「開腹」……お腹のドアを開ける
「開かずの踏切」……遮断機が降りたまま故障中
「開いた口がふさがらない」……顎が外れた
「開幕」……幕を開発する
「両目が開く」……お寝坊さん
「未公開」……未公を開く
「申し開く」……申しを開く
「半開」……実は「半閉」
「開業」……プロの金庫破り
【ただいま読書中】『魔使いの悪夢』ジョゼフ・ディレーニー 著、 田中亜希子 訳、 東京創元社、2012年、2400円(税別)
前巻でのギリシアでの闘いで、トムたちは大きな犠牲をはらいました。トムの母、北方を守っていたカークライト、何人もの魔女……そして、やっと帰ってきた故国で彼らを迎えたのは、戦争で進軍してきた敵軍と、彼らによって破壊された故郷の街、そして焼き払われた自分たちの家でした。魔使いたちが代々蓄積してきた図書室の蔵書が、残らず破壊されたのです。さらに、せっかく拘束していた魔女のボニー・リジーが逃げ出してしまいます。トムたちも戦禍を逃れてモナ島に避難しますが、そこでは魔女狩りの嵐が吹き荒れていました。
人間の敵軍、人間の魔女狩り、バゲーンと呼ばれる強力な悪霊、バゲーンを自由に操る強力で冷酷なシャーマン、ボニー・リジー……ほとんど孤立無援のトムは、それら全部と戦わなければならないのです。
さらに、トムは、アリスとも戦わなければならなくなります。
こういった絶望的な状況の中で、ほのかな希望があるとしたら、「トムの成長」です。数々の闘いで鍛えられ、たとえば魔女が使う魔法「畏怖」に対してもトムは相当の抵抗力を持つようになっています。また、自身の内部にある「闇の欠片」のせいでしょう、魔女と意志疎通をすることもできるのです。ただ、魔女としての絶頂期を迎えたボニー・リジーには対抗できません。
もう一つ、悪い知らせがあります。蔵書と家を失ったグレゴリー師匠は、気力を失い、悪夢に苦しめられ、もう“戦力”としては使い物になりません。“世代交代”の時期なのです。まだトムは一人前ではないというのに。もう少し時間の余裕があれば「追われる側」ではなくて「追う側」になれるでしょうに。
トムに感情移入した読者は、焦燥感に駆り立てられます。一体どうすればいいのだ、と。
本書はシリーズ第7巻ですが、著者は何と10巻で完結させる意向だそうです。ええっ、ここまで“風呂敷”を広げておいて、あと3巻でたためるのですか? トムとアリスの関係だけでも、まだまだ紆余曲折があるのは明らかだから数巻は必要なはずだし、魔王をどうするかも大変ですよ。あまり大急ぎで終わって欲しくないなあ。
電力会社も、あまり真面目な理由ばかり言わないで「アベノミクスに協力するためにも値上げしてインフレ目標に寄与する必要があるのです」くらい言えばいいのにね。
【ただいま読書中】『ゼロからトースターを作ってみた』トーマス・トウェイツ 著、 村井理子 訳、 飛鳥新社、2012年、1400円(税別)
地面から鉱石を掘り出すところから始めてトースターを作ったよ、という報告書です。九箇月の時間と3060kmの移動距離と1187.54ポンド(約15万円)をかけて。
そもそも、なぜ「トースター」? 著者は「トースターが近代の消費文化の象徴であるように見えるから」と述べます。でも、私にはこれは“後付け”の理由のように感じられます。「だって、面白そうじゃない?」だと説得力がないから、“きちんとした理由”をひねりだした、といった感じ。いや、それでもこの理由は本当に“きちんと”しています。電器を消費させるために作り出された、ほんの些細な製品が、実は些細ではない影響を地球環境や人の生活に与えているのではないか、というのが著者の立問です。
著者は厳しい「ルール」を自分に課します。「自分でやる」「材料から作り上げる」「産業革命以降の恩恵に浴してはならない(だから工場や飛行機は使えません。ただし、自動車は馬の延長だから、電気ドリルは手回しドリルの延長だからOKとします)」。
まずは「リバースエンジニアリング」です。4ポンドしない安物のトースターを買ってきて、著者はそれをバラバラにします。写真がありますが、ものすごい部品数です。これを丸ごと“コピー”するのは無理、というか、たとえばトランジスタを自製できるんですか?
