【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

女にもてたい

2017-04-29 11:07:04 | Weblog

 昭和の時代に「女にもてたい」から「でかい車」を手に入れようと努力する若者がたくさんいました。だけどそれでもてるのは「でかい車が好きな女」だけですよね。たとえば「本が好きな女」にもてたい若者は、どんな努力をすれば良かったんでしょう?

【ただいま読書中】『馬車が買いたい! ──19世紀パリ・イマジネール』鹿島茂 著、 白水社、1990年(2000年7刷)、2900円(税別)

 19世紀のフランス人が陸路を旅する場合の手段は、徒歩か馬車でした。世紀前半に流行した小型の乗り合い二輪馬車は「クックー(カッコー)」、フランス独特の大型で三車室から成る四輪馬車は「ディリジャンヌ」でした。ディリジャンヌでは、どの座席を選ぶかにその人の階級と経済状況が露骨に反映されます。オペラ座にロイヤルボックスから天井桟敷まであるのと少し似ています。
 「マル」と呼ばれた郵便馬車は、旅客も運送していました。こちらは定員が4人ですが、16人乗りのディリジャンヌでは知人と乗り合わせる可能性もあるため、秘密の旅を望む客には郵便馬車の方が人気がありました。
 貴族や大ブルジョワジーには、自家用の旅行馬車も人気がありました。ただ、豪華な旅行馬車を連ねての旅はむしろ18世紀のグランド・ツアーの時代のものだったようです。
 フランスに蒸気機関車が走ったのは、イギリスに遅れること12年、1837年のことでした。ここで面白いのは、「旅客車両」は「箱馬車をいくつも結合した形」で製造されたことです。客は車室の扉を開けて直接外からそこに乗り込み、車掌がドアを閉めて施錠します。内部に通路はありません。客はそれまでの馬車と同じ感覚で移動するわけです。さらに、乗合馬車と同様に屋根の上に「屋上席」までありましたが、これは危険きわまりない「客席」でした。アメリカでは客室中央に通路があってその両側に2人掛けの椅子が並べられる構造でしたが、これは列車登場以前の主要な交通手段であった「河蒸気」の客室がそのまま移し替えられたのだそうです。「進歩」は意外に「それ以前」を反映しているもののようです。
 田舎からパリに入ろうとすると、19世紀にはパスポートチェックや荷物検査がありました。当時のフランスでは「隣の県」は「外国」だったようです。これでひどく苦労させられた代表が、ジャン・ヴァルジャンですね。なお、旅行者がパリで最初に目にするのは、市門を通過した場合には貧民街ですが、列車の場合にはがらんとした駅の光景になります。
 本書には,19世紀のフランスを扱った様々な文学作品からの引用が多数散りばめられていて、「19世紀のフランスの臭い」がページをめくるごとに立ち上ってきます。「食事」の場面ではその「におい」はますます濃厚になります。ただし登場するのが庶民の食堂や自炊生活なので、「貧しいにおい」ではありますが。
 「盛り場」で目立つのは娼婦の姿です。そして、貧乏人の家計簿で目立つのは「家賃」と「洗濯代」。家賃は高いのに上水道も下水道もないから、結局洗濯は外注になる、ということがこの家計簿から読み取れます。なお、カフェに出かける人は光熱費(ロウソク代や薪代)が節約できるので、外食費(や教養費)と光熱費はバーターの関係になるようです。
 そして「馬車が買いたい!」。馬車を持たないダンディー君たちは、強烈な上昇志向を「馬車」に向けました。一昔前の日本の「女にもてるために格好良い車が欲しい」と似ているのかな? ただ「馬車」は「ステイタス・シンボル」であると同時に「実用」でもありました。当時のパリの街路はごみの吹きだまりで、徒歩だと「ダンディーな服装」がすぐにどろどろになってしまうのです。『ゴリオ爺さん』では「3万フラン出しても買えない馬車」を「3箇月を130フランで生活する男」が渇望する場面があります。彼はこれから、上流階級と戦うだけではなくて、自分の自尊心とも戦わなければなりません。つまり、19世紀のフランス文学作品の何割かは「馬車が買いたい!」の物語だったのです。なお「馬車」の中にも「階級差」がありますが、本書では親切にも親切な解説や図が掲載されています。もっとも私はあまり熱心な読者ではないので、人に詳しくその解説の解説はできません。興味のある方は本書をお読み下さい。



どさど

2017-04-28 07:05:09 | Weblog

 最近「ドS」という言葉がけっこうあちこちで使われているようですが、「S」って「サド」のことですよね? すると「ドエス」は「ドサド」のことに?

