【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

学力テスト

2008-10-31 18:24:06 | Weblog
 全国学力テストの結果を公表するしないであちこちでもめていますが、今日本で教育熱心な親が本当に知りたいのは、「学校ごと」のデータではなくて「塾ごと」の方じゃないかしら? さらにできたらクラスごとや塾の教師ごと。公立学校にはそこまでの期待はしていないのではないか、と私には思えるんですけどね。

【ただいま読書中】
Q&A』恩田陸 著、 幻冬舎、2004年、1700円(税別)

 「それでは、これからあなたに幾つかの質問をします。ここで話したことが外に出ることはありません。質問の内容に対し、あなたが見たこと、感じたこと、知っていることについて、正直に最後まで誠意を持って答えることを誓っていただけますか。」で始まるインタビューがつぎつぎ積み重ねられます。はじめは何が何だかわかりませんが、やがて読者には「事件」が見えてきます。
 休日でにぎわう郊外型の巨大なショッピングセンター「M」。非常ベルが鳴り、はじめは火事、ついでガス、という噂が店内を駆けめぐり、人びとはパニックになって避難しようとします。あちこちで人びとは折り重なって倒れ、最終的には死者69人負傷者116人の惨事となるのですが、実際に何が起きたのかはなかなか発表されません。いや、警察や消防が必死に調べても、彼らが死ぬべき理由が見つからないのです。
 非常ベルの直前、4階では奇妙な万引き事件が起きていました。それは一瞬通り魔事件の様相となり、パニックになった人は階下を目指して一団となって逃げ出します。
 同時刻、1階では異臭事件が起きていました。地下鉄サリン事件のように、紙袋に入れた容器を踏みつぶしてから男が逃げ、床の上には刺激臭のある液体が。「ガスだ!」の声にパニックになった人びとは出口あるいは階上に逃げます。
 同時に店内の他の場所でも人は走り始め、上からの人の集団と下からの集団が途中でぶつかり、もみ合い、人の山ができ、崩れます。

 「ガス」との情報で重装備で突入した消防隊が見たのは、明るく静かで血まみれのヌイグルミを引きずって歩く2歳くらいの幼女以外には誰一人動く者がいない店内でした。

 公式の調査とともに非公式の調査も行われます。陰謀説をはじめとするさまざまな憶測が語られますが、結局原因は不明のままです。そして場面は転換し、さらに様々な「会話」が登場します。「事件」をめぐっての、まるでジグソーパズルの「ピース」を集めているような様相ですが、それは群盲が象をなでるのに似て、結局「真相」は明らかにはなりません。
 ただ、人びとが「不安」や「恐怖」を抱きながら「個人の日常生活」を送っていることが語られ、それらの集合体としての「世間での日常生活」が成立していることが描写されます。不気味です。

 著者の小説で以前読んだことがあるのは、SFマガジンに連載されていた『ロミオとロミオは永遠に』で、最初はすごく面白かったのが、連載が進むにつれてだんだん弱くなると言うか伝わってくるイメージが希薄になっていったことを覚えていますが、本作もそれに似た雰囲気を持っています。最初の頃のちゃんとオチがつかないエピソードの方が印象的です。この人は変に「真相」に迫らずに、その周囲をただただ漂っているのが向いているのかな?


失敗と成功/『戦火のバグダッド動物園を救え』

2008-10-30 18:42:21 | Weblog
失敗と成功/『戦火のバグダッド動物園を救え』
 失敗は人を駄目にもするが教訓も与えます。成功は人に満足を与えるけれど、傲慢さや魂の硬直化ももたらします。となると、成功が何回か続いたら失敗がはさまる、のリズムが良いのかな?

【ただいま読書中】
戦火のバグダッド動物園を救え』ローレンス・アンソニー&グレアム・スペンス 著、 青山陽子 訳、 早川書房、2007年、2000円(税別)

