「いちじー」だと地球の重力加速度ですが、「いちぐらむ」だと私は一円玉の重量を思い出します。ところが一万円札の重さも実はほとんど「一枚一グラム」なんだそうです。だったら、強盗をして30㎏をかついで逃げるのなら、1円玉で3万円分よりは1万円札で3億円の方が良いですね。
どちらにしても数十メートル走ったところで息が切れて捕まってしまいそうですが。
【ただいま読書中】『蜻蛉日記』藤原道綱母 著、 柿本奨 校注、 角川書店、1967年(79年14刷)、580円
微妙な歌のやり取りが印象的です。結婚するかどうかや結婚生活が維持できるかどうかは歌のやり取りが真面目なものかどうかとその出来具合によって決定されるのですから、簡単に読み飛ばすことはできません。中でも印象的なやり取りは、妊娠した女性からの「知られねば身をうぐひすのふりいでつゝなきてこそゆけ野にも山にも」(「う」は「身を憂」と「うぐひす」にかかっている。「なきて」は「鳴きて」と「泣きて」。自分の気持ちがわかってもらえないのなら、鳴きながら野山に飛び立つ鴬のように私も泣きながら家を出て行きます)に対して、男(兼家)は「うぐひすのあだにもゆかむ山べにも鳴く声聞かば尋ぬばかりぞ」(なきごえを頼りに探し出すだけ。絶対離さぬ)と返しています。わお。修辞による“真剣勝負”です。
しかし兼家の愛は冷め、「町の小路の女」の所へ通うようになります。このあたりの歌のやり取りは哀愁を帯びています。ただし、作者自身、他の女(たとえば時姫(道長の母))から兼家を奪った“過去”があるのですが(実際には奪えませんでしたが)。ただ、当時の貴族は一夫多妻、彼女の嘆きは痛切ですが、“それ”が常識だと思って育った人は、おそらく独占欲からではない嫉妬心を発動させていたことでしょう。あまり現代風に解釈しない方が良いように思います。
著者の“世界”は「自分の視界」とほぼ一致しているように私には感じられます。日記に取り上げられる題材は、家族と歌、ごくたまの外出(参詣)、それだけと言っても過言ではありません。だからこそ“自分の視野”から夫が消える(他の女の所に通う)ことが「不安の種」になってしまうのでしょう。だから出奔して山寺へ籠っちゃうなんて荒事もしてしまったのでしょうが。
時姫は次々子を生むが自分は息子の道綱一人だけ。実家の家族も次々亡くなり、夫の愛は冷め、文字通り寄る辺ない身の上になろうとする自分の運命を見つめるしかない人生って、どのくらい辛いものでしょうねえ。
どちらにしても数十メートル走ったところで息が切れて捕まってしまいそうですが。
【ただいま読書中】『蜻蛉日記』藤原道綱母 著、 柿本奨 校注、 角川書店、1967年(79年14刷)、580円
微妙な歌のやり取りが印象的です。結婚するかどうかや結婚生活が維持できるかどうかは歌のやり取りが真面目なものかどうかとその出来具合によって決定されるのですから、簡単に読み飛ばすことはできません。中でも印象的なやり取りは、妊娠した女性からの「知られねば身をうぐひすのふりいでつゝなきてこそゆけ野にも山にも」(「う」は「身を憂」と「うぐひす」にかかっている。「なきて」は「鳴きて」と「泣きて」。自分の気持ちがわかってもらえないのなら、鳴きながら野山に飛び立つ鴬のように私も泣きながら家を出て行きます)に対して、男(兼家)は「うぐひすのあだにもゆかむ山べにも鳴く声聞かば尋ぬばかりぞ」(なきごえを頼りに探し出すだけ。絶対離さぬ)と返しています。わお。修辞による“真剣勝負”です。
しかし兼家の愛は冷め、「町の小路の女」の所へ通うようになります。このあたりの歌のやり取りは哀愁を帯びています。ただし、作者自身、他の女(たとえば時姫(道長の母))から兼家を奪った“過去”があるのですが(実際には奪えませんでしたが)。ただ、当時の貴族は一夫多妻、彼女の嘆きは痛切ですが、“それ”が常識だと思って育った人は、おそらく独占欲からではない嫉妬心を発動させていたことでしょう。あまり現代風に解釈しない方が良いように思います。
著者の“世界”は「自分の視界」とほぼ一致しているように私には感じられます。日記に取り上げられる題材は、家族と歌、ごくたまの外出(参詣)、それだけと言っても過言ではありません。だからこそ“自分の視野”から夫が消える(他の女の所に通う)ことが「不安の種」になってしまうのでしょう。だから出奔して山寺へ籠っちゃうなんて荒事もしてしまったのでしょうが。
時姫は次々子を生むが自分は息子の道綱一人だけ。実家の家族も次々亡くなり、夫の愛は冷め、文字通り寄る辺ない身の上になろうとする自分の運命を見つめるしかない人生って、どのくらい辛いものでしょうねえ。