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●2018年7月21日(土) 1~5時
●四條畷学園小学校科学準備室
●参加者(10名) 枚方の「親子科学実験教室&ものづくりカーニバル」の講師で4人欠席でした。
渡辺慶二(福祉法人豊年福祉会相談役)
西村寿雄(科学読み物・地学研究)
雁金 隆(四條畷学園小学校科学専科)
雁金美佐枝(「家政婦」)
木村直子(大東市小学校3年)
永岡 修(四條畷学園小学校1年)
室元昭雄(四條畷学園高校理科)
笠井 亮(大阪電気通信大学・ルネサンス大阪高校非常勤講師)
古川真司(岸和田市小学校特別支援)
水口民夫(ルネサンス大阪高校理科非常勤講師)
★渡辺慶二(福祉法人豊年福祉会相談役)
午前中はホームに顔を出しています。渡辺先生がいるだけでお年寄りに元気を与えているそうです。ぼくも80才をすぎてもサークルや研究会には顔を出したいと思っています。
★西村寿雄(科学読み物・地学研究)
トランジスタ回路の実験をしました。トランジスタの基本回路の中に,マイクロホンをつなぐと豆電球はどうなるかという問題です。実験の結果は,しゃべったときだけ明るくつきました。これがトランジスタの「増幅作用」です。トランジスタは,電気部品としてなくてはならないものですが,こういう実験をみるとすぐれたものであることが分かります。トランジスタの発明者はノーベル賞を受賞しています。
★笠井 亮(大阪電気通信大学・ルネサンス大阪高校非常勤講師)
大阪電気通信大学の講義通信《もしも原子が見えたなら》で空気中の原子・分子のイメージをもってもらい,それに続いて《爆発の条件》をやりはじめました。プラン研究会の日に,線路が高温になり電車が止まってしまいました。線路の隙間を「遊間」というそうです。この数値が適切になるように「遊間検査」をしているそうです。原子の名前を覚えるのに「スイヘイリーベ~魔法の呪文」の曲があります。「朝日新聞グローブ」に掲載されたDNA分析装置の記事,クローン技術でよみがえった愛犬の話は,加速度的に発展している遺伝子の技術について考えさせられる内容でした。
★雁金 隆(四條畷学園小学校科学専科)
カーリー隆先生編集の「4年科学通信」には動物の仲間わけの感想文が紹介されています。「一番びっくりしたのは,ほねのことです。にょろにょろした生物には,ほねはないと思っていたけど,ヘビにもあるということが分かって,とてもおどろきました。また勉強したいです」というステキな感想がありました。
★雁金美佐枝(「家政婦」)
「正方形を作ろう」という図形パズルを紹介してもらいました。こういうパズルはぼくは正直苦手です。クロスワードパズルもそうです。でもみなさんは,熱心に取り組んでいました。完成させた人もいました。写真の手にしているものは,折り紙で作った「七夕かざり」です。星になっていますね。
★木村直子(大東市小学校3年)
先日の大阪府北部地震では,子どもたちを帰宅させたあと,午後からプールの清掃をするという話が管理職から出されました。職員の中には年休をとって帰宅して家族の安否・家の被害状況の確認等をしたい人もいるはずです。非常時に最優先するのは,子どもと教職員の安全確保です。ものごとの優先順位を考え指示することのできる教育委員会・管理職の危機管理体制の確立が望まれます。先日,北河内の理科部で大阪駅周辺のビル街に眠る化石探しに行きました。言われるまでは,ただの模様だったのに一度見え出すとたくさんある!!ことがわかりました。
★永岡 修(四條畷学園小学校1年)
臨海学校で日焼けしました。学園では4年以上の子どもたちが参加します。日本海の美しい海で遠泳をしたりしてたのしい思い出を作ったようです。大学生のボランティアの力をかりて無事おわりました。
★室元昭雄(四條畷学園高校理科)
