【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

陸軍と海軍

2019-09-30 06:56:42 | Weblog

 明治政府は軍に関して「陸軍はフランス陸軍式」「海軍は英国海軍式」とまず決め、ついで「陸軍はプロイセン式」に変更しました。当時としては「最強」のものを選んだつもりなのでしょうが、問題は「軍事的にも政治的にも異なるシステム」が一つの国の中で上手く「日本のため」に機能できるかどうかをとことん考えなかったことでしょう。あまりに異なるシステムが並立するのは、たとえば一つの会社でウインドウズとマックとを併存させるのと似ていて、要らないトラブルが増えるだけのはずです。

【ただいま読書中】『仮装巡洋艦バシリスク(航空宇宙軍史・完全版(四))』谷甲州 著、 早川書房、2017年、1500円(税別)

 目次「星空のフロンティア」「砲戦距離12,000」「襲撃艦ヴァルキリー」「仮装巡洋艦バシリスク」

 時代は外惑星動乱より前に遡ります。航空宇宙軍は太陽系での警察業務とともに、外宇宙探査を行っていました。無人探査機によるダイダロス計画、有人探査機によるイカロス計画によって知見と技術は充実し、第三世代のオディセウス計画ではラムジェットエンジンによる最新鋭の探査艦が投入されました。
 顔さえ覚えていない母親が犯した罪の償いとして、(地球の暦での)170年間の兵役を課せられた「俺」は外宇宙探査の支援艦に配属されます。長期間の航宙のため、乗組員はお互いの臓器も融通し合うこと(人体パーツのバックアップであること)も前提となっていました。
 なるほど、人体のサイボーグ化が真剣に検討されるわけです。
 『へびつかい座ホットライン』(ジョン・ヴァーリイ)を思わせる存在も登場します。ただし、「ホットライン」の方は情報の流れだったのに対してこちらは情報だけではなくて空間そのものも(超光速で)流れているのですが。まるで宇宙の怪談話のようです。
 「砲戦距離12,000」では「宇宙での戦闘(爆雷、ミサイル、レーザー砲)」について、実に精密な議論が紹介されます。素人っぽい少尉を教育する体裁で、読者に宇宙での戦闘がいかに大変なものかがきっちりレクチャーされます。そしてこの時の体験は100年後に「襲撃艦ヴァルキリー」で“主題と変奏"として繰り返されます。
 本書ではちょっとした(繰り返される)生き抜きも用意されています。たとえば「代用コーヒーのまずさ」。これが100年以上も味が変わらない、というのですから航空宇宙軍も相当に頑固です。
 最後の短編は、外惑星動乱が終わってから150年も経って発見された仮装巡洋艦バシリスクの話です。当然“幽霊船"になっているのですが、これまた一種の怪談話仕立てとなっています。
 未来から過去の戦争を見ると、まるで他人事になってしまいます。ということは、今から数十年後、第二次世界大戦もまた「過去に戦争があったらしいね」と言われるようになるのでしょうか。



航空宇宙軍史

2019-09-29 06:58:31 | Weblog

 私が「航空宇宙軍史」でまともに読んだ最初の長篇は『エリヌス』(1983年)でした。それまでにもこのシリーズに属する短篇はいくつか雑誌で読んで「ちょっと変わった(工学的な)雰囲気のSFだなあ」と思っていましたが、この作品でその印象はますます強固になりましたっけ。ただ、外惑星動乱が終結して23年後、舞台はそれまで誰も注目していなかった天王星の衛星であるエリヌスですから、そんなところがなぜ作品の舞台になるのだろう、と不思議ではありました。今回このシリーズを“最初"から読んでいて、やっと天王星系が注目されるべき理由が見えてきたような気がします。

【ただいま読書中】『エリヌス ──戒厳令──(航空宇宙軍史・完全版(四))』谷甲州 著、 早川書房、2017年、1500円(税別)

