」ます。「理想の存在」を舞台の上に現出できれば、それは人気を呼びそうです。また、昭和46年の「ベルサイユのばら」は公演を重ねるにつれて内部で「宝塚歌舞伎」と呼ばれるようになったそうですが、ここにも「歌舞伎の精神」が顔を出しているようです。
1920年代の浅草でもっとも観客を集めたのは活動写真でした。しかし27年の金融恐慌と30年の昭和恐慌でフィルム不足となり、映画館は舞踊・ボードビル・レヴュー・バラエティなどを多く上演することになります(もしかして、多くの映画館でスクリーンの前に舞台があるのは、その時の名残?)。関東大震災で打撃を受けた浅草オペラの役者たちもそこに参加します。短パン・ノースリーブで踊るレヴューガールたちの「肉体を強調するエロ」によって、浅草象潟警察署は「エロ演芸取締標準」を通達することになりました。「むき出しの手足」は「エロ」だったのです。
江戸川乱歩やサトウハチローが「江川蘭子」で結びつけられて登場します。フィクションの登場人物だったはずの「江川蘭子」が現実の女優として登場して“大活躍”なのですが、戦前からすでに「ヴァーチャル」と「リアル」を綯い交ぜにすることで遊んでいたんですね。
昭和22年に「額縁ショウ」が登場します。私はこれをストリップショーとして捉えていたのですが、実は新宿3丁目の映画館「帝都座」に併設された小劇場で開催された「ミュージックショウ」の一環としての登場で、第1回目ではヌードではなくてちゃんと下着を着けています。しかもカーテンが開いているのは15秒くらいだけ。それでも大評判となり、翌月の「アンドロメダ」では上半身裸でしかも両腕を上に挙げているので「胸」が丸見えとなっていました。この額縁ショウは好評で、公演を重ねるにつれて裸の踊り子が実際に踊るようになります(「裸」はどんどん過激になる傾向があるのかもしれません)。18世紀後半のヨーロッパに「タブロー・ヴィヴァン(活人画)」という娯楽が登場します。聖書や神話の一場面を古代風の衣装を着た俳優が舞台上で「静止画」として再現する高尚なものでした。しかし時代が下るにつれ、「女性を鑑賞する」さらには「裸の女性を鑑賞する」ものになってしまいます。「公衆の面前での裸」がタブーだった時代に、タブロー・ヴィヴァンは「名画や神話には裸の登場人物がいる」を口実として、上流階級の裸体見物の場となりました。それが大衆相手のショウ・ビジネスにも進出します。ただ、裸体とは言っても、モデルはマイヨ(肌に密着する肌色の下着)をつけていて照明を工夫することで本当の裸に見える、という工夫がされていました。これが日本に輸入されて「額縁ショウ」になったわけです。しかし、主催者が警察には「これはエロではなくて芸術だ」と主張し、裸になることをしぶる出演者には「これは芸術だ」と説得しているのには笑ってしまいました。その後の映画で「芸術のためなら脱ぎます」と言う女優が出たのは、ここが“ルーツ”かな。
昭和7年「松竹少女歌劇」(SKD)が誕生、12年に浅草に国際劇場ができそこで松竹少女歌劇は「浅草的ではないもの」を目指します。今は各地に「○○○48」などが乱立していますが、戦前は「少女歌劇」だったんですね。そうそう、「少女」ではありませんが、戦前の日劇ダンシングチーム(NDT)のラインダンスやタップダンスの水準もずいぶん高かったそうです。
各国のステージ・ショウとして、ロンドン・ベルリン・アメリカ・台湾が取り上げられています。どこの国にもそれぞれの「ステージ・ショウ」(の歴史)があるのは、素敵です。余裕があったら、ゆっくり見て回りたいものです。
1)誰かに丸投げをする。
2)トラブルの“原因”の人、あるいは丸投げをしたのに解決をしてくれない人への悪口に熱中する。
どちらにしても、自分は解決への努力を求められずに済みます。
【ただいま読書中】『こんな写真があったのか ──幕末明治の歴史風俗写真館』石黒敬章 著、 角川学術出版、2014年、1600円(税別)
