【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

紅白

2009-12-31 14:55:40 | Weblog
 私はこの2~30年紅白歌合戦をまともに見ていませんが、つくづく不思議に思うのは、なんで年末に「合戦」をしなければならないのか、です。「競演」だったらまだわかります。一年を歌で振り返って盛り上がろう、という趣向ですから。だけど、なんで「応援」やら「勝った負けた」をしなければならないのかが不思議。「勝ち負け」はたしかにわかりやすい盛り上げではありますが、もっと他に新しい発想や工夫はできませんかねえ。
 どうせやるのなら、ちまちまと「赤勝て白勝て」の応援合戦で盛り上がろうとするよりも、もっと壮大なドラマ(たとえば、日本の歌の過去/現在/未来の構図)の中に優れた歌い手を次々はめこんでそれを鑑賞する趣向とかはいかがでしょう。あるいは今年のヒット曲がもし過去のカヴァーだったら、そのリスペクトとしてオリジナルを歌った人と競演する、とか。とにかく何か全体を貫く“ドラマ”が欲しいのです。「豪華な学芸会」「勝った負けた」だけじゃもったいない。

【ただいま読書中】『狂風世界』J・G・バラード 著、 宇根利泰 訳、 東京創元社(創元推理文庫SF813)、1970年、170円

 著者の初長編です。
 イギリスは黄砂現象に襲われていました。全地球的に毎日少しずつ風速を増していく東風(物語の始まったときに風速はイギリスで時速55マイル、赤道ではもっと強風)によって、飛行機は軒並み欠航となり、船は強風で座礁が連続しています。カナダへ移住するつもりのメイトランド教授はイギリスに足止めとなってしまいます、
 風速は着実に一日5マイルずつ増加を続け、とうとう時速100マイルを超えます。政府はやっと対策に本腰を入れ始めます。入院している提督をアメリカに輸送するための潜水艦艦長ラニヨン中佐は、特殊装甲の軍隊輸送車に乗り組みますが、通り過ぎた町は風で崩壊し始めていました。
 東京とシンガポールでは風速は170マイルを突破、都市は壊滅します。ヴェニスは放棄。
 風速180マイル(秒速80m)。戦車と重装甲車しか安全に走れず、ロンドンでも建物があちこちで倒壊し始め、政府はこのままだと死傷者が国民の50%と見積もります。メイトランドは軍にもぐりこみ軍医として働いています。ラニヨンは生きるか死ぬかの地上行のあと、やっと安全な海面下に潜ります。
 250マイル(秒速111m)。情報部隊の地下司令部は、大戦末期のヒトラーの掩蔽壕のような有様になっていました。地球のどこでも、地表6フィートの土壌ははぎ取られて空中を舞っています。逃げ場を求めての醜い争いが行なわれます。
 350マイル(155m)。風は、大量の砂塵と岩のカケラによって、まるで個体の壁が高速で移動しているかのようになっています。アメリカ軍は少しでも風が弱いグリーンランドへの避難を開始しています。さらに北極圏への移動も考えているという噂が流れています。北極なら「東風」は吹かないでしょうから。幸運にも逃げ込めた地下街でメイトランドはラニヨンと出会います。そして彼らは、「狂風に立ち向かって“人類ここにあり”を示す」妄念にとりつかれた億万長者ハードゥーンが作った巨大な鉄筋コンクリート製のピラミッドにたどり着きます。ピラミッド自体はどんな風にも耐えられる作りでした。しかし、地盤が崩壊を始めます。
 読んだ方はご存じでしょうが、最後は一応“ハッピー・エンド”の形とはなっています。ただ、本当にこれで“ハッピー”なのか、これで本当に“エンド”なのか、と疑問を持たせる終り方ではありますが。
 まだバラードの筆が熟していないのか、あるいは自然の暴威があまりに巨大すぎたためか、メイトランドやラニヨンの冒険が小さなものとなってしまっています。各個人のパートはそれなりに読み応えがありますが、二人が出会ってからの物語がもう少し膨らんでも良かったように思えます。ただ高校の時にこの本を読んでからしばらくは、風がヒューと吹くたびにびくりとしたものでしたっけ。恐怖小説としても上等な作品です。


進歩

2009-12-30 17:55:34 | Weblog
 変化と進歩を混同してはいけません。もっとも「進歩は善」というのも固定観念でしかないのですが。もし本当に「進歩は善」なら、「進歩は善」という言葉自体も「進歩」しなければならないはずです。

【ただいま読書中】『ある文人代官の幕末日記 ──林鶴梁の日常』保田晴男 著、 吉川弘文館(歴史文化ライブラリー283)、2009年、1700円(税別)