【ただいま読書中】『密室の戰争 ──日本人捕虜、よみがえる肉声』片山厚志・NHKスペシャル取材班 著、 岩波書店、2016年、2300円(税別)
https://www.amazon.co.jp/gp/product/4000248812/ref=as_li_tl?ie=UTF8&camp=247&creative=1211&creativeASIN=4000248812&linkCode=as2&tag=m0kada-22&linkId=cb7a5891864562cb2221015e85ecd744
 「アメリカの国立公文書館に、日本人捕虜の尋問を録音したレコードがあるらしい」という噂を聞きつけた著者はさっそく音源のコピーを取り寄せます。CD12枚にコピーされた約13時間の録音は、雑音混じりでそのまま聞いていたら頭痛を引き起こすだけのものでした。雑音除去の作業と同時に著者はそこに肉声を残した日本人捕虜の“その後”を追跡し始めます。
 レコードが記録されたのは1943~45年、場所はオーストラリア、ブリスベンの捕虜収容所。
 最初に著者が聞いたのは稲垣海軍主計大尉の声でした。尋問官と穏やかに英語でやり取りをしています。ニューギニアのポートモレスビー攻略作戦に主計長として従軍した稲垣は、退却中に飢餓とマラリアで倒れてそのまま捕虜となっていました。彼は名誉ある死を望みますが、命を助けてくれさらに厚遇をしてくれる連合軍に“義理”も感じています。そして尋問官はその彼の心情に理解を示していました。「厳しい尋問」とはずいぶん雰囲気が違います。
 このポートモレスビー攻略作戦については、2010年に読書した『ココダの約束 ──遺骨収集に生涯をかけた男』(チャールズ・ハペル、ランダムハウス講談社)で詳しく知りましたっけ。「悲惨」をそのまま肉体化したような“作戦”だったことを私は覚えています。
 戦場で入手できる日本語の文書や捕虜からの情報の貴重さに気づいた連合軍は、ATIS(連合軍翻訳通訳部)という諜報機関を設立、同時にアメリカ本土・オーストラリア・イギリス・オランダなどに語学学校を作り「語学兵」を大量に育成しました。重視された捕虜は、将校や教養のある下士官でした。そのために、日本兵捕虜に何段階かのスクリーニングをかけて優先度の高い捕虜を選別し、ブリスベーンに集めて静かな環境でゆっくりと一対一の尋問をしていました。ただし、尋問室の壁の中に盗聴器が仕込まれていて、あとで複数の人間が得た情報を吟味するようになっていました(それが今回の“音源”になったわけです)。
 ここで興味深いのは、日本軍は「生きて捕まるな」と命令はしていたが「捕まったときに尋問には答えるな」とは教えていなかったことです。名前・認識番号・階級だけは答えるがそれ以外は言う必要はない、は「戦時捕虜の国際常識」のはずですが、日本兵はそんなことを知りませんから、優しく扱われるとついつい喋ってしまったのです。「原発は事故を起こさない」だと「事故が起きたときにどうするか、うろたえる」と似ていますね。そのため、捕虜から日本軍の情報は連合国に筒抜けとなり、連合軍は日本軍の防御陣地の裏をかいて次々と作戦を成功させていきました。
 著者は尋問官も探します。70年前のことですからほとんど死亡しているはず、と思っていると、89歳のケントウェルさんに出会えました。その証言は貴重です。たとえば、尋問で聞くように上司から指示された質問リストは、当初は戰争そのものに関する軍事情報が多かったのですが、44年10月以降は「日本固有のこと(日本人のものの考え方など)」を聞き出そうとするようになり、45年5月からは「民主主義という言葉にどんなイメージを持っているか」も質問されるようになっています。明らかに日本を戦場にすることが想定され、あるいは占領後にどのような政策を採るかの参考資料を集めています。なおケントウェルさんは戦後に通訳として日本に上陸しましたが、かつて自分が育った神戸や、自分の母親の出身地の広島が焼け野原になっているのを目撃することになりました。そのことを思い出したとき、彼は声を上げて泣き始めます。
 「戰争」とは「人が人を殺すこと」です。だから戰争から帰ってきた人は、あまり自分がしたことについて語ろうとしません。語る以前に、「思い出すのも嫌です」と述べる人がいます。しかし著者によって「自分の父親が、戦場で人を殺した」ことを示す音源を突きつけられた遺族は、驚愕します。そんなことを父から聞かされたことはなかったのですから。著者は思います。戰争は「国と国」が行うが、そこで行われた人殺しの苦痛は「個人」が負い、国はそれを肩代わりはしてくれない、と。そしてその苦痛は、ずっとその人を苛み続けるのです。
 殺されるのはもちろん嫌です。だけど、殺すのもあまり良いことではなさそうです。それを個人に強制する「国」って、一体何のために戰争を好むんでしょうねえ。
 


東北でだったら起きて良い地震、って、何?

2017-04-27 07:07:16 | Weblog

 今村さんの「真意」が本人が主張する「東京に起きたらとんでもない大被害が生じる」であったとしましょう。すると、彼の選挙区(佐賀だそうです)が大きな地震に見舞われたときにも彼は「まだ佐賀で良かった」と言うんですよね? 本当に言うかどうか、じっくり私は待たせてもらいます。

【ただいま読書中】『痛くないお産 麻酔分娩がよ〜くわかる本 ──周産期専門の麻酔科医に聞く』奥富俊之 著、 メディカ出版、2005年、1000円(税別)