 敗戦したことを受け入れられず、地下に潜ってレジスタンスをしていた外惑星連合軍の残党は、天王星第六衛星エリヌスでクーデターを起こすことを計画しました。このままだとじり貧なので地球から一番遠いところに自分たちの“聖地"を作ろうという目論見です。厳しい監視の目から隠れて複雑に練り上げられた計画でしたが、ちょっとしたことから齟齬が生じてしまいます。エリヌスに強襲部隊を送り込むことには成功したのですが、航空宇宙軍のゾディアック級フリゲート艦アクエリアスも別ルートからエリヌスに引き入れてしまったのです。
 宇宙の戦争と言えば派手な宇宙船同士の戦いが定番ですが、地球上での戦いと同じく、最終的に「地上」を占領するのは「陸軍」です。本シリーズ(完全版)の冒頭で、外惑星連合に「タナトス戦闘団」という陸戦隊が作られる過程が描かれましたが、こんどは航空宇宙軍の側で陸戦隊が作られることになります。著者得意の“主題とその変奏"です。「ホーンブロワーシリーズ」では、水夫たちが陸上の目標を攻撃するために武装して船から降りて陸を進む、という「海兵隊のご先祖」のような部隊が描かれましたが、こちらでも、アクエリアスに乗っている海兵隊2小隊に当直外の乗組員を全員加えて急ごしらえの陸戦隊が作られました。
 航宙はニュートン力学に支配されています。これを限られた推進剤で人為的にいじることは困難です。しかしそこで人がいかに工夫をして敵の意表を突くか、に“ドラマ"があります。
 また、このシリーズの初期から時々姿を見せていた「オガタ・ユウ(と元夫と娘)のドラマ」がこの作品で完結してしまうことも本作に陰りを与えています。戦争が「巨大な物語」であると同時に「個人の物語」でもあることがここでわかります。
 それにしても、最後の「資料編」には圧倒されます。外惑星動乱の推移、戦闘艦の設計思想(無駄なスペースは不要だが、長期間の航宙に乗組員が耐えられる居住性と快適性は必要、など)、人員編制などが、まるで実際の資料を見てきたかのように細かく紹介されているのです。ここには登場しませんが、著者は航空宇宙軍の給与体系までちゃんと設定して執筆をしていたそうで、それが“リアルさ"(たとえば、出港直後の艦は、積み込んだばかりの食料などが倉庫に収まりきらずとりあえず空き部屋に突っ込まれている、といった描写)の裏付けとなっているのでしょう。このあたりは、第二次世界大戦のUボートの艦内の記録を参考にしているのかもしれません。潜水艦も宇宙船も、似たところがありますから。



聞きたい言葉

2019-09-28 07:22:24 | Weblog

 政治家がテレビで「緊張感を持って」とか「スピード感を持って」とか言っているのを聞くたびに、私は「清く正しく美しく」も言ってくれ、と言いたくなります。

【ただいま読書中】『サーカス放浪記』宇根元由紀 著、 岩波書店(岩波新書(新赤版)52)、1988年、480円

 昭和53年、芸大の演劇ゼミに来た「サーカスのバイト募集」に著者は大喜びで手を挙げました。仕事はパレードに参加することと客席での物品販売。サーカス団員のような恰好はしていても“偽物"です。ところがバイト中に団員たちの面白さに魅力を感じ、一輪車を教えてもらうと乗れるようになり、とうとう著者はキグレサーカスに正式入団することになります。家族は猛反対。そこで著者は家を出て、サーカス入団までの三箇月、おんぼろアパート(家賃は1万円)で生活をします。いやあ、大変だっただろうと思いますが、著者はとても楽しい思い出を語るかのように(というか、たぶんとても楽しい思い出なのでしょうね)記述を繰り広げます。
 昭和54年夏に正式に入団。普通はしばらく修業なのですが、何がどうしたのか突然舞台に上げられてしまいます。しかしピエロとして正式にトレーニングを受けたわけでもなく、初舞台は大失敗。しかしそれも笑い話になってしまいます。本人は化粧が崩れるくらい泣いているんですけどね。
 「日本のサーカスは閉鎖的だ」と非難する人がいるそうです。ヨーロッパでは開放されている団員の居住スペースが立ち入り禁止になっている、と。それに対して著者は「ヨーロッパのハウスは鍵がかかるが、日本の天幕住居には鍵がない」「そんなことを言う人たちは、自分の家の内部も見ず知らず人々に公開しているのかな?」と返しています。
 サーカスでの一番の重労働は「場越し(次の公演地への引越作業)」です。大天幕や客席のばらしなどの重労働は男の仕事ですが、女も楽屋や寝小屋のばらしや荷造りなどをやらなければなりません。なんだか全身が筋肉痛の塊になりそうです。トラックが出てしまうと、ごみ拾いをしてから「乗り込み」です。皆よそ行きに着替えて、新しい土地に向かいます。もっとも翌日朝からみんなトレパン・長靴・軍手で家の組み立てなどを始めるのですが。
 団員は大体早起きが嫌いだそうです。それでも早朝練習が入っている場合には早起きをします。本番が終わるとまた稽古。夕方には終えますが、振り付けが変わったりすると本番さながらにリハーサルをするので22時くらいまで稽古が続くこともあります。プロの芸を維持するのは大変そうです。
 恋愛事情も面白い。仲良し夫婦が異常に多い、とか、職場恋愛が破局を迎えても割とからりと立ちなおっていく、とか、現場で見てきた強みが文章に発揮されています。
 ユニークな人も豊富です。その言動の面白さ、それだけで本が1冊できあがる、というか、本書はそうしてできた本でしたね。



