昨日バイクで転倒して、右鎖骨にヒビを入れちゃいました(形としては自爆です。危ない車を避けようとして急ブレーキをかけたら濡れた路面の濡れたマンホールの蓋に乗っかっちゃったの)。今固定帯で両肩を後ろに引っ張る(胸を張る)形で生きています。腕を肩より上げてはいけない、ということで生活が不便です(特にシャツを着替えるときやシャンプーのとき。顔は何とか洗えます)。ただ不幸中の幸いで、私は左手がけっこう使えますので(字は書けませんが、箸なら(ぎこちなくではありますが)使える程度)普通の右利きの人が右の鎖骨をやっちゃった場合よりは楽をしているはずです。このタイピングも、姿勢は不自由ですが(胸をぐっと張って脇を開いた状態でやってみて下さい)やろうと思えば左手一本でも取りあえずの入力はできます。痛いのには割と耐えられる方なので痛み止めは控えめにしています。ただ痛いのは、バイク使用禁止令が各所(職場や家族)から出たこと。手が使えるようになったら、安い車を物色しなくちゃいけないのかなあ。でも家計が……子ども手当をローンに回す? 痛いなあ。
【ただいま読書中】『岩崎小彌太 ──三菱を育てた経営理念』宮川隆康 著、 中公新書1317、1996年、796円(税別)
今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の語り手は岩崎彌太郎ですが、本書の小彌太は彌太郎の甥で、明治39年(1906)に三菱合資会社の副社長、大正5年(1916)に社長に就任し、1945年に死ぬまで陣頭指揮を執り続けました。本書では小彌太の「理想主義」「強力なリーダーシップ」「西洋的な自由主義的考え方と東洋的教養の両立」について論じることで、今の日本(に欠けているもの)をあぶり出そうとする意図があるそうです。
岩崎小彌太が6年間のケンブリッジ留学(聴講生ではなくて、ラテン語や古典の入学試験も必要な本科学生)を終えて帰国したのは明治39年でした(夏目漱石も同時期にロンドンにいましたが、彼は大学は早々にあきらめていました。また、マーシャルの政治経済学の教室で小彌太と同時にケインズが学んでいた可能性が大だそうです)。当時のヨーロッパで若者に人気だったのは社会主義思想です。さらに世紀末~ヴィクトリア時代の終焉で英国では「時代が変わった」という意識も濃厚でした。その風潮と青年の理想主義と政治経済学の知識とヨーロッパの文化を身につけての帰国した小彌太はすぐに父の彌之助から三菱の副社長に任命されます。本人は政治志向があったので不本意でしたが、会社を通じて自分の理想を実現させようとそれを受けます。
日清戦争の戦費は2億2000万円で、清からの賠償金は3億6000万円でした。この一部で日本は金塊を購入し、それが正貨準備となります。日露戦争では戦費が20億円(当時の国家予算は年間2億5000万円)。戦死4万、戦病20万、戦傷15万。それに対して賠償金はゼロで、借金(内外の国債)が16億円残りました。焼き打ち騒ぎになるわけです。しかし、戦争ってあまり“儲からない”ものなんですねえ。
三菱合資会社は、鉱業・造船・銀行の三部門から成っていました。小彌太は制度上「独裁者」でしたが、一人でそのすべてが切り盛りできるわけはありません。学士出身の有能な幹部たちが社長を支えていました。そして社長の仕事の一つは、そういった有為の士のモラルとモチベーションを維持する環境作りにありました。小彌太はさらに文化でも大きな働きをしています。日本で最初の民間オーケストラを組織し、音楽学校を卒業したばかりの山田耕筰のベルリン留学の費用を出し、帰国後の面倒も見ます。(戦後に山田耕筰は「岩崎男爵によってわが国の西洋音楽の花が開いた」と述べています)
大正6年大阪、三菱の倉庫で塩素酸ソーダの爆発事故が起きます。死者43名、重軽傷583名、周囲の市街地では全壊家屋7戸、半壊23戸、全焼78戸、半焼6戸という大事故でした。知らせを聞いた小彌太は即座に大阪に急行し、到着するとすぐ大阪市に100万円(現在の30億円)の見舞金を出す(使い方とか分配は大阪市に委任する)ことを発表し、その足で被害者の見舞いに回り始めました。
