日本で最初の「政祭分離」は、伊勢神宮の建立です。垂仁天皇が「世の乱れの原因は同床共殿(祭事と政治が同じ場所で行なわれること)である」と考え、祭政分立という驚天動地の大改革を行ったのです。
これは「古事記」の構造にも合致していると私は考えます。古事記の上つ巻は「神の物語」、中つ巻は「神がかった人の物語」、下つ巻は「人の物語」となっています。つまり「神性」が「人」から剥奪されていく過程が古事記全体を通して語られています。そして、「人」から分離した「神性」が集まった場所が「神宮」だと言えるでしょう。
こういった「過去」を無視して「皇居」から「伊勢神宮」を引っぺがしたり「現人神」などという概念を打ち立てた人は、日本の歴史にも文化にも疎い人のように私には思えます。あるいは「政のために祭は従属しろ」と主張する野蛮人。
【ただいま読書中】『歴史のなかの政教分離 ──英米におけるその起源と展開』大西直樹・千葉眞 編、 彩流社、2006年、2900円(税別)
17世紀のピューリタン革命を起点とし、それ以降の西欧(特にイングランド)と北米(特にニューイングランド)での政教分離について複合的かつ重層的に照明を当てよう、と12人の論考を集めた本です。著者は、岩井淳・森本あんり・小倉いずみ・佐々木弘通・山岡龍一・斎藤眞・大西直樹・原千砂子・小檜山ルイ・増井志津代・安倍圭介・千葉眞。
アメリカの合衆国憲法修正第一条には「国教禁止」が、日本国憲法第20条には「国の宗教活動の禁止」が謳われていますが、それらは「信教の自由」「寛容」「良心の自由」とセットとされています。
国家権力に対抗する拠点として教会が機能した、と本書にはあります。たしかに、古代ローマでは「反国家」の拠点は「教会」でした。だけど中世には聖俗の二重支配となり、ルネサンス以降はまた「政」と「教」との対立が強まったのでしょう。
ただ、私のように世界史にそれほど詳しくない人間には、本書の記述内容はちょっと重たいものです。たとえばピューリタンの派閥の関係なんか、知りませんてば。で、それが通説ではこれこれしかじかで、最近の研究では違う解釈ができるようになった……う~む、そうなんですね、としか言えません。
ロジャー・ウィリアムズとかトマス・フッカーとか、知らない人の名前や思想もばんばん出てくるし(さすがにマイケル・サンデルのところは、一応“下地"ができていたのでなんとか楽に読めましたが)、小学生の時に同級生が私の読んでいる本をのぞき込んで「よくそんなに字ばかりぎっしり詰まった本を読めるなあ」と言ったのと似た感想を、この本を書いた人に差し上げたくなります。それでも我慢して読んでいると、「女性と政教分離」(小檜山ルイ)というとんでもなく面白い論考にぶち当たりました。
イングランドで「反体制派」だったピューリタンは、アメリカに移住すると「新体制」を築かねばなりませんでした。つまり「反体制」が「体制」になるのです。18世紀のアメリカ植民地は、階級制度と権威主義が幅をきかし、聖と俗の境界線があいまいな社会となります。そして「平等」は、啓蒙主義だけではなくて「神の前での平等」からもやって来ました。つまり「市民的自由」と「宗教的自由」は渾然一体となっていたのです。かくして「独立革命」は成功し、またしても「反逆者」が「支配者」になりました。ここで「反逆(体制批判)」と「体制への取り込み」の両立が行われます。そこに著者は「ジェンダーの視点」を導入しています。17世紀末まで、体制批判を行う女性は「魔女狩り」にあっていました。しかし独立革命で女性も“社会参加"を行います。革命後女性は「家庭に帰る」ことを求められ、「平等」のかわりに「公徳心(社会のために子供を産む、それゆえ社会は女性を尊敬する)」を与えられます。革命後の共和国では、近代的な聖と俗の分離が行われます。そして、女性が「声」を挙げるのに使える“チャンネル"は「宗教的集会」でした。教会には女性が多く集まり、牧師は(献金を得るためにも)女性に受ける行動をするようになります(「教会の女性化」と著者は表現しています)。政治から疎外された女性は教会に集まって活動することで政治的な力を得、同じく政治から疎外された教会は女性の力を使うことで一定の政治的発言力を保持します。たとえば南北戦争後の禁酒運動は、こういった「女性」と「教会」によって発展しました。1920年の女性参政権獲得で、教会は「女性」を大量に失い、その結果保守と自由主義に分裂しました。ファンダメンタリストの誕生です。アメリカ大統領が聖書に手を置いて宣誓をするとき、政教分離の国ではそれは宗教が象徴する「弱者の権利」への敬意の表明だったはずです。しかしファンダメンタリストが力を得ている昨今、「政教分離」や「信教の自由」、「異なるものへの寛容」がどう変わっていくのかはわかりません。
お話変わって「ファンダメンタリズムと政教分離」(増井志津代)も面白い論考です。アメリカ南部のバイブルベルトで非常に強いファンダメンタリズムは、ブッシュ再選の原動力でもありましたが、このへんに無頓着だとアメリカの「政治」との付き合い方を間違えてしまうかもしれません。なかなか「政治と宗教」の関係は、難しいものです。
……で、日本の「政教分離」はどうなってましたっけ? 政教分離が望めないだろうイスラム諸国との付き合い方は?
