【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

王手飛車

2011-05-31 19:18:04 | Weblog

 今の日本は「王手飛車」をかけられたような非常に困った状態、と言えるでしょう。で、「ヘボ将棋、王より飛車をかわいがり」という言葉がありますが、菅首相を降ろすことは、「飛車を逃がすこと」なのかそれとも「王を守る」ことか、どちらなんでしょう? もちろん首相は「王」ではありませんから「飛車」なのでしょう(「そこまで大切な駒ではない」という意見があるかもしれませんが)。で、「飛車」を捨てて守る「王」って、一体何なのでしょう。「野党」の人たちに聞いてみたいなあ。というか、飛車を捨てることに夢中になるだけではなくて、「王」を守って下さいよ。今大切なのは、難局を乗り切ることなんですから。

【ただいま読書中】『牧夫の誕生 ──羊・山羊の家畜化の開始とその展開』谷泰 著、 岩波書店、2010年、3400円(税別)

 動物考古学によって、野生動物の家畜化はまず羊・山羊が先行し、その最も古い証拠は、西アジアのレヴァント地域(シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエルあたり)から肥沃な三日月弧地帯にかけて、紀元前7000~6500年ころ、とされています。著者は西アジア・地中海地域で羊・山羊の群れに牧夫がどのように介入しているかを二十数年フィールド観察し、その知見に動物考古学のもたらした事実を合わせることで、西アジアでの家畜化の開始からそれ以後の管理技法がいかに成立したかを再構成しようとします。
 のっけから(私にとっての)新事実の“ジャブ”が続きます。家畜の群れにオスはほとんどいないこと。家畜は野生よりもさかりの時期が長引くので生殖管理のためのテクニックがあること。搾乳とは実に不自然な技法であること。
 羊・山羊の家畜化は丘陵地で開始されましたが、その時期(先土器新石器文化Bの中後期)は、低湿地で行なわれていた麦農耕が丘陵地で行なわれるようになった時期でもあります。時と場所が一点でクロスします。
 ナトゥーフ遺跡で出土するガゼルの骨に興味深い変化が見られます。この時期以前には雄雌が半々だったのが、この時期の少し前から雄の骨が圧倒的に多くなるのです(しかも年齢分布は野生の群れと同じ)。これは、追い込み猟によって群れを柵に入れ、群れの再生産に必要なメスは逃がし、雄だけ選別して食べていたことを意味する、と著者は述べます。すると、群れを望む方向に誘導するテクニックが存在していたはずです。そして、先土器Bに劇的な変化があります。それまで出土する骨のほとんどを占めていたガゼルが激減し、そのかわりに羊・山羊の骨がほとんどとなるのです。
 人間によって囲われた野生の群れは、折あれば脱走しようとします。しかし、そこで生まれた二世は、傍に人間がいることに慣れており、さらに「そこ」が自分のホームレンジです。それでも親が逃げたらついていくでしょうが、では三世になったらどうでしょう。おそらくこうして「家畜」が誕生したのでしょう。
 現代の家畜の群れで、成長を終えた雄はただの徒食者です。だから種付け用を除く雄のほとんどは、1歳半~2歳でされます。これはたとえば紀元前1000年期のバビロニアでも同じでした。また、神殿に捧げられたのもほとんどが雄です。メスは資本財、オスは流通財なのです。さらに、人間としては、毎日草を運ぶ手間を省きたい。だったら、自分で食べに行って夜は帰ってくるようになってくれたら助かります。著者は、はじめは柵から脱走した家畜で、近くをうろうろして人の住処から離れようとしない個体の発見が、「日帰り放牧」の始まりだっただろう、と推定しています。
 さらに、紀元前5000年紀ころから、それまで3~4歳でされていたメスの年齢が後ろにずれ始めます。同時に、皮革製品の生産より毛織りが増加します。これは「搾乳」の開始による(動物をなるべく長く生かして利用する)、と考えられています。では、自分の子にしか授乳を許さない(乳腺が開かない)メスが、どのようにして人間の手による搾乳を許すようになったのでしょう。
 非常に興味深い本です。一方に「形のある過去」(遺跡や出土品)、他方に「形のない現在」(家畜の性質や行動、牧夫の行動(群れへの介入))を置き、その両者で挟み込むことで「形が残っていない過去」(動物の家畜化の過程、当時の人間の行動)を浮き彫りにしようとするのですから。もちろんこの手法で、「過去」が100%正確に再現できるかどうかの保証はありません。ただ、「過去の人の生活」を立体的に蘇らせるのには良い手法だと私は感じます。「形のある過去」だけで過去を論じるのは、私には平面的な解釈に感じられていたものですから。そして、著者の手によって蘇る「過去」は、とても説得力のある世界です。「形のあるもの」と「形のないもの」がバランス良く揃っていますから。そしてそこに見えるのは、動物と人の相互作用です。それぞれがお互いに影響を与えながら変化をして、現在の「家畜(と牧夫)」が存在しているわけですが、遠い過去はたとえ見えなくても、何らかの“残照”として残っているはずです。それを手がかりに、動物と人の変化の過程を少しずつ過去へと戻していった本書は、静かな知的興奮の書、と言って良いでしょう。