 イラク戦争開戦から3週間、南アフリカで野生の象を禁漁区で保護する仕事をしていた著者は、ジャーナリスト以外では初の一般市民としてイラクへ入国します。クエート動物園から寄付された500kgの物資とともに、戦禍で荒廃しているはずのバグダッド動物園への救援活動です。
 戦争下の動物園がどうなるかは、日本なら「かわいそうな象のおはなし」などで知られていますが、バグダッド動物園は「戦場」になっていました。米軍の爆撃を受け、イラク軍が陣地を構築し戦闘が行われたのです。さらに、は市民の略奪と食べるための動物殺害が行われました。結果、かつて650頭いた動物は30頭に減り、生き残ったものも餓えと渇きと不潔に苦しめられることになります。著者がバグダッド動物園に初めて入った時には、すべての動物を射殺するのが最善の行為かもしれないと思うほど状況は悲惨でした。
 著者とともに動けるのは、クエート動物園から同行した2人と、イラク動物園の職員3人のみ。付近を管轄する米軍は、動物を救うことよりは武装勢力への対応に忙しく、イラク人は生き抜くことと米軍(ついでに外国人とイラク人の反対勢力)を襲うことに忙しく、物資の補給は望めず、それどころか著者たちの命の保証さえない状態です。
 著者は、自分とスタッフに言い聞かせます。動物は戦争の犠牲者だ。それを救うのは、動物のためだけではなくて、人間のためでもある。「動物を救う」ことは、戦争や環境破壊をしている人へのメッセージだ、と。
 動物園のスタッフが少しずつ復帰してきます。しかし彼らも飢えています。動物も飢えています。一時しのぎではなくて継続的な食料調達ルートが必要です。そこここで撃ち合いが行われている戦場で。著者はロバを買ってしてライオンに与え、あちこちから食糧を調達してスタッフに配ります。(ちなみに、後日著者は自然保護論者からロバを殺したことの倫理性を問われたそうです。情勢が落ち着いてから配達されるようになった真空パックのバッファロー肉の方が猫科の動物にはふさわしいと考える人がいるようで……)
 連日連夜の略奪者には米軍が対応してくれるようになりました。捕えて空の檻に入れそこをぴかぴかに掃除するまで出さない、という「罰」を与えることで、檻はきれいになり略奪者は二度と来なくなったのです。
 手助けしてくれるのは米軍だけではなくて、民間軍事会社の人間、イラク人、そして国際的な援助の手も少しずつ集まり始めます。ところが、バグダッドの他の民間動物園で虐待されている動物の情報も集まり始め、著者はちっとも楽ができません。さらには著者のような「イラク人と動物のため」ではなくて「イラク人よりも動物が大切」の立場の人間が、事態を混乱させます。

 第二次世界大戦末期、連合軍の捕虜の待遇監視などのために来日していた国際赤十字のジュノー博士は原爆の惨劇を聞き、終戦直後にかき集めた大量の物資とともに広島に救援に入りました。広島では今でもジュノー博士のことは語り継がれていますが、それと同様に本書の著者の行動がバグダッドで語り継がれるかどうかは私にはわかりません。ただ、主義主張・行動の目的に賛同するかどうかは別として、「自分は悲惨な○○を放置できない」と行動する人が世界を変えていき、座ってそれを論評するだけの人間は論評するだけなんだろうな、とは思います。「人間ではなくて動物か」とは私も思いましたが、著者が自分の「正義」を声高に語るタイプではなく(著者自身「動物園」という概念には不賛成だそうですが、でも悲惨な動物は放置できない、と今回の行動をしたわけです)、そして彼の行動が動物だけではなくて結局イラク人のためにもなっていることがわかると、こりゃすごいや、と感心するしかありません。


平和主義/『ブラッカムの爆撃機』

2008-10-28 18:49:38 | Weblog
 湾岸戦争の時だったか、自分が死ぬ心配のない文民の政府高官が強攻策を強く主張し、自分や戦友や部下が死ぬ心配のある軍人が穏健な策を主張した、と聞きました。軍人は自分の存在価値を示すために戦争を望む、とは限らないことを知って、私は一つ利口になりました。
 そういえば楠木正成が死ななきゃいけなかったのも、(自分は戦わない)公家たちがゲリラ戦ではなくて正面切っての会戦を主張したからでしたっけ。
 「国会で宣戦布告を決議したら、国会議員は全員最前線へ」というジョークタイプの「戦争根絶論」がありますが、なにかそれに類することをしないと、「自分の身の安全は確保。戦争が起きた方が利益はがっぽり」タイプの人間の欲望を資本主義社会は押さえられないのかもしれません。