「最近のできごと」という4ペの資料。高校の担任は,思春期の生徒さんを相手に仕事をしているので,とくに女子生徒さんには気を使っていることが分かります。ぼくの高校時代の先生は,もっと気楽に生徒に対していたような気がしていますが,いまは,保護者の要望も強くなってきて教育全体がそれではすまない状況になっているのかも知れません。他のコースになって担任しなくなった生徒さんから「先生が担任として戻ってくるなら,自分は一回学校をやめて,もう一度入り直すよ」という嬉しい言葉をもらったそうです。
★古川真司(岸和田市小学校特別支援)
採用試験に合格して3年目の夏です。いまの学校は支援学級だけで8クラス。来年度は14クラスにもなる可能性があるとか。若い人と飲み会をしていて思うことは,教師としての評価基準が自分とは違う人が多いということらしいです。自分は仮説実験授業をやりたいが,他の先生の多くは,教師として何がやりたいのかが明確ではなく,高学年を担任しているとか,主任の仕事をしているという観点での評価を求めている,ことを感じるそうです。
★水口民夫(ルネサンス大阪高校理科非常勤講師)
夏の全国大会に出す資料。「原子論からみた気体の浮力について」「ドルトンの「色覚異常」の研究について」他。ミニプラン「大人になったらなりたいもの」は,1位が男子「学者・博士」,女子は「食べ物屋さん」でした。ぼくも子どもの頃は「科学者」になりたいと思っていました。科学好きは子どもの頃よりも夢が大きくなっています。いまでも好きなことがあるというのは,幸せにくらしている証拠です。
*******************************
サークルニュース はみだしたの
ぼくが大学で学んだこと
水口民夫
ぼくが大学に入学した動機は, 当時社会問題化していた <環境(公害)問題>に興味があったからです。 ぼくが入学した大学には, 新設して間もない 「環境保護学科」 という学科があり, そこを受験したのですが倍率が20倍と高く, 残念ながら二次志望の 「林学科」 に入りました。 「林学科」 というのは, 文字通り, 山に木を植えたり, 山に道をつくったり, ダムをつくったり, 山に関係するいろいろな仕事をするための技術者を養成するところでした。 卒業生の多くは, 国家公務員や地方公務員になったり民間の企業に就職していました。 ぼくは,最初からそのような道に進む気持ちはなく, <環境問題> を研究したいと思っていました。 環境問題といっても研究対象は幅広く, ぼくは, 大学でどんな研究ができるか模索していましたが, ある日同じ学科の友人から, <野生動物> のことを研究しているゼミがあるから一度参加してみないかと誘われました。 そのゼミの主催者は, 古林賢恒さんという助手の方でした。 古林さんは, 九州大学農学部の大学院を出て, 東京農工大学の助手に採用された人でした。 当時ぼくがいた農学部林学科の教授の研究対象は林地肥培という, 山に肥料をまいて木を大きくするというもので, 環境問題とはまったく別の世界でした。 助手の古林さんも当初はそちらの研究をしていたそうですが, 途中からまったく別の分野に研究を方向転換されました。 これは, 大学の派閥という点からみると, 教授に反旗を翻すに等しい行為です。 ですから, 古林さんは, 学科内では干されていました。 研究室もぼくがゼミに参加したころはうなぎの寝床のような狭いところでした。
ぼくがその研究室に出入りするようになって, いちばんおどろいたのは, ゼミの人が<自主的に問題意識をもって研究している>という姿勢でした。 ぼくは, それまで出会った人の中で, 自分の意志で研究しているはいませんでした。 高校の先生の中には, 生徒を教えながら独自の研究をしている人もたまにいますが, そういうひとは稀です。 古林さんをはじめぼくの先輩たちの研究に対する熱意にはおどろきました。 それまでのぼくは, 受験勉強という受け身的な勉強しかしてきませんでした。 というより, 高校生は学校の先生に敷いてもらったレールの上を歩いているようなもので, 主体的に生きようとする生徒は退学という道を選択していたのかも知れません。 