台風

2011-05-30 18:46:58 | Weblog

 昨日「台風情報はどうなっているかな?」と天気予報のサイト(http://www.tenki-yoho.com/typhoon.html)をクリックしたら「ただいま台風は発生しておりません」と出てきました。たしかにその時点で台風は熱帯低気圧になっていたから「台風は存在しない」は正確な文章であるわけですが、現時点での情報が欲しい人間はそれでは困るわけです。せめて「台風のなれの果て」についての情報も載せて欲しいものだ、と思うのは贅沢な願いなのでしょうか。

【ただいま読書中】『オオカミ王ロボ(幼年版)』アーネスト・トムソン・シートン 著、 前川康男 訳、 石田武雄 絵、フレーベル館、1975年(89年12刷)

 子供時代に夢中になって読んだシリーズの一つ、「シートン動物記」の第一巻です。
 ニューメキシコ州の北部、カランポー高原。そこを支配する「王」は、灰色オオカミのロボでした。6頭の群れのリーダーで、人間がどんなに知恵を絞っても、毒も罠も避け銃を見たらすぐに逃げてしまいます。家畜は毎晩確実に襲われて殺されました。
 ロボには懸賞がかけられ、全米から腕自慢が集まりますが、ロボはそのすべてを退けます。
 そして1893年、オオカミ狩りの名人と名高いシートンが、請われてカランポーに到着します。彼もまず毒・罠・銃を試しますが、すべてロボに見透かされてしまいます。しかし、シートンはロボの弱点に気づき、そこを突くことにします。
 当時のオオカミは、西部劇でのインディアンと同様、「白人の敵」でした。だから、面白半分に一晩で250頭もの羊を殺す、という、牧場主が聞いたら頭が沸騰するような記述も登場します。実際に西部ではそのように人々は言い交わしていたはずです。奴らは悪魔だ。悪魔だから悪魔のような所業をするに違いない、と。
 ただ、シートン自身は、オオカミのロボを、自分と対等の存在であるかのように扱います。頭の良いオオカミだったらどう考えどう行動するか、それに対して自分は何をするか、と。ですから本書の後半でのロボは、まるで尊敬されるべき存在であるかのように描かれます。ただし、当時の風潮(オオカミは悪魔だ、オオカミは見つけ次第殺せ)を考えると、それに反する主張をあまり明確にはできなかったのでしょう。
 実際に250頭が噛み殺された、という事件があったのでしょうか。人間6人が日本刀を持って素手の250人の集団に突っこんで全員を斬り殺すのと同じようなものですが、ちょっと無理がありません? それと、逃げまどう羊の群れを追い回し噛み殺すのに使えるカロリーは、満腹1回で得られる分だけです。きちんと計算したわけではありませんが、それでは足りないのではないかと思えます。そもそも野生動物には、そんな無駄なことをする必要もありませんけどね。
 あ、なんだか急に『オオカミよ、なげくな』や『狼男だよ』を読みたくなってきました。図書館にあるかな?



ふるさと

2011-05-29 18:50:47 | Weblog

 有名な唱歌「ふるさと」は、「そこから出た人」の歌です。そこに住んでいる人にとって「そこ」は「現住所」。

【ただいま読書中】『戦火のバグダッド動物園を救え ──知恵と勇気の復興物語』ローレンス・アンソニー&グレアム・スペンス 著、 青山陽子 訳、 早川書房、2007年、2000円(税別)

