【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

ミラーニューロン

2010-09-29 18:54:59 | Weblog
ミラーニューロンについて初めて知ったときには驚きましたが、すぐに納得してしまいました。それで説明がつくことが多いように思えたからです。たとえば鳥は、他の鳥が羽ばたきながら飛ぶのを見て、自分が飛ぶ前に「飛ぶこと」を学び、ミラーニューロンが運動神経に情報を渡して準備をしているはずです。それをせずに一か八かで巣から飛び出していたら、ひな鳥の多くは飛ぶ前に落ちていることでしょう。細かい調整などは飛びながら覚えるにしても、「自分は飛べるんだ」を目で見ることで「学ぶ」ことは大事なことでしょう。

【ただいま読書中】『ミラーニューロンの発見 ──「物まね細胞」が明かす驚きの脳科学』マルコ・イアコボーニ 著、 塩原通緒 訳、 ハヤカワ新書juice、2009年、1300円(税別)

二十年くらい前、イタリアのパルマ大学で、マカク属ブタオザルの脳を研究する4人のチーム(リーダーはジャコモ・リゾラッティ)は不思議な現象に気づきました。サルの目の前で人間が何かをつかむ動作をすると、サルはそれを見ているだけなのにサルの脳のF5野(運動野のものをつかむ領域)でニューロンの発火が起きたのです。これは、それまでの脳神経科学のパラダイム(大脳の知覚領域は知覚を担当、運動領域は運動を担当、認知はその“中間”に位置する)に変更を迫る重大な発見でした。チームは研究を続け、1996年に「ミラーニューロン」を発表します。
人が実際に何か(たとえばオレンジ)をつかむと「つかむ」ミラーニューロンは発火します。しかしパントマイムだと発火しません。ではオレンジをサルから見えない仕切りの向こうにおいてつかむ動作をすると……ミラーニューロンの発火は半々でした。では空っぽの机を見せてそこに仕切りを設置してその向こうでつかむ動作をしたら……サルのミラーニューロンは全然発火しませんでした。
著者はUCLAでの自分たちの研究から、人間は自分の脳内で他人をシミュレートすることによって、他人の心理状態を理解していて、その手段としてミラーニューロンが介在している、という仮説を立てます。
さらに、視覚刺激だけではなくて聴覚刺激にもミラーニューロンが反応することから、「言語」にミラーニューロンが関与している可能性が浮上します(もともとサルのF5野が人間の言語野に相当する場所に位置することから、解剖学的にもその可能性は言われていました)。
ミラーニューロンに関しては、まだいろいろな説があります。最も単純なのは「行動認識だけ」。「だけ」と書きましたが、これはこれですごいことです。他人の「意図」を理解するのにミラーニューロンを使っている、は著者の主張です。社会や文化にまで拡張する説もあります。ミームはミラーニューロンによる、と。
コミュニケーションでの「ことばと身ぶり」の関係でも、発達期の子どもでの「ことばと身ぶりの食い違い」に関して面白い記述があります。ことばで間違えていても身ぶりは“正解”を出していることが多い、と。身ぶりが先行してことばがそれに追いつく成長過程があるのだそうです。
また、ミラーニューロン領域(運動性言語中枢)を磁気で一時的に麻痺させると人間はことばの理解能力が低下しました。つまり他人の発声をそっくり自分の脳内にミラーリングすることが言語理解に必須なのです。ここから著者は「共感」へ突入していきます。著者の主張は論理的ですがちょい過激です。たとえば対面しての会話場面、ミラーニューロンは他人の表情を模倣し、同時に大脳辺縁系の感情中枢に「島」を経由して信号を送ります。感情中枢は送られてきた「表情」に見合った感情を自分に感じさせます。自分の内面でその感情を感じた後私たちは「それ」が存在することを認識します。(鉛筆を口にくわえることで自分の表情を動かしにくくなったグループの人は、自由に表情筋を動かせるグループよりも相手の表情が見分けにくくなった、という実験結果からの仮説で、著者はその経路の活性化をfMRIで確認しました) ということは「無表情な人は、共感が足りないから無表情」なのではなくて「無表情だから共感が足りなくなる」ということ?
話はさらに複雑になります。ミラーニューロンは「他人」にばかり注目しているように見えます。すると脳内では「他人」と「私」が入り交じってしまうのではないでしょうか。では「私が私であること」は脳ではどうやって保証されているのでしょう? あ、乳幼児の全能感は、まだ「私」が未発達だから? 科学の本を読んでいるはずなのに「人間の脳の本質は間主観的であること」とさらっと書かれると、私はしびれてしまいます。
話はそこからさらに不確定な領域へ。自閉症の発症にミラーニューロンが関与(あるいは不関与)しているのではないか、という仮説の検討です。自閉症児の行動観察から模倣障害が認められます。ではミラーニューロンの機能不全の証拠は? 様々な研究で証拠が集められました。そこで著者は次の質問に行きます。機能不全の原因は? そして対策は? ここで提案されているのは「模倣」です。幼い自閉症児が他の子どもたちから孤立している場面で、セラピストがその子の模倣を始め感情豊かに相互作用をすると“即座”にその子はセラピストに対して反応が大きくなるのです。ミラーニューロンの訓練というかリハビリテーションでしょうか。著者は、これはまだ仮説に過ぎない、と言います。ただ、有望な仮説のように私には思えます。
しかし、人の動きやなじみのある音でミラーニューロンが活性化されるのだったら、読書はどうなんでしょう。文字はただの「もの(それも静止したもの)」ですからおそらくミラーニューロンは静かなんじゃないかな。だったら音読したら、その内容は黙読よりももっと深く私の脳に刻みつけられるのでしょうか。
300ページ以上もあるし、脳科学の用語がけっこう“生”で出てくるし、この方面になじみがない人には読みづらい本かもしれません。しかし、苦労する価値がある本だと私には思えます。まるでオマケのように、脳の報酬系の話で「男性の自動車マニアは、スポーツカーをうっとりと見るときと美しい女性を見つめるときと、脳の同じ部位が活性化する」なんてお話も載っています。「車は女性の隠喩」とよく言われますが、脳科学的にもそれは正しかったんですね。「広告の効果」についても面白い記述があります。様々な広告を見せながら脳の撮像をしていると、脳がきわめて活性化する広告と被験者が口で「とても興味が引かれた」と言う広告に解離が見られるのです。どちらの広告が“効果的”なのでしょうか? さらに中傷広告(ネガティブ・キャンペーン)の効果まで。ともかく面白いことは保証します。



