【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

過激な手段の効果

2020-08-31 07:04:20 | Weblog

 テロや暗殺は、一部の人には(ドラえもんのひみつ道具のように)人気があります。しかし、テロや暗殺で思うような結果が出せたことってどのくらいあるのでしょう? 少なくとものび太はドラえもんの道具で思うような結果を出せたことはないですよね。

【ただいま読書中】『暗殺が変えた世界史(上) ──カエサルからフランツ=フェルディナントまで』ジャン=クリストフ・ビュイッソン 著、 神田順子・田辺希久子・村上尚子 訳、 原書房、2019年、2000円(税別)

 世界史から様々な「暗殺」について取り上げていますが、著者は「暗殺された人」と「暗殺した人」の両方をほぼ同じ態度で取り扱います。「暗殺」はそれぞれ違うので、簡単に「共通点」とか「教訓」とかは得られません。それぞれ個別のケースを「ふうん」と感心しながら読むしかなさそうです。ただ「正義」によって実行される、とか「警備の穴(不備)」と「暗殺者の幸運」が重なると成功しやすい、とかは見えてきます。
 上巻で取り上げられるのは「ユリウス・カエサル」「アンリ三世」「ロベスピエール」「リンカン」「マクシミリアン・フォン・ハプスブルク」「アレクサンドル二世」「オーストリア皇后エリーザベト(通称シシィ)」「オーストリア皇太子フランツ=フェルディナント」。おや、ハプスブルク家から三人もエントリーしています。
 カエサル暗殺で目立つのは、暗殺者たちの子供っぽさです。キケロに「大人の勇気と子どもの知恵をもって実行に移された」と辛辣に評されるわけです。アンリ三世には私は同情します。あまりに周囲の政治(と宗教)情勢が複雑で、どのように行動しても敵を作るしかない状況ですから。アレクサンドル二世はある意味お気の毒です。6回も暗殺未遂があったのですが、逆に言えばそれだけ暗殺行為が実行できた、ということです。銃撃や爆弾など、次から次へと襲撃があるとは、どれも「未遂」つまり命が助かったのは皇帝にとってはラッキーですが、警備は何をしていたんだ?という疑問が当然浮かび上がります。さらに、ついに成功した暗殺で、瀕死の皇帝を宮殿に運ぼうとする人々の中に、とどめの爆弾を所持したテロリストが“予備”として混じっていた、というのを読むと(死ぬのは明らかだったので、その爆弾は使用されませんでした)、人を殺そうと誰かが真剣に思ったらそれを止める手段はないのか、とも思えますが。
 上巻の最後は「ヨーロッパが終わった日」と副題がついたサラエヴォでの暗殺。最初にこのことを私が知った世界史の教科書には「セルビア民族主義者にオーストリア皇太子が暗殺され、それがきっかけとなって第一次世界大戦が始まった」と実に簡単に書かれていましたっけ。当時バルカン半島は「火薬庫」でした。オスマン帝国の弱体化、セルビア・ブルガリア・ルーマニア・ハンガリー・クロアチアの民族統一主義、ロシア・ドイツ・オーストリアの三帝国の利害の衝突、これらがすべて絡み合っていたのです。なおイタリアは当初三国同盟(ドイツ、オーストリア側)でしたが、のちに三国協商(英仏露)に鞍替えすることになります。イタリア独立とドイツの台頭で「西」で失ったものを「東」で取り返そうとオーストリアはボスニアを併合。その二日後にベオグラードに「ナロードナ・オドブラナ(民族防衛団)」が誕生。ボスニア独立どころか、南スラヴの統一を目標とします。そして、オーストリアの皇位継承者(皇帝の甥)がサラエヴォを訪問することに激高した青年たちは、組織の上部に話を通して暗殺の支援を取り付けます。組まれたチームは2つ、メンバーは7人。5人は未成年で、一人はイスラム教徒でした。この若きテロリストたちは「フランツ=フェルディナント」を名前と属性でしか知りませんでした。その実像が「皇帝とは仲が悪く、ボスニア併合に反対していて、南スラヴ自治連邦創設に熱心だった」ということを知ったら「暗殺の標的としては完全に間違っていた」ことがわかったでしょうに。さらに彼は「オーストリアとロシアの戦争が起きたら、どちらかあるいは両王家が消滅する」と見抜いてもいました。あらあら。

 


丁寧に説明

2020-08-30 06:37:39 | Weblog

 安倍首相、自分の病気についての説明は、実にわかりやすい丁寧なものでした。「しなければならない」と言わなくても、やればできる。

【ただいま読書中】『古生物食堂』土屋健 著、 黒丸 絵、技術評論社、2019年、1980円(税別)