 先日のお産の本はあまりに古かったので、こんどは21世紀の本も読んでみることにしました。
 本書で紹介されているのは「硬膜外麻酔」です。ただその前に、本書のスタンスが興味深い。「痛いお産(自然分娩)を望む人はそちらへどうぞ。選択肢の一つとして痛くないお産に興味がある人はこの本で調べてね」という態度なのです。血相を変えて「自分の主張こそが正義」と言う人とはずいぶん態度が違います。
 そもそも、どうしてお産は「痛い」のでしょう。理由の一つは「二足歩行」です。骨盤が内臓を支えるためにお椀型になり、尻尾は骨盤内部に入り込んで筋肉として内臓や歩行を支えるようになりました。さらにヒトの頭は大きくなり産道を通過しにくくなっています。また、これは生物ではなくて社会の話になりますが、晩婚化の影響もあります。若い方が産道は軟化しやすいので、高齢出産ではますます痛くなり易くなります。また、出産を実際に見た経験がないと不安や恐怖が大きくなりますが、痛みはそういった精神的な要素でも強くなっていきます。
 「痛みの尺度」は客観的に示すことが難しいのですが、それでも色々な研究では、出産訓練を受けていない初産婦の場合、陣痛は「手指の切断」とほぼ同じくらいの痛み、だそうです。これは大変だ。あまりに痛いと、カテコールアミンががんがん分泌されて動脈が収縮して子宮への血液供給が減少したり、痛みのために呼吸が浅くなると血中酸素濃度が減って、結局赤ちゃんに悪影響が出ることがあります。特に、心不全や高血圧のお母さんの場合、カテコールアミンが母子ともに悪いことをするので、著者は「医学適応の麻酔分娩(“治療”として麻酔分娩を行う)」という言い方をしています。
 無痛分娩では、赤ちゃんには影響が及びにくくて産婦の痛みを取るために、局所麻酔が選択されます。たしかに、全身麻酔だったら、赤ちゃんも寝ちゃいますもんねえ。そうしたら産声は上げられないので、困ります。
 私が子供のころには「盲腸の手術(本当は急性虫垂炎の手術)」が盛んに行われていて、その時の麻酔は「脊椎麻酔」でした。これは今は「脊髄くも膜下麻酔」と呼ばれるようになっているそうですが、「硬膜外麻酔」はこの「脊椎麻酔」より「膜一枚外側」に麻酔薬を注入します。膜が邪魔をするので薬が効くのに時間がかかりますが、その分効果は長持ちする、という理屈です。それでも3時間くらいしたら薬液の効果は切れますが、細いチューブを硬膜外に留置して置いて、追加が必要ならそのチューブからまた新しい薬液を注入するのです(だからその時には針を改めて背中に刺す必要がありません)。なお、硬膜外麻酔に脊椎麻酔を組み合わせて使うテクニックもあるそうです。これだと、硬膜外だけよりも薬液の量を減らせるし、ほとんどの場合歩行も自由にできるので、麻酔をかけた産婦さんが子宮口が全開になってから歩いて分娩台まで行くことも可能です(その写真が載っています。笑顔です)。
 自己調節硬膜外鎮痛法(PCEA)という方法もあります。いつ薬液を調節するか、患者自身が決めてボタンを押すやり方です。痛くなったら押せば良いし痛くなかったら押さなければ良い。過量投与を防ぐために、一定時間に注入される薬液の量は医者があらかじめ設定していて、それをオーバーしたらボタンを押しても空打ちになるようになっているそうです。面白いことに、空打ちでも「効く」そうです。プラセボ効果ですね。
 副作用もあります。たとえば、血圧低下、吐き気や嘔吐、尿閉(おしっこが出せなくなる)、かゆみ、発熱、そして薬物アレルギー。ただしその発現頻度はとても低いものです(本書には「麻酔分娩で重大なことが起きるのは、交通事故に遭うのと同じくらいの確率」とあります。「その程度か」と安心するか「ゼロではないのか」とがっかりするかは、自分で決めれば良いでしょう)。
 母性本能についての解説もあります。これは遺伝子FosBに「体が小さく丸く頭が大きい者」に愛着を示せ、と書き込んであるのだそうです。その母性本能が行動化するためには、プロラクチンの分泌が必要です。つまり、「陣痛」は母性本能の発言には無関係。それどころか、陣痛の痛みストレスはプロラクチンの分泌を減少させます。すると母性本能だけではなくて、母乳の分泌にも悪影響が出ます(プロラクチンは母乳分泌を促進させるホルモンでもあります)。産後母乳が出なくて困る人の何割かは、過度の陣痛が原因かもしれません。
 本書の最後に、実際に体験した女性たちの手記があります。こういった本に掲載されるのですから最初から「肯定的なバイアス」がかかっているのは明らかですが、それでも読んでいると「利点」がいくつもわかります。もちろん「副作用」「事故」などの難点もあるから、どう出産するかは個人の自由ですが、私が産婦だったら硬膜外を選択するだろうな、とは思いました。もちろんリスクはあります。でも自然分娩だって「危険率」はゼロではないでしょ?



