【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

缶コーヒー/『海竜めざめる』

2009-06-30 18:33:23 | Weblog
 昨日に続いて缶飲料のお話です。
 この前コンビニでうろうろしていたら、缶コーヒーが並んでいるのが目にとまりました。いやあ、ずいぶんな種類があるんですね。私は、レギュラーコーヒー/インスタントコーヒー/缶コーヒー、はぞれぞれ別のジャンルの飲み物だと思っていてふだんは缶コーヒーを飲みません。それでずいぶん世の中に置いていかれてしまったような気分になりました。
 帰宅して試しにジョージアのサイトに行ってみたら、なに、この種類の多さ。ひいふうみい……えっと、33種類並んでます。面白いのは、同じ「ジョージア」ブランドの中に各コンビニ限定のものがあることです。たとえば、セブンイレブンは「砂糖不使用で甘くないカフェオレ」、ローソン限定は「高級豆100%」、ファミマは「カフェインレス」、サンクスは「4種類焙煎&クリーム仕立て」……みなさん頑張ってらっしゃいますねえ。

【ただいま読書中】
海竜めざめる』(ボクラノSF 01)ジョン・ウィンダム 著、 星新一 訳、 長新太 画、福音館書店、2009年、1800円(税別)

 1953年発表の作品です。強いて言うならこの前読んだ「深海のYrr」のご先祖様、かな。
 宇宙から火球が次々地球に飛来します。その数の多さと火球の「目的地」が深海であることに疑問を持ったマイク(イギリスEBC放送勤務)は深海調査に同行します。しかし、事故が起きます。潜水艇をぶら下げていた鋼鉄製のケーブルがなにものかが焼ききったかのように切れたのです。イギリス軍でもアメリカ軍でも。さらに軍艦の喪失が相次ぎます。とうとう深海での「核実験」が行われます。もちろん深海に潜むなにものかへの攻撃です。しかし、2回目3回目の「実験」は失敗し、原爆は失われます。
 はやくから「異星生物の地球への移住」説をとなえていたポッカー博士は、これまでは相手は平和的だったが人類側の攻撃によって相手も復讐行動を始めるから、移住ではなくて「異星からの侵入」に話がシフトした、と主張して、世間から「とんでもないヨタ話で、しかもころころ話を変える」と嘲笑されます。しかし、海での船舶の喪失は増加します。天候不順でも衝突でもなく、突然大きな船が次々沈没するようになったのです。さらに人を攫っていく「海の戦車」が陸を攻撃するようになります。陸軍や空軍によって海の戦車は撃退され、人々は祝勝気分に浮かれます。しかしポッカー博士は「この勝利は一時的なものに過ぎない。次は手を変えた大規模な攻撃がある」と言って、人々の不興を買います。やがて、北極海と南氷洋の氷が割れ始め、世界は高潮と異常気象に見舞われます。
 EBCはロンドン中央のデパートの最上階に特設放送局を設けます。高さ25mだったら大丈夫だろうと。マイクは妻や職員とそこに籠りますが、ロンドンは水浸しとなり、放送局は「孤島」となります。イギリスは荒廃し、人口は4500万から500万に激減します。
 「人類の滅亡じゃあ」と言いたくなりますが、そこでポッカー博士が言ったことは……いやもう、こんな結末、あり?と言いたくなります。本書の本当の主人公は、深海のナニモノカではなくて、ポッター博士だな。


こちこち/『暮らしの伝承』

2009-06-29 18:36:43 | Weblog
 机の上で、こちこちこちこちと微かな音が聞こえます。一瞬時計かと思いましたが、私は机に時計を置いていません。それにどうも不規則です。
 気になるので耳をあちこちに向けてみて、やっとわかりました。飲みかけの缶コーラで、泡がぷちぷちとはじけている音が缶に反響していたのでした。

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暮らしの伝承 ──迷信と科学の間』蒲田春樹 著、 朱鷺書房、1998年、1500円(税別)

