東京はお盆である。
お弟子さんに、お家では旧盆でなさるの? と訊いたらキツネにつままれたような怪訝な顔をされたので((。-人-。) ゴメンネ)、はっとした。
弟子の疑問点を説くのが師匠の務めである。
もともと、お盆は七月十五日を中心とした祭り事なので、太陽暦を採用した明治五年(1872)十二月三日=明治6年(1873)1月1日以降、帝都たる東京府民は、従来通り日付を変えることなく新暦でも7月15日にお盆行事を執り行った。
2021年現在、お盆の行事をどの程度まで日本国民が踏襲して行っているのかは知らないけれども、六十余州のほとんどが旧盆と呼ばれる新暦8月15日の盂蘭盆会をメインイベントとして、翌十六日の藪入りの習慣は廃れることなく、お盆休みという休暇の体系は続いている。
この旧盆の習慣は、1945年8月15日の終戦をもって鎮魂を祈る日となってから、ますます精霊祭りとしての存在意義を深めたものではないかと思う。
盆の十三日というと、「新三郎は今日しも、盆の十三日なれば、精霊棚(しょうりょうだな)の支度などを致してしまい…」三遊亭圓朝『怪談牡丹灯籠』の一節がついと口を出る。
私の歳時記は、子どもごころに覚えた昭和40年を中心とした当時の関東地方の習俗から成り立っている。水府の在にあった実家では旧盆の祭礼を行っていたが、旧幕時代からの江戸定府が無意識下の身上となっているのかは知らねども、親類で東京に居を移し仕事をしている者も多かったので、両盆遣い(?)なのである。
そしてまた、私が最初に嫁いだ家は、昭和9年生まれのお姑さんがきちんと戦前からの東京の風俗で家庭を切り盛りしていたので、何も知らない学生のまま貰って頂いた私は、とてもいろいろなことを教わった。今でも有難く申し訳なく思う。
寄席は都会の文化である。私がその雰囲気に身をもって浴していたのは昭和50年代から60年代の昭和の終わりであった。
谷中の全生庵へ応挙の幽霊を拝観し圓朝のお墓参りに伺った折も、御命日ではなくお盆の時分だったのではなかったか…いや、お盆は施餓鬼で忙しく、お寺側が訪客に対応できないだろうから、やはり8月に伺ったものだったろうか……最早40年以前のことで、記憶がおぼろである。日本経済は最高潮となりバブル期を迎え、みな忙しく働いていた時代だったので、ゆかりもないお寺へ独りで詣り書画を観覧するという、時代の片隅で趣味に生きているような人間は居らず、私は思うが儘、全生庵の情緒にひと時を過ごした。ほとんど誰もいない境内の土と陽射しが白っぽかった。百日紅は咲いていただろうか。
まだ梅雨の明けやらぬ7月初旬、姑は早起きをして下谷の朝顔市へ出掛けた。(そういえば四季折々の物見遊山、長命寺の桜餅、羽二重団子や言問団子…外出の度に名所旧跡のお土産を頂いた。ご隠居は次世代に文化を繋ぐ担い手であったのだ)
谷中へ墓参がてら「谷中を売ってたのよ」と、土産物の谷中生姜を持ち帰る。たぶん私はそのときキョトンとしていた。父が晩酌に葉付き生姜に味噌をつけて肴にしていたその生姜を、谷中と呼ぶと初めて知ったのはそのときだったかも知れない。
四万六千日の浅草寺のほうずき市は、押上の友達とよく出かけた。何かというと仲見世、六区界隈を練り歩いていた。だから、未だに昭和の浅草の街並みの匂いと取り留めもない景色の記憶が、私の頭を占領している。
都内は、10日か11日ぐらいから、街なかのスーパーや百貨店、八百屋さんの店先に、お盆の季節商品である苧殻(おがら)や、苧殻と枝付きの酸漿(ほおづき)を束ねたものが並ぶ。いよいよお盆の支度である。
7月11、12日は、精霊棚の飾り物である、草花類や作り物の朝市が戦前にはあったそうで、盆市とも草市とも呼ばれたらしい。
(近年見られなくなったので事のついでに言及すると、植木市は、都内各所の公園でしょっちゅう行われていた。私がよく憶えているのは様変わりして見る影もないが、平成ヒトケタ時代の南池袋公園の植木市。グリーン大通り郵便局がまだ横丁にあって、現代風芝居小屋が連なる通りのお寺は藪の中に在った)
草市(くさいち)という言葉は、ご存じよりの方々には長唄『都風流(みやこふうりゅう)』でお馴染みである。
二十世紀版『吾妻八景』とでも申しましょうか、四季折々の東京の風物が景色とともに綴られている、錦絵のようなとても美しい曲。
作詞者の久保田万太郎は、文学座の発起人である三人、岸田國士、岩田豊雄(獅子文六)のうちのひとりである。
20代の時ほど新劇には肩入れしなくなっていた30代の私が、文学座友の会に入っていたことがあった。大河ドラマ『徳川慶喜』の時だった。気になった出演者のひとりが文学座所属だったので、アトリエ公演から本公演まで俄かに追っかけをした。しかし洋物のホンが多く、感情表現の起伏が激しく観るたび疲れてしまったので、足が遠のいてしまった。やはり私は太平楽な歌舞伎が性に合うのだ。
