【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

魂のカケラ/『顔をなくした少年』

2009-04-30 18:34:57 | Weblog
 仕事帰りに坂道を下っていくと、ちょうど眼下の市街地が夕陽にスポットライトのように赤々と照らされていて「太陽に向かって坂を下っていく」というフレーズが頭に浮かびました。私の中にも「詩人の魂」のカケラくらいはあるようです。まるでかちかちの干し柿のようになってしまっているのが、残念ですが。

【ただいま読書中】
顔をなくした少年』ルイス・サッカー 著、 松井光代 訳、 新風舎、2005年、1500円(税別)

 親友のスコットがつきあい始めたグループは、いわゆる不良あるいはいじめっ子グループで、彼らに自分も「クール」だと言われたいと思ったデーヴィッドは一緒に一人暮らしをしているおばあさんの持っている杖を盗みに行きます。しかし、グループが花壇を踏みにじりおばあさんをひっくり返してパンツを丸見えにしレモネードを顔にぶちまけ水差しと窓ガラスを割り杖を盗んだのに対して、おばあさんはデーヴィッドにだけ呪いをかけます。「おまえのドッペルゲンガーがおまえの魂を吸い上げてしまうだろう!」
 スポーツも学業もぱっとせず、といって悪いことにもためらいを見せるデーヴィッドは学校でいじめの標的になりますが、そんなことを気にしないラリーが新しい友人となります。イジメが大嫌いな女の子モーとも仲良くなります。ラリーはモーのことが好きで一緒に行動するようになりますが、それがまた「三バカ大将」としていじめの対象となります。さらに「呪い」が発動します。ボールを投げたら家の窓ガラスを割り、授業中ひっくり返ってしまい、ズボンのジッパーが下がっていてパンツが見え(これもまたいじめの対象となります)、実験でビーカーを割ってしまいます。さらに小麦粉をかぶってしまいます(これはflourとflowerのシャレかな?)。
 デーヴィッドは恋をします。相手はミス・ウィリアムズ。いや、トーリです。デーヴィッドはうじうじと悩みます。どう見ても相思相愛なのに、一挙一動一言にデーヴィッドはうじうじうじうじ(白昼夢のオンパレードが笑えます)……ああ、青春だなあ、と私は呟きます。懐かしい日々が思い出されます。デービッドはトーリをデートに誘うこともできません。断られるのもこわいし、もしOKされてもその最中に呪いのせいでひどいことになるのも怖いのです。デービッドは何もできません。そしてデービッドは、ラリーが言う「面目を失う」の意味がわかります。自分は「顔」を失ったのだ、と。やっと勇気を振り絞ってトーリに電話番号を聞こうとした瞬間、ヒモがほどけてズボンがずり落ちてしまいます。
 デーヴィッドは最後の勇気を振り絞り、おばあさんの家を再訪します。謝るために。おばあさんは言います。「杖を取り返しておいで」。
 デーヴィッドはトーリにもすべてを告白します。ここは深刻になるべき場所のはずですが……笑えちゃうんですよ。著者の“腕”は一級です。そして最終章で150年跳んでしまう前のセリフ……「あなたは親切で、考え深い、思いやりのある人だわ。私たちの生きているこの冷たい世の中では、たぶんそれが呪いなのかもしれない。あなたは詩人の魂を持っているのよ」……どんなに優秀でも詩人の魂を持たない人間もいれば、そういった人たちに「マヌケ」と呼ばれながらも詩人の魂を持つ(そしてそれを理解してくれる友人を持つ)人もいる……ただそれだけのことなんでしょうね。
 ちょっと思わせぶりなストーリー展開ですが、けっこうストレートな青春物で、爽やかな読後感です。



攻撃は最大の防御/『呪われたセイレム』

2009-04-29 17:28:35 | Weblog
 声高に他人の責任を熱心に追及する人は、自分が追及されたら困る、と心の底では思っています。

【ただいま読書中】
呪われたセイレム ──魔女呪術の社会的起源』ポール・ボイヤー/スティーヴン・ニッセンボーム 著、 山本雅 訳、 溪水社、2008年、3500円(税別)