 目次からちょこっと拾ってみましょう。おひな様・注連縄・言霊信仰・復活祭・塩・迎え火送り火・鬼門・畳のへり・間取り・四季の行事の様々……こうしてみると日本人の暮らしには伝承が充ち満ちています。
 六曜(大安とか仏滅)について、気にするな、と著者は言います。そもそも昔は字が違っていたのですから。たとえば友引は昔は相打ちの勝負無しという意味で「共引」でした。ただ、京都での「結婚祝いを届けるのは大安の午前中」というしきたりには「合理性があるから賛成」と著者は述べています。受ける側の立場では、それでなくても多忙なのですから来客はまとめて来てもらった方が都合がよいのです。行く側も、6日に1回の午前中と決まっていたらわざわざアポを取る必要がありません。次々客があるでしょうから長居をせずに済みます。つまりきわめて合理的なのです。それを「自分は迷信を信じない」とわざわざ別の日に行くのは、結局相手に迷惑を押しつけることになります。
 数字の験担ぎにも、たとえば、「一三五は陽の数で、二四六は陰」といったものと、単なる語呂合わせとがあります。著者はまた「厄年」を「役年」とするのに賛成しています。各年代の代表が地域行事の役を行うべき年齢である、と。
 おひな様の男女、どちらが右か左か、は現在日本では混乱しています。これは「国際化」が影響してます。本来日本の習慣では、向かって右側が上席で(舞台の上手下手と同じです。ですから落語でも身分が高い方が向かって右から左に向いてしゃべります)、男雛は向かって右に位置していました。ところが明治になると、天皇皇后の写真を国際習慣に従って「男が向かって左」で撮影しました。それによって昭和のはじめに東京ではおひな様を「男雛が向かって左」にしたのです。
 本書では、様々な伝承が次々登場します。ただ、著者の肩の力は抜けています。別に「伝統を固守せよ」というわけでもなく「科学的根拠のない迷信だ」というわけでもありません。その伝承がなぜ生まれたかどのように変化したかの「蘊蓄」をさらりと述べて、やるのだったらその由来を知った上でどうぞ、といった感じで気持ちよく突き放してくれます。

 本書後半は、京都の神社仏閣地蔵の由来や「効能」の解説です。しかも、正式神社名だけではなくて、「融通さん」とか「わら天神さん」とかの愛称や通称が載っています。ざっと読むだけで京都にはどんなお願いでもそれ専用の神仏がちゃんと待っていてくれることがわかります。ふむ、ガイドブックとしても本書は「実用的」です。行くかどうかは話が別ですが。


名誉白人/『ぼく、ネズミだったの!』

2009-06-28 18:00:58 | Weblog
 マイケル・ジャクソンの訃報に接して、連想機能がなぜか「名誉白人」という死語を掘り出してきました。もう知らない人が多いかもしれませんが、かつてアパルトヘイト(要するに有色人種差別)が無茶苦茶すごかった南アフリカ共和国で、大きな貿易相手だった日本は「黄色人種だけれど、人間並みに扱ってやろう」ということで「名誉白人」の“栄誉”を与えられていました。
 子ども時代には「日本人、すごいじゃないか。たとえ黄色人種でも海外でもその力を認められているぞ」と思っていましたが、よくよくものを考えるようになると「人種差別の何が“名誉”なんだ」と思うようになりましたっけ。しかも「認められる」のではなくて「認めてやっている」とあくまで「格下」で、しかもこちらは他の黄色人種や黒人を差別しなければならなくなるのです。
 ものを考えなければ「名誉」として差別の構造に見事に組み入れられそれを維持するために奮闘するわけで、人の心の危うさを私は今でも感じています。なにしろ、私自身の心のことですので。

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ぼく、ネズミだったの! ──もう一つのシンデレラ物語』フィリップ・プルマン 著、 西田紀子 訳、 ピーター・ペイリー 絵、偕成社、2000年、1300円(税別)