 林鶴梁(かくりょう)は、二十俵二人扶持、鉄砲簞笥組同心という最下級の御家人出身ですが、三十七歳で御目見得となり勘定方、末席とはいえ旗本となる異例の出世をしました。儒者・詩人として「文人ネットワーク」を幕府内に形成して、それが彼の出世の役に立ったようです。後に鶴梁の作品は全集「鶴梁文鈔」としてまとめられ、夏目漱石や三田村鳶魚など明治から大正時代のインテリ青年の愛読書となっています。
 本書は天保十四年(1843年、38歳)から文久元年(1861年、56歳)までの鶴梁の日記です。
 妻に先立たれ、老母と子ども三人を抱えての再婚話がまとまりかけていた頃、鶴梁は、左遷(勘定役から評定所に出向していたのを取り消された)で減俸となり、小遣いは一日百文、米屋が集金に来たときには「当月末までは相渡しがたき旨申し遣わす」なんて節約生活になってしまいます(「二十俵二人扶持」だと、当時の米相場からは年収63万円だそうです)。意欲も衰え、3ヶ月の間に17回しか出勤しません(本来なら月に20日以上出勤、在宅勤務もあり)。うつ状態なのかそれともサボタージュかな。上役に注意されて以後は真面目に勤め、3年後には甲府徽典館の学頭として赴任します。1年後に江戸に戻り、こんどは新番(将軍外出時の護衛)に栄転。こんどはフルの勤務でも月に5日の出勤でよいというのどかな職でした。不寝番もあるとのことですが、将軍が夜間外出することなんてあったんですかねえ。しかも鶴梁は文人で武芸は不得手。まったく形式的な冗官です。
 家庭内はちょいと複雑です。どういう事情か、妻久の母も同居していて、鶴梁が誰かを叱責したときにはその母が娘の久や下女を折檻していました。のちに鶴梁がそれを知って「愕然これを久しうす」となり、「この日帰宅、決して大声など出さざる旨、一同へ申し聞かす」となります。ただし鶴梁がそれを知ったのは妻の死後だったのですが。自分の浅慮の言動が回り回って愛する者に危害を及ぼしていたとは、たしかに「愕然」だったでしょうね。再婚話も大変です。家の格式や禄高の釣り合い、相手の気質や容色などいろいろな条件があって、日記にあるだけで持ち込まれた話は18件、すべて不成立となっています。結局鶴梁の門弟の実姉中井庫子(くらこ)との話がまとまりますが、その婚礼の日の日記には「(先妻の)小香没後二百八十一日、出勤せず、庫来る」とあります。自宅での婚儀で九人の宴、費用は銀七十匁五分(一両一分くらい)でした。翌日鶴梁は出勤しますが、「風邪」のため早退、それから4日間休んでいます。しかし10年後、次男が思春期に入った頃、庫は実家に勝手に帰ってしまいます。これは当時は離縁の理由になります。しかし鶴梁はひたすら交渉を続け、長男が40回も義母の所に足を運びます。ある意味深刻なトラブルなのですが、家族の間の感情の交流を思うと、ほのぼのとした気持ちになります。
 お金の出し入れ、食事などの細かい記述が面白い。たとえば甲州街道の宿、公務の旅なのに泊まる本陣では木賃と米代を払っています。本陣なのに木賃宿扱いです。場所によっては夕食が「飯四杯、油揚げ一切れ、汁ひば〔干葉と書くのでしょうね。干した大根の葉)、鰯一匹、香の物」なんて粗末さ。
 嘉永六年ペリー来航。出入りの町人や訪れた水戸藩士の話で鶴梁は事件のことを知ります。幕府内では盛んに海防論が戦わされました。その騒動の中、鶴梁は遠州中泉(石高6万石)の代官を拝命します。就任の時の接待を鶴梁は極力断っていますが、余儀ない場合にはこれまでと同様食事の中身を細々と日記に書いています。前代官の怠惰のせいで、領民には不穏の気がありましたが、鶴梁はまめに巡察を行ない、訴えは無視せずきちんと処理するように努めています。幕府からは江戸湾台場建設費用を徴募するようにも求められます。安政元年には安政東海大地震、その翌年には天竜川・大井川の氾濫……代官には難題が続きます。幕府は基本的には「手切り」と言って、困窮民の救済をきちんとするように通達は出しますが具体的な活動は現地に任せていたため、鶴梁は中央に伺いなど出さずに米金を与えたり貸し出したりしています。民間からも寄付があり、それらも貸し付けたり次の災害に備えての備蓄にしたりしています(この備蓄分が明治時代まで引き継がれ、町の基本財産となっています)。さらに社会不安が増し、博徒などが強盗事件などを起こすようになっています。
 安政五年、鶴梁は羽州柴橋(山形県寒河江市)に任地替えになります。幕府からの使命は、生産量が上がらない幸生銅山の増産。鶴梁は抗夫のやる気を出させる策で、増産に成功します。これは鶴梁の儒家としての牧民思想によるものだそうです。そしてこの時期は安政の大獄とも一致していました。
 親交を結んでいた藤田東湖との縁で鶴梁は水戸の徳川斉昭らとの関りを得ます。水戸老公は海防問題の幕府参与で、それもあって鶴梁は水戸藩の改革派の人々と深い関係を持つようになります。尊皇攘夷でしかも幕府の役人です。だんだん鶴梁の立場は難しくなります。「和宮様下向につき、年頭兼勅使供奉の公家衆御馳走賄御用」を仰せつかり、その後御納戸頭」や新徴組支配を勤めますが、明治維新の時は60歳、鶴梁はそのまま時流の外に押し出されてしまいます。
 この日記は歴史のほんの一コマです。でもそこには今でも「江戸時代」が生きています。そして、そこに生きているのが「人間」であることもわかります。今の時代と変わらない、生身の人間であることが。


中国製

2009-12-29 18:48:03 | Weblog
 最近職場のパソコンに中国製のソフトが入りました。「本当に大丈夫なのか」なんて言いながら使ったらけっこう使えます。
 ふと、昔日本がどんどん発展していた時代に、市場に急に登場した日本製品を胡散臭そうに眺めていたであろう欧米人の気持ちがちょっとわかったような気がしました。そう言えばVolvoも中国に身売りなんですって? そんな時代なんですね。

【ただいま読書中】『精神病院の社会史』金川英雄・堀みゆき 著、 青弓社、2009年、2800円(税別)