 セイレムの魔女狩りと言えば有名ですが、本書はちょっと珍しいアプローチをしています。ほとんど研究者には無視されている、当時の村に残された大量の一次資料(遺言状、土地証書、訴訟供述書、牧師の説教ノートなど)を実際に読むことで当時の「普通の人の普通の生活」を再構築し、その上に「魔女狩り」を位置づけようというのです。
 1692年イギリスの植民地マサチューセッツのセイレム村で、少女たちが奇妙な行動をしました。それはあっという間に村全体の「魔女狩り」になり、19人が処刑、逮捕投獄された者は約150人となりました(告発されたのは数百人)。ストップをかけたのは、牧師たちの組織的介入でした。「証拠によって有罪判決を下せ」という主張です。ただし、魔女呪術や生き霊に関する「証拠」は、法律で扱うのは困難です。現代の私たちは「魔女を信じるなんて迷信」を出発点として判断をしがちですが、違う出発点に立ちそこで論理と法律と信仰と良心に従う人がどのように判断したかを軽々に扱うことはしない方が良さそうです。
 ことの始まりは、女の子たちの占い遊びでした。自分たちの将来を知るための占いです。ところがこれが「悪魔の道具を借りている」と指弾され、そこで彼女らは(魔術の)「被害者」となります。では「加害者(悪魔のしもべ)」はどこに? 女の子たちは村人を次々指します。同時期のノーサンプトンでは、同様の女の子の奇矯な行動や「発作」は、宗教的覚醒と解釈されコミュニティの信仰復権運動に発展しました。つまり要点の1は「大人の若者への態度」だったのです。では「セイレムの大人たちが置かれていた状況はどのようなものだったのか」を知る必要があります。そこに本書の意義があります。
 エルサレムとはエル(町)+サレム(平和)の意味で、セイレムはそのサレムを語源としています。1626年に商業の町として始まり、30年以降のピューリタン入植者によって町は栄えました。町への食料供給のために奥地が開拓されましたがセイレム村はその開拓地の一つでした。村は町によって行政的にも宗教的にも支配され、その“独立運動”は長期間にわたってしまいました。村と町は対立し(政治的に町が村を支配し、さらに町は貿易の中心として大発展し村との経済格差が広がっていました)、村の中でも勢力争いがあり(特に有力な家が二つ対立していました。また地域的な対立もあります)、村と別の周辺地域との間でも境界争いがありました。そこに教会も巻き込まれています。牧師は反対派の手によって次々交代させられていました。悪意を持って他人の足を引っ張る人々、それは反対派からの目には文字通り「悪魔の手先」に見えていたことでしょう。ピューリタンの牧師パリスは、はじめは悪を行う人を「悪魔と契約をした」と見なしましたが、魔女裁判の経過中に「すでに堕落しているためにその行動を説明するために悪魔は不必要」と考えを変えています。特に本書で印象的なのは「告発された人」「告発した人」「弁護する人」を村の地図にプロットしたら、一定の「ゾーン」が見えるようになることです。つまりヒステリックに手当たり次第に“隣人”を告発していたわけではない、ということが可視化される(見える)のです。“魔女騒ぎ”は実は村内での勢力争いの上に成立していたのでした。
 また、本書では明確に書かれていませんが、イギリスが植民地から少しずつ手を引こうとしていたこともこの事件に何らかの影響を与えているはずです。単に「遅れた人々の集団ヒステリー」とは見ない方が良さそうです。