日本で人気のメニューの一つは「カレーライス」ですが、では、「カレーの定義」がきちんとできますか? 使うスパイスは様々、形状もドライ・どろり・さらさらと様々です。形状だけに注目したとして、では「カレー」と「スープカレー」の差の定義は?
【ただいま読書中】『カレーの歴史』コリン・テイラー・セン 著、 竹田円 訳、 原書房、2013年、2000円(税別)
「カレーの定義」から本書は始まります。意外と簡単な定義内容です。
インドは人々(交易、侵略者)の交点でした。彼らは皆「自分たちの料理」も持ってきて「インド料理」が発展しました。そういえば「ミトコンドリア・イブ」の子孫がアフリカから東進したときも、インド西部でしばらく足を止め、そこから改めて東と西北へとに進路を定めたんでしたね。
イスラムの侵入で「ペルシア=インド料理」ができ、モンゴルが侵入してムガル帝国ができます。ヨーロッパ人も様々なものをもたらしましたが、その中で「カレー」の観点から最重要なのは「トウガラシ」がもたらされたことでした。
著者は、スパイスが豊富に使われた当時のインド料理でヨーロッパ人はびっくりしなかったはず、と言います。何しろ中世のヨーロッパ料理はそれこそ「スパイスまみれ」だったのですから。そのせいでしょうか、「カレー」はすぐにイギリス本国でも受け入れられます。18世紀には「カレー」という言葉はイギリス人に浸透し、市販のカレー粉が登場、カレー料理を出す店やカレーの料理本も売れました。
アメリカへの移民は「自分たちの料理」や「料理本」を持ち込みます。北米最初のオリジナルカレーレシピは18世紀のキャサリン・モファット・ホイップルの「アップル・カレースープ」です。どんな味なんでしょう? アメリカで最初に出版された料理書(=最初の「アメリカ料理の本」)には「東インド風チキンカレー」「ナマズのカレー」「カレー粉のレシピ」が載っています。
そうそう、「タンドーリチキン」は1948年にニューデリーの「モティ・マハル」というレストランで“発明"されたものだそうです。意外に新しいものだったんですね。
大英帝国では1807年に奴隷貿易が、1833年には奴隷そのものが廃止されました。するとそれまで奴隷がやっていた労働をする人間がいなくなります。そこでインド人が「契約労働者」としてあちこちの植民地に出かけることになりました。こうして「カレー」も世界各地に広まっていきます。
アフリカ、東南アジア、ヨーロッパ、世界各地の「カレー」が次々美味しそうに登場します。文章だけでも美味しそうなのですが、写真で見るとこれがさらに美味しそう。世界中の「カレー」の食べ歩きをしたくなります。
私の住む市にも「インドカレー店」がいくつもあります。どこに行っても「インド人」がキッチンで働いていて美味しいカレーやタンドーリチキンやナンを出してくれます。だけど「インドカレー」って、存在しないんですよね。各地域・各人種・各宗教・各階級でたぶん「違うカレー」を食べているはず。そういった「違い」に鈍感なまま「インドのカレーは美味しいなあ」と言っていていいのかな、なんてことを思うこともあります。ただ、そこから何をどうやったらいいのか、それがわからないのですが。
冬季五輪の種目は、スキー・スケート・橇(ボブスレーやリュージュ)・カーリング・バイアスロン……もうちょっとバリエーションが欲しいな、と私には思えます。たとえば「トナカイ橇の競走」「犬橇の競走」なんてのはどうでしょう。動物虐待? だったら「人が引く橇の競走」。動物だったら“虐待"でも「人」だったらOKでしょ?