 精神障害に関して、古くは律令に「癲狂の犯罪者は刑罰を減免する」との規定があります。平安時代には精神障害者の「水治療」(滝に打たれる)が密教系の寺院で始まり、漢方療法は室町時代頃から主に浄土真宗系の寺で、そして読経療法が江戸時代に日蓮宗系の寺で行なわれるようになりました。
 本書では、東京およびその近郊での精神病院の歴史を、史料をもとに探っています。

 現在はハイキングコースとなっている高尾山は、江戸から甲府に抜ける最短ルート上にありますが、山道は険しく、昔は修験道の道場でした。表参道は一般の人がお参りをしたりしていましたが、山の裏側では、精神病者が長期逗留をして「水治療」を受ける場がありました。いくつもある滝のそばには旅館(一般人や症状の軽い病者用、明治時代には一日1円)や参籠所(病者用、症状の重い人用に格子窓のついた隔離室もある、明治時代には1日38銭)があり、宿泊客に精進料理などを出していました。逗留は短くて3ヶ月、長いと数年ということもあったそうです。そこで、修行者に混じって、精神病者が滝に打たれて“治療”を受けていたのです(まさか、冬も?)。激しい精神障害で暴れる人は強力が“介助”(強引に滝の下に連れて行って水に打たせる)もしていたそうです。本書に載せられた宿帳の写真には、病名欄までちゃんとあります。
 1889年には甲武線が新宿~立川~八王子まで開通し、高尾山詣でが楽になります。1927年(昭和2年)には、大正天皇の多摩御陵ができ、当局から「聖域近くに、精神病者が野放し状態で参集するのはいかがなものか」とクレームがつきます。その影響か、同年小林病院(精神科、内科)が開設され、1935年にはその近くの佐藤旅館が高尾保養院となり、それまで荷物を運んだり滝に打たれる介助をしていた「強力」が「看護人」として病院に雇われます。なにしろ精神障害者(それも症状のひどい人)の“取り扱い”には慣れているでしょうから、病院としては重宝だったことでしょう。
 1872年(明治5年)ロシア帝国アレクセイ大公が来日しました。それに合わせて東京府では、こじき浮浪者240人の一斉狩り込みが行なわれ、彼らを継続収容するための施設として東京府頓狂院が1879年に設立、86年に巣鴨に移り89年(明治22年)に東京府立巣鴨病院と改名されました。
 1919年(大正8年)には「精神病院法」が施行されました。内務大臣は、各道府県に公立の精神病院の設置を命じることができますが、「代用病院」として民間の精神病院を指定することができました。本来の「県立病院」の「代用」です。自分がするべき仕事を他人に肩代わりしてもらうのに「代用」と呼ぶとは失礼な話だと思いますが、昔はそのへんの“感覚”が違っていたのでしょう。(代用と言えば「代用監獄」なんて言葉もありますが、当時の精神障害者は警察の許可があれば、病院の“代用”として私宅に監禁することも許されていました。俗に言う「座敷牢」です)
 戦前に「精神病院」は約5万床になりましたが、終戦直後は5000床になっていました。理由は空襲による焼失と、軍の接収です。本土決戦に備えるため陸軍が次々入院患者を追い出して陸軍病院として確保したのでした。追い出された人がどうなったか? 精神症状、空襲、食糧不足、結核の蔓延……確証はありませんが、悲惨な末路だったのではないかと想像はできます。
 「衛戍病院」という耳慣れない言葉も登場します。「衛戍(えいじゅ)」とは「軍隊が一つの土地に長く駐屯すること」を意味し、衛戍病院は日本陸軍の衛戍地に建てられた病院のことです(1936年に「陸軍病院」と改名されました)。徴兵された人々はちょうど統合失調症の初発年代でもあり(公には否定されていましたが、戦争神経症もあったはずです)、初期対応をする衛戍病院精神科とその後方病院として継続治療を行なう精神病院は密接な関係がありました。ただ、その実態は明らかではありません。帝国軍人が精神病院に入院するなんてこと自体が「軍機」だったのでしょうね。



新しい波

2009-12-28 18:57:17 | Weblog
 1960年代にイギリスで「ニュー・ウェーブ」運動がありました。もともとはフランス映画の新しい運動に対する命名だったのが、いつのまにかイギリスSFに使われるようになったのです。それは、それまでのSF(ポー、ヴェルヌ、ウェルズなどの基礎の上に花開いた、たとえば、アシモフ、クラーク、フレデリック・ポールなどを代表選手とするジャンル)を“古いもの”とし、新しい文学的試みをするという宣言でした。そこで注目されていたのが、ブライアン・オールディス、ジョン・ブラナー、そしてJ・G・バラード。ただ、私のような、当時SFに出会ったばかりの新人読者にとっては、何が古くて何が新しいか、なんてことは関係ありませんでした。なにしろ出会うもの「すべて」が新しかったのですから。(私が「SFの中の運動」を意識したのは『ニュー・ロマンサー』で始まった「サイバーパンク」からです)
 思えば幸福な時代でした。過去の名作の蓄積は膨大で、でもその気になったらそのほとんどを読むことが可能なレベル。さらに日替わり定食のように新しい作品が次々登場するのです。それらを(その気さえあれば)どんどん読破することが可能な時代でした。こうして私は(特定のジャンルに偏らない)“SFファン”になりました。今私がSFのファンになったとしたら、もしかしたらSFの中の一つか二つのセミジャンルを詳しく知って満足するしかなかったかもしれません。