オートバイは危険な乗り物

2019-09-27 09:33:47 | Weblog

 「オートバイの事故の死傷率は、自動車のそれの数倍」と聞いたことがあります。そう聞くと「オートバイは危険な乗り物だ」と思えますが、ではそのオートバイの事故でライダーを死傷させる“相手"は誰なのでしょう? 歩行者や自転車ではなさそうです。オートバイ同士の事故がそんなに多いとも思えません。すると残るのは、自分で何かに突っ込んでいく事故か、あるいは自動車にぶっつけられるか、が“主犯"と言えそうです。で、もしも「オートバイ×自動車」の事故が多いのだとしたら、本当に危険な乗り物は、オートバイなのでしょうか、それとも「自分は安全だ」とオートバイに平気で突っ込んでいく自動車の方?

【ただいま読書中】『「移動」の未来』エドワード・ヒュームズ 著、 染田屋茂 訳、 日系BP社、2016年、2200円(税別)

 著者が飲む「朝の一杯のコーヒー」から話は始まります。コーヒー豆はどこから輸送されたのか? 水は?
 通勤の時の渋滞はいらだたしいものです。ではその解決策は?(道路の拡張工事は、ごく短期間しか効果がないことはこれまで各地で行われた“実証実験"で証明されています)
 現代のビジネスモデルは「移動」に依存しています。生産よりも輸送の方が多くの雇用を生み出しているのです。興味深いのは、世界を股に掛けた長距離輸送の目的は「コスト削減」であることです。
 著者はコーヒーの次に自分が握っているソーダ缶(アルミニウム製)を見ます。世界最大のボーキサイト鉱山は西オーストラリアにあります。採掘された鉱石は精製所に運ばれて水酸化アルミニウムが豊富に含まれたものが抽出されますが、残りは「赤泥」と呼ばれる、使い道がなく毒性があって安全な廃棄手段もないしろものです。ともかく前者が化学処理されてアルミナになり、運搬船に積み込まれます。精錬所でアルミナは電気分解され純粋なアルミニウムになります(これを一次アルミニウムと呼びます)。そこから様々な製品が作られますが、アルミニウムの優れた点は、何回でも再利用が可能なことです。リサイクルされたものは二次アルミニウムで、一次よりも必要な電力ははるかに少なくなります。一次と二次のアルミニウムインゴットは製缶工場に運ばれて缶となります。別の工場では蓋が作られ、さらに別の工場で缶に中身が詰められ蓋がつけられます。ちなみにアメリカでは、リサイクルが熱心におこなわれていないため、二次アルミニウムを得るために外国からごみの缶を輸入しています。
 交通事故による死亡について著者は「静かな大惨事」という言葉を紹介します。飛行機事故では大騒ぎとなり、徹底的な原因究明が行われ、対策が関係者に徹底されます。しかし自動車事故では、そういったことは一切ありません。そしてアメリカでは、15分に一人が死亡、7.3秒に一人が治療を必要とする外傷を負います。イギリスとアメリカでおこなわれた大規模な調査では、交通事故の90〜99%は人間の過失によって発生し、その過半数はスピード違反と不注意だったそうです。また交通事故死の30%は飲酒運転が原因(これは「過失」というより「未必の故意」と言っても良さそうですが)。
 「コストを削減するための長距離移動」は、個人のお財布には優しいのですが、個人に別の形の損害を与えています。大量の交通事故死はその一例です。もちろん地球環境の悪化も。経済のグローバル化が進むのと平行して地球の温暖化が進んだのは、偶然の一致ではないでしょう。また、国内の製造業がどんどん駄目になることに“愛国者"は憤慨することになりました。ところが、たとえばアメリカの製造業を“奪った"中国の人たちが幸せかと言えば、必ずしもそうではないのは、不思議です。
 しかし、赤信号で停車している自転車を自動車がひき逃げした事故で、新聞の読者がサイクリストの方をごうごうと非難する投書を寄せた、というのには、私は驚きます。かつての黒人差別と同様、アメリカでは「自転車差別」(自動車>>自転車)が横行している、ということなのかな。



ゴルフ場の鉄塔倒壊保険、ってあるのかな?