ぼくにとっては, 学ぶものが自分で研究テーマを見つけるということ自体が新しい発見でした。 調査のために古林さんたちと, よく行ったのは, ニホンカモシカの生態調査で青森県の大鰐, ニホンジカやササの調査で栃木県日光, 神奈川県の丹沢などでした。 日光での調査は, 日帰りではできないので, 営林署の山小屋に泊まりました。 2段ベッドが10ほどあり, まきを燃やして自炊をしました。 ぼくはそれまでそんなところに泊まったことがないので, はじめはとても新鮮な気持ちでした。 電気は来ていないので, 発電機でランプをつけます。 満月の光で明るい夜もあれば, 月のでない漆黒の闇の夜もあります。 都会生活をしていれば, どこからか街の光が室内に入りこみますが, 山の中では月の光がなかったら手を顔の前に持っていっても見ることはできません。 長期の泊りの調査の時は10泊ほどします。 もちろん,風呂も入れません (もともと下宿をしていたころから風呂は入らない方でした)。 洗面や食器洗いは, 小屋の近くを流れている清流で行います。 トイレは, 林の中の地面に穴をほってそこでします。
野生動物の姿を生で見るのもこのときが初めてでした。 ニホンカモシカは, わりと近くによっても逃げていきませんが, ニホンジカは人の気配を感じるとサッと飛び跳ねて逃げていきます。 地図を片手に道なき道を動き回るわけですから,ときには迷子になったこともあります。 古林さんが迷子になったぼくを見つけてくれたこともあります。 山の事故で一番多いのは道迷いですが, これは, ほんとうに焦ります。 焦れば焦るほど, 自分がどこにいるのか分からなくなります。
古林研究室では, 先輩や後輩ともよく話をしました。 ぼくは今でもそうですが,雑談が苦手です。 人と話をするときは, たいがい聞き役にまわります。 ですから, 聞き上手と思われますが, 実は自分から何をしゃべっていいのか分からないから聞いているだけのことです。大学では, ほとんど遊びはしませんでした。パチンコ・マージャンは全くといっていいほど手を出しませんでした。 居酒屋に行って飲酒をすることもしません。 酒は18歳から飲んでいますが, もっぱら下宿か研究室です。 古林さんのポケットマネーで 「剣菱」 という高いお酒を飲ませてもらったことを覚えています。 板倉先生が, 酒もたばこもやらない, というのとはエライちがいです。 喫煙は18歳から30歳まで続きました。 飲酒は今日までの40年間, ほぼ毎日のように続いていますが, 肝臓を痛めることもなくなく今日まで来られたのは 「奇跡」 かもしれません。
卒業論文は, 「滋賀県朽木村における野生動物の農林業被害」 というテーマで書きました。 指導教官は助手の古林さんでした。 ぼくは, 本来は, 「林政講座」 というマルクス経済学を主体にしたゼミに所属していたのですが, どうしても野生動物保護の問題を卒論として取り上げたい, という願いから, 特別の計らいで古林さんがぼくの卒論の指導をしました。 こういうことは, いまの大学でできるのかどうか知りませんが, 当時は大学に <教育・研究の自由> がありました。 この教育・研究の自由は, いまの窮屈な学校現場で見ることができません。ぼくは, いまでも上からの押し付けは体質的に反発してしまいます。 ぼくが学校でよく批判的な発言をするというのは, 大学時代の教育環境が影響しているのかもしれません。 大学時代, どのような環境で生活をするのか, その後の人生の方向性を決める大切な要素だと思います。 大学時代遊びほうけていたひとは, 社会人になっても遊ぶことしか興味のない薄っぺらな人間になってしまうと思います。 板倉先生は, 東大時代に 「自然弁証法研究会」 を自ら組織されていましたが, こういう主体的な生き方を学生時代にもっと学びたかったなあ, と思います。
山の中での生活をしていたぼくが, なにをきっかけに教育への道を歩もうと思い始めたのかを最後にお話しします。