出す・隠す/『侍女の物語』

2009-04-28 18:49:58 | Weblog
 ミニスカートで女性が膝より上を露わにして歩くようになったのは40年ちょっと前。直後にホットパンツというのも流行って、足はこれ以上はむき出しにできないぞ、と思いましたが、水着ではハイレグとかひも状のとかでそれこそこれ以上出すにはあとは脱ぐしかない、というところまで行ったようです。
 腰より上は、Tシャツ・ノースリーブ・名前は知りませんが肩むき出しのスタイル。それからお腹や背中も平気で出すようになりましたね。下着が見えても平気、という人も増えたようです。あとは街中で出すと言ったら、背中でしょうか。イブニングドレスでの先例がありますから、大きく背中をえぐって見せて歩く、というのが次の流行かもしれません。
 出すのではなくて上を覆って隠すのは、たとえばつけ爪。はじめはネールアートとか言っていたと思いますが、一々塗るのは面倒だし維持が大変だからワンタッチでつける方が人気になったのでしょうか。私は、爪の長さが、いつもより長くても短くてもキーボードのタッチが変わってしまって不快なので一定の範囲内でなるべく同じような長さと形になるように調整しますが、つけ爪の人はパソコンはばりばり使わないのかしら。
 そうそう、つけ爪があるのならつけ顔はどうでしょう。はじめから化粧が描いてあるマスクです。これだと朝のお化粧の時間が節約できます。男はひげ剃りがさぼれるかな。

【ただいま読書中】
侍女の物語』マーガレット・アトウッド 著、 斎藤英治 訳、 新潮社、1990年、1748円(税別)

 白人の出生率が壊滅的なまでに減少した近未来のアメリカ、出産能力を持った女性は「国家の財産」として扱われていました。本書の語り手は「司令官」の侍女としてその自宅に派遣されます。男性は身分に応じて女性を支給されるのです。たとえ妻がいても。
 もっとも、最初からそのような「背景」は本書では最初から明示はされません。「わたし」が淡々と物語る「日常生活」(あるいは世界がこのようになる前の思い出、あるいは世界がこうなって欲しいという夢想、失った夫や娘への痛切な思い)を通して、読者の内部に少しずつそのディストピアが構築されていきます。
 この世界では戦争(おそらく宗教戦争)があり、戒厳令が敷かれている様子です。街中には検問所があり、ちょっとでも怪しいそぶりの人間は容赦なく射殺されます。娯楽はなし。雑誌もなし。男性のスポーツはOK。教会での集会は奨励というか義務。女性は「保護」の対象ですが、全身をすっぽり覆い顔も「天使の羽」と呼ばれる白いベールで覆います。「反逆者」は死体となって壁の鉤に吊されてさらされます。しかし「わたし」を脅かすのは、むしろ救済の可能性の方です。
 侍女たちの間には不完全ながら噂のネットワークがあり、テレビからは不完全なニュースが流されます。そして司令官が「わたし」に望むのは、一緒にスクラブルをすることと優しいキス。(ちなみにどちらも禁じられています。そもそも二人だけで過ごすことも禁止されているのです。子作りの時には妻が同席します)

 女性はいくつもの職業(階級?)に分断されています。外出を許されていない女中・夫が侍女と小作りをするのを容認しなければならない妻・便利妻・コロニーに送られる(あるいは抹殺される)不完全女性(出産の可能性がない女性)……そして、侍女。
 怖いのは、そういったディストピアが条件さえそろえば今の社会の延長上に実在し得るということだけではなくて、それが2世代も過ぎれば固定化される(“それ”しか知らない人によってその社会が継続される)可能性があることです。本書でもそのことへの言及があります。だからこそ「わたし」は奪われた自分の娘の運命を気にかけるのです。そして私は、自分たちの将来を気にかけます。
 さらに「物語り」の問題があります。この物語は一体誰に向かって語られているのか。どこで、誰が? それは本書の最後に明かされます。ただし、この終章が真実である証はありません。



落ちる/『アブダラと空飛ぶ絨毯』

2009-04-27 18:46:27 | Weblog
 高いところから落ちるにしても、恋に落ちるにしても、まずは一度高いところに上がって位置エネルギーを蓄えておく必要があります。最初から地べたにへばりついたままだったら、穴を見つけない限りどこに落ちることもできません。

【ただいま読書中】
アブダラと空飛ぶ絨毯 空中の城2』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 西村醇子 訳、 徳間書店、1997年、1600円(税別)

