【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

AI対人間

2017-05-31 20:19:21 | Weblog

 チェス、将棋、囲碁と次々世界最高のプロがAIに敗れています。
 では、次は? 私はぜひ「AI麻雀」を開発して欲しい。麻雀には「運」や「流れ」がありますが、それでも強い人は強いわけで、もしも麻雀のプロを連破するAIが登場したとして、それはどんな打ち方をするのか、そこにとっても興味があります。

【ただいま読書中】『モスクワ攻防戦 ──20世紀を決した史上最大の戦闘』アンドリュー・ナゴルスキ 著、 津森京子 訳、 津森滋 監訳、 作品社、2010年、2800円(税別)

 独ソの戦闘で有名なのはスターリングラード攻防戦です。両軍で360万人の兵士が駆り出され、91万人が犠牲となりました。ところがモスクワ攻防戦では700万人の兵士が闘い250万人が犠牲になったのに、なぜか「モスクワ」は歴史の中で過小評価される傾向があります。しかし、「モスクワ」は、ドイツ陸軍が初めて喫した大敗北で、それによって第二次世界大戦の帰趨が決まった、と著者は大きな評価を与えています。
 スターリンは猜疑心の固まりでしたが、なぜかヒトラーに関してはその猜疑心は自国の諜報員に向けられていました。「ドイツがソ連に侵攻するバルバロッサ計画を着々と準備中」という情報は、スターリンを激怒させるだけだったのです。そのため、ドイツ軍の攻撃が始まったとき、それに対して応戦したのは第41狙撃兵師団だけでしたが、NKVD(内務人民委員部)は師団長のミクシェフを「抗命」の罪で逮捕しました。今まさに戦闘中でミクシェフの師団だけが何倍も優勢なドイツ部隊を押し返しているのに。ついでですが、ミクシェフは「退却してはならない」という中央の命令を無視して部隊を退却させて戦闘を継続しました(退却しなければ、全滅か捕虜になるだけです)が、それもまた「抗命」ということでまたもや逮捕されそうになりました。スターリンは、敵よりは優秀な味方を殺すことの方に熱心だったようです。
 モスクワ攻防戦については以前『モスクワ攻防1941 ──戦時下の都市と住民』(ロドリク・ブレースウェート、白水社)で読んでいたので、ダブるエピソードも多いのですが、本書には本書の面白さがあります。
 たとえば「レーニンの疎開」。開戦後、レーニンの遺体は即座にチュメニ(モスクワから東へ1600km)に移されました。レーニン廟の職員は遺体に付き添い、終戦までそこで過ごすことになります。食生活だけは非常に快適だったそうです。
 日本の戦陣訓は「生きて虜囚の辱を受けず」で知られていますが、スターリンの指令270号はそれより強烈です。「捕虜になった者は死刑。その家族も罰する」ですから。スターリンの長男ヤコフは捕虜になってしまいましたが、その妻ユリアは収容所に2年間入れられています。後にドイツ軍は、ヤコフ中尉とスターリングラードでソ連軍に捕えられたパウルス陸軍元帥の捕虜交換を提案しますがスターリンは拒絶。ヤコフは自殺しました。「阻止部隊」も大活躍です。前線の少し後方に位置して、最前線の兵士が少しでも後退したら、即座に射殺するお仕事です。兵士は報われません。下がれば味方に殺される、踏みとどまっても敵に殺される。ドイツ軍にうまく投降できても、本国では死刑宣告、捕虜収容所では75%の死亡率なのですから。(ついでですが、捕虜収容所から脱走して帰還したら、スパイ容疑がかけられることになっていました)
 スターリンが愛用する手法は「粛清(テロル)」でした。ポーランドをドイツと分割統治することになると、早速ポーランド人の大移動と殺害が開始されます(「カチンの森」はそのほんの一例です)。ドイツ軍の自国への侵攻が始まると、「処理」するべき大量の囚人を大急ぎで殺すために、前線に投入するべき部隊まで囚人殺害に回されました。
 「粛清」が大好きなのは、ヒトラーも同様でした。スターリンの恐怖政治からの“解放軍”としてドイツ軍を歓迎した人々は、やがてヒトラーの恐怖政治に対する抵抗勢力になっていきます。