【ただいま読書中】『命がけで南極に住んでみた』ゲイブリエル・ウォーカー 著、 仙名紀 訳、 柏書房、2013年、2500円(税別)
1959年に南極条約が結ばれました(日本はその12箇国の一国です)。現在49箇国が調印し、軍事・商業利用の禁止、野生動物の保護を守りながら科学研究を行っています。研究は「極地」だけではなくて「地球の過去」や「宇宙」にまで及びます。
最初に登場するのは「南極のダイバー」です。マクマード基地(スコットが最初に建てた小屋(現在も保存されています)のそば)の近くの氷(厚さ3~5m)を割ってマイナス2度の海水に飛び込みます。そこは、まるで異星の動物のような変わった生物がたくさん生息している“異世界"です。
アザラシやペンギンという“ポピュラーな"野生動物も登場します。トウゾクカモメとかシロフルマカモメも、それと、それらの研究者も。
著者の興味は「南極に住む人々」に向きます。職種に関係なく、冒険を愛しロマンチストで、お金は権力ではなくて自由の象徴として捉える傾向がある人々です。女性もいます。マクマード基地には1000人くらい滞在していますが、民間の女性は28人。著者も女性です。そういえば『復活の日』(小松左京)でも南極基地には数人の女性隊員がいましたっけ。
南極には「火星」があります。ドライ・ヴァレーという、世界で最も寒く最もドライで最も岩だらけの場所です。あまりに極端な地形のため、初期の火星研究に役立つのではないか、と言われているそうです。
さらに「宇宙のかけら」も南極にはあります。隕石です。この30年で5万個の隕石が南極で見つかりました(この数は、南極以外の地球全体で2世紀かけて見つけた隕石の数を上回ります)。氷の上だと目立つことや、奥に潜り込んでも氷の流れで表の特定の地点に集められやすいことが、南極での隕石探しに有利に働いています。ただしその捜索活動は大変です。ボランティアの隕石探しプロジェクトがあるのですが、6週間氷原のテントで自炊しながら、天気が許す日は毎日受け持ちの区域を目を皿にして雪上バイクを駆る生活です。しかも発見した隕石は「自分のもの」にはできません。それでもこのボランティアは人気があるそうです。なお、1969年に南極で最初に隕石を発見したのは日本で、以後1トン半の隕石を収集しているそうです。しかもその中には、月や火星からのものが含まれているのですが、南極の隕石がほとんど小惑星帯からのものであることを考えると、日本の“国際貢献"は大したものです。
南極点にはアメリカの基地がありますが、著者は独特の表現をします。各国が南極の領有権をかつて主張していた(そしてまだそれを撤回していない)のですが、その「領土」の境界線がすべて収束する特異点(南極点)にアメリカが基地の分室を置き「他人のパイすべてに非公式ながら地政学上の指を突っ込んでいる」と。
「地球の過去」は南極の地下にあります。3000mの深さから掘り出される氷床コアは80万年前のものです。なおその「過去」は「未来」についても語ってくれます。たとえばこれからの地球温暖化の傾向について。
本書のキーワードの一つは「極端」です。あまりに極端な環境のため、人はその影響を受けずにはいられません。長期滞在をすると、性格・行動・ライフスタイルなどが深刻な影響を受けるのです。
そういえば、映画「南極料理人」でもけっこう奇矯な行動をする人々が登場しましたが、それは「南極のせい」だったのかもしれません。まあ、それを抜きにしても楽しいコメディ映画でしたが。
そうそう、本書のあちこちには「シャクルトン」が散りばめられています。著者にとってシャクルトンは個人的な「ヒーロー」なのかもしれません。もちろん私にとっても彼は「ヒーロー」なので、異議はありませんが。
岡山県警で、留置場に拘留されている男が、携帯電話・酒・たばこを持っているのが発見されたそうです。身体検査が手抜きだったのか、外部の人間が面会時にこっそり差し入れたのか、内部の人間が便宜を図っているのか、のどれかかな。
身体検査が手抜きや外部の面会の監視がおろそかなのは仕事熱心ではない、ということですが、便宜を図っているのだとこれは犯罪行為ですね。やれやれ。
ただ私はこれをもって岡山県警を“全否定"しようとは思いません。少なくとも「公表した」ことをみると「まともに仕事をしたい」というテーゼは組織としては生きているようです。ならばそれをプラスに評価して、“腐ったリンゴ"を排除しやすいように雰囲気が作れたら、とも思います。
【ただいま読書中】『樽』フリーマン・ウイルズ・クロフツ 著、 宇野利泰 訳、 新潮文庫、1964年(79年11刷)、440円
私が文庫本を買うようになったのは中学生の時ですが、その最初期に買ったうちの一冊がこの本だったはずです。
フランスから到着した貨物船から葡萄酒の樽を荷揚げ中に、不審な樽が一つ見つかります。裂け目から見えたのは、おがくずと、金貨と、人間の手らしきもの。運送会社の人間は樽を見張りますが、樽はあっさり消えます。しかし、会社の人間の機転と警察官の粘り強さのおかげで樽の追跡は続けられます。ところが樽の受取人フェリックスの奇妙な陳述を聞いた後樽をしまっている厩を開くとそこはもぬけの殻。
いやもう、樽がまるで生き物であるかのように追っても追ってもちょろちょろ“逃げ"回るシーンは大笑いです。対照的に、スコットランドヤードのバーンリー警部は、証拠と論理重視できわめて真面目に捜査活動を続けます。大真面目というか生真面目というか、ともかくついにバーンリー警部は樽を発見、殺人事件の捜査のためにパリに出張と相成ります。捜査の相棒はパリ警視庁のルファルジュ。
