【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

怪しい声

2010-10-31 18:19:25 | Weblog
日本にはまだ定着していないハロウィーンですが、隣町のケーキ屋では店員さんたちがコスプレとまでは行きませんがハロウィーンっぽい小道具を身につけて頑張っていました。で「トリック・オア・トリート」と小学生以下が言うとお菓子をプレゼント、という企画の張り紙も。頬笑ましいなあ、と私はにんまり。
うちの子は、張り紙に気がつかないのか、あるいは自分は中学生だから関係ないやと思っているのか、知らん顔をして何を買うか選んでいたら店員さんが「どうぞ、『トリック・オア・トリート』と言ってください」と、クッキーを一つ包んだものを持って出てきてくれました。ところがうちの子、恥ずかしいのか中学生だから、という理由からか、なかなか言いません。店員さんも出したものを引っ込められず困っています。そこで私が子供の後ろに回って裏声で「トリック・オア・トリート」。
はい、これで丸く収まりました。

【ただいま読書中】
陰陽師(3)六号』岡野玲子 作、夢枕獏 原作、スコラ、1995年、777円(税別)
陰陽師(4)匂陣』岡野玲子 作、夢枕獏 原作、スコラ、1995年、777円(税別)

「人が化かされる」場合、普通は「人が被害者」となります。ところが第3巻では、たしかに人は被害者ではあるのですが、化かす側が一方的に加害者かと言ったらそれがどうも難しい。博雅君は悩んでしまいます。ただ、悩みながらも彼はあくまでまっすぐです。
博雅と安倍晴明との会話はとても気持ちよいのですが、たとえばこんな感じで進みます。
「そうではないかと思った。用意しよう。博雅、おぬしも来るか?」
「手伝うことはあるか?」
「ない」
「ならここにいよう」
「うん、それがよい」
このリズム感がたまりません。
かと思うと……
「いきなりどうした、博雅」
「いや……おまえはやさしいのだ、うん……」
「急にそんなことを言われるとリアクションに困るな」
「困るか。いい気味だな」
「ふん……しかし、おまえ、ひどいなりだな」
「そうだな」
「暗くなって助かったな」
「まったくだ」
なんというか、博雅はいつも晴明に話をはぐらかされてしまっているのですが。ただ博雅の素朴さと純朴さは晴明だけではなくて、妖物さえも困らせるのですから、並みではありません。安倍晴明が「よい漢だな」としみじみ言うわけです。
そしてその笛もすごい。第2巻までは琵琶狂いだったはずが、なんの心境の変化か第3巻からは笛狂いです。その漫画ならではの描写がまた素敵です。笛の音がびょうびょうと紙面からこちらに吹き付けてくる圧力が感じられるような。
第4巻では、過去の応天門の変が登場します。関係者の怨霊が起こす事件を、安倍晴明が源博雅と
ともにどのように解決していくか、ですが、これは応天門の変についてある程度知らないと話についていくのが辛いかもしれません。しかし平安の都には、どろどろとしたものが本当にたくさん渦巻いていたのですね。
晴明と比丘尼の悲恋(?)物語も、迫力があります。不老不死の人は、すなわちすでに「人にあらざる人」です。その存在に対して“理解”を示す安倍晴明の心中にはどんな嵐が吹いていたのか、と、彼の冷静な表情を見ながら私は想像します。きっと私には“理解”不能なものなのでしょうけれど。



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敵の味方

2010-10-30 17:09:02 | Weblog
内部の権力闘争で味方を執拗に攻撃し続ける人間は、敵に立ち向かってはいません。

【ただいま読書中】
陰陽師(1)騰虵』岡野玲子 作、夢枕獏 原作、スコラ、1994年、777円(税別)
陰陽師(2)朱雀』岡野玲子 作、夢枕獏 原作、スコラ、1994年、777円(税別)