無茶なお願いのメールに「乗った!」と言ってくれた教授と相談して、必要なものがリストアップされます。鉄・マイカ・プラスチック・銅・ニッケル……
まずは「鉄」。一番近い鉱山に著者は電話します。「トースターを作りたいから、鉄鉱石を掘らせてくれ」。採鉱所は観光地になっていました。作業はツルハシで簡単に掘れるようなものではありません。それでも著者は、鉱山所有者が数年前に採鉱していた鉄鉱石を40キロ分けてもらい、意気揚々とロンドンに帰ります。次に行くのは図書館、冶金学のセクションです。やっと見つけた役に立つ教科書は、500年前に書かれた「デ・レ・メタリカ」。それを参考にして粘土とフイゴで溶鉱炉を作るのです。しかしできたのは不純物だらけの「失敗作」でした。それを根性(とちょっとした“ズル”)でリカバーして、ついに著者はコイン大の「鉄」を得ます。
次は「マイカ」。断熱材として必要です。イギリスの鉱山は……スコットランドの西海岸。24時間かけてたどり着き、「絶景」の中を遭難の危険と隣り合わせでうろついて、ついにマイカを入手します。
さて、「プラスチック」。著者は「ポリプロピレンの合成」にチャレンジします。原料は原油。著者はBPに電話して「原油を汲みに油井まで行かせて」と頼み込みます。ダメでした。だったら、石油以外の材料から……バイオプラスチックがあるじゃないですか。さて、「お料理の時間」です。途中に「壁に飛び散ったじゃがいもをきれいに掃除する」なんて項目がある「レシピ」に従ってジャガイモを料理したらバイオプラスチックのできあが……りません。またまた無残な失敗です。そこでまたもや発想の転換です(「ずる」と言ってはいけません)。「都市鉱山」から「材料」を掘り出せばいいのです。
「銅」で著者がまず集めるのは「ミネラル・ウォーター」(ただしpHは2)。出かけたのは、少なくとも紀元前4000年から採鉱されている鉱山。そこに貯まった、銅が溶け出した水を持ち帰って、電気分解で銅を得るのです。この過程で著者は「採掘」という行為がいかに環境に負荷をかけているか(人類が“コスト”を負担していないか)に気づきます。ここは本書の非常に重要なポイントを示した箇所です。
次は発熱体に必要な「ニッケル」。ところが英国国内にニッケル鉱山はありません(一つあったけれど閉鎖されてます)。選択肢は、ロシアの鉱山(重金属に汚染されまくってしかも外国人立ち入り禁止)かフィンランドの鉱山。そこで著者は、カナダの騎馬警官に逮捕されるリスクに挑戦することにします。
かくして著者は「部品」を21個製作することに成功しました(ちなみに、最初にばらした安物のトースターの部品数は404個)。あとは組み立てです。
さて、著者は「成功」したのでしょうか? 少なくとも「コスト」のことはわかりました。製品の本当のコスト(製造過程での公害の発生、廃棄物処理のコスト、など)、あるいは製品の歴史的なコスト(その製品が登場するにあたって人々が投じたエネルギーの合計)についての考察も、ユニークですが実はとても興味深いものでした。下手な哲学者のことばよりは面白い。「テクノロジーがどのように進化したのか」も、本書を読むと“実地”でわかるような気がします。なかなか“教育的”だわ。現代文明の消費社会の本質について、意外な角度から照射されたのも、これまた“教育的”。ただ、「トースターがちゃんとトーストを焼けたのか」は……わははは、これは読んでください。とにかく、最初から最後まで楽しめることは請け合いです。
巷で人気の「うまい棒」を食べてみましたが、明治のカールとの差がよくわかりませんでした。私の舌は麻痺しているのでしょうか?
