【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

○日の出/『キリスト教の勝利』

2008-12-31 17:58:02 | Weblog
 明日の日の出は初日の出です。老若男女が一斉に日の出を拝むのは、日本で隠れていた太陽神信仰が日にち限定で復活する不思議な現象ですが、もしも「その年初めての日の出」がそんなにめでたいのだったら、「その年最後の日の出」もめでたいだろうと、今朝しっかり拝むことにしました。あいにく曇り模様でしたが、雲の切れ間がどんどん明るくなり全天を染めた茜色が東の一点を目指して収束していく様には見とれてしまいました。地の向こうから顔を出す太陽そのものを見ることができなくても、こうして「太陽が出たぞ」と世界中が自分に教えてくれるのは、とても嬉しくめでたいことに思えます。
 ところで「初日の出」の対義語は何でしょう。「最後の日の出」だと『地球最後の日』みたいですし……ちょっと長いけれど「大晦日の日没」?

※今年も好き放題書きつづった一年でした。読む方もわりと好きに読めました。仕事が忙しくなってきたとか厳しい社会情勢とかありますが、この読書日記は来年以降も続けられるだけ続けます。どうかお付き合い下さい。ありがとうございました/来年もよろしく。

【ただいま読書中】
ローマ人の物語 XIV キリスト教の勝利』塩野七生 著、 新潮社、2005年、2600円(税別)

 キリスト教を公認した大帝コンスタンティヌスの死から本書は始まります。コンスタンティヌスは自分の死後帝国を5分して統治するプランを残していましたが、葬儀の直後粛清が起き、結局帝国は三兄弟によって三分割で統治されることになります。しかしすぐに内紛が起きます。
 ローマ帝国は、キリスト教だけではなくて、オリエントからエウヌコスという宦官制度を宮廷に導入していました。軍団は蛮族出身者が主力となっています。ローマ街道の整備も怠られています。ローマは「ローマ」ではなくなってしまったようです。そのせいか、著者の語り口はずいぶん辛くなっています。「こんなの、私が愛するローマじゃない」と言いたいかのように。
 コンスタンティヌスの跡を継いだコンスタンティウスは、親戚のユリアヌスにガリアをまかせてそのほかの地域の統治に集中します。コンスタンティヌスの死後の粛清で父親を殺されずっと学究生活だったユリアヌスですが、意外にうまくガリアを管理します。
 ローマ帝国の“基礎体力”は落ちています。蛮族の侵入が繰り返されて生産力は低下しインフラは荒廃、兵士と官僚と聖職者という“非生産部門”は増大。コンスタンティノーブルの宮廷では、オリエントの影響で組織の肥大化が進行していました。コンスタンティウスの跡を継いだユリアヌスは「改革」に乗り出しますが、それは二代にわたるキリスト教優遇策に逆らうことであり、かれは「背教者」と呼ばれるようになります。しかしユリアヌスが連発した「キリスト教国家への流れを変えようとする政策」はことごとく失敗。さらに数ヶ月後にはササン朝ペルシアとの戦争が再発します。既得権益を侵された有力者たちのユリアヌスへの反感は募ります。ギリシア・ローマの宗教の信者とキリスト教徒との争乱が起きます。さらにキリスト教内部でのアタナシウス派(カトリック)とアリウス派の対立。戦場に向かう軍隊は、かつては「ローマ人」と「属州民」の多国籍軍でしたが、今回は「ローマ人」と「キリスト教徒のローマ人」との多宗教軍となっていました。
 結局ユリアヌスは19ヶ月で“退場”させられ、「異教徒」の勢いは衰退しキリスト教が興隆します。ペルシアは弱体化して東方は落ち着きましたが、そこにフン族が登場。黒海でゴート族を襲い、ドミノ式にゴート族はローマ国境に向かいます。(そのころブリタニアには、ピクト族・スコット族・アングロ族・サクソン族が侵入を繰り返していました。「おお、もうすぐサトクリフが描いた世界だ」と私は呟きます) 大挙侵入してきたゴート族にローマは大敗します(ハドリアノポリスの戦い)。そこでテオドシウス帝は、ブルガリアからセルビア・モンテネグロあたりにゴート族の定住を認めます。ただし、これまで伝統の「ローマ化」は行わずに。著者はこれを「ローマ帝国の“溶解”」と表現します。
 「三位一体派」と「アリウス派(キリストは神ではなくて神の子)」の対立は深まります。私見ですが、聖書を素直に読めばキリストは神ではなくて神の子でしょうが、ローマ帝国の支配のためにはキリストを神に近づけておいた方が現世的に有利、という事情が働いてカトリックが優勢になったのではないか、と思えます。現実と相性の悪い教義は広まりませんから。
 4世紀のローマでの、知識人階層におけるギリシア古典の教養教育とキリスト教の暴力的な衝突を見ていると、それから千年近く後のスコラ学のご先祖様か、とも思えます(スコラ学は繊細で知的、という違いがありますが)。同時に、中世のキリスト教がどうして知的でなくなったのかの原因もこのローマ時代にあるとも。ローマは変質してもローマだったのでしょう。
 そして、ついにローマは東西に分割されます。