 リチャード皇太子が舞踏会で出会ったオーロラ嬢と電撃的に恋に落ちて婚約した日、市場のそばに住むボブとジョーンという老夫婦の家に、ぼろぼろのお小姓服を着て途方に暮れた少年がやって来ます。名前を知らず「ぼく、ネズミだったの!」と言い、年齢は「さんしゅうかんさい」で、何でもかじってしまいます。ボブとジョーンはその子にロジャーという名前をあたえます。それは二人に子どもができたらつけようと思っていた名前でした。
 市役所・警察・病院・学校、どこも少年について何もしようとはしてくれません(学校はロジャーをむち打ったので、何もしなかったわけではありませんが)。王室付きの博士が興味を持って調べようとしますが、自分の理論を正当化するのに忙しくて結局何もわかりません。博士のところを逃げ出したロジャーは、見せ物小屋に拾われます。新しい名前は、ラット・ボーイ。ネズミの着ぐるみを着て小さな檻の中で客にあたえられる残飯を食べる「芸」をして見せます。
 ロジャーの前には、ただ「自分の仕事」だけを適当にすればよい、あるいはしているふりをすればよい、していると言葉巧みに言えればよい、悪いのはすべて他人と考えている人々が次々登場します。読んでいてイライラします。
 ボブとジョーンはロジャーを捜し回ります。しかし、なかなか見つかりません。ロジャーは窃盗団にスカウトされ、警察に追われて下水道に逃げ込みます。
 ゴシップネタに飢えていたザ・デイリー・ゴシップ紙は、下水道に幽霊が出るという噂と、一度退治したはずのネズミが下水道に戻ってきているという話に飛びつきます。記事はこうなります。「下水道でモンスター発見される」。市民は「モンスター」におびえ、新聞は飛ぶように売れます。
 つかまえられたロジャーは「科学的検査」を受け、発する言葉は無視され、世論調査の焦点となります。「モンスターは始末するべきだ」に賛成が96%。「だれもがいっぱしの意見をいい、よく知らない人ほど、こわだかに意見を主張します」と著者はにこやかに記述します。
 ついに「モンスター」には死刑が宣告されます。科学者も政治家も新聞も、皆が「たとえ人間に見えても、これは人間ではなくてモンスターだ。モンスターなのだから、モンスターには死刑を」と口を揃えます。国民も大賛成です。
 ただ、ごく少数の例外がいました。そして……ああ、結末を書きたいなあ。勘のいい人はロジャーの正体がわかっているでしょうが、それに伴ってもう一人「変身」している人がいるのです(足が小さな女性です)。そしてどちらも「なにかであること」だけを強制されて「なにをするか」ではなくて「なにをしないか」も強制されています。それに対する彼らの決断は…… そして物語の結末は…… 映画「ローマの休日」でアン王女は自分の決断で「王女であり続けることが最重要な世界(自分がしたいことができない世界)」に戻っていきました。本書でもそのような決断が行われます。なんというか、「それから二人は一生幸せに暮らしました」という文章を、私はこれからは素直に読めなくなってしまいました。
 マスコミのいい加減さはここではわかりやすく誇張されていますが、実は現実世界のマスコミも似たようなものだと思えます。誤報や虚報や煽り記事を平気で載せ、無節操に次々「売れるネタ」に飛びついていく態度……と非難しようとして、結局それが人々に求められているからマスコミもそうなるのだ、と気がつきました。特に現在新聞は雑誌に続いて末期症状となりつつありますから、「売れるネタ」だったら喜んで飛びつき「売れる」ために扇情的な記事でもためらわずに載せるでしょう。それに飛びつくかどうかは、読者が決めなければなりません。
 本書に「無害なおとぎ話」を期待する人は、読まない方がよいです。



エコカー減税/『泣き虫しょったんの奇跡』

2009-06-27 17:02:17 | Weblog
 町の自動車ディーラーはどこも「エコカー減税」ののぼりを立てたり看板を出しています。日本中がエコカーの大売り出し状態です。こんなに各メーカーがエコカーをすでに発売しているのだったら、わざわざハイブリッドカーなどを開発する必要はなかったのでは?

【ただいま読書中】
泣き虫しょったんの奇跡 ──サラリーマンから将棋のプロへ』瀬川晶司 著、 講談社、2006年、1500円(税別)