2019-09-26 06:54:33 | Weblog

 この前の台風で鉄塔やネットが倒れて住宅を破壊したゴルフ練習場がありましたが、そこのオーナーは「天災だから補償はしない」と弁護士に言わせているそうです。補償する金はないが弁護士に払う金はある、台風の前にネットを畳むという最低限の準備もしていない(私が知っているゴルフ練習場は、台風の前には営業をやめてネットを降ろしています)。しかも不法に他人の土地に侵入して生活を妨害している自分の所有物を片付けもしないで放置。なんだかとんでもない迷惑野郎に思えます。

【ただいま読書中】『星の墓標(航空宇宙軍史完全版(3))』谷甲州 著、 早川書房、2016年、1400円(税別)

 目次:「タナトス戦闘団」「ジョーイ・オルカ」「トランパー・キリノ」「星と海とサバンナ」

 しかし分厚い文庫本です。京極夏彦さんの本か、と言いたくなります。連作短編集の『最後の戦闘航海』と中編集の『星の墓標』を合わせて760ページですからね、だけどため息なんかついている暇はありません。なにしろ本書の冒頭は「タナトス戦闘団」なのですから。タイタンの分厚いメタンの雲を貫いて飛ぶシャトルの中には、本シリーズの最初から登場しているダンテ隊長が乗っています。外惑星動乱が始まって3箇月でタイタンでは政変が起き、外惑星連合に離反の姿勢を示しました。タナトス戦闘団はそれをとっちめに行こうというのです。しかし、たった12人の部隊(と民間のシャトル)で?
 タナトス戦闘団がたどり着いた秘密基地には、死体がゴロゴロ転がっていました。『最後の戦闘航海』ではヒマリアの基地に死体がゴロゴロ転がっていたことを思い出させます。というか、これは著者が意図的にやっていますね。「主題と変奏」のように、同じテーマや場面を少しずつ変えながら繰り返しているようです。で、ヒマリアでは真空環境で作業できるサイボーグが研究されていましたが、こちらでは「人間の脳」を戦闘艦に組み込んで活用する研究が行われています。形式的には無人戦闘艦、実質は人の脳が複数組み込まれた有人(?)戦闘艦です。人間丸ごとを乗せると、その生存のために大量の物資が必要となります。しかし脳だけだったらそれは大幅に節約でき、長期間の航宙が可能になるわけですが……さて、そんな艦の使用目的は?
 しかし、「タナトス(死に神」」を「ラザルス(不死者)」と取り合わせるとは、言葉の妙ですね。
 中編ごとに語り手は変わり、ときには同じ作品の中でも語り手が変わったり混乱したりします。この辺にはSFでなければ書けない必然性があります。また「海」と「サバンナ」と「宇宙空間」との“相似性"が舞台設定として重要ですが、これまたSFならではの設定ですね。
 残念ながらタナトス戦闘団は全滅してしまいました。私個人としては、とっても残念な気持ちです。だけどこれが「戦争」なのでしょう。
 そうそう、「脳」だけ取り出して兵器に組み込む、と言うと荒唐無稽なSFに見えますが、「人間を単なる兵器システムの部品として扱う」「人間の尊厳を無視して使い捨てにする」と一般化したら、それはまさに現在の戦争のことでもあります。本シリーズの「戦争」は、SFとして非現実に逃避しているのではなくて、SFとして現実にきっちり対峙している、と私には感じられました。



乗車アプリ

2019-09-25 07:23:11 | Weblog

 タクシーを呼ぶアプリを使ってみて、その手軽さに驚きました。ならばこれを進化させて、便乗アプリというのもできないでしょうかと思いました。日常的に、たとえば通勤に「誰か○○まで乗っけていって」と依頼して近くでその辺まで行く人がいたら便乗させてもらうアプリです。
 と思ったら、すでにあるんですね。これがもっと普及したら、通勤の渋滞が少しは減るのではないかな。というか、これが普及しない理由は、何?

【ただいま読書中】『最後の戦闘航海(航空宇宙軍史完全版(3))』谷甲州 著、 早川書房、2016年、1400円(税別)