決まり通り/『警官嫌い』

2008-12-30 17:01:29 | Weblog
 拘置所に拘留されていた人が自殺して、新聞に載っていた拘置所の説明が「決まり通り15分ごとに巡回はやっていたから、こちらの落ち度ではない」。私には、これは「決まり」に落ち度があるように見えます。(物理的に「絶対自殺が不可能な環境」の設定は(人が暮らす環境では)不可能ですから、そちらは問いません)
 「巡視が15分ごと」がパターンとして確立しているのなら、もし私がこの拘置所で自殺しようと決意したら、巡回が行ってしまったら「よし、これで14分は余裕がある。脳が酸欠になって手遅れになるまで数分としたら10分で準備を完了すればよい」と動き始めるでしょう。これがもし巡回が不定期で、早いと数分で戻ってきて、遅いと15分や30分のときもあって、パターンが全く読めない状況だとこれは困ります。「自殺の準備をすること」と「巡回を警戒すること」を同時にやらなければならなくなりますから。心は焦り注意力は散漫になり失敗の確率が増え、結局自殺を断念するかもしれませんし、いよいよ最終段階というところで発見されてしまうかもしれません。少なくとも自殺が、10分間の時間を保証された作業から、ギャンブルになってしまいます。そう思わせるだけで拘置所では自殺の抑止力として働きそうです。
(「24時間モニターか何かで監視しろ」と主張する人がいそうですが、そういった人は「監視は人権侵害だ」と主張する人たちとまず議論してきてください)

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警官嫌い』エド・マクベイン 著、 井上一夫 訳、 ハヤカワ文庫、1976年(86年13刷)、400円

 87分署シリーズの第1作です。
 ひどく暑い夜、夜勤に出勤途中の刑事が45口径を2発後ろから頭に食らって即死します。87分署の16人の刑事は15人になってしまいます。
 深夜二時、刑事たちは捜査を開始します。その中に87分署の二級刑事キャレラもいました。年がら年中犯罪が起きて、ちゃんとやるには100人は刑事が必要な街の中を彼らはあてもなくさ迷います。薄汚れた街路、やる気のない同僚とのけだるい会話、聞き込みでの虚しい会話……なんというか「リアル」な場面が続きます。もちろん私は現実の捜査場面なんか知りませんが、てきぱきと進むテレビドラマのような場面展開は本書にはありません。だらだらとかったるく暑苦しい展開そのものが「リアル」なのです。さらに、拳銃携行許可証や検視報告書がまるで小説の挿絵のように途中に差し込まれます。キャレラが生きた人間として現実の中を動いていることを証明するかのように。もちろん生きた人間ですから恋もします。キャレラの恋人は、耳が聞こえず口がきけないテディ。
 本書は「警察小説」の嚆矢だそうですが、それまでの推理小説に慣らされていた読者はきっと吃驚したことでしょう。私は高校の時のマルティン・ベックシリーズ(マイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー)(最初に読んだのは確か『笑う警官』)でそういった「びっくり」を体験しましたが、本書の解説によるとマイ・シューヴァル&ペール・ヴァールー夫妻は87分署シリーズをスウェーデン語に翻訳して紹介していた人たちだったそうです。なるほど、雰囲気が似ているわけです。
 キャレラがテディにプロポーズした夜、また一人刑事が殺されます。物証は、弾丸と薬莢、それと犬の糞の上に残された足跡。おせっかいな新聞記者が街の中をかぎ回って事態をかき回し、そのとばっちりでまた一人私服刑事が撃たれます。手がかりは見つからず、募るのはイライラと暑さだけ(この暑さの描写はすごいです。読んでいてこちらまで汗まみれになったような感じになりますから)。
 犯人はまた一人刑事を射殺します。しかし反撃にあい、肩に銃創を負います。警察に初めて豊富な手がかりがもたらされます。そして姿を現した“真犯人”と事件の真相は……
 時代を感じさせるのは、指紋や血液型について説明があるところです。それも新しい知識として。でもそれは枝葉です。熱波で始まり熱波で終わる見事な構成と、カメラが地面すれすれに設置されている刑事ドラマのような全体の展開は、あっという間に読者を本の中に連れ込み、街の中を引き回してくれます。