 この本を読むためには、まず著者の世界観(漁船が網を上げたら、たくさんの魚に時々アノマロカリスが混じっている/スーパーでは三葉虫を普通に売っている、など)を受け入れる必要があります。その上で、それらの“食材”をどのように美味しく食べるか、のレシピを読むのです。初っ端は「アノマロカリスしんんじょう揚げの甘酢餡かけ&みそディップとフィンの素揚げ」、つぎは「三葉虫のお好み焼き」です。もう「わはははは」と私は爆笑です。
 著者は単にふざけているわけではありません。「古生物が食えるのか、どんな味か」の生物学的な面と、「料理としてどのような手法があるか」の料理の面と、きちんと監修を受けています。その上で「モデル生物(似た味と想定できる現在の生物)」を料理する手順に古生物を入れ込んでいるのです。なかなか複雑な努力が必要です。
 しかし、アノマロカリスのあのでっかい胴体はほとんどがエラで食べるところはない、なんていわれるとがっかりですね。あそこがボリュームの点で一番大きいのですから。
 ちなみに私が一番笑ったのは「恐竜卵のふわっふわ目玉焼き」。卵を取るとき見つかると親が怒るぞ、なんてことを思うと同時に、『ぐりとぐら』の「大きな卵」を思い出してしまいました。
 たとえ古生物が手に入らなくても、本書で紹介される料理は“代替物”で作っても美味しそうです。
 感想として書くのを忘れちゃいけないのは、黒丸さんの絵です。和服に割烹着の美人女将が真剣な顔で古生物を料理している絵柄は、シュールでキュートで魅力的。いやあ、一度読み終えた後、ぱらぱらめくって絵だけ鑑賞してしまいました。

 


不測の事態

2020-08-27 07:27:06 | Weblog

 コロナ禍という不測の事態ではおろおろするばかりだった爺さまたちが、首相退陣という不測の事態では妙に生き生きしている姿を見ると、「なんだかなあ」という感想を持ってしまいます。
 ところで「病気だから首相をすることができない」という言葉で皆が即座に納得する、ということは、“皆の意識”に「健康人以外は責任のある職務についてはいけない」が共有されている、つまり「障害者や子育て中の人間などは役職に就いてはいけない」ということに? 私はどんな(生物学的あるいは社会的な)ハンディキャップがあっても、能力がある人はその能力を活かすことができる、そのためには皆が助け合う、そんな社会であって欲しいんですけどね。そしてそんな社会だったら、障害を持った首相が辞めるときにはまず感謝の言葉から始めるでしょう。

【ただいま読書中】『仏教における女性差別を考える ──親鸞とジェンダー』原淳子 著、 あけび書房、2020年、1500円(税別)

 浄土真宗大谷派の中に、解放運動推進本部があり、そこから著者に「2018年度の人権週間ギャラリー展のテーマは『経典の中で語られた差別』で4部に分かれているが、その第4部『経典に表された女性差別』の監修をやってくれないか」という依頼がありました。張り切って著者たちは7枚のパネルを仕上げます。ところが突然「総長が3枚のパネルを会場から外す、と判断した」と。著者は混乱し、それから猛然と腹立たしい思いに襲われます。これは「セクハラ」ではないか、と。少なくともパターナリズムによる行動であることは間違いありません。そこで著者は、新しいパネルの制作をすると同時に、本部に対する抗議活動を始めます。
 著者は別に「仏陀や親鸞は、女性差別をしていた」と“告発”したいわけではありません。むしろ彼らが当時の社会の中では異例と言える活動をしていたことを見つめます(私の言葉で言うと、マイナス100の社会をマイナス50にしようとする行動は、「何だ、目指すのはマイナス50の社会かよ」とネガティブに評価することもできるが、「マイナス100をマイナス50にしようとする、つまりプラス50の努力だ」とポジティブに評価することもできる、ということです)。さらにややこしいのは、著者の活動が「現代社会に生きる者」のものであると同時に「浄土真宗大谷派の信者(さらには僧籍にある者)」としての側面も持っていることです。
 著者の動きはマスコミの注目を引き、話は大きくなっていきます。その副産物のように、浄土真宗の各派(なんと十派もあるそうです)を横断的につなぐ女性の会が生まれます。
 仏典には「女人五障・三従」(女性は、梵天王・帝釈天・魔王・天輪王・仏になることができない/女性は幼少時には父母に従い妻となっては夫に従い老いては子に従わなければならない)「変成男子」(女性が成仏するためには一度男になってから)、といった不思議な教えが含まれています。仏陀は「人は皆成仏できる」と説き、親鸞は「南無阿弥陀仏で全員成仏」と言ってますが、そこに「実は男女では……」という条件付けはありません。ということは、「男えらい女だめ」が“常識”の社会に、「女も成仏できるんだよ」と説くための“方便”としてこれらの言葉が使われた、ということなのかな?(上記の「マイナス50か、プラス50か」です)
 いや、それは「仏教徒」としては「良いこと」かもしれません。しかし「現代人」としてはどうでしょう。「過去に仏教は良いことをしたのだ」とそこ(マイナス50の世界)で停止してしまうのは、これは明らかに「マイナス50」では? 親鸞さんだってそれまでの仏教を大きく作り替えてしまったのです。だったら現代の人も仏教をさらに作り替えても仏陀さんに叱られることはない、と思いますよ。

 


最近の若者は、という人もかつては若者だった

2020-08-27 07:27:06 | Weblog

 最近、凶悪な少年犯罪が増えている、と感じている人は、常に一定数以上いるそうです。増えているかどうかは統計を見たらすぐわかるのですが(日本では1970年代がピークで、あとは減る一方です)、なぜか「増えている」と思っている“大人(「最近の若者は」と言う人)”がいる。そう思っている人が、日本で少年犯罪が今より多かった時代に少年だった、というのは、ちょっと面白い、とは思えますね。