プロローグでの百鬼夜行のシーンが素晴らしい。コミックはもともと二次元表現なのですが、普通私はそれに三次元または四次元の“色”を頭の中でつけて読んでいます。ところがこの百鬼夜行、あえてべたべたの二次元の(ちょうど絵巻物のような)雰囲気で描かれているのです。明らかにそれは“異界”ですよ、と。これは見た瞬間衝撃を受けます。さらに、菅原道真のあまりの悪鬼ぶりに、「道真さんはそんな悪人じゃないやい」と言いたくもなります。もちろんこれは“伏線”でして、第二巻でちゃんとそのわけを安倍晴明自身が源博雅に教えています。なぜ菅原道真が悪鬼になってしまったのか、を。たしかに、単に左遷されたことだけを恨んでいるのなら、それに対しての都への祟りがちょっと大きすぎると思えますもの。
牛車が動くときの効果音は、場面(乗る人)によって「ギチギチ」と「ガラガラ」と「キィキィ」とが使い分けられています。これもまた効果的。
しかし、安倍晴明の屋敷に自由に出入りし、顔色も変えずに怨霊と双六をして遊ぶ真蔦という少女は一体何なのでしょうねえ。
自宅の書棚を調べてみたら、このシリーズ、私は第4巻までしか買っていませんでした。これは最後の12巻まで揃えるしかないかな。と思ってアマゾンを見たら13巻も出ている様子。これは一体どうしたのでしょう? 陰陽五行だと12はキリがよいのに、13だとキリが悪いじゃありませんか。




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生け贄

2010-10-29 18:22:41 | Weblog
古代から人間は神に生け贄を捧げてきました。旧約聖書には羊が盛んに生け贄として登場しますし、人間さえも捧げられそうになってます。ところで、スペインなどでの闘牛もまた生け贄の儀式だったのかもしれない、と私は考えています。今は動物虐待とか娯楽のジャンルですが、かつては、「単に牛を殺す」のではなくて、人間の命もまた牛と同等の立場にして、場合によっては牛ではなくて人間を神に捧げるという宗教儀式だったのではないか、と。

【ただいま読書中】『驚異の古代オリンピック』(原題The Naked Olympics)トニー・ペロテット 著、 矢羽野薫 訳、 河出書房新社、2004年、1900円(税別)

原題の通り古代オリンピックを“裸”にしてみた本です。
まずは観客になってスタディオン(競技場)に入ってみましょう。入場は無料ですが16時間立ちっぱなしです(スタディオンとは英語のスタンドのことです)。川は干上がり、川底は屋外トイレと化しています。夏の強烈な暑さと蝿、のどの渇きが観客を苦しめ、行商人から買えるのは、得体の知れない腸詰め・岩のように固いパン・怪しげなチーズでそれをワインで流し込むしかありません。さらに聖地オリュンピアはアテナイから330km離れたへき地で、観客は徒歩であるいは船でたどり着くとキャンプを張るしかありませんでした(宿泊施設はろくにありません)。それでも熱狂的な観客は外国からさえ集まってきました。紀元前776年から紀元後394年にローマ皇帝が異教の儀式を中止するまで、約1200年の間4年に1回のオリンピックは1回も欠かさず293回連続で開催され続けました。
「祭典」はスポーツだけではありませんでした。宗教儀式が次々行なわれ、3日目にはゼウスの祭壇に生け贄の牡牛が100頭捧げられます(他の宗教儀式も盛んに行なわれています)。ガイド付きの観光ツアーも盛んです。屋外美術館と化した「聖地」には美術品がずらりと並べられます。世俗の楽しみでは、酒宴・朗読コンテスト・大食い競争・娼婦・占い師・ダンサー・マッサージ師・雄弁家……
ただ、メインはやはりスポーツです。5日間に行なわれる主な18種目には、われわれにはなじみがないものも混じっています。戦車競走(映画「ベン・ハー」の競走場面は忠実な再現だそうです)や鎧兜フル装備での競走(ホプロトドゥロミア)なんてものもありますし、パンクラティオンという格闘技では、反則は目を突くことだけ。指を折ったり首を絞めることもOKなのです。そうそう、短距離走でのフォームは「ナンバ走り」です。
古代オリンピックに関する史料は豊かではありません。埋もれていたオリュンピアが再発見されたのは1766年。本格的な発掘はその100年後にフリードリヒ4世の支援を受けたドイツの考古学者によるものです。再度関心が集まったのは1936年、ベルリンオリンピックの年に「オリュンピアこそ古代アーリア人の桃源郷」という夢想を持ったヒトラーの命によって発掘が行なわれ、4万人収容のスタディオンが地中からその姿を現しました。(ついでですが、聖火リレーはベルリンオリンピックから始まっています)
古代ギリシア人(文化)にとって「競争」は非常に重要なものでした。詩の朗読や美も競争が行なわれていました。そういえば戦争もギリシア神話を読む限り神々の競争ですね。したがってスポーツも「競争」の観点からギリシア人にとって非常に重要なものになるわけです。競技をするときに選手が裸になる理由は明らかではありません。ただその“効果”は明らかです。社会的身分がはぎ取られ“民主的”になるのです。反則や八百長をすると、容赦なくむち打たれたり罰金刑が喰らわされます。
オリュンピアから65kmほど離れたエリスが、競技場を管理し審判を務めていました。選手たちは競技開始1箇月前にエリスに集合して登録し、隔離されてトレーニングを行ないます。選手村のようなものです。
選手の多くは子どもの時から専門的な訓練を受けている“プロ”でした。実際に金のやり取りも行なわれています。最初は地方大会で名を売り、成功したら地中海沿岸の賞金が高い大会を転戦して最後はオリンピック。オリンピック優勝でもらえるのはオリーブの冠だけですが、それ以外の“見返り”(都市国家で得られる経済的なものや名誉)が莫大なのです。なんだか昔も今も同じように感じます。古代オリンピックでは「フェアプレイ」が強調されましたが、それは“腐敗”がはびこっていたことの裏返しでした。男女は不平等でしたが(既婚女性はスタディオンには入れず、女性選手はスパルタだけ)、それを非難する人は近代オリンピックの第一回大会に女性種目が一つもなかったことについても何か言ってね、と著者は言っています。
そして、祝祭と狂騒の5日間が始まり、終わります。本書には、まったくの異文化ではありますが、決して理解不能ではない「オリンピック」の姿が生き生きと描かれています。スポーツと歴史好きには、読んで損のない本です。