焼きそば/『ロザムンドおばさんの贈り物』

2008-12-29 18:46:02 | Weblog
 私はたまにしか料理をしません。で、たまのことなので遊びたくなりました。
 作るのは焼きそば。そこで和風ドレッシングを使うことにしました。麺を蒸らすための水分も入っているし炒めるための油もあるし調味料もいろいろ入っているから面白そうです。で、結果ですが、それなりに美味いけれどずいぶんな薄味に仕上がりました。しかたないのでウスターソースを皿の上で追加しましたが、ま、これもありかな、と思っています。
 さて、次回はどんなことをして遊んで、もとい、料理してみようかしら。

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ロザムンドおばさんの贈り物』ロザムンド・ヒルチャー 著、 仲村妙子 訳、 晶文社、1993年、1748円(税別)

 この本を読む前には、ちょっとした準備をお勧めします。もしできれば照明は少しだけ暗めに。BGMはあっても良いけれど音量は絞って。携帯のスイッチは切って。

 恋する男と一緒に過ごしたいと懸命にスキーの練習をしたものの、連れて行かれた山の頂上で足がすくんでしまい友人たちはさっさと滑り始め、すごすごとケーブルカーに乗って下に引き返そうとした少女ジーニーが出会った男は……(「あなたに似たひと」)
 なんと社長夫妻が平社員の自宅に訪問に、ということで舞い上がっていたら、予定より一日早く二人が到着。夫の出世のことや失礼があってはならないとてんてこまいになってしまった若妻アリスンは……(「忘れられない夜」)
 夫が死んだ後、自宅を半分貸すことにしたヴェロニカ。ふだんはあまりに静かに本を書いているためその存在さえ忘れかけていたのに、子どもを寄宿学校に見送って、がらんとした家で一人ぽつねんとしたら、突然その借家人から「お茶でもいかが」と声をかけられて……(「午後のお茶」)
 娘が早産で緊急入院となって、大あわてで駆けつけたイーヴ。最初の子が難産でこんどの二人目も難産。いやな予感ばかりが頭をよぎるがそのとき見たのは……(「白い翼」)
 ビルが結婚した相手は二人の娘持ち。「良き父親」になろうとして悪戦苦闘するビルだが、二人の娘はそんな彼にどちらかというと冷ややかな目を。そんなこんなの日曜の朝、娘がかわいがっていた金魚が死んでしまい……(「日曜の朝」)
 八歳の少年トビーの“親友”ビル・ソーコム(62歳)が死んだ日。大工兼葬儀屋のウィリーとの会話。羊の出産。ずいぶん年が離れた姉とずっと喧嘩していた近くの幼なじみ(ボーイフレンド?)との仲直りの場面。おばあちゃんとの会話。トビーは生と死についてたくさん考えながらその日の終わりに眠りにつきます。(「長かった一日」)
 豊かなイングランドの自然の中で過ごす二人。愛し合っているのにエリナはどうしても結婚に踏み切れません。将来へのおそれと自己嫌悪、トニーへの愛情でエリナの心は立すくんでいます。そのとき、ホテルで出会った老婦人は……(「週末」)

 静かな水面に、ぽつりと雨粒が落ちて波紋が広がり、静まり、しばらく経ったらまた雨粒がぽつり、波紋、静まり……それが繰り返されるような短編集です。これは意外な拾い物でした。


ツインカムターボ/『クリスマスの幽霊』

2008-12-28 18:40:57 | Weblog
 今から四半世紀くらい前、車の広告には「ターボ」「ツインカム」「ツインカムターボ」といったことばがさかんに踊っていました。
 私の運転スタイルでは、エンジン回転数はレッドゾーンぎりぎりを使うどころかふつうは2000~4000回転で十分なので「一体誰がどこでツインカムターボの“全力”を振り絞るんだろう?」「日本でそういった高性能車の能力を発揮できる場所って、どこだろう?」とそういった広告を見ていて不思議でしかたありませんでした。あのてのハイパワーエンジンの多くはパワーバンド(エンジンの最高馬力と最高トルクが使える回転数の領域)が狭くて使いにくいエンジンではないか、と思えるのですが、まあ、使う人は使っていたんでしょうね。

