【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

電話のライン

2010-12-31 18:28:46 | Weblog
先月くらいからNTTコミュニケーションズからの勧誘電話が盛んにかかるようになってきました。他社(特にKDDI)やIP電話からNTTに変更する人が増えている、と言うのですが、それって、かつてのセールスマンが玄関で「ご近所の皆さんが買って下さっています」と言っていたのと似た口調にしか感じられません。
もしかして、せっぱ詰まって必死に売り込まなければならない理由でもあるのかしら?

【ただいま読書中】『女子中学生の小さな大発見』清邦彦 編著、 新潮文庫、2002年、400円(税別)

別に結論が出なくてもいいから「ちょっと試してみた」という“自由研究”。女子中学校に勤務する教師が、1年生のレポートを数年分まとめた本です。もう面白くて可笑しくて、「理科離れ」でお悩みの諸兄には強力にお勧めしたい本です。
たとえば……
・犬の顔に臭い靴下を当てるとどうなるか試したら、ものすごい顔をして逃げていった。
・イカの墨でお習字をしてみた。
・万歩計をつけて寝たら、朝までに12歩歩いていた。
・水温とアサリの活動を調べた。摂氏3度から動き始め、15度で活発に動き、20度で少し活動が鈍くなり、73度でパカッと音を立てて開いた。
・プールで息を吐くとどんどん沈んでいく。
・お風呂で息を吸うと体が浮き上がる。
・1年間、左手の指は関節をぽきぽき鳴らし、右手は鳴らさなかった。指の太さは変わらないが、左手の指の方が長くなった。
・一緒に寝るとイヌも寝言を言った。
・アユの解剖をしたら、美味しかった。

いやもう、なんでこんな発想ができるんだろう、とひたすら感心します。これはおそらく、中学生だけではなくて、理科教師の“手柄”ですね。本当に小さな「なぜだろう」とか「もしこうやってみたらどうなるのかな」といった疑問や思いつき、そしてそれに対する素朴な実践が、編著者の温かい視線の下ですくすくと育っています。たとえば紅茶の湯気を集めて色や匂いを観察するのは、やる前から結果はわかりますが、やらずにわかっている(わかったつもりになる)のと、実際にやってみるのとでは、行動のレベルが大きく違います。そして、腰を重たくせずにひょいひょいと確認に走ってみる態度が、「科学」の基礎の基礎と言えるでしょう。科学の“入り口”で敷居を高くするよりも、「とにかくお入り」とその気がある人は全部中に入れてしまってそこで育つかどうか見る、という態度で編著者は子どもたちに接しているように見えます。もちろん蒔いた“種”がすべて発芽するわけではないし、発芽したものがすべて素晴らしい収穫をもたらすわけではありません。しかし、種を蒔くための素晴らしい土壌をきちんと準備する手間を惜しまないことが、科学(の普及)にとってとても大切であることが本書から学べます。
編著者の「理科少年記」が各章の最初に載せられています。少年時代の清先生が、遊びの延長で自然に親しみ、電気とか動力といった科学の基本を感じていたことが、生き生きと書かれています。
明らかに間違った解釈やアヤシイ実験もありますし、科学的に素晴らしい原則を含んだ実験も多くあります。私が一番感動を覚えたのは「サインペンの黒色は何色からできているか」の実験です。コーヒーフィルターにサインペンで印を付けフィルターの先を水につけてインクをにじませるのですが、これはつまりはペーパークロマトグラフィーではありませんか。素晴らしい発想です。しかもその結果が、さまざまな色が混じっている(しかも、メーカーによって差がある)ことがわかるのですから、もう拍手喝采です。自分でもやってみたくなりました。
やっぱり「理科」って、面白いなあ。「良い教師」って、いるんだなあ。


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ヒューズ

2010-12-30 17:43:08 | Weblog
今はあまり見なくなりましたが、かつてはどこの家庭にもあるいは自動車にもすぐわかるところにヒューズボックスがありました。で、過電流が流れるとヒューズが切れて(とんで)重要な器機を守るわけです。
「ヒューズが切れた!」、その時するべきことは、切れたヒューズの早急な交換ではなくて、なぜヒューズがとんだのかの原因究明のはずです。それをしなければまた同じことが再発しますから。ところが、ヒューズが何回もとぶので苛立った人は、針金で端子を結んでしまって「これでヒューズはとばないぞ」と安心してしまい、結局漏電やらなんやらで火事になる、ということが私の子供時代に何回か報道されました。で、対策は「針金はヒューズのかわりに使ってはいけません」というアナウンス。これまた(ヒューズのかわりに針金を使うのと同様)対策の方向が違っている(“真の原因”に働きかけていない)ような気がするのですが、私の勘違い?