【ただいま読書中】『少年の「問題」/「問題」の少年 ──逸脱する少年が幸せになるということ』松嶋秀明 著、 新曜社、2019年、2300円(税別)

 本書のキーワードは「レジリエンス」です。いろいろ定義はあるそうですが、本書では「大きな脅威や深刻な逆境にさらされること」と「良好な適応を達成すること」の両立、としています。もう一つ重要なキーワードは「ナラティブ(物語知、ライフヒストリー)」。
 しかし本書のテーマは一筋縄ではいきません。まえがきには「さらば青春の光」のコント『更生』が紹介され、「単純に更生させれば良い」という主張がどこまで正しいのか、笑いとともにこちらに考えさせるように仕組んであります(このコントを見たい人はyoutubeなどでどうぞ)。
 不良少年についての専門職の記録を「うすっぺらい記述」とマイケル・ホワイトは呼ぶそうです。このへんの解説を読んでいて私が感じたのは「属性で判断をする人々」のことでした。それぞれの人のことを「自分の人生(生きる意味)を生きている個人」であると見なすのではなくて、ある属性(たとえば「人種」『ジェンダー」「児童虐待」「障害」「母子家庭」など)で簡単に分類してその属性に対する判断をその個人に投影する人たちのことです。そういった人たちが書くものは簡単に「うすっぺらい記述」になることでしょう。というか、書いている人自身が抱える「問題」がその文章にそのまま投影されているだけでしょうね。
 教師に関しても職務だけを見るのではなくて著者は「ナラティブ」を重視します。首尾一貫しています。しかし「日本では教師にヤンキー性(熱血、真心、体当たり)が求められている」という指摘には笑ってしまいました。テレビドラマだったら熱血教師一人によって不良どころか学校全体が変革してもいいのですが、現実の学校でそれを求めるのは、上手くいけば良いけれど下手すると多くの悲劇が生まれますから。
 多職種の連携が現在の学校では重視されていますが、スクールカウンセラーが初めて導入されたとき、学校の閉鎖性の中でどのくらい彼らが苦労したか、は私も直接聞いて知っています。また「多職種」の中には「警察」も存在します。10年くらい前に「学校警察連絡制度」が導入され、アメリカの「ゼロ・トレランス方式」に基づいて「毅然とした対応」が学校に求められることになりました。著者は、警察に所属する補導職員にもインタビューを行っています。インタビュー、というか、心理面接ですが。ここでまず見えるのが「学校と警察のギャップ」です。学校は「自分たちではもうどうしようもない生徒の行動を警察の権威で抑制したい」という「抑止力」を警察に求めますが、警察からは「学校が教育を放棄して警察にその仕事を押しつけようとしている」と見えるのです。あ、これは私の商売でもありますね。私も他の職種からいろいろなことを求められますが、こちらからは「それ、自分たちで、本当にできないの?」と思うことはしょっちゅうですから。
 本書には「神話」をひっくり返す記述があちこちに散りばめられています。たとえば「虐待の世代間伝達」。虐待されて育った子供が親になったとき、こんどは自分の子供を虐待するようになる、という衝撃の話ですが、実はこれ、確率は3割だそうです。そもそもオリジナルの論文にそれが書いてあるのに、数字を無視して「虐待は世代間で伝達される」と大声で騒ぐ人が「神話」を作ったようです。また、子供が非行に走ったときまず責められるのは「親(の育て方)」です。ところが実際の調査では「悪い友人」の方が影響力が強いことがわかりました。あ、これは私の学校内での経験を思い出すと、納得できます。
 四半世紀前、来たるべき(というか、現在来ている)高齢化社会について考えていたとき、「マスコミなどでは『老人問題』と言っているが、それは『老人』が問題を抱えている、ということか? しかしどの時代でも老人は老人のはず。では『老人が問題だ』と声高に言う社会の方が『問題』を抱えているのではないか?」と思ったことがあります。そして同じことは「問題少年」についても言えるのかもしれません。「少年」が「問題」を抱えているのでしょうか? それとも「問題」の方が「少年」を抱えているのでしょうか?という本書のタイトルの形にしても良いですが。

 


真空

2020-08-27 07:27:06 | Weblog

 「真空」を「何もない空間」と思っていたら、「真空の相転移」なんて言葉に出くわして眼をぱちくり、は何年前のことだったでしょう。さらに「ヒッグス場」を信じるなら、「真空」には「なにか」がぎっしり詰まっていることになります。「真空」って、一体、何?

【ただいま読書中】『トコトンやさしい真空技術の本』関口敦 著、 日刊工業新聞社(B&Tブックス)、2019年、1500円(税別)