行き遅れ(死語)

2017-04-26 06:58:02 | Weblog

 私が子供のころには「女が大学なんかに行ったら、行き遅れる。やるとしてもせいぜい短大まで」と主張する大人はごろごろいました。バブルのちょっと前だったと記憶していますが「女はクリスマスケーキ」という言葉もありましたっけ。そのココロは「24まではどんどん売れるが、25を過ぎたら価値がなくなってたたき売り」つまり結婚適齢期は24歳まで、という主張でした。そういった時代ですから当時の「高齢出産」の定義は「30歳過ぎての初産」。今から考えると信じられない主張ですが、「医学的な“正常”」を「社会」が作っていた時代だったのでしょう。おっと、これを「過去形」で言って良いかどうかはまだわかりませんね。
 本日の読書記録は、そういった「昔」のお産の本です。

【ただいま読書中】『30歳前後の初産と無痛分娩』宮下祥 著、 日本文芸社、1970年、500円

 本書の表紙カバーに母子が写っています。赤ちゃんの姿には別に違和感がありませんが、お母さんの方は明らかに昭和の化粧と髪型と服装です。いやあ、40年以上経ってこの母子は現在どんな姿になっているのでしょう?
 「高年出産は未熟児が多いのではないか」「年を取ってからの子供は頭がよいのではないか」などと昔は言われていたそうですが、本書でそれはばっさりと否定されています。ただ、産道の軟化が若い人の方が起きやすいので、高年初産の場合は難産になり易いかもしれない、とは書かれています。そういえば「母体の老化に伴う卵子の老化」が言われ始めたのはつい最近のことでしたね。当然本書にそんな記述はありません。
 「家族計画」(避妊のため、ではなくて、合理的な出産計画のこと、と本書では主張されています)のために知っておくべきこととして、男女の性器の違い、排卵周期や月経の意味、具体的な避妊法などについての基礎的な解説があります。そういえば70年頃に私は友人が学校に持ってきた北欧(スウェーデンだったかな)の性教育の教科書の日本語訳を見て、そこでこういった「基礎的な解説」を具体的に知りましたっけ。北欧だと「高校生が知るべきこと」が、同じ時期の日本では「結婚してから知るべきこと」扱いされていたわけです。さらにこの時期、日本では「性教育」は「女子のためのもの」で男子は放置されていました。今はたぶん変わっているでしょうけれど。
 そうそう、本書には避妊の方法も載っていますが、たとえばコンドームの装着法や使用法や注意点は、私が見た北欧の教科書ではとても具体的だったのに対して、こちらの『30歳前後の初産と無痛分娩』ではなんだか観念的というか通り一遍の記述になっています。これでは避妊失敗を増やすだけではないかしら。
 本書では「無痛分娩」がわざわざタイトルに挙げられていますが、本文で扱われるのは4ページだけです。無痛分娩は「異常なお産」としてあまり詳しく述べる必要がない、ということだったのかな。だけどそれならタイトルは何だったのかしら?
 ただ当時の日本では、お産がらみとはいえ、セックスを扱う本はそれだけで衝撃的な本だったはず。著者がいろいろと言葉を選んで書いているのが、容易に見て取れます。ただ、半世紀経って日本人はセックスの知識に関してどのくらい進歩しているのか、とも思います。こんな古い本程度の知識も持たない日本人はまだごろごろいるんじゃないかしら。



痛撃

2017-04-25 07:03:11 | Weblog

 北朝鮮とアメリカが“チキンゲーム”をやってますが、もしも双方が核ミサイルを撃つ事態になったら、今の風向きだと死の灰は日本海、ついで日本列島に降り注ぐことになるんじゃないです? 「悪い奴らが痛い目に遭った」と喝采を送る場合ではないような気がするんですけど。

【ただいま読書中】『現代語訳 十牛図』水野聡 訳、 玄侑宗久 監修・解説、 PHPエディターズ・グループ、2016年、1300円(税別)

 宋の時代の禅僧廓庵師遠(かくあんしおん)の『十牛図』の現代語訳です。
 一匹の牛(見失っていた本来の自己)を探し、捕えることによって悟りを得るプロセスを、十枚の画と短い漢詩で表現しているのだそうです。
 「尋牛」:人が「牛」を尋ねて旅に出ます。
 「見跡」:苦難の旅の末、見つけたのは足跡です。
 「見牛」;牛に出会います。しかし画に描かれているのは牛のお尻と後ろ足と尻尾だけ。
 「得牛」:縄を掛けちからづくで牛を捕らえます。しかし牛は逃げようとします。
 「牧牛」:暴れる牛を手なずけました。悟りを自分のものにするために修業をしているわけです。
 「騎牛帰家」:牛の背に乗り、故郷を目指します。牛と自分、悟りと自分が一体化しています。
 「忘牛存人」:家に戻りましたが、牛のことは忘れます。人と一体化したため、画の中からは消滅しています。
 「人牛倶忘」:牛だけではなくて、人の姿もなくなります。画にあるのはただ「円」のみ。
 「返本還源」:見えるのは、本来の自然。「無」は「空」であり、「空」には「すべての有」が含まれています。
 「入鄽垂手」:童子から布袋和尚の姿になった「人」は、街に出て別の童子と遊んでいます。親の悟りを得て大自然と一体化した人は、布袋の姿となって世界に再登場し、他の人たちに救いの手を垂れます。