【ただいま読書中】
ブラッカムの爆撃機』ロバート・ウェストール 著、 金原瑞人 訳、 宮崎駿 編(+『タインマスへの旅』)、岩波書店、2006年、1600円(税別)
 愛称ウィンピー(本名ウェリントン爆撃機)を舞台にした表題作(に『チャス・マッギルの幽霊』『ぼくを作ったもの』の2編を加えたもの)を宮崎駿さんの漫画ではさんだ構成の本です。児童書なのに爆撃機?と宮崎さんでなくても思います。

 ウィンピーは双発のイギリス製中型爆撃機で爆弾搭載量は2トン、乗員は6人。アルミの枠に布を張った機体で、床はベニヤ板。足は遅く(公称時速は408キロメートルですが、爆弾や燃料をフル搭載したらその半分がやっと)ドイツの迎撃機にはまるで射的のように狙われます。
 無線士のゲアリーを含む5人は高校を卒業し軍の促成養成コースを卒業するとすぐウィンピーの部隊に実戦配備をされました。彼らひよっこの面倒を見る機長は中年のアイルランド人「親父」。出撃が3サイクル目に入ったベテランです(1サイクルは出撃30回。1サイクルをこなすとより安全なところに配備替えを申請できました。ちなみに、英空軍爆撃隊で1942年には、1サイクルの生存率は44%、2サイクルだと20%以下)。
 夜間爆撃の帰途、ゲアリーのC機は部隊の中で嫌われ者のブラッカムのS機と同行することになります。S機にドイツのユンカース機が下方から忍び寄ります。ゲアリーはきわどいところでそれに気づき、S機は偶然ユンカースを撃墜し、そして……
 C機に搭乗して出撃したS機のクルーは、C機は燃やさなければならない、と結論を出します。そして……
 通信担当のゲアリーは、機体の中央で外も見えず耳を澄まして友軍やドイツ軍がそれぞれ交信をしているのに聞き入っているだけです。高空の寒さといつ撃たれるかわからない恐怖が彼の体と心を締めつけます。この爆撃機だけではなくて戦争そのものの「寒さ」は、本文を読んでいただくのが一番でしょう。

 「チャス・マッギルの幽霊」……英独開戦の日、12歳の少年チャスは大きな家に引っ越すことになってしまいました。田舎に疎開した私立学校が入っていた大きなお屋敷に。チャスはそこに隠し部屋があることを知ります。灯火管制も気にせず蝋燭をつけているのが外から見えるのに、そこに行く道が見つからない4階の部屋。
 チャスと同居しているおじいちゃんが、第一次世界大戦で毒ガスを吸って名誉除隊となり、以後ずっと咳の発作に苦しめられ続けていることが伏線ですから、この物語が実は第一次世界大戦を扱っていることは読んでいるうちにわかります。チャスの隣の部屋にいたのは、第一次世界大戦当時の脱走兵(の幽霊)だったのです。彼は行き場所を失いそこで首をつったのですが……
 イギリスの(優れた)作家が幽霊譚を書いたら、どうしてこんなすばらしい話になるんだろう、と思えます。(フィリパ・ピアスやディケンズを思っています)

 「ぼくを作ったもの」……本当に短い小説ですが、一篇の詩です。おじいちゃんの話ですが「ぼく」の話です。

 本書で初めてウェストールを知りましたが、これは凄い作家です。残された作品は限られているし翻訳は少ないようですが、まずは図書館であさってみようと思います。


竹内まりや/『クリスマス・キャロル』

2008-10-27 18:51:49 | Weblog
 家内が言います。「娘が嫁ぐ日の、母親の心境を歌った良い歌をこの前TVで聞いたの」。
 芸能ネタにはうとい私はかろうじて返します。「タイトルは知らないけれど、もしかして竹内まりや?」

 ピンポーン……という音が響いたような気がします。調べたら「うれしくてさみしい日」でした。

 で、買いました。「Expressions」というCD3枚組です。彼女の30年間分のベストアルバム、というのですが、タイトルだけ見て中がすぐわかる曲はほとんどありません。「不思議なピーチパイ」「リンダ」「けんかをやめて」くらいかな。買った名目は、家内への誕生プレゼントです。こちらには嫁いでいく娘はいませんが、竹内まりやと年も近いし、共鳴するところも多いでしょう。本当は家内の誕生日はまだ先なのですが、私が早く聞きたくて待ちきれなかったのです。
 で、到着したのをざっと聞いてみましたが、良いですねえ。ただ、声質は若い頃のきらきら感としっとり感の不思議な調和に、年を取ってから深みと暖かみが加わり、こちらの方が私の耳には心地よく響きます。逆に、バックで歌っている夫君の山下達郎の声が、年を取っても艶を失っていないのが驚異ですな。