【ただいま読書中】『ついてきなぁ! 失われた「匠のワザ」で設計トラブルを撲滅する! ──設計不良の検出方法と完全対処法』國井良昌 著、 日刊工業新聞社、2010年、2200円(税別)

「ついてきなぁ!」シリーズの一冊だそうです。見事にアメリカ流の構成(話題を単純化、繰り返しを多くする、途中にチェックリストを入れる、妙に具体的な数字で説得力アップ)のビジネス本ですが、「匠」が登場して「べらんめぇ!」などとタンカを切りながら話を進めていくのがなかなか新鮮です。
ずっと昔、欧米では日本製品は安かろう悪かろうの代名詞でした。しかしいつしか品質が向上し、安くて良いものの代名詞となりました。しかし最近では、「ありえない」と言いたくなる事故やリコールが頻発し、さらにはリコールのリコールさえ出現する有様です。
著者によると、家電品や自動車などの民需商品の場合、トラブル(想定外の故障、クレーム、事故、リコールなど)の98%は以下の3つに潜在しているのだそうです。
1)新規技術
2)トレードオフ
3)××変更
1)で「新技術=枯れていない技術」がトラブルの巣であることは直感的に分かります。そしてそれは3)の「○○を××に変更」とも大きく関係しています。それまでの何かを変えた場合、あるいは何かを変えてほかの何かを変えなかった場合、そこには自動的にトラブルの芽が内包されているのです。
2)は「設計思想」の話です。何を優先順位の一位に持っていくか、何を優先しないかを明確にした設計思想が盛り込まれた設計書があれば、トラブルを減少させることができます。しかし、日本にありがちな、優先順位を明確にせずに「何でもあり」で機能などをてんこ盛りにして製品を開発した場合、それはトラブルの巣となっています。(著者によると、日本の大きな問題点は「設計書が存在しない」ために、そもそも「トレードオフの概念」そのものが取り扱えない場合がやたらと多いことだそうです)
さらにコストの話が重要です。企業では「コストカット」は製造上の至上命題です。ところが著者は、単に部品のコストカットをするとかえって「トータルコスト」は上昇する、と「トータルコストデザイン」を提唱します。部品のコストを削ると信頼性が低下します。それはすなわち保守コストが上昇することを意味し、結局トータルコストは増えてしまうのです。逆に、部品の信頼性を向上させると、部品コストは上昇しますがそれを上回って保守コストが低減されます。しかしある限界点(著者は信頼性90%の点と述べています)を超えると、保守コストは限りなくゼロに近づきますが部品コストは急上昇し、結果としてトータルコストの上昇と過剰品質がもたらされます。

本書に述べられているトラブルを再発させない「匠」の対策法は
1)フールプルーフ設計思想
2)セーフライフ設計思想
3)フェールセーフ設計思想
4)ダメージトレランス設計思想
見ただけで見当が付くことが列挙されています。

本書には具体的な例(製品や事故)がたくさん挙げられていますが、私が面白かったのはハイブリッド車でした。プリウスとインサイト(おっと、本ではそれぞれ別の仮名になってます)の設計思想を具体的に比較して、その結果としてなぜこの車重やスペックや値段になったのか、がわかりやすく解説してあります。なるほどねえ、新聞では「ハイブリッドである」「値段が違う」「エンジンの大きさが違う」くらいしか書いてなかったけれど、それはあくまで「結果」で、それをもたらしたのは設計思想の違いだったんですね。この情報は消費者に大切なものに思えますが、マスコミはあまりそういったことには興味がないようです。新聞なんかに本当に大切な情報を期待する方が間違いなのかもしれませんが。



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車の時計

2010-12-29 18:49:46 | Weblog
私はこれまで何台かの車に乗ってきましたが、時計には恵まれていません。とにかく狂うのです。今の車の、ラジオやCDプレイヤーと一体化した時計を見ていてふっと思ったのですが、「ラジオ時報時計」というのは作れないでしょうか。車内でラジオをかけていたら、その時報の音を拾って「ぴっ、ぴっ、ぽー」の「ぽー」で秒合わせを自動で行なってくれる時計です。
素直に電波時計にしろって?