 「真空」はJISに「通常の大気圧より低い圧力の気体で満たされた空間の状態」という定義があります。真空には「大気圧を感じる(真空掃除機、真空ピンセットなど)」「酸素が少なくなる(缶詰、真空パックなど)」「熱や音が伝わりにくくなる(魔法瓶など)」「蒸発しやすい(真空凍結乾燥など)」「放電しやすい(蛍光灯など)」「障害となる分子が少なくなる(高エネルギー物理学研究や重力波望遠鏡など)」といった特性があります。最後のはともかく、「真空」はけっこう身近に存在しているようです。
 「真空」を最初に観察したのはベルティです。10mの鉛管の上部にガラス玉を取り付けた装置に水を満たして立てるとガラス玉の内部に空間が生じることを発見しました。ただしそこが「真空」であることの証明はできませんでした。証明したのはガリレオ・ガリレイの弟子のトリチェリです。水銀と水を使って実に巧妙な実験を行っていますが、よくこんなに単純で明確な立証実験を思いついたものだ、と感心します。そもそも「大気には重さがある」ことを立証することが大前提で、それも大変な知的作業です。
 「圧力」に関してはパスカルの貢献が大きく、だから圧力の単位は「パスカル(Pa)」です(1Pa=1平方メートルに1N(ニュートン)の力)。ただ他の単位(たとえば「気圧(atom)」「bar」「Torr(水銀柱の高さ)」なども使われています。そういえば昭和の時代の天気予報では、高気圧や低気圧は「ミリバール」で表現されていましたっけ。「1気圧」が「1013ミリバール」と私は覚えています。
 真空の「種類」もJISで「低真空」「中真空」「高真空」「超高真空」と規定されています。さらに参考として「極高真空」もありますが、これは月軌道レベルの真空だそうです。国際宇宙ステーションは「高真空」と「超高真空」の境目あたりを飛び、静止衛星は超高真空、と図示されているのを見ると、「宇宙空間は真空」とは簡単に言わない方が良さそうだな、とも思えます。それぞれの領域の「真空」を得るために真空ポンプは別のタイプのものを使う必要があります。
 家庭の中にも「真空」はたくさんあります。昭和の時代だったら、電球・ブラウン管・真空管……ああ、どれも絶滅している。衣服を収納するための真空パック、それから空気を吸い出す掃除機も「真空」を使っています。最近では電気炊飯器にも真空炊飯器があるそうです。
 本書の後半は「様々な真空ポンプ」のオンパレード。著者はこのへんが大の得意のようです。私自身はもうモーターのコイルも巻けなくなってしまいましたが(子供の時にはできていたんですけどねえ、老眼と手の巧緻性低下がうらめしい)、モーターの構造図を見ているだけで楽しくなってきます。

 


平清盛と厳島神社

2020-08-26 06:37:35 | Weblog

 平清盛が厳島神社を創建した、と私はなんとなく思っていましたが、『平家物語』を読んでいてさてそれは本当か?と疑問を抱いたので、何冊か関連しそうな本を読んでみることにしました。

【ただいま読書中】『平清盛と宮島』三浦正幸 著、 南々社、2011年、1400円(税別)

 厳島神社の創始は推古天皇癸丑(みずのとうし:西暦593年)と伝えられています。社殿の創建はおそらく飛鳥時代〜奈良時代。ただし最初は「陸上の社殿」でした。現在の「海上社殿」は平安末期、平清盛によって創建されています。現在神社が建つ入江は、古代から定期的に土石流に襲われるところで、平安時代にはほぼ土に覆われていたと推定されます。ただ、背後の弥山で暴風から守られ、入江なので強い波が立たないという利点もある土地です。そこで入江を埋めた表土を少なくとも3mは掘って岩盤を露出させ、土石流の流れを変えるために背後の川を付け替える、という大工事が行われました。つまり「そこがどんな土地か」を詳しく把握した上で、「海上社殿」が建設されたわけです。そのおかげか、高潮の時に渡り回廊の踏み板が流されそうになったりはしますが、地震でも台風でも神社は致命的な損害は受けずに現在まで至っています。現代の知識でハザードマップを作成しても、清盛が建てたものは見事に危ないところを避けています。
 さらに清盛は「寝殿造り」を社殿に用いました。これは建物だけの話ではなくて、庭園(広大な池とそこに注ぐ水路)も含めてのことで、神社前の入江は「池」、そこに注ぐ川は「庭園の水路」だったのです。なんとも壮大な寝殿造りです。
 厳島神社に近づいてまず印象的なのは、大鳥居です。満潮の時には水に浮かんで実にきれいです。ところが楠の木は海の上での耐用年数は80年。ところが重要文化財だから寿命が来ても建て替えられないのだそうです。昭和の時代に寿命が来たときには、海水で腐食した根元の部分だけ「根接ぎ」が行われました。ただサイズが合う楠の巨木がなかなか見つからず、一本は佐賀県にあったご神木を譲ってもらったそうです。
 本書では、古建築についても蘊蓄が満載です。平安時代の建築技術の高さがいろいろ紹介されますが、後世の修理によってそれが損なわれたところも容赦なく紹介されます。「毛利の安普請」なんて言われたら、毛利家は立場がないのですが、隣接する建物を平行に建てることに失敗している、という“証拠”があるので反論はできないでしょうね。これは毛利家の罪、と言うより、戦乱によって文化/技術が衰退したことが諸悪の根源なのでしょう。つまりは「戦争が悪い」。
 「風食」ということばが登場しますが、これは「木材は、風が当たると100年で3mm目減りする」のだそうです。そのため、外観を眺めるだけで「この建物はできてから○百年」という判断ができるそうな。
 本書では、厳島神社以外の神社仏閣なども多く紹介されていて、なかなかマニアックな観光案内でもあります。コロナ禍が落ちついたら、お参りに行きたいな。

 


証拠主義

2020-08-23 08:14:18 | Weblog

 証拠の積み重ねで犯罪は立証されます。では検察がその過程でズルをしていないことは、どうやって立証すれば良いのでしょう?