「時代」です。列車はもちろんSLです。馬車が主力で働いていますが、自動車も走っています。荷運びは馬車、人は自動車、という棲み分けがあるようです。刑事はたちはパリ市内を、タクシー、地下鉄、バスなどで移動します。訪問先で刑事は警察手帳や身分証明書ではなくて名刺で身分を証明しています(身分証明書も携行していますが、それを使う場合は限定されているようです)。指紋はまだ知られていないようです。尋問の記録は速記で残されます。
パリでの樽の動きもまた複雑怪奇でした。ただしこちらは明らかに特定の人物の意図が感じられる複雑さです。そして、被害者の身元がわかります。裕福な家から家出をした人妻でした。
それにしてもパリ警視庁の長官は人使いが荒い。朝は定時に仕事を始めさせて、捜査会議は21時からです。ちょっと離れたところだと、証言を聞きたい人のところに出かけて話を聞いて帰るだけでも一日仕事です。それで必ず21時には警視庁に、ですから大変です。
少しずつ手がかりが集まります。それによって、最初は怪しくなかった人が怪しくなっていったりするゆったりしたプロセスが、ゆったりしているだけ効果的に思えます。今のスピード時代には、このゆったり感がむしろ新鮮ですね。
それにしても、殺害手段は「激情」、死体を隠す手段は「冷静沈着な計画性」、となると、私は頭が混乱します。どうやって激情と計画性を両立させることができるのだろう、と。
英仏協力での粘り強い捜査で、ついに容疑者が逮捕されます。しかし……
謎の提起、現場検証と証拠、証言集め、証拠と証拠の隙間を繋ぐ推理、アリバイの検討、動機の検討、動機をめぐる人間ドラマ……「推理小説に必要な要素」が1921年に発表された本書にはすべて盛り込まれています。何より近代的な推理小説に必須の「すべての証拠を読者に開示して推理ができるかどうか著者が読者に挑戦するフェアな態度」がありありと見て取れるのが、読んでいて快感です。舞台も、イギリス、フランス、ベルギーと広がりをもち(でも実はけっこう近いんですよね。『海へ出るつもりじゃなかった』(アーサー・ランサム)でも子供たちの乗ったヨットがするするとオランダまで行ってしまいましたっけ)、謎解きをする人間として、イギリスとフランスの刑事のあとに、イギリスの敏腕弁護士が登場します。これまた、読者を飽きさせない良い工夫ですし、つねに複数の人間が話し合って推理を進めるので、読者はついて行きやすくなっています。さらに「謎はすべて解けた」と“探偵"がわかったとしても、次にその人が考えるのは「これで裁判が勝てるか」です。あっさり“勝利"に飛びつきません。
トリックやアリバイ崩しの表面的な面白さだけではなくて、「推理」の王道を堂々と歩む作品です。「古典」として、今でも読む価値があります。ところで現代の推理小説、100年後に「読む価値が今でもある」と言ってもらえるもの、どのくらいあるのかな?
鏡の中の世界は、私から見たら左右が逆になっています。では鏡の中の「自分」にとって、やっぱり「右手」は「右手」なんでしょうか。そして、鏡の中の自分が見つめるこの世界の「左右」は、やっぱり「逆」になっているんですよね。
【ただいま読書中】『右?左?のふしぎ』ヘンリ・ブルンナー 著、 柳井浩 訳、 丸善出版、2013年、2800円(税別)
アルファベットの「A」は、「原像」とそれを鏡に映した「鏡像」とは一致します。しかし「F」は原像と鏡像が一致しません。これを「手のひら対称性(キラリティ)」と呼びます。手のひら対称性はカタツムリの殻のような立体でも言えます。右巻きの殻と左巻きの殻は手のひら対称性を持っています。
ところがここで驚愕の事実が。カタツムリや巻き貝は基本的に「右巻き」なのです。エスカルゴの工場で著者が調査した結果、右巻き:左巻きの比は「20,000 : 1」でした。実に99.995%が右巻きです。(もちろん“例外"はあります。オニツノガイは左巻きが多数派、キューバのサラサマイマイは半々だそうです)
朝顔のツル、豚の尻尾、サボテン、樹木のねじれ、花びら、風車の羽根……様々な「手のひら対称」がきれいな写真とともに紹介されます。最後には一角獣の角まで登場するのはご愛敬。
ここで話はミクロの領域に。アミノ酸には立体構造があり、そこにはやはり鏡に映したような「手のひら対称性」があります。ところがアミノ酸の場合、存在するのは「左旋性」が圧倒的なのです。これが炭水化物になるとこんどは「右旋性」が圧倒的に優位となります。
1815年フランスのビオは「砂糖の水溶液が偏光を回転させる」ことを発見、それを使って1848年にパスツールは酒石酸に「右旋性」と「左旋性」があることを発見します。工業的に得られた酒石酸は右旋性と左旋性が半々ですが、天然の酒石酸は左旋性だけだったのです。私がすごいと思ったのは、パスツールが文字通り「ルーペとピンセット」でこの結果を導き出したことです。
地球上の生物は、栄養として「左旋性」「右旋性」のどちらかを利用して生きています。薬も(サリドマイドが有名ですが)どちらかは有用、片方は有害、ということがあります。どうしてそんなことになっているのかは、まだわかっていませんが。
しばらくミクロの世界に遊んだ後、話はまたカタツムリの殻に戻ります。そして、仏陀の髪の毛、人の腕組み、ネクタイの縞模様……さまざまな「右と左」の話が次々と。「この世は右と左でできている」という“視点"から見た世界の面白さが味わえました。しばらく私もそういった見方をしてしまいそうです。まずは腕組みから。これは右巻き?左巻き?