 ハウルが住んでいるインガリー国の南方ラシュプート国で堅実な絨毯商を営んでいるアブダラは、ひょんなことで空飛ぶ絨毯を手に入れます。絨毯につれられて出会った夜咲花という姫とアブダラは恋に落ちます。二人は駆け落ちをしようとしますが、それを邪魔したのはジン(魔神)でした。アブダラは姫の誘拐犯として逮捕され、脱走したら砂漠の盗賊たちに捕まり、とっても壜づめのジンニー(精霊)に出会います。ジンニーは一日に一つの願いを叶えてくれますが、とっても不機嫌で人に災厄がもたらされることを願っています。夜咲花の手がかりを求めてインガリー国に入ります。仲間となったのは、仕事を失った元兵士(当面の仕事は、強盗から強盗すること)。魔法が使えるらしい猫。そして絨毯は甘ったるいお追従がないと飛んでくれません。
 『空中の城1』はおとぎ話の枠組みを借りていましたが、今作はアラビアンナイトです。でも、DWJのことですから、ただの翻案やパロディではありません。ジンが王女を誘拐するのには、深い深~いわけがありますし、アブダラの行動はきわめて論理的です。ただし、使うのは夢の中の世界での論理ですが。
 そして、意外なところから意外な形でソフィーが登場。圧倒的な魔力を持つジンは、なんとハウルの動く城を乗っ取って宙に浮かべ、そこに世界中から攫ってきたお姫様を集めているというのです。アブダラはソフィーとともに空中の城に向かいます。
 いや、大団円はもう爆笑。ドンデンに次ぐドンデン。ハウルは意外なところにいるし火の悪魔もちゃんといました。飛ぶ絨毯がなぜお世辞が好きかのわけも明かされます。ジンは自分の望みを叶えられます。そして最後にまた意外な人物が意外な形で登場します。もう許してくれ、です。DWJは伏線を全部回収してくれます。その前にどのくらい読みとくことができるかが“勝負”の分かれ目ですが……私は相当負け越しました。でも良いんです。面白かったから。


ケーキバイキングもどき/『魔法使いハウルと火の悪魔』

2009-04-26 18:22:41 | Weblog
 二人だけののんびりした休日、「お昼ご飯、どうする?」と聞かれてふと思いついて「ケーキバイキングもどきにしよう」。わが家の近く(車で15分以内)に非常に美味しいケーキの店が3軒あるのですが、いつ行っても『すてきなフルーツパーラー(ぴことぽこのえほん)』よろしく「ぼくぜーんぶ食べたい」になってしまうのに買うのを厳選しなければならず欲求不満が貯まっていたのです。
 夫婦でるんるんと出かけて、大小取り混ぜ全部で8つ、3000円でちょっとだけお釣りがあるくらい買い込んで帰りました。箱を開けたら見ただけでお腹いっぱいになりそうな光景です。美味しい紅茶を淹れて次々食べました。お腹も一杯ですが、たまに変わったことをすると、それだけでも精神的にも満足できるものです。

【ただいま読書中】
魔法使いハウルと火の悪魔 空中の城1』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 西村醇子 訳、 徳間書店、1997年、1600円(税別)

 原題は“Howl's Moving Castle”ですから、映画のタイトルは原題通りです。
 正統派のおとぎ話の語り口で本書は始まります。帽子屋の長女ソフィーは親を失い、見習いとして働きますが、生活に張りがありません。ただ帽子を作り、帽子に向かって話すしかけるだけの毎日です。ゴシップもロマンスも、美味しいところは全部他人のものです。「何もかも長女に生まれたせいよ」とソフィーは思います。ところがある日、ソフィーは突然店にやってきた荒れ地の魔女によって18歳から一足飛びに90歳の老女に姿を変えられてしまいます。
 ソフィーは町の周辺をうろつく、評判がきわめて悪い魔法使いハウルの動く城に住み込みます。自分の呪いを解いてもらえるかもしれない、と思って。城を動かしているのは火の悪魔カルシファー。カルシファーは、自分を城に縛りつけているハウルとの契約を破ってくれたら、自分もソフィーの魔法を解いてやろう、と申し出ます。ただし、ハウルと火の悪魔の契約内容は秘密です。ソフィー(と読者)は、様々な“ヒント”からその契約内容を知る必要があります。
 そして、かかしです。もちろん出典は「オズ」でしょうが、私はウェストールの「かかし」を思い出してぞっとしました。かかしは動く城につきまといます。
 ハウルは多情な男でした。まるで何かに憑かれたかのように次から次へと若い女性を口説き、その心がこちらに向いたと見るや次の女性に向かうのです。ハウルの弟子のマイケルはそういった師匠の姿を諦念とともに受け入れています。ソフィーは拒否します。そんな態度は我慢なりません。そこで90歳のおばあさんらしくがみがみがみ。そこにソフィーの妹たちやハウルの別世界(ウェールズ)の家族のストーリーがからみ、荒れ地の魔女を退治しようとする王の計画からハウルが逃げようとするどたばたがあり、荒れ地の魔女はハウルに呪いをかけ、犬に変えられた人間が城に住み着き、そしてソフィーは自分も魔法が使えることを知ります。
 さて、ハウル対魔女、ハウル対ソフィー、魔女対ソフィー、さらにハウルと魔女それぞれの火の悪魔がからんだこの複雑な物語は一体どこに向かっていくのでしょうか。
 ……もちろん、ハッピーエンドです。おとぎ話は「そして二人は幸せに暮らしました」で終わるのですから。中身は見事にDWJになっていますが、その形はきちんと保存されています。そのミスマッチがまた素敵です。