 ヒトラーにとって、ソ連侵攻は、イギリスに侵攻する前に“背中”を安全にしておくための事前準備でした。モスクワに一直線に向かえるところまで侵入した瞬間ヒトラーは気が変わり、ウクライナの首都キエフ攻略を優先し モスクワは後回しにします。野戦司令官たちは呆然とします。せっかくの好機なのに、と。それによってスターリンは、貴重な数週間を与えられました。(ダンケルクでも、猛進撃をしていたグデーリアンの装甲師団をヒトラーが足止めしたためにその時間を活かして英仏の33万人の兵士が脱出できたことを私は思います) この時ドイツ軍がモスクワを落としていたら、第二次世界大戦の行方は変わっていた可能性が大です。
 ドイツ軍はついにモスクワ南西160kmまでせまり、焦ったスターリンは、スターリングラードで奮戦中のジューコフ(ノモンハンで日本軍に煮え湯を飲ませた人)をモスクワ防衛のために呼び戻します。
 諸外国もモスクワ攻防戦に注目していました。ただし「ドイツ乗り」と「ソ連乗り」でそれぞれの意見は大きく割れていました。ややこしいのは、同じ国の外交官や軍人でも意見が割れていて、それぞれが自分の国の政策決定に影響力を与えようとしていることです。それでも、モスクワが“風前の灯”であることは誰の目にも明らかとなり、10月16日に外交団や外国人特派員はモスクワから待避することになります。
 公式の記録では、モスクワの住民は一致団結してドイツ軍に立ち向かったことになっています。しかし実際には、略奪・ストライキなど、以前は考えられなかった事態がモスクワに出来していました。さらに避難民が大量に。モスクワの人口は1941年1月に421万、9月には他の地域からの避難民が流入して423万になっていましたが、10月に314万、翌年1月には202万になったのです。スターリンはモスクワに留まることを選択します。単に呆然としていて自分の権力が及ばない存在に対応するための決定ができなかっただけかもしれませんが。
 しかし、まさにその日、「冬将軍」がやって来ました。吹雪が始まったのです。
 スターリンはモスクワに戒厳令を敷き、大量の流血の後、市内に秩序が戻ってきます。さらにスターリンは革命記念日の11月7日にいつも通り軍事パレードを挙行することにします。メリットは、国民の士気向上。デメリットは、首都防衛線に配置するべき部隊にパレードさせ、さらに自分の位置を敵に特定されること。それでもスターリンは周囲の反対を押し切ってしまいます。「自分はびびっていないぞ」と態度で示すことは、国民に対して、というよりも、スターリン本人にとって何より大切だったのかもしれません。
 極東からやって来たシベリア師団は戦局を変える切り札的働きをしました。しかしシベリア師団をモスクワに投入するためには、日本が参戦しない保証が必要です。そこで重要な働きをしたのがゾルゲからの情報でした。そして、シベリア師団の兵士たちの最大の強みは「(モスクワ攻防戦で戦っていたドイツ兵もソ連兵も持っていなかった)防寒装備」でした。10月にすでにマイナス20度、11〜12月にマイナス40度にもなる環境では、防寒できるかどうかが生死を分けたのです。ドイツ軍はモスクワ中心から32kmの所まで到達し(『モスクワ攻防1941』に、モスクワへのバス停留所に立っていることにドイツ軍兵士が気づくシーンがありましたっけ)、そこで敗走が始まります。
 歴史に「イフ」はありませんが、もしもモスクワにドイツ軍が侵攻できていたらどうなっていたでしょう。たぶんスターリングラードと同様の「一部屋一部屋ごとの激しい戦闘が泥沼のように延々と続く」状況にドイツ軍は引き込まれたでしょうが、それでも屋外で凍死していくよりは勝ち目があったはず。そしてもしもモスクワが陥落したら、ソ連は交通と政治の中枢と一大生産地、さらに「シンボル」を失うことになります。それでなくても赤軍はドイツ軍より損害が多かったのに(死傷者数は3倍、という推定が本書にあります)、モスクワ市内で戦闘をしたらさらに死傷者数は増加していたはずで、それはソ連にさらに大きな傷を与えることになっていたでしょうし、世界の姿は今とは違ったものになっていた可能性が大です。