 私は一切そういった“ハイテク”には縁がないシビックに乗っていましたけれど(実は今でも乗っていますけれど)、当時ああいった“ハイテク”が大好きだった人は今は何に夢中になっているのでしょう。もしかしてハイブリッド?
(ちなみに、私が当時乗っていたバイクは、ツインカム(DOHC)とかそれより古いシングルカム(SOHC)どころかさらにそれ以前のタイプのOHV(オーヴァーヘッドヴァルヴ)だったんですが、それでも一般道と高速を走るのには特に不満はありませんでした。峠をぎゅんぎゅん攻めるようなことはしていませんでしたから)

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クリスマスの幽霊』ロバート・ウェストール 著、 ジョン・ロレンス 絵、坂崎麻子・光野多恵子 訳、 徳間書店、2005年、1200円(税別)

 子どもが幸せな期待に胸を膨らますクリスマスイブ。ケーキにツリー、焼きたてのミンスパイ。そしてサンタクロース。
 弁当を忘れて出かけてしまった父親に「ぼく」は化学工場に弁当を届けに行きます。ところが、乗ったエレベーターの鏡に幽霊が映ります。それは、工場で誰かが事故で死ぬ直前に必ず出現する幽霊でした。弁当は無事に届けましたが「ぼく」は今夜死ぬのが自分の父親かもしれないと思いつき、心配で心配でたまらなくなります。恐怖に耐えて「ぼく」はもう一度エレベーターに乗ります。どこで事故が起きるのか、幽霊から聞き出すために。幽霊は手を交差させてX字形を作って見せます。

 著者が自らの子ども時代の記憶を使って、1930年代の工場町が生き生きと描き出されます。雪に埋まりアセチレンランプに照らされた、工場からのスモッグに覆われた街です。そして、少年の心情、父親へのあこがれと信頼も。本書で特徴的なのは「におい」です。少年は街で実に様々なにおいをかぎます。焼けたニス・葉巻・ベンゾール・コークス・乾し草とオート麦・馬の小便、そして、年寄りのにおい。でも「ぼく」が最後にかいだのは、父親からの、洗っても洗ってもとれないコークスとたばこのにおいでした。
 著者が得意としている「戦争」は本書では「影」としてしか登場しません。ムッソリーニやヒトラーは名前だけ登場します。このクリスマス・ストーリーは、そういった影がある分話に深みがあるように私には感じられました。
 そうそう、読んでいてどこかで同じような話が、と『チョコレート工場の秘密』を思い出しました。大きな工場と町の関係や、家族と少年の関係などが同じように見えます。もしかしたら両者は同じ主題の別の変奏曲、といっても良いかもしれません。

明快なことば/『脳と心』

2008-12-27 21:13:10 | Weblog
 明快な思想を持つ人のことばは明快になります。ことばは思想から生まれるものですから。しかし、その逆、明快なことばを使う人が明快な思想を持っているかといえば、その保証はありません。もしかしたらその人は、単純な思考や粗雑な思考しか持っていない場合もあります。ですから、「ことばが明快かどうか」は重要なことではありますが、あまり不必要にこだわりすぎない方が吉です。

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脳と心』ジャン=ピエール・シャンジュー/ポール・リクール 著(対談)、合田正人・ 三浦直希 訳、 みすず書房、2008年、4800円(税別)

 脳に関して科学は引き裂かれています。行動学は動物や人間の行動を解析しますが、そこでは脳は一種のブラックボックスとして扱われています。分子生物学は分子レベルで脳を解明していきますが、詳細に分析すればするほど「美の知覚」や「創造性」といった高度な機能は見えなくなっていきます。
 そして、哲学は自らの内に閉じ籠ってしまっています。科学と哲学ともまた「引き裂かれた存在」であるかのようです。

 本書は、分子生物学者のシャンジューと哲学者のリクールとの対談です。私が劣等感の塊だったら「なんだ、衒学の書か」と言いたくなるであろう、知識と言葉の奔流です。ところが編者は読者に対して「審判ではなくてパートナーとして論争に参入」することを求めます。そこまで読者を信じちゃって良いんですかねえ。私自身は成熟した読者ではないので、ついつい、哲学よりは自分にまだ馴染みのある科学の側からこの本を読もうとしますが、初っぱなから「脳についての言説が共通経験に変化を惹き起こすか」と言われると、なんのこっちゃい、と目をぱちくりです。

 スピノザ、カント、ポパー、デカルト、コント、スペンサー、ダーウィン、ジョン・ワトソン、ブローカ、オリヴァー・サックス、パスカル、カンギレム……はじめのあたりのほんの数十ページの間に、最低これだけ(あるいはこれ以上)の人の思想や業績が紹介されたり言及されます。よくもまあこれだけ本を読めて覚えていられるものだと私はまずそこに感心してしまいます。それと「何を読むか」ではなくて「それをどう読むか」がいかに重要であるかもわかります。この二人は同じ本でも全く違った読み方をしているのですから。