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トータルファッション

2010-10-28 19:10:13 | Weblog
頭髪を茶髪にするのだったら、眉毛もまつげもアイライナーも鼻毛も髭もうぶ毛もカラーコーディネーション(同じ色でそろえたりグラデーションをつけたり)をしたら……やっぱりちょっと不気味かな。ちなみに私の鼻毛では中に混じった白髪がアクセントになっています。みなさん、見たくはないでしょうけれど。

【ただいま読書中】『イエズス会士日本通信(上)』村上尚二郎 訳、 雄松堂書店、1968年、6000円(税別)

最初に載っているのはフランシスコ・ザビエルがゴアに出した書簡です。まず中国人の臆病さ・迷信深さ・不誠実さをさかんに嘆いた後で、日本人に対しては「この国の人は礼節を重んじ、一般に善良にして悪心を懐かず、何よりも名誉を大切とするは驚くべきことなり。国民は一般に貧窮にして、武士の間にも武士にあらざる者の間にも貧窮を恥辱と思はず」「多数の人読み書きを知れる」と高く評価していますが、「国民は食物を節すれども、飲むことにつきてはややゆるやかなり。彼等は米の酒を用ふ。この地方には葡萄酒なければなり」なんてことも言われています。飲んべえが目立った、と言うことですね。
54年のペロ・ダルカセバの書簡には、山口で切支丹は1500人、とあります。55年のバルテザル・ガゴの書簡では、山口が2000人、豊後が1500人、平戸が500人。教えは順調に広がっているようです。
宣教師が医術の心得を持っていることも書かれていますが、「治療」の中に「悪魔払い」があるのが笑えます。「日本の悪魔」はたぶん西洋の悪魔とは違うはずですが、同じ悪魔払いが有効だったんですね。この時の医術(特に外科)が「南蛮外科」となって、江戸時代の「蘭方」へと繋がっていくことを思うと、ここでも「歴史の流れ」の大きさの素晴らしさを私はつくづくと感じます。
ことばの難しさをこぼしている書簡もあります。たとえば「クルス(十字架)」を日本語で「十文字」と表現すると、日本人の中で単純な者は「(数の)十」とクルスを同一物と捉えるので、一語ごとに説明をするか最初から別のことばを用いるか、の工夫が必要である、と。また、日本語の文字(漢字)には二つ以上の意味があるから困る、ともあるのですが、西洋のことばは一つの単語に一つの意味だけでしたっけ? それはお互い様だと思うんですけどね。
山口の争乱(毛利元就の侵攻)により、リスボンと同じ大きさの山口市街は灰燼に帰します。切支丹たちは豊後に避難しますが、その時の状況を書いた書簡には、悲哀が満ちています。さらに、この書簡だけからは詳しい事情は読み取れないのですが、山口の余波で九州にも争乱が起き、博多が焼け落ちています。
戦国時代の日本で、それまで日本にない宗教を説いて回り、権力者の保護を求めると同時に既存宗教を悪魔の教えとして退けるのは、なかなか大変な作業です。52年のザビエルの書簡では、シナは中央集権で国民は穏やかだからこんどはシナに行きたい、と述べています。詳しい事情は書いてありませんが、平和な中国が日本より魅力的に見えてきたのでしょうか。ただ、書簡に登場する地名は少しずつ増え、59年には堺が登場します。
64年には辞書が作られたことが述べられます。
本書はずいぶん分厚い本ですが、この前読んだ「イエズス会士中国書簡集」に比較すると各書簡はずいぶん短いものばかりです。フランス人とスペイン人、中国と日本、さらには時代の違い、があるのかもしれませんが、とりあえず一篇一篇を読むのは、こちらの方が楽です。ただ、全体像をつかむのは大変ですが。そうそう、変わり種では、鹿児島の島津貴久から耶蘇会インド管区長に送った書簡も収載されています。そういえば鹿児島も当時はキリスト教の拠点の一つでした。
ことばのズレを扱ったところでは、将来の隠れ切支丹の“変質”を予言したように感じられますし、あちこちの地名が出てくるところで「島原」に出くわすと私はどきりとします。もちろん当時のパードレたちが将来のことを知っているわけはないのですが、「未来」はすでに「現在」に種蒔かれていることがわかるようで、こんどは自分の「現在」を見つめたくなってしまいます。「現在」は未来から見たら「過去」だから、現在私たちはせっせと未来に花開く何かの種を蒔いているはず。さて、それはどんな種なんでしょう。