人類の創意工夫

2017-05-29 07:18:46 | Weblog

 兵器や戦術が多種多様であるところをみると、人類は人を殺すためには創意工夫を限りなく行えることがわかります。ではその創意工夫を「平和を構築」するために活かせないのは、なぜなんでしょう?

【ただいま読書中】『地雷処理という仕事』高山良二 著、 筑摩書房(ちくまプリマー新書132)、2010年、780円(税別)

 2002年5月、55歳の誕生日に陸上自衛隊を定年退官した著者は、その3日後にカンボジアに旅立ちました。その10年前、カンボジアのPKO任務が終わったとき「やり残したことがある。また帰ってくる」と決心した著者が、その思いを実行に移したのです。ちなみに10年の間に、著者は英会話の勉強をして英検三級を取得し、さらに僧侶の資格も得ています(仏教国では役に立つかもしれないからです)。同時に、家族の説得。実はこれが一番難題だったようです。
 活動の場はカンボジア・プレイヴェン州。カンボジア地雷対策センター(CMAC)の不発弾処理活動がまだ手つかずの州で被災者が多数出ていました。この不発弾はベトナム戦争の遺物です。ホーチミンルートを遮断するためにアメリカはカンボジアに53万トンの爆弾を投下した、と言われていますが、不発弾がそのままだったのです。著者はJMAS(NPO法人日本地雷処理を支援する会)の現地代表として活動を開始します。事務所の立ち上げ時のメンバーは、著者・鈴木さん(自衛隊OBで不発弾処理のスペシャリスト)・ドライバー・通訳の4人。それにカンボジア人の隊員10人が加わります。
 初日の活動で、不発弾を集めて爆破処理をしようと準備していると、子供たちが「これも」と不発弾を4発持ってきます。その処理が済んで帰ろうとすると、道路脇に不発弾が転がっています。それを記録していると子供が自転車に乗って不発弾をまた持ってきます。人々は「不発弾と共に生活」をしていたのです。
 当時カンボジアでは年間800〜900人が地雷や不発弾で被災していました。その半数は不発弾ですが、その被害を減らすためには、不発弾そのものを減らすだけではなくて、取り扱いについて国民に啓蒙活動をする必要がありました。著者はそちらにも熱心に取り組みますが、心身がぼろぼろになってしまい、一時帰国することにします。しかし、PKOのときに著者に取り憑いた「地雷処理をやりたい」という宿願が、著者をまたカンボジアに出発させます。こんどは「住民参加型地雷処理事業」への参加です。
 不発弾は目に見える場合がけっこうあります(水中や地中の場合もありますが)。しかし地雷は人為的に隠してあります。だからその処理は不発弾以上に危険なものになります。しかしそれをしなければ、安心して道を歩くことも農作業をすることもできません。
 実際の作業は2人一組です。1人が幅1.5m奥行き40cmの範囲の雑木や草などを取り除きます。後ろで待機していた探知員が金蔵探知機でその範囲を探知し、金属反応がなければ40cm前進します。しかし反応があった場合、「それ」が何かを調べなければなりません。もしそれが地雷だった場合には起爆させないように寸刻みに土を取り除きます。見つかるのが小銃弾や鉄の破片の場合も多いのですが、地雷だったら標識を立て、あとから専門家が爆破処理をします。地を這うような時間がかかる作業です、というか、文字通り地を這っているわけですが。著者が活動するタサエン地区では、1980年代の内戦時に、ポルポト軍・政府軍・ベトナム軍が激戦を繰り広げ、対人地雷や対戦車地雷がたくさん埋められていました。
 地雷には必ず金属が使われます。72A型対人地雷(中国製)のように部品のほとんどがプラスチック製のものもありますが、それでも撃針などどうしても金属でなければならない部品があります。また、爆薬は必ず使われているので、地雷探知犬で爆薬の有無の確認を行っています。もちろん地雷を製造する側は探知されないように材質などにいろんな工夫をしてきます。さらに、傾けるだけで爆発するようにしたり、周囲にトラップを仕掛けたりもします。人を傷つけるための創意工夫と熱意には限りがないようです。
 現地でデマイナー(地雷探知員)を募集すると、実に多くの応募がありました。その動機は「家族が地雷の被害に遭った」「貧乏だから」。ただ、明るい未来(地雷に怯えずに生活ができる)のビジョンを皆が夢見ていました。採用されたデマイナーは99名、平均年齢24歳、半数は女性。
 カンボジアに埋められた地雷は400万〜600万個と言われています。手作業で取り除けるのは1年1万個。機械的に取り除くこともできますが、機械が入れない地域では結局手作業しかありません。
 作業を続けている内に、著者は「村の現状」にも気がつきます。井戸・学校・文房具が足りない、通学路がない、農産物はタイの商人に安く買いたたかれている…… そこで著者はまず井戸掘りを始めます。そういえば本書の中盤まで「飲み水」は「雨水」か「溜まり水」で表現されていました。衛生的に問題がある環境です。はじめは業者に掘らせましたがあまりに仕事がいい加減なので、村人のチームで掘るようにやり方を変更。これでけっこうな数の井戸が掘れましたが、カンボジア人はメンテナンスとか修理という概念を持っていないらしく、維持ができません。これには著者は頭を抱えています。そこで著者は「教育」に目をつけます。子供たちに「自助努力」を学んでもらったら、カンボジアの文化も少しは変わり、結果として村の自立が達成できるのではないか、と。そのために必要なのは、小学校建設用地の確保とそこの地雷除去でした。そして著者は、日本語学級やコンピューター教室の講師も引き受けています。主要産物の芋もそのままだと安く買いたたかれるので、芋焼酎にして付加価値を付けるようにもします。
 2007年1月19日、事故が起きました。対戦車地雷(推定8個)が爆発して7名のデマイナーが犠牲になったのです。著者が村を離れてプノンペンにいたときのことでした。村人と共に悲しみに暮れていた著者は供養塔を建設することを思い立ちます。未来の村人が、自分たちの平和な生活は7人の死を礎として作られていることを忘れないように。そして、8人目をそこに入れないために、著者はまた動き始めます。
 著者は「軍事力の平和利用」を言います。地雷処理もその一つです。そして、国連に「戦後処理部門」を作ってそこでも軍事力を平和利用すれば良い、とも。もし世界中の人が「戦後処理」に関わるようになったら、その時世界に本当に「平和」が構築されるだろう、と著者は考えているのです。たしかに、原子力だって平和利用できるのですから、軍事力だって平和利用できますよね。その意志さえあれば。



丁寧な嘘

2017-05-28 07:35:04 | Weblog

 ちょっと前に「これから国民に丁寧に説明をしていく」と言った人がいましたね。で、丁寧どころか、説明自体がない場合、その言葉はどう捉えたら良いのでしょう?