 善の修業をしている人から「悟れば良い、というものではない」「悟っても悟っても、そのさらに奥にもっと深い悟りがある」という印象的な話を聞いたことがあります。本書でも「禅の目的は悟ること、ではない」と主張されているようです。もちろん「悟り」は「ある」のですが、それは「ゴール」というよりはむしろ「スタート」のようです。座禅をいうのは、なかなか大変なものなんですね。



蜘蛛の糸

2017-04-24 07:13:59 | Weblog

 芥川龍之介の「蜘蛛の糸」で、カンダタが命を救った蜘蛛は「道端を歩いている蜘蛛(巣を張らない徘徊性の蜘蛛)」でした。そして、お釈迦様がカンダタを救ってやろうと使った蜘蛛は極楽で巣を張っている蜘蛛。もちろん「蜘蛛」ですから、どちらも糸は吐きますが、カンダタが落っこちてしまったのは、お釈迦様が「カンダタが救った徘徊性の蜘蛛」ではなくて「巣を張る蜘蛛」の糸を使うという“ミス”を犯したからではないでしょうか? だって「巣を張る蜘蛛」から見たら、カンダタを救う義理はないわけですから。
 ところで、極楽で巣を張っている蜘蛛は、一体何を食べて生きているんでしょうねえ? 食われる方から見たら、そこは「地獄」でしょうに。

【ただいま読書中】『クモの糸でバイオリン』大崎茂芳 著、 岩波書店(岩波科学ライブラリー254)、2016年、1200円(税別)

 約40年前、著者は「粘着」の研究をしていて「クモの糸の粘着性」に注目しました。しかし当時「クモ」は生物学(特に分類学)、「糸」は合成繊維の研究、が主流で、「クモの糸の研究」など誰もしていません。だから著者は自分で研究をすることにしました。
 代表的な蜘蛛の巣は、実に7種類の糸で構成されています。これだと何を研究しているのかわけがわからないので、著者は「牽引糸(蜘蛛がぶら下がるための糸)」に対象を絞ります。
 まずは、フィールドで蜘蛛の採集。次は「蜘蛛とコミュニケーション」。意外な言葉が登場しましたが、蜘蛛に糸を吐いてもらうためにはそれなりの努力が必要なのです。蜘蛛は、甘やかすと人を馬鹿にするし、脅すとヘソを曲げる。逃げることを覚えると逃げ続ける。蜘蛛との付き合いは大変です。
 苦労の末に得た「クモの糸」の特徴は「柔らかさ」と「強さ」が両立していることでした。破断応力も弾性率もナイロンの数倍というのはただ事ではありません。その構造の特徴は、「グリシンに富んだ柔らかい非晶域(結晶していない部分)」にまるで島々のように薄いシート状の「アラニンに富んだ硬い結晶域」が散りばめられていることです。
 クモの牽引糸はそのクモの体重の2倍が支えられるようになっています。電子顕微鏡で見ると糸は2本のフィラメントから成ります。つまり、一本のフィラメントが万一切れてももう一本でクモは安全、つまり安全係数は「2」というわけです。実に合理的な設計です。「想定外の事故」でうろたえる官僚や電力会社の人に教えてあげたい。
 『蜘蛛の糸』のように人がぶら下がることができるか、という実験も著者は行っています。テレビ番組の企画だったのですが、なんと成功していますし、それどころか、2トントラックを引っ張って動かすことにも成功しています。
 クモの糸の工業的な大量生産に関して、魅力的なプロジェクトがいくつも試みられましたが、現時点ではまだ成功はしていないようです。残念。
 そこで話は突然「バイオリン」へ。ウクレレは弾いたことがあるがバイオリンなんか触ったこともないのに、著者は「クモの糸でバイオリンの弦を作ってみよう」と思いついてしまったのです。思ったら行動する。まずは安いバイオリンを購入。音楽大学の図書館や楽器博物館で弦そのものについての情報収集。そして、とりあえず手元にあった短い糸をつないでバイオリンに張って、弾くと……音が出たのです。著者は有頂天になります。ただ、つないだこぶこぶがある弦は「バイオリンの弦」ではありません。次は100cmくらいの長い糸の製作、そのためには糸巻き車の自作、そしてクモのご機嫌取り。話がどんどん“前”に戻ります。同時に著者はバイオリンのレッスンに通います。「音が出る」ではなくて「演奏」を狙っています。なかなか上手くならないためか、レッスンにはなんと6年も通います。クモの糸(弦)は容赦なくぶちぶち切れますが、経験を積むと「どうしたら切れやすいか(逆に言えば、どうすれば切れにくいか)」もわかってきます。
 高い方から2番目の「A線」の製作法。100cmのクモの糸3000本をまず6箇月乾燥すると80cmに縮みます。その糸束を左巻きに捻ると73cmの紐に。その紐3本をまとめてこんどは右向きに捻ると55cmの太い紐(弦)になります。つまり9000本のクモの糸からなる弦です。一番高いE線は2000×3の6000本、D線は12000本、G線は15000本のクモの糸が必要でした。
 さあ「バイオリンの弦」はできました。音も出ました。すると著者が次の目標とするのは「良い音」です。主観的なことを言い出したらキリがありませんが、科学的には「倍音の量」が一つの指標となります。そこで行うべきは「周波数解析」。本書には、スチール弦/ガット弦/クモの糸の弦のそれぞれのフーリエ変換のグラフが掲載されていますが、その結果は意外なことに……
 著者は早速論文(もちろん英文)を書いて投稿しようとしますが、弦の素材や音色を科学的に扱った先行論文がほとんどないことを知ります。著者は「学問における新しい領域」をがんがん開拓しています。しかし世界はどんどん進歩していますね。「論文にオーディオ・ファイルの添付」を求められた、なんて聞くと、まだ頭の中身が「昭和」のままの私は、目をぱちくりさせてしまいます。
 YouTubeにかつてはこのバイオリンの演奏のファイルがあったそうですが、今は残念ながら見つけることができませんでした。どんな音色か、聞きたいなあ。