【ただいま読書中】『ゴーンショック ──日産カルロス・ゴーン事件の真相』朝日新聞取材班、幻冬舎、2020年、1800円(税別)

 「リニア談合事件」「文部科学省汚職事件(東京医科大学医学部入試での不正)」「三菱日立パワーシステムズ幹部の外国公務員への贈賄事件(日本での司法取引第一号)」などの大型案件を抱えていた東京地検特捜部に「ゴーンが日産の金を食い物にしている。アメリカ大手法律事務所が調査に乗り出している」という情報がもたらされたのは2018年3月。検察は秘かに動き始め、司法取引をこの案件に適用することにします。
 2010年以降の相次ぐ不祥事(厚生労働局長村木さんを冤罪で立件・証拠のフロッピーディスクを改竄、「陸山会」での報告書捏造)で検察は深い傷を負っていました。検察改革で導入されたのが、「取り調べの可視化」そして「司法取引」でした。アメリカの司法取引は「自己負罪型」で自分の罪を認める代わりに刑が軽くなる制度です(アメリカの刑事ドラマで「さっさと自分がしたことを認めたら死刑ではなくなるようにしてやる」なんて言ってますね)。日本の司法取引は「捜査・公判協力型」で他人の犯罪を明かして代わりに自分は不起訴や刑の減免をしてもらう制度。これに対して警察からは「第三者の引き込み」(自分の刑を軽くするために無関係の第三者を陥れる虚偽の供述をする)の懸念からの反対論がありました。この「冬の時代」には、みんなの党元代表渡辺喜美の借入金問題、元経済産業相小渕優子の政治団体の資金処理問題、元経済産業相甘利明の現金授受問題……すべて強制捜査をしながらも政治家本人は起訴されませんでした。だからでしょう「特捜部は事件をやらない」なんてことも言われていました。
 新しい手法を活かして「検察再生」のシンボルになりそうな事件、それが「カルロス・ゴーン事件」だったのです。日産は検察に協力。逮捕のターゲットであるゴーンとケリーを「会議」を名目に日本に呼びよせます。
 「ゴーン逮捕」を最初に特ダネとして報じたのは朝日新聞。他のマスコミも大騒ぎをしながら追随します。しかし同時に「人質司法」に対する国際的な批判や、「役員報酬隠しは単なる形式犯」という批判も渦巻きます。東京地裁は勾留延長を却下。検察は「特別背任罪で3度目の逮捕」という荒技で勾留を延長させます。ただ、日産内部では、「これでやっと日産が“被害者”になった」という安堵感も流れました。役員報酬隠しだけだったら、日産も“共犯”ですから。次の保釈請求は「逃亡の恐れあり」と地裁が却下。弁護士の交代という“ドラマ”が差し挟まれ、逃亡しにくいようにいろいろ条件を整えての保釈請求はこんどは認められます。そういえばあのときの「変装による釈放」もまた一つの“ドラマ”でしたね。
 この頃から海外マスコミの論調が変化し始めます。絶対的な味方だったはずのルノーは「ルノーの資金をゴーンが私的に流用」と発表。他にも様々な「私的流用」が報じられます。そして、4度目の逮捕。今度の容疑は、巨額の資金を中東の日産子会社からワンクッション置いて自分の口座に入れていたことです。このへんの話では「100万ドル」や「1000万ドル」が「単位」として使われていて、読んでいるこちらは頭がくらくらしてきます。そしてついに、まるでスパイ映画のような国外脱出劇。
 日産はもともと「権力者」に支配されやすい会社なのだそうです。その実例が30年以上前に遡って描かれていますが、いやいや、これはまるで全体主義国家だわ。日産OBは「危機になると英雄が現れて会社を救うが、やがて独裁者となり、最後は排除される」と過去を振り返って言っています。ということは「歴史は繰り返す」のかな?

 


19世紀に統一

2020-08-23 08:14:18 | Weblog

 イタリアとドイツは多くの「国」からできていましたが、19世紀に統一されました。その両国から20世紀にムッソリーニとヒトラーが登場したのは、なにか共通するものがあるのかな、とちょっと不思議に思えます。そういえば日本も19世紀にばらばらの藩幕体制から「日本」へと“統一”されました。もちろん「因果関係」はないでしょうが、日独伊三国同盟がすべて「19世紀に統一された国」というのは、本当に不思議な気がします。

【ただいま読書中】『一冊でわかるイタリア史』北原敦 著、 河出書房新社、2020年、1700円(税別)