【ただいま読書中】『ユゴーの不思議な発明』ブライアン・セルズニック 著、 金原瑞人 訳、 アスペクト、2008年、2800円(税別)
映画化されているそうですが、映画のタイトルは「ヒューゴの不思議な発明」になってます。原題は“THE INVENTION OF HUGO CABRET”。
500頁以上のとんでもない厚さですが、びびることはありません。その厚さの理由は頁をぱらぱらめくったらわかりますが、読むのが遅い人でもちゃんとさくさく読めますからご安心を。
「はじめに」で、舞台が1931年のパリであることと主人公が「ユゴー・カブレ」という少年であることが紹介されます。しかし、その紹介者、H・アルコフリズバ教授とは、一体誰なのでしょう?
駅を歩くユゴー。身を隠しておもちゃ屋の気配をうかがいます。目的は、盗み。しかし失敗し、大切なノートを店主の老人に取り上げられてしまいます。
ユゴーはただの不良少年かと言えば、そうではなさそうです。次のシーンでは、駅舎の27の時計をすべて点検し時刻を合わせねじを巻いています。なんだかとっても真面目で器用な人間のようです。だったら、何のための、盗み?
雪の中、帰宅する老人にユゴーはついて行きます。ノートを燃やさないで、と頼みながら。
ユゴーは、時計職人の父親が博物館の屋根裏で見つけたからくり人形を修理することに情熱を燃やしていました。しかし、おもちゃ屋の老人はそれを好ましく思っていません。なぜ?
からくり人形を修理するために必要なノートを返してもらうために、ユゴーはおもちゃ屋の老人と取り引きをします。自分が有能であることを証明したらノートを返してもらう約束です。
少しずつユゴーの世界が広がっていきます。老人(パパ・ジョルジュ)、老人に育てられているイザベル、イザベルの友人エティエンヌ、と知り合いが増え、マジックにも興味を持つようになります。そして、映画。映画を観るときのユゴーの顔は、これまでにない幸福感に満ちています。
からくり人形の“技能”は「画を描くこと」でした。ねじを巻かれたからくり人形が描いたのは……いやあ、映画への愛が満ちていますねえ。さらに、そこにヒューゴの父親の思いも重なります。すごく素敵なエンディング。ただしこれは、新しい謎の提示でもありました。まだ本は半分です。
ということで、第二部へ。話は「月」にまで行くのだそうです。
厳密には、ユゴーは「発明」をしたわけではなくて、修理をしただけです。しかしその作業によって彼は自分の人生を「発明」した、ということができるでしょう。
「映画を題材にした映画を、紙上に作り上げる」というとんでもないことを成し遂げた本です。嘘だと思ったら、ぜひご一読を。読んで号泣するとか「全米が泣いた」というタイプの本ではありませんが、静謐を湛えた不思議な感動はお約束できます。
他人が何をしているか・何をしていないか、とても気にしている人がいます。
私はそういった人のことがちょっと不思議ですが、あまり気にしません。だって私は、自分が何をしているか・何をしていないのか、が気になるものですから。
【ただいま読書中】『続・11人いる!』萩尾望都 作、小学館、1977年(89年47刷)、330円(税別)
めでたく宇宙大学に入学した9人(「王様」は領土を治めるために入学を辞退)。フロルとタダは婚約しましたがフロルはまだ性別を決定していません。
そうそう、本作は前作と違ってタッチがずいぶんコミカルですので「11人いる!」の「正当な続編」を期待して読むと肩すかしを食らうことになるかもしれません。
「王様」からの招待でフロルとタダはアリトスカ・レ(東の地)に向かいます。しかし、「東の地」の兄弟星「西の地」との間で戦争が勃発。さらにその戦争に乗じようと強国ドゥーズも銀河連邦の目をかいくぐって陰謀の手を伸ばしてきます。