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保水力

2010-10-27 18:30:10 | Weblog
紙オムツの中身を砂漠の緑化に、と聞いたときにはその発想の意外さに驚きました。で、紙オムツの保水力を考えたら、それは緑化に役立つだろうな、とも。
ただ、ふっと思ったのですが「保水力が強い」ということは「水を放出しない」ことです。紙オムツや生理用ナプキンで考えたらわかりますが「水を吸収する力は強いが、放出はしない」からこそ「もれがない」「表面はさらさら」なわけです。で、砂漠の砂の中に埋めこまれた紙オムツ、たしかにそこに「水は存在する」のでしょうが、それは植物にとって利用しやすい水なのでしょうか、それとも……

【ただいま読書中】『ヒューゴー・ウィナーズ 世界SF大賞傑作選2』アイザック・アシモフ 編、伊藤典夫・浅倉久志 監修、講談社文庫、1979年、320円

1966~68年のヒューゴー賞受賞作品から中短編だけを集めたアンソロジーです。ラインナップは……
「悔い改めよ、ハーレクィン」とチクタクマンはいった(ハーラン・エリスン)
最後の城(ジャック・ヴァンス)
中性子星(ラリー・ニーヴン)
骨のダイスを転がそう(フリッツ・ライバー)
おれには口がない、それでもおれは叫ぶ(ハーラン・エリスン)

わぉわぉわぉ、と私はつぶやきます。
しかも、すべての作品の前に、アイザック・アシモフの、それぞれの作品紹介というか作者紹介というかおちょくりというか、あの軽いノリの短い文章がくっついているという豪華さ。
さらに、読んでいて驚いたのですが、どの作品も今読んでも楽しめます。ネタは知ってます。結末も知っています。どの作品ももう何度も読んでいるのですから。それなのにそれなのに、面白いのです。当時のヒューゴー賞選者(つまりは当時のSFファンたち)の目がいかに確かだったか、ということなのでしょう。この本はまだまだ大事にとって置いて、また何年かしたら読み直すことにします。



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団体

2010-10-26 19:16:04 | Weblog
■ジャンプ女子、ソチで?IOCが前向き検討
(読売新聞 - 10月26日 10:15)

この記事の中に「フィギュアスケート団体」とあるのを見て、シンクロ団体のような感じで、何人もが同時にリンクで滑って一斉にジャンプしたりスピンしたりする姿を妄想してしまいました。
たぶん違ってますよね。体操の団体と同じで、個人が国別チームで対抗する、というものでしょうけれど。

【ただいま読書中】『忘れられた島 ──ノーチラス号の冒険(1)』ヴォルフガンク・ホールバイン 著、 平井吉夫 訳、 創元社、2006年、952円(税別)