 バグダッドで荒らされた国立博物館のために働いた人の物語『イラク博物館の秘宝を追え ──海兵隊大佐の特殊任務』(マシュー・ボグダノス/ウィリアム・パトリック)は昨年1月8日に読書日記を書きましたが、こちらは動物園です。「戦争と動物園」ですぐ思い出すのは『かわいそうなぞう』ですが……って、この本、以前に読んだ記憶があるのですが、自分のパソコンに検索をかけても出てこないので、もしかしたら二回目の読書日記かもしれませんがまた書くことにします。
 バグダッドで戦闘がまだ続いている時、著者の車はクウェートから国境を越えました。警備の兵士は著者の正気を疑います。ジャーナリストを除けばバグダッドに入る初めての一般市民です。その目的は「動物園」の現状を確認することと500キロの物資を届けること。著者にはクウェート動物園からのガイドが二人同行していました。ことばは通じませんが。そして、著者のように無防備な西洋人は、たとえ中立の南アフリカ人であっても、イラク軍の残党にとってはよいカモのはずです。
 バグダッドには恐怖が充満していました。どこから誰に狙撃されるかわかりません。やっとたどりついた動物園は……廃墟寸前でした。戦闘による被害も甚大でしたが、それ以外の人為的な所業の方がひどい。檻の鍵は破壊されて食べられる動物はすべて殺されて食べられ、資材は略奪されていたのです。案内をしてくれたシャダラック中尉は著者に言います。「これがきみの動物園だ。いったいどうしてこんな悪夢の中に入り込んでしまったんだね?」
 南アフリカで動物保護(自分で土地を買って禁猟区を設定、密猟者から動物を警備)をしている著者は、CNNでバグダッドの戦闘を知り、自分が何かをしなくては、と決心します。話を聞いた人は、著者の意図には賛成しますが、現場の危険を考えると気楽に許可は出せません。そこを著者は粘りと幸運とによって突破します。わざわざ「悪夢」の中にはいるために。
 爆撃や銃撃による破壊・戦闘後の暴徒による破壊……散らばる不発弾・略奪目的でうろつく暴徒たち……餓えと渇きでやせ衰えた動物たち・びくびくとうずくまるヒグマ・腐った死体・濁った池……動物園は一時「戦場」となっており、檻に閉じ込められた動物たちは撃ち合いに巻き込まれていました。
 やっと集まった3人のイラク人とバケツ一個。当初はそれが“全兵力”でした。それでかろうじて生き残った(暴徒が食おうとしなかった)30頭の猛獣の世話をしなくてはいけません。ちなみに“通勤”は徒歩1時間。銃撃戦の隙間を通って、です。そこにやって来たのが、著者でした。著者は怒ります。動物をこんな悲惨な状況に陥れた人間に対して。それと同時に、それは、バグダッドだけ、イラクだけのことではない、と著者は述べます。バグダッドで行なわれた略奪などの愚行は、人類が地球に対して行なっていることと、根は同じなのだ、と。
 動物のためにまずやるべき事は……水、餌、治療、檻の清掃、修理、備品の調達、人集め……どこで?何から? 自分たちのために必要なのは……安全に眠れる場所、市内を安全に通行できること……どこで?どうやって? 著者はリーダーシップを発揮し、できることから一つずつ始めます。着実に、ゆっくりと、あきらめずに、全力で。
 まずバケツ、それから餌やりのためのカート。備品不足は一歩ずつ前進し、そのたびに泥棒に盗まれて一歩戻ります。なんとかしなければなりません。アメリカ兵は、民間人に対して発砲することは禁じられていました。だからイラク人は動物園に好きに入り、好きに盗むことができました。なんとかしなければなりません。……なにをどうやって?
 肉食獣の餌として、生きたロバを買ってきてしその肉を与えました。他に「肉」がなかったのです。その行為に対して国外の動物愛護団体が倫理上問題がある、と言いました。では、なにをどうしろと?
 軍は公式には関与しようとしませんでしたが、アメリカ兵は個人として協力してくれました。自分の携行食を分けてくれ、自費で羊を買ってきてくれるものもいました(もちろんどちらも動物の餌として)。あるいは、規則に目をつぶっての便宜提供も。彼らの言葉はいつも同じです。「動物園から来たんだろう? これは動物たちのためだ」
 とうとう「サムナー大尉」が現われます。国立博物館と同時に動物園も担当する学術系の軍人として。「担当」。つまり、軍の視野についに「動物園」も入ったのです。まだ本当に小さな点のような存在ではありましたが。大尉は実にユニークで現実的な方法で「動物園」に対処します。略奪者は逮捕すると檻に閉じ込めそこをぴかぴかにきれいにするまで出しません(檻の清掃と、そんな目にあった人間は二度とやって来ない、という二重の効果がありました)。
 世界のあちこちから、少しずつ応援がやって来ます。バグダッド動物園の窮状が少しずつ知られるようになったのです。個人では、現場の活動に限界が来ます。組織だった活動が必要。ところがそういったものを作るため、著者は現場から離れて“宣伝”をしなければならなくなります。これはジレンマですよね。体が二つ欲しかったんじゃないかな。ただ、著者はいつかはバグダッド動物園を離れなければなりません。生き残った動物たちを救い、そして動物園をイラク人の手に渡すことが、著者の最初からの目的だったのですから。著者は“自分がするべきこと”をしました。それ以外(以上)のことは、著者以外の人間が行なうべきことでしょう。