【ただいま読書中】『沈んだ世界』J・G・バラード 著、 峰岸久 訳、 創元推理文庫、1968年、150円

 水没した世界といえば『水域』(椎名誠)も思い出しますが、世界中が水没している割にはからっと乾いて明るい雰囲気の『水域』と違ってバラードの世界はずいぶん熱っぽくじめじめじとじとしています(映画の「ウォーター・ワールド」も思い出しましたが、これは「水の上のマッドマックス」とでも言うべき作品でしかも明るいというより脳天気な雰囲気なのですぐに忘れることにします)。
 6階まで水没したリッツホテルで本書は幕を開けます。ヨーロッパのどこかの都市(おそらくロンドン)のはずですが正確な地名はわかりません。熱帯のように繁茂するしだやつる草、200フィートを超す巨木、トンボほどの巨大なハマダラ蚊、イグアナ、背びれとかげ、蛇……あたりはまるで三畳紀のジャングルの様相です。太陽の変動によって地球は温暖化どころか灼熱化し、北極圏は亜熱帯となり、赤道地帯の気温はすでに摂氏80度を超えています。北半球の人々は北方に避難を続け、ヨーロッパに残っているのは少数の住民と調査団と軍人だけです。生物学者ケランズは、隊員たちの間に、孤立と自己閉塞の傾向が強まっていることに気づきます。自分を含めて。彼はそれを「世紀末的な傾向」と自己正当化しますが、それが単なる合理化であることは(彼を含めて)皆がわかっています。生息圏が狭められ、出生率は落ち、人類は終焉の時を迎えているのです。原初の生命が持っている記憶が蘇ったような不思議な悪夢がそういった人々を襲うようになります。
 探検隊は撤収を命じられます。しかしケランズは残留を希望します。近い将来の死が約束された世界に、自ら望んで島流しになろうというのです。そして、残留を望むのはケランズだけではありませんでした。世界は水に沈んでいきますが、人間たちは何か別のもの、たとえば「時間」に沈んでいこうとしているようです。
 思弁小説かとみせて、話はここから冒険小説になります。冒険小説と言うにはずいぶん風変わりなものですが。高校の時に読んだこの本、その時には雰囲気は楽しめたけれど読後なんだか釈然としない思いが残りました。約40年経って読んだら……やっぱり釈然としない思いが残ります。「ウォーター・ワールド」をひゃははと楽しんだ方が良いのかしら。



2009-12-27 17:56:17 | Weblog

 都会に住んでいる人に質問。最近土を踏みましたか?

【ただいま読書中】『それは火星人の襲来から始まった ──現実を侵略するヴァーチャル・リアリティの脅威』マーク・スロウカ 著、 金子浩 訳、 早川書房、1998年、1900円(税別)

 1938年5月、E・B・ホワイトは「音響効果などの進歩によって、そのうちに、ラジオやテレビや映画などでの描写の方が、オリジナルよりも本物らしく思えるようになるだろう」と指摘しました。それから1ヶ月後、有名なオーソン・ウェルズの「火星人襲来」のラジオドラマ。それを本物のニュースと勘違いした人々はパニックになって逃げまどいました。ヴァーチャル・リアリティが「現実」を侵食したのです。
 著者は「自分はラッダイト」ではない、と言います。テクノロジーの恩恵は十分わかっている、と。ただ、それに人類がすべてをゆだねてしまって良いのか、という“異議申し立て”を行なっているのです。テクノロジーで勝手に多くの人の人生を操る“全体主義者”的発想には反対だ、と。そこで著者は「倫理」を持ち出します。「いじれるものはいじる」の前に「それをいじってよいのかどうか考えるべきだ」。ところが「いじれるものはいじる」立場の人にはその主張は奇妙なものに聞こえます。いじれるのはそれがいじれるように最初からそうなっているのだからそれをいじって何が悪いのだ、と。それを強権的に制限するのはファッショで、「倫理」を持ち出すのは19世紀的なアナクロニズムだ、と。
 ただ、ヴァーチャル世界への移行は、時代の趨勢とも言えます。人々は「室内」で暮らすようになっています。「自然と触れ合う」生活を日常的に行なっている都会人は、まずいません。その結果「自然(生物学的な環境)」は人の目の前から消え、その次に消えるのが「物理学的な環境」という順番だ、と著者は述べます。
 本書が書かれたのは1995年、まだモデムの時代です。しかし、著者の問題意識は時代を超えていると言えるでしょう。彼が「マトリックス」や日本のたとえば『攻殻機動隊』『ヴィーナス・シティ』『エリコ』を知ってから書いたら、本書はまたどんな展開をしただろう、と思います。

 映画「マトリックス」のように「人間そのもの」をヴァーチャル・リアリティの世界にダウンロードしてそこで“生きる”ようにすることも近未来には可能になるでしょう。ただ、私はそこで思うのです。そのバーチャル・リアリティの世界が構築されているハードウエアを作り維持するのは誰?と。
 ヴァーチャル・リアリティそのものは、昔から人間と共存してきました。「歴史」はヴァーチャルそのものですし、フィクションもそうです。遠距離恋愛もそうかな。そもそも唯識を使えば、「現実」そのものもヴァーチャルと言えます。では、現在のハイテクヴァーチャル・リアリティは一体何が問題なのか。
 私には「その『何が問題か』がわかっていないこと自体」が問題、と思えます。「アイデンティティ」なんて気軽に言いますが、それとリアル(あるいはヴァーチャル)世界との関連を明確に人々が意識していない状態で、あっさりハイテクヴァーチャル・リアリティの世界に移行してしまうことに、致命的な危険性はないのか、と。ハイテクの恩恵を十分こうむっているからこそ、私はそれに依存することにためらいを感じます。私がヴァーチャルを消費するのではなくて、私がヴァーチャルに消費されてしまう危険はないのか、と。



北風か太陽か

2009-12-26 18:14:18 | Weblog
 「邪悪な者たちが苦しむのを見たければ、ただ彼らに優しくしなさい」とイエス・キリストは語ったそうですが、これは「太陽」なのでしょうか、それとも「北風」?