クーデターから逃れた「王様」・タダ・フロルは、謎の男の助けを借りて星から脱出します。目指すは、宇宙大学。そこは治外法権の場なのです。しかしそこにも刺客の手が。
前作で最初に意気投合した「王様」と「四世」の友情に危機が訪れます。
『11人いる!』での“危機”は、あくまで「試験」でした(中には、予定外の本当の危機も混じっていましたが)。しかし今作では、すべて「本物の危機」です。引き金が引かれれば、本当に人が死ぬのです。その中で「スジ」を通そうとする少年たち、特に「王様」の姿勢が光ります。
ラブコメとかSFの風味も楽しめますが、少年のというか人間の純真さに対する信頼を本書では読むことができます。本書を読みながらしみじみ考えます。誰の心の中にも、純真さは残っていますよね? たとえ小さな欠片であっても。
時速にしたら7.2km。人が歩くのと比較したら、けっこうなスピードだと言えます。
もしもペンギンも鯨も秒速2mで泳ぐとしたら、人はそれを見て何を感じるでしょう。
ペンギンの体長を1m、鯨の体長を20mとします。すると10秒でどちらも同じ「20m」進みます。ただ、ペンギンは自らの体長の20倍の距離を泳ぎますが、鯨は自分の体長分しか前に進みません。すると「スピード感」の点では、あきらかにペンギンの方が速く見えるはずです。もしも鯨がペンギンに負けないように10秒で自らの体長の20倍を泳ごうと思ったら、秒速40m=時速144kmで泳がなければなりません。
がんばれ、鯨。
【ただいま読書中】『ペンギンもクジラも秒速2メートルで泳ぐ ──ハイテク海洋動物学への招待』佐藤克文 著、 光文社新書315、2007年、840円(税別)
1960年、アメリカのKooymanはキッチンタイマーを改造した深度記録計をウェッデルアザラシに取り付けてデータを取りはじめました。その研究で分かったのは、ウェッデルアザラシの行動の大きさです。彼らが潜る最大深度は600m、最長潜水時間は43分間だったのです。これが、海洋生物に装着する「データロガー」の始まりでした。
1980年代にデータロガーは(まだアナログでしたが)どんどん小型化しました。著者は大学生時代の1989年からウミガメで調査を始めましたが、一つのデータロガーのアナログデータを処理するのに一人では3箇月かかったそうです。それがデジタル化されることで、多項目・時間をどんどん細分化・大量のデータ取得・高速のデータ処理、がかなうことになります。
著者は「夏はウミガメ/冬は(南極で)ペンギン」という研究の“二毛作”を行いますが、98年には南極越冬隊に参加し、ペンギンとアザラシの研究を行います。アザラシに水中ビデオカメラを背負わせての撮影は、アザラシの潜水が「餌をとる」ことだけが目的ではないことを明らかにしました。ペンギンが水中を滑空(というか、滑水?)することも明らかになります。まるでグライダーのように深度80mから水面目指してグライディングするのです。前びれで水を掻かないのですが、ボイルの法則と翼の角度で加速をしていく、という素晴らしい芸当を披露してくれます。
研究そのものの内容はとても興味深いものですが、研究現場のこぼれ話もほんわかと笑わせてくれます。さらに、研究が進むにつれて著者が立つ“ステージ”がどんどん大きくなっていく過程も、読んでいて感心します。ご本人はただ面白おかしく“現場の面白さ”を伝えようとしているのですが、最初に登場したアメリカのKooyman博士を「早く起きて手伝え」と著者がたたき起こすシーンが出てくるのには、腹を抱えて笑ってしまいました。たしかに著者は「鬼軍曹」だわ。