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噛まれた猫

2010-09-28 18:39:17 | Weblog
窮鼠猫を噛むと言いますが、噛まれた猫はきっと復讐を誓うことでしょう。傷の痛みだけではなくて、鼠の“身の程知らず”の行動が頭に来るでしょうから。
だけど、誰が「鼠」を「窮鼠」にしたのかは、きっと忘れているのでしょうね。

【ただいま読書中】『文政十一年のスパイ合戦 ──検証・謎のシーボルト事件』秦新二 著、 文藝春秋、1992年

著者はオランダのライデン国立民族学博物館などで、雑然と収納されたままになっていたシーボルトコレクションの整理を行ないました。そこで、シーボルトの『江戸参府紀行』には触れられていない、二枚目の日本地図・間宮林蔵から贈られた樺太地図・葛飾北斎の「武器・武具の図」・江戸城の見取り図などが見つかります。「シーボルト事件」にはこれまで言われてきたこと以外の何かがあるのではないか、と著者は考えます。新たに見つかった資料を詳しく検討し、またシーボルト研究に関してこれまで“バイブル”視されていた呉秀三の研究も洗い直すことにより、シーボルト事件の“裏側”を明らかにしよう、という目論見を著者は持っています。
シーボルトは1796年ドイツのヴュルツブルクに生まれました。医師を志し、ヴュルツブルク大学では博物学的な知識と広範な視野を身につけます。ヴュルツブルクは1803年にバイエルン王国の一部となり、1806年には分離してヴュルツブルク大公国となります。普仏戦争の結果フランス領となり1815年に元のバイエルン王国に戻ります。シーボルトの青少年時代は、戦乱の時代でもあったのです。シーボルトは開業しますが、海外への憧れを持っていました。その優秀さと海外への憧れを聞きつけてスカウトに乗り出したのがオランダです。26歳の医師をウィレム一世は宮廷外科医に任命し、さらに国王直属の軍医少佐に任命してバタビアへ派遣します。異例のことです。著者はここに「国王の密命」を嗅ぎつけます。
日本に到着したシーボルトは、「世界の最先端を知っている熱心で優秀な医師」として歓迎されます。来日翌年(1824)には自分の塾(鳴滝塾)を長崎の街に開くことも許可されました。シーボルトは、それまでの断片的な「蘭方医学」ではなくて、体系的な「近代医学」を教授すると同時に、塾生たちにレポート提出を義務づけます。それは日本の各分野(政治、風俗、習慣、産業など)の広範囲にわたるものでした。そこでシーボルトの興味を特に引いたのが「北方」です。そのためにシーボルトが望んだのが江戸への長期滞在でした。そういえばシーボルトの書簡に理由は書かずに「長期滞在が幕府によって拒絶されて、残念無念」とありましたっけ。
シーボルトが人的ネットワークを着々と築いているのを、幕府は座視していたわけではないでしょう。きっちり監視をして「利益」はしっかり頂こう(日本地図など国禁のものは許さないが、それ以外の“つまらない”標本などはいくら持ち出されても良い、そのかわり世界情勢や最新の西洋医学や科学をとことん吸収しよう)という魂胆だったはず、と著者は述べます。私もそれに賛成です。幕府の誤算は、シーボルトの組織力と行動力が、幕府の予想を遙かに上回っていたことでしょう。シーボルト個人とその周辺をいくら厳重に監視しても、一度確立されたネットワークが動き出すと、その活動と影響力はとんでもなく大きなものになっていたのです。
著者はシーボルトの“任務”を、1)博物学的調査、2)日蘭貿易戦略調査、3)政治・軍事戦略調査の三種に分類します。1)については公開されていましたが、2)3)は商館長も知らなかったとも推測しています。たしかに蘭印政庁からの“厚遇”は異様です。ものすごい大金がぽんと渡されますし(商館長が赴任するときの手当は326フルデン(680万円)なのに、シーボルトには1827フルデン(3800万円)。さらに追加で1億円を越える金がシーボルトのために支出されています)、人事でもシーボルトの個人的要望が(商館長の反対を押し切って)通ってしまいます。だからこそ商館長とシーボルトの“対立”が先鋭化してしまったのでしょう。3)の行動として、関門海峡の測量、瀬戸内海の航路図作り(西洋の船が通れる航路)、東海道の橋の有無、など具体的な調査が行なわれています。長崎奉行からは、最上徳内・間宮林蔵・高橋作左衛門を紹介されますが、この三人は当時の日本で最も「北方」の知識を持っている人たちでした。著者はそこに作為を感じます。長崎奉行は「罠」としてシーボルトにこの三人を紹介したのではないか、と。シーボルトは高橋に案内されて江戸城の紅葉山文庫(歴代将軍の霊廟と機密文書の収納庫)に潜り込みます。狙いは禁制の日本地図や江戸城の見取り図などです。
1828年(文政十一年)台風により、シーボルトのコレクションを大量に積んだコウネリウス・ハウトマン号が座礁します。奉行所は、浜へ打ち上げられたのだからこれは「入り船」である、という口実で厳密な臨検を開始します。「シーボルト事件」の始まりでした。ただ、実際にはこの「事件」は、その前から始まっていたのです。
しかし本書に載せられている尋問調書は、全体像がつかめず不勉強な奉行とのらりくらりと強弁を使い分けるシーボルトの対比が鮮烈です。さらに幕府の対応も不思議です。日本地図が二セットあることを知っていながら一セットの没収で満足し、一度没収したコレクションの大半は返却し、結局高橋作左衛門が牢内で急死したらシーボルトへの追及もやめてしまいます。そこには幕府の隠された意図がある、が著者の読みです。幕府内部での政治的な闘争にシーボルトは“利用”されたのではないか、と。本書の最後に書かれている著者の読みが正しいか間違っているか、私には即断はできません。ただ、当時も今も、日本の役人はファジーに動いて結局国益を損ねているのではないか、とは思えました。