たまたま観劇の折のアンケートに、〈上演を希望する戯曲〉という欄があったので、「大寺学校など、久保田万太郎の芝居」と書いたら、それがためばかりでもないと思うが、翌年、創設何周年かの記念公演で上演された。残念なことに見ずじまいだった。
都風流は昭和22年の作品である。太平洋戦争で焦土と化した、喪われた東京の面影を偲んで作詞したものに違いない。
今はもう、この世界に存在しないもの…への追慕は、創作意欲を駆り立てるものである。
(そういえば、東京への集団就職というシステムが昭和の頃あったが、東京大空襲であまりにもたくさんの人命が失われて、本当に東京に都市機能を存続させるための人手が無くなってしまったので、誕生した仕組みなのである…という話を聞いたときは、怖ろしさに身の毛がよだち、吐き気がしたものだった。都市の歴史には悲しい記憶が沢山あるのだ。徒やおろそかに今の時代を生きてはいけないのだ)
このところの東京も、第二次東京オリンピックで街並みがどんどん変わって…私は街角でしばしば立ちずさんで涙ぐむ。
昭和39年の東京にも、もう一人の私が…同じ感情に涙ぐんだ人々がいたのだろう。(バックツゥザフューチャーの例えではありません)
令和3年のお盆に、私は昭和の街並みを追悼する。
さて、みどり丸たちが巣立ったので、次なる世話焼きの対象は檸檬の青い果実なのだった。
せっかく実ったのを間引くのも忍びないので、臥龍梅に倣ってつっかえ棒をして、臥龍のレモンと洒落込もうと、今朝も新たな構想を抱きつつ枝ぶりを眺めていたら、なんと、新しい蕾がほころんでいた。
お盆の朝に咲くとは、心がけのよい檸檬である。
【追記】
ところで、前述の怪談牡丹灯籠、「…冴えわたる十三日の月を眺めていますと…」と続く。速記本が出たのが明治17年とのこと、やはり大圓朝自身は、旧暦の季節感が身に染みていたのだろうから、明治の御代になっても、江戸の暦で風物を、物語を描くのだろうなぁ…と思い馳せた。人間はどうしたって自分が実感できるものしか表現できない。いや、名作と呼ばれ幾星霜を経ても人々に愛される作品というものは、作者の実感を写したものである、ということか。
その実感を共有して表現できる古典語りになりたいものである。
お弟子さんに、お家では旧盆でなさるの? と訊いたらキツネにつままれたような怪訝な顔をされたので((。-人-。) ゴメンネ)、はっとした。
弟子の疑問点を説くのが師匠の務めである。
もともと、お盆は七月十五日を中心とした祭り事なので、太陽暦を採用した明治五年(1872)十二月三日=明治6年(1873)1月1日以降、帝都たる東京府民は、従来通り日付を変えることなく新暦でも7月15日にお盆行事を執り行った。
2021年現在、お盆の行事をどの程度まで日本国民が踏襲して行っているのかは知らないけれども、六十余州のほとんどが旧盆と呼ばれる新暦8月15日の盂蘭盆会をメインイベントとして、翌十六日の藪入りの習慣は廃れることなく、お盆休みという休暇の体系は続いている。
この旧盆の習慣は、1945年8月15日の終戦をもって鎮魂を祈る日となってから、ますます精霊祭りとしての存在意義を深めたものではないかと思う。
盆の十三日というと、「新三郎は今日しも、盆の十三日なれば、精霊棚(しょうりょうだな)の支度などを致してしまい…」三遊亭圓朝『怪談牡丹灯籠』の一節がついと口を出る。
私の歳時記は、子どもごころに覚えた昭和40年を中心とした当時の関東地方の習俗から成り立っている。水府の在にあった実家では旧盆の祭礼を行っていたが、旧幕時代からの江戸定府が無意識下の身上となっているのかは知らねども、親類で東京に居を移し仕事をしている者も多かったので、両盆遣い(?)なのである。
そしてまた、私が最初に嫁いだ家は、昭和9年生まれのお姑さんがきちんと戦前からの東京の風俗で家庭を切り盛りしていたので、何も知らない学生のまま貰って頂いた私は、とてもいろいろなことを教わった。今でも有難く申し訳なく思う。
寄席は都会の文化である。私がその雰囲気に身をもって浴していたのは昭和50年代から60年代の昭和の終わりであった。
谷中の全生庵へ応挙の幽霊を拝観し圓朝のお墓参りに伺った折も、御命日ではなくお盆の時分だったのではなかったか…いや、お盆は施餓鬼で忙しく、お寺側が訪客に対応できないだろうから、やはり8月に伺ったものだったろうか……最早40年以前のことで、記憶がおぼろである。日本経済は最高潮となりバブル期を迎え、みな忙しく働いていた時代だったので、ゆかりもないお寺へ独りで詣り書画を観覧するという、時代の片隅で趣味に生きているような人間は居らず、私は思うが儘、全生庵の情緒にひと時を過ごした。ほとんど誰もいない境内の土と陽射しが白っぽかった。百日紅は咲いていただろうか。