環境問題に関心のあったぼくは, 当時, 東大の教養部 (駒場) で行われていた自主ゼミ (東大公害言論) に参加していました。主催者は 「宇井純」 という当時, 東大工学部の助手の人でした。 宇井さんは亡くなられましたが, 当時は,市民運動の旗手のような人でした。 宇井さんの活動を通して, 水俣病などの市民運動に加わったこともあります。水俣実践学校には2度参加して, 患者さんの生の声を聞く活動などをしました。 自主ゼミの中には,公害論以外に 「教育論」の話もありました。 講師には, 遠藤豊吉さん (国語教育 ・ 『ひと』編集委員), 金沢嘉一さん (教育評論家) らがこられました。 ぼくは, そのひとたちの話を聞き, 教師の道も自分の将来の仕事としていいなあ, と思うようになりました。 宇井さんは, 何かの雑誌に 「教育の変革を図りたいのなら小学校からはじめるべきである」 というようなことを書かれていて, この言葉がぼくを小学校教師になる決意をするものになったと思います。 同じ大学の卒業生でぼくの知っている仮説関係のひとは畑明子さん (神奈川・中学校) と岸広明さん (北海道・高校) です。 ぼくのような農学部出身者が小学校の先生になるというのはめずらしいことだったと思います。
大学では中高の理科教員の免許しか取れないので, 通信教育で小学校の免許をとるよりしかたありません。 東京に住んでいたので, 玉川大学がいいと思い, 大学卒業後, 古林さんの研究室で研究生として在籍し, 古林さんの研究のお手伝いをしながら1年かけて免許をとりました。 夏のスクーリングでいろいろな教師志望の先生と知り合いになりましたが, そのひとたちももう退職の年齢になっているのですね。 教員採用試験は, 東京都と大阪府を受けました。 どうして, ふるさとの京都府を受験しなかったかというと, 当時は,ピアノの実技試験があったからです。 大阪も東京もどちらも合格しましたが, 田舎に近い大阪に決めました。(おわり)
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●2018年7月21日(土) 1~5時
●四條畷学園小学校科学準備室
●参加者(10名) 枚方の「親子科学実験教室&ものづくりカーニバル」の講師で4人欠席でした。
渡辺慶二(福祉法人豊年福祉会相談役)
西村寿雄(科学読み物・地学研究)
雁金 隆(四條畷学園小学校科学専科)
雁金美佐枝(「家政婦」)
木村直子(大東市小学校3年)
永岡 修(四條畷学園小学校1年)
室元昭雄(四條畷学園高校理科)
笠井 亮(大阪電気通信大学・ルネサンス大阪高校非常勤講師)
古川真司(岸和田市小学校特別支援)
水口民夫(ルネサンス大阪高校理科非常勤講師)
★渡辺慶二(福祉法人豊年福祉会相談役)
午前中はホームに顔を出しています。渡辺先生がいるだけでお年寄りに元気を与えているそうです。ぼくも80才をすぎてもサークルや研究会には顔を出したいと思っています。
★西村寿雄(科学読み物・地学研究)
トランジスタ回路の実験をしました。トランジスタの基本回路の中に,マイクロホンをつなぐと豆電球はどうなるかという問題です。実験の結果は,しゃべったときだけ明るくつきました。これがトランジスタの「増幅作用」です。トランジスタは,電気部品としてなくてはならないものですが,こういう実験をみるとすぐれたものであることが分かります。トランジスタの発明者はノーベル賞を受賞しています。
★笠井 亮(大阪電気通信大学・ルネサンス大阪高校非常勤講師)
大阪電気通信大学の講義通信《もしも原子が見えたなら》で空気中の原子・分子のイメージをもってもらい,それに続いて《爆発の条件》をやりはじめました。プラン研究会の日に,線路が高温になり電車が止まってしまいました。線路の隙間を「遊間」というそうです。この数値が適切になるように「遊間検査」をしているそうです。原子の名前を覚えるのに「スイヘイリーベ~魔法の呪文」の曲があります。「朝日新聞グローブ」に掲載されたDNA分析装置の記事,クローン技術でよみがえった愛犬の話は,加速度的に発展している遺伝子の技術について考えさせられる内容でした。