 リクールは「同一平面への展開」ということばをよく使います。幾つかの言葉が同じ「平面」に展開されたらその言葉には関係が生じます。しかし、別の平面に展開されたらそれらの言葉は交わりません。「脳」と「心」はリクールにおいては「別の平面」に属することば(概念)のようです。それでもリクールは「ニューロン的なもの」と「心的なもの」の交差は認めます。
 しかし、シャンジューにとっては(物としての)「脳」と(その機能としての)「心」は“地続き”です。ニューロンの機能として心が活動する、それ以外に考えられるか?なのですが、リクールはそこに異議を申し立てます。
 本書は、単に科学と哲学の“対決”ではありません。シャンジューは諸科学の隔壁を取り払って統一科学を打ち立てたいという“野望”がある様子ですし、リクールは「現象学」(反省的・記述的・解釈学的を合わせたもの)の立場をまもろうとしているようです。両者ともそれぞれ「各分野の代表選手」と名乗ったら異論続出になりそうな人選だったでしょう(彼ら自身がそのことについて言及しています)。ただ(プラトンを持ち出すまでもなく)「対話」によって生じるダイナミズムは人の心を動かします。少なくとも私の心は動きました。しかし「この本を理解するために読まなければならない本」のリストは長大です。死ぬまでにそれらのどのくらいが読めるかしら?


町内会/『ほらふき男爵の冒険』

2008-12-26 18:01:41 | Weblog
 去年は班長で気楽だったのですが、今年はブロック長をやっているので役員会とやらにも定期的に参加しなくちゃいけません。そこではいろいろ面白い話が出るのですが、最近町内会に対してちょっと変わったクレームが増えているそうな。たとえば「自分は参加しないんだから町内の祭りはやめろ」とか「隣の家の色が気にくわないから町内会で変えさせろ」とか。そんな個人的要望をかなえるために町内会が存在していると思える“根性”が素敵です。嫌いですけど。

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ほらふき男爵の冒険』G・A・ビュルガー 編、斉藤洋 文、 はた こうしろう 絵、偕成社、2007年、1000円(税別)
 新聞に「代理ミュンヒハウゼン症候群」と思われる事件が報じられていたので、ちょっと読んでみることにしました。何年前に読んだか忘れてしまうくらい昔に読んで以来です。
 第1章「ロシアへ、そして、ロシアで」の第2話「雪の上のくい」はしっかり覚えていてちょっと満足。第3話「おおかみにおくられて」は途中まで覚えていました。橇で走っていたら狼に襲われて狼が橇を引っ張っていた馬を食っちゃう話です。そのあと馬のかわりに狼が橇を引いて走るのですがオチをきれいに忘れていました。いやあ、読んで良かった。
 第2章「狩りは楽し」の第4話「聖普フベルトゥスの大鹿」はまるで落語の「あたま山」の一部です。さすがに池に身は投げませんが(いや、あの発想はミュンヒハウゼンを上回ってますな)。

 なんでこんなに楽しいお話が、あんな病気にタイトルとして取り入れられてしまったのやら。



箸/『地中海の覇者ガレー船』

2008-12-25 18:33:42 | Weblog
 稲庭うどん専門の箸というのを思いついてしまいました。いや、麺類って塗り箸ではすべって食べにくいでしょ。で、稲庭うどんと讃岐うどんとは太さが全然違うから、箸も当然太さや長さを変えて……すると、素麺専門や冷や麦専門の箸も成立しますかね。ラーメン専門の箸は、縮れ麺とストレート、味噌と醤油と豚骨でそれぞれ箸も使い分けたりして。(ちなみに、フォークがアメリカに普及した時にはそれに近い状態になりました。食材ごとのフォークが開発・発売されたのです)