【ただいま読書中】『魔法使いの弟子』ロード・ダンセイニ 著、 荒俣宏 訳、 ちくま文庫、1994年、757円(税別)

貧乏領主の息子ラモン・アロンソは、父親の命で魔法を学ぶことになります。目的は金儲け。もうすぐ嫁入りの妹の持参金がないのです。しかし場所はスペイン。魔法使いは健在とはいえ、キリスト教はすでにしっかり根を張っています。宗教裁判所が怖いぞ、と私はつぶやきます。
ラモン・アロンソの目的は錬金術を学ぶことですが、魔法使いが素直に教えてくれるわけがありません。さらに、代償は「影」です。自らの影を差し出さなければならないのです(これは「影を作るもの=光=神」からの離脱を意味しているのでしょう)。ラモン・アロンソは不死と引き替えに影を奪われた老婆アネモネから影を失ったみじめさを聞き、自分の影を差し出すことは拒否し、そのかわりに片目の視力を代償に読み書きを習います。しかし父親からの要求は強く、ついにラモン・アロンソは自分の影を差し出してしまいます。そこで魔法使いが使う呪文が「漢文」というのが笑えます。これではいくら読み書きができても、ふつうのスペイン人には呪文が破れません。
さらに妹ミランドラから「持参金なんかいらない。惚れ薬が欲しい」と手紙が。ラモン・アロンソは錬金術ではなくて惚れ薬の製法を習います。さらに、アネモネと自分の影もなんとか取り返そうと策略を練ります。多忙な、魔法使いの弟子です。
惚れ薬を巡る一幕があり、ラモン・アロンソは(表面的には)熱心に魔法の勉強を始めます。もちろん魔法使いの内懐に食い込んで影を取り戻すことが真の目的です。魔法使いは喜びます。この際魔法を徹底的に教え込んで、自分の正当な後継者にしてやろう、と。
ラモン・アロンソの友ヨゼフ神父は友の身を案じています。魔法を学ぶことで地獄への途上にあるのではないか、と。
いろいろあって、やっとのことで自分とアネモネの影を取り返したラモン・アロンソは、アネモネと手に手を取って自分の領地に帰ります。しかし……
ファンタジーのような寓話のような童話のような風刺のような詩のような物語です。



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有料道路

2010-12-28 18:53:19 | Weblog
公共工事として道路工事が盛んですが、もし本当に“必要な道路”なのだったら、それはもちろんそこを利用する人(あるいは車)が一定数以上存在しているはずですね。だったらいっそのこと、(18世紀のイギリスのように)民間が道路を造ってそこを有料道路として料金を徴収するシステムにしたらどうです? 本当に“必要な道路”だったら、ペイするはずですが。ペイしないくらいの交通量が確保できないのだったら、要らないのでは?

【ただいま読書中】『千円札は拾うな』安田佳生 著、 サンマーク出版、2006年、1200円(税別)

前書きの所で笑ってしまいます。「成功して金持ちになった人は千円札を拾いません。いや、千円札を拾わない人が金持ちになるのだと言えます。」とあります。たしかに大金持ちになる人は「千円札を拾うのにかける時間的コスト」がおそらく千円をかるく超えるでしょうから、わざわざ足や車を止めて千円札を拾わないでしょう。拾ったらかえって損をする。だけど、だからといって「千円札を拾わない人」がすべて金持ちになれるかといえば「逆は真ならず」でしょう。もちろん、「金持ちになりたい」と思いながらずっと地面を見つめて「お金が落ちていないかなあ」と行動したら、それは金持ちになるには遠い道ですが。
ただまあ、こういったキャッチフレーズ(古い?)は、ことばそのものの正確さよりも、その効果の方が重要ですから、あまりこだわらずに読んでみることにしました。
「勤勉は悪、努力は報われない(=変化しつづけること、頭を使って効率化することが善)」「残業をやめれば給料は増える(前の章と同じ意味)」「優秀な人材には仕事をさせない(自由な時間を与えて優秀ゆえの創造性を発揮させる)」などはわかりやすい主張ですが、その次の「本郷猛を鍛えてはいけない」では笑ってしまいました。「あなたは何点ですか」と自己評価をさせて、若い人間が「70点です」と答えるようだったら、著者はそんな人は採用しないそうです。だって“伸びしろ”が30点しかないのですから。(ちなみに、なぜ「本郷猛」なのかと言うと、いくら「本郷猛」を鍛えてもショッカーの手先には勝てても怪人には勝てない。怪人に勝つためには「本郷猛」を捨てて仮面ライダーにならなければならない、ということからだそうです)
「自分でできることは自分でしない」もわかりやすい。会社の社員に自社の掃除をさせるより、それを外注に出してその時間は労働をさせた方が会社は儲かる、ということです。そうそう、一番うるさい客は往々にして一番儲からない客だから、そんなのはさっさと切れ、なんて過激なことも著者は主張しています(さらに、自分の会社で実践しているそうです)。どんどん借金をしてそれを投資に回せ、とも著者は言います。投資先は「人材」「情報」「ブランド」です。何十倍以上の投資効率を生みだすのはこの3つだけだから、と。
一見びっくりするような章のタイトルが並んでいますが、その中での主張は実はけっこう真っ当な物が並んでいるように私には見えます。なんだか当たり前すぎるような、とも思えますが、では私が社長で著者と同じような経営戦略や投資戦略をとれるかと言えば、なかなか難しいでしょう。著者が自分で言っていますが、何でも捨てる覚悟を持つこと、そしてその「何でも」の中に自分自身も含めることは、本当に難しいことですから。ただ、新しいビジネスモデルを構築するためには、何かを捨てないと話が始まらないんですよね。これは、今の日本にも言えることかもしれない、とちらりと思えます。
で、結論。本書を一文にまとめると「金を生かして使うことができない“貧乏性”の社長では、企業は大きく成長しない」。ただしこれは「勝ち組」からのことばで、「負け組」からの教訓も知っておかないと高転びするかもしれない、という危惧は覚えます。