 漫画「ヒカルの碁」では、囲碁の面白さだけではなくて、アマチュアがプロになる道がどのくらい厳しいかも描かれました。それは将棋でも同様です。若いアマチュアは厳しい試験を突破して奨励会員になりますが、そこには「年齢規定」があります。21歳の誕生日までに初段、26歳の誕生日までに四段にならなければ、退会しなければならないのです。
 著者は小学生の時に将棋を覚え、お向かいの子と切磋琢磨することで力を伸ばしました(ちなみにそのお向かいの「健弥くん」は後にアマ竜王になっています)。著者はプロを目指して厳しい戦いを続け、ついに三段になります。この三段リーグを突破すれば、念願の「プロ棋士」ですが、それが許されるのは半年に二人だけ。著者はいいところまで行くのですが結局「幸運の女神の前髪」をつかめず、ついにそのまま26歳になってしまいます。著者は「頑張るべきときに、頑張らなかった」と自分を責めます。
 26歳高卒職歴無しで社会に放り出され、著者はまず夜間大学に通いそして就職します。そこは将棋部が強く、著者はやがて一度捨てたはずの将棋の駒を手に取ります。いろいろな雑音抜きで、自分の指したい将棋を指すために。やがて著者は実力を発揮し始め、トップアマがプロに勝てる確率は2割と言われているのに、プロアマ戦でプロ相手に7割以上の勝率を誇ることになってしまいます。
 小学生のとき、それまでの内気を捨てて「ぼく、将棋が指したい」と級友の前で宣言したのと同様、著者は世間に向かって宣言します。「自分はプロになりたい」と。
 それは、個人の願いの充足のためだけではなくて、遅咲きで現在の奨励会規定ではプロへの道を閉ざされている他のアマチュア棋士のための運動でもありました。当然大騒ぎとなります。「奨励会を首になった人間が何を戯言を言っている」「秩序を乱す」という頭から否定や誹謗中傷もあれば、「権威への挑戦」というちょっとずれた支持論もあります。さらに、衰退傾向にある将棋界を改革する良いチャンス、と捉える人もいました。様々思惑が交錯しますが、ついに著者は「資格試験」を受けられることになります。「プロ6人相手に3勝以上」がその条件です。プレッシャーに弱いタイプらしい著者は初戦を落とし、そして……

 「願えば、夢は叶う」と言います。でも、願うだけでは夢は叶いません。その夢を持ち続けること、あきらめないこと、努力を続けること、あきらめないこと、夢を広言し支持者を得ること、そして、夢を手にした後その夢を現実にするためのつらさに耐えること、耐え続けること、あきらめないこと、それらが必要なことを本書は教えてくれます。
 そうそう、著者の人生を変えた教師は「ほめて育てる」主義でした。ただ、ことばで上っ面だけほめるのではなくて、本気で相手を信じること、そしてその人の「可能性」を育てること、そういった「ほめ方」をするには、ほめる側にも相当の強さが必要です。著者にしてもこの教師にしても、どうやったらその強さ(勇気)を維持できるのか、私は呆然と空を仰ぎます。



邪魔/『闘技場』

2009-06-26 17:41:17 | Weblog
 下の子が中学受験をするなんて言い出して、「やめとけ」と言うとますます意地になって勉強するもんだから私は困っています。まあ、別に困ることもないのでしょうけれど(同僚と話をしていると、ほとんどの人は「こどもに勉強しろと言っても全然しないのが悩み」だそうです)。ところが彼が最近図書室で星新一を発見して毎日一冊ずつ読んでいる様子。しめしめ、と私はフレデリック・ブラウンの短編集を図書館から借りてきて目立つところにひょいと置いておきました。こちらの方が星新一より少し歯ごたえがあるはず、と思って。言っても聞かないから、心理的/物理的勉強妨害です。早速本を取り上げて、「あ、星新一」「いや、フレデリック・ブラウンだよ」「でもここに星新一って書いてあるよ」 ……よくよく見たら、翻訳者が星新一でした。こりゃまいった。私が読みましょう。

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闘技場』(ボクラノSF 03)フレデリック・ブラウン 著、 星新一 訳、 島田虎之介 画、福音館書店、2009年、1800円(税別)

 目次を見たら懐かしさで視界が曇ります。「星ねずみ」「みどりの星へ」「反抗」「事件はなかった」「闘技場」「回答」「ノック」「人形芝居」「狂った星座」「任務完了」「おそるべき坊や」「ユーディの原理」「不死鳥への手紙」「終」
 さすがに文体や展開は古く感じますが、奔放なアイデアや強烈なオチは、今読んでも楽しめます。私は本書のすべての短編が再読ですが、それでも楽しみました。だからこそ福音館書店がこんなシリーズを始めてくれたのでしょうけれど。ちなみに「ボクラノSF」の「01」は『海竜めざめる』(ジョン・ウインダム)で「02」は『秒読み』(筒井康隆)です。で、1~3の数字の前に「0」がついているということは、このシリーズは最低二桁は発刊する予定、ということですね。SFを読んだことがない子どもたちよ、読んでくれ。君たちが「良い本」に出会えるために。そして、このシリーズが途中でぽしゃらないために。