読んで字の如し〈金ー4〉「鎖」

2011-05-28 17:34:30 | Weblog

「金の鎖も引けば切れる」……強く押せば潰れる
「閉鎖」……開いた鎖を閉じる行為
「封鎖」……鎖を封じる行為
「鎖鎌」……分銅もお忘れなく
「鎖蛇」……背骨と消化管が複雑な配置になる
「鎖骨」……レントゲンで見たら鎖型だった
「連鎖」……連なっていなければ鎖ではなくてただの金輪
「連鎖販売取り引き」……人間が鎖で次々がんじがらめになる商売

【ただいま読書中】『鞆の浦あくび猫』森原輝明 写真、2010年、1000円(税別)

 奥付に出版社の名前がないしアマゾンでも見つからなかったので、自費出版なのでしょう。どんな写真か見てみたい方は「猫撮り屋」にアクセスをどうぞ。
 62ページの小さな本ですが、タイトルの通り「鞆の浦」「あくび」「猫」に条件を絞り込んだ写真集です。「ある土地」と「猫」だったら普通でしょうが、そこに「あくび」という条件をくわえるのですから、これは写真を揃えるのが難しくなるでしょうね。シャッターチャンスとポジションが相当限定されてしまいますから。
 しかしまあ、繰るページ繰るページ、気持ちよさそうに大あくびをしている猫ばかり見ていると、こちらまであくびをしたくなってきます。でも猫って、あくびをする時に、舌をちょっと突きだしてその先がくるりんと上に丸まるんですね。
 鞆の浦にはもう何年も行っていませんが、ひさしぶりに行ってみたくなりました。



国歌

2011-05-27 19:18:28 | Weblog

 大阪の橋下知事が「君が代条例」で盛んに動いていますが、私はこれを好みません。だって君が代が「人事管理のツール」扱いなんですもの。国歌って、本来もっと世俗の塵から離れた領域のものではありません? もっと大切に扱って欲しいなあ。どうして右翼が抗議しないのか、不思議です。「人事管理のツール扱い」って、国歌に対して大変失礼でしょ?
 これがたとえば「どの国の国歌であっても礼儀正しく振舞うこと」だったらまだわかりますが、それは「礼儀」あるいは「国際的な常識」の範疇であって「条例」で取り締まるべき事かどうかは、また別のお話です。

【ただいま読書中】『神饌』南里空海 著、世界文化社、2011年、2400円(税別)

 伊勢神宮(正式名称は「神宮」)ができたのは、垂仁天皇二十六年のことでした。前代の崇神天皇の時代から疫病が流行り国は荒廃しました。それは「同床共殿(祭事と政治が同じ場所で行なわれること)」が原因ではないかと考えた天皇は、祭政分立の大改革を決断しました。選ばれたのは、宮から見て日の出の方向の神聖な地、伊勢です。
 神宮の神饌は、朝夕供えられます。これは古来の生活を反映しているはずです。そして、戦時中の食糧難のときも、台風のさなかでも、1500年間朝夕御饌は欠かさず続けられました(集中豪雨の中、神職が腰まで水につかってお供えしたこともあるそうです)。私は百年や二百年程度では「日本の伝統」とは認めませんが、さすがに1500年だと立派な伝統だと感じます。
 神宮の神饌は、ほとんどが自給自足です。魚や鰒はさすがに専門家による奉納ですが、塩は自家製塩、神饌を載せる土器も神宮土器調整所です。
 各地の神社の神饌も、豊富なカラー写真で紹介されます。野菜や魚が大胆に丸ごと、というのがあるかと思うと、本当に細かい細工物もあります。まるでオードブルのように盛りつけをされたものもあるし、食べ物だけではなくて、季節の花を添えているものもあります。なんだか「日本料理の原点」を見るような気がします。料理そのものだけではなくて、料理店の「お客様への奉仕」と神職の「神さまへの奉仕」、その精神にも共通するものがあるのではないか、と。
 地鎮祭で神饌をお供えしてそのお下がりを頂いたとき、神の食事を人間が食べるのか、と不思議な気分になったことがあります。だけど、それが日本人にとっては「自然」なことなのでしょう。日本人にとって「自然の中で生かされている」こと、特に「食物連鎖の中に自分も存在していると感じること」がつまり「神と共にあること」ではないか、と思えたのです。ふだん強く意識してはいませんけれどね。
 よく「日本は無宗教国家」なんて言いますが、それは嘘だと私は感じます。西洋だったら「神への思い」をことばで熱く語る人間だけが信心深いのかもしれませんが、日本だったら食事のたびに「いただきます」と手を合わせる人間はすべて「信者」でしょう。