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前払い

2010-12-27 18:56:36 | Weblog
一昨日と昨日の読書日記で取り上げた『五星大飯店』で驚いたことの一つは、治療のたびに病院が患者に現金払いを要求することです。中国は日本と違って国民皆保険はないようですし、なにか担保しておかないと料金を踏み倒して逃げる人間が多いのでしょうね。それにしても、人工呼吸器でさえ現金払いとは。
アメリカでも、救急車は有料で、患者が入っている民間医療保険のランクによって受けられる医療にしっかり差がつけられる、というのも思い出して、日本にいて良かった、とつくづく思います。

【ただいま読書中】『イン ──INN イギリスの宿屋のはなし』臼田昭 著、 駸々堂出版、1986年、1800円

中国の大ホテルの話の後は、イギリスのインに行きましょう。
宿屋といってもイギリスではさまざまなものが混在しています。宿泊と酒食の提供をする「イン」(今で言うホテル)、広間に仕切りや個室をしつらえて十分な食事を提供できる「タヴァン」(今ならレストラン)、安直な構造でもっぱら酒を提供する「エールハウス」(今ならパブリックハウス(通称パブ))。ただしパブでも宿泊施設を持ったところもあるので話がややこしくなるのです。
本書は『カンタベリー物語』で始まります。カンタベリーの聖トマス・ア・ベケットの墓に詣でようという29人の巡礼がロンドンの宿屋「陣羽織屋(タバード)」に集まって……という物語です。(そういえば今年は正月休みが丸々3日もあるので、その間に読もうと思って『カンタベリー物語』を借りてきてあります。これは読むのが楽しみになりました)
中世のヨーロッパでは、巡礼とそれをもてなすことは、慈善や功徳の最たるものとされていました。ただしチョーサーが描いた時代には、すでに巡礼は俗化し、観光旅行の趣となっていました(だから世俗の話で退屈を紛らわす必要があるわけです)。
話はとんで、シェークスピアにディケンズ。酒の場での会話のように、話題がひょいひょい関連があるようなないような凄い勢いで滑っていきます。
聖ダンスタンが悪魔の鼻を真っ赤に焼けた火ばさみではさんだ故事にちなんだ「悪魔と聖ダンスタン」という酒場がいつのまにか通称「悪魔(デヴィル)」になったのは、それは無理もないだろうと思えます。そこでよく飲んでいたのが、ベン・ジョンソン、そして100年後にはサミュエル/ジョンソン……とまた話が滑っていきます。当時の酒場は、単なる飲み助のパラダイスではなくて、知的サロンでもありました。ただ、インテリでも飲み過ぎてへべれけになったらどんな状況になったかは容易に想像ができますが。
酒場の看板は、18世紀にはずいぶん派手なものになりました。ジョウゼフ・アディソンは「わが国の街路は、空飛ぶ豚、鎧を着た去勢豚は言わずもがな、青い猪、黒い白鳥、赤いライオンなどなど、アフリカの砂漠における以上に奇怪な、あまたの動物に満ちている」と風刺しています。『紅の豚』はこのへんが原点だったのかな? あまりの看板競争に交通障害や落下物による死傷者なんて事故まであって、1762年にロンドンの旧市内では看板禁止と番地制度の導入が行なわれました。ただ、屋号で商売しなければならないインやタヴァンは看板を以後も使い続けたそうです。その看板も、由緒正しいのもあれば言葉遊び(洒落)やこじつけもあって、私は江戸時代の日本の看板を思い出していました。こういった看板での遊び心は、東西関係ないのかな。
ロンドン名物二階建てバスの起源は、馬車だそうです。馬車の屋根の上は召使いのためのスペースで、馬車が満員だと紳士でも仕方なく屋根に登るのですが、その場合、食事で立ち寄った宿駅では、箱の中の客は客間へ、屋根の上の人は台所で食事なのです。
18世紀半ばにイギリスでは駅馬車が発展します。ひどかった道路が、個人が投資する有料道路のおかげで整備され(18世紀末には有料道路の料金所が8000あったそうです)、敷石による道路舗装も始まり、大型馬車の高速運転が可能になりました。そのあおりで中継の宿駅で客が落とす金が減ります。さらに鉄道の開通。馬車と馬車宿は息の根を止められます。
インは不潔でした。蚤や南京虫がはびこり、客は暖炉で用を足します。さらには犯罪も。宿の主人が犯罪者だったりあるいは追いはぎと結託していたり。油断も隙もありません。一説ではイギリスの街道で追いはぎが姿を消したのは、1797年に時の首相ビットが小切手使用を奨励する法律を公布し、金貨を持ち歩く人が減ったからだそうです。警察以外のやり方、の方が有効なのかな。
田舎のインは村人のためにさまざまな機能も果たしていました。牧師の年貢徴収、郵便集配所、事故の時には死者や負傷者をまず担ぎ込む場所、巡回裁判、選挙事務所、競売、闘鶏、巡回の曲芸師などの見せ物……とにかく人が集まらなければならないときにはインを使っていた、と言って良さそうです。ということで、インの格式は「ロング・ルーム」(ダンスパーティーでも開くことができる大広間)があるかどうかで決定されるそうです。
フィクション・ノンフィクションお構いなしに文献を渉猟してまとめられているため、学術書とか歴史書として読むのは難しい本ですが、でも読んでいてときかく楽しい。インやパブに集う人たちのざわめきや歌声が聞こえるような気がします。私は下戸ですが、著者が勧めるとおり「自分で見つけたお気に入りのパブ」を探しにイギリスへ行きたくなりました。