本書最後の文章で私は“とどめ”を刺されます。
「求む男女。ケータイ圏外。わずかな報酬。極貧。失敗の日々。絶えざるプレッシャー。就職の保証なし。ただし、成功の暁には、知的興奮を得る。」(もちろん、シャクルトンが出した探検隊求人新聞広告のもじりです)
お坊さんに尊敬される人がいます。
暴力団員に尊敬される人もいます。
【ただいま読書中】『日本冷戦史 ──帝国の崩壊から55年体制へ』下斗米伸夫 著、 岩波書店、2011年(12年2刷)、3400円(税別)
1945年2月、近衛文麿は天皇への上奏文で、帝国の敗北はコミュニズムの台頭を招き国体(天皇の地位)を脅かすのではないか、との危機感を明らかにしました。しかし、単独でアメリカと戦うのは無理なことはすでに明らかでした。希望があるとしたら、米ソの対立です。ヤルタ会談での密約(ドイツ降伏後ソ連が対日参戦する確約)を日本は当然知りませんから、ソ連に対するアプローチを外交官は始めました。しかし4月5日ソ連は日ソ中立条約の不延長を日本に通告します。そして8月、日本帝国は解体されました。その解体の過程の中に、冷戦、特にアジア冷戦の起源がある、が本書の発想です。
対立には「争点」が必要ですが、「東欧」「日本」「原子力」のそれぞれの「管理」が主な争点で、これらは絡み合っていたのだそうです。核爆弾開発を急ぐソ連は、ウランがひどく不足していました。そこで日本管理で大幅に英米に譲歩するかわりに東欧を支配し、ブルガリア・ルーマニア・チェコスロバキア・東ドイツなどからウラン鉱を大量に得ようとした、というのが著者の主張です(ついでに北朝鮮からもウランを得ようとしたそうです)。
そこで、押したり引いたりの“外交”が行われます。ソ連は日本を譲る気ですが、それでもその過程で最大限の利益を得ようとします(もちろんアメリカも自国の利益が優先です)。日本占領と民主化はそのための“将棋の駒”のように扱われ、「アジアの冷戦」は激化していきました。そこに中国の内戦がからんで、話はややこしくなります。成立した中華人民共和国とソ連との同盟関係は必ずしも円滑なものではなく、それでも「対米」という軸でまとまってはいましたが、やがて朝鮮戦争という「熱戦」が火を噴くこととなります。これは、対日講和条約に大きな影響がありました。中国は日本に厳しい態度でしたが、義勇軍参戦によって「国連の敵」認定をされて20年間国連参加が遅れ、講和条約への影響力も減じてしまったのです。日本に対する講和と一進一退する朝鮮半島の情勢は微妙に絡み合っていました。結局1951年のサンフランシスコ講和会議で日本は独立を得ますが、英米を中心とした「多数派」との講和で「全面講和」ではありませんでした。日本は「冷戦の最前線」に位置づけられたのです。それは同時に、アジア諸国との関係をきちんとする機会を失ったことも意味していました。
日本国内では、共産党や保守系の政党の再編成が進みます。このへんにも一々「冷戦」の影響が見えるのは興味深いものです。
……今ふっと思ったのですが、最近の「新党ブーム」、これにもなんらかの「海外からの影響」があるってことはないのでしょうか? まさかもう「冷戦」ではないでしょうが、なんらかの国同士の政治的対立とかあるいは「グローバルな経済活動」とかが関与しているとしたら、日本の政治の見方がちょっと変わるかもしれません。陰謀論に陥らないように気をつける必要はありますけどね。
「行く」は「いく」、「行かない」は「いかない」、「行こう」は「いこう」。
「行なう」は「おこなう」、「行う」も「おこなう」、「行わない」は「いわない」ではなくて「おこなわない」。
では、「行った」は?