インド生まれのマイクは、両親の死後アンダラ・ハウスというイギリスの上流寄宿舎学校にいました。マイクはがっかりしています。インドが政情不安定のためクリスマス休暇を寄宿舎で過ごさなければならないのです。不安定なのはヨーロッパもでした。オーストリア/ドイツとそれ以外の国々との間に緊張が高まっていたのです。
ひとりぼっちのマイクを可哀想に思い、ルームメイトのパウルの父親、ドイツ海軍のヴィンターフェルトが自分の艦レオポルド号にマイク(や同じ立場の学生、校長)を招待します。しかしモーターボートは事故に遭い、マイクたちは誘拐されてしまいます。誘拐したのはなんとヴィンターフェルト。船が向かう先はカリブ海。目的は、マイクが相続した何か。でもマイクはそれが何でどこにあるのか知りません。
“守護天使”(シク教徒の戦士シン)がマイクたちの脱走を助けます。ヨットで目指すは「忘れられた島」。航海の途中、シンはマイクが実はダッカル皇子であること、そして、忘れられた島にある秘密が、世界の運命を左右するものであることを明かします。しかし、それ以上の秘密は漏らしません。それは「許されていない」のです。
やっと見つけた島には、伝説のノーチラス号が保管されていました。あまりに強力な武器だからこそネモ船長は世界から隠していたのです。しかしヴィンターフェルト(とレオポルド号)が島に迫ります。大砲を撃ちながら。マイクはどうしたらよいのでしょうか。マイクたちは二十年以上眠っていたノーチラス号を起動します。自分たちの命を救うために。
ヴェルヌの『海底二万マイル』へのオマージュがたっぷり含まれた作品です。さらに、秘密を抱えた多国籍の少年たちが航海するところは『十五少年漂流記』でしょう。単なる少年活劇としてもとても楽しめますが、「こっち」と「あっち」をつなぐ友情を引き裂こうとする時代(第一次世界大戦がもうすぐ起きようとしています)の重さも印象的です。
本シリーズはなんと全十二巻。図書館に全部揃っているかな?


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デモ

2010-10-25 18:45:21 | Weblog
中国各地で反日デモが起きています。私が興味を持っているのは、香港とチベットでいつ反日デモが荒れ狂うか、です。

【ただいま読書中】『明治維新とイギリス商人 ──トマス・グラバーの生涯』杉山伸也 著、 岩波新書290、1993年、563円(税別)

本書では従来の資料に加えて、グラバーが代理店となったジャーデン・マセソン商会の文書(ケンブリッジ大学図書館)とオランダ貿易会社(グラバーが破産したときの管財人)の資料(ハーグの国立公文書館)を活用して、グラバーの姿に迫ろうとします。
スコットランド生まれのトマス・ブレイク・グラバーが来日したのは開国直後の1859年(安政六年)、21歳の時でした。1869年にスエズ運河が開通するまで、日本と欧州の“距離”は速い便でも2箇月半。電信もまだアジアには届いていませんから、送り出した商品の相場がどうなるか誰にも読めません。一攫千金を狙う若い冒険商人がどっと日本にやってきました。(1861年4月、長崎には10人の貿易商がいましたが8人は(グラバーを含めて)20代でした) 資金が潤沢ではない小さな商会の経営は一発勝負の連続で、横浜では1865年~70年の間の外国商会の破産率は63%です。
グラバーはまず茶を扱いますが、これはあまり利益が出ませんでした。艦船、金銀なども扱いますがぱっとしません。しかし、生麦事件・薩英戦争・蛤御門の変・馬関戦争など日本は動乱期となり、グラバー商会は大発展、1866年には日本で最大の外国商会となりました。貿易に積極的な西南雄藩(担保は藩内の特産物)の取り扱いを増やすと同時に、リスク分散のために幕府や親藩(担保は関税収入)とも取引をするというしたたかさです。1864~68年に日本が輸入した艦船は101隻ですがグラバーはそのうち24隻168万ドルの船を売却しています。さらに武器。当時幕府は、幕府以外に武器を輸入して売却することを禁じていましたが、そんな決まりは有名無実。各藩も商人も好きにやっていました。南北戦争の終結でだぶついた小銃などが大量に日本や中国に輸入されます。(もし南北戦争がもっと長引いていたら、戊辰戦争はもう少し遅れていたかもしれません) そして、貿易や留学生の斡旋などを通して、グラバーは薩摩藩支持に傾いていきました。アームストロング砲の手付け金として幕府が払った3万ドルを薩摩に融資するくらいに。
戊辰戦争の終結後、長崎の貿易港としての地位は低下します。ブームの反動で武器は値崩れし、為替は混乱、市場の縮小を恐れた外国商人は信用取引を増やし、リスクは大きくなります。グラバーは明治政府の下で、造幣局への機械や地金の納入、高島炭坑開発などを行なうことで、冒険商人から企業家への転身を図ります。しかし、自己資本のあまりの少なさと融資を投資した先が固定化してしまったことから資金繰りが悪化し、とうとうグラバーは破産宣告を受けてしまいます。
その後のグラバーは、長崎では居留地自治会の指導的立場にあり、鹿鳴館の書記や三菱の顧問もやっていますが、歴史の表舞台からは退場してしまいました。そうそう、「ジャパン・ブルワリー・カンパニー」の創立にも関与しているそうですが、この会社がのちに麒麟麦酒になったと聞いたら、ビール好きの人は耳がぴくりと反応するかも知れません。なお、1908年(明治41年)「薩長同盟に果たした役割」を評価されグラバーは勲二等旭日章を受けています。グラバーは一介の貿易商人でしたが、彼がもしふらりとスコットランドから日本にやってきていなかったら、明治維新は今とは別の形になっていた可能性が大です。歴史の巡り合わせは、奇妙なものだとつくづく思います。