【ただいま読書中】『自生の夢』飛浩隆 著、 河出書房新社、2016年、1600円(税別)

目次:「海の指」「星窓 remixed version」「#銀の匙」「曠野にて」「自生の夢」「野生の誌藻」「はるかな響き」「ノート」

 「海の指」……「灰洋(うみ)」と呼ばれる怪奇な現象によって滅びかけている世界。かつてあった海洋に置き換わった灰洋に触れると、あらゆる物質はバラバラの情報に還元されてしまうのです。死んだことに気づいていないらしい志津子の前の夫。灰洋から「音」によってかつての人類が持っていたものを情報から物質に還元する作業に従事する志津子の今の夫。かろうじて残された島を定期的に襲う「海の指」。実に不思議で救いのない世界観です。
 「星窓」……「星窓」とは、宇宙のどこかをリアルタイムで覗くことができるツールらしいのですが、こちらにも「死んだことに気づいていないらしい人」が登場します。そして、ブラックホールのようにすべての情報を飲み込んでしまう「星窓」に魅入られた人は……
 「#銀の匙」「曠野にて」……AR(複合現実)のかわりに普及したBI(最低保障情報環境基盤)では、社会保障の一部として情報環境へのアクセスが公的に保証されていました。その中に生まれ落ちた子供たちは、最初からデジタル情報の海を「自分のもの」として活用しています。アクセスできる公的私的な情報源をいくらでも参照して「自分の言葉で構成された世界」を“リアル”に構築できるのです。さらに、そこで生まれた天才詩人が「言葉(情報)の悲劇」によって破滅する姿が「自生の夢」に登場します。
 かつて「情報」は、目の前の人が喋る言葉か紙などに固定されたものとして人々に提示されていました。それが現在は目の前にいない人が喋る言葉や、画面に流動的にあらわれるものとして扱われるようになりました。「文字」でさえ「流動的な画像情報」でしかなくなっているのではないか、と私は感じます。ただ、私は「過去の遺物」なので「文字が流動的な存在になりつつある」と意識できますが、デジタル世代はそれさえ意識せずに情報の海の中を漂っていることでしょう。その世界でこれからどんどん生まれる「詩」や「小説」や「エッセイ」はおそらく20世紀までのものとは質的に違ったものになるはず、ということを本書では描こうとしているのではないか、と私には読めました。本書はまだ「SF」ですが、21世紀の後半には「ただの一般小説」になっているでしょうし、その媒体はもう紙ではなくなっている可能性が大です。
 むかしむかし、映画が登場した頃、画面に映る蒸気機関車が自分に向かって突進してくる姿を見て観衆は逃げ惑ったそうです。それと同様に、私は「21世紀のブンガク」に直面したとき、「逃げ惑う」だけになるかもしれない、といういやな予感がします。ついて行けるかな?というか、ついて行くべきかな?



要するに

2017-05-26 19:57:55 | Weblog

 「要するに」を愛用する人の話は、「要するに」の前の話がずいぶんだらだらと長いものですが、「要するに」の後の話も、だらだらと長いことが多いのが難点です。

【ただいま読書中】『都市の起源 ──古代の先進地域=西アジアを掘る』小泉龍人 著、 講談社選書メチエ620、2016年、1650円(税別)

 古代都市研究では、「旧約聖書」と「ギリシア神話」を基礎教養とする西洋の学者が注目したのは西アジアでした。特に「最古の都市」として候補に挙げられるのは「イラクのウルク遺跡(現代名ワルカ)」と「シリアのハブーバ・カビーラ南遺跡」です。著者は、まずウルクが「都市」として誕生し、その“コピー”としてハブーバ・カビーラ南が生まれた、と考えています。
 そもそも「都市」とは何でしょう。実はその定義はけっこう難しいのですが、著者は「都市計画」「行政機構」「祭祀施設」を必要十分条件としています。すると宿場町や港町で「都市」ではなくなってしまうものが出てきそうですが、とりあえず何か定義をつけておかないと話が始まらないので私もとりあえずはこの定義に従うことにします。
 都市の住民を食わせるためには、農作物の貯蔵が必要です。よそ者も多く集まるから、盗難防止に(施錠できる)倉庫の建設、管理、見張りの配置などが必要になり、それは容易に「権力」へと発展していきます。古代都市の中心には神殿があったとしても、その“陰”では世俗権力がすでに発生していたのです。
 都市計画で重要なのは「川の流れ」です。上流に聖域・下流に市街地を配置し、川の流れに従って給水や排水のインフラを整備する必要があります。それに逆らった都市計画の都市は、短命に終わります。河川は、灌漑用などの水資源としての利用の他に流通の手段という重要な役割がありました。余剰農産物や鉱山からの生産物を輸送するのに使われたのです。それぞれの地域の遺跡から、異なった形の船の模型が出土しています。
 都市(の余剰農産物や楽しみなど)は「よそ者」を引きつけます。遠くの情報や異文化を持ち込む人として、あるいは繁忙期の臨時の労働力などとして、都市の側にもよそ者はメリットのある存在でした。ただ数が増えると「土着の都市民」と「よそ者」の共存が社会問題となります。よそ者が参入しやすいように、また人口増に対応するために物の生産には専業や分業や大量生産の手法が取り入れられます。そして、それまでの「平等」が基本だった社会に「階層」が生じます。「みんな同じ」ではなくなったのですから。また「防犯装置(倉庫の扉の鍵など)」が生じます。ただし錠前ではなくて封土で閉じて印章を押すやり方ですが。
 下水は意外に早くできています。7000年前のウバイト期の集落では、家屋ができてからその間に溝を掘る場当たり的な物でしたが、6000年前のウルク期には石膏プラスターで厚く覆われた下水管が設置され、5500年前のシェイク・ハッサン遺跡では石敷きの街路と建物の壁沿いの排水溝が都市計画に基づいて設置されています。5300年前のウルク後期ハブーバ・カビーラ南では街全体を覆うように地下に土管が埋設されて排水網が構築されています。インダス文明のモヘンジョダロでも城塞部に計画的に作られた排水施設が残っています(上水は井戸に頼っていました)。
 ワインの生産(ビールより古いそうです)、野生ロバの家畜化、粘土板への文字の記録などにより、都市は高度・複雑化の道をたどり、古代西アジアではそれを軸として国家(都市国家)が形成されることになりました。
 国家が一つだけなら、権力は未熟です。しかし、都市国家がいくつも誕生すると競合(競争)が生じ、やがてそれは戦争に通じます。5300年くらい前から銅製の武器が大量に出土するようになっていて、このあたりから戦争が増えていることが窺えます。
 西アジアは厳しい環境です。そこでの発掘は「自然環境との闘い」だそうですが、そういった「厳しさ」が「都市化」の原動力になったのではないか、と著者は感じたそうです。対して豊かな自然の日本やエジプトではそこまでの切実さがなかったのではないか、というのが著者の感想ですが、エジプトと日本にそんな共通点があったとはねえ。