【ただいま読書中】『ゲルニカ ──ピカソ、故国への愛』アラン・セール 文・図版構成、松島京子 訳、 冨山房インターナショナル、2012年、2800円(税別)
1881年10月25日ひとりの「パブロ」がスペインに生まれました。彼は早くから画才を示し、画家・美術学校の教師であった父は、パブロが13歳の時筆を折りアトリエを譲ります。19歳のときパブロは「パブロ・ピカソ」になることを決心し、パリに出ました。青の時代、バラ色の時代、キュビズム、新古典主義、シュルレアリズム……「分類」にどのくらいの意味があるのか、私にはわかりませんが、ともかく「ピカソ」は描き続けます。
そして、1936年、娘が9箇月になったばかりの夏、故国に内戦が起きます。
ここで本書の“色調”が変わります。ここまではピカソの絵がいくつも散りばめられた画集とその解説本でしたが、白黒の写真が登場するのです。まず、スペイン内戦の有様。そして、爆撃。新聞記事。ピカソ。
数週間後にパリで開催される万国博覧会のために、スペイン共和国はピカソに作品を注文していました。ピカソは予定を変えます。「ゲルニカ」を描こう、と。
怒りにまかせて描き殴られたスケッチ、何枚もの習作、アトリエに運び込まれる巨大なキャンバス、木炭を使って線を引くピカソ、少しずつ形を整えていくキャンバス、それと平行して紙に描かれる下絵の数々。ピカソは様々なアイデアを試し、捨て、採用します。
ゲルニカは、白と黒と灰色で描かれました。そして、ドイツのすぐそばのスペインに展示されました。
そして、色が戻ります。ピカソに、そして、本書にも。そこには一行「野蛮な行為に声を上げるいちばん確かな方法は、色彩豊かな人生を讃えるのをやめないことだ」とあります。
1939年、母親が亡くなり、スペイン共和国が滅びます。そして第二次世界大戦の勃発。
5年間ピカソは「退廃的である」と展覧会を禁じられました。しかしその間も、ピカソは描き続けていました。ピカソは創造を続け、その子供たちも画を描いているところで本書は終わります。私たちにも何かを受け継がせようとしているかのように。
今読んでいる『黒のトイフェル』の著者は『深海のYrr』というSFチックな海洋環境冒険小説も書いています。それがこちらでは13世紀のケルンが舞台ですから、頭の中はどうなっているんだろうと思います。
そういえば『天地明察』の冲方丁(うぶかたとう)も、その前の『マルドゥック・スクランブル』は迫力のあるSFでした。
ただ、SF界には時代改変ものなんてジャンルもありますし、作家では夢枕獏や半村良のようにSFも時代物も平気で書く人もいますから、ことさらに何かを言う必要はないのかもしれません。私のようなノンジャンルの読者としては、とにかく面白い小説だったらジャンルはどこでもかまいませんので。
【ただいま読書中】『黒のトイフェル(下)』フランク・シェッツィング 著、 北川和代 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫NV1193)、2009年、700円(税別)
冷酷な殺し屋のウルクハートは、意外にも実に教養がありました。さらにその心には子供に関するトラウマを抱えている様子です。武芸に秀で身体能力が高く教養がある……もしかしたら以前は騎士だったかもしれない人間が、一体どうしてこんな“優秀な殺し屋”になってしまったんだろう、と私は興味を持ってしまいます。そして、そういった興味を持つのは、私だけではありません。
上巻の最初で狐のヤコブは市場を逃げ回っていましたが、下巻の最初でもまた同じことをする羽目に陥ります。前回は捕まったら右手を切り落とされたでしょうが、今回は殺される、というのが違うだけ。