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東京オリンピックの記憶

2010-09-27 19:06:15 | Weblog
私にとっての東京オリンピックは、円谷、アベベ、東洋の魔女、ヘーシンク、三宅、そしてチャスラフスカです。今でも脳裡には彼らのモノクロの映像が生き生きと蘇ります。“白い妖精”コマネチ以降、女子体操はアクロバチックな路線に行ってしまいましたが、その前の、技術と優美さと演技力とが結びついた独特の美の世界を私は忘れられません。

【ただいま読書中】『ベラ・チャスラフスカ ──最も美しく』後藤正治 著、 文藝春秋、2004年、2000円(税別)

チェコは東欧というより中欧ではないか、その証拠にプラハはウィーンより“西”に存在する、と著者は本書を始めます。オーストリア(とハンガリー)、ドイツ、ソ連の強国に囲まれた位置は、チェコにとって「困難」を意味しました。しかしチェコの人々はしぶとく生き抜きます。第二次世界大戦直後も、すぐには共産党独裁にはならず、自由選挙と連立政権の時代がありました(「第三次共和国時代」と呼ばれるそうです)。この独特のしぶとさが、「プラハの春」「ビロード革命」へと繋がっていくのでしょう。
ベラ・チャスラフスカは14歳で体操を始めました。最初は、才能はあるがおしゃべりで集中力を欠いた選手だったそうですが、東京オリンピックが近づくにつれて変わっていきます。持って生まれた才能に努力する才能が加わったのです。
意外なのは彼女らが「ステートアマ」ではないことです。速記とタイプの国家試験が近づくと体操の練習時間を減らすし、就職も自分で探しています。世界選手権でソ連を破って団体優勝したときには国家から「報償」が出ましたが、それは700コルナ(今でなら30米ドルくらい)だったそうです。
東京でベラは圧勝でした。しかし段違い平行棒で彼女が離れ業(空中で両手を離して一回転する「フルターン」)をやっていたことは覚えていません。床運動でのひたすら優美な動きと凜とした姿勢の印象が残っているだけです。
1950年代に実権を握ったチェコ共産党は、失政を重ねました。それに対して立ち上がったのが共産党内部の経済改革派です。党第一書記及び大統領だったノヴォトニーを解任、ドプチェクが第一書記の座につきます。「プラハの春」です。その時標榜されたのが「人間の顔をした社会主義」であり、その宣言が「二千語宣言」でした。ソ連はそれを「反革命」と断じます。
1968年8月20日、ソ連(とワルシャワ条約機構軍)の戦車群がチェコに侵入します(私はこの日に新聞の号外が出たのを覚えています)。「二千語宣言」の署名者はほとんどが署名を撤回しました(させられました)。撤回しなかった少数派の中に、ベラ・チャスラフスカが含まれていました。メキシコオリンピック開催は10月20日。チェコチーム不参加の噂が流れますが、やつれ果てたチャスラフスカは、黒のユニフォームに身を包んで会場に現われました。体操の日程後、チャスラフスカはメキシコ市内のカトリック教会で結婚します。相手は東京五輪男子陸上1500の銀メダリスト、ヨゼフ・オドロジル。残された写真を見て著者は花嫁の表情が硬いことが気になります。
金メダル4つをチェコに持ち帰ったチャスラフスカは、二千語宣言の署名を撤回せず、祝賀パーティーで贈られた豪華な銀食器を大統領府に突っ返しました。こうした節を曲げない人(政権から見たら「黒い羊」)につらい“冬”が始まります。チャスラフスカはスポーツクラブから除名され、職にも就けず、公安警察につきまとわれます。そういった仕打ちに耐えかねてチェコを離れた人の中には、ミラン・クンデラ(『存在の耐えられない軽さ』を執筆)やミロシュ・フォアマン(『カッコーの巣の上で』『アマデウス』を監督)がいました。“冬”は20年以上続きました。チャスラフスカは決して政治的な人間的ではありませんでしたが、頑として署名の撤回をしませんでした。彼女は「節義ゆえ」と言っています。本書には「自由な精神を持つナショナリスト」「モラルのシンボル」という表現が出てきます。
1989年8月ポーランドで「連帯」主導の政権樹立。10月ハンガリー社会主義労働者党が共産主義を放棄。東ドイツホーネッカー書記長辞任。11月ベルリンの壁崩壊。12月ワルシャワ条約機構首脳会議で「プラハの春」軍事介入を自己批判。
プラハでも市民デモが膨れあがり、権力は市民フォーラムに移行しつつありました。21年前、ソ連の戦車で埋まっていたヴァーツラフ広場は市民で埋まります。そしてバルコニーから演説したのは、ドゥプチェク、ハヴェル、そしてチャスラフスカも。ビロード革命後、チャスラフスカは大統領顧問(無給)を引き受けます。激務でした。
悲劇がチャスラフスカを襲います。離婚した夫と実の息子とが喧嘩になり、元夫が転倒して死亡したのです。チャスラフスカは打ちのめされます。国家に対してもしなやかにしかし毅然とした態度を貫いた人の内面の何かが壊れてしまったのです。そう追い込んだのは「人々」によるバッシングでした。チャスラフスカに近い人は著者に語ります。共産主義者(あるいはそのシンパ)からは彼女は「反体制のシンボル」で憎しみの対象。一般大衆からは、辛い時代にも節を曲げなかったことで尊敬の対象ではあるが「節を曲げて生きてきた自分」を思い出させる傷のような存在でもある。だからバッシングが起きたら止まらなくなったのだろう。彼女が精神を病むまで。