先週やりかけたこと/『呪の思想』

2009-06-25 18:49:22 | Weblog
 職場のコーヒーメーカーに、水を入れフィルターをセットしサーバーを置きスイッチオン……しまった、コーヒーの粉をいれてなかった。

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呪の思想 ──神と人の間』白川静・梅原猛 対談、平凡社、2002年、1800円(税別)

 もの知らずの私でさえ名前を知っている二人の“巨人”の対談です(と言っても、私が知っているのは「名前だけ」ですけれど)。二人をつなぐキーワードで目立つのが、立命館と高橋和己。そういえば高校の時に高橋和己の……『我が心は石にあらず』だったか『憂鬱なる党派』だったかな、を読んで、そのあまりの文体の硬さにこちらが憂鬱な気分になったのを思い出しました。お二人も高橋和己の文体については盛り上がってくれます。
 白川さんは「絶対王朝がないと文字はできない(王が神と交信する手段が文字)」と言い、梅原さんは「その絶対王朝に異民族がいないといけない」と追加します(異民族支配に文字が必要、だそうです)。
 しかし白川さんの「道」の字の解釈(敵の生首をぶら下げて歩いたところ)には、ちょっと背筋がひやりとします。殷周の研究でもこの白川節を全開にしたから、「敵」が多くなったのでしょうね。
 しかし私は、梅原さんが、孔子が儒の徒であることを知らなかったこと、に驚きました。儒教(葬祭にまつわる宗教)と儒学(学問)と「儒」の字が同じだから見当がつく、と思っていたものですから。しかしこれは、白川さんの『孔子伝』を一度は読まなきゃいけないかなあ。さらに白川さんの「思想の整理の具合から見たら、老子・荘子ではなくて、荘子・老子の順ではないか」の指摘も面白いものです。たしかにそう考えたらけっこうぴったりくるところがありますから。
 梅原さんと言えば私が思うのは縄文とアイヌ。白川さんは「字」です。その二人が、甲骨文字から漢字、古代中国文化から古代日本文化、そして高橋和己へと次々繰り広げる話題の豊かさに、こちらはたっぷりと贅沢な気分を味わえます。水木しげるさんと京極夏彦さんが妖怪話をやったらとんでもなく面白いそうですが、世の中には本当にものを知っていて自分の頭で考えることが好きな人がいるものなんですね。その域に達することは無理にしても、せめてその方向には常に動いていたいものだと思います。


食中か食後か/『ゲリラの戦争学』

2009-06-24 18:51:11 | Weblog
 あなたの「美味しい食後の一服」は、周りの人間には「食事中の迷惑」。

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ゲリラの戦争学』松村劭 著、 文藝春秋(文春新書254)、2002年、700円(税別)