【ただいま読書中】『天球回転論』コペルニクス 著、 高橋憲一 訳・解説、 みすず書房、1993年、3600円(税別)

 「宇宙は球形」「地球も球形」から話が始まります。天動説の人間は「天球」で宇宙を理解していますから、ここは動かせません。ただ「宇宙」をコペルニクスと天動説の人間は異なる意味で用いているであろうことは、すでににおわされています。
 さらに、天体の形も球であり、天体の運動も円状であることが述べられます。
 実際には、惑星は楕円軌道を動き、さらに内側の惑星ほど公転周期が短いため、地球から見たら惑星の動きは不規則なものになります。天動説は地球を中心に置くため、惑星の運動を説明するために、周転円などの複雑な軌道要素を取り入れていました。しかし、周転円の必要性や原動力の説明はできず、さらに、公転軌道の上でさらに小さな円運動をすればその惑星の見かけの大きさは変化するはずなのにそういった観測結果がないことの説明もできません。コペルニクスはそのあたりを突きます。そもそも各惑星が地球に近づいたり遠ざかったりすること、その事実自体が「地球の中心が宇宙の中心」ではないことを証明しているのではないか、と。
 ガリレオ・ガリレイも何度か言っていましたが、ここでも「アリストテレスは運動を直線運動と円運動に分類した」が出てきます。このドグマは相当強力だったんですね。それ以外の運動が想像できないくらいに。
 はじめに「地球が宇宙の中心である」という前提があり、それを説明するためにアリストテレスやプトレマイオスの言葉を用い、観測結果はその前提と説明に合致するものが採用され、合致しないものはさらに別の説明が加えられる、が天動説の姿でした。コペルニクスは同じ前提から出発し、アリストテレスやプトレマイオスを学び、様々な観測結果を知ってそこで立ち止まります。ここで「修正」するべきは「観測」の方か?と。観測結果はそのまま受け入れ、前提や説明の方を修正するべきではないか、と。地軸の傾いた地球が、自転しながら太陽を公転する、としたら、観測結果がすべてそのままの形で了解できるではないか、と。
 ただ、コペルニクスは望遠鏡を持たず、地球についての正しい認識も持っていません。「目に見える地動説の証拠」と言える、フーコーの振り子・年周視差・光行差などは18世紀の“収穫”です。そういった「科学的証拠」を持たずにそれでもこれだけのことを言い切ったコペルニクスは、天動説の理論的齟齬と科学の政治(宗教)利用のおかしさを突いた、科学者というよりは当時の科学をツールとして使いこなす社会批評家としての知の巨人というべき存在だったのだろうと私には感じられます。

 ちなみに、本書の著者前書きはこんなものです。「好学なる読者よ、新たに生まれ、刊行されたばかりの本書において、古今の観測によって改良され、斬新かつ驚嘆すべき諸仮説によって用意された恒星運動ならびに惑星運動が手に入る。加えて、きわめて便利な天文表も手に入り、それによって、いかなる時における運動も全く容易に計算できるようになる。だから、買って、読んで、お楽しみあれ。 幾何学ノ素養ナキ者、入ルベカラズ」 実際に後世の天文学者は、「便利な天文表」として本書を使うことができました。天動説の立場だと面倒な計算が、コペルニクスの表に従えばあっさり簡便に結果が出せるのです。哲学的な「真実性」ではなくて、こういった「便利さ」が実は「地動説」の「勝因」だったのではないかな、とちょっと面白く思えます。
 なお、こういった「科学革命」や天動説の入門書としては、本書よりも『コペルニクス革命』(トーマス・クーン)をお勧めします。



猿人

2009-12-25 19:11:34 | Weblog
 外来語をそのままむきつけに使うのはあまり格好の良いものではありません。だけど、日本語になりにくいものもたくさんあります。たとえば「ジェット」や「ロケット」。これを日本語にするのはけっこう大変です。原理を説明する日本語をだらだら書きつけたら、できないことはないでしょうが。
 ……ところで「ジェット」と「ロケット」、それぞれの作動原理を日本語できちんと説明できる日本人はどのくらいいるのでしょう。それが多くなければ、いくら「原理を日本語で説明する名称」をつけても、意味がなさそうなのですが。

【ただいま読書中】『ベルギー人は肩が凝らない ──ソシュール言語学に魅せられて』飯島英一 著、 創造社、2000年、2095円(税別)