 なお、本書に出てくる「図」は基本的に平面図ばかりです。「都市」の三次元の復元図については『鳥瞰図で見る古代都市の世界 ──歴史・建築・文化』(ジャン=クロード・ゴルヴァン 著、 吉田春美 訳、 原書房、2017年、4800円(税別))をどうぞ。「都市」が単に「住居がたくさん集まった平面」なのではなくて、その中に必ず「高さ」を示す建造物(神殿、城壁、塔など)が含まれていることが一目でわかります。



応援か騒音か

2017-05-25 19:57:44 | Weblog

 テレビで野球観戦をする場合は、大リーグ式の静かな方が私は好きです。投げられたり打たれたボールがミットやグラブに収まる音もきれいに聞こえる方が“臨場感”があるように感じられるので、日本式の鳴り物や歌が延々と続いているのはうるさくて好きになれません。
 ところが野球場に行くとその“騒音”が“臨場感”を高めるのですから、不思議です。選手個人のテーマとか、チャンスの時のチャンステーマとか、それぞれに合わせていると、自分もゲームに参加している気分になれます。
 「同じもの」を見ているはずなのに、気の持ちようでずいぶん「違うもの」になるんですね。

【ただいま読書中】『山岳遭難は自分ごと ──「まさか」のためのセルフレスキュー講座』北島英明 著、 山と渓谷社(ヤマケイ新書)、2017年、820円(税別)

 登山中の事故や急病に対して、救急車もタクシーも来てくれません。ですから「そこにいる人たち」による「セルフレスキュー」が生死を分ける場合があります。怪我人に適確な応急処置をおこない、安全な場所に一次退避をさせ、第三者に救援を要請する、そこまでが一般的なセルフレスキューです。そこからはプロによるチームレスキューが始まります。
 セルフレスキューは、登山“前”から始まります。登山計画の提出です。遭難をしたときにこれがあるのとないのとでは、捜索の初動がまったく違ってきます。「遭難は他人ごと」ではなくて「自分にも起きるかもしれないこと」と想像力を働かせることから、登山は始まります。
 負傷者を搬送するやり方はいろいろありますが、一次搬送(事故現場からとりあえず待避する)と二次搬送(チームレスキューに引き継ぐために長距離を搬送する)で少しやり方が違います。どれも「知識」として持っておくだけではなくて、実際に山で予行演習をしておくと良さそうです。体で覚えておくことはいざという時に強いですし、人を担いで山道を歩くのは、トレーニングにもなりそうですから。おっと、急斜面をよじ登る練習もしておいた方が良いでしょうね。滑落の場合には現場は「道」ではなくなりますので。
 帆船の本では実に様々なロープの結び方と利用法が登場しますが、本書にも多彩なロープワークが紹介されています。使う気がある人は、実際にいろいろ結んで引っ張ってみると一般的な生活でも役に立つかもしれません。
 出血、捻挫、骨折、熱中症、低体温症など、山で起きる可能性が高い疾病はいろいろあります。それらすべてに精通することは難しいでしょうが、何人かでパーティーを組むのなら、各人の得意技を知っておくことには意味があるでしょう。「私はなにもできません」という人は最初から山には入らない方が良いかもしれません。
 著者はすごいことを言います。「山で遭難してもいい。最悪、死んでも仕方ない。だけど行方不明だけは絶対ダメだ」。強烈な言葉ですが、本書に登場する遭難のケーススタディーを読んだら、その言葉の真意はわかります。
 ところで、「セルフレスキュー」は、「山」に限定の話ではないでしょう。たとえば大災害の時には「我が身のこと」のはずです。自分が怪我をしている、あるいは自分が無事でも目の前に怪我人や死者が累々と。そして救急車は来てくれない(来るにしてもずいぶん時間がかかることが簡単に予測できる)とき、「自分に何ができるか」が突きつけられますから。そのとき「私には何もできません」で、良いです? 暇があったら、救急の講習会を受講しておくのは、世のため人のため、そして自分のためになるかもしれません。