【ただいま読書中】
クリスマス・キャロル』ディケンズ 著、 池央耿 訳、 光文社古典新訳文庫、2006年、419円(税別)

 守銭奴スクルージは、温厚なマーリーのただ1人の遺言執行者・遺産管理人・相続人でした。そして唯一の友人でただ1人の会葬者でもあったのです。マーリーの没後も商会の扉には「スクルージ・アンド・マーリー」と書かれたままでした。そして、人との温かい交わりを断ったスクルージの所にも、クリスマスイブはやって来ます。マーリーの幽霊の形で。マーリーは地獄に堕ちており、自分の轍を踏むなとスクルージに忠告に来たのです。
 翌日からスクルージは、3夜にわたって連続幽霊(精霊?)の訪問を受けることになります。
 まずは少年時代のスクルージのクリスマス。少年スクルージは孤独です。ただし、妹が、兄を愛してくれた妹がいます。今もスクルージのことを気に掛けてくれる甥を産んで早く死んだ妹が。
 過去の精霊だけではなくて、現在の精霊・未来の精霊も容赦なくスクルージの心に踏み込みます。冷血漢として描かれていたスクルージが、実は傷つきやすい心を持っていた孤独な人間であることがそれで明らかになります。「マーリーの幽霊」は実はスクルージの深層心理が自分で自分に見せたものかもしれない、という“心理分析”もしたくなりますが、私はここで描写される「19世紀前半のロンドン庶民の厳しい生活」にも驚きます。
 ただ、守銭奴と言われ、嫌われ者ではありますが、スクルージは少なくとも「悪人」ではありません。生き方が下手くそなだけです。そして、悲しいことに、彼は自分の生き方が下手なことをちゃんと知っています。
 「無知」と「貧乏」は人類の敵、のような表現がありますが、「人との付き合い方」や「金の使い方」に無知なスクルージは結局物質的にも精神的にも「貧乏な生活」を送っているのが、なんとも皮肉です。皮肉と言えば、著者が顔を出してキリスト教の教条主義をちくりと皮肉ったところもあって、異教徒には笑えます。

 ディケンズがこの作品を書いた19世紀前半は、イギリスは大きく変化していました。都市に人が集まることで「伝統」は踏みにじられつつあり、ドイツからクリスマス・ツリーが導入されどこからかサンタクロースも現れたりして、それまでの階級を超えて人びとが集い暖かく交流するクリスマスの雰囲気が変容しつつあった時代です。
 ディケンズは、己の過去を自分が生きた時代に投影することで「過去へのノスタルジー」だけではなくて、「過去は変えられないけれど、未来なら変えられる」というメッセージを発したように私には読めます。
 


出世/『日本人とさかなの出会い ──縄文遺跡に見る源流』

2008-10-26 18:00:20 | Weblog

 そもそも駄目社員は出世しませんが、それでも敢えて出世させたら、自分の面倒も見られない人間が他人の面倒も見られるわけがなく、ほとんどの場合は駄目上司になるだけです。
 できる社員を出世させても、そのすべてができる上司になるわけではありません。使われた場合には能力を発揮できるけれど人を使うことは下手くそな人はできる上司になれません。それでも優秀な人は環境と周囲の要望に適応してできる上司となることができます。ところが出世を繰り返していると、ほとんどの人は早晩「無能力レベル(その人の能力では仕事をこなすことができない、能力の限界を超えた地点)」に到達してしまいます。
 つまり(できる人間を出世させる)現行システムでの「出世」は、最終的には無能力者を大量に生み出すシステムです。

【ただいま読書中】
日本人とさかなの出会い ──縄文遺跡に見る源流』河井智康 著、 角川選書331、2001年、1500円(税別)