何年前だったか、岩国市が米軍基地関連で日本政府の言うことをきかなかったら、市庁舎の建て替えの補助金数十億円を建て替え工事が始まってからカットする、という手で、市長に政府の言うことをきかせたことがありました。
で、こんどは名護市長に言うことをきかせるために、500億円の基金をカットするぞ、と政府は匂わせているそうです。
これもアベノミクスのインフレ効果?
【ただいま読書中】『都市の誕生 ──古代から現代までの世界の都市文化を読む』P・D・スミス 著、 中島由華 訳、 河出書房新社、2013年、2800円(税別)
》7000年前のシュメール人にとって、エデンは楽園ではなく都市であった。彼らの伝説によれば、最初の都市はエリドゥといい、神がつくった。この神は、人間のために避難所をつくろうと考えた。容赦なく猛威をふるう自然から逃れられる場所である。
こういう印象的な文章で本書は始まります。
そしてアステカの都テノチティトラン(16世紀はじめ)、ニューヨークと移民を出迎える自由の女神(19世紀末)、古代の都エリドゥ(イラク)……様々な「都市」が読者の目の前を通り過ぎます。まるで見知らぬ都市で道に迷った旅行者が様々な「都市の断面」を目撃するかのように。
都市は人を保護するための理想郷であると同時に、人為的な悪の巣窟でもありました。だからこそ人は「理想都市」を夢見ます。その最古の例がプラトン(『国家』に描かれたカリポリス)です。そこは哲学者に支配され、心身が不健全な者は追放される都市でした。レオナルド・ダ・ビンチの理想都市は、上流階級には理想的ですが、平民は地下に追いやられていました。
「文字」も都市の生活には重要なものでした。残されている経済・教育・行政などの記録から「人々の生活ぶり」が生き生きと読み取れます。そして「文字改革」は「都市」で行われました。多国の人が集まれば、言葉はかき混ぜられ変化していくのです。
都市には、出身地によって人が集まる地区があります。チャイナタウンやリトル・トーキョー、ゲットー。ゲットーはもともとユダヤ人のためのものでしたが、19世紀アメリカには黒人ゲットーが出現しました。ニューヨークのハーレムは、19世紀にはイタリア系とユダヤ系住民の地区でしたが、20世紀には黒人のものになります。戦後にはプエリトリコ系住民が急増しスパニッシュ・ハーレムが広がっているそうです。
都市は成長して巨大都市になります。すると、郊外や田園都市に住む人も増えますが、そこもまた都市化します。こうして「外縁」が栄えると、そのうちこんどは中心部の人口がまた増え始めます(人口の再集中化)。「東京」は行政区画の「東京都」を越えて「トーキョー」になっているように見えますが、そのうちまた中心部に人が流入し始めるのかもしれません。
交通インフラ・市場・公園・娯楽……様々な“切り口"で様々な都市が取り扱われます。「都市」という切り口で世界史を眺めた上で、その都市そのものをまた別の切り口で扱う、という多重構造の構成で、読んでいると本当に“迷子"になってしまいそうです。
そして最後は「未来都市」……と思ったら、本当の最後は「廃墟」でした。いやもう、笑っちゃいます。
非常にユニークな視点の本で、著者の他の作品も読みたくなってきました。
日本プロ野球(やアマチュア)で最も優秀な選手は大リーグを目指しますが、その逆はありませんね。なぜでしょう。報酬が違いすぎるから? だったらどうして球団の出せる金額がそんなに違うのでしょう。経営のやり方が違いすぎるから? ではどうしてそんなに経営のやり方が違うのでしょう?