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腹話術漫才

2010-12-26 18:59:13 | Weblog
最終回のM1グランプリ決勝戦が始まりました。
今日の午後にだらだらと敗者復活戦を見ていて「腹話術漫才」を見たいと突然思いました。一人がもう一人を人形として、というのは平凡なので、お互いが腹話術を使い、ボケが動いているときにはそれをじっと見ているツッコミがそのセリフを腹話術で言い、ツッコミが動いているときにはボケがそのセリフを担当、そしてセリフと動きが段々ずれたり混線したりして……というものです。誰かやってくれないかなあ。

【ただいま読書中】『五星大飯店(下)』海岩 著、 近藤博 訳、 講談社、2009年、1500円(税別)

韓国シーテ社の会長志愛を巡る暗闘は激化します。各勢力が力を向ける焦点に位置するのが、一介の貧乏人バトラー玉龍。義理で縛ろうとしたり権力を振りかざしたり札束でほっぺたをひっぱたこうとする人々に、玉龍は「自分は一介のバトラーでしかない」とさらりとしかし頑固にやり過ごします。難しくいうなら職業倫理でしょうが、玉龍にとっては「真実」にかなうかどうかが判断基準です。
豆豆の方は大変です。せっかくダンスコンテストに優勝したのに、実はそれはスポンサーが裏で大金を使って“買った”勝利だったのです。「これは真実の優勝ではないわ」豆豆は怒ります。しかし、「真実か現実か」と究極の選択を迫られ、彼女は……
志愛は、自分を精神障害者として韓国に強制的に送ろうとする企みがあることを知らされ、銀海から中国の田舎に逃げ出します。お伴をするのは忠実なバトラー一人だけ。おっと、尾行者もお伴をしていました。しかし二人は彼らを振り切ります。
北京のコンテストで、チーム「真実」はトップテンにも入れず惨敗でした。しかし豆豆は「現実」を受け入れます。
志愛が会長になったのは、父親の急死のせいでした。その“遺産”をめぐるごたごたによって彼女の身に危険が迫っていたのです。ところが、もう一つの“遺産”争いが平行して行なわれていました。豆豆は実は盛元グループ会長の私生児だったのです(だから企業のマスコットに抜擢されたわけです)。そして、こちらの会長も最近病死し、その巨大すぎる(30億元以上の)遺産を巡っての争いがあり、ついに殺人を目的とした動きが始まってしまいます。
しかし、そこからの動きが笑えます。「沈みかけた船」から逃げ出すネズミが多いこと。勧善懲悪の観点からは、上手く逃げ出す人間を目にして、なんだか悔しい思いもしてしまいますが、それが“現実”なのでしょう。
そして、最後に残った「真実の愛」の行方。玉龍を中心にしてこんがらがった愛の迷路が、解決を待っています。しかし「真実」とあえて口に出して言わなければならなくなったら、その分愛の中で何かが喪われるのです。そして、「二人」をつなぐ“シンボル”が「物」であることが、私には印象的でした。(つながらない)携帯電話、傷を押さえるリストバンド(の刺繍)、そしてその二つよりちょっと“弱い”シンボルとして純白のペンダント。それぞれが「絵」になるアイテムです。
そうそう、著者は映画化を意識しているのかな、ストーリーのあちこちに「絵になる中国各地の風景」が登場します。映画「卒業」のパロディーかな、と思うシーンもあって私は笑っちゃいました。