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数学のお約束

2010-10-24 18:21:34 | Weblog
どうして「負の数」に「負の数」をかけたら「正の数」になるんでしたっけ?

【ただいま読書中】『ごまかし勉強(下)ほんものの学力を求めて』藤澤伸介 著、 新曜社、2002年、1800円(税別)

本書の68ページには「ごまかし勉強」の弊害が列挙されます。教育目標の多くが達成されない/投入したエネルギーが無駄になる/学習意欲を低める/学習自体の価値を低める/学校教育の価値を低める/自律性を阻害する/ごまかしが転移する/次世代に「ごまかし」を伝承する。わ~お、と言いたくなります。
塾などの教育産業の立場はどうかと言えば、これはいろいろですが、大別したら「企業の論理」で動くところと「教育の論理」で動くところになります。ただこの二種類が“対決”すると、大体「企業の論理」で動くところの方が勝ちます。この世の受験産業をどんどん支配している「ごまかし生成システム」の流れにもろに乗っているのですから、勢いがあります。この「ごまかし生成システム」に参加しているのは、学習者・教師・保護者・学習塾・教材会社です。みごとにスクラムを組んで「世の中」を形成しています。しかし著者にとって「ごまかし勉強」はいわば「映画のセット作り」であって、正統派の勉強の「本当の家造り」とは似て非なるものです。人生に必要な知識や技能を獲得しないで一生を過ごすのは、家ではなくてセットに暮らそうとするようなものです。
ただ本書の醍醐味は「反論」の部分にあるのではないか、と私には思えます。「正統派の学習」に対して疑念を呈し「ごまかし勉強」のメリットを言う「反論」を紹介して、それをこてんぱんに論破しています。
私の学生時代にも、授業はさぼりまくって、試験前夜に私のノートを借りていって試験だけは通る、という連中がいましたっけ。で、試験が済んでしばらくしてその内容を聞くときれいに忘れている、という。「それでいいのか」となんだか不思議な気分でしたが、あれが「ごまかし勉強」だったんですね。彼等は社会に出ても、同じやり方を続けているのだろうか?




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豊作でも不作でも

2010-10-23 17:45:20 | Weblog
今年は野菜が高騰して、野菜中心のわが家では困っていますが、では農家がほくほくかと言えばそうではないですよね。不作なのですからトータルの収入は単価に比例して伸びてはいないはず。ところが豊作の時には値崩れして豊作貧乏です。結局農家はいつも貧乏くじ?