13世紀ヨーロッパと言えば、12世紀ルネサンスで、「キリスト教の知」とは別のタイプ(古代ギリシア)の「知性(理性)」が存在することは分かったがそれをどう活用したらいいのかについて模索中の(だからスコラ学が生まれた)時代だったはず。だからでしょう、“善玉”側も“悪玉”側も、リーダー格の人は周囲の人間たちに向かって「思ったことをすぐ口に出すのではなくて、その前にちょっと考えろ」「感情のままに行動するな」「過去に自分が言ったことくらい覚えておけ」「嘘をつくのはもちろん良くないことだが、真実をすべてしゃべる必要もない」などと繰り返しています。「脳みそを使わない人」があまりに多く、いくら言っても「知性や理性を上手に使う能力」はなかなか育たないのです。
その中で、確実に育っている人がいます。それはもちろん、“主人公”狐のヤコブですが、もう一人、ヤコブに「知」を叩きこむ役割をかってでたヤスパーもまた、明らかに“成長”しています。「知を使う主体である自分」に対して自覚的になっていくのです。このプロセスが、サイドストーリーではあるのですが、なかなか読ませます。
やっと確保できた“生き証人”が殺され、またも逃げ回ることになったヤコブとヤスパーですが、ついに陰謀の全容を解明します。しかし殺し屋は野に放たれたままです。ヤコブとヤスパーは追われる身です。さあ、どうやったら陰謀の阻止ができるのでしょうか。
大切なものから逃げ回るだけのヤコブと虚無の目を持つ殺し屋ウルクハートの“共通点”が最後に明らかになります。ここはなかなか衝撃的です。この共通点によって本書は13世紀から時代を飛び越えて現代と結びついてしまうのです。私たちもこの“共通点”を持っているのではないか、と読者は内省してしまいますから。
本当にスケールの大きな時代冒険小説です。一読の価値あり。
「悪女」とか「烈婦」という評判はまだわかります。その女性が世の中でそのように振舞っているのでしょう。私にわからないのが「悪妻」という評判。だって「どんな妻か」は「夫」にしか決められないでしょ? 他人がそれを決めるのは、余計なお世話。ソクラテスにとってクサンティッペがどのような存在だったかはソクラテスが、新島襄にとって新島八重が悪妻だったかどうかは新島襄が、決めれば済むことです。それを赤の他人が「自分が決めてやる」と主張するのは要するに「自分はソクラテスよりも新島襄よりもエライ」と言外に主張している、ってことかな?
【ただいま読書中】『黒のトイフェル(上)』フランク・シェッツィング 著、 北川和代 訳、 早川書房(ハヤカワ文庫NV1192)、2009年、700円(税別)
13世紀のケルン、市の独裁者大司教コンラートは絶大な権力を振るっていました。市の権力者の秘密結社では陰謀が進行し、弩を得意とする殺し屋が市壁内に招かれます。問題は、秘密結社が一枚岩ではなくて“弱点”を(複数)かかえていることです。
狐のヤコブと呼ばれる若造のけちなこそ泥は、大聖堂の建築監督が殺される現場を目撃してしまいます。そして、それについて話した友人と恋人(のような売春婦)が弩で殺されてしまいます。次は自分の番です。ヤコブは逃げ回りますが、追手は、殺し屋だけではなくて荘園の男衆や兵士などどんどん増強されます。しかし、偶然転がり込んだ先が、市井のインテリ(小さな教会の首席司祭で医者、ただし飲んべえで論争好き)のヤスパーの家。ヤスパーはヤコブの話を(留保付きで)信じ、逃げるのではなくてこちらから打って出ることを提案します。でも、どうやって?