 (第一次)外惑星動乱は外惑星連合の敗北で終わりました。木星系最大の軍港だったドルトン・リッジ軍港もさびれてしまい、目立つのは掃海隊だけです。航空宇宙軍が施設した機雷の除去が任務です。ただし航空宇宙軍からの支援はほとんどなく、老朽化した艦を不十分な機材と不十分なメインテナンスと足りない人員とでやっとこさだましだまし運用している状態です。
 戦争が終わっても掃海隊の戦いが続く、はかつての日本も経験しています。アメリカ軍によって大量にばらまかれた機雷は、「戦争が終わったぞ」といくら言っても起爆装置は解除されません。強制的に排除するしかないのです。アメリカ軍は自分の命をそんなことにかけたくはありませんから旧日本海軍の掃海艇が“大活躍する(酷使される)"ことになりました。
 敗戦国の軍人ではあるが、矜持と責任に支えられて掃海業務を行っていた(旧)ガニメデ宇宙軍の田沢は、航空宇宙軍から妙な任務を押しつけられます。ガニメデ軍の重力波研究施設があったヒマリアは航空宇宙軍によって機雷封鎖され、基地の人間は補給も不可能となったため脱出しようとして機雷に食われて全滅していましたが、そこのコンピューターのデータを取り出してこい、というのです。
 ガニメデでレジスタンス活動をしていたカミンスキィ中佐は、旧ガニメデ軍の兵士を次々脱出させてガニメデから“行方不明"にしようとしているレジスタンス組織のボスが、とんでもない戦争犯罪をしていたことを探り出してしまいます。ヒマリアにはもう一つ研究施設がありそこで航空宇宙軍の捕虜を使っての生体実験が行われていた、というのです。
 次々襲いかかる機雷をかわしてやっとヒマリアに着陸した田沢たちは、そこで戦争犯罪の動かぬ証拠を発見してしまいます。
 シリーズ物ですから、過去に登場した人が再登場したりあるいはその関係者が登場したりします。しかし、過去に月面で重要な役割を果たした人の子供が孤児となって登場したのには、私は悲しくなってしまいました。いや、同姓の別人かもしれませんけれどね。
 航空宇宙軍は「戦争に勝つこと」「戦後処理をきちんとすること」だけではなくて「外宇宙探査」という大きな目標を持っていることが作中で示唆されます。なぜ航空宇宙軍は太陽系外を目指すのか、そもそも人類はなぜ宇宙を目指すのか、これはおそらく読者への著者からの問いかけでしょう。



雨上がり

2019-09-24 07:26:14 | Weblog

 洗車後すぐに拭き上げないと、車体に付着した水球が自然乾燥して水の成分が濃縮したのが車体の上で点状のシミになる、と教わったことがあります。ずぼらな私は洗車そのものをあまりしませんが、そんなに熱心に拭き上げる人は、雨上がりにも即座に洗車して拭き上げているのでしょうか。雨粒って水球の中核はホコリできれいなものではないんでしょ?

【ただいま読書中】『江戸の女たちの湯浴み ──川柳にみる沐浴文化』渡辺信一郎 著、 新潮社、1996年、1068円(税別)

 江戸庶民は「風呂屋」は「遊女屋」、「湯屋(湯ゥ屋と記述されている例もあるので「ゆうや」が正式な発音でしょう)」は「入浴するところ」と区別していました。入れ込み湯(男女混浴)が基本でしたが、独立した女湯がある湯屋もありました。入れ込み湯での痴漢行為や立ち小便のふりをしての女湯の覗きなども横行し、それについての面白い川柳が次々紹介されます。
 水や燃料が潤沢に使えるわけではないので、江戸の湯屋稼業は大変です。また、火を使う商売なので火事を起こしてはいけないと気を遣います。
 江戸の「薬湯」は温泉のお湯を運んできて入浴させていましたが(通常の湯屋の入浴料は八文ですが、江戸の薬湯だと湯河原や熱海の湯は二十文、箱根芦の湯は三十二文だったそうです)、大坂では「薬湯」と称して、湯屋と料理屋兼業の商売がありました。温泉の湯を運ぶだけではなくて、薬草を煮出した「薬湯」で商売する人もいたそうです。現在広く売られている「入浴剤」の元祖ですね。
 物日(ものび、紋日とも)は特別なことが行われる日で、湯屋ではお茶を出したりし、客はそれに対して十二文をはずんでいました。江戸では特別に「菖蒲湯」「桃湯」「柚子湯」も提供していました(京阪ではこれは行われていたなかったそうです)。
 女性は生理の時には湯屋には行きませんでしたが、そろそろ終わりの時期には行きます。ただ、湯船には浸からず上がり湯だけで帰るのですが、それを見ている好色な男がいろいろ川柳を詠んでいます。
 昔の入浴では、男女とも入浴用の褌(湯ふどし)を着用しました。女性には湯帷子という下着もあります。これらを直接言わずに「もじ言葉(おしゃもじ、かもじ、そもじ、などの女房言葉)」で「湯もじ」と言ったのが「湯文字」の語源だそうです。
 江戸時代の「水風呂」は、冷水のお風呂、ではなくて、「蒸し風呂」に対して、湯船に「水」を入れた「風呂」(入れてから湧かす)のことでした。ということはそれまでは水を使わない風呂の方が主流だったわけです。
 江戸の女性は夏には行水を愛用しました。湯屋のお湯は汚れていることが多くそれを嫌ったようです。しかしそれは男どもにはかっこうの“娯楽(=覗き)"となりました。混浴に行けばいくらでも堂々と見ることができる女の裸を、わざわざこそこそと覗くのは、男の「性(さが)」なんですかねえ。