 縄文時代は、紀元前10000年頃から紀元前300年頃まで、約1万年続きました。私が学生の時には7000年と習った覚えがありますので、少し伸びましたね。14500年前に氷河期が終結し500年かけて寒帯の生態系が温帯化した紀元前12000年から縄文時代が始まった、と主張する人もいるそうです。ちなみに縄文時代は現在よりも温暖化が進んでいて、日本列島はあちこちが「海進」(海が陸に侵入していた現象)を受けており、それが貝塚形成に影響を与えていたのではないか、という推論もあります。
 本書のタイトル「さかな」は「魚介類」のことだそうで、貝塚から話は始まります。貝塚は全世界に分布していますが、外国では約400ヶ所、日本では3000ヶ所。ずいぶん差があります。日本では特に関東平野に多く、千葉県だけで550ヶ所。大きいものでは広さが3万平米のものまであります。
 貝塚から発掘されるものは様々なことを物語ります。たとえば魚骨からは、その魚の成長度がわかりそこから漁業の技術が推定できます。
 貝殻や魚骨だけではなくて、糞石中の寄生虫卵や釣り針の研究も行われています。中には人骨(それも鋭い刃物で割られて骨髄を啜ったようなもの)が混じっている貝塚もあります。
 釣り針は、縄文初期にはイノシシの骨でカエシがありませんが、中期には鹿の角でカエシがあるものが登場します。
 中里貝塚には少なくとも20万トン分の貝(ほとんどがマガキとハマグリ)があるそうです。100年活動をして500年休止、また100年の活動、と計200年で20万トンです。とんでもない量ですが、どうも自分たちで食べただけではなくて「出荷」をしていたのではないかとの推定されています。そのさい加熱加工をした形跡もあり、また、(江戸時代の広島で竹ひびで牡蠣養殖をしたように)杭を打って養殖をしたような跡もあります。さらに、マガキの貝殻ばかり出る地層について、そこに「カキ打ち場」があったのではないか、と著者は想像をしています。となると、縄文時代にはカキに関する“産業”があったのかもしれません。
 三内丸山遺跡は関東とは相当違います。出土したものを分析すると、食べ物の主力は植物ですが、動物食品でもっとも重要なのは貝ではなくて魚、その1/3はブリです。それは地域の違いなのかもしれませんが、著者はこれからの地球温暖化に人類が適応する術をそこから学べないか、と考えているようです。
 しかし、丸木船で、ブリやイルカ(時にはクジラ)を捕っていたとは、縄文人、おそるべしです。そして、縄文人は食文化を持っていたのに対し、現代人は「文化」の名に値する食生活を送っているのか、と著者は問います。私はその問いに対して、即答ができません。


埒(らち)/『深夜プラス1』

2008-10-25 18:24:09 | Weblog
 「埒もない」とか「埒が明かない」と、否定形で使われることが多い言葉ですが、そんなに否定ばかりの人生って、楽しいのかな?

【ただいま読書中】
深夜プラス1』ギャビン・ライアル 著、 菊地光 訳、 早川書房(ハヤカワ・ミステリ文庫)、1976年(92年24刷)、544円(税別)

 時代はおそらく1960年代のはじめ。大戦中にフランスでレジスタンスの活動に関係していたルイス・ケイン(暗号名カントン)は、ブルターニュからリヒテンシュタインまでの運送仕事を請け負います。運ぶのは、命を狙われている大富豪マガンハルト、相棒はアメリカのガンマン、ロヴェル。いつでも右手で拳銃が抜けるように何をするのも左手、慢性のアル中、使うのはずんぐりしたリボルバー。対してケインが使うのは1932年のモーゼル。この、拳銃の選択一つで、著者はそれを選択する人に関する様々なイメージを読者に届けます。(イギリス情報部員がモーゼルを愛用する、というだけで、なにか不思議な気分になりますが)
 送り届けられるべきマガンハルトは、明らかに秘密を持っていますがそれを主人公たち(つまりは読者)に明かしません。彼の連れ、ミス・ジャーマンは、純真と高慢が解け合って美しさとなっている女性です。わかったようなわからないような、それでいて説得力のある描写です。
 “敵”はついにフランス最高のガンマンを送り込んできます。彼らもレジスタンスの元闘士で、当然ケインと顔見知りです。リヒテンシュタインを目指して進む一行の旅は、いつしかケインの「過去を辿る旅」と重ね合わされます。そしてそれは同時に、ケインの周囲の人びとの過去をも明らかにしていく過程でもあるのです。
 情報が漏れているらしく、一行は行く先行く先で敵に遭遇します。そして、歩みの遅さのために、なんとか酒を断っていたロヴェルが負傷しついにアルコールに手を出してしまいます。戦闘力の低下です。さらにリヒテンシュタインとスイスの国境で、ケインは自分たちが最後の罠に踏み込んだことを自覚します。待ちかまえるのは、フランスでナンバーワンのガンマン、ケインのかつての同志、アラン。場所は、要塞地帯です。第二次世界大戦の記憶がいっぱい詰まっているような場所で、かつてのレジスタンスの過去を引きずっているもの同士が戦います。