 戦史ではどうしても「決戦」に注目が集まりますが、古来決戦能力を持たない軍が選ぶのは「持久戦」でした(簡単に特徴をそれぞれ列挙すると、決戦は「目的は勝利の獲得/損害の多寡を問わない/迅速な決着を追求する」ですが、持久戦は「目的は負けないこと/戦力の温存を図る/できるだけ長引かせる」となります)。持久戦は具体的には、劣勢の正規軍による遅滞作戦(たとえばナポレオンに対してロシア軍が取った作戦)と劣勢の非正規軍によるゲリラ戦です。もっとも持久戦は長い目で見たら損害が大きくなりさらに独力での勝利は望めません(独力で勝てるのなら最初から決戦ですから)。本書は、持久戦の主力であるゲリラ戦についての考察です。ゲリラ戦は日本には無関係? そうとはいえません。ゲリラ戦の手法の一つにテロがあります。そして、日本はテロとは無関係ではないでしょうから。
 ただし資料が難しい、と著者は述べます。そもそも戦史資料は、敗者はすべてを失い勝者は自分に都合良く資料を残します。ましてゲリラ戦は最初から隠匿が前提条件ですから、ますます良質の資料が残されにくいのです。
 著者はまず「軍事力の裏付けによる覇権」で世界を眺めます。世界地図を覇権地図とすると、覇権国は「国益」と「世界の秩序維持」によって「現状維持」を狙います。しかし現状に不満を持つ勢力は(国とは限りません)、現状打破の戦略を持つことになります。(もちろん、現状に安住する国(属国)もあれば、不満はあるがそれを表立って出さずにこっそり動く国もあります)
 「ゲリラ」はスペイン語で「小さな戦争をするグループ」の意味のことばに「不正規に編成されたグループ」の意味が加わえられています。本書ではまずアレキサンダー大王の戦いから話が始められます。ついでシリア軍に対するユダヤの反乱。宗教が支配する世界はゲリラには住みにくいのですが、ルネサンスによって宗教は力を失い始めます。そしてアメリカで、民兵が正規軍に刃向かいます。独立戦争です。これはゲリラ側の戦闘記録が歴史に詳細に残っている珍しい例です。
 本書ではスペインにページが割かれています。まずはナポレオン軍に対して、スペイン人民軍はゲリラ戦で、応援にやってきたイギリス軍は持久戦で対抗し、結局フランス軍を打ち破りました。ワーテルロー(ウォータールー)の戦いで知られるウェリントン公が、実は持久戦が得意だったとはここを読むまで知りませんでした。
 ついで、第二次世界大戦前のスペイン内乱。この戦いが、今日のゲリラ戦・対ゲリラ戦の基本的な特色を提供しているのだそうです。正規軍対ゲリラの戦いに、支援と名付けられた外国の介入(ドイツ、イタリア、ソ連、国際義勇旅団)が加わり、新兵器や新戦術の実験を行いました。都市への戦略爆撃や空軍による戦艦攻撃など、次の大戦で重要となるものがすでに登場しています。
 ゲリラ側で重要なのは、十分に自分たちに力がつくまでは決戦を我慢すること、そして世論対策です。自国民を味方につけるのは当然ですが、敵国も、政治家や軍人と一般国民を分断することができたら、自分たちが有利です。それに成功したのがベトナム戦争やアフガンゲリラ、失敗したのが9・11やチェチェンのゲリラ(ソ連市民を攻撃してしまった)でしょう。
 正規軍の側にも事情があります。武器が進歩ハイテク化することで、兵站部門が肥大しますが、それはゲリラの良いターゲットとなります。さらに兵站部門の肥大化は歩兵が相対的に減少しますが、対ゲリラの主力は歩兵なのです。そのため、対テロ・対ゲリラの特殊部隊が要請されます(ここでアレキサンダー大王が登場します)。
 本書では最後に、日本がこれから「国際貢献」するのに、情報技術を生かして、非戦闘員が攻撃の対象になっていないかどうか「平和維持のための監視」を行うのはどうか、と提案がされています。ただそのためには、政治と軍事の掘り下げがもう少し必要そうですが。



勝ち負け/『海駆ける騎士の伝説』

2009-06-23 18:39:54 | Weblog
 相撲などでテレビで勝ち負けを「○」「●」で表示してあると、碁石を連想してしまいます。将棋の番組だと思わず笑ってしまいます。人の勝ち負けを見て笑うとは、不謹慎?

【ただいま読書中】
海駆ける騎士の伝説』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 野口絵美 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2006年、1500円(税別)