明治時代に「有名人の写真絵葉書」は人気がありました。現在その代表のように扱われることがある「坂本龍馬の写真」ですが、明治初期には「龍馬」自身が無名でその写真は出回っていませんでした。坂本龍馬の名が知られるようになったのは、明治16年から土陽新聞(高知新聞の前身)に坂崎紫瀾が龍馬を主人公とする「汗血千里駒」という小説を連載してからです。それ以降、私蔵されていた「龍馬の写真」が市場に出回るようになりました。なお「龍馬の写真」は8種類あるそうで、意外にたくさん写していたんですね。
「写真がない」ことで有名なのは、西郷隆盛。現在伝わる「西郷隆盛の肖像」は、本人と面識のないイタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが描いたものです。ただし「よく似た人」顔を合成して作り上げたそうです。上野の山に西郷の銅像が建立されその除幕式がおこなわれたとき(ちなみにこれは日本で「除幕式」という言葉が使われた最初だそうです)、西郷夫人の糸子が「宿んしはこげんなお人じゃなかったこてぇ」と言ったことを根拠に「あの顔は実は違う」説が唱えられましたが、その時参列したお歴々からは全然顔についての異議がでなかったことから本書では糸子のことばは「こんな浴衣姿で散歩するような人ではなかった」という意味だろう、とされています。というか、あれは狩猟のシーンですから、ますます浴衣姿は似合いませんよね。
トリック写真も登場します。道具や背景をトリックで作ったり、フォトコラージュをしたり、「デジタル」がない明治時代でもいろんな工夫をしています。ヌード写真もあります。髷のヌードは、なんともミスマッチな感じがしますが、当時の人たちにとってはどんな感じのものだったのでしょう?
明治20年8月19日に撮影された皆既日食の写真もあります。露出は2秒だったそうですが、けっこう鮮明に写っています。というか、その露出時間をどうやって計算したんでしょうねえ。日食を撮影するなんて、初めての経験でしょ?
明治29年6月15日の三陸大津波(当時の言い方では「海嘯」)の写真もあります。瓦礫の山、死体、家が流された跡、陸に打ちあげられて置き去りとなった船……歴史は繰り返しています。人は忘れても、写真は残します。
明治期の沖縄の写真という珍しいものもあります。あの頃の沖縄の人たちの生活は、実際にはどんなものだったのでしょう?
精神論を強く主張する人の主張の弱点は、エビデンス(根拠)と具体的な方法論についての言及が極めて薄弱なことと、成功率が何%かの実績の提示(「○ニュートンの力で殴ったら競技成績が×%向上する」とか、のデータ)がないことです。
【ただいま読書中】『「野球移民」を生みだす人びと ──ドミニカ共和国とアメリカにまたがる扶養義務のネットワーク』窪田暁 著、 清水弘文堂書房、2016年、4300円(税別)
世界がグローバル化するに従い、1年のほとんどを外国で過ごしたり国籍を変えるプロスポーツ選手が珍しくなくなりました。これを「スポーツ移民」と呼ぶそうです。
ドミニカでは野球(現地の言葉でペロータ)が盛んで、昨シーズン終了時にアメリカ大リーグの選手のなんと11%(138人)がドミニカ出身です。本書ではそれを「野球移民」と呼びます。
ドミニカに野球を持ち込んだのはキューバ人でした。野球はドミニカで人気のスポーツとなり、1910年に最初のプロ球団が、21年にプロリーグが誕生します。59年にキューバで社会主義政権が樹立されるとアメリカは国交断絶。正式なルートで選手を獲得できなくなった大リーグは、ドミニカにも関心を示すようになります。77年にはトロント・ブルージェイズが現地で若者をじっくり観察するための施設(のちの「アカデミー」)を建設します。現在大リーグの全球団と広島東洋カープがドミニカにアカデミーを置いています。これによりドミニカ出身の大リーガーがどんと増えました(ちなみに隣国のハイチはフランス支配だったせいでサッカーが盛んなのだそうです)。アカデミーは「アメリカ」がそのままドミニカに持ち込まれているように見えますが、そこにはドミニカの人や社会や文化が濃厚に投影され、「野球移民を生み出すシステム」として根付いています。
メジャーで成功した選手は、贅沢な暮らしをしますが、同時に故郷への還元もおこないます。その姿を見て子供たちは「成功」に憧れ野球に打ち込みます。