 冒険小説の傑作と評されるわけは、読めばわかります。解説の田中光二さんは「すぐれたエンターテインメントは、再読、再々読に耐える。むしろ、繰り返し読む必要がある」と述べていますが、たしかに一回読んで「あ~、面白かった」で忘れてしまうには惜しい作品です。しばらくしたら再読、再々読ですね。当面は余韻に浸ります。


大切な道路/『ローマ人の物語IX 賢帝の世紀』

2008-10-24 17:39:18 | Weblog
 「必要な道路は造らなければならない」がある種の人の護身呪文のようになっていますが、私にはその呪文は不完全なものに聞こえます。だって道路は造るだけでは駄目でしょう? そのあとのメインテナンスをしっかりやることで道路は機能します(古代ローマ人には、道路を含めた公共施設の維持も立派な公共事業だったそうです)。ですから、「造る」ことばかり主張する人は、道路の本当の大切さをわかっていない人、が私の結論です。

【ただいま読書中】
ローマ人の物語IX 賢帝の世紀』塩野七生 著、 新潮社、2000年、3000円(税別)

 その時代を生きたローマ人が自ら「黄金の世紀」と呼んだ五賢帝の時代、その2番目のトライアヌスから本書は始まります。ただし例によって著者はちょっと斜に構えています。「賢帝」というが、その実相は本当はどうだったのか?と。ついでですが、私はこういった著者の態度が好きです。これまでの歴史家が言うことをリピートするだけだったら、塩野さんがわざわざこれだけの本を書く必要はありません(オリジナリティの問題)。同時に塩野さんのローマ人に対する暖かくて真剣なまなざしが好ましいとも思うのです。
 ローマ史上初の属州出身の皇帝トライアヌスは、私生活はきれい、政治は善政、ダキア(現在のルーマニア周辺)の戦役によってローマの支配領域を史上最大にする、と、「パーフェクトな皇帝」に見えます。ただ、邪教信仰者としてのキリスト教が地下で広がりつつあります。これは、ローマの伝統である多神教と、一神教との対立でした。(もう一つの一神教ユダヤ教は、ギリシア人とユダヤ人の対立から始まったユダヤ戦役の西暦70年のイェルサレム陥落で息を潜めています) そして、ローマの長年の懸案であったパルティア戦役に出陣したトライアヌスの背後でユダヤの叛乱が起きます。
 人生の最後にミソをつけたトライアヌスの跡を継ぐのは、トライアヌスの養子で優秀な司令官ハドリアヌス。この人の名前を見ると私は「ハドリアヌスの防壁」をすぐに思います。ローズマリ・サトクリフの作品に時々登場する、イングランドとスコットランドの境の壁です。ハドリアヌスは帝国中を巡幸し、ローマ法を集大成します。さらに、「ギリシア好き」のハドリアヌスの影響か、プトレマイオス(天文学、「天動説」の祖)やガレノス(医学)がその時代に育ってきます。
 ハドリアヌスの性格が『皇帝伝』で「一貫しないことでは一貫していた」と表現されていることに対する著者の解釈も、私にはわかりやすいものでした。自分の内部にある価値基準に従って行動すれば、状況や対人関係によって、行動は表面的には「一貫しないもの」になります(たとえば、褒めるべき人は褒めるべき状況では褒め、褒めるべきでない人(や褒めるべきではない状況で)は褒めないのですから)。しかしそれは「過去」や「他人の目」を気にしない人にとっては「一貫したもの」で、変わったのはその「外側」だけなのです。鏡に映るものは次々変わっても、鏡は鏡であり続けるように。
 西暦131年ユダヤでまた叛乱が起きます。そしてまたイェルサレムは陥落しハドリアヌスは「離散(ディアスポラ)」(ユダヤ教徒のイェルサレムからの追放)を断行します。
 ハドリアヌスの死後、その養子アントニヌスが皇帝を継ぎます。23年間の治世は、ただひたすら平穏な年月だったそうです。ハドリアヌスが本当は跡を継がせたかったマルクス・アウレリウスが成長するまでの「つなぎの皇帝」のはずですが、立派に「ローマ皇帝」の職責を果たしたと言えるでしょう。ただ、「平和な時代」ではあっても、ユダヤ教徒の離散、キリスト教の浸透、と、後世の目からはなにか「問題」が見えるような気がします。