 タイトルを見ただけで私の心は躍ります。「天翔る」ならまだわかりますが「海駆ける」ですよ。一体どんな「騎士」なんだ、と。
 DWJの作家デビューは1970年ですが、本書はその前、1966年に書かれた6つの連作短編の最後の一篇です。短編といっても本一冊分(275ページ)ですが。
 本書が発掘されたエピソードが面白い。1995年のBoskone(ボストンで開催されたニューイングランド・サイエンス・フィクション協会のコンベンション)にDWJがゲストとして招かれたとき、本書を表題作とする短編集(全8編)が限定1000部で発行され、それによって知られざる作品が“復活”したのだそうです。
 舞台はヴィクトリア時代、まず登場するのは12歳のアレックスとその姉のセシリア。父親は小作農から身を起こした農場主ですから、ジェントルマンの下のヨーマンかな。島には死者の国がありそこから人々に災厄をもたらす「海駆ける騎士」がやってくるというお話(土地の伝承)を二人が台所で聞いた霧の夜、まさに騎士が二人を訪れます。お茶とフォークの存在を知らず、ガリア戦記については知悉し、主君殺しの汚名を着せられ島から追放された、と語る若き騎士ロバートが。二人は干満の激しい海の中の道を、流砂を越え、島目指して馬で走ります。
 島の宮殿は、陰謀が渦巻く世界でした。ロバートに殺されたとされる前大公の跡を継いだ大公もまた陰謀によって殺されようとしています。誰が犯人かは明らかなのに、誰もそれを口に出して言えない状況です。ハムレットが下敷きなのかな、と私は感じます。島では戦争が起き、アレックスたちと複雑な感情のやり取りをしている近所の名家コーシー家の子どもたちもまた島にやってきます。
 ストーリーは基本的に一本道です。後期のDWJに見られる、複雑なプロットや多数の伏線が一挙に一点に集中してどんとはじける快感は、まだありません。だけど「DWJ節」はすでに健在です。特に、子どもに対する信頼感には揺らぎがありません。ページをめくる動作が快感中枢を刺激します。
 あとがきによると、DWJは子育てに追われながら純粋に自分の楽しみのためにこの6つの作品を書くことで「物語の書き方」を身につけたのだそうです。で、本作以外の5つはあまりにとりとめがないので処分してしまったそうで……ああ、もったいない。


割に合う?/『Google Earth 完全ガイド』

2009-06-22 18:32:01 | Weblog
 今人気なんでしょうね、「阿修羅像」が新聞の全面広告に出ていました。この前行った東京の阿修羅展でフィギュアが大人気で予約制となっていたのを思い出します。こちらは高さ30cmでリアルに造型されたものが、6万3000円(税込み、送料無料)で先着20名限定だそうです。
 どうも数字がひっかかります。20名限定ですから即完売でしょうがそれで会社の売り上げは126万円です。でも、広告費は、全国紙の一面広告では八桁かかるはず。たとえば読売の場合、全国版でモノクロだと一段が3,194,000円で全面が15段の計算で47,910,000円です。掲載面を指定したらさらに追加料金が発生します。(計算に使ったのは「読売新聞の広告料金 記事下広告(シミュレーション)」)
 どう考えても、ペイしません。20名が2000名だったら話は別ですけれどね。
 あるいは、応募が殺到するでしょうから、「ハズレ」の人に「薬師如来はいかがですか」「阿弥陀仏は」と売り込むことで結局ペイさせる戦略なのでしょうか。
 そうそう、下らないことですが、製品はコールドキャストです。これで本物の乾漆像が漂わせていたもろさやはかなさも再現できるのかな。

【ただいま読書中】
Google Earth 完全ガイド』グーグルアース徹底研究会 編、青春出版社、2006年、1300円(税別)

 本書出版時にはグーグルアースはまだヴァージョン3でしたが、本書では4(beta)を使用しています。ちなみに私が使っているのはGoogle Earth 5.0です(ついこの前まで4.3でしたが)。これまで別にマニュアルやガイドを読まなくても直感的に使って楽しんでいましたが、なにかtipsでもあるか、と本書を借りてきました。
 グーグルアース上でのツアーをkmlまたはkmzファイルで保存したり他人が作ったファイルでツアーを楽しむことができるのですが、その例として本書で上げられているのが「ツール・ド・フランス」のコースです。う~む、自転車競技のファンには悪いけれど、これは日本人にはちょっとマイナーすぎない? まだ「パリ・ダカールラリー」くらいの方がまだ知名度が高いような気がするのですが。ちなみに2007年パリダカのツアーは、http://bbs.keyhole.com/ubb/ubbthreads.php?ubb=showflat&Number=734023&site_id=1#import で cl-12-28-06-373087158.kmz ファイルをダウンロードしてグーグルアースで再生したら見ることができます(ダウンロードしたファイルがグーグルアースのフォルダに現れなかったらダウンロードしたファイルをグーグルアースに直接放り込んでください)。あ、出発点がパリじゃない。ちなみにいろんなツアーがグーグルアースのギャラリーにそろっています。これを一つ一つ再生してみるだけで楽しめます。世界の軍事基地、なんてツアーもありまして、ちょいと寄り道して私はキューバの米軍基地も覗いてみました。いや、面白いや。