スパイと黄門

2017-04-23 07:00:14 | Weblog

 ジェームズ・ボンドがいつも女にもてるのは不思議だ、とも思いますが、あれは、水戸黄門がいつも事件をあっさり解決してしまうのと同じ、と思えば、その不思議さはなくなる、かな? そういえば「ジェームズ」はいろんな人がやってますが、「黄門様」もいろんな人がやってますね。

【ただいま読書中】『007のボスMと呼ばれた男』アンソニー・マスターズ 著、 井上一夫 訳、 サンケイ出版、1985年、1600円

 イアン・フレミングは海軍情報部に勤め、その経験を大きく膨らますことで「ジェームズ・ボンド」を生み出しました。そして、ボンドのボス「M」には実在のモデルがいました。MI5(敵の情報をつかみ破壊活動などをする部署であるMI6とは違って、敵の諜報員や内部の二重スパイを突き止める防諜部)のボスだった、マックス・ナイトがその人です。
 厳しい海軍の規律をたたき込まれ、第一次世界大戦では戰争の周囲をうろうろするだけで、アメリカのジャズに出会ったのが最大の収穫だったマックス・ナイトは、その人柄や多才ぶりを見込まれてMO5から改名したMI5にスカウトされます。そこは「人を使う」名人のマックス・ナイトにとって、「自分のための職場」でした。当時の組織の主目的は、ソ連のスパイを摘発するために英国共産党にスパイを送り込むことでした。これはそれだけで一冊の本になる題材ですが、“主人公(女性)”「週給50シリングのスパイ」の「大成功」と「その後のだらだらした悲劇」の対比には胸をつかれる思いがします。
 ナチスの台頭で、MI5は共産主義者だけではなくて極右も警戒の対象とします。同じ頃、マックス・ナイトの私生活は悲惨なことになっていました。結婚生活は破綻し、最初の妻は薬物中毒で死亡。次の妻は、責任が自分にあるのではなくて、ナイトの同性愛の性向にあることに気づいてしまいます(その性向は、寄宿学校で育てられた、と著者はほのめかしています)。
 マックス・ナイトは、多才で有能で陰謀が大好きで、人に好かれるタイプの人間でした。また、人の適性を見抜きスパイとして育てることが得意で、異常に勘が良いという長所を持っていました。つまり「スパイの親玉」として理想的。ところが脇が甘く、手紙で平気でMI5について言及する、という面も持っていました。この「脇の甘さ」からMI5は第二次世界大戦中にソ連のスパイの浸透を易々と許してしまうことになってしまいます。
 親ナチスの右派集団にもナイトは女性スパイを送り込み、ここでも「成功」が得られます。ナイトに育てられた女性スパイの多くは「ナイトのためなら何でもしよう」と思うようになってしまうようです。
 海軍情報部にいたイアン・フレミングも、MI5のマックス・ナイトに魅せられた一人でした。そのためか、後日「007」を書いたとき「M」の人物像を、マックス・ナイトと当時の自分の上司ジョン・ゴドフリー海軍少将をミックスして作ることになります。そういえば、マックス・ナイトも小説を書いて発表していますが(「小説家」という偽装が諜報活動に役立つ、とでも上司に説明していたのでしょうか?)、イアン・フレミングは「怠惰」と「奇行」という仮面の下に想像力と分析に長けた頭脳を隠していて、それを後にフル活用して小説を次々発表することになります。それはともかく、海軍情報部でイアン・フレミングは「ナチスの指導者の誰かをイギリスにおびき寄せる」という奇抜な計画を思いつき、その構想と実行にマックス・ナイトを巻き込んでしまいます。結局この計画は「ヘスの単独渡英と逮捕」という大成功を収めてしまいます。
 大失敗もあります。夢想家や虚言癖のある諜報員を起用したため、“冤罪”事件を次々引き起こしてしまったのです。ただし“冤罪”であることが明らかになったのはずいぶん後のことで、「機密保護」を隠れ蓑としてきちんとした裁判抜きで無実の人間を刑務所に入れることにマックス・ナイトは“成功”してしまいました。ただしこれは、刑務所に入れられた人だけではなくて、マックス・ナイトの信用も傷つけ、ひいては大英帝国も傷つけることになりました。信用を失ったナイトの進言をMI5長官は素直に受け入れなくなり、そのため防諜体制にひびが入って、ソ連のスパイがMI5そのものに浸透することも許してしまうことになってしまったのです。
 引退前には「妻より飼育している動物たちの方を愛する男」だったマックス・ナイトは、引退後には「ナチュラリスト」となりました。「人を愛すること」よりも別のことを愛し続けた人生、だったのかもしれません。もしかして「スパイ」って、そんな存在なんです?