 紀元前7世紀ころにイタリアにはすでに「ローマの都市」が築かれていました。やがて古代ローマがローマを中心として発展。このイメージが強いため、イタリアと言えばつい「ローマ」と答えたくなりますが、ローマ帝国滅亡後イタリアは長い間いくつもの国家が乱立し、それが統一されたのは19世紀になってからでした。
 中世イタリアでは都市での商業が発展し、その結果封建領主ではなくて商工業者が力を持つようになり、多数の自治都市が生まれました。神聖ローマ皇帝とローマ教皇は対立していましたが(その代表例が「カノッサの屈辱」)、自治都市は教皇との結びつきを強めていきます。12世紀にフリードリヒ一世はイタリア遠征を2回行いましたが、北部の自治都市はロンバルディア同盟を組んで勝利します。南部では、東ローマ帝国領やシチリア島のイスラム領がありましたが、聖地エルサレムへの巡礼としてやってきたノルマン人が傭兵として戦い、そこに神聖ローマ皇帝ハインリヒ三世が南イタリア遠征を行い、最終的にノルマン朝「シチリア王国」が成立します。
 15世紀に東ローマ帝国が滅亡。オスマンに対する危機感を強めたイタリア各都市(特にヴェネツィア、ミラノ公国、フィレンツェ共和国、教皇国家、ナポリ王国)は争いをおさめて「ローディーの和約」で平和を維持することにします。しかし1494年イタリア戦争が勃発。フランス王国が攻め込んだ戦争ですが、1559年までこの戦争は続き、さらにはスペインや神聖ローマ帝国が次々イタリアに攻め込むことになります。
 18世紀初めのスペイン継承戦争では、スペイン、フランス、イギリス、オーストリアがそれぞれの思惑で軍事行動を起こし、シチリアはオーストリア、サヴォイア家はシチリアからサルデーニャ島に移ってそこを王国とします。18世紀にはヨーロッパで啓蒙主義が盛んになりますが、イタリアでの啓蒙主義はあくまで君主制の枠組みを残した社会改革を目指していました。ところがフランス革命でジャコバン派の思想がイタリアに伝わりジャコビーニと呼ばれる人たちが「共和制への移行」「イタリア統一」を訴え始めます。これが19世紀には「イタリア統一運動」につながります。
 イタリアの国旗は三色旗で、フランスのものとよく似ています(実際、フランスの青を緑に置き換えたらそのままイタリアの国旗です)。これは1796年にナポレオン・ボナパルトがイタリア遠征で、オーストリアに支配されていた北イタリアの諸都市を“解放”したことによります。北イタリアに建国されたチスパダーナ共和国では、緑・白・赤の三色旗が用いられ、それがイタリア国旗の原型となりました。
 ナポレオン後のウィーン体制ではイタリアは基本的に「ナポレオン前」に戻されました。しかし人々の意識は元に戻らず、各地で革命が勃発、とうとうオーストリア占領地で独立(とイタリア統一)運動が始まります。1848年の第一次イタリア独立戦争はオーストリア軍の大勝利(それを称えたのが「ラデツキー行進曲」でしたね)。しかし「第一次」と後世呼ばれるということは「第二次」があるわけです。「第一次」のあともイタリア各地では反乱が相次ぎ、オーストリア軍やフランス軍が“活躍”することになります。しかし、サルディーニャ王国はフランスのナポレオン三世と同盟を結び、1859年にオーストリアに宣戦。戦闘では勝利するもののナポレオン三世がすぐ腰砕けになって勝利は中途半端なものに。それでも「イタリア統一運動」は進み、サルデーニャ王国・教皇国家・シチリア王国とオーストリア領(ヴェーネトを中心とした地域)の4つに「イタリア」は集約されます。この時ローマを守備するのはフランス軍。軍事行動がフランスを刺激してまた介入されないように、細心の注意が必要です。まずは穏やかにサルデーニャ王国がたの王国を合併する形で「イタリア王国」を建てます。残るはオーストリアとローマ教皇領。1866年にプロイセンと組んでオーストリアと戦争。イタリア軍に勝利はありませんでしたが、プロイセン軍が勝ったため、ヴェーネト併合に成功。1870年に普仏戦争が始まるとフランス兵は急遽帰国。その隙にイタリア軍はローマを占領します。領地を奪われた教皇はとっても不機嫌になりますが、ともかく「統一イタリア」の誕生です。
 第一次世界大戦でイタリアはドイツとの三国同盟を破棄して英仏側につきます。オーストリアに占領され続けている「未回収のイタリア(トレンティーノとトリエステ)」に関するわだかまりが主因、と本書では分析されています。「戦勝側」となったものの「未回収のイタリア」については完全な満足は得られず、イタリア国内では政府に対する不満が噴出。それを背景として勢力を伸ばしたのがムッソリーニとファシストでした。そしてそのやり口を手本としたのがヒトラー。第二次世界大戦当初、ムッソリーニは静観をしましたが、ドイツ軍のフランス侵攻を見て“勝ち組に乗る”ことにします。しかし連合軍のシチリア上陸をきっかけにムッソリーニは逮捕されます。そこに介入したのがヒトラー。それに対してパルチザンは連合国軍と協力して戦い……ということで最終的にイタリアは「戦勝国」になるわけです。
 EUの前身EC(ヨーロッパ共同体)ができたときイタリアはその最初のメンバーでした。たくさんの「国」から「統一イタリア」を作りあげた経験が、たくさんの「国」から「EU」を作ろうとする試みに活かされたらよいのですが。

 


正義を使った後(跡)

2020-08-23 08:14:18 | Weblog

正義を使った後(跡)
 「正義」って、使えば使うほど減っていく一種の消費資源ではないか、と思うことがあります。それを大量に使った人の姿を見ると、「正義を消費したあと」には、良くて「虚無」悪いと「悪徳」がはびこっているように見えるものですから。

【ただいま読書中】『戦場の素顔 ──アジャンクール、ワーテルロー、ソンム川の戦い』ジョン・キーガン 著、 高橋均 訳、 中央公論新社、2018年、4800円(税別)