※「ギャラリー」へは、グーグルアースの「コンテンツを追加」ボタンを押せば手っ取り早く行けます。

 しかし、グーグルアースの地球は、全世界が昼間でしかも雲一つ無い快晴なのね。


複数?/『単位の歴史』

2009-06-21 17:44:52 | Weblog
 中学英語で「フィートは単数ではフート」と習ったときには戸惑いました。そんなことに拘る言語なのか、と。ところで単数と複数の“境界”はどこにあるのでしょう。「1が単数、それ以外は複数」? すると「1.2」や「3/4」は、フート、それともフィートなのかな。

【ただいま読書中】
単位の歴史 測る・計る・量る』イアン・ホワイトロー 著、 冨永星 訳、 大月書店、2009年、2800円(税別)

 人が世界を知ろうとしたときに採れる手段の一つとして「測定」があります。測定には「測定単位」が必要となります。ものの長さ・広さ・重さや時間について、共通の単位がないと測定行為もその結果の情報共有もできません。したがって古代文明の時代から各地ではそれぞれ独自の度量衡が用いられていましたが、ほとんどは最も身近なもの=人体をベースとした単位でした(例:フート、尺)。ただし、抽象的だったりスケールの大きな単位もあります。メソポタミアのシュメール人は6と10を基数として60進法を用い、昼と夜はそれぞれ12時間ずつに分けていました(江戸時代までの日本と同じ不定時法です)。また地球の周囲を360に割った結果(つまり1度)を長さの基準としていました。メソポタミアのアッカド人や古代エジプト人は7が基数です。その結果が7日が1週間。
 イギリスではヨーロッパ各地からの多民族の侵入が続いたため(ローズマリ・サトクリフがそのへんを様々な小説で生き生きと物語っています)いろいろな度量衡が持ち込まれ融合しました。1066年のノルマンジー公ウィリアムが支配権を確立し、以後イングランド王は少しずつ度量衡の標準化を行います。それは大航海時代に世界に広がりましたが、アメリカは独立に際して独自路線を歩むことを決定しました。それで事態がややこしくなります(ガロンなどが英米で食い違うのです)。
 17世紀後半フランスで科学に基づくメートル法が提唱されます(ちなみにギリシア語のメトロン(測る)が語源です)。メートル法はまず科学の世界で広まり、1875年には17ヶ国がメートル条約に署名しました。1960年にはSI単位系が確立しますが(国際度量衡総会で7つの基本単位が定められました。「メートル」「キログラム」「秒」「アンペア」「ケルビン」「モル」「カンデラ」で、国際単位系はこれら7つを元に構成されています)、その流れに乗っていないのは、タイ・リベリア・米国、です。
 面白い挿話もてんこもりです。最初のメートル原器は1/5mm狂っていました。地球を測量するとき球体の歪みを考慮していなかったためです。「光年」は時間ではなくて距離の単位ですが、実は不正確です。なぜなら、一年の秒数が年によって異なるのに「年」の定義がされていないからです。オーストラリアはSI単位系を受け入れていますが、独自の単位「シダーブ」も使っています。これはシドニー湾内の水の量(約500ギガリットル)で「オーストラリアで年間に消費される水の総量は48シダーブ」といった使い方をされるそうです。
 温度・圧力・エネルギー……さらにはデジタル情報の単位も取り上げられます。面白かったのは「濃度」の項でのアルコール度。17世紀頃の英国ではアルコール濃度を表現するのに、火薬にその液体を少量加えてそれでも火がついたらそれを「100proof」としていましたが後にそれがアルコール濃度で57.15%であるとわかりました。で、現在の米国では「アルコールの体積%の2倍がプルーフになる」と定められているのだそうです。だから「度は%の倍」なんですね。

 小学生のとき私は、重さの基本単位はkg、長さの基本単位はcmだと思っていました。自分の身体測定の結果が常にそれで書いてあったからですが。ですからキロやセンチの意味を知って接頭語を取った基本の単位がgとmであることがわかったときにはそれなりのショックでしたっけ。大げさに言うなら世界のありようが変わったような。もちろん世界は何一つ変わっていなくて、私が世界をどう捉えるか、が変わっただけだったのですが。