受け入れ困難

2008-10-23 20:43:44 | Weblog
 「東京でも」とショックを受けている人もいるようですが、東京だろうと東京でなかろうと、病院で急患が受け入れ困難なのは困ったことです。ただ、東京だったら、「あの銀行」につぎ込んだ金を病院の方に回していたら、もしかしたら受け入れが可能な病院ができていたかもしれませんね。ただ、(今回に限定したら)「脳外科」と「産科」と「小児科」がすべて受け入れ(緊急手術)が可能でないといけないわけで、そういった大病院は巨大な赤字を垂れ流すことになります。(それでも400億円とか1000億とかの景気の良い数字にはならないでしょうけれど)
 もし選択の機会があるとしたら、東京都民は「緊急でも対応可能、でも巨大な赤字」の病院を選ぶのかな? それとも、銀行を選んでしまうのかな?

桃太郎とかぐやひめ/『三四郎』

2008-10-22 18:54:13 | Weblog
 私が子ども時代にはトマトは生臭いものでした。それが「トマトの味と香り」と思って育ちましたが、最近のトマトは甘くなりました。桃太郎というトマトを初めて食べた時には「これがトマトか」とびっくりしましたっけ。それはそれで良いのですが、ただ単に甘いだけだと、それなら果物を食べればいいじゃないか、とひねくれ者の私は思ってしまいます。
 で、つい先日、かぐやひめというミディトマトをはじめて食しました。これが、甘いのは甘いのですが酸味も適度に効いていて美味いので好きになりました。しかし面白いネーミングです。そのうちミニトマトの親指姫とか一寸法師なんてのにもお目にかかれるかしら。

【ただいま読書中】
三四郎』夏目漱石 著、 角川文庫、1951年(89年111刷)、340円(税別)

 懐かしい思いでページをめくります。私が本書を初めて読んだのは中学の終わりか高校の始め頃。当時は古めかしい文体に感じてちょっと窮屈でしたが、今読むと軽妙で洒脱ででもところどころに毒が仕込んであって、楽しい本です。
 熊本の高校を卒業して東京の帝国大学に入学した小川三四郎が汽車の三等に乗っているところから物語は始まります。列車の中で出会う人がまたいちいちユニークです。子どもの時には、宿で同衾した(し損ねた)女性に興味を持ちましたが、今回は「熊本は東京より広い。東京より日本は広い。日本より……頭の中の方が広いでしょう」とさらりという変な男が心に残ります(後日この人は「自然を翻訳すると、崇高だとか、偉大だとか、勇壮だとか、みんな人格上の言葉になる。人格上の言葉に翻訳することのできないものには、自然が毫も人格上の感化を与えていない」なんてありがたそうなことも言います)。でもこれはまだまだイントロ。
 なんとなく大学の授業が始まり、だらだらと日が過ぎ、知己が増え、恋を知り……ただ、ストーリーを紹介しても仕方ないですね。私が子どもの時には、三四郎の行動を追っていましたが、今は三四郎を含む「時代」を読みます。

 明治時代の『ノルウェイの森』なのかな、なんでこともちらりと感じます。田舎から出てきた世間ずれしていない若い学生、東京のあちこちの風物、風変わりな友人、キャラが立っている女性たち、セックスの匂い(明治の方は、本当にかすかなにおいだけですけれど)……こうしてみると共通点が目立ちます。もちろん、漱石が仕込んだ「毒」(特に当時のインテリの中途半端ぶりに対するものや、西洋に目を向ける新時代の青年人が否定するべき「古い日本」が日本の地方にしっかり残っている(そして自分たちはそこで育った)ことへの忸怩たる思い)は独特の風味を醸し出していますけれど。さらに、場面転換が印象的に行われます。これは新聞連載のおかげでしょうね。


戦争/『もう黙ってはいられない ──第二次世界大戦の子どもたち』

2008-10-21 19:25:18 | Weblog
 戦争を目的とする人はただの勘違いです。戦争は、目的ではなくて手段ですから。戦前と戦後を考えずに、さらには勝った時のことだけを考えて戦争に突入する政治家や軍人は、ただの能なしです。