2017-04-21 18:11:59 | Weblog

 「先生は生徒のなれの果て」という言葉があります。では「先輩は後輩のなれの果て」なんでしょうか?

【ただいま読書中】『ウラジオストク ──日本人居留民の歴史 1860〜1937年』ゾーヤ・モルグン 著、 藤本和貴夫 訳、 東京堂出版、2016年、3800円(税別)

 1858年5月16日愛琿(アイグン)条約によって南ウスリー地方はロシアに帰属し、1860年に軍事輸送船マンジュール(満州)号が(のちの)ウラジオストクに到着しました。まだ森林と小川しかない地でしたが、すぐにロシア人だけではなくて、日本人を含む外国人がどんどん集まり始めました。71年にロシアは軍務知事をウラジオストクに置くことを決定。75年に日本は、サハリンと千島の交換をロシアと合意、ついでにウラジオストクに領事館を置くことを提案しますが、ロシアはそこが軍港であることを理由に拒絶、特別代表職(貿易事務官)を置くことで合意します。
 シベリア鉄道が開通するまで、ウラジオストクはロシアの中心とは隔離されていました。しかしその将来性は確実視されていて、商機と成功を求める人が集まります。日本人も1902年には約三千人居住していましたが、職業別で数が突出しているのは「娼家従業者」でした。
 日本人が経営する最初の娼家は、なんと1975年にウラジオストクに出現しています。ロシア軍将校にはずいぶんの人気だった様子です。
 シベリア鉄道開通はロシアにとっては悲願でした。それによってヨーロッパと極東をつなぐメインルートを入手できますから。しかし極東でのロシアの隆盛は、日英米には好ましいことではありませんでした。ロシアが不凍港として旅順を望むようになったら、なおさら警戒を高めます。開戦の気配が濃厚となりますが、日本帝国政府は日本人に対して避難勧告はしませんでした。そんなことをしたら“手の内”をさらけ出すことになるからでしょう。ウラジオストクの日本人は「自己責任」で行動するしかなかったのです。それでもイギリス船アフリッジが有料で日本人の撤退を請け負うためにウラジオストク港にやってきます。それとほぼ同じ時期に、日本艦隊は旅順に奇襲をかけるために基地を出港していました。開戦後ウラジオストクは要塞都市だから日本人は全員市外に退去するべし、という命令が出ます。
 日本艦隊は、1904年2月8日に旅順を攻撃、3月6日にはウラジオストクを砲撃しますが、ウラジオストクにはほとんど被害は生じませんでした。そして戦争が終結し、ポーツマス条約が結ばれますが、それですぐに「平和」はやって来ません。「日露はまたすぐに戦う」と信じている人が多かったのです。だからウラジオストクの緊張は緩みません。それでも少しずつ日本人は戻ってきました。日本人街も形成され、その「門内」では、日本の伝統が守られていましたが、それと同時に、ロシアや中国の習慣や行事も取り入れる、という柔軟性を日本人は見せていました。
 2月革命、10月革命、事態は複雑になり、英仏米日は干渉戦争の準備をします。日本軍は「自国民の保護」を名目にウラジオストクに出兵をしました。しかし干渉の「名目(大義名分)」が立たず、さらに同盟国側の方針が一致せず、干渉戦争はなかなか進展しません。しかし18年白色チェコスロヴァキア軍団の反乱でウラジオストクのソヴィエト政権は崩壊、港に投錨していたイギリス軍と日本軍、ついで中国軍とアメリカ軍が続々上陸、反乱を支援します。しかし「シベリアは簡単に日本のものになるだろう」という予測は外れ、日本企業家はロシア市場との接点を失い、日本軍の撤退と共に多くの日本人も引き揚げをすることになってしまいます。
 日本の新聞は「日本軍駐留で血を流したのは日本人で、ロシア人はそれによって守られていた」と報じました。しかし著者は「ロシア人」と言うこと自体に問題を感じ取っています。「ロシアが多民族国家であることに無理解な証拠」と。
 ロシアはソ連となり、1925年に「日本国及ソヴィエト社会主義共和国連邦間ノ関係ヲ律スル基本的法則ニ関スル条約(日ソ基本条約)」が調印され、ウラジオストクに日本領事館が開設されました。朝鮮銀行も活動を始めますが、29年に世界恐慌。世界中で緊張が高まる中、31年の満州事変で日露間の緊張はさらに高まります。そして世界大戦。栄えようとする都市を繰り返し邪魔するのは「人為」だったようです。
 本書で興味深いのは、実際にウラジオストクに住んでいた「個人」が具体的に取り上げられることです。さらに著者は、彼らの子孫を訪ねて訪日し、実際にどのような生活をしていたのかの思い出話を聞いたり残されたものを見せてもらっています。本書には当時の写真が多数掲載されていますが、それは著者の労力の結晶です。



銅像

2017-04-19 06:56:43 | Weblog

 私が通った小学校の校庭の隅っこには二宮金次郎の銅像がありました。それを真似たわけではありませんが、私はランドセルを背負って道を歩きながら本を読んでいました。だけど私には「金次郎」というあだ名は付きませんでした。もしかしたら誰も二宮金次郎のことを詳しく知らなかったのかもしれません。
 そういえば、世の中には「自分の銅像」を立てて喜ぶ人がいるそうですが、二宮尊徳は「自分の銅像が日本のあちこちにあること」を喜ぶような人でしたっけ?