前畑がんばれ

2019-09-23 07:49:38 | Weblog

 選手個人が努力するのは当然ですが、周囲が頑張るべきは「選手の集中力を増す」「選手の記録が向上するように具体的なサポートをする」することであって、無意味に「頑張れ」と言うことではないはず(いざ選手がスタートしたら力を振り絞るために「頑張れ」の声援にも意味が生じるでしょうが)。
 そんなに「頑張れ」を言いたい人って、たとえば自分が明日入学試験だ、という夜に親に「頑張れ、落ちたらどうするんだ、頑張れよ、頑張れよ、頼むから頑張ってくれよ」と延々と言い続けられたら、翌日実力が発揮できるタイプなのでしょうか? 「言う立場」を「言われる立場」に置き換えてみたら、どんな気分がするか簡単にわかるような気がするのですが。

【ただいま読書中】『南極ではたらく ──かあちゃん、調理隊員になる』渡貫淳子 著、 平凡社、2019年、1400円(税別)

 就職、結婚、出産、子育て、をしていた著者がなぜか一念発起、3回目のトライで一般公募試験を突破して南極越冬隊の調理隊員になってしまいます。
 「南極の調理隊員」と言えば『南極料理人』を思い出しますが、あちらは海上保安官出身で、こちらは一般人の「母親」です。
 南極観測船「しらせ」から昭和基地まではヘリコプターで10分、とか、夏期隊員(夏の間だけいて越冬の準備をして冬の直前に帰国する)は白夜の時だけいるから「日帰り」と呼ばれる、とか、現場の人間じゃないと書けない小さなことが散りばめられています。調理人として日本と明らかに違うのは「食糧補給は1年に1回だけ」「生野菜はほとんどなし」「ごみはすべて持ち帰る、排水にも制限がある(残ったスープも流さず生ごみ扱い)」。これらは当然メニューの組み立てに大きな影響を与えます。また、調理隊員は二人体制ですが、大体は交代制としていたそうです。
 越冬隊員は三十人。その一日三食、間食、夜食を全部面倒見なければなりません。さらに勤務態勢は各職種でばらばら。それぞれが違った時間帯で動くと、それに対応するのは大変です。ちなみに、通しで1日勤務の日は、朝4時半に仕事を始めてずっとくるくる動き続け、仕事が大体終わるのが22時頃だそうです。
 さらに、夏は土木作業、冬は雪かきの仕事もあります。ちなみに、雪上車の運転は著者のお気に入りとなったそうです。
 補給は1年に1回ですから、出発前から準備が必要です。人間一人が1年間に消費する食料は約1トン、すると30人分だと30トン! これをあらかじめきちんと発注しておかなければならないのです。隊員の出身地はばらばらで、しかも個人の嗜好もバラバラ。調味料も出身地に合わせて各種取り揃えます。予算は隊員の給料から差し引かれるので、そちらも気にしなければなりません。結局アイテム数は2000を越え、倉庫や冷凍庫のどこに何があるのかが探しきれないこともあったそうです。さらに「賞味期限」はすべて切れています(日本では10月に積み込み、生鮮品はオーストラリアで積み込みますが、使い始めるのは2月です。冷凍しているから基本は大丈夫ですが、魚は酸化して味が落ちる・クリームは分離する・チーズはぼろぼろに、と調理人は大変です。そうそう、発注作業がばたばたしていて、「鰈」を「枚」ではなくて「kg」で発注したため予定より3倍の納入となり、その消費に頭を悩ます、なんて笑い話もあります。「なんだかやたらと鰈の唐揚げがよく出てくるなあ」と隊員は思ったかな?
 カレーは人気料理ですが、油が多く鍋を洗うのが大変です。水の使用にも制限があるのです。そこでカレーの次は鍋にこびりついたものをこそげるようにしながら野菜を追加してカレースープにしてしまいます。これだと鍋もきれいになります。牛丼を作ると汁が余ります。そこに豆腐を入れて煮ると、肉豆腐風になります。鍋の底には野菜クズや細かい肉がまだ残っていますが、これはカレーに入れちゃうそうです。ビーフシチューも残ったものはカレーに化けさせるそうです。いや、カレー様々ですね。
 しかし、フードロス対策として、この南極料理、役に立つのではないかしら。しかし、残り物があったらとりあえずおにぎりにしてみた、というのには笑っちゃいます。しかしハイカロリーの「悪魔のおにぎり」が隊員の小さな幸せにつながっていたのには、ちょっとこちらもほっこりします。
 生野菜はほとんどありませんが、キャベツはなんと8箇月くらい保つそうです。だったらなるべく生で食べて欲しい、ということで、火を通してしまうお好み焼きを作るのにも著者は躊躇したそうです。
 季節の行事には特別食。たとえば夏には流し素麺。もちろんそんな装置はありませんが、さすが専門家集団、なければ作る、で、塩ビ管は設備隊員、台は建築隊員が作り、さらに水の循環システムまで組み込まれてしまいました。なお秋には、南極観測隊恒例の「氷山流し素麺」があります。氷山に溝を切っての流し素麺ですが、お湯で流さないとすぐ凍りついて流れなくなってしまうそうです。面白そうだなあ。顔が凍りそうな気がしますが。
 調理隊員の仕事場は、基地だけではありません。野外の観測拠点となる小屋や雪上車の車内で調理をしたこともあります。応用力が問われます。
 女性ならではの問題もあります。たとえば生理用ナプキン。著者は環境のためにと布ナプキンも持参しました。ところがこれを洗うのに大量の水が必要となります。南極で水は貴重です。ごみを減らすか・節水をするか、けっこう大きなジレンマです。これ、たとえば将来の火星探査の長期間飛行の場合にも、問題になるんじゃないかな。なお、越冬中に化粧をしたのは2回だけ。帰国後もその癖が抜けず、しばらくは観測隊員のような恰好をしていたそうです。“社会復帰"が大変です。
 南極観測は、科学的に重要なプロジェクトです。しかしそれ以外にも重要な社会実験としての意味があるのではないか、と私には思えます。もうちょっとその内容を国はみんなにアピールしても良いのではないかな。