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物騒

2010-12-25 18:14:33 | Weblog
戦前の歴代首相28人のうち、暗殺された人は、伊藤博文・原敬・高橋是清・浜口雄幸・犬養毅・斉藤実の6人もいます。伊藤は外国がらみですし、浜口は暗殺では死なずにその後病態が悪化して死亡したのですが、この二人を除外したとしても、物騒な時代だったんですね。李鴻章やニコライ皇太子が襲われたことも考え合わせると、志士や新撰組の人斬りは「日本の伝統」だったのかな。

【ただいま読書中】『五星大飯店(上)』海岩 著、 近藤博 訳、 講談社、2009年、1500円(税別)

英語のタイトルは「Five Star Hotel」です。
中国西南部に位置する銀海。高層ビルと昔からの木造建築とが混在する都市です。ホテル専攻の学院4年生玉龍は場末の共同住宅に入居します。隣室の父娘はしょっちゅう派手な大げんかをしています。さらに父娘につきまとう謎の人物、王。酔いどれ詩人の父親は急死。娘の豆豆は倒れて入院。隣室ということだけで、その世話をすることになった玉龍。その過程で、玉龍は豆豆に惹かれていきます。
玉龍は学費と生活費を稼ぐために仕事の掛け持ちをします。見つけたのは、いかにも怪しげな地方の“ホテル”をオープンさせる仕事。バーで踊っていた豆豆のタップダンスチーム「真実」には、盛元グループという大企業からイメージキャラクターのオファーがあります。上昇気流の豆豆。しかし玉龍は激務で体をこわし、さらに警察沙汰に。こんどは豆豆が玉龍の看病です。
めまぐるしく入れ替わりながら踊る二人のダンサーのように、二人の主人公の運命はつかず離れず激しい“ダンス”を続けます。
中国にも世代交代の波が押し寄せていました。堅実な発展をしてきた盛元グループにも、若社長が金融テクノロジーでの急速な成長路線を持ち込もうとしています。銀海の五つ星ホテル、万乗大酒店の買収もその戦略の一環でした。そして、玉龍が就職したいと願っているのもまさにその万乗大酒店です。玉龍と豆豆は、ここでも手に手を取っての“ダンス”を踊りながら人生を進めていきます。二人の共通語は「パフォーマンス」。豆豆はダンスが、玉龍は客へのサービスが、それぞれのパフォーマンスなのです。もう一つの共通語は「真実」。結果ではなくて経過が真実のものであるかどうか、それが一番大事だと二人は信じています。たとえ周りの人間に「きれいな『真実』ではなくて、きたない『現実』も見ろ」と言われようとも。
そこへ波乱が。まずは豆豆がエロ親父の毒牙にかかりそうになります。玉龍にはホテルで実習中の女性弁護士(の卵)楊悦が急接近。さらに、盛元が銀海テーマパーク開発で争っている韓国のシーテ社の若き総帥(ただし実権は全然持たされていない)金志愛が中国にやってきて万乗大酒店に長期滞在をするのですが、突然玉龍を専任バトラーに指名します。実習生を? ホテル中が大騒ぎ。しかもこの志愛さん、心が純白すぎて、権力闘争とか大企業の切り盛りとかが性に合いません。そんな自分を会長の座に据え付けておいて、実権はちゃっかり取り上げる重役連中への反発も強烈です。だからホテルの部屋では荒れる荒れる。そのとばっちりを受け続けるのが、哀れ、玉龍なのです。
なんだか一昔前のドラマを見ているような気分になりました。でも、かえって新鮮な気持ちになります。「青春ドラマ」ってあったよなあ、って。
ちょっと面白かったのは、中国のホテルでNHKが見られると書いてあることです。衛星放送でしょうが、ちゃんと受信料をみなさまのNHKに払っているのかな?


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生きている

2010-12-24 18:21:33 | Weblog
自分が呼吸をしていることと心臓が鼓動をしていることに、気がついています?