【ただいま読書中】
もう黙ってはいられない ──第二次世界大戦の子どもたち』C・ルロイ&ジョーン・R・アンダースン 編、大蔵䧺之助 編訳、 晶文社、1997年、2300円(税別)

 「目立たないが、子どもも戦争の犠牲者である」をテーゼに、各国の子どもたち(戦争に狩り出されない程度には小さく、物事を記憶や判断できる程度には大きかった人たち)の証言を集めた本です。それぞれは小さな証言です。しかしそれらのコラージュは、「戦争」が子どもたちにどのような影響を与えたのかを語ってくれます。

 アメリカでは、12月7日は「汚辱の日」でした。子どもたちは復讐を誓い、ジャップを憎み(でも身近の「日本人(日系人)」は憎めず)、本土が日本軍に侵攻されることに恐怖を感じます。アメリカは豊かな国ですが、それでも配給制度があり、物資の不足があったことが述べられます。
 ドイツの少女の思い出も印象的です。特に、東部戦線からの難民に衣服を配給する作業で、山と積まれたコートなどの古着にダビデの星がついていて、その星をはずす作業を命じられます。この服はユダヤ人が寄付したのだろうか、でも、こんなに大量に、しかもダビデの星をつけたままで……と疑問に思いながら、少女たちはそのことを口に出していってはならないことを暗黙のうちに知り黙々と作業を続けるのです。
 中国の少年の話も強烈です。「敵」は日本軍だけではありません。中国軍の敗残兵や土匪、日本軍に通じる裏切り者の同国人も「敵」なのです。
 カナダでは、人びとは日本ではなくてドイツの方を向いていたことが紹介されます。
 ナチスとソ連と両方の占領を経験した人の話もあります。そのどちらもが、双方の「国内」で宣伝されていたほど好ましいものではなかったことは当然でしょう。ただ、こういった「情報の不足」がほとんどの人の話に登場することは、印象的です。なぜ戦争になったのか、戦況はどうなのか、戦場では実際に何が行われているのか、それらを知らされずに命を賭けて行動をしなければならないのは、それだけでストレスです。

 興味深い(という言葉がここで適当かどうかはわかりませんが)話もあります。フィンランドはドイツにつきましたが、それはその直前にソ連がフィンランドに侵略して領土を奪っていたからそれに“復讐”するためでした。そのせいか、イギリスはフィンランドに宣戦布告していますが、戦闘行為は一切していません。で、またフィンランドはソ連と講和条約を結び、1945年3月にナチスドイツに宣戦布告をしています。過酷な運命です。
 アメリカでは、憲法にも法律にも違反して、日系人の強制収容所送りが行われました。それを恥ずべきことと言う人もいれば「ジャップには当然の報い」と言う人もいましたが、反日の嵐の中で「収容所内の日系の学生を収容所外の大学に行かせよう」という運動が起き、とうとう政府の支持も取り付けて全国日系アメリカ人再移住評議会が作られ、そこが学生の身元保証などを行い育英資金を集めて総計4000人の学生を進学させているのだそうです。人種的偏見と戦争のヒステリーの中で、公正と正義のために行動すること、これが本当の平和運動かもしれない、と私は思います。

 どこの国でも大体子どもたちは戦争中でも遊びを続けています。ただしそこにも戦争が影を落とします。戦争ごっこです。また、配給のことについて触れた人は大体砂糖のことも述べます。子どもの興味がどこに向いているかよくわかります。
 「常識とは大人になる前に刷り込まれた偏見の集大成」は誰の言葉でしたっけ? 平時だったら順調に偏見は刷り込まれ続けて一つの強固なシステムを人の内部に構築します(それを自分で揺さぶるのが「思春期」の重大な仕事でしょう)。しかし、戦争を体験した子どもは、その偏見を人工的に強化されると同時に世界によって強引に破壊されてしまいます(もちろん、破壊されない人もいます)。そういった人たちの「常識」がどうなったのか、その辺に焦点を絞った心理学的研究は行われていないのかな。

 世界各地から集められてはいますが、もちろんこれらの思い出話が世界のすべてを網羅しているわけではなく、50年前の記憶は変質していることも考慮する必要がありますが、非常に興味深い本です。この本の存在がもっと人に知られても良いのではないか、と感じます。