貧弱

2019-09-22 07:38:53 | Weblog

 貧=弱でしたっけ?

【ただいま読書中】『25グラムの幸せ ──ぼくの小さなハリネズミ』マッシモ・ヴァタケ、アントネッラ・トマゼッリ 著、 清水由貴子 訳、 ハーパーコリンズ・ジャパン、2018年、1500円(税別)

 人生の目標を見失っていた獣医のマッシモは、親からはぐれた状態で保護された体重25グラムのハリネズミの赤ん坊(雌)の世話をしていて、その恐怖と絶望を突然理解します。マッシモ自身が子供の時にそれを経験していたのですから。「死」とギリギリの所にいるもろい生命を保護していて、マッシモは自分がこの「子」に愛情を抱いていることを自覚します。
 しかしマッシモの「愛情」は、ちょっと偏りがあります。アフリカ旅行をするのでニンナ(ハリネズミの子供の名前です。日本語だと「ねんね」)を母親に預けても、心配で心配で毎日電話で無事を確認しています。それどころが、母親が「実は……」と暗い声で言った瞬間に「ニンナが死んだ」と思い込み、「実は転んで手首を骨折しちゃった」と聞いた瞬間「それは良かった」と言ってしまうのです。これ、母親からみたら、どうなんでしょうねえ。
 マッシモは「ハリネズミ保護センター」の立ち上げを思いつきます。思いついたらすぐ動く、のですが、そこに待ったがかかります。法律では公式の「野生動物保護センター」に連れて行かなければならないのです。
 今までハリネズミが何を食べているのか、考えたことがありませんでしたが、肉食だそうです。だからキャットフードも食べます。庭に放すと昆虫も。また、寒くなると冬眠します。
 庭に迷い込んできた別のハリネズミの子(こんどは雄、名前はニンノ)も保護したマッシモの「ハリネズミ保護センター」構想は、さらに膨らみます。
 ニンナとニンノがマッシモの自宅で冬眠に入って数箇月、マッシモは路上でがりがりに痩せたハリネズミを拾います。夜の道を車で走っていて、路上にうずくまっている小さな影を見ただけで「保護を必要としているハリネズミだ」と気づくとは、ほとんど超能力です。衰弱に対してまずは点滴(マッシモは獣医ですから自分でやります)、そして検査をすると肺線虫感染とわかります。マッシモはそのハリネズミ専属のシェフ兼主治医となり、特製の餌を食べさせ治療をします。
 本書の中ほどに写真が何枚もありますが、たしかにキュートです。ただ、安全な動物ではありません。しっかり噛みますから、用心は必要です。
 そしてマッシモは、行政の許可を取り、自宅にハリネズミ保護センターを開設します。名前は「ラ・ニンナ」。さらに友人の所に自然に恵まれた広大な土地を確保します。癒えたハリネズミを自然に帰すための施設です。
 健康なハリネズミは、食べて成長して冬眠に耐えるくらいの体重になれば、そのまま自然に帰れます。病気のハリネズミはその前に治療が必要です。では、もう治らない障害を持ったハリネズミは?
 自然は厳しいものですが、マッシモはその中に美を見つけます。そして、そういったマッシモの行為が、私には美しいものに感じられます。