★雁金 隆(四條畷学園小学校科学専科)
カーリー隆先生編集の「4年科学通信」には動物の仲間わけの感想文が紹介されています。「一番びっくりしたのは,ほねのことです。にょろにょろした生物には,ほねはないと思っていたけど,ヘビにもあるということが分かって,とてもおどろきました。また勉強したいです」というステキな感想がありました。
★雁金美佐枝(「家政婦」)
「正方形を作ろう」という図形パズルを紹介してもらいました。こういうパズルはぼくは正直苦手です。クロスワードパズルもそうです。でもみなさんは,熱心に取り組んでいました。完成させた人もいました。写真の手にしているものは,折り紙で作った「七夕かざり」です。星になっていますね。
★木村直子(大東市小学校3年)
先日の大阪府北部地震では,子どもたちを帰宅させたあと,午後からプールの清掃をするという話が管理職から出されました。職員の中には年休をとって帰宅して家族の安否・家の被害状況の確認等をしたい人もいるはずです。非常時に最優先するのは,子どもと教職員の安全確保です。ものごとの優先順位を考え指示することのできる教育委員会・管理職の危機管理体制の確立が望まれます。先日,北河内の理科部で大阪駅周辺のビル街に眠る化石探しに行きました。言われるまでは,ただの模様だったのに一度見え出すとたくさんある!!ことがわかりました。
★永岡 修(四條畷学園小学校1年)
臨海学校で日焼けしました。学園では4年以上の子どもたちが参加します。日本海の美しい海で遠泳をしたりしてたのしい思い出を作ったようです。大学生のボランティアの力をかりて無事おわりました。
★室元昭雄(四條畷学園高校理科)
「最近のできごと」という4ペの資料。高校の担任は,思春期の生徒さんを相手に仕事をしているので,とくに女子生徒さんには気を使っていることが分かります。ぼくの高校時代の先生は,もっと気楽に生徒に対していたような気がしていますが,いまは,保護者の要望も強くなってきて教育全体がそれではすまない状況になっているのかも知れません。他のコースになって担任しなくなった生徒さんから「先生が担任として戻ってくるなら,自分は一回学校をやめて,もう一度入り直すよ」という嬉しい言葉をもらったそうです。
★古川真司(岸和田市小学校特別支援)
採用試験に合格して3年目の夏です。いまの学校は支援学級だけで8クラス。来年度は14クラスにもなる可能性があるとか。若い人と飲み会をしていて思うことは,教師としての評価基準が自分とは違う人が多いということらしいです。自分は仮説実験授業をやりたいが,他の先生の多くは,教師として何がやりたいのかが明確ではなく,高学年を担任しているとか,主任の仕事をしているという観点での評価を求めている,ことを感じるそうです。
★水口民夫(ルネサンス大阪高校理科非常勤講師)
夏の全国大会に出す資料。「原子論からみた気体の浮力について」「ドルトンの「色覚異常」の研究について」他。ミニプラン「大人になったらなりたいもの」は,1位が男子「学者・博士」,女子は「食べ物屋さん」でした。ぼくも子どもの頃は「科学者」になりたいと思っていました。科学好きは子どもの頃よりも夢が大きくなっています。いまでも好きなことがあるというのは,幸せにくらしている証拠です。
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サークルニュース はみだしたの
ぼくが大学で学んだこと
水口民夫