チャスラフスカ個人の物語も重いものですが、彼女や当時のチームメイトの日本での思い出話(いやな思い出が一つもない、日本人はすべて親切だった)を聞かされて、著者は考え込んでしまいます。今彼女らが訪日したら同じ印象を持つだろうか、と。日本はきらびやかになっているが、人の心に残るのは外見ではないだろう、と。『三丁目の夕陽』が人気になったのも、単なるノスタルジーではなくて、日本人自体が「自分たちは何を得て何をなくしたんだろう」と自問しているからかもしれません。そういった点で、本書は「日本人にとっての過去への旅」でもあります。


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冒険小説風妄想

2010-09-26 18:17:09 | Weblog
最近の東アジアの情勢を見ていて、もし私が冒険小説作家だったら北朝鮮を絡ませたくなるな、と思いました。北朝鮮が中国に“恩”を売ると同時に憎き日帝に鉄槌を下すために過激なテロを、というストーリーです。で、中国は「日本の自作自演だ」と非難し日本は「何が起きたんだ」とおろおろとする。あり得る?

【ただいま読書中】『天馬空をゆく』神坂次郎 著、 光風社出版、1988年、1000円

『金谷道人御一代記』の小説化です(平凡社から『金谷上人行状記』として出版されています)。
大阪、天満の宗金寺に、早松という名前がありながら2歳の時に便所に落とされたために「糞松」というあだ名で呼ばれることになってしまった小坊主がいました。これがもう破天荒。悪戯の罰に本道に閉じ込められると、お供えの饅頭をぱくつき、木魚に小便、ご本尊の前の花瓶に大便をする、という悪たれです。11歳の時には寺の総代の娘(10歳)と結縁に及んだ(セックスをした)ことが露見して、寺中大騒ぎ。寺を出奔するも、一文無しなのですぐに連れ戻され、しばらく静かにしていましたが14歳で江戸に出奔します。芝の増上寺で熱心に勉学に励みますが、やがてまた遊びの虫がむずむずと。寺の留守番中に勧進比丘尼を引き込んでことに及んだところを和尚に見つかり、破門。九十九里を放浪中に夜ばいに失敗して大騒ぎになったり、下総の村で婿入りしてみたり(新郎16歳、新婦14歳、でも長くは保ちませんでした)。江戸に舞い戻った糞松は、今度は願人坊主に弟子入りします。これがなかなかの成功。さらに高野聖に化けて経帷子を売ると大好評。なにしろ度胸は据わっている・仏法修行を積んでいる・様々な“経験”が豊富・弁舌が巧み、人の心をつかむ要素が揃っている人物なのです。4年間の放浪の後故郷に帰った糞松は、心を入れ替えて寝食を忘れて学問に打ち込みます。3年間、血が騒ぐままに精進をし、21歳で金谷山極楽寺の住職に。糞松あらため金谷お上人です。ところが「真面目な生活」にもすぐに飽きが来ます。遊女遊び、浄瑠璃、尺八、賭け事、と短期集中で取り組み、それぞれ素人としてはその分野でのトップクラスになってしまいます。賭け事では地域の(暗黒面での)顔役にまでなってしまうのですから、タダモノではありません。
天明八年(1788)京の大火で寺が全焼し、金谷はまた放浪を始めます。足が向いたのは、長崎。急ぐ旅ではなし、ぶらりぶらりと好奇心を満たしながらののんびり旅です。そのうち、結婚するわ船を造るわ刀を差すわ(当時日本では珍しかった)豚をペットにするわ、もうやりたい放題。
尾張藩にふと足を止めて十余年、醍醐三宝院の門主が大峰入りの修行をするため山伏の供奉が許される、というニュースを聞いて金谷の目が輝きます。山伏になって大峰まいりに供奉しよう、と。さっそく山伏に弟子入りし、修験道の修行に熱中します。といっても、そう簡単に役がもらえるわけがありません。そこで誰もが敬遠する斧役(五尺の柄に一尺の刃、重さは五貫目)を志願します。しかし、大変な「修行」のわりに、門主は輿に乗っているし、ちょっと移動したら2~3日は宿に腰を据えるし……まあ、あちこちを見聞したい金谷には都合の良いものではあったのですが。しかし、吉野川沿いに遡って「山上お駆け入り」になると“本気モード”となります。行列は五千人から250人に絞られ、門主も草鞋履きで歩き始めます。道なき道をよじ登り、へとへとになって夜中に宿坊に到着、しかしそこで宿直業務が金谷を待っていました。山中を彷徨うこと1箇月、一同はやっと熊野川のほとりに到着します。
尾張に“凱旋”した金谷ですが、また旅心がむらむらと。一家(妻と長男)をつれてぶらりぶらりと東上します。しかし、名古屋から伊豆の韮山まで1年かけるとは、ぶらりぶらりにも程があります。そして幕府巡検使の代理として村々を回ったり、富士山登山をしたり、もう無茶苦茶でございます。
本書の底本となった『金谷道人御一代記』という絵巻物風の自叙伝で金谷は自分のことを「お上人さま」とぬけぬけと呼んでいます。こんなとんでもない人物が堂々と生きていることを許していた江戸時代って、本当はどんな世界だったんだろう、とますます興味が湧いてきます。