【ただいま読書中】『トランペットの歴史』エドワード・タール 著、 中山富士雄 訳、 ショット・ミュージック、2012年、2000円(税別)
最初の「トランペットの定義」から話はややこしいものです。たとえば「ホルン」との区別。過去には「丸っこいトランペット」なんてものもあるものですから。
古代ローマの「トゥパ」は長さ120cmくらい管の直径は10~最大28mmくらいの1本のまっすぐな円錐管です。バロック期の自然トランペットは長さは倍くらいになって直線的に折りたたまれます。現代のトランペットは、全長はトゥパとほぼ同じですが折りたたまれていてヴァルヴがついています。
トランペットの特徴はその響きの華やかさです。だからでしょう、旧約聖書でもトランペットは宗教的楽器として記載されています。ただし、トランペットは華やかなだけではなくて同時にひそやかでやさしい響きも持っています。
19世紀まで使われていた自然トランペットは、唇の圧力だけで音階を吹き分けていました。下のオクターブでは出せる音は限られていますが、上に行くと出せる音がどんどん増えます。この辺はみごとに数学的。ヴァルヴの発明によって半音階の演奏が可能になったのは1815年ですから、それまでのバロック期のトランペット奏者は、自分が出せる音の知識とそれをいかに唇で微調整するかに現代の奏者よりも習熟している必要があったようです。
古代のトランペットは各国に存在しますが、(ティンパニとともに)軍隊で信号伝達手段として愛用されたようです。古代エジプトにもその壁画がありますしサラセンの軍でも用いられ、十字軍にもその“伝統"は引き継がれました(戦場でトランペットは騎兵隊に、太鼓と笛は歩兵隊に属しました)。トランペット奏者の地位は低いものでしたが、やがて王の公的な行事には必須の存在となります(宮廷トランペット奏者の義務に、食事のときの音楽演奏や王が民衆の前に姿を現す際の演奏があります)。平時の馬上試合の時の演奏も重要な責務でしたが、それには馬上試合後の祝宴と舞踏での演奏も含まれています。イタリアなどの交易都市では、最初は塔の上での見張り番としてトランペット奏者を雇っていましたが、やがて様々な場面で彼らを使うようになります。(16世紀のバーゼルでは「塔のトランペット奏者」は、火災や外敵の見張りと同時に、定期的に小さな鐘を鳴らして日本の時鐘のような役割を果たしていたようです)
古代の金属トランペットは、ほとんどは青銅製(古代イスラエルとエジプトは銀製、サラセンは薄板を打ち出して製作)でした。ヨーロッパはサラセンからトランペットの名前や製造法を手に入れたようです(それを否定する研究家もいます)。1400年ころには管を折り曲げる新しい技術が開発され、トランペットの全長を縮めることが可能になります。マウスピースも1400~1600年にどんどん進化しました。
15世紀の絵画には「スライド・トランペット」が登場します。トロンボーンの御先祖様です(しばらくあとにU字型のダブルスライド管が発明されてから、ですが)。史料によっては「トロンペット」と書いてあるものもあるそうです。トランペットの音色でグリッサンドができるというのは、一体どんな音楽だったんでしょうねえ。
14世紀にはトランペットは低音を中心に演奏していました。しかしトロンボーンが低音楽器としてそちらを担当するようになり、トランペットは高音を担当するようになります。ただ自然トランペットで高音を吹き続けるのはけっこうな負担でした。奏者は各音域を分担して「トランペット合奏団」として演奏します。さらに高音域の連続演奏は、新しい演奏法を必要としました。それまでの「頬を膨らませる」スタイルが否定されたのです。
ルネサンス期にはもう一つ重要な変化があります。それまでの音楽は基本的に即興演奏でしたが、この時代頃から「楽譜」が使われるようになったのです(それは同時に「楽譜が読める演奏者」を要求することになります)。また、宮廷オーケストラとの共演の機会が増え、繊細に吹くことも求められるようになります。
様々な作曲家がトランペットをいかに生かしたか(あるいは無視したか)についても本書ではけっこう詳しく語られます。ベートーヴェンのころからは、トランペットに「半音階」が要求されるようになります。そのため1815年にヴァルヴが発明され、半音階が多用される「近代的な演奏」が始まります(技術の進歩は逆に作曲技法にも影響を与えます)。
トランペッターで私がすぐに思うのはサッチモですが、彼の頬を膨らませる演奏スタイルは実は古式ゆかしいものだったんですね。どんなスタイルでも、魅力的な音楽がそこに紡がれるのならOKなんですが。こんどトランペットを聞くときには、その華やかさだけではなくて、繊細さも味わえたら、と思います。