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地中海の覇者ガレー船』アンドレ・ジスペール/ルネ・ビュレル 著、 深沢克己監修、遠藤ゆかり・塩見明子 訳、 創元社、1999年、1400円(税別)
 本書はまずヴェネチアの歴史から始まります。住民が増えて6世紀ころいくつも共同体ができ、西暦810年に総督府がリアルトに置かれて都市ベネチアの歴史が始まります。商人は盛んに海洋貿易を行いヴェネチアは共和国として大発展しました。西の神聖ローマ帝国と東のビザンティン帝国と条約を結び、同時にイスラム国家とも友好関係を保って東地中海の制覇を狙います。十字軍運動が始まり、ヴェネチアは海軍力を増強させます。ビザンティン帝国の忠実な同盟者でしたが、第4次十字軍ではビザンティンの首都コンスタンティノープルを占領しラテン帝国を建設してしまいます。15世紀にヴェネチアは絶頂期を迎えます。それを支えたのがガレー船でした。
 ガレー船は古代からありますが、帆だけではなくて人力の櫂でも進むことができる大型船です。14世紀はじめに開発された大型ガレー船は国営造船所で造られ商船は入札制度によって船長(貴族)に貸与されました。帆船と違って人件費が莫大にかかるガレー商船は、貴重な商品や金持ちの旅行などに用いられました。(乗員200人のうち漕ぎ手は150人だったのです) 海賊対策のため武器も備えられさらに船団を組んで航行していました。
 しかし、新しい大型帆船が開発され、イギリス・スペイン・ポルトガル・オスマン帝国など海運の“ライバル”が登場すると同時に喜望峰回りの航路が開拓されて地中海航路の地位が低下し、さらに豊かになったが故に漕ぎ手の志願者が減少した、といった事情が重なり、ヴェネチアの商業(とガレー船)は衰退に向かいます。
 1453年オスマン帝国はビザンティン帝国を滅ぼし、その海軍力を入手しました。強力な陸軍力を誇る国がもう一つの力を手に入れたのです。1470年にはトルコ艦隊(300隻のガレー船)がエーゲ海のネグロポンテ島を陥落させ、ヴェネチア海軍を圧迫します。西地中海はスペインの支配下にありヴェネチアはこちらとも対立していましたが、キプロスを狙うオスマン帝国に対して一応協力(1571年の神聖同盟)をすることになります。有名なレパント海戦です。艦隊戦力はトルコ側が優勢だったと伝えられますが、キリスト教国連合軍は大砲を搭載したガレアス船などを駆使し戦争に勝利しました。しかしオスマン帝国はすぐに海軍を再建し、結局キプロスはオスマンのものになります。オスマン帝国の宰相はヴェネチア大使にこう言ったそうです。「われわれは戦争で敗北し、あなたがたはキプロス島を奪われた。つまりわれわれは髭をそり落とされ、あなたがたは腕を切り落とされたわけだ」
 17世紀から18世紀にかけて、大型帆船にその地位を奪われたガレー船ですが、フランスは国威を地中海に示すためにガレー船団を維持しました。ただし、その漕ぎ手は、中世の自由民とは違って、奴隷と徒刑囚や捕まえられた脱走兵で占められていました。太陽王の影の部分と言って良いでしょう。イスラム教徒の奴隷は一括して「トルコ人」と呼ばれていましたが、「トルコ人」が足りなくなると新大陸の先住民も使われました。
 徒刑囚たちのつらい生活(船上のものだけではなくて、船に乗る前のものも)について本書で詳しく語られていますが、これだとその後革命が起きたのも不思議ではない、と思えます。ちなみに徒刑囚の死亡率は50%。そのうち2/3はガレー船に送られてから3年以内に死亡、だったそうです。ルイ15世になってから、ガレー船団は軍事的には有用ではないと判断され、規模が大幅に縮小され1748年に廃止されています。
 しかしガレー船は北で生き延びました。フィンランドを巡るロシアとスウェーデンの紛争では、水深が浅く小島や岩礁が点在する環境に剝いたガレー船が用いられたのです。(ロシアはトルコとの戦争にもガレー船を用いています)
 古代のガレー船が実は19世紀まで生き延びていた、というのは、いやあ新鮮な驚きでした。

 乗った人の手記とかオールの漕ぎ方の区別といった技術的な話まで盛り込まれています。別に漕ぎ方の勉強をしたいわけではありませんが、いろいろ面白がって読める本です。



バスを停める/『猫のパジャマ』

2008-12-24 18:54:45 | Weblog
 私はけっこう気まぐれに通勤路を変えます。で、今お気に入りの通勤路の一部に、狭い一方通行なのにバスが通っている道があります。ふだんはバスの姿は見ないのですが、ある朝はその後ろにつくことになってしまいました。ディーゼルエンジンからの排気ガスを大量に浴びるのは好みではないので少し車間距離を取ります。するとそのバス、停留所の手前から加速したかと思うと、停留所を行き過ぎてからふしゅーっと停止しました。「ほにゃ?」とこちらもそのうしろに停止して見ると、停留所から人が小走りにバスに向かっていきます。なるほど、バスの運転手さんが待っている人を見逃したのか、はたまた停留所そのものを見逃したのか、ともかくあやういところで気がついて止まった、というところでしょう。もしかしたら新人かこの路線に不慣れな運転手だったのかもしれません。
 そういえばバスの停留所に立っていても、やって来たバスに対して手を挙げないと停まってくれない、という地域もありました。まるでタクシーですが、停留所に立っていてもなかなか油断はできないようです。