100%の確かさだけを求めると……

2019-09-21 06:53:38 | Weblog

 たとえ確率が低くても起きたらとんでもなく重大な結果を招くこと(たとえば原発の事故)に対しては、とことん考えられるだけの予防措置を可能な限りしておく、がリスク管理の常道です。ところが今回の裁判では、東京電力幹部の明らかな「未必の故意」に対して「100%津波が来る、とは言えなかったから、何もしなかったのはOKOK」と裁判所のお墨付きが出ました。
 この裁判官って、自分の判断が100%正しい、という自信があって判決文を書いたんですかねえ。少なくとも私から見たら「東電幹部も裁判官も明らかにリスク管理の勉強が足りないのを屁理屈で誤魔化しているだけ」と思えるのですが。

【ただいま読書中】『殴り合う貴族たち ──平安朝裏源氏物語』繁田信一 著、 柏書房、2005年、2200円(税別)

 源氏物語や平家物語から、私たちは「雅な貴族の世界、野蛮で残酷な武家の世界」という印象を持ってしまいます。しかし、それは本当でしょうか?
 本書の巻末に11〜12世紀に渡る「王朝暴力事件年表」がありますが、貴族による殺人・強奪・集団暴行・監禁・強姦・邸宅破壊……いやあ、貴族もけっこう“野蛮"です。
 まず紹介されるのは、万寿元年(1024)七月十七日、権右中弁藤原経輔と蔵人式部丞源成任のとっくみあいの喧嘩です。しかし場所がすごい。内裏の中枢である紫宸殿で、後一条天皇が相撲観戦をしているすぐそばなのです。この話を聞いた小野宮右大臣藤原実資は前代未聞だと嘆息しています。さらに4日後には藤原経輔が源成任を一方的に「打ち凌じ」ています(と藤原実資は日記に残しています)。この現場も内裏で、這々の体で源成任は蔵人の控え室に逃げ込みましたが、藤原経輔の従者たちは外からがんがん控え室を破壊してしまいました。
 藤原家と蔵人とでは、同じ貴族でも身分には天と地ほどの較差があります。殿上人の藤原経輔としては、復讐される心配はほとんどない状況での暴行だったのでしょう。
 藤原経輔と同じ「藤原道隆の孫」である藤原道雅は「荒三位」の異名を取る暴れん坊でした。彼は「いまはただ/思ひたえなん/とばかりを/人づてならで/いふよしもがな」の名歌で知られています。この歌は禁断の恋(臣下と皇女の恋は禁止でした)として引き裂かれてしまった自分の思いを詠ったものだそうですが、こういった「身分の壁」に対する鬱憤を「暴れること」で晴らそうとしていたのかもしれません。
 貴族の従者には、兵(つわもの、武士のようなもの)もいましたが、多くは武道には素人、しかし荒くれ者が揃っていました。主人の言うことなど聞かず、乱暴狼藉をして、もしそれでひどい目に遭ったら集団で復讐に出かける連中です。それが主人から「○○の家で暴れてこい」と言われたら、これはもうストッパーが外された暴力集団です。まず掠奪をしてから邸宅を破壊してしまった、の例がいくつか本書には紹介されています。
 「幼稚で凶悪な御曹子たち」の章では、藤原道長一族が取り上げられています。道長自身もあまり学がなくて行儀が悪い“御曹子"ですが(『御堂関白記』(道長の日記)を一読したらその学の無さはすぐわかります)、その息子たちの多くもまた素行の悪さでは父親以上であることを誇りました。彼らの、実に幼稚な動機による暴力沙汰は、読んでいてため息しか出ません。
 「源氏物語」や「枕草子」からは、内裏での女房の生活は(表面上は)穏やかなものだったようなイメージですが、たまには暴力沙汰もあったようです。道長の日記には、三条天皇の女房の一人が「闘乱」を起こした、と記録されています。相手は男で、翌日検非違使が現場検証をしている、ということは、けっこうな事件のようです。もっとも捜査資料は残されていないので、事件の詳細についてはよくわからないのですが。
 なお本書は、角川ソフィア文庫で入手可能です。