 著者の知り合いのベルギー人(日本語が堪能)が「日本語を知らないときは経験がなかったのに、日本語を覚えてから肩が凝るようになった」と言ったことが本書の出発点です。そのベルギー人が使うのはフランス語・オランダ語・ドイツ語ですが、そのどれにも「肩が凝る」は存在しないのです。そういった言葉が存在しないから、その言葉が表現する現象も存在しないのです。
 著者は驚きます。ベルギー人だって肩が凝るだろう、と。
 フランス語で「凝る」は「mal」です。ところが日本語の「肩凝り」に相当する現象をフランス語で表現しようとした場合「mal aux reins」(腰が凝る)となります。「mal aux epaules」(肩が凝る)ではなくて(ちなみに「mal aux epaules」と現地で言ったら「(運動などで)肩を痛めた」ことになって、医者にかかれと言われるそうです)。さらに「mal」には、背中の疲労・腰痛・歯痛・胃痛・頭痛・船酔い・精神的苦痛・苦労・損害・困難・悪意・悪事・罪といった意味もあります。逆に日本語の「凝る」には、賭け事に凝る・凝り性・煮凝りなんて意味もあります。つまり日本語の「肩こり」はフランス語には存在しないのです。
 よく「人は言葉で世界を認識する」と言います。これは半分の真実です。確かに言葉は世界を認識する有力なツールですが、それ以外にイメージでも人は世界を認識しています。ただ、その「認識」を他人と共有しようとしたとき、人に使えるツールは言葉だけなのです。
 著者はそれを「世界は「在る」のではなくて、言葉の文節機能によって「成った」(言葉によってカテゴリー化され再編成され再構築されて、初めて認識の対象となった)ものである」と述べます。そしてそれを読者に伝えるために「言葉が存在しない世界」を提示しようとします。ただ、本書で挙げられている例はぎこちない。私だったら「山道を行くと名もない草花が咲き乱れていた」を例にするでしょう。「名もない草花」とはつまり「自分がその名を知らない(言語をその対象に使えない)」状況です。そこで詳しいガイドなどが一つ一つの植物にすべて名前を当てはめることができたら、その瞬間その人が見ている世界は変貌するはずです。つまり「在る」だけの「世界」が言葉によって「認識の対象」と「成る」のです。
 著者は若いときに「ベルギー人は肩が凝らない」事実に出会ってそのことに関してずっと考え続け、60歳を過ぎてからソシュールを知ってすべてが腑に落ちた様子です。ある意味「幸せな人生」と言えるのかもしれません。そして「ソシュール言語学こそ言語学の精髄に触れるものと信じる」という著者の意見に、私も賛成をします。ソシュールは構造主義の“ブーム”の中で消費されてしまったようですが、まだまだ“お宝”がたくさん眠っているように感じるのです。読みかけになっていたソシュールの講義録をまた引っ張り出そうかな。


否定

2009-12-24 19:02:35 | Weblog
 外で他人の会話姿を観察しているといろいろ面白い思いができます。最近ちょっと気になっているのが「即座の否定」。親子にしてもカップルにしても、片方が何かを話しかけると、ほとんど条件反射のように相手がまず否定の反応を返すパターンです。「うそ」「だめよ」「そんなことはないでしょう」とか、まず言っておいて、それからなぜダメなのかその理由を探しているように私には見えるのですが、おそらくそれがその人たちの間で確立された会話パターンになっているんでしょうね。
 ただ、何を言ってもまず否定される身になると、何をするにしてもまずその「否定の壁」を乗り越えなきゃいけないわけで、なにやらしんどくて面倒くさい人生のような気がします。

【ただいま読書中】『メリーゴーラウンド』ロザムンド・ピルチャー 著、 中山富美子 訳、 東京創元社、1998円、1800円(税別)

 原題は「The Carousel」。イギリスが舞台なのにアメリカ英語?と私は一瞬不思議に思います。
 農夫で芸術家の父と保守的で見映えが最大関心事の母、二人は離婚していますが、その娘プルーはその両方の気質を自分の中に感じ折り合いをつけるのに苦労しています。プルーはとうとう母親の眼鏡に適うボーイフレンドを見つけその故郷スコットランドに招待されます。つまり婚約寸前です。しかしコーンウォールに独りで住む伯母フィービーが骨折しプールに付き添って欲しいと電話してきます。プールは即座にスコットランド行きを中止しコーンウォールに発ちます。
 生活を自立させ好みの仕事も美貌も優しいボーイフレンドも、何もかも持っているはずなのに、満たされていない人生。プルーが自分の人生に言及するとき、そこには欲求不満ではなくて、寂しさが漂います。
 フィービーのところでプルーは画家のダニエル・カセンズと出会います。荒々しいコーンウォールの自然の中で、繊細な会話が続けられます。お互いの人生を探るような、実は自分の人生を探っているような。ダニエルは11年前にフィービーに家にいて彫刻の修行をし、その後渡米して才能を開花させ最近個展を成功させたばかりでした。
 もう一人重要な登場人物がいます。10歳の少女シャーロット。孤独で家族はそろっていますが愛に恵まれない境遇です。列車の中でプルーは偶然シャーロットに出会い、即座に彼女の不遇に気がつきます。
 そして重要な言葉も登場します。「serendipity」名詞 偶然に幸せな発見をする能力。たとえば青カビが実験のシャーレをダメにした、と思ったときにそこでその青カビが細菌を殺していることに気がつくこと。
 ダニエルが抱えている重荷はとんでもないものでしたが、プルーのセレンディピティはダニエルを見逃しませんでした。

 本書の解説には「幸せな結婚」がテーマ、とありますが、実際には幸せな結婚をしているカップルは全然登場しません。不幸な結婚をしている人たち/幸福な同棲(しかも不倫)をしているカップル/離婚して幸せになった人はいますが。まるで「幸福な結婚」は「遠くにありて思うもの」のようです。プルーとダニエルも結ばれはしますが(その予定は立ちますが)結婚するかどうかは未定です。ただ、彼らが、どんな形式かは別として、幸せに暮らすであろう(少なくともその努力は続けるだろう)ことは確かに思えます。
 そうそう、フィービーとプルーの間での「その人のいない人生を想像できるのなら、その人と結婚してはいけないわ」「まさにそれなの。とても簡単にできるのよ」「わたしたちはみんな、人生から違うものを必要とするのよ」という自分たちを材料にしたシビアな会話がなかなか笑えます。


