「大義」というモノは存在しません。「大義を信じる人」は多く存在します。「大義を信じている、と言葉を発する人」はもっと多く存在します。
【ただいま読書中】『墓標なき草原 ──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(上)』揚海英 著、 岩波書店、2009年、3000円(税別)
タイトルを見た瞬間思ったのは、チンギス・ハンです。もともとモンゴル民族は墓標を立てる習慣がなかったし、チンギス・ハンの埋葬場所は最高機密とされました(『東方見聞録』にも、葬送の列が出会った住民をすべて殺した、とありましたっけ)。おそらくその故事を踏まえての命名でしょうが、内容は中国の文化大革命です。
文化大革命当時、内モンゴル自治区の人口は約1300万人(内モンゴル族は約150万)、中国政府の記録によると、「反党叛国集団」と見なされたモンゴル族は34万6000人、そのうち殺されたのが2万7900人、拷問で身体障害が残ったのが12万人だそうです。あくまで“公式発表では”ですが。
本書はその大量虐殺をモンゴル人の視点から再現したものです。
清朝時代、モンゴル人は満州人の軍事同盟者で、草原は保護されていました。しかし清朝末期に漢人が草原を開拓することが許可されます。漢民族とモンゴル民族の対立です。内モンゴルの東側は満州国に編入され、それによって多くのモンゴル人が教育を受けられるようになりました。優秀な者は満州建国大学や日本留学を目指します。このモンゴル族知識人がのちに民族自決運動の中核になっていきますが、彼らは漢人から「日本刀をぶら下げたモンゴル人」と呼ばれました。戦後、内モンゴルのモンゴル人はモンゴル共和国への所属を望みますが、ヤルタ協定によって内モンゴルは中国に属することになります。そして中国共産党が内モンゴルを“解放”しようとやってきます。そのとき中国は内モンゴルのモンゴル人を対日協力者として見ました。「毛澤東は誰かを疑い出すと、かならずその歴史を掘り出して再精算していた」という陳伯達の証言がありますが、毛沢東自身の宣言に「誰か」が忠実に従っていた場合でも「その指示は党内の教条主義者の捏造だった」と30年経ってからひっくり返されて断罪される、という例も紹介されています。『1984年』の“指導者が言うことを変える度、それを正当化するために歴史の改変が行なわれる”を思い出します。
中国共産党はソ連と対立するようになりますが、内モンゴルは北京から見たら一番近い国境、つまりソ連(とその衛星国であるモンゴル共和国)に対する“最前線”です。したがって政治的なてこ入れが必要でした。だからこそ文化大革命は他の地域よりもまず内モンゴルで開始されたのです。まずモンゴル人指導者のウラーンフーを「民族分裂主義者」として打倒し、同時に彼を支えるエリート集団を粛清します。頭に大きな鉄釘を打ち込む、がお好みのやり方のようです。平均より少しでも豊かなモンゴル人は「反革命分子」として財産を没収されます。
「放牧しかできない草原」は「壮大な無駄」だからと盛んに開墾が行なわれ畑となりましたが、それは結局「広大な沙漠」になってしまいました。
モンゴル人が一方的にやられていたわけではありません。モンゴル人で「運動」に熱心に参加する者もいました。ただし、結局粛清の対象は、漢人ではなくてモンゴル人だったのですが(モンゴル人にモンゴル人を殺させて、用が済んだらそのモンゴル人を始末する、がよく使われた手口です)。また、「日本刀をぶら下げたモンゴル人」はチベット弾圧の先兵としても使われています。“忠誠心”を示すために熱心にチベット人を殺すだろう、と見込まれていたのでしょう。(朝鮮戦争でも、帰順したばかりの国民党政府の軍人やモンゴル人が先頭に投入されました)
シンドラーのモンゴル版もいます。名医として知られたジュテークチは、「重犯」のモンゴル人を「重病」の名目で内モンゴル以外の各地に転院させ、結局約16000人の命を救ったと言われています。
紅衛兵たちは毛沢東の「造反有理」のスローガンに従って立ち上がりましたが、のちにそれは「造反派による反革命思想」とされました。内モンゴルでも造反派と保守派の武闘が行なわれます。ところがその武闘もモンゴル人指導者のせいにされました。とにかく内モンゴルで何か起きたらそれはすべてモンゴル人が悪いからモンゴル人を殺せ、だったのです。
なお、モンゴル人から見たら、日本人は植民地経営は上手とは言えませんが、少なくともモンゴル人を大虐殺はしなかったそうです。