三菱鉱業の株式公開は非常に慎重に行なわれ、ある経営史家は「岩崎小彌太は理想主義者であるとみられていたが、実際にはかなり現実的なセンスを持ったリアリストであった」と述べたそうです。岩崎小彌太は、投機を嫌い質実堅忍を重視しました。そのとき重視したのは「国」のために仕事をすることですが、本書のあちこちに引用された彼のことばを読む限り、戦前の民族主義的な「国」とは違った意味で彼は「国」ということばを使っているようです。
丸ビル建築は大正9年に決定されましたが、当時の丸の内は空き地が多い未開発区域でした。しかも株価暴落・銀行破綻の大騒ぎの最中です。重役陣は慎重論。しかし地所部の意見を小彌太は容れて決断をしました。米国の会社と合弁で、日本ではそれまで見たことがない建築法で鉄骨高層テナントビルを造ってしまったのです。完成は大正12年2月20日。その半年後の関東大震災でも丸ビルは無事で、社員は被災者への炊き出しを行ないますが、「なんで自分にはおにぎりをくれないんだ」という暴徒による略奪が丸ビル内の明治屋や日本茶精で行なわれ、軍隊や警察が出動しています。おやおや。震災のあと、丸の内の事務所ビル群に官庁や会社が集まり、そこが復興の中心地になります。
軍と財閥の関係は微妙です。陸軍と海軍の対立はもちろん、海軍内部でも艦政本部と航空本部が対立しています。そしてそれぞれの“ライン”で別々の企業が生産をする、という非効率的な構造で日本は動いていました。小彌太はそれに異議を唱え、軍の反対派を説得して三菱造船と三菱航空機を合併させて三菱重工業としました。軍の強硬派を説得するとは、素人から見たら大したものだと思えます。ただ、西洋と東洋の教養を持ち経済と世界に明るい“愛国者”には、軍人の行動は不可解だったことでしょう。
そうそう、軍は財閥を嫌っていて(青年将校が愛唱した昭和維新の歌に「財閥冨を誇れども、社稷を思う心なし」という文句があります)、満州国建国時には財閥を排除しようとしたが、結局建国後は出資や寄付の要請が相次いだ、という“笑い話”も載っています。
終戦後、財閥の解体があり、小彌太は病死をします。彼は本当は55歳で退職をし、それから文化的なことをやりたい、と望んでいたそうですが、戦前のあの雰囲気の中では三菱を放り出して好きなことをやるわけにもいかなかったのでしょう。本書を通読して、「コスモポリタンの明治人」は「グローバリズムの昭和人」とはひと味違うように思えました。
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【ただいま読書中】『岩崎小彌太 ──三菱を育てた経営理念』宮川隆康 著、 中公新書1317、1996年、796円(税別)
今年のNHK大河ドラマ「龍馬伝」の語り手は岩崎彌太郎ですが、本書の小彌太は彌太郎の甥で、明治39年(1906)に三菱合資会社の副社長、大正5年(1916)に社長に就任し、1945年に死ぬまで陣頭指揮を執り続けました。本書では小彌太の「理想主義」「強力なリーダーシップ」「西洋的な自由主義的考え方と東洋的教養の両立」について論じることで、今の日本(に欠けているもの)をあぶり出そうとする意図があるそうです。
岩崎小彌太が6年間のケンブリッジ留学(聴講生ではなくて、ラテン語や古典の入学試験も必要な本科学生)を終えて帰国したのは明治39年でした(夏目漱石も同時期にロンドンにいましたが、彼は大学は早々にあきらめていました。また、マーシャルの政治経済学の教室で小彌太と同時にケインズが学んでいた可能性が大だそうです)。当時のヨーロッパで若者に人気だったのは社会主義思想です。さらに世紀末~ヴィクトリア時代の終焉で英国では「時代が変わった」という意識も濃厚でした。その風潮と青年の理想主義と政治経済学の知識とヨーロッパの文化を身につけての帰国した小彌太はすぐに父の彌之助から三菱の副社長に任命されます。本人は政治志向があったので不本意でしたが、会社を通じて自分の理想を実現させようとそれを受けます。