まだ梅雨の明けやらぬ7月初旬、姑は早起きをして下谷の朝顔市へ出掛けた。(そういえば四季折々の物見遊山、長命寺の桜餅、羽二重団子や言問団子…外出の度に名所旧跡のお土産を頂いた。ご隠居は次世代に文化を繋ぐ担い手であったのだ)
谷中へ墓参がてら「谷中を売ってたのよ」と、土産物の谷中生姜を持ち帰る。たぶん私はそのときキョトンとしていた。父が晩酌に葉付き生姜に味噌をつけて肴にしていたその生姜を、谷中と呼ぶと初めて知ったのはそのときだったかも知れない。
四万六千日の浅草寺のほうずき市は、押上の友達とよく出かけた。何かというと仲見世、六区界隈を練り歩いていた。だから、未だに昭和の浅草の街並みの匂いと取り留めもない景色の記憶が、私の頭を占領している。
都内は、10日か11日ぐらいから、街なかのスーパーや百貨店、八百屋さんの店先に、お盆の季節商品である苧殻(おがら)や、苧殻と枝付きの酸漿(ほおづき)を束ねたものが並ぶ。いよいよお盆の支度である。
7月11、12日は、精霊棚の飾り物である、草花類や作り物の朝市が戦前にはあったそうで、盆市とも草市とも呼ばれたらしい。
(近年見られなくなったので事のついでに言及すると、植木市は、都内各所の公園でしょっちゅう行われていた。私がよく憶えているのは様変わりして見る影もないが、平成ヒトケタ時代の南池袋公園の植木市。グリーン大通り郵便局がまだ横丁にあって、現代風芝居小屋が連なる通りのお寺は藪の中に在った)
草市(くさいち)という言葉は、ご存じよりの方々には長唄『都風流(みやこふうりゅう)』でお馴染みである。
二十世紀版『吾妻八景』とでも申しましょうか、四季折々の東京の風物が景色とともに綴られている、錦絵のようなとても美しい曲。
作詞者の久保田万太郎は、文学座の発起人である三人、岸田國士、岩田豊雄(獅子文六)のうちのひとりである。
20代の時ほど新劇には肩入れしなくなっていた30代の私が、文学座友の会に入っていたことがあった。大河ドラマ『徳川慶喜』の時だった。気になった出演者のひとりが文学座所属だったので、アトリエ公演から本公演まで俄かに追っかけをした。しかし洋物のホンが多く、感情表現の起伏が激しく観るたび疲れてしまったので、足が遠のいてしまった。やはり私は太平楽な歌舞伎が性に合うのだ。
たまたま観劇の折のアンケートに、〈上演を希望する戯曲〉という欄があったので、「大寺学校など、久保田万太郎の芝居」と書いたら、それがためばかりでもないと思うが、翌年、創設何周年かの記念公演で上演された。残念なことに見ずじまいだった。
都風流は昭和22年の作品である。太平洋戦争で焦土と化した、喪われた東京の面影を偲んで作詞したものに違いない。
今はもう、この世界に存在しないもの…への追慕は、創作意欲を駆り立てるものである。
(そういえば、東京への集団就職というシステムが昭和の頃あったが、東京大空襲であまりにもたくさんの人命が失われて、本当に東京に都市機能を存続させるための人手が無くなってしまったので、誕生した仕組みなのである…という話を聞いたときは、怖ろしさに身の毛がよだち、吐き気がしたものだった。都市の歴史には悲しい記憶が沢山あるのだ。徒やおろそかに今の時代を生きてはいけないのだ)
このところの東京も、第二次東京オリンピックで街並みがどんどん変わって…私は街角でしばしば立ちずさんで涙ぐむ。
昭和39年の東京にも、もう一人の私が…同じ感情に涙ぐんだ人々がいたのだろう。(バックツゥザフューチャーの例えではありません)
令和3年のお盆に、私は昭和の街並みを追悼する。
さて、みどり丸たちが巣立ったので、次なる世話焼きの対象は檸檬の青い果実なのだった。
せっかく実ったのを間引くのも忍びないので、臥龍梅に倣ってつっかえ棒をして、臥龍のレモンと洒落込もうと、今朝も新たな構想を抱きつつ枝ぶりを眺めていたら、なんと、新しい蕾がほころんでいた。
お盆の朝に咲くとは、心がけのよい檸檬である。
【追記】
ところで、前述の怪談牡丹灯籠、「…冴えわたる十三日の月を眺めていますと…」と続く。速記本が出たのが明治17年とのこと、やはり大圓朝自身は、旧暦の季節感が身に染みていたのだろうから、明治の御代になっても、江戸の暦で風物を、物語を描くのだろうなぁ…と思い馳せた。人間はどうしたって自分が実感できるものしか表現できない。いや、名作と呼ばれ幾星霜を経ても人々に愛される作品というものは、作者の実感を写したものである、ということか。
その実感を共有して表現できる古典語りになりたいものである。
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