【ただいま読書中】『ごまかし勉強(上)学力低下を助長するシステム』藤澤伸介 著、 新曜社、2002年、1800円(税別)

日本人の「学力低下」に関して「受験制度」が“悪役”として取り上げられることが多い(だから制度改革に血道を上げる)のですが、著者は「ごまかし勉強(手抜き、間に合わせ、一時しのぎ)」こそが“主犯”ではないか、と主張します。ただ、独りよがりの信念の主張ではなくて、著者の職業(心理学者で、子どものカウンセリングをやっている)が反映されて、根拠と分析、そして主張が科学的に配置されるようになっています。ですから著者は読者に要求します。批判的に読むことと、難しいことばはせめて辞書を引くことを。
「学力低下」についてのデータを示した後、認知心理学の研究成果から「学習の意義」が検討されます。ところが困ったことに「学力とは何か」の定義がありません。そこで本書では「文部科学省が定めた教育課程の目標(得た知識・技能等が生活で活かされる/問題解決能力をつける/自力で新領域を学習できるようになる)を達成する過程」を「学習」と定義して話を進めます。
学習には「機構」があります。そのトップに位置するのは「学習観」。ところがこれが人によって千差万別で、優劣があります。次は「学習動機」。内発的動機づけと外発的動機づけに分けられますが、実はその区分は曖昧です。「学習行動」については省略されます。次の「メタ認知」が重要です。自分の情報処理活動をモニターしたりコントロールする機能ですが、これが不十分だと学習はうまく行きません。そして「学習方略」。各人が試行錯誤で獲得する“作戦”です。これらの要素が相互に関係し合って「学習の機構」が形成されています。それが好循環している状態を著者は「正統派の学習」と呼びます。
一度話は過去に戻ります。60~70年代の中学生の勉強法と90年代の比較です。大きな違いは「学習の主体」が、学習者本人ではなくなっていったこと。このへんは著者のノスタルジーもはいっているのかなとも思えますが、学習に関する“まわりの環境”がどんどん整備されたことは間違いないでしょう。ともかく「何がテストに出るか分からないので、自分が工夫する」→「何が出るかはわかっているし、暗記材料もあらかじめ揃っている」の変化が生じています。高校受験も試験範囲が制限され受験人数は減少して受験準備は“楽”になっています。しかし中学生の“苦痛(学習に対する嫌悪感)”は増加していました。
1990年代に、学習に躓きやすい子供たちの共通した学習観として「結果主義」「暗記主義」「物量主義(学習時間や練習量を重視)」が指摘されました。著者はそれに「学習範囲の限定」「代用主義(他人のカードなどを利用する)」を追加しています。テストに出ないところは最初から切り捨て、テストで良い点を取ることだけを目的とした学習観です。とうぜん、勉強後の深化作業は行なわれません。バラバラの知識はバラバラのまましばらく経つと消滅します。
ここで「ごまかし」を著者は定義します。「目標が達成されたかどうかについて、すべてが点検されない限界があるときに、点検箇所のみ基準を合格するように処理し、点検者が点検できない、またはしない箇所については、目標達成行動をとらないか、またはいい加減に行なうこと」。そして、教育現場で、生徒だけではなくて“教育者”からもこのごまかし教育が奨励されていることが学力低下の主因だ、と著者はしているわけです。もちろんその行動に“利”があればよいのですが、問題は「ごまかし勉強」そのものがあまりにつまらないため、子供の学習意欲が減退することです。子供の学習態度の経年変化のグラフが載っていますが、「ごまかし学習」の割合と同時に「家庭学習をしない」割合が増加しています。だったらどうしたらいいのか。
ということで、下巻「ほんものの学力を求めて」に続きます。



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昭和の長さ

2010-10-22 18:44:18 | Weblog
昭和64年が7日しかなかったことは私にはまだ記憶に新しいところです。ところで昭和元年がどのくらいの長さだったかは、みなさん、ご存じです? 大正天皇崩御は大正15年12月25日(午前1時25分)。つまり昭和元年は6日しかなかったのです(崩御と同時に改元されてたら6日22時間35分)。昭和の最初と最後の年を足しても2週間足らずとは、知りませんでした。

【ただいま読書中】『野球と戦争 ──日本野球受難小史』山室寛之 著、 中公新書2062、2010年、820円(税別)