ぼくが大学に入学した動機は, 当時社会問題化していた <環境(公害)問題>に興味があったからです。 ぼくが入学した大学には, 新設して間もない 「環境保護学科」 という学科があり, そこを受験したのですが倍率が20倍と高く, 残念ながら二次志望の 「林学科」 に入りました。 「林学科」 というのは, 文字通り, 山に木を植えたり, 山に道をつくったり, ダムをつくったり, 山に関係するいろいろな仕事をするための技術者を養成するところでした。 卒業生の多くは, 国家公務員や地方公務員になったり民間の企業に就職していました。 ぼくは,最初からそのような道に進む気持ちはなく, <環境問題> を研究したいと思っていました。 環境問題といっても研究対象は幅広く, ぼくは, 大学でどんな研究ができるか模索していましたが, ある日同じ学科の友人から, <野生動物> のことを研究しているゼミがあるから一度参加してみないかと誘われました。 そのゼミの主催者は, 古林賢恒さんという助手の方でした。 古林さんは, 九州大学農学部の大学院を出て, 東京農工大学の助手に採用された人でした。 当時ぼくがいた農学部林学科の教授の研究対象は林地肥培という, 山に肥料をまいて木を大きくするというもので, 環境問題とはまったく別の世界でした。 助手の古林さんも当初はそちらの研究をしていたそうですが, 途中からまったく別の分野に研究を方向転換されました。 これは, 大学の派閥という点からみると, 教授に反旗を翻すに等しい行為です。 ですから, 古林さんは, 学科内では干されていました。 研究室もぼくがゼミに参加したころはうなぎの寝床のような狭いところでした。
ぼくがその研究室に出入りするようになって, いちばんおどろいたのは, ゼミの人が<自主的に問題意識をもって研究している>という姿勢でした。 ぼくは, それまで出会った人の中で, 自分の意志で研究しているはいませんでした。 高校の先生の中には, 生徒を教えながら独自の研究をしている人もたまにいますが, そういうひとは稀です。 古林さんをはじめぼくの先輩たちの研究に対する熱意にはおどろきました。 それまでのぼくは, 受験勉強という受け身的な勉強しかしてきませんでした。 というより, 高校生は学校の先生に敷いてもらったレールの上を歩いているようなもので, 主体的に生きようとする生徒は退学という道を選択していたのかも知れません。 ぼくにとっては, 学ぶものが自分で研究テーマを見つけるということ自体が新しい発見でした。 調査のために古林さんたちと, よく行ったのは, ニホンカモシカの生態調査で青森県の大鰐, ニホンジカやササの調査で栃木県日光, 神奈川県の丹沢などでした。 日光での調査は, 日帰りではできないので, 営林署の山小屋に泊まりました。 2段ベッドが10ほどあり, まきを燃やして自炊をしました。 ぼくはそれまでそんなところに泊まったことがないので, はじめはとても新鮮な気持ちでした。 電気は来ていないので, 発電機でランプをつけます。 満月の光で明るい夜もあれば, 月のでない漆黒の闇の夜もあります。 都会生活をしていれば, どこからか街の光が室内に入りこみますが, 山の中では月の光がなかったら手を顔の前に持っていっても見ることはできません。 長期の泊りの調査の時は10泊ほどします。 もちろん,風呂も入れません (もともと下宿をしていたころから風呂は入らない方でした)。 洗面や食器洗いは, 小屋の近くを流れている清流で行います。 トイレは, 林の中の地面に穴をほってそこでします。
野生動物の姿を生で見るのもこのときが初めてでした。 ニホンカモシカは, わりと近くによっても逃げていきませんが, ニホンジカは人の気配を感じるとサッと飛び跳ねて逃げていきます。 地図を片手に道なき道を動き回るわけですから,ときには迷子になったこともあります。 古林さんが迷子になったぼくを見つけてくれたこともあります。 山の事故で一番多いのは道迷いですが, これは, ほんとうに焦ります。 焦れば焦るほど, 自分がどこにいるのか分からなくなります。