前科者の効用

2011-05-25 18:26:42 | Weblog

 IMFの(元)お偉方が強姦未遂で逮捕され、位置通報装置を足にはめ自宅軟禁(警備員の費用は自分持ち)という処分を受けたそうですね。それで思い出したのですが、アメリカ(だったかな?)では未成年に対する性的行為で逮捕された人間は、仮釈放後にその地域に「こんな人間がここに住んでいる」と公表される、というのではありませんでしたっけ? 日本ではなかなかそこまではできないだろう、とは思えますが、もちろん功罪を考えたら罪よりも功の方が大きい、という判断からでしょう。
 そうそう、ちょっと捻った“功”もあります。もし地域になにか変質者によると思われる事件が起きたら、容易に「犯人」を想定することができます。冤罪かもしれませんけれどね、ともかくすぐに“犯人が見つかる”ことは、地域住民の精神安定上はよろしいことでは?

【ただいま読書中】『捕食者なき世界』ウィリアム・ソウルゼンバーグ 著、 野中香歩子 訳、 文藝春秋、2010年、1900円(税別)

 1963年ワシントン州の海岸。若い生態学者ペインは小さな実験を行ないました。磯の岩場での一部でヒトデをすべてはがして海に放り込み続けました。捕食者を失ったその岩場では生態系が崩れ1年経たないうちにイガイが他のほとんどの生物を追い出してしまったのです。他の岩場ではもちろん是までと同じ豊かな生態系が保たれていました。ペインの論文は次の一文に要約できます。「その地域の種の多様性は、環境の主な要素がひとつの種に独占されるのを、捕食者がうまく防いでいるかどうかで決まる」。
 このペインの優れた仕事に到るまでの、「食物網(エルトン)」「その安定を保つのは被食者(ガウゼ)」「緑の世界仮説(別名HSS。地球が緑なのは、森を食べ尽くす前に草食動物を肉食動物が食べて調節しているから)」の学問の流れもまた、食物連鎖のように面白いものです。ペインは新しい言葉(新しい概念)「キーストーン種」を提案しました。それは気がかりな疑問につながります。狼・シャチ・猫科の大型獣・ホホジロザメなど、絶滅に瀕している動物がキーストーン種だったら、その“要石”を失った時生態系はがらがらと崩れてしまうのではないか、と。
 カンブリア紀には生物学的“爆発”がありました。種の種類が爆発的に増加したのです。そこにあったのはアノマロカリスのような「捕食者の存在」でした。被食者は、様々な手段で自分の身を防衛しようとしました。その手段の数だけ「種」があった、と言ってもよいでしょう。恐竜の大絶滅後も大型の捕食者は次々登場しました。しかし、更新世の大絶滅後、大型の捕食者で新しい種は登場しにくくなっています。
 文明誕生は、農業の誕生とも重なります。すると、家畜を襲う“害獣”は「人類の敵」です。そこで、「財産を守るため」それと同時に「楽しいスポーツ」として、猛獣殺しが世界中で組織的に行なわれるようになりました。食物網の頂点に位置する捕食者は次々絶滅あるいは絶滅危惧種となります。それは、ペインが行なった「実験」を、全地球規模で行なっていたのでした。
 かつて北太平洋に何十万匹もいたラッコは、毛皮目当ての人間にほぼ絶滅させられました。1911年にラッコ・オットセイ保護国際条約が結ばれ、細々と生き残っていたラッコはまた繁殖し始めます。海藻ケルプの森でラッコは主にウニ(あるいはイガイ、魚)を食べていました。そしてウニはケルプを食べます。ラッコがいない島ではケルプは食べ尽くされていました。しかしラッコがいる島では、ケルプの森に豊かな生態系がありました。「緑の世界仮説」に「証拠」が見つかったのです。
 そこで新たな要素が現われます。シャチです。なぜかシャチがラッコを襲う(食べる)ようになったのです。せっかく増えたラッコの数が激減します。シャチの餌の鯨が捕鯨によって減少し、そこでシャチはトドを襲い、とうとうトドを食べ尽くしたためラッコに目を向けた、という一種の「玉突き」仮説が登場しますが、これは蜂の巣をつついたような騒ぎを引きおこしました。捕鯨反対派、シャチを嫌う人たち、そういったイデオロギーや好き嫌いとは無縁の人たち、「シャチが鯨を食べること」を否定する人……様々な人が様々なことを言い立てます。北太平洋に鯨が復活して、それでラッコも増えたらこの仮説がある程度証明されるかもしれません。
 地上で「大型捕食獸が消えた世界」がどのようになるかの報告が紹介されます。捕食される恐怖から解放されたサルやシカが住む世界は、「天国」ではなくて「地獄」でした。それも、当のサルやシカだけではなくて、他の動植物も巻き込んだ地獄です。シカの愛好者や動物の権利擁護派や“害獣”駆除論者は、それらの「地獄」から目を逸らしました。そんなのは局所的な一時的な現象だ、と。しかし、「地獄」は偏在ではなくて、遍在したのです。さらにその壊された生態系は、人間にも牙をむきます。たとえばライム病(ダニが媒介する病気)の形で。
 「解決策」は意外なものでした。具体的なやり方は地域によって違うのですが原則は「捕食者の復活」です。それまで“迫害”されていたコヨーテやオオカミを、その地域にもう一回放ち保護する(迫害しない)だけです。
 ここで興味深い現象が観察されます。オオカミは森の復活に役立ちました(さらには川も管理していました)。さらに、被食者の行動に変容が見られます。食われる事による淘汰だけではなくて、食われないように恐怖心によって行動が変化することこそが進化の原動力ではないか、という魅力的な物語が登場します。
 その「恐怖心」が「自然復元」の妨害になります。「人の恐怖心」です。「裏庭をライオンがうろうろするなんて、とんでもない!」。これは、人類のかつて「被食者」であった記憶が蘇っているのかもしれません(というか、そういった恐怖心を持つ種が、進化の過程で生き残った、と言った方が正確でしょう)。