ドミニカの社会には「拡大家族」という概念があります。複数の女性との間に子供をもうけた男はそれぞれに「ミルク代」を払い、複数の男性との間に子供を得た女性は異なる父親からの「ミルク代」で家計をやりくりする、というやり方です。ドミニカの貧困層では届出による「結婚」ではなくて「コン・クビーノ(同居)」で婚姻関係が成立します。要は同棲ですね。子供は母親の所に留まることが多いので、必然的に「母親を中心とした拡大家族」が成立しやすくなります。これは貧困の拡大にもつながりそうですが、そこを救うのが「ディア・ア・ディア(日々の助け合い)」や「フンタ(労働交換)」といった水平的な相互扶助システムと垂直的な扶養義務システムの「クーニャ(保護)」です。著者は「異なる父親の子供を育てている母親」を「複数のパトロンに扶養義務を要求している」と言えることに気づきます。これはリスクの分散とも言えます。そしてその集団的な扶養システムは、移民によっても支えられています。主にアメリカに移民した人びとは故郷に送金をするのが当然とされています。たまに帰国するときには山ほど土産を持ち込みますが、故郷の人びとはそれをもらうのが当然といった振る舞いをします。ややこしいのは、ドミニカ社会では「富の独占を許さない」と「たかりは恥」の二重規範が機能しているため、「(催促されなくても)気前よく散財する」が伝統的な価値観となっていることです(ただし誰にどのくらい配るかは関係性で決定されるので、上手くやらないと陰口をたたかれます。また(麻薬売買などでの)“汚い金”は軽蔑をされます)。「野球移民」はそういった社会の中で成立しています。それまでの移民が月に100ドルの送金でもありがたいと思ってもらえたのに、大リーガーになったらとんでもない高額の報酬を得ることができます。それによってドミニカのペロータ(野球)は「ビッグ・ビジネス」になったのです。
日本で野球がアマチュアを含めて「ビッグ・ビジネス」であることを私は思います。ドミニカにはドミニカのペロータが「ドミニカ社会」の中に確固として存在していました。たぶん日本社会の中にもその文化の特殊性の一部として「野球」が存在しているのでしょう。その特殊性は“外”から見ないとわかりにくいのかもしれませんが。
東京電力の社長が「炉心溶融(メルトダウン)を隠蔽した」としぶしぶ認めたそうです。
「汚染水はダダ漏れだった」と認めるのは、いつ、誰なんでしょうね。
【ただいま読書中】『身近なものの進化図鑑(1)電化製品』スタジオダンク、汐文社、2012年、2300円(税別)
まずは「テレビ」。世界で初めて「イ」の字がブラウン管に写された受像器(1926年(大正15年))、1953年の白黒テレビ(日本で初めて発売された14インチ。値段は17万5千円(大学初任給の20倍以上))。1960年の日本で初めて発売されたカラーテレビ。古色蒼然たる「テレビ」です。ブラウン管の角は見事に丸くなっています。71年のカラーテレビや78年のビデオ内蔵テレビ(テレビデオ)では「角」はだいぶ四角くなってきましたが、まだ「家具」の雰囲気をまとっています。95年に発売された液晶テレビやプラズマテレビは、「家具」というよりは「道具」ですね。
「パソコン」の所では、昔のパソコンの写真を見ると私は懐かしさで一杯になります。8ビットとか16ビットとか、苦労しながらでもわくわくしながら触っていましたっけ。他にも「家庭用録画機」「冷房器具(うちわから話が始まっています)」「電話機」「冷蔵庫(これは氷室から)」「洗濯機(洗濯板から)」「炊飯器」「掃除機」「ゲーム機」の懐かしい製品の写真が続々と。日本の20世紀後半は「生活が電化製品によって革新された半世紀」だったことが視覚的によくわかります。さて、これから半世紀後は、いったいどんな日本になっているのでしょう?
阪神淡路の頃から「被災者のわがまま」をいさめる論調が時にありますが、私から見ていちばん「わがまま」なのは政府ではないでしょうか。被災者には各個人ごと各地域ごとの事情があることを無視して「復興」を計画し、法律で行動や予算に一律の縛りをかけ、どんな状況でも「○年間で仮設住宅からは退去」などと言いつけるのですから。自分の都合しか主張していない態度だ、と言えません?