 陸軍士官学校の教官を務めている著者は、自分が会戦を経験していないことに、一種のコンプレックスを抱いていました。そこで著者は「会戦の素顔」をのぞき込むために、大まかな武器の分類に従って史料が豊富に残されている三つの会戦を選び出しました。アジャンクール会戦(手持ち武器)・ワーテルロー会戦(単発投射武器)・ソンム川会戦(多発投射武器)です。すべて「イギリス軍」が関係した会戦ですね。
 1415年10月25日アジャンクール。私はここで「イチイの長弓」と叫びます。大陸側の領有権を主張するヘンリー五世は、イギリスから8000の弓兵と2000の鎧武者と共に渡海、フランスのアルフルールの包囲戦を始めます。町は陥落しますが、そこにフランスの援軍がやって来て、ヘンリー王はとっととイギリスに帰ろうと移動を開始。しかしフランス軍もずっとつきまとい、とうとうアジャンクールで会戦が始まります。ここで著者はさまざまな疑問を持ちます。弓兵の配置は?(その間隔をインチ刻みで考察します) 命令はどのように伝達されたのか? 騎乗者を失った馬はどのように行動していたか? 戦闘に先立ってイギリス弓兵は馬防柵となる杭をそれぞれ地面に打ち込んだが、200m離れたところでそれを見ていたフランス軍はその時間的余裕をなぜ与えたのか?
 甲冑を着込んだ徒歩の武者がぎゅうぎゅう詰めで敵に突進する場合、転倒は致命傷となります。20kg〜30kgの板金製の甲冑は重しとなって武者は自力で立ち上がるのが困難となるだけではなくて、友軍の突進の障害物になってしまいます。さらに、矢を撃ち尽くした弓兵は別の武器(刃物や戦斧や槌)で地面に横たわった装甲兵を容易に屠ることができました。
 ウェリントンは「ワーテルロー」を文学や歴史に仕立てようとする試みを拒絶しました。あまりに複雑で正確な描写などできるはずがない、と。実際、「兵士の視点」「将軍の視点」「観客の視点」などから「会戦」はすべて違う様相を示すことになります。「ワーテルロー会戦」は「五つの局面」で説明されることが多いのですが、その時戦場にいてそのように全体を把握していた人は、皆無でした。敵の銃火を浴びながら3度も位置を変えて戦い続けていた連隊で、敵の姿を見ないまま負傷した将校の証言を聞くと、「会戦の全体像」をつかむのは大変だ、と思えます。それでも著者は、なんとか「会戦の素顔」を見つけようとします。
 印象的なのは「五感の駆使」です。兵士たちの空腹、靴擦れの傷み、あたりを満たす音やにおいなどを著者は描写します。たとえば隊列を組んでの待機状態で列を離れることが許されなかった場合、兵士たちはその場で排尿排便をするしかなかった、といった描写では、戦場が戦いの前から悲惨な地面となっていたことが簡単に想像できます。いや、そんなところに身を置きたくはないな。
 「一騎打ち」は騎士の晴れ舞台です。ところが「会戦」ではそんなものの出番はない、と思ったら違いました。アジャンクールでも、黒色火薬による戦闘の頂点に位置するワーテルローでも、騎兵は一騎打ちの機会を探していたのです。第一次世界大戦ではさすがにもうなくなったかと思うと、戦闘機同士の一騎打ちがありましたね。第二次世界大戦でも戦闘機同士、それと戦車同士の一騎打ちがあります(そもそも戦車乗りは騎兵の末裔です)。「まとめていくら」と“命の値札”をつけられることに抵抗する人はどの時代にもいる、ということなのでしょう。
 ソンム川の会戦を特徴付けるのは、機関銃と塹壕でしょう。華々しい一騎打ちなど望むべくもありません。また馬もいないので、会戦で戦われる組み合わせはワーテルローよりは単純になります。つまり「砲兵対砲兵」「砲兵対歩兵」「歩兵隊歩兵」です。おっと「歩兵対機関銃兵」も必要です。そこで“再現”される戦場の様相は、もう読むだけで泣きそう。『西部戦線異状なし』などでもしっかり描かれていました、あれが「実話」であることの意味が本書でよくわかります。

 


フェアな世界

2020-08-21 07:40:46 | Weblog

 自分に都合の良い「フェアな世界」などありません。とりあえず身近にあるとしたら「自分がフェアに振る舞っている世界」だけ。もしかしたらその小さな「フェアな世界」が世界の他の所に存在する「ある人がフェアに振る舞っている世界」と結びつくことで大きくなっていくことはあるかもしれません。

【ただいま読書中】『陸海の交錯 ──明朝の興亡』檀上寛 著、 岩波書店(岩波新書1807)、2020年、860円(税別)