 本書には「生態系をコントロールするのは、捕食者か被食者か」という問いが何回も登場しますが、これは立問を間違えていると私には感じられます。生態系は動的な平衡系ですから「神のような管理者」は存在しないでしょう。ただ、絶滅しやすいのは数が少ない方(つまり捕食者)ですから、絶滅させて生態系をぼろぼろにする(良く言えば「新しい平衡に到達させる」)ためには捕食者を絶滅させる方が容易。しかし、被食者の方も、たとえば単一の因子に依存するようになっていたら、いくら大量に存在していてもちょっとした環境の変化でそちらの方を絶滅させることが可能です。これもまた生態系をぼろぼろにします。そういった「系全体を見る視点」を論者全員が獲得しない限り、これからもこの問題に関しては不毛な議論が続くのではないか、と私には思えました。


節電

2011-05-24 19:02:20 | Weblog

 この夏、もしも節電運動でエアコンの稼働量が相当減少したら、それによって東京のヒートアイランド化が少しでも改善する、なんてことは期待できないでしょうか。コジェネなどをフル稼働させたらかえって悪化するかもしれませんが。

【ただいま読書中】『さまよえる湖』スウェン・ヘディン 著、 岩村忍 訳、 角川文庫、1968年(1994年15刷)、480円(税別)

 著者は1934年に内乱が続くウイグル地区で、「ロブ湖」探険に出発します。1896年に第一回の探険を行なってから38年ぶりのことでした。自動車と馬車、カヌーで一行は出発します。しかし、食べることが楽しみだったのでしょうね、よく料理の話題が登場します。ある日の夕食は「パンとバター、チーズ付きの野菜スープ、リソール(魚か鳥の挽肉にパン粉と鶏卵を混ぜた衣を着せて油で炒めた料理)、馬鈴薯、菓子付きコーヒー」となかなか豪華です。中国人のコックはトルコ料理も作るし、羊の肉をスウェーデン料理に調理することもできるそうですが……スウェーデンに羊がいるんです?
 読みやすい文章ですし、薄い文庫本ですから、一気に読めます。
 「楼蘭」「シルクロード(本書では「絹の道」)」などのとても古い時代の話も登場します。「そうか、あのへんか」と私はなにかわかった気分で呟きます。
 著者がたどり着いたロブ湖は、その時には、縦123km、幅は最大76kmの塩水湖でした(ちなみに、琵琶湖は縦が63.49km、最大幅は22.8km)。そこを手こぎのカヌーで探険して回るのですから、大変です。ツバメ号のような帆船だったらちょっとは楽かな? 塩水湖ですから、かつての湖の跡には塩が堆積していて簡単に確認することができます。蒸発が激しいため、新しい湖底はだんだん塩で埋められていきます。しかし古い湖底(の跡)は激しい風で浸食されます。そのため湖は「さまよう」ことになるのです。
 ……もしかして、日本にやってくる黄砂の一部は、「さまよえる湖」の一部?