関銭/『興福寺』

2009-04-25 20:33:40 | Weblog
 新宿駅で次から次へと出てくる人の流れを見ていたら、改札口で関銭を取ったら大もうけだな、とせこいことを考えてしまいました。

【ただいま読書中】
興福寺』(日本の古寺美術5) 町田甲一 企画、小西正文 著、 保育社、1987年、1600円

 先日上野で阿修羅展を見て興福寺にちょっと興味を持ちました。翌日のミニオフでお会いしたマイミクさんに「興福寺は明治時代にほとんど身売り寸前だった」と教えていただいたのも、この本を借りてくる原動力になっています。

 藤原鎌足が重病となった時夫人の鏡女王(かがみのおおきみ)が山階寺(やましなでら)を造営しました。その子不比等の時近江から飛鳥へ遷都され、寺も遷って厩坂(うまやさか)寺とされたそうですが、詳細は不明です。不比等の晩年に平城京遷都が行われ、寺も移され興福寺となります。私寺とはいえ、藤原氏ですから官寺とほぼ同等の扱いだったようです。
 春日神社は藤原氏の氏神です(創始は768年)。平安時代に神祇信仰は盛んになり、末法が説かれるようになると神仏習合から本地垂迹説が起き、寺院による神社支配が始まります。850年には氏の長者による春日祭が始まり社頭で読経が行われました。(後の強訴での、興福寺大衆による春日神木動座でもその“一体化”がわかります) 火災もたびたび起きました(元慶二年(878)からの218年間で7回焼けています)が藤原氏のバックアップでそのたびに再興しています。治承四年(1180)には平氏の南都焼き討ちで、東大寺とともに興福寺も焼失しています。武家によって所領は削減され、興福寺は力を失います。享保二年にも出火しましたが、再興は大きな負担でした。
 慶応四年には神仏分離令、明治三年には太政官布告で境内地意外はすべて上知となります(所領がなくなる)。廃仏毀釈の嵐が寺を襲い、瓦一枚一文で売られ五重塔は二百五十円で買い手がつきました。しかし明治十三年には「興福寺復称宗名再興願」が寺や藤氏から県令に出され、翌年復号許可が出ました。
 本書の後半は、お寺の建築・彫刻・絵画・工芸など、それぞれ写真つきで資料集となっています。読んでいて、奈良に(あるいは今だったら上野に)また行きたくなってきました。



もてる/『時計じかけのオレンジ』

2009-04-24 17:52:32 | Weblog
 もてるようになるための方法には二つあります。一つは、自分を高めて多くの人からあこがれの対象となること。もう一つは、自分を安売りすること。

【ただいま読書中】
時計じかけのオレンジ』アントニー・バージェス 著、 乾信一郎 訳、 ハヤカワ文庫、2008年、740円(税別)