古い建物があって、定期的にメインテナンスを繰り返して傷んだ材木を交換していたら、いつのまにか一番最初のものとは全部“部品"が入れ替わってしまった場合「その建物はずっと保存されていて古の姿を残している」と言えるのでしょうか。これが火事や地震で劇的に壊れてしまって造り直した場合には、いくら以前と同じ設計図で建造しても「再建した」と言われるのですが。
【ただいま読書中】『聖徳太子信仰への旅』NHK「聖徳太子」プロジェクト、NHK出版、2001年、1800円(税別)
「聖徳太子」は、政治や仏教受け入れでの“功績者"であるだけではなくて、日本では太子自身が「信仰の対象」でもありました。
聖徳太子の墓は、親鸞・空海・日蓮・一遍などが訪れる“聖地"でした。最澄は自身を聖徳太子の玄孫だと言い、空海は自身が聖徳太子の生まれ変わりだと言ったそうです。禅宗では達磨大師の生まれ変わりが聖徳太子だそうです。まるで、日本仏教の総元締めです。
聖徳太子が馬に乗って通ったという、飛鳥と斑鳩をつなぐ約20kmの太子道のさりげなさからは、人々が聖徳太子を、威風堂々の権力者ではなくて慎ましい人柄の人間だ、と思っていたことがうかがえます。
廃仏を唱える物部氏と、仏教推進の蘇我馬子(や聖徳太子)の軍勢との衝突から四天王寺が生まれた、と記録にはあります。その四天王寺が熱狂的に支持されるようになったのが11世紀初め、末法思想が世を覆うようになった時代のことでした。人々は極楽浄土を願い、実際に極楽往生を遂げた人の伝記を集めた往生伝が作られます。慶滋保胤『日本往生極楽記』はその代表ですが、そこでの筆頭は聖徳太子です。こうして「太子信仰」は浄土信仰も取り込んだのでした。平安時代の摂関政治最盛期ですが、多くの人が極楽を夢見るとは、よほど「この世」がつらいものだったのでしょう。
聖徳太子ゆかりの寺である法隆寺と四天王寺は、対照的です。形式も違いますし、「最古の木造建築」である法隆寺に対して、四天王寺は何度も破壊と再建を繰り返してきました。ただ、人々の信仰が寺を支え続けてきたことは、共通しています。その「信仰」とは「聖徳太子信仰」です。
平安末期から鎌倉時代、世の乱れは極まり人心は荒廃し、鎌倉新仏教が次々登場します。それらの祖となった僧侶たちがよりどころとしたのは、聖徳太子でした。中でも親鸞と聖徳太子の関係は劇的です。叡山でも悟れず悩んだ親鸞が京都の六角堂にこもって95日、夢に聖徳太子が現れて偈(げ:仏教の真理を詩の形で述べたもの)を授けたのです。以後親鸞は聖徳太子を尊崇し、それによって聖徳太子信仰は広く庶民に広がっていくことになります。
本書の旅は、現在も聖徳太子の絵解き法要が行われている富山県、太子信仰が土着信仰と混合した「まいりの仏」の風習が残る岩手県へと続きます。
私は聖徳太子が信仰の対象であることはある程度知っていましたが、詳しいことは知りませんでした。ですから本書で、日本のあちこちに残る聖徳太子信仰を知って、少し驚いています。キリスト教での「聖母信仰」や「聖人信仰」と似た心の動き、と解釈したら良いのでしょうか。本書では、「聖徳太子信仰」について述べられていますが、それと同時に「日本の変容」についても述べられています。地域社会が壊れ、民間の信仰が廃れていっている過程が見えるのです。今の日本では田舎(過疎地)は“捨てられる"運命にあるようですが、それと同時に「過去の日本」も捨てられていくのかもしれません。
ラジオから流れたあるJ−POPで「叱られたこと」や「恋が上手くいかないこと」でまるで自分の人生が最大の危機に瀕しているかのような表現をしている歌詞のものがありました。私はきょとんとします。それはたしかに嬉しいことではないでしょうが、そこまで激しく「自分はなんて可哀想なんだ」と思わなくちゃいけないのだろうか、と。頑是無い子供だったらそんな反応をするのは当然ですが、いい年をした大人はもうちょっと違う話になるのではないかなあ。
フルガムさんだったら「それは『ほんとうの問題』か、それとも『ただの不自由』か?」と言うかもしれません。
【ただいま読書中】『オッオ~ ──冷蔵庫のドアの内と外からの眺め』ロバート・フルガム 著、 浅井愼平 訳、 集英社、1992年、1553円(税別)
『人生に必要な知恵はすべて幼稚園の砂場で学んだ』の著者によるエッセー集です。
「冷蔵庫友の会」……深夜に冷蔵庫をあさって残り物を食べる、ただそれだけの行為なのですが、著者がそれを描くと、とても秘めやかで楽しい行為になってしまいます。