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めでたさも

2010-09-25 17:37:03 | Weblog
先日中学合唱コンクールの地方大会があって、隣のお嬢さんの合唱部が金賞を獲得。で、隣の奥さんがわが家にやってきて「新聞の切り抜きを下さいな」。どうも朝日新聞の主催のせいか、お隣の新聞にはそのニュースがきちんと載ってなかったらしいのです。積んである新聞をめくってみるとカラー写真付きでした。ただ、彼女は先輩の影に隠れてしまっていましたが。もう一つの問題は、そのすぐそばを切り抜きの線が走っていて写真は丸ごと残っていますが記事の本文が半分くらいなくなっていること。すでにその裏の記事を切り抜いていたのです。そういえばお向かいも朝日新聞だったけど、なんて思いながら写真(と記事の半分)を切り抜いて届けました。

【ただいま読書中】『犠牲の妖精たち』ホリー・ブラック 著、 金原瑞人・坂本響子 訳、 ジュリアン、2006年、1524円(税別)

酒場でのステージが終り、16歳のケイ(アジア系の顔に金髪。特技は万引きとジッポのライターでの曲芸)はミルクを飲み煙草を喫いながら、ボーカルの母親エレンが降りてくるのを待っています。ケイはときどき妙なものを見ますが、それは小さいときからのことでそれほど気にしないようにしています。母親の彼氏ロイドが妙に優しい声を出し、それで警戒心を発動させたケイは、ロイドがエレンをナイフで刺そうとするのを止めます。大騒ぎとなり、ケイとエレンは「おばあちゃんの家」に行くことになりました。
親友の彼氏に言い寄られて心乱れた夜、ケイは森で妖精に出会います。ロイペンという名の、黒い鎧を着た長身のおそろしいほどの美男。そして胸には矢が突き刺さっていました。ケイはロイペンの命を救う手助けをし、その褒美として「三つの質問」をする権利を得ます。妖精は人間よりはるかに気ままに生きていますが、こういった約束や自ら行なった宣誓にはおそろしいほど忠実です。
ケイはアンシーリー宮廷の「犠牲(いけにえ)」に選ばれました。そして、アンシーリー宮廷以外の妖精たちにとって、アンシーリーで最悪の騎士がロイペンだったのです。アンシーリーにこき使われている妖精たちは、アンシーリー宮廷に一泡吹かせるために(そして自分たちの自由を獲得するために)ケイを利用しようとします。ここでの妖精たちの振る舞いは明らかにアイルランドの神話の妖精のものです。物語の舞台はフィラデルフィアで、著者はアメリカ人なんですけどねえ。
ケイは変身し魔法を覚え、アンシーリー宮廷に潜入します。しかし結局囚われ、犠牲の儀式が始まってしまいます。がんじがらめのケイ(とロイペン)の状況を打破するのは、一つのなぞなぞ「自分のものなのに、他人のほうがよく使うものは何だ?」が解けるかどうかにかかっています。もっとも、なぞなぞが解けたとしてもそれをケイが使うかどうかは本人の決断次第ですし、さらにケイがそれを使ったとしてもそれでめでたしめでたしになるかどうかはわからないのですが。
ケイはやっとのことで犠牲になる場から脱出しますが、それは「妖精の世界」が「人間の世界」に侵食を始めるきっかけとなってしまいました。「悪い魔女は死にました」は「めでたしめでたし」ではなくて「また別の話の始まり」なのです。
思春期の女の子の性の芽生えや同性愛やソフトSMまで登場して、あきらかに「殺菌された無害なファンタジー」とは一線を画した作品です。こんなファンタジーは私の好みだなあ。



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性愛の書

2010-09-24 18:38:38 | Weblog
今日の読書日記に書いた『カーマ・スートラ』の解説に挙げられているのは、古代ローマの『恋の技法』(オウィディウス)、古代中国からは『素女経』『洞玄子』ですが……私としては「日本の『医心方』(の「房内篇」)もお忘れなく」と言いたくなります。山田風太郎がこの「房内篇」を題材に面白い小説を……は前に書きましたね。

【ただいま読書中】『完訳 カーマ・スートラ』マッラナーガ・ヴァーツヤーヤナ 著、 岩本裕 訳、 中野美代子 解説、平凡社(東洋文庫628)、1998年、2800円(税別)