>>モロコ(ミルク)に何か新しいベスチ(もの)を入れちゃいけないって法律はまだないからモロコにベロセットとかシンセメスクとかドレンクロムなんてベスチを入れて飲んじゃう。そうすると、すごくハラショーな十五分間が楽しめるんだ。“神さまと天使と聖者たち”がおがめてさ、その一方じゃ、モズグ(あたま)ん中でもっていろんな色がバンバン爆発するのが見られるってもんだ。

 アレックスは15歳、仲間たちとはスラブ系のスラングまじりのナッドサット(ティーンエイジ)ことばでしゃべり、毎日(というか毎夜)楽しくやっているのは「超暴力」。ストリートや押し入った家で、暴行傷害・強姦・強盗・家の破壊などやりたい放題です。お気に入りの武器は蹴飛ばしブーツとのど切りブリトバ(かみそり)。ある夜も押し入った家で、作家が書いている原稿の表題「時計じかけのオレンジ」を鼻で笑い、作家をぼこぼこにしその妻を作家の目の前で輪姦し原稿をびりびりに破り捨てて意気揚々と帰宅します。彼が愛するのはクラシック音楽。超暴力をふるっているときやふるっていないときも、彼の回りや脳内には様々なクラシックがBGMとして鳴り響き続けています。
 しかし逮捕によって彼の運命は変わります。15年の刑。アレックスは刑務所内でも人を殺します。このままではまずい、とさすがの彼も思い、ルドビコ療法に志願します。これは暴力に対して肉体が拒絶反応を示すように条件反射付けをするものです。「パブロフの犬」です。療法はうまくいき、アレックスは世の中に放り出されます。暴力のことを考えただけで吐き気がする状態で、彼がめちゃくちゃにしたことに対して恨みを持っている人たちで充満している世の中へ。で、反政府運動家たちによってアレックスは利用され、どさくさ紛れに“治って”しまう、ところで映画版はおしまい。ただし本書にはもう1章あります。「暴力」のシャワーを浴びる感覚と、人の自由意志についての考察と、なかなか微妙なところをついてくれる本です。

 アルジャーノンや孫悟空の輪のことを私は思い出しました。人の自由意志をねじ曲げることは、人が行なって良いのか悪いのか、行えるとしても技術的にできるのかどうか、できるとして誰がそれをコントロールするのか……考え始めるときりがありません。

 なお本書は、サイズがちょっと特殊です。普通の文庫本より数mm高さがあります。どうしてこうなったのかはわかりませんが。



選挙演説の練習/『冒険者カストロ』

2009-04-23 19:07:10 | Weblog
 「私は、国会の採決には賛成していましたが、実は党の方針には反対でした」

【ただいま読書中】
冒険者カストロ』佐々木謙 著、 集英社、2002年、1600円(税別)