昭和2年、春の中等学校野球大会(今の甲子園大会の前身)は服喪の関係で1箇月遅れで開催されました。参加は8校に絞られましたが大毎新聞は賞品として「優勝校にはアメリカ遠征(二ヶ月の大旅行)」をプレゼントしました。同年夏の大会では初めてラジオ中継が行なわれました。初放送で大阪放送局の魚谷アナウンサーは蝶ネクタイに背広、逓信省の係員が6人もアナを取り囲み「不確実な発言」「宣伝」があった場合にすぐ放送中止ができるようにしていたそうです。決勝戦は東京でも放送され、東京朝日新聞は「ラジオ中継があること」をビッグニュースとして取り上げました。この年、大学の花形選手の卒業後の姿を見たい、と言うファンのための“受け皿”として都市対抗野球も始まりました(まだプロがなかった時代です)。野球人気は日本中に広がっていきました(早慶戦で早稲田が勝って優勝を決めたとき、応援団7000人に町内会3000人が加わっての祝賀パレード(デモ行進?)となったそうです)。入りきれないファンを収容するために各地の球場ではスタンドの拡張工事が行われました。
過熱する人気は、弊害も生みました。入手しにくい切符を巡る不祥事、今のサッカーのフーリガンのような行動をする野球ファン(球場への警官隊の導入なんて騒ぎもあります)、強い中学から声をかけてもらうために朝4時から練習する小学生、選手の引き抜き……とうとう昭和7年には「野球統制令」が出されます。小中大学野球の適正化を目的とした統制令ですが、平日の試合・宿泊つきの試合・入場料・営利目的の寄贈品受け取り、などを禁止しています。ということは、そういったものが広く行なわれていた、ということです。そうそう、甲子園大会だけではなくて、昭和2年から六大学の秋の優勝校も翌春のアメリカ旅行を賞品としてもらえるようになっていました(数年後にそれは世界一周旅行になりました)。早慶の年間収入は10万円(大学生の初任給が60円の時代です)、これは常軌を逸していると言われても仕方ないでしょう。昭和6年と9年に「全米軍」が来日。日本にもプロ球団が生まれますが、文部省は大学生が卒業前にプロと接触することを禁止します。選手やその周囲でいろいろ画策する人間が多くいた様子です。
満州国・国際連盟脱退・ノモンハン事件と国際情勢は緊迫します。文部省は大学野球の試合数削減を指示しますが野球連盟は抵抗します。しかし戦況が悪くなるにつれ、野球部排撃の動きが起きます。昭和15年には大学での試合数削減や中学野球部の解散、16年には「国策」によって夏の甲子園大会が無期延期となります(ただしその「国策」の中身についての説明はありませんでした)。実は政府内部でも、軍部と文民の対立、さらに文民の中でも「スポーツ」や「学生スポーツ」を巡って内務省・厚生省・文部省の間で複雑な対立が行なわれていたのです。野球のかわりに武道が奨励されましたが、なぜかラグビーは文部省によって奨励されていました。それでも六大学はねばり昭和18年まで試合をしています。賤業とさげすまれていたプロ野球はもっとねばり、選手の減少した複数のチームを合体させることで試合を成立させ、とうとう昭和20年の正月まで試合をやってます。
ちなみに、今でも伝わる「ストライクはよし」の敵性語排斥は昭和18年に軍部の“要請”によって行なわれています。ところが、野球を弾圧する側の軍の内部では、けっこう野球が行なわれていました。甘粕事件で有名な甘粕正彦は満州国で野球場を建造し満州中の野球人(満鉄や各企業がチームを持っていました)を集めて大会を開催しています。
敗戦後、野球の復活は速やかでした。昭和20年8月23日讀賣報知と朝日に「米国野球連盟は、来年の世界野球大会に日本の参加を呼びかける」という記事が載ります。野球人は「野球弾圧時代」にこっそり隠しておいた用具を取り出し、空きっ腹でトレーニングを開始します。(本書に残る「戦後初の“野球”」は、8月16日江田島の海軍兵学校で行われたものです) 昭和21年には甲子園大会が復活。参加した選手たちの思い出は「とにかく腹が減って」だそうです。赤バット・青バットでプロ野球の人気が沸騰し始めるのは昭和22年のことでした。
日本の野球が持つ問題点……20世紀後半からの、裏金や契約破りや逆指名の不明朗さや奨学生の問題などなどなどなど、ぜーんぶ戦前に日本の野球界は経験済みだったようです。役所や企業との関係の不透明さも。ただ、野球場に警官隊が何回も導入されるような大騒ぎが戦前にはけっこう普通に見られたことを思うと、日本人は戦前よりは穏やかになったのですかね。これはちょっと意外でした。戦前生まれは礼儀正しいのかと思っていましたから。



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