 子供時代にこの話(ジュブナイル版)を読んで衝撃を受けたことを改めて思い出しました。当時私には「探検家の熱情」「異国の不思議な風景」「エキゾチックな食物」などに強い印象を受けましたが、今感じるのは「よくもあんなに危ない時代に探険をしたものだ」です。もちろん著者もそれはわかっていて、ライフル銃で武装はしていますが、それでも本気の強盗団や軍閥などに襲われたらひとたまりもないでしょう。そもそも「権力(中央政府)」の側だってあやしいのですから。こうして過去を見てみると、探検家って人たちは、「地理上の探険」だけではなくて「時代の探険」もやっているのでしょうか。



ニオイの出る映画

2011-05-23 18:58:34 | Weblog

 実験的にそんな映画館が作られたことがある、と聞いた記憶がありますが、結局換気(ニオイの切り替え)の問題がクリアできないと本格的なものは無理でしょう。
 ただ、もし本当にそういった映画ができたとしたら、私は18世紀が舞台だったら、ロンドンやパリは敬遠します。絶対悪臭都市ですから。舞台が江戸だったらたぶん耐えられるでしょう。

【ただいま読書中】『シブすぎ技術に男泣き!』見ル野栄司 作、中経出版、2010年、952円(税別)

 「今の日本を造ったのは政治家でも商社でもマスコミでもない……それは、中小企業の技術者たち」という視点からの漫画です。見ル野栄司さんは、現在は漫画家ですが、社会人としてのスタートは半導体製造装置を作るエンジニアで、だから「もの作り」には相当な思い入れがあるそうです。
 電子回路設計、スピーカー、石油探査用測定器……と様々な企業がコンパクトに紹介されます。ちょっとコンパクトすぎて、私には物足りない点が多くあります。たとえば石油探査用測定器の所で、原油を汲み出した後の隙間(キャップロック)に二酸化炭素を押し込めるという作業を行なっているから環境問題にも配慮している、とあるのですが、その二酸化炭素をどこからどうやって持ってくるのか、についても知りたいと思いました。
 そこでちょっと時代が戻って、テレビ(高柳健次郎)、乾電池(屋井先蔵)、製麺機(真崎照郷)などの開発物語が紹介されます。これら先駆者の苦労はほとんど全人生をかけたすごいものですが、それに続いて著者自身の「開発物語」も。こちらは「男泣き」ではなくて「思わずもらい泣き」をしてしまいそうなものばかりですが。
 「熱い思い」がぎゅっと詰め込まれていて、ちょっと暑苦しく感じますが、それでも私は「手を動かす」ことを重視する姿勢を高く評価します。今の日本ではなぜか「手を動かさずに口だけ上手に動かす人間」が高く評価される傾向がありますが、そういった人間の生活を支えているのもまた「手を動かす人が作り出したもの」ですから。



バチ

2011-05-22 18:51:03 | Weblog

 もう死語かもしれませんが「バチが当たるぞ」と私の子供時代にはよく言われていました。バチをあてるのは誰かと言えばたぶん神様でしょう。ただ、神様って、そんなに地上の特定個人に興味関心を持ってず~っと見ているんですかねえ。人間が同じことをやったらストーカーですが。神さまって、もっと大切なこと(人類とか地球とか宇宙とか)に力を使っているのではないかなあ。

【ただいま読書中】『世界一くだらない法律集』デヴィッド・クロンビー 著、 生沢雄一 訳、 ブルース・インターアクションズ、2007年、952円(税別)

 世界各地域から「くだらな~い」と言いたくなる法律を集めてあります。著者はもともとイギリスの判事ですが、あまりにくだらない法律が多いために司法制度に幻滅して判事を辞めた経歴を持つそうです。いやもう、抱腹絶倒ですよ。いくつか適当に引用してみましょう。
 まずはイギリス。「窓からベッドをぶら下げてはならない」「自殺は死刑」(ただし現在はこの法令は廃止されているそうです)「国会議員は鎧を完全装備して下院に入ってはならない」
 フランス。「列車内でキスは禁止」「ぶどう園にUFOを着陸させてはならない」「自分の飼っているブタに『ナポレオン』と名前をつけてはならない」
 オーストラリア。「バーは、お客の馬を馬小屋に入れ、水と餌を与えなければならない」「異性との性行為が認められる年齢は16歳だが、これは年長者の指導・監督の下に行為が行なわれる場合に限られ、そうでない時は年齢は18歳に引き上げられる」「免許を持った電気技師以外、電球を交換してはならない(ヴィクトリア州法)」
 韓国。「警官は運転者からわいろを受け取ったらすべて報告しなければならない」
 そうそう、ラジオで流す音楽にはある割合以上自国のものを、という法律は、カナダとフランスにあります。
 そのカナダには「飛行中の航空機に乗り込んではいけない」「指定地域以外でミサイルを発射したら75ドルの罰金」なんてすごい法律があります。
 アメリカは……わはははは。これは凄い法律のオンパレード。なにしろ合州国ですから、州ごとにユニークなものがぞろぞろと。たとえば「建物をまるごと郵送するのは違法」「目隠しをして車の運転をしてはいけない」「街中の通りでモーターボートを操縦してはいけない」「飛んでいる飛行機からヘラジカを突き落としてはいけない」「一軒の家で同時に住んでいい女性は6人まで」「馬に乗ったまま郡裁判所の階段を上ってはいけない」「結婚式で、花嫁と花婿に向かって靴を投げつけてはいけない」「浮気には25ドルの罰金」……