先日読んだ『インド・新しい顔』によると、ヒンドゥーの神は三神一体で動くことが原則だそうですが、『カーマ・スートラ』も巻頭で「ダルマ(法)アルタ(利)及びカーマ(愛)に礼し奉る。」で始まります。基本は「3つ」です。古代中国が陰陽・五行と「二つ」か「五つ」で世界を把握するのとは基本発想がまったく異なるようです。本書で人生は三つに分割され、少年時代はアルタ、青年時代はカーマ、老年時代はダルマと解脱に専念すべし、だそうです。なんとなく説得力があります。(ついでにプラトンの「知性」「感情」「欲望」に魂を三分割、も思い出しました)
女性の性教育は、実技に関しては“先輩(男性経験を持っている友人や親戚など)”を師とし、さらに「六十四芸」を学ばなければなりません。唱歌・花冠の作り方・化粧・香料の使い方・調理・針仕事・楽器演奏・謎々遊び・水遊び・朗読……などまではなんとなくわかりますが、大工・建築・冶金術・地方語の知識・見取り図作成・作詩・変装・賭博・狩猟の知識、なんてものも必要と言われると、なんだかセックスへの敷居がずいぶん高いものに感じられます。インドに敷居があるのかどうかは知りませんが。ただ、性交に至る前にはまず多人数での宴会とか談笑が行なわれる、と本書では決まっているようで、「教養」はそのために必要な様子です。江戸時代の吉原で太夫が何をやっていたか、をちょいと思い出します。そして、楽しく過ごしている皆の前で女性を口説いて雰囲気が盛り上がったところで他人には退場願って二人きりに、という流れです。
性器の大きさで男女はそれぞれ3種に分別され、したがってその組み合わせは9種類となります。情欲の強さもまた男女はそれぞれ3種で、組み合わせは9種類。持続時間は、男は3種類ですが、女に関しては論争があるのだそうです。
「3」づくしですが、快感の種類は「4」です。従事によるもの・我執によるもの・確信によるもの・感覚の対象によるもの、だそうです。説明が書いてありますが……よくわかりません。キスの快感は我執による、と言われてもねえ。
接吻では、処女への接吻は三種類、それ以外のは何種類あるかな、まあすごいバリエーションで読んでいて圧倒されます。次は爪による掻爬。性交や口唇性交についてもそれぞれのバリエーションと地方による風習の違いとがばしばし説明されます。
そして、口説きの作法。男尊女卑の国のはずなのに、ここでは女性はとても大切にされています。男は細心の注意を持って女性を口説かなければならないのです。で、首尾良く行ったら、こんどは性交の終り方。二人でゆっくり飲食をする、あるいは露台に出て月の観賞(そのとき男は彼女が好む物語をするべし、だそうです)。単に欲望が満たされたらそれでよし、ではない、と。
「愛のいさかい」なんて節もあります。この場合にも、するべきこととするべきではないことが示されます。しかし痴話喧嘩をやってる最中に本書の内容を思い出せるかなあ。
処女が相手の場合には、3夜をかけて徐々に彼女の信頼を獲得しなければなりません(またまた「3」の登場です。)。もっとすごい話もあります。幼女の時から信頼を獲得してじっくりと愛情を熟成させる場合がある、と。気の長い話です。逆に女の方も、「少女に言い寄ること」で記述された女性の振る舞いをきちんと行なうことで望ましい夫を得ることができる、とあります。
人妻の誘惑も「若し男が或る人妻を見て強い愛着を感じ、層一層愛慾の心の昂進するときには、自身の破滅を防ぐために、その人妻に近づくべきである」とさらっと書いてあります。「べき」ですよ。だけど妻への章には「貞淑であれ」です。一体どうしろと? 実はそれは男の責務なのです。他人の人妻は誘惑する、しかし自分の妻妾は他人の誘惑から守れ、と。結局女性は「誘惑されるだけの存在」?
ところが女性には常に“拒否権”がある、というのも印象的です。現実がどうだったのかは私にはわかりませんが、本書によれば、王でさえも女性を王宮に招待して豪華な庭などを見せながら口説いて、それでも女性が同衾を拒否したらすごすごと引っ込むことになっているのです。古代インドの辞書には「強姦」とか「無理強い」という言葉はなかったのかな。
遊女に関してもちゃんと一篇が準備されています。面白いのは「金銭のためにする行動は不自然である。併し、金銭のための場合でも、(その不自然な行動を)自然であるかのように装うべきである」だそうです。理想と現実の両方に目を配った、なんだかとても“現実的”な性典です。
で、最後に「勝れたる婆羅門たちに、幸いあれ」。カーマだけではなくて、ダルマとアルタを知ることが重要、って、若いときには無理なような気がするのですが、結局本書のターゲット読者は、どんな人だったんでしょうねえ。



月見

2010-09-23 18:08:57 | Weblog
昨夜は雲間の月見でした。
煎餅ではなくて団子を供えるところを見ると、古くから日本人は月が平面ではなくて球体であることを知っていた、というのはやはり強弁でしょうか。
そういえば月が球体であることを手間暇かけて証明したのは、ガリレオでしたね。彼が日本の月見団子を見たら喜んだかもしれません。

【ただいま読書中】『天空のリング』ポール・メルコ 著、 金子浩 訳、 早川書房、2010年、1000円(税別)

ほとんどの人類が「共同体」(インターフェースを介しての60億人の人間と機械知能との統合体)となったあとなぜか消滅してしまった後の地球、世界を建て直したのは2~5人で成る「ポッド(小群)」でした。各個人はそれぞれ役割を分担し、触れ合うことやフェロモン放出で情報を共有する集団です。
本書の「主人公」アポロ・パパドプロスは5人から成るポッドです。
ストロム(男)「力」担当。戦闘時には指揮官となる。
メダ(女)「交渉」担当。「アポロ」として他人と交渉をする。
クアント(女)「パイロット」担当。ニュートンの法則と数学が直感的にわかる。
マニュエル(男)「作業」担当。足でも物がつかめるように体が改変されている。
モイラ(女)「良心」担当。「アポロ」の良心。
各個人はそれぞれの担当領域ではエキスパートですが、ポッドから離れた瞬間孤独感とコミュニケーション不全からまともな行動ができにくくなってしまいます。人体から生きたまま分離された手や足がまともな行動ができないのと同じように。そしてアポロが目指すのは、外宇宙探査船の船長でした。彼らはそのために生まれてきたのです。
外宇宙探査船に乗り込めるかどうかの最終試験は、宇宙での実習でした。しかし、アポロはそこで命にかかわる陰謀に巻き込まれてしまいます。軍が彼らを始末しようとしたのです。アポロは逃げ出します。宇宙エレベーターを伝わり、降り立ったのはアマゾンの地。そこで彼らは軍の手に落ちてしまいますが何とか脱出します。ポッドであることの強みと弱みが際だつ戦闘シーンは、これまでにない新鮮さです。
また、ポッドの5人が各章で次々交代で語り手を務めるのですが、その章の中で誰か(多くは語り手)がポッドから切り離される瞬間があります。5人が一緒でなければ「不完全(アイデンティティの危機)」だと感じながら育ってきた「アポロ」は、そういった経験を重ねることによって、各個人としても、そして「アポロ」としても成長していくのです。
そしてアポロは熊たちと出会い、行動をともにします。熊たちに導かれてたどり着いた古い研究所で、アポロは「共同体」とポッドの関係に疑問を持ちます。さらに、自分たちの“出自”にも。
「個人」が融合して一つの共同体になる、というのはSFでは珍しい話ではありませんが、それを一度ローカルレベルに落としてきわめて具体的に描いて見せたのは本書の「価値」になっています。読むべき「価値」に。



