【ただいま読書中】

おかだ 外郎という乱読家です。mixiに書いている読書日記を、こちらにも出しています。

一発屋

2009-11-07 17:34:57 | Weblog
 芸能界では、侮蔑的な表現だったり自虐的な言い方のようですが、要するに「一発大ヒットは飛ばしたけれど、あとが続かなかった人」のことです。でも、その「一発」さえ当てることができない人が大部分であることを思うと、どうして「一発屋」が侮蔑や自虐になるのか不思議に思えます。もしそれを本気で言っているのだとしたら、それを言っている人が「ヒットを飛ばした経験者」だったら「一発屋なんかくだらない、まして一発さえ当てられない人間は……」と芸能界のほとんどを敵に回す行為ですし、当てたことがない人間が言っているのだったら「自分より“上”の存在の、一体何をバカにしているんだ?」となります。
 それとも「連続ヒットをずっと続けるのが○/それ以外は全部ひっくるめて×」という“二分法”なんでしょうか?

【ただいま読書中】
トリフィドの日』(世界SF全集19収載) ジョン・ウインダム 著、 峯岸久 訳、 早川書房、1969年

 トリフィド……三本脚で歩く植物、食肉性で触手で獲物を打ち倒すがそれは有毒で人一人なら十分殺せる、きわめて良質の植物油が抽出可能、ある種の集団知性を持ちコミュニケーションをしているふしがある……この不思議な植物がどこからか登場し世界中に蔓延して定着して何年か後、地球の夜空は不思議な緑色の「流星雨」に染められます。そして翌朝、夜空を眺めた人たちは全員、自分が視力を失っていることを知りました。
 『毒ガス帯』(コナン・ドイル)ではロンドンは「死の街(倒れた死者に満ちた街)」でした。本書でのロンドンは「手探りする街」です。人類破滅ものとしてはずいぶん静かな活気に満ちた、そして絶望にも満ちた街の情景が時間をかけて細かく描写されます。それは、僥倖によって視力を失わずにすんだ主人公が「世界の変貌(人類の没落)」を“事実”として受け入れるのに必要な時間でもあり、同時に読者がこの世界に溶けこむために必要な(と著者が判断した)時間でもあります。人々は絶望の中で生存のためにお互い争いはじめ、あるいは自分たちの“眼”として目が見える人間を確保しようとし始めます。そしてそういった人々をトリフィドの群れが襲い始めます。まるで人類が視力を失うのを待っていたかのように。
 破滅テーマSFですから、まず破局が登場します。ついでサバイバル。そして復活(あるいは再出発)。ところが本書での破局はきわめて静かなものです。さらに、重要なテーマが「性」です。限定された人類社会でどのような性生活を送るのが一番“正しい”のか、が取り上げられているのです。(「人類の滅亡と性」ですぐ思い出すのは『復活の日』(小松左京)と『マレヴィル』(ロベール・メルル)ですが、それぞれに“理想型”が違うのは、もちろん破滅の状況や生き延びた男女比の違いもありますが、それぞれの著者の個人差や文化背景の差も大きいからでしょう) さらに「倫理」も絡みます。極限状態において障害者を見捨てるのか救うのかが真っ向から問われるのです。本当にこれはSFかい?
 生命の危機の連続のはずなのに、話は淡々と静かに進みます。アメリカだったらもっとアクションが豊富にはいるだろうな、と思いつつ、私は、ロンドン(崩壊しつつある死の都)への略奪行を定期的に繰り返す主人公に付き添います。人々は小さな共同体をあちこちに作って、なんとか生き延びています。しかし、トリフィドが……あまりに数の多すぎるトリフィドが……
 大量破壊兵器だけではなくて「人道的な兵器」の予言が本書ではされています。人類滅亡の危機でも個人的な権力欲に囚われるみじめな人間も登場します。しかしそういったものへの言及によっても、本書は冷ややかな滅亡ものにはなりません。バラードの作品群でも感じますが、イギリスSFでの人類滅亡ではなぜか個人の心の中に焦点が結ばれる印象があります。これは日本ともアメリカとも違うイギリスSFの魅力です。
 そういえば「SFをまっとうな文学にしよう」というニュー・ウエーブという運動が後に起きますが、本書でのたとえば「そしてわたしたちは踊った。未知の未来の縁辺で、消え失せた過去からの木魂に合わせて……」なんて文章を読むと、その運動はそれほど「ニュー」ではなかったのではないか、とも思えます。「まっとうな文学としてのSFを書くべき」なのではなくて「まっとうな文学的素養のある人がSFを書」けばよかったのではないか、なんてね。


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