 革命家と権力者、全く異なる二つの人生を生きた人の前半生を描いた伝記です。
 19世紀からキューバはスペインからの独立戦争を闘っていました。そこにアメリカが介入し、キューバは名目上の独立はできますが、結局アメリカの半植民地となります。1903年アメリカは海軍基地(グァンタナモ基地)の永久租借を認めさせます。ハワイと同様のコース(アメリカ植民者の増加→合衆国に合併)を思い描いていて、その意図を隠そうともしていませんでした。
 そんな時代、フィデル・カストロは、大農場所有者(ただし農場労働者出身で、ブルジョワジー階級とは言えない人)の5番目の子どもとして1926年に誕生しました。頭の良い子でしたが、学校の理不尽な規律などのしめつけには反抗的だったようです。
 1930年代からキューバでは政治運動が盛んになりますが、アメリカの介入で軍のバティスタがキングメーカーとして傀儡大統領を次々取り替える状況となりました。40年から4年間バティスタは自身も大統領となりそれ以後も院政を敷きました。その頃フィデルは大学に入ります。反体制運動で頭角を現したフィデルは、それを目障りと感じた政権から暗殺の脅迫を受けます。大学の活動をやめれば政治的な死、続ければ肉体の死。フィデルは暗殺を避ける名人となります。テロから逃れたコロンビアでは革命騒ぎに巻き込まれ(どころか、そこでの活躍で名を上げ)、フィデルはマルクス主義を学び始めます。政治的に名を上げると暗殺指令が出され、一時アメリカに亡命、帰国後フィデルは弁護士を開業します。真っ当な政治コースに乗ることでキューバの改革を目指したフィデルですが、バティスタによるクーデターがあり、フィデルは革命を志向し地下組織を作り始めます。まずは兵営を襲撃して武器調達です。期日はカーニバルの真っ最中。「祝祭として始まった革命」の第一歩でした。しかし襲撃は悲惨な失敗。フィデルは刑務所に収監されますが、バティスタ政権は恩赦を求める世論に押されます。出獄したフィデルはメキシコに亡命(1955年)。そこでアルゼンチン青年医師ゲバラと出会います。資金調達と軍事訓練の末、定員10名のヨットに82名がぎゅう詰めとなってキューバ上陸を敢行(チェ・ゲバラは「これは上陸と言うより、難破だな」と言っています)。上陸直後の政府軍の攻撃で一行は十数名にまで減りますが、そこから巻き返しが始まります。各地で蜂起や政治闘争も盛んになります。フィデルは山地にこもって「自由領」を少しずつ拡大させ、そこで農地改革を行うことで農民の支持を取り付けていきます。そしてついに革命軍はハバナを落としますフィデルは32歳でした。革命直後は穏健派として猫を被っていたフィデルですが、やがて社会主義的な政策を次々打ち出し、アメリカと対決することになります。はじめは亡命キューバ人部隊による「ピッグス湾事件(コチノス湾事件)」、次は「マングース作戦」(アメリカ軍の侵攻)。それに対抗するためにソ連のミサイルが……「キューバ危機」は「キューバを巡る米ソの対立によって世界が危機に」と捉えられがちですが、実は「キューバの危機」でもあったのです。 

 面白いのは、フィデルは失敗ばかりしていることです。順風満帆の革命達成ではありません。ところが彼は、その失敗から大きな糧を常に得ています。そこが、常人と「何か大きな事を達成する人」との違いなのかな。



日銀短観/『心とは何か』

2009-04-22 18:43:41 | Weblog
 前から気になっていたのですが、あれは「日銀の見解(あるいは予想)」ではなくて、日銀がアンケートした企業の「景気に対する気持ち」なんですよね。とすると、短観を良くするためには、景気そのものを良くするよりも社長を全員楽観的な性格の人にすることが早道ということに。

【ただいま読書中】
心とは何か』アリストテレス 著、 桑子敏雄 訳、 講談社学術文庫、1999年、800円(税別)

 プシューケー(プシケー)についての論考です。本書では「心」と訳されていますが、魂とか精神でも間違いではないはず。
 先人の業績についてまとめたところは読み応えがあります。ただしここはあくまで「アリストテレスの解釈」です。読んでいて「あれ?」と思うところもあります。たとえば、プラトンの「魂の三部分説」を軽視している点など、お師匠の思想なのにそれでいいのか、と思います。私はエンペドクレスの「心はすべての元素からなる(だからこそ、すべての元素を認識できる)」説に惹かれます。心は単独で存在しているのではなくて、コミュニケーションをすることで存在できる、ということになりますから。ただアリストテレスは「心の内に骨や人間がなければ、骨や人間を認知できない、ということになる(それは不可能である)」と切って捨てます。それはエンペドクレスの即物的な解釈だなあ、と私は呟きます。

 しかし、だらだらと読みにくい文章だと思っていたら、注に「文章に冠詞をつけただけで、その内容を名詞化できるのがギリシア語の特性」とあって、私は膝を打ちました。なるほど。これだとある概念の説明そのものがその概念の名称になるわけで、新しい概念を“発明”するためには便利な言葉です。古代ギリシアで哲学が発達したのには、言葉の要素も大きかったのでしょう。