○だし

2017-05-23 21:06:55 | Weblog

 「赤だし」は味噌汁、「揚げ出し」は豆腐。では「炒りだし」は? そうそう「大根の揚げ出し」という料理もこの世にあるそうです。

【ただいま読書中】『料理名由来考』志の島忠・浪川寬治 著、 三一書房、1990年、2600円(税別)

 「江戸煮」はタコの煮物、「小倉煮」は小豆と何か(トコブシ、タコ、カボチャなど)の煮物。あら、私はどちらも知りませんでした。「苺煮」は生雲丹と鮑の煮物。これは聞いたことがありますが、まだ食べたことがありません。蒲焼きならぬ「蒲煮」は、鰻と牛蒡・蕪などの煮物。これは著者も昭和の初めに食べたきりだそうです。
 博多名物の「がめ煮」の由来には諸説ありますが、著者は「広島あたりの『八寸』が大阪に伝わり、それが博多に伝わって『がめ煮』となり、それがさらに大阪に逆輸入されて『筑前炊き』になった」という仮説を提唱しています。なかなかダイナミックな説ですが、単に「材料」や「料理」だけを見るのではない態度が印象的です。
 「狸汁」「雉焼き」「鴫焼き」は三大名精進料理だそうです。その名前に動物が入っているのは、動物を食べることができない僧の願望が反映されている、と言われているそうですが、著者は「僧が動物を食べることによって供養をしている」説を唱えます。たしかに「食欲全開」ではただの煩悩の輩ですからねえ。
 「姿盛り」と言えるのは、鯛と鯉だけで、伊勢エビの場合は「舟盛り」と言う、とか、「茶飯」は本来は「番茶で炊いた飯」だが「醤油で味を付けて炊いた飯」もいつの間にか茶飯というようになりさらに後者は「桜飯」とも呼ぶ、とか、日本食トリビアが次々登場します。本書にはあいうえお順に111の料理名が登場するのですが、そのどれも蘊蓄の固まりで楽しめます。
 そうそう、クイズを一つ。「鯵のたたき」と「鰹のたたき」は同じ「たたき」ですが皿に載っている造り身はずいぶん厚みが違います。それはなぜでしょう? 解答は本書をどうぞ。



「人」と「入」

2017-05-22 18:14:56 | Weblog

 「人」というフォントは私の画面では左右対称に見えますが、手で書く場合、第一画が長くその斜め下に少し短く第二画が添えられるように私は書きます。つまり「入」の左右対称の文字。
 ところで「人という文字は、お互いに支え合って立っていることを示す」と主張する人は「入という文字」に関しても、同じことを主張しているのでしょうか?

【ただいま読書中】『高い城の男』フィリップ・K・ディック 著、 浅倉久志 訳、 早川書房、1984年、480円

 図書館に予約している『ユナイテッド・ステイツ・オブ・ジャパン』がそろそろ順番が回ってきそうなので、その前に“予習”として本書を読んでおくことにしました。
 ナチスと日本が勝利し、その両者にかつてのUSAは分割統治されています。ドイツ東部からウクライナまではアーリア人種が入植し、アフリカは“空っぽ”。ナチスは月への飛行をさっさと成功させ、さらに金星と火星に植民地開発をしています。そんな世界のサンフランシスコ(当然日本の統治下)で本書は始まります。
 この世界でアメリカが負けたのは、ローズヴェルトが大統領になる前に暗殺されたからです。では(私たちのこの世界と同じく)もし暗殺されなかったら?という仮定で始まる『イナゴ身重く横たわる』という小説は、ナチス支配下の世界で発禁となり、こっそりと人々に読まれていました。そちらでは(こちらの史実と同じく)日本とナチスは“負け”ています。「連合国が負けた世界で、連合国が勝ったという小説が読まれている」というこの二重構造がなんともこちらの心に引っかかります。ディックの小説は「この現実は、本当の現実か?」という問いかけが作品内で執拗に繰り返されることが特徴ですが、本書では読者が「自分が生きている現実は,本当の現実か?」と自身に問いかけることが可能な構造になっているのです。
 日本軍の統治下にある黒人は奴隷で、白人は自分たちのことを「白い野蛮人」と卑下しながら生きています。ドイツではボルマン首相が急死し、それにともないドイツ本国では複雑な政治闘争が繰り広げられている気配です。そしてサンフランシスコには、ナチスによる日本壊滅計画が進行中である、という情報がひそかに伝えられます。日本に対して水爆を使わせないために、ドイツの内部抗争の一方に肩入れをして欲しい、という以来と共に。
 本書の特徴はもう一つ、「卦」です。登場人物は、筮竹やコインで卦を得たり、易経からの引用を盛んに行います。著者自身が自分の人生で迷うと自分で卦を立てていたそうですから、それが作品にも直接的に反映されている、ということでしょう。また、「易」は運命を直接的に語る「決定論」ではなくて「解釈の提示」ですから、本書の最後に登場する「易が小説を書く」という驚異の発想も、私には「それもアリ」と思えます。私も卦を立てながら小説でも書いてみようかな。おっと、卦の早見表はどこにやったっけ?