 まあ、無責任に笑うのは簡単ですが、たぶん実際に回りの人が眉をひそめる“そういった行為”をした人がいて、それを裁こうとしたら裁く法律がなかったので急遽作った、という経緯があるのがほとんどではないか、とは思えます(たとえば「一軒の家の女性の数制限」はおそらく売春宿の規制でしょう)。
 ただ、いくら想像をたくましくしても、なぜそんな法律が必要になったのかわけがわからない、というものや、必要かもしれないが実現は不可能だろう、と言いたくなるものもたっぷりあります。

 で、日本からはどんなのが、と思うと、ただ一つでした。「セックスが許される年齢は法的に定められていない」。やっぱり「児童ポルノの国」と思われているんですかねえ。

 ……ところで……「世界一くだらない」は「法律」にかかっているんでしょうか、それとも「集」?



袋疲労

2011-05-21 20:48:22 | Weblog

 ポケットに常に突っこんで買い物のたびに使っていたレジ袋。ずいぶん薄汚れてきたな、と思っていましたが先日とうとう一部がちぎれてしまいました。
 金属だって金属疲労があるし、骨だって疲労骨折があるくらいですから、レジ袋だって疲労しますよね。

【ただいま読書中】『人間みな病気』筒井康隆 選、日本ペンクラブ 編、ランダムハウス講談社、2007年(1991年福武書店)、760円(税別)

目次:「田中静子14歳の初恋」(内田春菊)、「恐怖」(谷崎潤一郎)、「屋上」(大槻ケンジ)、「盲腸」(横光利一)、「役たたず」(遠藤周作)、「搔痒記」(内田百)、「したいことはできなくて」(色川武大)、「精神病覚え書き」(坂口安吾)、「今月の困ったちゃん」(内田春菊)、「奇病患者」(葛西善蔵)、「ちぐはぐな話」(秋元松代)、「ポルノ惑星のサルモネラ人間」(筒井康隆)、「未確認尾行物体」(島田雅彦)

 「人間みな病気」なのか、それとも「病気みな人間」なのか、なんとも断言できず、読んでいる内に背筋がさわざわして両耳の穴の奥、たぶん脳にとっても近いところがこそばゆくなってくるような感覚にとらわれてしまいます。
 児童虐待、鉄道恐怖、自殺、入院生活……さまざまな“お題”が登場します。笑いたいような悩みたいようなのは「役たたず」。小説家が病院で何の「役に立つ」のか、という話ですが、実はこれは病院だけではなくて「現実世界」に拡張される問いかけでもあります。私は幸い小説家ではありませんからこの問いかけが自分自身を直撃はしませんが、小説家(一般化するなら「ものを書く人」すべて)はこの短編を読んだら頭を抱えることになるかもしれません。
 そう思いながらページを繰っていたら、文字通り「痒くなる」短編が。大学卒業後、ぶらぶらしている貧乏作家。家の経済状況から目を背け、積極的に職を求めるわけでもなく、就職の話を持ってくる人にはとにかく警戒心をむき出しにし、そしてとにかく痒い頭を掻いています。掻き破ってしまって頭中おできになるまで。最後に漱石先生が登場して、話は納まるところに納まったような、中途半端でどこかにしまわれてしまったような……
 色川武大の作品には「書くということ」への、まるで鬼のような執念が漂います。
 「精神病覚え書き」(坂口安吾)には小林秀雄が登場して、ドストエフスキーとゴッホの発病期に著しい類似性がある、と述べます。しかし、遠藤周作にしても坂口安吾にしても、入院するとなると「現実を観察するまたとないチャンスだ」と思うのですが、小説家ってふだんの生活でそんなに「現実」に触れていないのでしょうか?
 「ポルノ惑星のサルモネラ人間」は、これはもう何でもありのてんこ盛り。「女性解放」「『いやらしい』の定義」「偽善」「専門バカ」「進化論」「生態学」などのテーマがぐしゃりとつめこまれてミキサーにかかっています。あまりドロドロしたものが好きでない人にはお勧めしないでおきましょう。
 そして最後はストーカー。ただし相当ひねりが入っています。
 いやあ、気持ち悪い読後感の本です。「病気」と「ビョーキ」が満ち満ちているんだもの。でも、「人間、みな、病気」なんですよね。