 「心とは、存在するすべてのもの」と定義づけ、アリストテレスはまず感覚、次に思惟について述べます。なぜなら存在するものとは感覚されるものと思惟されるものから成り立っているからです。感覚で特にアリストテレスが重要視するのは「触覚」です。
 ここで私は「なるほど」です。アリストテレスの「四性説」(世界は、乾・湿/熱・冷、の4つの元素の組み合わせで構成される)はきわめて触覚的です。つまりアリストテレスは世界を触覚を通して認識していたのです。そのことに本人は自覚的なようですが、ただそこで「なぜ自分が触覚を選択したか」を深く掘り下げることよりも「なぜ触覚が他の感覚に対して優位か」を述べることに夢中になってしまいます。ともかく、アリストテレスが「人は感覚(触覚)を通して世界を認識する」「認識の“装置”が心」と考えている基本は分かりました。当然のように「唯識(の触覚バージョン)」を私は連想しますが、著者が「味覚も触覚の一部」と述べているのを見て、もうちょっと不真面目に『地球はプレイン・ヨーグルト』(梶尾 真治)や『僕がなめたいのは、君っ!』(桜 こう)なども思い出してしまいました。アリストテレスを読みながらにやにやしている私って、やっぱり、変?



フィルター/『マライアおばさん』

2009-04-21 18:42:35 | Weblog
 たばこのフィルターって、結局何のためにあるのでしょう? 口に葉っぱが入らないためだったらもっと短い(それこそ紙1枚分の厚みの)もので必要十分でしょう。煙の成文を吸着させさらに周囲から空気を取り込むことで煙を薄めてマイルドにする機能もあるそうですが、それは、せっかくの美味い酒を水でじゃぶじゃぶ薄めてさらにフィルターを通してから飲む行為と類似のような気がします。愛煙家にとって、フィルターはどんな意味を持っているんでしょうねえ。

【ただいま読書中】
マライアおばさん』ダイアナ・ウィン・ジョーンズ 著、 田中薫子 訳、 佐竹美保 絵、徳間書店、2003年、1700円(税別)

 ホラータッチで本書は始まります。
 父親が車ごと海に転落して行方不明となってしまった一家(母親のベティ、兄クリス、そして本書の語り手ミグ)は、父親の義理のおばマライアさんの家で休暇を過ごすことにします。ところがマライアおばさんは、善良で体が不自由な女性なのですが、ことばでは命令をせずに命令をする名人でした。本当は自分でできることも人(ほとんどはベティ)にやらせます。それもまるで恩恵を与えてやっているような態度で。さらに人に良心の呵責を感じさせる名人でもあります。ミグやクリスはそのことに苛つきますが、母親は礼儀正しさのあまり言い返すこともせずに言いなりになっています。町は寂れていました。子どもの姿は無く、住民は姿をほとんど見せず窓から外を見張ってる様子です。ただ、マライアおばさんの子分格の女性が毎日おばさんの家で集会を開きます。全員で13人。ちなみにマライアおばさんの家は13番地。毎晩クリスの部屋には幽霊が出ます。妙に人間っぽい猫がうろつきます。
 やがてクリスは狼に姿を変えられ、ベティはクリスのことを忘れていきます。ミグはあせります。このままでは大変だ、と。さらに狼狩りが行われ……
 本書は(基本的には)ミグが鍵つきの日記帳に書いた日記の体裁で進められますが、ミグは毎日きちんと書くわけではないため、「実際の事件の進行」と「日記に書かれた事件の進行」とが必ずしもパラレルではなく、それが事態を混乱させます。さらに別のことが起きて事件の時系列がさらに混乱します。(ヒントを一つ。マライアおばさんはミグのことをネオミと呼びます。これ、重要な伏線です)
 しかし、こんな「マライアおばさん」は世の中のあちこちに棲息しています(著者は実在の人物をモデルにしたそうですが、私も何人かすぐ思いつきます)。善意の塊で、傷つきやすく、押しつけがましく、人の言うことを聞こうとせず、人や物を自分との関係性の中でだけとらえ、他人を操作する達人。いやもう、このマライアおばさんの“手口”を見ていると、感心します。そういえば何か他人に無理を通すのに、最初にもっと無理を持ち出して「ノー」と言わせてからそこに“値引き”した要求(本来の要求)を持ち出したら、「ノー」と言ったことが心の負い目になっているために「前のよりも相手も妥協したのだから」と合理化して「イエス」と言ってしまう、という心理操作テクニックがありましたっけ。マライアおばさんはさらにその上を行っていますけれど。