劇的汚職防止効果

2017-05-21 11:39:10 | Weblog

 NHKで「汚職撲滅を目的として、役人を対象に『昔の汚職役人がひどい目に遭う劇』を見せる」という中国の試みが紹介されていました。義務というか職務の一環として劇場の客席を公務員が埋めているのですが、そこでは、居眠りをしたり、スマホでゲームをしている人たちの姿が。
 それはそうでしょう。子供だましの劇を見て「心を入れ替えました」という公務員が出現するとは思えませんもの。というか、こういった劇が不必要な人(汚職をしない人)はこういった劇を最初から観る必要はないし、すでに汚職をしている人はこういった劇を観ただけで簡単に心を入れ替えるとは思えません。つまり、この劇の効果は「ゼロ」です。
 なんのためにやっているんでしょうねえ。これがまだ、幼稚園で公演、だったら少しは意味が生じたかもしれないのですが。

【ただいま読書中】『イトマン事件の深層』朝日新聞大阪社会部  著、 朝日新聞社、1992年

 本書では「バブル」が日本にもたらしたのは「一億総中流社会を破壊して格差社会にしたこと」との認識をベースにしています。
 バブルでは、雅叙園観光(目黒雅叙園とは別の会社)をめぐっても不明朗な大金が動いていました。地上げ・仕手株・手形の乱発・絵画取引など複雑な取り引きに、社長や詐欺師、金の亡者、病的な嘘つき、暴力団の組長などが群がり、複雑な交渉(だまし合い)を行っています。読んでいて誰が誰とどんな取り引きをしているのか、私は頭が混乱してきます。きっと当事者たちも混乱していたのではないでしょうか。どうみても不合理な決定が次々登場します。「どちらが貸してどちらが借りたなど分からない」という証言さえ登場する有様です。
 オイルショック後の後遺症で倒産寸前のイトマンに請われて幹部として入社した河村は、猛烈な営業と人心の掌握により、会社を建て直しました。しかし、河村が甥にまかせた石油取り引きで巨額の欠損が生じ、10年続いた増収増益がストップ。焦った河村はさらなる増収増益に突進します。しかし、南青山の地上げは訴訟合戦となり、居酒屋チェーン「つぼ八」とも大きなトラブルを引き起こします。そこに許永中が絡んできます。
 京都の近畿放送(KBS)は巨額の簿外債務によって許永中と関係ができ、イトマン事件に引きずりこまれていきました。土地高・株高を演出することで利益を追求してきた住友銀行も、ついに限界に直面します。そして1990年10月、イトマンの終わりが始まります。ついに大阪地検が動き始めます。しかし、事件のあまりの複雑さに検察官も「暗中模索」「海図なき航海」といった有様でした。
 暴力団や政治家も動き回っていましたが、マスコミや検察や警察の関係者にも不明朗な動きをする人間がいます。汚物には蝿がたかるように、「イトマン」の回りにも“蝿”が大量に発生していたようです。で、たぶん、それは「イトマン」に限った話ではないでしょう。



憧れのハワイ航路

2017-05-19 07:35:12 | Weblog

 昔々の流行歌の歌詞ですが、「ハワイがそこにあること」がわかっていれば船出をすることはできます。だけど「水平線の向こうに何があるかわからない」状態で出発した人たち(ハワイに渡った最初の人たち)は、何を思ってどんな準備をして船出をしたのでしょうねえ。漁撈中の遭難・偶然の漂着、だったら、子孫を残すことはできないでしょうから、これは「偶然」ではなくて「意図しての行動」の結果だと私は考えます。だけどその「意図」の根拠は?

【ただいま読書中】『海の人類史 ──東南アジア・オセアニア海域の考古学』小野林太郎 著、 雄山閣、2017年、2600円(税別)

 約10万年前に「出アフリカ」をした現生人類は、基本的に陸伝いに世界中に広がっていきました。氷河期の最後の時期で海面が(最大で百mも)下がっていたので、海峡の多くは陸橋になっていてアメリカにも基本的に徒歩で到達できました。しかし、ウォーラシア海域(マレーシア+インドネシア+フィリピン)とオーストラリア(+ニューギニア)の間には最低80kmの海が広がっていました。我々の祖先はそこをなんと5〜4万年前に渡っていることが、考古学の調査で判明しました。さらに4万2000年前の遺跡からは、マグロ・カツオ・大型のアジの骨が大量に出土しました。つまり、外洋漁業に当時の人々は習熟していたわけです。逆に言えば、「海」に慣れていたからこそ、遠洋航海による移動(移住)もできたのでしょう。ニューギニアでは1万年前ころからブタの骨や歯が出土していますが、これは人が連れて渡海したものと考えられています。
 貝は、食糧としてだけではなくて、道具としても重要でした。シャコ貝斧やタカセガイ製釣針などが遺跡から出土しています。使えるものは何でも使っていたのでしょう。
 私が驚いたのは、ハワイやイースター島に人類が渡ったのが「800〜1200年前」だということです。大体平安時代と重なっています。紀元前1500〜前1000年頃にミクロネシアへの移住が始まり、それが本格的になったのは東南アジアで金属器が広く使われるようになった紀元前後。人類は数百年ごとに隣の諸島へとどんどん東に広がっていって、マルケサス諸島からハワイ諸島やイースター島に広がっていったのが平安時代。「大航海時代」と西洋人は誇らしげに言いますが、その前にすでに南太平洋では(冒険か生活かはわかりませんが)「人々が大航海を普通にしていた時代」があったようです。