古林研究室では, 先輩や後輩ともよく話をしました。 ぼくは今でもそうですが,雑談が苦手です。 人と話をするときは, たいがい聞き役にまわります。 ですから, 聞き上手と思われますが, 実は自分から何をしゃべっていいのか分からないから聞いているだけのことです。大学では, ほとんど遊びはしませんでした。パチンコ・マージャンは全くといっていいほど手を出しませんでした。 居酒屋に行って飲酒をすることもしません。 酒は18歳から飲んでいますが, もっぱら下宿か研究室です。 古林さんのポケットマネーで 「剣菱」 という高いお酒を飲ませてもらったことを覚えています。 板倉先生が, 酒もたばこもやらない, というのとはエライちがいです。 喫煙は18歳から30歳まで続きました。 飲酒は今日までの40年間, ほぼ毎日のように続いていますが, 肝臓を痛めることもなくなく今日まで来られたのは 「奇跡」 かもしれません。
卒業論文は, 「滋賀県朽木村における野生動物の農林業被害」 というテーマで書きました。 指導教官は助手の古林さんでした。 ぼくは, 本来は, 「林政講座」 というマルクス経済学を主体にしたゼミに所属していたのですが, どうしても野生動物保護の問題を卒論として取り上げたい, という願いから, 特別の計らいで古林さんがぼくの卒論の指導をしました。 こういうことは, いまの大学でできるのかどうか知りませんが, 当時は大学に <教育・研究の自由> がありました。 この教育・研究の自由は, いまの窮屈な学校現場で見ることができません。ぼくは, いまでも上からの押し付けは体質的に反発してしまいます。 ぼくが学校でよく批判的な発言をするというのは, 大学時代の教育環境が影響しているのかもしれません。 大学時代, どのような環境で生活をするのか, その後の人生の方向性を決める大切な要素だと思います。 大学時代遊びほうけていたひとは, 社会人になっても遊ぶことしか興味のない薄っぺらな人間になってしまうと思います。 板倉先生は, 東大時代に 「自然弁証法研究会」 を自ら組織されていましたが, こういう主体的な生き方を学生時代にもっと学びたかったなあ, と思います。
山の中での生活をしていたぼくが, なにをきっかけに教育への道を歩もうと思い始めたのかを最後にお話しします。
環境問題に関心のあったぼくは, 当時, 東大の教養部 (駒場) で行われていた自主ゼミ (東大公害言論) に参加していました。主催者は 「宇井純」 という当時, 東大工学部の助手の人でした。 宇井さんは亡くなられましたが, 当時は,市民運動の旗手のような人でした。 宇井さんの活動を通して, 水俣病などの市民運動に加わったこともあります。水俣実践学校には2度参加して, 患者さんの生の声を聞く活動などをしました。 自主ゼミの中には,公害論以外に 「教育論」の話もありました。 講師には, 遠藤豊吉さん (国語教育 ・ 『ひと』編集委員), 金沢嘉一さん (教育評論家) らがこられました。 ぼくは, そのひとたちの話を聞き, 教師の道も自分の将来の仕事としていいなあ, と思うようになりました。 宇井さんは, 何かの雑誌に 「教育の変革を図りたいのなら小学校からはじめるべきである」 というようなことを書かれていて, この言葉がぼくを小学校教師になる決意をするものになったと思います。 同じ大学の卒業生でぼくの知っている仮説関係のひとは畑明子さん (神奈川・中学校) と岸広明さん (北海道・高校) です。 ぼくのような農学部出身者が小学校の先生になるというのはめずらしいことだったと思います。
大学では中高の理科教員の免許しか取れないので, 通信教育で小学校の免許をとるよりしかたありません。 東京に住んでいたので, 玉川大学がいいと思い, 大学卒業後, 古林さんの研究室で研究生として在籍し, 古林さんの研究のお手伝いをしながら1年かけて免許をとりました。 夏のスクーリングでいろいろな教師志望の先生と知り合いになりましたが, そのひとたちももう退職の年齢になっているのですね。 教員採用試験は, 東京都と大阪府を受けました。 どうして, ふるさとの京都府を受験しなかったかというと, 当時は,ピアノの実技試験があったからです。 大阪も東京もどちらも合格しましたが, 田舎に近い大阪に決めました。(おわり)