季節が変わる

2010-09-22 18:39:03 | Weblog
しばらく見なかった燕が盛んに鳴き交わしながらくるくると飛んでいます。中にはぽてんとお腹が出たのも混じっていて、しっかり餌を採って栄養を貯めこんでいる様子です。彼らはもうすぐ南へ帰っていくんですね。
蚊の方も必死で飛び回っています。狭い庭にちょいと水まきをしたら、その間にたかってくるわくるわ、3匹は撃墜しましたが、手足にそれ以上の数の“戦果”を上げられてしまいました。
まだまだ残暑、と言いたいけれど、確実にもうすぐ、本格的な秋。

【ただいま読書中】『笑う警官』マイ・シューヴァル/ペール・ヴァールー 著、 高見浩 訳、 角川文庫、1972年(86年27刷)、540円

思い出深い一冊です。それまで私にとって「推理小説」とは、シャーロック・ホームズ、エルキュール・ポアロ、エラリー・クイーンだったのですが、高校の時に出会ったこの一冊で私にとって新しい世界が広がったのでした。そもそも英仏米以外にもこの手の小説があることを知ったこと自体が驚きでしたが。
1967年11月13日午後11時すぎ、ベトナム戦争反対のデモが行われたストックホルム市で赤い二階バスが事故を起こします。知らせを受けて駆けつけた警官は、バスの中が血の海になっていることを発見しました。乗客8人と運転手全員が、軽機関銃の掃射を受けて8人が即死、一人が瀕死の重傷となっていたのです。そして、その中に、殺人課の若手刑事ステンストルムが含まれていました。
「スウェーデン初の大量殺人事件」にマスコミは狂騒状態となります。殺人課の刑事たちは苦闘します。8人の誰が“真の標的”だったのか、あるいは突発的な殺人事件だったのか。そもそもステンストルムはそのバスの中で一体何をしていたのか。
暗闇の中での手探り状態が続きます。手がかりを求めて殺された人一人一人の背景を洗い出す作業が地道に続けられます。当時のスウェーデンは、日本では「福祉国家」「フリーセックス」というキーワードで知られていましたが、その実態(“ふつうの人”の性生活や麻薬問題など)についても少しずつ具体的なエピソードが紹介され、それはそれで日本の読者には興味深いものです。
やがて、ステンストルムが単独で16年前の未解決の殺人事件を追いかけていたことがわかります。それと、彼が何か重大な手がかりをつかんだらしいことも。主任のマルティン・ベックはじめ殺人課の刑事たちは網を広げ、そしてそれを絞り込み始めます。
しかし、徹頭徹尾本書では笑わなかったマルティン・ベックがついに笑ったとき、私にもその笑いが伝染しています。ただし、ちょっとシニカルな笑いではありますが。



断絶

2010-09-21 18:12:29 | Weblog
1960年代後半に、世界中で「怒れる若者たち」の行動が起きました。日本でも学生運動が盛んに行なわれましたが、結局“学生”運動だったなあ、というのが私の印象です。で、こういった動きを読み解くのに私は「戦前」「戦後」というキーワードを使っています。
「戦後の社会」を作ったのは、戦前生まれの人たちでした。つまり戦前とはがらりと変わった「戦後の社会」のはずなのに、その基底には「戦前の価値観」がしっかり生きていたはずです。そこに「戦後生まれ」の人たちが「タテマエは戦後なのに、中身は戦前じゃないか」とそのギャップに突っこんだのが「怒れる若者たちの行動」だったのではないか、と私は考えています。
しかしそれからさらに一世代後には「タテマエは戦後なのに、威張っているのは戦前生まれの人間に教育を受けた人間ばかりじゃないか」と突っこまれてもおかしくなかったのですが、そのときには「もはや戦後ではない」だったですね。

【ただいま読書中】『インド・新しい顔 ──大変革の胎動(下)』V・S・ナイポール 著、 武藤友治 訳、 サイマル出版会、1990年、2200円(税別)