海洋投棄

2017-05-18 07:06:09 | Weblog

 私が子供の時には、街の中をバキュームカーが走り回っていました。当時はまだ糞便の海洋投棄が認められていて、平気で海にドボン。それを何も思わず看過していた私は、原発の汚染水が海に漏れても「コントロールできている」と主張する人の態度を責めることはできないのかもしれません。

【ただいま読書中】『江戸の糞尿学』永井義男 著、 作品社、2016年、2400円(税別)

 都市の人糞を集めて下肥として使う社会システムは、鎌倉時代から戦国時代にかけてできあがりました。『日葡辞書』には「Coye(肥)糞尿・肥料」「Coyeo tacuru(肥をたつる)糞尿・肥料を外に運び出す」が収載されています。糞尿は「金になる商品」となり、便所は「川や地面に垂れ流す」形式から「貯蔵とくみ取りができる施設」に変化します。
 馬琴の日記から滝沢家のトイレ事情が解説されていますが、なかなか興味深い内容です。庭付きの戸建てという、庶民よりはるかに恵まれた住宅環境ですが、今の目からやはり貧相なトイレです。それでも「陶器製の朝顔(男性用小便器)」を設置する、なんて大贅沢をしていますが。くみ取りに来る百姓は契約によって数里向こうから歩いてやって来ます。来ると、庭の畑に野菜の種をまいたり垣根を修繕したり、まるで下男のように重宝されています。実際、滝沢家には下男がいなかったから誰かに頼るしかなかったのですが、その報酬は“昼飯”でした。
 庶民が住む裏長屋では、共同便所のくみ取りで農民が払う銭は大家(長屋の所有者から依託された管理人)の役得となっていました。江戸後期の風俗を扱った「守貞謾稿」には、大家の年収四十両の1/4が糞代とあります。当然、大家と農民の契約交渉はシビアなものとなりました。
 便所での事故も多かったようです。物を落としたりお釣りをもらったり(大便を落としたら汚水がはね返ってくる)、はまだ当たり前ですが、将軍に酒を強要されて酔っ払った武士が頭から落ちて溺死した、なんて剣呑な事例も江戸城で報告されています。
 上方では小便は大便と並んで貴重な肥料の原料扱いでしたが、江戸では小便はあまり重視されていませんでした。それでも中には小便だけをわざわざ収集して野菜の肥料に使っている農民もいたようです。上方と江戸の違いは「女の立ち小便」にもありました。どちらでも女は路傍で平気で立ち小便をしていましたが、上方は立ち小便(立って上半身を前傾させて後方に放尿)、江戸はしゃがみ小便だったそうです。そういえば東京オリンピックの時に国立競技場に女性用の小便器が設置された、という噂を聞いたことがあります。当然見たことはありませんが、これは「立ち小便」だったのでしょうね。
 古代ローマにすでに水洗トイレがありましたが、これは河川や海に単に放出するだけのものでした。中世ヨーロッパの都市でトイレは“退化”し、パリでは建物の窓から道路におまるの中身をぶちまける行為が横行します。パリの街路は糞尿で悪臭紛々、セーヌ川も流れ込んだ汚物の“下水”になっていました。ヨーロッパでは家畜の糞が肥料として利用されていて、わざわざ街に人糞を買いに来る必要がなかったからでしょう。
 江戸の人口が増えると、糞便の“生産量”が増加しますが、それと同時に野菜などの需要も増加します。そのためには肥料が大量に必要になるのは良いのですが、問題は、量が増えると農民が個別に対応することが困難になること。そのため“専門業者”が出現しました。大量に運搬するために船を用いたため、下肥の利用は江戸の「東側」で盛んに行われていました。ただ、“商売”が大規模になると、関与する人間の数が増えます。その結果は「下肥の値上げ」や「水増しした下肥」でした。そのため「米騒動」ならぬ「下肥争議」が発生します。最初は寛政元年。村々から勘定奉行に「くみ取り料値下げ」の嘆願書が出されましたが、奉行は却下。すると翌年武蔵・下総の千十六村が結束して値下げ交渉をし、一時的に下肥の値は下がりました。しかしすぐに値上げが始まり、さらに天保の改革で「諸物価の値下げ」が命じられ、米穀や野菜は強制値下げとなりましたが、下肥は「商店で売られる商品ではない」と値上げが黙認されました。農民は踏んだり蹴ったりです。経済の仕組みに精通していない“世間知らず”が「改革」をすると碌なことにならない、という歴史的な教訓です。
 明治になっても下肥の重要性は変わりませんでした。しかし、大正期になると、下肥の利用が減り、都市に糞尿が溢れるようになります。そこでくみ取り料を都市の側が支払ってくみ取ってもらうようになりました。それは昭和になるまで続きました。で、このあたりになると話は「歴史」ではなくて「私の体験談」にと続くわけです。