ヤスパーは頭が切れます。相手が力で来るのならこちらは頭を使う。相手が巨大なら、その弱点を突く。たとえば一度金で魂を売った人間は、別の金では別の魂を売ってくれるかもしれません。
そして謎のことば、「それは間違いだ」。
教会・貴族・金持ち・貧民・犯罪者……それぞれの生活と人間関係がずいぶんリアルに描かれています。まるで私自身が13世紀に生きているかのような錯覚を覚えることができるほど。しかし、上巻を読み終えてもまだ秘密結社の陰謀の正体が明らかになりません。一体結社は、何のために人を平然と殺そうとするのか、それを神の前でどう釈明する気なのか、そこがまだわからないのです(十字軍が“現実”として行なわれている社会です。外面でも内面でも「神」を無視して行動するわけにはいかないはずです)。さてさて、このまま下巻になだれ込みましょう。これから本書を読む人は、2冊分の時間をちゃんと確保してから読み始めた方がよいですよ。
結婚以来使っていた靴べらが折れてしまいました。25年以上ほとんど毎日使っていたわけですから金属疲労、じゃなかった、プラスチック疲労がついに来たのでしょう。家内がいろいろ探してやっと見つけたややクラシックな感じのお気に入りだったので、次がいつ見つかるかはわかりません。それではとりあえず今日から不便なので、百均で一つ適当に見繕うことにしました。
さて、こいつは安かったのはありがたいのですが、どのくらい保つのかな? コストパフォーマンスが先代を上回ってくれれば嬉しいのですが。
【ただいま読書中】『50円のコスト削減と100円の値上げでは、どちらが儲かるか?』林總 著、 ダイヤモンド社、2012年、1500円(税別)
「東京経営大学」の学生ヒカリが管理会計ゼミの実習で配属されたのは、潰れかけたファミレスのアルバイトウエイトレス。そこが赤字で苦しんでいることを知り、ヒカリはあらためて「赤字って、何?」「赤字で何が困るの?」という初歩的な疑問を持ちます(これは“読者サービス”のための立問でしょうね)。そこで「損益計算書」の読み方の授業開始です。「固定費」「変動費」「限界利益」などについて解説され、一つの問題が出されます。「赤字のファミレスで、バイトを減らす、は正解か?」。
損益分岐点を越えなければ利益は出ないわけですから、固定費を下げて損益分岐点を左側に移すのは「正解」のように見えます。しかしヒカリは実際に現場で得た実感からそのことに疑問を持ちます。ところが本社からやいのやいのと責め立てられた店長は、ヒカリをリストラの責任者に指名してしまいます。さあ、大変。“外野席”から適当なことを言うのと、実際に“グラウンド”でプレイするのとでは大違い。ただ、あくまで「ゼミの実習」ですから、ヒカリは特任教授にアドバイスを求めることができます。
そこで「財務の視点」の限界が明示されます。特任教授は言います。「財務の視点は過去の数字を中心とした見方。それは重要なものだが、経営判断では数ある判断材料の一つに過ぎない。すべての答は現場にある」。そこで登場するのがバランススコアカードです。「財務の視点(決算書)」「顧客の視点(マーケティング、売り上げ)」「業務プロセスの視点(費用と資産、イノベーション)」「学習と成長の視点(人材教育)」の関連を頭に入れて決算書を読む必要があるのです。
ヒカリはまず「顧客の視点」に注目します。顧客が満足しているところを伸ばし不満なところを減らせばリピーターが増える(=売り上げ増)というリクツです。しかしそれだけでは、売り上げは増え赤字は減りましたが黒字にはなりませんでした。そこで次の手は「イノベーション」です。
ヒカリは大変ですが、読者も大変です。ここでタイトルの「50円のコスト削減と100円の値上げでは、どちらが儲かるか?」が出題されるのですから。「限界利益の金額」で考えたら「100円の値上げ」の方が儲かりますが、「限界利益率(限界利益÷売上高)」で考えたら実は「50円のコスト削減」の方が儲かるのです。そして「コスト削減」とは「電気を暗くする」「アルバイトを減らす」「料理の原材料費をケチる」ことを意味しているのではありません。
どこかで読んだことがある展開だと思っていて、あとがきを読んで腑に落ちました。ベースはドラッカーだったんですね。だから本書では「顧客を創造」していたんだ。
私の商売でも「顧客満足度」「コスト削減」は重要です。私の領分に本書をそのまま応用はできませんが、基本発想は生かせそうに思います。ただ、私には「特任教授」はいないんだよな。残念。