「ほんとうのシンデレラ」……幼稚園の劇や公園のホームレスをめぐるハート・ウォーミングなお話の体裁ですが、話の芯には「強さ」があります。そして「おとぎ話」を「毒のあるおとぎ話」にするか、それとも「現実」にするか、の選択を読者に迫る「真剣さ」も。
著者は「自分の生活」を題材としてエッセーを紡ぎます。その視点は、平凡なものからほんの少しずれています。その「ほんの少しのずれ」が読者には自分では思いもよらなかったまったく違った世界を見せてくれるのです。著者は自分のことを「ひねくれたものの見方」をすると表現しますが、実はひねくれているのは世間一般の方で、著者はストレートに世界を見つめているだけなのかもしれません。そして「著者自身が見た世界」「著者自身の世界の見方」が「私が見ている世界」「私の見方」と重なり共鳴したとき、そこには「私たちが見ている世界」「私たちの見方」が生じます。そういったものが生じることを信じているから、著者は本を出版しているのではないか、と私は感じます。これが的外れでもかまいません。「私が見る(生きている)世界」では、それでいいのですから。
昨日の広島駅伝、昨年は中学生区間を走っていた選手が今年は高校生の区間を走っていたりして、今日のレースだけではなくて過去や未来のことも楽しみながら見ることができました。で、ゴールの場面を見たら、コース脇に各地のゆるキャラがずらりと並んでいるのに気がつきました。
世界各地で、真剣な競走だけどユーモラス、というものがいろいろあります。夫が妻を背負って障害物競走をしたり、ウエイターの恰好でお盆にグラスを乗せて優雅に競走したり。
だったら、ゆるキャラで駅伝、なんてのはいかにも「日本的」で面白いのではないでしょうか。着ぐるみの発熱の問題があるから無茶な距離にはできないでしょうが、各県には複数のゆるキャラがいるはずですからそれを10人くらい集めて、一人5分くらいのコース設定にして、都道府県対抗ゆるキャラ駅伝の始まり始まり~
これがテレビ番組になったら、私は見ますよ。
【ただいま読書中】『走りながら考える ──人生のハードルを越える64の方法』為末大 著、 ダイヤモンド社、2012年、1500円(税別)
著者は、競技者としてピークを過ぎ引退を決めるまでの数年間は「下り坂の競技人生」でした。それは「老い」ですべての人が経験するものの先取りだったのかもしれません。さらに著者はハードラーです。本書は、その「ハードル」の連続をどう越えていくか、の「ビジネス書」です。
著者は100mと200m走で県でトップだったのに、15歳で最初のピークを迎えました。スピードは伸びず、高校では後輩に抜かれてしまったのです。その時感じた「挫折」と「恥の感覚」を、著者は精密に分析します。ここでもう著者は「ただ者ではない」感じです。普通の人はそこまで自己分析はやりませんから。
著者は「自己肯定感が強い選手の方が本番に強い」と言いますが、では著者自身の自己肯定感の根拠は何かと言えば、それは「勝利」ではなくて「挫折から立ち上がった体験」でした。「立ち上がる」ためには、運も偶然もなく、あるのは本人の意志だけです。失敗したとき、もう一回トライしようという決心は、自分のみに由来するものです。その決意をした瞬間が一生の宝になる、と。
著者は「成功体験」だけではなくて「失敗体験」も重視します。日本では「失敗=悪」と評価されることが多いのですが、成功よりは失敗からの方が多く学べるはずだ、と。
このへんを読んでいて私が想起したのは、親鸞の悪人正機説でした。悪人だからこそ極楽往生ができるという発想の転換は、親鸞の主張をよくよく読んだらきわめて当たり前の主張なのですが、初めて聞いたときには驚きますよね。それと似た感覚なのです。
自分の能力を洗いざらい“棚卸し"し、“残された時間"を計算。それを著者は現役時代にやっていました。そしてそれと同じことはビジネスパーソンでも必要なのではないか、と著者は問いかけます。さらに、「何をするか」と同じくらい重要なのが「何をあきらめるか」の選択です。そもそも「何かをする」と選択すること自体が「それ以外はしない」という選択なのですが。そこをついつい欲張って「あれもしよう、これもしたい」となると結局成功の確率は下がってしまいます(スポーツだとわかりやすいですね)。
最終的には「イノベーション」「モチベーション」の話になって、いかにもビジネス書らしくはなりますが、やはり「スポーツ競技者の視点」特有の感覚が良い味付けになっています。私自身下り坂であとは社会生活の幕をどう下ろすかを考え始めていますが、たとえ「競技者」としてのキャリアを終えたとしてもそれで人生が終わるわけではありません。となるとそこから何をモチベーションとして自分をイノベートしていくのか、それも考えなければなりませんね。いやいや、「生きる(生き続ける)」のは大変だわ。