【ただいま読書中】『陰陽師(11)白虎』岡野玲子 作、夢枕獏 原作、白泉社、2002年、886円(税別)

安倍晴明は“太極の結節点”となってしまいます。対立と循環が止揚し、晴明の中に生と死が同居します。晴明は屋敷の中を浄めます。衣服を改め、それまで着衣や建具類はすべて焚き上げます。そこに、タイミングをはかったように登場するのが、源博雅です。普通の人間なら入れぬはずの清浄空間に、博雅はちゃっかり入ってしまいます。しかし、煌々と輝く光の空間の中で、晴明の足の裏は「玄(くら)い」のです。
まるで呪文のように晴明が唱える文言に「私」が繰り返し繰り返し登場することが、私のどこかに引っかかります。なぜここまで「私」と唱えなければならないのだろう、と。自分を一つのツールとして使う巨大な力の前で、「私」というものを立脚点とする、あるいは、しがみつくことで晴明は己の正気と自身の行動の目的を見失わないようにしなければならなくなっているのだろうか、とも思います。
本書をぱらぱらとめくってみたらすぐわかりますが、特に後半はどよんとページ全体が暗くなっています。薄墨のベタが一面にまとわりついて画が重い重い。それだけにページをめくった瞬間に目に飛び込む「夜明け」の文字と、安倍晴明のバックの一面の“白”とが、目と脳に衝撃を与えます。そのとき、私の心臓の鼓動と呼吸とが、自然が刻むリズムと一致します。
サイドストーリーとして、これまでも折に触れて登場していた少年時代の安倍晴明と賀茂保憲(陰陽師の総本家)との関係が、少しずつその姿(人間関係の“根っこ”)を現します。妾腹と総領という社会的関係と、陰陽師としての実力差、そしてそういった人間社会をはるか高みから見下ろす“目”。
そして、律令国家としての「時代」は、その幕を下ろすのです。



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2010-12-23 18:07:21 | Weblog
はやぶさ2は、どこを目標にするのが良いでしょうねえ。カイパーベルト、いや、いっそオールト雲、は、ちょっと“高望み”しすぎ?

【ただいま読書中】『小惑星探査機「はやぶさ」の奇跡 ──挑戦と復活の2592日』的川泰宣 著、 PHP研究所、2010年、952円(税別)

日本の宇宙科学研究所は、1985年にハレー彗星探査機「さきがけ」と「すいせい」を第4世代ミュー・ロケット「M-3SⅡ」で打ち上げました。世界で初めて固体燃料ロケットでの地球脱出でした。なおこれは、1981年から始まった国際プロジェクトIACG(ハレー探査関係機関連絡協議会)の一環です。「M-3SⅡ」はその後「ひてん」(月の多重スウィングバイを実行。「はごろも」を月周回軌道に投入)を打ち上げ、次いで「M-V」ロケットが開発されます。これは火星への「のぞみ」を打ち上げました。
小惑星からの「サンプルリターン計画」は、1980年代から日本では研究されていました。それが正式決定したのは1995年のことです。打ち上げ予定は2002年、目標は小惑星ネーレウスとされました。しかし打ち上げ前にトラブルが続き打ち上げが延期、結局バックアップのバックアップの小惑星(のちにイトカワと命名)に目標は変更されます。ついでに、科学技術庁と漁業者との絡みで、著者は“隠密行動”をとり、そのせいで糖尿病になったのだそうです。ことの顛末は、本書をどうぞ。
はやぶさの飛行には「世界初」がいくつも含まれていますが、その代表が、イオンエンジンによる惑星間の往復・光学観測による自律航法・惑星表面の標本採取・惑星間軌道から大気圏への再突入と回収、です。これだけ世界初が並ぶのですから、開発は難航しました。基本的に、新技術はそれだけでトラブルの巣窟なのですから。
イオンエンジンは、キセノンガスにマイクロ波を照射してイオンにし、電場をかけて加速・噴射するものです。エンジンの重さは60kg、得られる推力はわずか2g。ただし、力は弱いが効率がよいので、地味にじっくり加速し続けることができます。
光学観測航法は、はやぶさが自分のカメラでイトカワを撮影してそのデータから位置・速度を推定しながら接近していく方法です。はやぶさがイトカワに到着するときには地球との距離は3億キロ(16光分)、とても地上から位置を推定して誘導することはできないのです。
2003年5月9日ついにMV5号機が打ち上げられます。イオンエンジンで少しずつ加速しながら太陽を周回して翌年5月19日に地球スウィングバイでさらに加速しつつイトカワを目指す軌道へ(これも世界初です)。そこまでは順調だったのですが、ここから苦難の連続です。05年7月、3つのリアクションホイール(慣性で姿勢制御をする)の一つが故障。10月にはもう一つも故障。ガスジェットで細かく姿勢制御を補助することになります。それでもついにイトカワとランデブー飛行に成功。11月4日にまず降下のリハーサル。操作手順と器機の動き、タッチダウン地点の確認が目的ですが、3億キロ向こうの人工衛星をミリ単位で精密に姿勢制御するのです。話を読んでいるだけで、緊張でこちらの胃が痛くなりそう。11月19日、ついに本番。目標地点とのズレはなんと30m以内だったそうです。「30mもずれた」と言う人は、3億km向こうの30mがどのくらいのものか、計算してみてください。
まずはターゲットマーカーを放出してイトカワ表面に着地させ、それを目標にしずしずとはやぶさがタッチダウンという手順ですが、そのマーカーにはキャンペーンに応募した88万人の名前が刻んであるそうです。今もその名前の群れはイトカワと一緒に宇宙を旅しているはず。うらやましいなあ。ただ、最初の着地は不完全なもので、25日に再トライ。タッチダウンには成功しますが、その頃からガスジェットにトラブル(おそらく燃料(ヒドラジン)が漏れて気化)。バックアップシステムに切り替えて運用。しかしガスの漏れは停まらず姿勢が崩れていきます。そこでイオンエンジンのキセノンを中和器から噴射して姿勢を制御することになりました。なんとかだましだましの運用をしていましたが、12月にはついに連絡が取れなくなります。ガス噴出のせいでアンテナが明後日の方を向いてしまったのでしょう。つまりは行方不明。宇宙の迷子。しかし、イトカワ周辺にいることは間違いないので、力学的には(オイラーの運動方程式では)1年以内に通信が復旧する確率は60~70%。ところが文部科学省から「行方不明なのだから、予算はカット」との電話が。打ち上げの前に著者を電話で怒鳴りつけた科学技術庁のお役人といい、こういった人たちの実名を公表してもいいんじゃないか、と私は感じます。
2006年1月、通信が復旧します。ただし、地球から軸が70度ずれて50秒周期で回転している状態で。指令を送るにも20秒しか受信してくれません。それでも技術者はなんとかしちゃうんですね。ただ、リチウムバッテリは放電しきっています。キセノンガスを噴射して太陽に太陽電池を向けて充電開始。帰還の準備が整い、2009年2月、“冬眠”からイオンエンジンが目覚めます。しかし……
4基のイオンエンジンは次々不調となり、2009年11月、ついに最後のエンジンが停止します。万事休すか。ところがイオンエンジンの開発責任者は、すべてのエンジンが故障したときでも、生き残った部分を組み合わせて稼働できるようにしていたのです(それもダイオードを1個追加するだけで)。エンジンはイオン源からのイオンビームと中和器からの電子噴射の組み合わせで動いていますが、使えるスラスタAの中和器とスラスタBのイオン源とを組み合わせて運用しようというのです。「貧乏人の冗長性」と言ったらことばは悪いのですが、それがみごとに機能したのでした。
そして大気圏突入。最初の計画では、カプセルを分離した後はガスジェットをふかしてまた宇宙空間に戻るはずでしたが、ジェットは故障していてその計画は断念。そのままはやぶさは燃え尽きてしまいました。落ちていくカプセルを追うように燃える光の帯は、私の心に焼き付けられています。