日清戦争の戦費は2億2000万円で、清からの賠償金は3億6000万円でした。この一部で日本は金塊を購入し、それが正貨準備となります。日露戦争では戦費が20億円(当時の国家予算は年間2億5000万円)。戦死4万、戦病20万、戦傷15万。それに対して賠償金はゼロで、借金(内外の国債)が16億円残りました。焼き打ち騒ぎになるわけです。しかし、戦争ってあまり“儲からない”ものなんですねえ。
三菱合資会社は、鉱業・造船・銀行の三部門から成っていました。小彌太は制度上「独裁者」でしたが、一人でそのすべてが切り盛りできるわけはありません。学士出身の有能な幹部たちが社長を支えていました。そして社長の仕事の一つは、そういった有為の士のモラルとモチベーションを維持する環境作りにありました。小彌太はさらに文化でも大きな働きをしています。日本で最初の民間オーケストラを組織し、音楽学校を卒業したばかりの山田耕筰のベルリン留学の費用を出し、帰国後の面倒も見ます。(戦後に山田耕筰は「岩崎男爵によってわが国の西洋音楽の花が開いた」と述べています)
大正6年大阪、三菱の倉庫で塩素酸ソーダの爆発事故が起きます。死者43名、重軽傷583名、周囲の市街地では全壊家屋7戸、半壊23戸、全焼78戸、半焼6戸という大事故でした。知らせを聞いた小彌太は即座に大阪に急行し、到着するとすぐ大阪市に100万円(現在の30億円)の見舞金を出す(使い方とか分配は大阪市に委任する)ことを発表し、その足で被害者の見舞いに回り始めました。
三菱鉱業の株式公開は非常に慎重に行なわれ、ある経営史家は「岩崎小彌太は理想主義者であるとみられていたが、実際にはかなり現実的なセンスを持ったリアリストであった」と述べたそうです。岩崎小彌太は、投機を嫌い質実堅忍を重視しました。そのとき重視したのは「国」のために仕事をすることですが、本書のあちこちに引用された彼のことばを読む限り、戦前の民族主義的な「国」とは違った意味で彼は「国」ということばを使っているようです。
丸ビル建築は大正9年に決定されましたが、当時の丸の内は空き地が多い未開発区域でした。しかも株価暴落・銀行破綻の大騒ぎの最中です。重役陣は慎重論。しかし地所部の意見を小彌太は容れて決断をしました。米国の会社と合弁で、日本ではそれまで見たことがない建築法で鉄骨高層テナントビルを造ってしまったのです。完成は大正12年2月20日。その半年後の関東大震災でも丸ビルは無事で、社員は被災者への炊き出しを行ないますが、「なんで自分にはおにぎりをくれないんだ」という暴徒による略奪が丸ビル内の明治屋や日本茶精で行なわれ、軍隊や警察が出動しています。おやおや。震災のあと、丸の内の事務所ビル群に官庁や会社が集まり、そこが復興の中心地になります。
軍と財閥の関係は微妙です。陸軍と海軍の対立はもちろん、海軍内部でも艦政本部と航空本部が対立しています。そしてそれぞれの“ライン”で別々の企業が生産をする、という非効率的な構造で日本は動いていました。小彌太はそれに異議を唱え、軍の反対派を説得して三菱造船と三菱航空機を合併させて三菱重工業としました。軍の強硬派を説得するとは、素人から見たら大したものだと思えます。ただ、西洋と東洋の教養を持ち経済と世界に明るい“愛国者”には、軍人の行動は不可解だったことでしょう。
そうそう、軍は財閥を嫌っていて(青年将校が愛唱した昭和維新の歌に「財閥冨を誇れども、社稷を思う心なし」という文句があります)、満州国建国時には財閥を排除しようとしたが、結局建国後は出資や寄付の要請が相次いだ、という“笑い話”も載っています。
終戦後、財閥の解体があり、小彌太は病死をします。彼は本当は55歳で退職をし、それから文化的なことをやりたい、と望んでいたそうですが、戦前のあの雰囲気の中では三菱を放り出して好きなことをやるわけにもいかなかったのでしょう。本書を通読して、「コスモポリタンの明治人」は「グローバリズムの昭和人」とはひと味違うように思えました。
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