【ただいま読書中】『墓標なき草原 ──内モンゴルにおける文化大革命・虐殺の記録(上)』揚海英 著、 岩波書店、2009年、3000円(税別)
タイトルを見た瞬間思ったのは、チンギス・ハンです。もともとモンゴル民族は墓標を立てる習慣がなかったし、チンギス・ハンの埋葬場所は最高機密とされました(『東方見聞録』にも、葬送の列が出会った住民をすべて殺した、とありましたっけ)。おそらくその故事を踏まえての命名でしょうが、内容は中国の文化大革命です。
文化大革命当時、内モンゴル自治区の人口は約1300万人(内モンゴル族は約150万)、中国政府の記録によると、「反党叛国集団」と見なされたモンゴル族は34万6000人、そのうち殺されたのが2万7900人、拷問で身体障害が残ったのが12万人だそうです。あくまで“公式発表では”ですが。
本書はその大量虐殺をモンゴル人の視点から再現したものです。
清朝時代、モンゴル人は満州人の軍事同盟者で、草原は保護されていました。しかし清朝末期に漢人が草原を開拓することが許可されます。漢民族とモンゴル民族の対立です。内モンゴルの東側は満州国に編入され、それによって多くのモンゴル人が教育を受けられるようになりました。優秀な者は満州建国大学や日本留学を目指します。このモンゴル族知識人がのちに民族自決運動の中核になっていきますが、彼らは漢人から「日本刀をぶら下げたモンゴル人」と呼ばれました。戦後、内モンゴルのモンゴル人はモンゴル共和国への所属を望みますが、ヤルタ協定によって内モンゴルは中国に属することになります。そして中国共産党が内モンゴルを“解放”しようとやってきます。そのとき中国は内モンゴルのモンゴル人を対日協力者として見ました。「毛澤東は誰かを疑い出すと、かならずその歴史を掘り出して再精算していた」という陳伯達の証言がありますが、毛沢東自身の宣言に「誰か」が忠実に従っていた場合でも「その指示は党内の教条主義者の捏造だった」と30年経ってからひっくり返されて断罪される、という例も紹介されています。『1984年』の“指導者が言うことを変える度、それを正当化するために歴史の改変が行なわれる”を思い出します。
中国共産党はソ連と対立するようになりますが、内モンゴルは北京から見たら一番近い国境、つまりソ連(とその衛星国であるモンゴル共和国)に対する“最前線”です。したがって政治的なてこ入れが必要でした。だからこそ文化大革命は他の地域よりもまず内モンゴルで開始されたのです。まずモンゴル人指導者のウラーンフーを「民族分裂主義者」として打倒し、同時に彼を支えるエリート集団を粛清します。頭に大きな鉄釘を打ち込む、がお好みのやり方のようです。平均より少しでも豊かなモンゴル人は「反革命分子」として財産を没収されます。
「放牧しかできない草原」は「壮大な無駄」だからと盛んに開墾が行なわれ畑となりましたが、それは結局「広大な沙漠」になってしまいました。
モンゴル人が一方的にやられていたわけではありません。モンゴル人で「運動」に熱心に参加する者もいました。ただし、結局粛清の対象は、漢人ではなくてモンゴル人だったのですが(モンゴル人にモンゴル人を殺させて、用が済んだらそのモンゴル人を始末する、がよく使われた手口です)。また、「日本刀をぶら下げたモンゴル人」はチベット弾圧の先兵としても使われています。“忠誠心”を示すために熱心にチベット人を殺すだろう、と見込まれていたのでしょう。(朝鮮戦争でも、帰順したばかりの国民党政府の軍人やモンゴル人が先頭に投入されました)
シンドラーのモンゴル版もいます。名医として知られたジュテークチは、「重犯」のモンゴル人を「重病」の名目で内モンゴル以外の各地に転院させ、結局約16000人の命を救ったと言われています。
紅衛兵たちは毛沢東の「造反有理」のスローガンに従って立ち上がりましたが、のちにそれは「造反派による反革命思想」とされました。内モンゴルでも造反派と保守派の武闘が行なわれます。ところがその武闘もモンゴル人指導者のせいにされました。とにかく内モンゴルで何か起きたらそれはすべてモンゴル人が悪いからモンゴル人を殺せ、だったのです。
なお、モンゴル人から見たら、日本人は植民地経営は上手とは言えませんが、少なくともモンゴル人を大虐殺はしなかったそうです。
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