炬燵

2009-12-23 17:32:06 | Weblog
 あまりの寒さに出した電気炬燵が使い始めてすぐに壊れてしまいました。これは私が独身の時から使っているもので……指折り数えたら27年前のもの。それでも未練たらしく分解してみましたが、目に見える断線とかネジが外れたとかはありません。さて、どうしよう。修理するか買い換えるか。買い換えるとやぐらが無駄になるので、電気カーペットを買ってやぐら部分はテーブル(と足をつっこんでぬくぬく)に使うか。
 ああ、寒いと頭が働きません。まあこの頭は、暖かくてもどうせ働かないので、さっさと決断するしかないのですが。

【ただいま読書中】
コーヒーとコーヒーハウス ──中世中東における社交飲料の起源』ラルフ・S・ハトックス 著、 斎藤富美子・田村愛理 訳、 同文館、1993年

 イスラム地域でコーヒーが飲まれるようになったのは15世紀中頃でした。最初に「コーヒーを使用」したのはザブハーニーだ、いや、アッシャーズィーリーだ、などと複数の伝説がありますがあまり確かな証拠はありません。そもそも「コーヒー」という名称も、当時のワインの別称「カフワ」から(ワインの健全な代用品として)と言われていますが、地名の「カッファ」からかもしれません。著者は様々な史料に当たって、イェメンの特定のスーフィー教団の信徒の間でこの飲み物が最初に人気が出た、と推論します。
 やがてコーヒーは教団の外、一般人の間に広まります。スーフィー教徒は神へ近づいて恍惚感を得るための補助として自己催眠や様々な(コーヒーを含む)薬物使用を行なっていましたが、コーヒーハウスで人々は健康的なお喋りに精を出します。しかし1511年、この「悪癖」に対して、メッカのマムルーク朝の代官から禁止令が出されます。まずはそういった集会が非合法とされ、ついで医学的見地からコーヒーは有害であると宣言されます。結局この禁令はうやむやになりますが、1544年にはオスマン帝国スルタンがコーヒー禁止の勅令を出します。メッカの人々は1日間その勅令を守り、翌日からいつもの状態に戻りました。
 16世紀初めコーヒーはカイロに広がり、そこでも愛好者を得ると同時に反対運動も引きおこします。反対派は集団でコーヒーハウスに乱入し、店を壊し居合わせた人に暴力をふるいました。しかし結局人々の間に広がったコーヒー愛好を止めることはできませんでした。
 ここで著者は「コーヒー反対運動の真の“原因”はなにか」に注目します。その原因は「コーヒー」ではなくて何か別のものではなかったか、と。
 コーランでは、来世では「美酒の川」が約束されていますが、現世では酔っての祈りは禁じられています。で、コーランの解釈によって「ワインは“ハラーム(絶対的な禁止物)”」とされ、ワインを含む「ハムル」というジャンルの飲み物はすべて禁止とされました。ただ、この部分のコーラン解釈は数世紀の論争をもたらします。「酔う」とはなにか、「ハムル」の範囲の定義は、など。「楽しいもの」と取り上げられることに対する“抵抗勢力”が根強かったのかもしれません。
 コーヒー反対論者ははじめ「コーヒーは人を酔わせる」としてコーヒーはハムルだから禁止、と主張しました。しかしそれは“事実”によって反駁されます。そこで次に「コーヒーは人体に有害」が持ち出されます。「人体に有害なもの」もコーランで禁止されているからです。しかし医者の間でも意見は割れました(これは、20世紀のコーヒーの健康への影響の研究で、医学者の意見が割れるのと同様、と著者は述べています)。さらにこういった医学的な議論は実は“二次的”なものでした。まず「コーヒーを禁止する」という結論が先にあって、「その根拠は何か」を求める努力だったのです。
 コーヒーハウスがいつ頃発生したかは不明です。はじめはアラブで、ついでトルコで人気になったのは間違いがなさそうです(16世紀半ば、イスタンブールには600のコーヒーハウスがあったそうです)。当時のイスラム世界では「外食」は存在しませんでした。外での娯楽も。著者はコーヒーハウスが当時の人々の「外出したいという意欲」にぴったりマッチしたため興隆したと考えています。家庭でもコーヒーは飲めます。それでもコーヒーハウスに集まる人々。そこに「社交」が発生します。具体的には「おしゃべり」ですが。単なるうわさ話や趣味の話もありますが、中にはクーデターへと発展する政治批判もありました。芸能や賭博、売春も行なわれます。当局はそういった人々の動き(政治批判、反道徳的なもの)に神経を尖らせます。
 中世のイスラム世界では「居酒屋禁止令」がたびたび出されていました。イスラムはアルコール禁止のはずなのにそんな禁止令がたびたび出るのは奇妙に感じますが、タテマエは「非イスラムのための施設」として存在可能で、実体はイスラムのはみ出し者がたむろして犯罪の巣窟になることが多かったからでしょう。当局からはコーヒーハウスも、居酒屋の類似施設のように見られたようです。つまり問題は「コーヒー」ではなくて「コーヒーハウスで行なわれる行為」またはその「可能性」だったのです。
 ただ、権力を持つ人々が恐れたのはそういった「違法行為」そのものだったのかは実は疑問です。中世にムスリムが夜外出する先は、宗教関連以外では居酒屋か賭博場だけでした。後ろの二つは、真っ当なムスリムにとっては、自分の評判や魂ときには命を賭けねばならない場所でした。ところが
コーヒーハウスはそういったことを気にせずに夜でも出かけてたむろすることができる場所だったのです。これは、社会の基本的な部分(人の行動規範)が変質することを意味していました。当局はそれを恐れたのではないか、が著者の仮説です。さらにコーヒーハウスは「人をもてなすこと」も変質させました。それまで「もてなし」は自宅で家族や使用人をフルに活用して主人が自分の信用を賭けて贅を尽くしておこなうものでした。それがコーヒーハウスで気軽に安く手軽にできるようになったのです。これは、目立たないけれど、社会の「革新」でした。だからこそ叩くべき「シンボル」として、コーヒーは攻撃され、禁止され、でもしばらく経ったらあっさり復活しました。コーヒーとコーヒーハウスで変質した社会は、コーヒーを禁止されても元には戻らなかったのです。
 「社会の変革」と言ったらついつい派手なもの(革命やそこまで荒っぽくなくても制度の変革、なんらかの社会的運動)を思ってしまいます。しかし、皆で集まってコーヒーをすすりながらわいわいやること、これもまた「社会の改革」だったというのは驚きです。保守主義者にはきっと悪夢だったことでしょうね。もしかしたら現代でもこういったさりげない社会改革はできるのではないか、と思います。というか、基本的に社会はそうやって少しずつ変わっていっているのではないかな。
 かつてコンビニ反対論者が、青少年の風紀とか省エネとか理由を探してはコンビニの深夜営業に反対しているのを思い出しました。本当は「人の行動パターン」に反対したいけれど、それが困難なので目の前のモノに……という点で、かつて「コーヒー」「コーヒーハウス」に反対していた人と類似の反対運動なのかもしれません。