本書を読んで、ニコニコ動画「探査機はやぶさにおける、日本技術者の変態力」をまた見てしまいました。しかし……似たようなコメントが山盛りでうるさいのですが、それでもこれを見たら、なぜ目から燃料が漏れるんだろう?
なお、金に目がくらんで「二位でもいいじゃないか」と主張する人たちを「逆さにしてトントン」したくなったのは、秘密です。



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金と下肥

2010-12-22 18:13:42 | Weblog
金を卑しむのは、正しい態度でしょう。だって、下肥が匂うように、金は卑しい匂いがするのですから。そして、下肥が土地を肥やすように、金は社会を肥やすものです。ただ、下肥をポケットに入れて歩きたいとは思いませんが、金はそうではないんですよね。

【ただいま読書中】『あなたに似た人』ロアルド・ダール 著、 田村隆一 訳、 早川書房、1976年(2000年36刷)、800円(税別)

目次
「味」「おとなしい兇器」「南から来た男」「兵隊」「わがいとしき妻よ、わが鳩よ」「海の中へ」「韋駄天のフォックスリイ」「皮膚」「毒」「お願い」「首」「音響捕獲機」「告別」「偉大なる自動文章製造機」「クロウドの犬」
知らない方のために紹介すると、著者は「奇妙な味」の作品を書くことに関してはとても“信頼”できる人です。御用とお急ぎでない方は、本書の最初「味」だけでも立ち読みで良いから読んでみてください。たった25ページの短編ですからそれほど時間はかからないでしょう。ワインがお好みでない方は、その次の羊肉、じゃなかった、「おとなしい兇器」を。どちらの作品もいわば「飲食の場面」での会話が主体ですが、それがまたなんというか居心地が悪いというか奇妙な感じなのです。素直な人は「おとなしい兇器」の方を、ちょっとすれた人は「味」の方が気に入るかもしれませんが、ともかくこのどちらかが気に入って、思わずくすくす笑ってしまった人は、本書を全部読んで絶対損はしません。




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