イギリス人はカルカッタを英国風に作りました。そしてイギリスがインドから手を引いたとき、カルカッタは「死への旅路」をたどりはじめたのです。インフラは整備されず、水はくさく、排気ガスとゴミが街路には充満しています。そしてそこにも様々な「歴史の断片」が生々しく散らばっていました。
ここで著者が会うのは、いかにもあやしげな商法の手先となった人、燃え尽きた毛沢東主義者(60年代後半に学生運動をして活動を開始。戦いの対象は貧困(とそれを放置する体制))、社会運動家など。
ある人が語る数十年前の思い出話で、病院で受け入れ拒否をされた貧しい人が最後に運ばれるのが当時活動を始めたばかりのマザー・テレサ(まだ無名)の施設が出てきました。そして現在(本書の執筆当時)でもカルカッタにはそういった人を受け入れる施設はマザー・テレサのものだけだそうです。カルカッタは荒れ果て、著者は「カルカッタは死に向かっている」と表現します。
1857年の「インド大反乱(いわゆる「セポイの反乱」)」は、インドでイスラム教徒のエネルギーが燃え上がった最後の一閃、と著者は述べます。それまでも不満は貯まっていましたが、その直前にイギリスが行なったオウド王国併合がその国の出身者(イスラム)が多いセポイの不満に火をつけた、と。ラクノーでイスラム教徒が住む地区を歩いた著者は、そこが貧民街であることを知ります。セポイの乱の後、またイスラム教徒に火がついたのは「パキスタン独立運動」でした。そして、新しくできた国へイスラムの中産階級はこぞって移動し、残ったのが貧民だった、というわけだそうです。さらに71年の印パ戦争が、イスラムコミュニティにさらに大きな傷をつけます(さらに、スンニ派とシーア派の対立もあります)。
著者はインドから英国に“帰国”後、ウィリアム・ハワード・ラッセルの『インド日記』を読みます。ラッセルは世界初の従軍記者としてクリミア戦争にタイムズ紙から派遣され、その記事がナイチンゲール派遣のきっかけになった人ですが、クリミア戦争から帰国後またすぐにインドの「大反乱」とそれに続いた暴動を取材するためにインドに派遣されていたのでした。著者にとって『インド日記』は、自分のインドへの旅と重なるものでもありました。著者は、現在のインドには百万の小さな反乱が起きている、と述べます。そしてその反乱が、何百万もの人の新たな門出であり、インドの発展であり、インドの復興を意味する、と。ゆるやかな発展をするためには社会が安定している必要があります。不安定だったら変化は革命に容易に転化します。しかし「百万もの小さな反乱」こそが、安定でも不安定でもないインド社会には向いているのかもしれません。では、日本社会には何が向いているのか、そもそも日本社会は安定しているのかそれとも不安定なのか、私はちょいと考え込んでしまいます。
本書のような(形式的にも内面的にも)複雑な本は、「インド内部」の人間にも「インド外部の人間」にも、おそらく書くことができないものでしょう。著者のような、「内部」と「外部」を往復できる人だけにしかできない作業だろう、と私には思えます。



敬老の日

2010-09-20 18:01:30 | Weblog
別に敬老をしようというわけではありませんが、久しぶりに私の両親の所を訪問しました。会うのは一ヶ月ぶりかな。過去の話(主に戦争前後の時代の思い出話)から未来の話(墓をどうするか、墓に入る前にどこで過ごしたいか)までゆっくり話せました。別に結論が何か出たわけではありませんが、こうやって普段から話をしておけば何かあったときにも対応はそれなりにできるでしょうから。

【ただいま読書中】『インド・新しい顔 ──大変革の胎動(上)』V・S・ナイポール 著、 武藤友治 訳、 サイマル出版会、1990年、2200円(税別)

著者はトリニダドでインド移民の三世として生まれ、イギリスで教育を受け(オックスフォード卒だそうです)、以後イギリスで作家活動をしていました。1962年に初めてインドを訪れた著者は、二重の疎外感を感じます。トリニダドでのインド人コミュニティは、きびしい貧困環境に置かれていました。インドから豊かな生活を夢見て移住したはずなのに。さらにそこでは、インドから切り離されたからこそ「インド文化」がある意味純化されて保存されていました。ですから著者が実際に見た「インド」は、父祖の地でありながら、まったく別の「インド」だったのです。その時の体験は『インド・闇の領域』となりました。そして1988~90年に著者はまたインドを訪れます。その結果が本書です。
インドは複雑です。宗教(ヒンドゥー教、イスラム、仏教、ジャイナ教、拝火教などなど)・人種・地域・カースト・世俗的な職業・貧富・社会的地位・政治信条・居住地区などの違いがまるでモザイクのように入り組んでいて、なかなか“全体像”が見えません。著者はその中に分け入り、様々な人にインタビューすることで「インド」を知ろうとします。
革命の予感に怯える実業家、革命を待望する社会活動家、ギャング、田舎からボンベイに出てきた祈祷師、落ちぶれた脚本家(インドで「落ちぶれた」と表現される場合、本当にすごいことになってます)……ツテをたどって著者は様々な人にインタビューをし、個人的な話を聞き出します。共通項の抽出などできないくらい多彩な話の数々ですが、私にとって印象的だったのは、深刻な住宅難や収入の低さ、それから結婚観でした。当時インドでは恋愛結婚が増えてきていて、それが一種の社会問題になっていたのです。ある程度固定的な社会にシャッフル効果をもたらすからでしょう。さらに、社会構造の変化によって新しいカーストが登場して定着していることも、興味深く思えました。
ボンベイから著者はゴアに向かいます。わずか数ページの記述ですが、私には混沌と不条理な旅に見えます。
ゴアはかつてポルトガル支配下にありました。1509年にポルトガル総督アルブケルクがインドに到着し翌年ゴアを征服したのです。半世紀後には南インドのビジャヤナガル帝国(ヒンドゥー)がイスラムに敗れ、北インドではムガール(モンゴロイド系のイスラム王朝)が全盛を迎えます。ヒンドゥー・インドはキリスト教とイスラムに分割されたように見えましたが、しぶとく生きのびていきました。一神教によって単純化されたかのようだった「インド」は、やはり複雑怪奇なものだったのです。
ある大臣へのインタビューが印象的です。産業化と農業革命で新しい富裕層ができ、父祖伝来の道徳的な価値観は失われつつあり、しかしそれに変わるもの(たとえば西洋的な社会正義の理念)は定着していません。つまり新しい意味での「混沌」なのです。さらに、そういった「モダン」の波に洗われる中で、カーストでは最高位に位置するはずのブラーマンの人たちがずいぶん苦労していることも印象的でした。伝統を守ると生活がとてつもなく不便になり、学校ではいじめられ、職は見つからず、との苦労話にはもらい泣きをしてしまいそうです。