【ただいま読書中】『東京路上博物誌』藤森照信・荒俣宏 著、 春井裕 構成、鹿島出版会、1987年、2800円(税別)

 まずは丸の内で「猛獣狩り」です。街のあちこち(主にビルの上の方)に、猛獣や猛禽類が刻まれているのを、著者らは次々発見して大喜びをしています。
 動物園の檻は、かつては「円形」でした。貴族や王族はその中に入り、その周囲を猛獣たちがうろつくのを眺めて楽しんでいたそうです。しかし動物園が大衆化すると檻は四角になりさらに密集させられ、人は檻の一面からだけ動物の姿を眺めるようになりました。植物園は動物園とは違って「実用」のために始まりました。世界中の有用な植物を集めて育てることが目的です。したがって「非公開」が原則でした。そのため動物園と植物園では「隠喩」が異なるのだそうです。
 二宮金次郎の銅像は、かつてはほぼすべての小学校に置かれていました。今ではその数はずいぶん減りましたが、それでも相当な数が残っています。では「二宮金次郎はどんなすごい人か」を知っている人はどのくらいいるでしょう? 一同は東京を巡り巡ってたくさんの「金次郎」に出会います。するとそのバリエーションの豊かなこと。ずらりと写真が並んでいますが、とても「同一人物」とは思えません。普及や拡散は質の劣化を招く、という一般法則が「二宮金次郎の銅像」にも当てはまっているのかもしれません。
 東京は「富士に憑かれ」ている、と本書では主張されています。江戸に最初に引かれた大通りは日本橋の本町通りですが、これは江戸城と富士山を結んだ線の延長線上に置かれ、以後江戸の道路網の“基準線”となっています。富士見坂も江戸(東京)のあちこちにありますし、富士山のミニチュア(富士塚)も都内に数十存在しているそうです。
 「地下」「銭湯」「ミジメ店」など様々な切り口から「東京」が語られますが、なかなか一筋縄ではいかない街ですねえ。ただ、それは東京に限ったことではないでしょう。ある程度の歴史と規模がある街だったらどこでも重層的な構造と雑多な「もの」があるはず。NHKの「ぶらタモリ」よろしく、私も自分の近所を「路上観察」してみようかな。昔の川筋とか、へんなものに気づいてはいるので、その目で見たらいろんなものが見えてくるかもしれません。



巡る四季

2017-04-18 07:12:52 | Weblog

 「1日のうちに四季がある」と言われるのは、世界のどこでしたっけ? ともかく、天気が激しく変動する地方だったら、どこにでも当てはまりそうです。対して日本は「1年のうちに四季がある」はずだったのですが、最近は「夜明けころは肌寒くて暖房が欲しくなり、日中晴れると暑くて(特に自動車では)冷房が欲しくなる」状態の日が続いています。日本でも「1日のうちに四季」があるようになってしまったのでしょうか。
 地球温暖化が進めば、上昇気流が激しくなるから気候は荒っぽく変動するようになる、は論理的には理解できるのですが、感覚的にも地球温暖化が進んでいることがわかるようになったのでしょう。

【ただいま読書中】『火星の夕焼けはなぜ青い』佐藤文隆 著、 岩波書店、1999年、1700円(税別)

 「昼は明るく、夜は暗い」がまず取り上げられます。いや、あまりに当たり前に思っていて、一瞬びっくりしました。もちろん「可視光線」レベルでは「夜は暗い」のですが、赤外線レベルでは実は昼と夜の明るさにはそれほど差がないのだそうです。昼に大気は光のエネルギーを吸収して夜にそれを吐きだしていることがその原因。……ということは「夜行性の動物」は赤外線を見ることができるのだったら視覚にはそれほど不便はない、ということですね。
 宇宙から見たら「地球は青色」「火星は赤色」です。それは、それぞれに惑星の大気による散乱光が「その色」だからです(大気中の微粒子の大きさや量でその色が決まるそうです。地球では「レイリー散乱」が主に働くので散乱光は青くなるんですって)。ですから、地表から空を見上げても、可視光では「その色」が見えることになります。地球では、日没時には、散乱光が大気を通過する距離が伸びることで白色の太陽光から青色を大きく取り除くので赤い夕焼けになります。すると同じ理屈を用いると、火星の夕焼けは「靑」くなるはずです。(後日NASAの火星探査機の写真で、実際に火星の夕焼けが青いことを、著者は確認しています。理屈が合っていてよかった)
 火星の夕焼け以外にも、地球環境やビッグバンなど様々な話題が取り上げられていますが、「人に地球と宇宙について興味を持ってもらいたい」という熱意がぐいぐい伝わってくる本です。天文学の入門書としても使えそうで、天文学に詳しくない人でもけっこう楽しめるのではないか、と私には思えました。