趣味

2009-12-22 18:10:14 | Weblog
 他人の趣味をいろいろあげつらって悪口を言って喜ぶのは、あまり良い趣味とは思えません。

【ただいま読書中】『日本SFアニメ創世記 ──虫プロ、そしてTBS漫画ルーム』豊田有恒 著、 TBSブリタニカ、2000年、1500円(税別)

 昭和38年は日本のテレビアニメの歴史にとって「特別な年」でした。1月に「鉄腕アトム」、10月「鉄人28号」、11月には「エイトマン」が放映され始めたのです。当時20代前半の著者は、そのうち2つ(アトムとエイトマン)のシナリオを書いていました。
 せっかく入った慶応医学部を退学した著者は、昭和36年の第1回SFコンテストで佳作第3席を取り、手塚治虫さんと出会います(手塚さんは同人誌「宇宙塵」の会員だったのです。プロとファンの垣根が本当に低い、というか、シームレスにつながっていた時代なんですね。平井和正さんの『超核中』も思い出します)。
 「鉄腕アトム」のアニメが成功し、各局は二匹目のドジョウを狙います。それに応募して採用されたのが、著者の親友平井和正。作品は「エイトマン」。「おい、手伝ってくれよ」「ああ、いいよ」で著者はテレビアニメの世界に足を踏み入れます。「SFアニメとはなにか」をテレビ局の誰も知らない状況で、話は転がり始めます。著者は、SFは(アメリカのペーパーバックで)大量に読んでいますが、シナリオの書き方は知りません(ずぶの素人の大学生なのです)。しかしTBSでも贅沢は言っていられません。連載14年でストックが豊富なアトムと違って、エイトマンは話もスタッフもゼロからのスタートです。「使えそうなもの」は何でも使う(あるいは育てる)しかないのです。
 「古き良き時代」という言葉が浮かびます。当時はまだ「SFというジャンル」を確立する(世間に知らしめる)ことが、SFマニアたちの共通の願いでした。だから、たとえ自分ではなくて他の人であっても、その成功は喜ばしいこと、という雰囲気だったのだそうです。さらにその成功を後押ししてくれた人たち(たとえば「中一時代」に光瀬龍の「夕ばえ作戦」を、「漫画サンデー」に小松左京の「エスパイ」を連載することを(自分の首をかけて)決定した編集者たち)のことを著者は「恩人」と呼びます。当時SFは「一部のマニアのもの」「きわもの」でしかなかったのですから。
 大学を卒業したものの、就職の当てもない著者を、手塚治虫さんが誘います。アトムのシナリオを書かないか、と。エイトマンを観て、著者のシナリオライターとしての力を買っていたのでした。提示された月給は6万4千円(ノルマは月1本のシナリオ)。著者はびっくりします。当時の四大卒の初任給はその1/4くらいだったのですから。著者は、原作の脚色ではなくてオリジナルのシナリオで勝負することにします。手塚さんに可愛がられ、のびのびと仕事を続けますが、やがて虫プロの中での居心地が悪くなり、著者はあとさき考えずにそこをやめてしまいます。次の仕事は「スーパー・ジェッター」、そして「宇宙少年ソラン」。
 すべてリアルタイムで見ています。私は懐かしさに溺れそうです。こんな創作の苦労なんか知らず、私はテレビの前で毎週ただひたすら楽しい時間を過ごしていました。
 「クリエイティビティー」という言葉が何回も登場します。それと同様に重要な「オリジナリティー」も。もちろん著者は「創る側」ですから、それらが重要なのは当然です。しかしアニメの場合には、その他の要素もたくさん混じり込みます。「絵になるか」「納期に間に合うか」「視聴率は取れるのか」「キャラクター商品が売れるか」……単純に「良いものを創りたい」に夢中になれていた時代を懐かしむ著者の口調には、一抹の寂しさが漂います。今、アニメはこの社会に完全に定着しています。だけど、その内側には、クリエイティビティーやオリジナリティーに対して愛情も敬意も抱かない人間がごろごろしている様子です。これは、たとえば手塚さんが望んだ形だったのか、と著者は言いたそうです。