 モンゴルがユーラシア大陸をほぼ支配した時代、ヨーロッパと東アジアを結ぶ「陸路」と「海路」が確立しました(マルコ・ポーロは、行きは陸路、帰りは海路でしたね)。元朝末期、無理な開発によって脆弱性を抱えた耕地を自然災害が直撃、政治の乱れ(権力闘争、腐敗官僚、チベット仏教の偏重、モンゴル諸王への無制限の賜与などによる財政逼迫)に対する庶民の不満は高まり、さらに疫病が流行。大規模な「紅巾の乱」が起きます。各地でも反乱が相次ぎ、中国全体が群雄割拠状態に。その中で頭角を現したのが、朱元璋でした。有能な知識人が次々参入することで、「反体制集団」はいつしか「伝統的な政権」に変貌します。略奪によって食糧調達をしていたのが、「養民」をスローガンとするようになり、「呉国」を建てます。ライバルを次々破り、そして最終ボス「元」との対決。元軍はもろくも敗れ、朱元璋は洪武帝として元明革命の成就を宣言します。のちに中華人民共和国が成立したとき、中国共産党は、辛亥革命(満州族の清朝を倒した)と並んで元明革命も民族革命の先例だと称揚しました。しかし朱元璋は、たしかに反モンゴルの立場ではありましたが、「漢民族国家の樹立」は訴えていません。「中華民族(多民族の上位概念)」の国家を作ろうとしていました。
 中国では「多民族」「中華と夷狄」「南北」という重層的な対立構造があり、単純には理解できないようです。
 戦乱・天災・飢饉で中国(特に華北)は荒れ果てていました。新たに政権についた洪武帝がするべきは、人口増加策と生産量の増加です。さらに、南北の対立をどうするかも政権の重要課題でした。「呉国」から始まったことからわかるように、明朝は「南人政権」でしたが、南北の「統一王朝」であるためには、「南の既得権益」をそのまま認めるわけにはいかなかったのです。これ、革命の功労者を冷遇するわけですから、相当きわどい手口を使わないと、うまくいかないでしょう。そこで朱元璋は、大獄事件を何回も起こして癒着している官民に弾圧を加え、官僚機構を改革して皇帝の絶対権力体制を構築します。
 元は陸と海の両方の帝国であろうとしていました。しかし朱元璋は「陸の視点」しか持っていませんでした。そのため、「海の人たち」は倭寇も引き入れて明に反乱を起こします。それに対して明は「海禁」で対抗します。民衆に海に出ることを禁止したのです。さらにその例外とされた「民間貿易」も数年後には完全禁止(朝貢貿易だけは残されました)。これは「国家貿易」が確立すると同時に、周辺諸国との新しい国際関係の構築を意味します。もっとも、あまりに堅苦しい明の態度に嫌気が差したのか、朝貢する国はどんどん減り、最終的には琉球など数箇国になってしまいました。宮廷内部でもゴタゴタがあって内乱が勃発、元の残存兵力を警戒して北方の守備をしていた燕王(朱元璋の第四子)が二代皇帝建文帝(朱元璋の皇太孫)を殺して第三代永楽帝となります。それまでの「内向き政策」を大転換した永楽帝には各国が朝貢、日本も足利義満が「日本国王」として冊封されています(政治的には日本国内に反対意見が強かったのですが、日明貿易の「利益」がそれより優先されました)。永楽帝の方にもメリットがあります。倭寇の活動が抑制され、「クビライへの朝貢を拒絶した日本が明には臣従した」政治的な意味も大きかったのです。永楽帝はベトナムにも公称80万の兵で侵攻、全土を支配下に置きます。さらに「鄭和の南海遠征」。7回の遠征で、東南アジアからインド、最後にはアフリカにまで到達しています(別働隊はメッカ巡礼を行ったそうです。あ、総司令官の鄭和はイスラム教徒でした)。
 明朝は庶民には、統制経済や戸籍制度でがちがちに締め付けを行いました。しかし、“上”が腐敗を始めると、“下”は乱れ始めます。1522年〜1644年の1世紀以上の長々とした「明末」の始まりです。朝貢貿易は乱れ、密貿易(黙認された民間貿易)が横行します。ポルトガル人がやって来て話をややこしくします。
 日本では石見銀山で銀の採掘が盛んになり、朝鮮から灰吹き法がもたらされて、銀の生産量が激増します。中国との密貿易で日本の銀は「比重」を増し、さらに世界から注目を浴びるようになっていきます。
 1571年にフィリピンのマニラがスペイン人によって建設され、新大陸からの銀がガレオン船で豊富にもたらされるようになります。中国からの船はルソン島を目指し、中国はついに「世界経済」に組み込まれることになります。おや、すると日本もまた(間接的かもしれませんが)「世界」に組み込まれた、ということに? ちなみに、1600年ころ、メキシコからスペインへの銀の運搬量は1年で250トン、マニラへは25〜50トン、日本から中国へは50〜80トンだったそうです。流入する銀によって明の社会は流動化していきます。
 明征服をねらった秀吉の「唐入り」は失敗。日本に対する警戒を強めた明は、家康の日明貿易復活要請をあっさり拒絶します。宮廷内では暗闘が続き、新興国の清はたびたび国境を侵します(単に攻めるだけではなくて、後顧の憂いをなくすためにまず朝鮮を降伏させる、という用意周到さです。日本による侵略時には明は朝鮮に援軍を出しましたが、清のときにはその余裕はありませんでした)。ついに北京を占領した清に対して、南部では明の亡命政権が次々誕生。台湾では鄭成功が親子三代にわたって清に抵抗しました。このとき鄭成功が「SOS」を日本やヨーロッパに発していること自体、中国が「世界」のなかに存在していることを彼が意識していたことを物語っているようです。この「国際化」のなかで「中華意識」はどう変わっていったのでしょう? そして現在「中華意識」はどのように生き残っているのでしょう?