【ただいま読書中】『期限切れのおにぎり ──大規模災害時の日本の危機管理の真実』鈴木哲夫 著、 近代消防社、2016年、1500円(税別)
大震災が起きました。あなたは“責任者”です。目の前にあるのは消費期限が切れたおにぎりだけ。あなたはこれを、避難所の飢えた人々に、配りますか? これが本書のタイトルの意味です。
昨日の『子どもの貧困と教育機会の不平等』には「人災」が登場しました。偶然でしょうが今日も「人災」を扱った本が続きます。おっと「縦割り」もこちらにしっかり登場します。
本書でインタビューを受けているのは、消防庁長官・自衛隊の統合幕僚長・長岡市長・宮城県知事・岩手県知事・石巻日日新聞常務・防衛大臣・総理大臣・復興大臣政務官など、阪神淡路大震災・中越地震・東日本大震災で「決断」を迫られたリーダーたちです。
フクシマに関して消防や自衛隊で共通して指摘されているのは「何も決まっていなかったこと」です。「原子力発電所の重大事故」は“想定外”だったため、原発の過酷事故の時に誰が権限と責任を持つのか、命令系統はどうなるのか、予算はどこから持ってくるのか、など重大なことがすべて「未定」だったのです。そのために現場はものすごく不自由なことになりました。
役人の体質も問題です。「不平等があってはならない」というテーゼを守るため、ある市では毛布が全員に行き渡るまでの数が揃うまでずっと倉庫に貯めておいて避難所には一枚も配りませんでした。馬鹿か、と私は思います。「申し訳ないが、二人に1枚しかありません。皆さんで話し合って使ってください」などの方法がなぜ採れません? あとになって「不平等だ」という文句が出るのを予防するためにそんな措置をするのは、「自分の保身」が最優先で、そのためなら「すべての人の生命と快適性を犠牲にしても良い」と主張していることになります。もちろん「平時」に不平等は困ります。だけど非常時には、生命の保全と少しでも快適性を増すことが優先しません?
なんだか、私は改めて腹が立ってきました。
長岡市長の話もヒントに満ちています。たとえば「個人の善意」の否定。震災直後に個人がいろいろ物資を送ってくると、箱の中には様々なものが詰められていますから、一度開けて仕分けて再梱包や再集計をする手間が発生します。人手不足の時にそんな手間はかけられませんから、どの被災地でも個人からの小包は倉庫に山積みになって処理は後回しになっていました。だから長岡では「否定」を宣言したのだそうです。勇気が要ると思いますけどね。それと「期限切れのおにぎり」。これも「飢餓」と「食中毒」の二つの要素をどうやって満足させるか、そこにリーダーの決断が必要になります(その決断をせずに現場に任せるのは無責任なリーダーです)。
「動こうとする人たち」を積極的に阻害するのが「霞ヶ関の縦割り行政」です。たとえば「高台移転」。用地取得の登記は法務省、憲法解釈は内閣法制局。建物建築や土地造成は国交省、土地が山林だったら農水省。地権者が津波で行方不明だったり死亡が明らかでも相続でもめていたりしたら話はさらにややこしくなります。「街並みを縦にしよう」というアイデアもありました。高層ビルを作って、下層は商店、高層は住居。こうしたら昔からの住民が移転をせずにそのまま“そこ”で住み続けられるし、津波が来たら皆「上」に逃げれば良い。高台移転をせずに済むよいアイデアに思えますが、建設の認可を国交省は拒絶。「商店が入るのなら、それは経産省の管轄」なのだそうです。結局調整者が必要なのですが、誰が調整のリーダーシップを取るか、で話がスタックします。交付金も「縦割り行政」が妨害します。そもそも交付金は被災者のために支出されるものです。つまりそれぞれのニーズに応じた使い道があるはず。ところが交付金は各省庁の「ひも付き」です。つまり、各省庁のための支出であって、被災者のためのものではありませんでした。
地元の新聞については以前『6枚の壁新聞 ──石巻日日新聞・東日本大震災後7日間の記録』(石巻日日新聞社)で読んでいましたが、マス・メディアの目的「誰に」「何を」伝えるか、の「誰に」をきちんと意識している点が印象的でした。『6枚の壁新聞』では「震災(津波)」と「その直後の人災」をいかに新聞が生き延びたか、が扱われていましたが、本書ではその後の復興についても触れられています。そこで登場するのがやはり「法律」「縦割り」「権限」。まったく日本の官僚組織は、部分最適しか考えていないのか、と言いたくなります。それで一生が安穏に過ごせるのだったら、それはそれで幸せな人生なのかもしれませんが、大災害で社会が根こそぎ損害を受けているときにも同じ態度しか取らないのは、社会に対しては有害な存在だ、と私は認定します。