【ただいま読書中】
猫のパジャマ』レイ・ブラッドベリ 著、 仲村融 訳、河出書房新社、2008年、1800円(税別)

 タイトルを見てまず思うのは『キャッツ・クレイドル』(カート・ボネガット)です。(ちなみに、「cat's cradle」は「猫のゆりかご」ではなくて「あやとり」、「cat's pajamas」は「素晴らしい人(もの)」です)
 ともかく私にとっては「嬉しい(クリスマス)プレゼント」です。「ピンピンしているし、書いている」という序文に続いて21編の短編が並んでいますが、初出が19編。1940~50年代の“蔵出し”の作品(雑誌などに発表されずにそのままブラッドベリ家のどこかに“お蔵入り”していたもの)と21世紀になってからの新作とが半分くらいずつの編成です。ただ、古くても新しくても「ブラッドベリ」です。ブラッドベリファンは読むべし読むべし、で今回はおしまい。

 ではあまりに素っ気ないので、ちょっとだけ。
 ブラッドベリは“先人”への尊崇の念を隠しません。自分が何を好きか、何のおかげをこうむっているかが明確です。逆に、自分が何が嫌いかについてはほとんど語りません。もしかしたら、これが優れた文学作品を大量に長期間生み出す秘訣なのかもしれません。自分の幸福感をじっくり味わえる人は、その“お裾分け”の大盤振る舞いをしてくれるのかも。
 とこまく、もとい、ともかく、ブラッドベリファンは読むべし読むべし読むべし。



「は」と「が」/『日本語ということば』

2008-12-23 17:26:48 | Weblog
 「~は~」と「~が~」の違いについて子どもに質問してみたら、しばらく考えてからほぼ“正解”に近い回答を出してきました。違いがあることは感覚的にわかってもそれをきちんとことばで表現できるのはたいしたもんだ、と私は一種感動を覚えました。単なる親ばかとも云いますが。

【ただいま読書中】
日本語ということば』赤木かん子 編、ポプラ社、2002年、1300円(税別)

 中高校生を対象とした日本語に関する短編集ですが、ラインナップをご覧じろ。

「私の口の中のアイウエオ」橋本治(『ぬえの名前』(岩波書店)より)
「ウナギ文の大研究」丸谷才一(『夜中の乾杯』(文春文庫)より)
「『元祖ゴキブリラーメン』考」千野栄一(『言語学のたのしみ』(大修館書店)より)
「会話の名文II」鴨下信一(『忘れられた名文たち其の二』(文藝春秋)より)
「私立向田図書館」久世光彦(『触れもせで』(講談社)より)
「市街魔術師の肖像」寺山修司(『不思議図書館』(角川文庫)より)
「桂文楽の至福の日日」矢野誠一(『落語家の居場所』(文春文庫)より)
「『あまえる』ということについて』中村咲紀(第47回全国小中学校作文コンクール 作文優秀作品)

 このリストを見るだけで私の顔はほころびます。
 橋本さんの「日本の国語教育でもっとも欠けてんのは、話し言葉の教育と美文の訓練だろう」という指摘とか(平易な口語体で誤魔化されそうになりますが、他にも例によって刺激的な指摘がふんだんに散りばめられています)、丸谷さんの(食堂で注文する時の)「ぼくはウナギだ」の面白さ(これを英語に直訳したらどうなるでしょう)、千野さんの「元祖ゴキブリラーメンというラーメンは何故に存在しないのかを言語学的に説明せよ」というある大学の言語学概論での期末試験問題に関する考察(これは抱腹絶倒なのですが、言語学的に大きな気づきを含んでいます)……いやもう、こんな面白い本を中高生だけに読ませておく手はありません。というか、それぞれの出典をきちんと読みたくなりました。個人的備忘録も兼ねて出典も括弧内に記載しておきます。

 「日本語を論じる」というと、ありがちなのが「カタイ本」。だけどそれは「最近の若い奴の日本語は」といった個人的な悲憤慷慨だったり、堅苦しく七面倒くさいまるで死体解剖のような「日本語解剖学」だったり、「あなたはふだんそんな話し方をされるのですか?」と問いたくなるような本がけっこう多く並びます。だけど本書では、皆さん「生きた日本語」をお使いです。思想や知識をしっかりバックボーンに持ちながら、それをむき出しに他人に押しつけるのではなく、生き生きとした語り口で読者を別の世界に連れて行ってくれます。

 ……どこが違うのでしょう?

 知識を大量に持っている人は、大きく衒学と博識に分類できます。何が違うかというと人柄と能力かな。持っている知識に振り回されているだけか、逆に知識をぶんぶん振り回して周りの人間をも楽しく巻き込んでしまうか。そこで問われているのは、「知識」の方ではなくて「人」です。
 それと同様に、語彙を豊富に持っている人も、語彙に振り回される人と語彙をぶんぶん振り回し周りの人間を楽しく巻き込んでしまう人とに分けられます。ここでも問われるのは……(あああ、書いていて自分の耳が痛い)
 ならば知識や語彙を全否定して良いかというとそうはいきません。「どの程度の語彙(あるいは知識)を持っているか」は実は「その人と世界との関係性」とも直結しているので(あまりに語彙や知識が少ない人は世界を論理的に細かく認識できません)「そんなもの、どーだっていい」とまでは言えないのです。
 あ、もっと“良い手”を思いつきました。人柄とか能力なんて外からは確認困難なものを持ち出すからいけないのです。「知識や語彙を、他者とのコミュニケーションの道具として活用しているか」を問うことにしましょう。これだったら外からも判定可能ですし、何よりこちらがそういった人とのコミュニケーションの対象となった時、楽しく過ごせるかどうかで簡単に判定できますから。もちろん「こちら」も判定されてしまうのが難点ではありますが。

 そうそう、最後の作品。平易な文章です。小学二年生の作品だからことばが平易なのは当然ですが、その内容と来たら……私はぶっ飛びました。言語学的にあるいは心理学的に、すごい内容が平然と語られています。そんな小難しいことは抜きにしても、オープニングの「セロ弾きのゴーシュ」の読解部分だけでも読む価値があります。そして最後の「わたしは、がんばって大きくなります」……ここを読んで泣いてください。



身近な国際化/『偽装者(下)』

2008-12-22 18:46:36 | Weblog
 「日本が国際化するためには英語教育が必須」と主張する人がいます。本当にそうかな、と私は感じるのですが、とりあえず身近な例に引きつけて考えてみました。日本が国際化するということは、日本人はどんどん海外に出るが、同時にご町内にも外国人が増えます。すると町内会でなにか集まって食事をしようとしたら「私は宗教上の理由でブタが食べられません」「私はウシが食べられません」「私は肉は大丈夫ですが……今日は金曜日? だったら魚でないと困ります」「魚ですか。ウロコがあるかどうかが心配です。肉の場合蹄はどうなってます?」なんて様々なことを言う人たちと仲良くすっきり食事ができるように配慮する必要があります。……あれれ、ここで必要なのは英語なんでしょうか。

【ただいま読書中】
偽装者(下)』デイヴィッド・マレル 著、 山本光伸 訳、 早川書房、1995年、1700円(税別)
 約束の時間・約束の場所に出かけたブキャナンは、突然脇腹を刺されます。急場を救ったのはホリー。ブキャナンはフアナの足取りを辿ろうとしてフアナが変奏の名人となっていることを発見すると同時に、そこに監視チーム、いや、狙撃チームが配置されていることを知ります。フアナは一体なにをやらかし、誰に狙われているのか。ブキャナンは陸軍特殊作戦部からも追われていますが、ここでさらに追っ手が増えることになります。謎をたくさん抱えたブキャナンにホリーは惹かれていきますが、ブキャナンは偽名(あるいは偽の人格)ピーター・ラングとしてフアナを探す、と言います。まるで服を着替えるように次々別の人格を“着”てきた人生にピリオドを打つために。自分本来の人生を生きるために。ブキャナンとホリーの前に、吐き気を催すようなスキャンダルがその姿を現します。しかし、信じたいと思っていたホリーにも秘密がありました。ぎくしゃくした二人はメキシコに向かい、そこで敵の手に落ちます。そして、生死をかけたボールゲーム「ポック・ア・トック」が始まります。
 なんだか最後はとってつけたようなエンディングで、「救助の騎兵隊か?」「フアナは~?」「頭痛は?」「社会復帰は?」「油田って、原油タンクのでかいのとは違うぞ」と私は大声で言いたくなりましたが、ラストまで非常に快調にストーリーが進んでずいぶん楽しめたので、それに免じて許しちゃう、という気持ちになれました。たぶんあれだけあちこちをブキャナン(とホリー)が旅をしたのも、おそらく「自分自身を発見する」ための一種の巡礼の旅だったのでしょう。
 一瞬でも「非日常」の旅をしたい人には、楽しめる本だと思います。